『著作権』について書こうと思うのですがいろいろあったものでどうも虚心に書けるような気がしません。まあとにかく、書いてみましょう。
前に歌番組で、アフリカで今日本の演歌が流行っている! ということで歌手の小金沢 昇二がレポーターとしてアフリカに行き、レコード店に行くと、確かに日本でも有名な演歌歌手のカセットテープが! 師匠北島 三郎のテープを発見した小金沢君は、早速そのテープを購入するのですが、店員はそのテープを持って店の奥に引っ込んでしまいます。在庫を探しに行ったのかと思えばさにあらず。5分ほどして戻ってきた店員が小金沢君に手渡したのは、ただの生テープ? そう、この店はダビングしたテープを売る店だったのです!
後進国ではこんな事はよくある話で、台湾や香港では、無断でコピーされたソフト、時にはハードさえも店頭に並んだりしています。いわゆる『海賊版』というやつですが、買うのはそれぞれの国の法律次第で、別に構わなかったりするかもしれませんが、コピーされたソフトを日本に持ち帰るとそれは確実に手が後ろに廻ります。ご注意を。
とまれ、このような例で見る通り、著作権とはかなり『後付け』の権利、生存権や財産権などと比べると概念は後になってから発生した、と思います。例えば日本の平安時代でも殺人は罪だし、私有財産の概念はあったでしょう(でなきゃ「荘園」なんてものがあるはずない)。しかし著作権の概念はなかった、と言えます。当時の文学作品なんか回し読みと写本をされまくって現代まで残ってるんだから。ただ、これは誰が書いた、と言う認識はあったはずで、でなきゃ紫式部や清少納言の名前は今に伝わっていません。
私は著作権とは「これはオレが作った作品だ」あるいは「この作品を作ったのはオレだ」と主張できる権利、だと思います。そこから派生して、「オレの作品を勝手に使うのは許さん!」とか「この作品で商売していいのはオレだけだ!」と言う権利も生まれてくるわけです。前述した後進国ではこの概念が希薄なので、『海賊版』が当然のように売り出されているわけです。
とは言え著作者の権利を100%認めてたら『引用』とか『パロディ』とか『モチーフ』という言葉は死んでしまいます。後に続く人は何もできなくなってしまうわけで、どこまでが『パクリ』の境界線なのか? という議論はいまだ喧喧諤諤と続いている(生存権や財産権の議論だってまだ決着がついたわけではないし、またその概念や範囲も時代によっても変わるものでしょう)わけです。
ところで、『copyright((c)はこの頭文字から来ている)』という単語を『著作権』と翻訳したのはかの福沢 諭吉だそうです。うーむ。
……なんか硬い文章になっちゃったな。ちなみに、この文章の一部、及び全体の無断転載は、一切断る!(笑)
週刊少年チャンピオン連載『浦安鉄筋家族』に、こんなエピソードがあります。少年探偵が主人公のいる学校に転校してきて、何かあると「事件だ」と叫ぶのですが結局事件らしい事件は何も起きず、ラスト近くで「うーん、おかしいなー」と悩み出します。主人公が何事かと尋ねると、少年探偵は「前にいた学校では毎週必ず事件があったのになー」と真剣に答え、「そんな学校怖いわー!」と主人公(のガールフレンドだったかな?)に突っ込まれて、オチ。
しかし考えてみれば、こんなパロディにされてしまうほど、確かに今各マンガ誌で連載されている少年探偵ものは、主人公の行く先々で事件、それも大抵殺人、が起こってしまいます。彼らが身の回りで人殺しが起こってしまう不幸な星の下に生まれついてしまったのか、はたまた彼らが行くから殺人が起こってしまう死神野郎なのか、よくは分かりませんが。
もっとも彼らの弁護をするなら、それも仕方ないわな、という気もします。金田一(一ではなく耕助のほう)やホームズのような探偵を生業にしているのであれば、「これこれこう言う事件が起こったので、探偵をして欲しい」と依頼されるので、事件に遭う、と言うか、呼ばれるのも無理はありません。
翻って少年探偵たちはどうでしょうか。
彼らは少年マンガ誌に連載されているので、勢い年齢も読者層に合わせて同じぐらいの子供、大きくて高校生どまり、と言う事になります。少年誌でおっさんの探偵の活躍を見てもあまり読者はつかないでしょう。しかし、学校に通っている分際で探偵の依頼が来たら変です。しかし事件が起こらなくては探偵ものにならない。
というわけで、彼らは毎週事件が起こってしまう学校に通い、ちょっと出掛ければ行く先々で事件を起こす、いやもとい事件がおきてしまう破目になるのです。
しかし殺人事件て、あまり子供に見せていいようなものではないと思うのですが。マンガで見る分には構わないでしょうけれども、マンガの中で毎週のように殺人事件に出くわしてしまっている少年探偵たちは大丈夫なのでしょうか。私が中学生のとき、近所で殺人事件が実際に起こり、学校の近くに潜伏しているかもしれないので大規模な捜索が行われたり、友人達とそのことがいつまでも話題になっていたものですが、身の回りで殺人が起こっただけでも、子供には結構ショックだろうに、血生臭い現場に赴いて、しかも犯人を推理しろ、ある程度の「実績」を重ねてしまうと警察からも当てされて(子供に頼んなよ)プレッシャーが掛かる、と言うのはある種の児童虐待じゃないのか!? 高校生ぐらいならショックも少ないだろうけど、小学生は大きなトラウマになってしまう危険さえあると思う。コナンなんかは高校生が薬で小学生になった、と言う設定だからいいとしても、彼といっしょに行動している友達は正真正銘小学生だろうに。今気付いたけど、そんな若返りの薬があったら、是非飲みたい人って結構いるんじゃないだろうか。
まあさておき、彼らの将来が少し心配なのは私だけでしょうか。心に深い傷を負ってしまった少年探偵たちは大人になってどんな道を歩むことになるのか。あ、探偵になればいいのか。
蛇足:そういや『コナン』で、倉木 麻衣の『Seacret of my heart』がエンディングだったとき、蘭が歌ってたっけ。『守護月天』もそうだったけど。しかしキャラクターが歌ってるのって、なんか変じゃないか? 『トリトン』や『ターちゃん』は実写で歌手が出てたけど(『ターちゃん』はアン・ルイス!)。
この間『Newtype』を読んでいたらびっくりした。『FSS』特集だったのだが、レッドミラージュの名前に(R)がついていたのだ。つまり、レッドミラージュの名称は商標登録されたと言うことであり、つまり作者である永野 護さん以外何人たりとも、『レッドミラージュ』と言う名前を使ってはいけないのだ。永野さんはレッドミラージュによほど思い入れがあるらしいが、商標にまでしてしまうとは思わなかった。これからはあまりレッドミラージュレッドミラージュ言えないのだ。何しろレッドミラージュは商標登録されているのだから、レッドミラージュの名前を使うのは法律的にも問題があるし、レッドミラージュと言う言葉をみだりにつかってはいけない……レッドミラージュ。
前述のとおり、登録商標されたことにびっくりして、思わず連呼しまくってしまったわけですが、さすがにここまでやると問題あるような気がしてきた。
さておき。
私は永野さんのデザインするロボットは、大河原 邦雄さんから始まった「リアルロボット」の究極の形だ、と思ってます。もう一方の極はカトキ ハジメさんだと思ってますが。これは分析したわけでなく、私の直感です。霊的直感に証明はいらないとは確かパスカルの弁ですが、霊的直感なので証明はいらない。
話がそれました。よくもまあ、ここまで凝ったデザインが出来るものだなと。永野さんのセンスを盗もうと思って、MHの模写やMH風のロボットをデザインしたりしてたのですが、そのうち気づいてしまいました。「こりゃ真似できん」と。あのデザインラインは真似できません。無謀でした。と言うわけで永野ロボを描くのはやめたのですが、今でもロボットをデザインすると、その時の影響が出る、つまり永野さんぽいデザインになることは、ままあります。
それにしても最近の『FSS』は大風呂敷広げまくってますね。まあもともと風呂敷広げまくりマンガなんだけど。作者は畳むことが出来るんだろうか、いやたたむつもりはないに違いない。設定はてこ入れの嵐(「アトール聖導皇朝」とか「モナーク・セイクレッド」とかって付け足し以外の何物でもない。第一「年表」自体変わっちゃったし……)なんだけど、それに文句をつけるようではこのマンガを読むことは出来はしない。連載が始まってからもう10年経ちましたから。読者層も入れ替わってるだろうし。読者もすっかり「『FSS』ってのはこう言うものだ」と洗脳されてしまっているから、今更何が出てきても驚きませんね。永野さんのインタビューとかを見ても、下手すりゃ終わらせるつもりさえないらしい。
まあ『FSS』はそれでいいのだ、と私は思います。これだけスケールの巨大な、宇宙を丸ごと作り出してしまった「ストーリーズ」が、一個人の思考回路から出てきたのかと思うと、永野 護と言う人の頭の中はどうなっているのか、逆に、この宇宙が、五つの星が、たった一人の才能から出てきたのか、信じられないけど存在しているのです。しかもまだまだ続く。『ファイブスター物語』のファンであることは、なんとまあ果報者であることか。ありがたい話じゃあありませんか。
実は、歴史に学ぶ事なんて無いんじゃないのかな、と思うのです。
歴史に学ぶって言うのはつまり、この時代、これが悪かった、これは良かったと採点して、悪かった点は反省し、良かった点は真似しよう、と言う態度だと思うのですが、これって随分失礼な態度なんじゃないでしょうか。
私は『時代の空気』と言うものがあると思ってます。つまり、その時代の雰囲気、人々の考え方、国家の有り様、国際政治の流れ、そう言ったものをひっくるめて、人間はその時代その時代を生きているのです。歴史は人が造るのだとは思いますが、逆に歴史も人を選ぶのです。例えば、ヒトラーが子供のうちに死んでいれば、第3帝国は興らなかったかと言えば、そんな事は無いと思います。アドルフ・ヒトラーがいなくても、他の誰かが同じような立場に立った、あるいは立たされる事になるでしょう。つまりは当時のドイツ、ひいてはヨーロッパがファシズムを醸成する空気を漂わせていたのだし、ヨーロッパの歴史の流れは、ファシズムを経る道筋を辿っていた、と言えると思います。『ドイツ第3帝国の総統』と言う席は、実は始めから用意されていて、ヒトラーがその地位に座らされたと考えることもできるのです。『時代の空気』に逆らう事は、誰も出来ないのです。
それを後から、ここが駄目だここが良かったと○×を付けるのは、えらく思い上がった振る舞いだと思うのです。つまりそれは、自分たちのほうが偉いから、自分たちは過去より進歩しているからと言う驕りのなせる行いなのです。石器時代に蛍光灯を作れなんて言うのはもちろん無理な話ですが、資本主義にどっぷり漬かっている我々に「自然に帰れ」なんて最早無理です。アウトドアで自然に帰ったつもりになっても、それは『自然ごっこ』をしてるだけです。文明を手に入れた我々は、別の何かを失っているのにすぎないです。
我々に許されるのは歴史を『知る』ことであって『学ぶ』なんて思い上がった真似はできないと思うのです。歴史を知る事は大切です。今ここに至るまで、我々がどのような道筋を辿ってきたのか、その道筋を遡るのは楽しいし、道程を様々な形で再現するのは、胸が躍る想いがします。いつの時代でも、『時代の空気』の中、許された範囲内で人間は生きてきたのだし、今現在だってそうなのです。歴史に学ぶ『資格』など、誰にもないのだと思うのです。
笑いと言う感覚は、ちょっとツボを外しただけでもう笑えなくなってしまいます。常々思うのですが、それは「恐怖」にも言えることだと思うのです。中島 らもさんが「笑いと恐怖は紙一重」と言ってらっしゃるように、笑いと恐怖はよく似ている、と言うより、実像と鏡像のように相似なのです。ただベクトルの方向が違っているだけで、その方向も、絶対的なものではなく、別の角度から見ればまた違う向きになる、例えば同じベクトルでも、ある人にとっては大爆笑であっても、別の人にとっては魂も縮み上がるような恐怖だったり、また別の人にはまるで何も感じない、ということもあるのです。最後の「何も感じない」状態は、『白ける』『外す』と呼ばれるのです。
私の好きな本に、『新耳袋』(木原広勝・中山市朗/著:メディアファクトリー)という本があるのですが、この本は『百物語』を文章化する、と言う目論見で制作されており、1巻99話で構成されています。なぜ99話で『百物語』となるのか? それは各自読んでいただいて、自ら体験していただくしかありません。心底凍てつく恐怖あり、思わずこぼれる笑みあり、人知の及ばぬ不思議あり、99の『怪』が納められています。私は第1巻となる『第1夜』を書店で見かけ、ずっと気になっていたのですが、先日第4夜まで出揃っているのを見て購入したのです。どの巻も睡眠を阻害する事受け合いで、私と、こう言う話が好きな妹とで夜の闇に怯えていたのです。
そして先日、第5夜が発刊された事を知り、書店に行ってみましたがなく、電車で1時間の大きな本屋に行っても無く、あちこち探して、やっと見つけることが出来たのです。やれうれしやと早速購入し、家に帰って読んだのですが……
目次を見ると、「戦争にまつわる9つの話」という章が設けられており、私はいやな予感を感じつつ、読み進めていったのです。他の章は文句なしに怖く、不思議な『怪』が詰まっていました。さて、問題の章です。
私が感じたいやな予感と言うのは、「戦争について書かれている」=「自虐」という図式が私の頭の中にあり、せっかくの『怪』が「自虐」によって台無しにされてしまう、という懸念でした。そして、残念なことにその予想は的中してしまうのです。
96話と、巻の最終話である99話を読んだ私は、予想が当たってしまってがっかりしてしまいました。
96話は、南方で捕虜になっていた日本兵が、夜な夜な巨大な怪物の腕に襲われ、眠る事も出来なかったと言う体験談なのですが、日本兵を襲うその腕は、現地人が言うには「島の守り神」なのだそうです。住民にとっての守り神が、なぜ日本兵を襲うのか。要するに日本兵は島を荒らした侵略者だから……という感情が見え隠れするのです。勘ぐり過ぎかもしれませんが。
そして巻の最終話となる99話なのですが、体験者が小学生の時、お祖父さんが亡くなられたのですが、葬式が済んだ後も、幽霊となって体験者の前に現れます。体験者は幽霊と言葉を交わしたりしていたのですが、ある日お祖父さんの幽霊が、周りに中国人がたくさんいるといって騒ぎ出します。しかし体験者には中国人は見えません。お祖父さんは中国人に取り囲まれていると言い、そして消えてしまうのですが……体験者はお祖父さんに向かって言います。
「じいさん、あんた大陸で何してきたんだよ」
このセリフを見たとき、私はもうがっくり来てしまいました。中国人云々はまだいいとして、「小学生」がそんなこと言うかぁ!? この99話は、私にとってはまさに『外し』てしまっていて、『白け』てしまったのです。
96話と99話は全く怖くなく、しかもそれが巻末に近かったため、余計にがっかりしてしまい、私にとって第5夜は97話しかないのです。以前の巻のあとがきで、「戦争にまつわる話も載せる」と書いてあって、いやな予感はそのときからしていたのです。予感は当たったのですが、無論喜ぶ気持ちにはなれません。まだまだ「自虐史観」は浸透しているなー……
このようなサイトを御覧になっておられる方々には多い事と思います。「萌える! お兄さん(お姉さんも?)」が。しかしいやだなー「萌える! お兄さん」か。そー言えば先輩K氏が、「新潟出身のジャンプのギャグマンガ家は消える」という持論を持ってたっけな。佐藤 正、その師匠筋に当たるだろう新沢 基永とか。絵が似通ってるじゃんこの2人。そーいやえんど コイチも消えたなーって、何を言おうとしてたんだっけ。あ、そうだ、『萌え』の話だ。
『萌え』と言うのは、要は「そのキャラのファンになる」ことと考えて間違いは無いでしょう。「ファン」にも色々有りまして、「お気に」から「心酔」、果ては「恋」とまで行ってしまうようなファンもいます。古くは『ラムちゃん』『クラリス』『ナウシカ』、最近では『ベルダンディー』『綾波』『さくらちゃん』とかね。新しいのでは『ラブひな』なんてのもでてきてますな。
私も『サムスピ』はナコルル使いだったし、モリガンに惚れて『ヴァンパイア』をやってたし、私にも『萌え』属性はあります。最近だとマルチか綾香かな。『To heart』の。しかしまあ、言ってしまえば「オタク」が一般社会において嫌われる一因もここにあるわけで。「アニメ(ゲーム、マンガ)のキャラクターに夢中になってる」と気味悪がられる、と言うわけです。
最近では初手から『萌え』狙いなアニメやマンガも多いわけで、『ラブひな』なんかは端から『萌え』をターゲットにしているように見えるし、小中生向け『ああっ女神様』である(否定は出来ないと思う)『守って守護月天!』なんかもそうでしょう。考えて見れば恋愛シミュレーションなんて、『萌え』てもらわないと売れないわけですから。『萌え』市場(やな市場だな)が無視できなくなっているオタク業界において、これは当然の傾向だと言えます。
前述した通り、『萌え』にも様々なタイプがあるわけで、私なんかは割と「あこのキャラ可愛いな」で済んでしまうタイプです。『ラブひな』のなるが各アニメ誌の表紙を占拠してしまっているのを見ても「可愛いキャラがまた出てきたなー狙ってるんだろうなきっと」ってな感じでしたし。これは私が「モノ買わないオタク」でもあるからなんですが。綾波に『萌え』た挙句思わず等身大ポップを買ってしまう、と言う衝動はとりあえず私には有りません(と言うか、置き場所に困るので「ただでくれる」と言われても断ると思う)。もっとも、『レイアース』には一時期本当に「嵌って」いて、下敷きを買い漁り、当時大学に通っていた私は講義毎に違う下敷きを使ってました。なぜ「下敷き」なのかと言うと、当時学生だった私には実用性もあり、イラストもきれいで種類も豊富にある下敷きは最も魅力的なアニメグッズに思えたのです。その後『エヴァ』が始まり、当然のごとく嵌った私は、やはり下敷きを買いまくったのでしたが、途中でふっと我に返ってしまったのです。
「きりないぞ」
アニメグッズは元々種類が豊富である上に、本当に1日ごとに新しいのが発売されてるんじゃないのかと思うほど新製品が続出してます。一々買ってたら金がいくらあっても足らん、と気づいてしまった私は下敷き集めをやめてしまったのでした。こうして私は『モノ買わぬオタク』になったのですが、やはり『モノ買うオタク』は多いのです。電車で1時間程の街にアニメイトがあるのですが、たまに行ってみるとやっぱり多いです『モノ買うオタク』は。1度電車での帰り道、向かいに座った女の子が、アニメイトのチラシを広げ、当然のごとく脇にはアニメイトの袋があるわけですが、赤ペンを取りだし、「新製品情報」の欄をじっと睨み、気に入った商品があるとアンダーラインを引いているのです。自分もオタクの癖に、その光景は「ふえー」と思ってしまいました。ですが私だって、東京に行った時初めてVOLKSに入って、MHガレキの「本物」を拝んで、「今死んでもいい!」と思ってしまったのだから、彼女を笑う資格は、無論笑うつもりは毛頭無いが、ありません。(その後友人SにVOLKSでの感激を話したら、「殺してやろうか」と言われたが、もうその時には「死んでもいい」とは思ってなかったので丁重に断った)
てなわけで、えらい話がずれてましたが、『萌え』ることのない(今後もないとは言いきれないが)私ですが、私のように我に返らず、『萌え』てしまっている人々も多いわけです。しかしこの感情は、傍から見ればかなり悲しい光景ではあります。タレントとか、声優(考えてみれば声優にも『萌え』はいる)なら、まだ実際に会ったり、声を交わしたり、知己を結ぶ機会も無いとは言いきれませんが、これが「キャラクター」となると……何せ「次元が違う」のですから。精々出来るのは、画面や誌面で会う事だけです。あるいは、「そりゃそうだ」と割り切ってるのか? 割り切ってるから「オタク」なのであり、『萌え』なのだ、と言う気もするけど……しかしその「割り切り」も、「住む次元が違う」事とは別種の悲しさがあるような気がします。
SLGではマルチエンディング、つまり幾つかシナリオが用意してあって、プレイ内容によってエンディングが異なる、というシステムを採用しているゲームが多く、特に今流行りの恋愛シミュレーションは複数の女の子の中から一人選ぶ、と言うシステムが多いので必然的にそうなりますね。
今気付いたんだが、対象となる女の子が1人、と言うSLGがあってもいいんでないか? と思ったのですが良く考えればありますね。考えてみれば一人しかいないんじゃ「好み」でなかった場合買ってくれんぞ客は。そういう場合、シリーズにしてタイプ別に売る、と言う戦略が採られるようです。
閑話休題。このマルチ性は、ゲームと言うエンターテイメントの特徴の1つと言えると思いますが、例えば小説にしろマンガにしろアニメにしろ、ストーリーは創り手が完全に決めてしまっています。無論、受け手が違えば作品の感想も違うのは当たり前で、でなきゃ「感想文」とか「評論」というジャンルは成立しないのですが、提供されるストーリーは受け手が違えど全て同じです。
これがゲームならば、勿論「フラグ立て」はあるし、「シナリオ」も存在します。しかし、「ストーリー」は、自分で作っていけるのです。ゲームを他のメディアで展開するのが難しいのは正にこの点にあるわけで、同じゲームでも、プレイヤー1人1人の中でまるで別のストーリーが組み立てられていて、下手にストーリーを組み立ててしまうと、「違う!」と言う声が挙がってしまうからなのです。『ポケットモンスター』がアニメ化された時、本来のスタートキャラであるヒトカゲ、フシギダネ、ゼニガメではなく、ピカチュウがスタートキャラに設定されたのは、これはアニメのオリジナルストーリーである事を明示する為であり、また『ドラクエ』がビデオが発売された時、ストーリーらしいストーリーのない「ミュージックビデオ」として作られたのです(関係無いけど、このビデオ、かなりこけた)。
しかし、このせっかくのマルチ性を台無しにしているプレイヤーもいるのです。特にSLGに多いのですが、「全てのシナリオをクリアする」事を目標にしているプレイヤーがいます。「自分のストーリーを創れる」のがSLGに限らず、ゲームの醍醐味であるはずなのに、シナリオを全て見ると言うのは意味が無いと思うのです。メーカーの方でも、シナリオを全てクリアすると見れる画面なんてのを用意してたりして、ちょっと本末転倒している気がするのは私だけでしょうか。
『攻略本』の存在もこの現象に拍車を掛けていると言えます。ゲームをどう解いていくかなんて、千差万別、人それぞれです。極端な話、解けなくて行き詰まってしまったり、途中でゲームオーバーになってしまっても、それはそのプレイヤーがゲームで作り上げたストーリーなのだから、たとえバッドエンドになってしまっても、そう言った終わり方も「アリ」だと言えます。攻略本の内容が「ヒント」ならばまだいいのですが、本当に「解き方」を明示してしまっている本もあったりして、そんな本を片手にゲームを解いたって、「ゲームを楽しんだ」と言えるのかな、と思うのです。市販されている攻略本ではさすがにそこまでは無いのですが、ゲーム系のサイトだと、「どの選択肢を選べばこのエンディングが見れる」かというフラグ立ての方法を記述しているコンテンツもあったりして、「そりゃ『ゲーム』じゃなくて『ワーク』だよ」と言いたくなってしまいます。
と言うわけで、ゲームをやりもしない門外漢の疑問でした。
さて、ゲーム談義の続きでございます。ゲームとはつかず離れず、首までどっぷりと漬かる事は無いにしろ完全に縁が切れる事もなかった私ですが、大学で出会った先輩K氏は、映画とプロレスとミステリー、そしてゲームをこよなく愛する人で、さらにはK氏の友人S先輩は趣味が高じて卒業後ゲーセンで働いてしまうような正真正銘のゲーマーでした。
こんな先輩方と付き合うようになってはゲームにはまらざるを得ません。と言っても、今まで私がはまった、つまりコンピュータゲームではありませんでした。
私が親しかったのはK氏なのですが、この人はコンピュータゲーム、特にシューティングなのですが、どちらかと言うとTRPGやカードゲームなどの人間同士でやるタイプのゲームが好きだったのです。K氏やK氏の友人方が主催する『女神転生』のキャンペーンに参加させてもらったり、当時は『マジック・ザ・ギャザリング』が流行りだした頃で、美しいアートに飾られたカードになけなしの小遣いやバイト代をつぎ込んだものでした。
ただ、今にして思えば、確かに『メガテン』も『ギャザ』も面白かったのですが……ゲームそのものより、先輩に「遊びに来い」と言われて、新書とパンフのあふれ返った部屋で過ごす時間そのものが楽しかった、ような気がします。言ってしまえば、「ゲーム」は口実だったのかも知れません。プレイヤーの上手下手がはっきりと出てしまうような『ギャザ』はカードを集めて、カードのビジュアルや設定を楽しむのは好きだったのですが、それを使ってプレイするのは大して面白くはなかったのです。気心の知れた友達とならばそれなりに楽しくプレイできるのですが、大会とかに出て見ず知らずの人とやる、と言うのはあまり気が進みませんでした。実際、K氏に進められて大会に出た時も、
さほど興が乗ってやっていたわけでもありませんでした。その後大学を卒業し、K氏と離れてしまうと、TRPGもカードゲームもやらなくなってしまったのです。
その後と言えば、妹がプレステを持っているので麻雀(1980円で買える例のシリーズ)をやったりはしましたが、すぐに飽きて今はやっていません。今時の若者(と言っていいだろう! ……多分)にしては、全然ゲームをやっていないのです。PS2も購入予定は有りません。
何故私はゲームにのめりこめないのか。勿論「下手だから」ですが、思うに、「ゲームはルール」だからかも知れません。どうにも、私にとってゲームは窮屈なのです。アクションやシューティングでは私自身の運動神経が足枷になってしまい、だからと言ってRPGやSLGは所詮シナリオに沿って進んでいくだけ。ゲームでは「自分」を出せないのです。
私がイラストや小説を趣味にしている理由は正にこの裏返しで、想像力と言う手段であれば思う存分「自分」を出せるからです。私がゲームに関わるとすれば、「プレイヤー」としてではなく「クリエイター」として、の方が向いている気がします(現にカードゲームとTRPGのネタを幾つか暖めている)。
最近のゲームで言えば、『To heart』とかは結構キャラクターとか、マルチとか綾香とか、も気に入ってはいるのですが、ソフトを買ってきてゲームをやろう、とは思いません。FFシリーズにしてみても、確かにVIIのあのビジュアルをCMで初めて見た時は、「家庭用ゲーム機でここまでやれるようになったか!」と驚いたし、ティファ(そんなんばっかか)とかキャラも好きだし……でもやろうとはあまり思わないのです。ゲームをやってる暇があったら絵や小説を書いてるほうが楽しいから、なのですが。
要は私はゲームに向いてない、と言う事ですね。延々読者をつきあわしといて結論がそれかい!?
FFIX? うまいもんかそれ。なぜ人は知らない事を聞かれたりボケたりした時「うまいもんかそれ」と聞き返すのだろう。高校時代の友人が、「うまい物なら嬉しいからじゃないか?」と言っていた。一理ある。
えーと。
1番最後にやったゲームは、W2Kのおまけの『ピンボール』と『ソリティア』でした。それも一時期は夢中になってやっていたのですが、何時の間にか飽きてしまい、W2kのスタートメニューからも『ゲーム』はブックマークから姿を消してしまってます。
年齢がばれそうなのですが、まあ私の年齢がばれてもどうと言う事はないだろうので言いますが、私はファミコン世代の走りです。今では有って当たり前のコンシューマゲーム機ですが、私が子供の頃では、ファミコンを持っている奴は英雄でした。
様々な名ソフトが生まれていったのですが、この2つは外せません。『スーパーマリオブラザーズ』と『スターソルジャー』です。この2つを持っていれば仲間内でも一目置かれていた、と言うのは大げさにしても、やはりこの2つは『名作』と呼ばれるソフトの中でも、何か抜きん出た存在、と言える気がします。『スターソルジャー』と言えば、画面の2/3を占める巨大さで当時のガキどもの度胆を抜いた4面ごとのステージボス『ビッグスターブレイン』が印象的ですが、私はようよう『ビッグスターブレイン』に辿り着いても返り討ちに逢うか、よくてタイムアウトでステージスタートからやり直し、と言う体たらくでした。私の腕前、因って知るべし。
その後あの『ドラゴンクエスト』が発売され、アクション・シューティング全盛だったファミコンに一大RPGブームが巻き起こります。ブームに乗っかって様々なクソゲーRPG(と言えばドリキャスだけど思い出す『エアーズ・アドベンチャー』。あのお方がキャラデザをやっていたのにも関わらず……いや、多くは語るまい。中古屋で売値が『\600』だったなんて言えるわけがない……言ってるやんけ)が発売されては消えていったのですが、その中で生き残り、今も先達『DQ』と熾烈な闘いを繰り広げているのが、そう、『ファイナルファンタジー』です。ファミコンRPGに「職業」「魔法の種別」の概念を持ちこみ、明らかに『DQ』とは違うゲームシステム。キャラデザ、イメージイラストに天野 喜孝氏を起用し、正に「本格」RPGの雰囲気を漂わせていたのです。
やがてファミコンの後継機スーファミが発売されたのですが……その頃私は家でゲームをする事は無くなっていたのです。ゲームはゲーセンでやっていました。友人から『ベラボーマン』を薦められ、夢中になった私は、「いかがわしい場所」と言うゲーセンへの『垣根』を取っ払い、ゲーセンに通うようになっていました。と言っても「ゲームをするため」であって、他の事をしに行ってたわけではないので誤解の無きよう。
当時は、「格闘ゲーム」ブームで、家庭用でもゲーセンでも『ストリートファイターII』、『サムライスピリッツ(3DOでは何故か『サムライショーダウン』と言うタイトルだった)』と言った今もシリーズが続いているタイトルが続々と登場し、私もゲーセンに通い詰めたものでした。が……
『サムスピ』を最後に、私はゲーセンからも家庭用からもしばらく足を洗ったのです。
確かに、面白いのです。ナコルルを使って、闘っていくのは楽しかったのです。しかし、私は格ゲーをやればやるほど、このタイプのゲームはオレには向いてないな、と思わざるを得なかったのです。いくらやってもうまくならないのです。3人勝ち抜ければいい方で、下手すりゃ難易度「easist」でも勝てない。無論対戦なんて仕掛けられたら即ゲームオーバー。『勝てない』→『つまらない』→『身が入らない』→『うまくならない』→『勝てない』……の悪循環。結局私は、格ゲーブーム半ばにして、ゲームからは一旦距離を置いたのです。
そんな私が、再びゲームをやるようになったのは大学に入ってからでした。何故なら、『ヴァンパイア』のモリガンに惚れたからでした。そんなんかい。とは言え、やはり勝てずうまくならずつまらないのは相変わらずで、そんなに足しげくゲーセンに通ったりしてはいませんでした。ただこの頃、UFOキャッチャーにはまり、男の一人暮らしの癖にぬいぐるみが増えていく、と言う奇妙な現象が私の部屋に起こっていましたが……と言っても、里帰りするたび妹にくれていたので、ぬいぐるみが大増殖する事もありませんでした。
(この項続く)
とあるコンビニの新(当時)メニューのTVCM。
レストランで、初老の身なりは悪くない夫婦(CVは八奈見 乗児さんと小原 乃梨子さん!)がメニューとにらめっこしている。
夫婦はなかなか注文が決められず、「あれも食べたいこれも食べたい」と喚き出す。あまりに騒がしいものだから、そばに控えていたウエイターがキレて、頭から煙を噴き出してしまう。
要するに、「あれもこれも食べたい」と言うニーズに応えた、組み合わせメニューのイタリアン惣菜のCMなのだが……
言い年した大人がんな事で喚くなよ。
最近発売された軽自動車のCM。
この自動車は外見は小さいが、中はひろびろとしているのが売りだ。この車を買った人が、ピザを作ったり、占いをしてみたり、つまりそれだけスペースが広く、様々な用途に対応できる、と言うわけだ。
そして彼らは言う。
「いいでしょどこで何しても私の勝手でしょ」
そりゃまあ、自分の車の中でセックスしようが、子ども生もうが、人殺そうが勝手だけどさ。
声高らかに宣言する事でもないだろう。
「CMは社会の鑑」とよく言われる。では、このようなCMは、どんな実像を映し出しているのだろうか?
『∀ガンダム』にコレン・ナンダーと言うキャラが出てきまして、「白くて高性能のモビルスーツならガンダムに決まってる」というセリフを口にします。なかなか面白いセリフだと思いますけどね。『∀』がどんな作品世界なのかある程度分かるし、富野監督がこの作品に込めている思い、も読み取れるような気がします。そう言えば、富野監督は製作発表にあたって「これまでの『ガンダム』全てを肯定する」と言っていました。
でも、ちょっとここで不思議に思ったのですが、『ガンダム』シリーズの作品世界では、『ガンダム』と呼ばれる機体が、時代こそ違え何体も、『ガンダム』、『MkII』、『Z』、『ZZ』、『パーフェクト(笑)』、『NT-1』、『GP』シリーズの3体、『08小隊』の量産型(ガンダムの量産型ってGIMじゃないのか?)、『S』、『EX-S』、『Ξ』、『F90』シリーズ、『シルエットフォーミュラ』、『F91』、『V』、『V2』とカスタム、『∀』、思いつくままに上げてみましたが、『宇宙世紀』だけでもこんなにあります。『G』とか『W』とか『X』とか『SD(爆)』とかは作品世界そのものが違っているので外すにしても、カスタム機を合わせて30体以上は『ガンダム』と呼ばれる機体が存在している事になります。
実際こういう事ってあるんでしょうか?
例えば高性能の緑色の戦闘機が開発されて、『ザク(笑)』という愛称がつけられたとして、後継機が『ザクII』とつけられるのは分かります。その後、別の会社が開発した機体が高性能でなおかつ緑色で、かつての『ザク』を思い起こさせるので、ついた愛称が『スーパーザク』。その後『Ωザク』、『ザク-X』、『ザクヘクサ』……
こんな風に、延々『ザク』の名が受け継がれていく、ようなことはあるんでしょうか。『スーパーザク』まではまだ分かるとしても……
後継機であったり、時代が別であったりすればまだいいんですが、『RX-78』と『NT-1』と『GP』シリーズは1年戦争前後に、つまり大体同じ時期に、しかも確か開発した会社が違ってたような気がするんですが……でもやはり愛称はどれも『ガンダム』です。余程初代『ガンダム』の性能が衝撃的、だったと言う事でしょうか。あの撃墜王『赤い彗星』のシャア・アズナブルをして「連邦のモビルスーツは化け物か!?」と言わしめてますから……
ただ、モビルスーツの業界はちょっと特殊だ、という気もします。『ドム』という機体がありますが、黒を基調としたカラーリングが印象的な機体色なのですが、もともと黒だったのではなく、試験機を任された『黒い3連星』が自分達のパーソナルカラーである黒で塗ったので、正式採用型も黒くなった、と言うエピソードがあるそうなので。でもこれは「『ガンダム』という名前がつけつづけられる」という話よりはありそうな話だけど……しかし自分の乗機を、好きな色に塗っていいもんなんだろうか。赤(シャア、ジョニー・ライデン)とか白(シン・マツナガ)とか……エースの特権なんだろうか。
ところで、第2次大戦時、『雷電』と『ライトニング』と言う戦闘機が日本とアメリカにありましたが、『ライトニング』は訳すと『稲妻』で、要は『雷電』と同じような名前、ということになります。海を越えても、人間、考える事はそうは変わらないようですね。(新谷 かおる先生の戦記物で、『雷電』のパイロットが『ライトニング』との戦闘を終えて帰投し、『雷電』と『ライトニング』を比べて、「兄弟みたいなもんかお前ら」と嘆息するシーンがあったっけ)
実は私、UFOビリーバーだったのです。矢追さんのUFO特集を見ては、「グレイにさらわれたらどーしよ」とか、「キャトルミューティレーションの牛みたいに体の肉を抉り取られたら!?」とか、「妙な機械をインプラントされたら!?」とか、結構マジに信じてました。
それは大学に入るまで続いていたのですが、1年だったか2年だったかの確か秋頃、矢追さんのUFO特集があったので、下宿のTVで見ていました。その時の特集は、「ナチスがUFOを作っていた!」という内容でした。「ナチス?」『MJ-12』や『メン・イン・ブラック』辺りは大マジに信じ込んでいたのですが、『ナチス』? 何かが私の頭の中でアラート音を鳴らしていました。
番組が進み、「第2次大戦中、ナチスで開発されていたUFO」と言うキャプションで出てきたUFOは、底部に『ティーガー』戦車の砲塔が『逆さまに』取り付けられていました……この辺りで、ビープ音だったアラートは、ブザーに変わってきたような気がしました。番組は「ナチスの科学者が、敗戦直前UFOに乗り、火星に到達したものの故障で戻れなくなった」という『衝撃の事実』で幕を閉じました。
その後しばらくして、ナインティナインが深夜番組でUFOなどの超常現象を取り上げるお笑い番組をやり始め、結構面白かったので私は毎週見ていたのですが、UFOを取り上げる時には、「宇宙人」である白鳥座星人カゼッタ岡や、宇宙語を話すアテムなど、強烈なキャラクターが花を添えて(?)いました。アテムは表記するならまさに「’$▽”#%$!◆$#&!”%&◎#”○”!%$#」とでもなりそうな『宇宙語』を話すのですが、その宇宙語は「宇宙から送られてくるだけで、自分ではその意味は分からない」といつもコメントしていました。(ちなみにこの「宇宙語」、私もしゃべれます。お聞かせできないのが残念です。私も意味は分かりません^^;)
ある時その番組で、全ての宇宙語を解する『宇宙警察長官』なる人物が登場し、「それではこの人にアテムの宇宙語を翻訳してもらおう!」と言う運びになりました。そして、翻訳された宇宙語は「チョベリバ(……当時は流行ってたんだ)」を連発してたり、前世(他の星の住人だった頃)での恩師に挨拶してたり、驚くべき結果に出演者は驚愕(矢部さんだけは「んなことあるかい!」と皆に突っ込んでたが)したのですが、当のアテム本人に岡村さんがコメントを求めると、
「何言ってんですか。全然違いますよ」
かなりむっとした顔で返答してました。「そんなあほなことは言ってない」と言う憤りからだったんでしょうが……
私はこの一部始終を見てて思いました。
「あれ? 『自分で言ってる事は分からない』んじゃなかったっけ……??」
こう考えてしまった瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ去り、そしてある言葉が私の心に刻み込まれたのです。
『インチキ』
この場を借りてお礼を言いたい。UFO番組とは、『ドキュメンタリー』ではなく、『バラエティー』なのだと言う事を、気づかせてくれたナイナイの矢部 浩之さん、岡村 隆史さん、どうもありがとうございました(いや、マジで)。
付記:カゼッタ岡さんはナイナイの番組にでてらした時にはすでに結構なおじいさんだったのですが、この前『ここが変だよ日本人』に出演され、以前と変わらぬ「宇宙人ぶり」を遺憾なく発揮され、たけしに「帰れ!」と怒られてました。ご健在で本当に嬉しく思います(^^;)。
エロマンガとか、後エロサイトとか、『オタク系エロ』において確固たる1ジャンルを築いているカテゴリーがありまして、
まいわゆる『ふたなり』ってやつですね。
このようなサイトをご覧になってらっしゃる方には今更ご説明の必要もないでしょうが、『半陰陽』、『両性具有』、『ヘルマフロディート』、『アンドロギュヌス』……様々な呼び方をされていますが、要は「男性女性両方の身体的特徴を併せ持った肉体を持つ性」と定義できると思います。
平らな言い方をすれば、「ち○ぽとま○こが一緒になってついている」と言ったら身も蓋もありません……。
マンガやサイトを見ていると、「『ちぬ(女の子に生えた男性器の事をこのジャンルではこう呼ぶ事が多いのだが、『ちぬ』って『クロダイ』の事じゃなかったっけ)』が生えた女の子」のことを言うようです。需要は多いようで、供給も山のようにあります。
逆パターンとして、『女性器がある男』もあるのですが、そのシーンが構図的に『やおい』にしかならないので面白味がなく、オタクには余り受けないと思います。実際私も、このタイプはあまり見た事はありません。
なんで『ふたなり』が受けるのか。美しい女の子の体に、逞しくも醜いものが附いているという図式が倒錯的な劣情を催させるとか、男は『射精』と言う視覚的にも(マンガとかだと特に)分かりやすい『イク』瞬間があるが、女の子は見た目にははっきりとは分からない(表現手段はあるにせよ)。だから女の子にも『射精』と言う分かりやすい『瞬間』をセットしたとか、こんなところじゃないでしょうか。ギリシャ神話に登場する『ヘルマフロディート』は、最も美しい男神ヘルメスと、美の女神アフロディーテを組み合わせた「最も美しい姿」とされたもので、その像も何体か残っていますが、女性の上半身に男性の下半身を持ったその像はやはり強烈なエロティシズムを感じさせずにはいられません。
ところでマンガ等『オタク系エロ』の世界では、あっけらかんと自分の性を受け入れる『ふたなり』少女が多い(例外も無論あるが)のですが(『オタクエロ』に出てくる女はみんなそうだと言われればそれまでだけど……)、実際はそうは行かないようです。「男でも女でもない」性を抱え、自我の葛藤に苦しむようです。
現実に存在しているとは言え、『ふたなり』が生まれる確立は「100万人に1人」と言う低さで(日本中でも120人しかいない計算になる。ただこれは男女両方の性器を併せ持つ『真性半陰陽』で、性別がどちらとも判断できない、と言う意味での『半陰陽』は結構多いらしい)、オタクにとっては、『猫耳』や『メイド』(猫耳なんてコスプレでもなきゃいないし、メイドもそうは見ない)と同様、まずお目にかかれない存在であり、それだけにオタクにとっては、強烈に性を喚起させる対象となっているのではないでしょうか。
そう言えば、『リング』の貞子も半陰陽だったな(もしかするとふたなりだったかも)。
女の子が正面を向いたイラストは、胸が横にはみ出して描かれているのを良く見かけると思います。
(図1)
ですが、このように横にはみ出して見える、ということは余程ボリュームがある、ということなんですね。ボリュームがあって収まりきらずに横にはみ出しているのならいいのですが、単なる『デブ』で肉が脇に廻ってしまっている、んでは悲しいものがあります。
(図2)
最近は『寄せ上げブラ(もともとブラジャーってのは寄せて上げるもんだと思うけど)』がはやっているのだし、一般的なサイズの胸の女の子なら、乳房のつき方や形、胸郭の形から大きくなくてもはみ出す事はあるから一概には言えませんが、正面から見ても横にははみ出さず、体の線の中に収まっているのが理想的な形、とされているようです。
(図3)
なぜ胸が横に張り出して描かれるかというと、「膨らんだ胸」を表すのに最も簡単な表現だからと思います。時々、正面からの顔がこめかみで横に広がってしまってて、髪の毛がなかったら頭の形どうなってんだと思うような事がありますが、これと似た現象だと思います。
つまりななめから見ると、膨らんでるのが良く分かります。
(図4)
え、よく分からん? あ、失礼、モデルを間違えた。
(図5)
つまり正面から見たとき、「胸が膨らんでいる」と言う事がよく分かるように、ななめから見たラインを、そのまま正面図に持ってきた、と言うわけです。この手法を良く用いたのがピカソなのですが、そう、これはピカソから連綿と受け継がれた手法なのでありってんなあほな。そんなわけは無いっ。
現在、20代後半の方なら、かつて熱い戦争が繰り広げられていた事を憶えておいでの事でしょう。
子供時代、土曜の夜といえば観る番組は決まっていました。
「ポーン(7時の時報)『坊や〜よい子だねんねしな』」『まんが日本昔話』(市原 悦子常田 富士夫フォーエヴァー)、「巨泉のクイズダービー(ガッポ)」竹下 景子さんに2000点。7時台は観るものに困りませんでした。
問題なのは8時からです。
「8時だョ! ぜーんいんしゅーごー!!」
「こんばんわ! おきゃんぴーなのだ!!」
どちらのオープニングを聞くか、当時の子供たちは頭を悩ませたものです。そう、『8時だョ! 全員集合』と『オレたちひょうきん族』です。
加藤 茶と志村 けんの2枚看板、そしてアイドルの『全員集合』、ビートたけし、明石家 さんま、島田 紳助、山田 邦子、片岡 鶴太郎……今では考えられないキラ星のごとき面々の『ひょうきん族』。どちらも視聴率、放送期間の熾烈な戦いが続き、後に「土8戦争」とまで呼ばれたのです。
当時の私の感覚で言えば、『全員集合!』は子供の、『ひょうきん族』はオトナの笑い、と言う認識がありました。『全員集合!』はライトでカラッとした、つきぬけるようなギャグ、『ひょうきん族』はどこかウエットな(「ひょうきん懺悔室」で水を掛けられるから、というわけじゃないですが)、毒を含んだ笑い、と言う気がします。どっちも「馬鹿笑い」させてくれる点では変わりありませんでしたが。
最初私は『全員集合!』を観ていたのですが、同じようなシナリオのコントが繰り返されるのに飽きて、『ひょうきん族』を観始めました。しかし、『ひょうきん族』も飽きてしまい、その後『全員集合!』の後始まった『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を観るようになりました。
この『加トケン』には傑作シリーズ『探偵物語』や、その後の「投稿ビデオ」ブームの発端となったなど、語るべき要素が多いのですがそれはまた別の機会に。
そして『ひょうきん族』も最終回、最後の晩餐(このときたけしがクニちゃんに向かってきっぱり「ぶすだねぇ〜〜〜」と言ったのを今でも憶えてます)でのたけしの「オレたちひょうきん族」の言葉とともに終了し、「土8戦争」は幕を閉じました。
その後、『セーラームーン』が始まって、「土曜の夜の主役」が交代してまったのが、戦争の終結を象徴しているような気が今になってはするのです。
最近、たけしと志村が一緒にやった『たけしムケン』という番組がありましたが、「土8戦争」を知る者として、「あの2人が手を組んだか!」と驚いたものです。残念ながら、すぐに終わっちゃいましたけど……(;;)
野球をなさった事のある方はこの野球が盛んな日本では多いだろうけど、果たして、「ホームラン」を打った事がある人は、野球をした事のある人の中で、何割ぐらいの割合になるのだろう?
私も、体育の授業や、友達と遊びとかで、野球は何度かした事はある。だがホームランはおろか、ボールをバットに当てる事さえままならなかった。バットに当てようと思ったら、「バント」しか手はないような有様なのだ。私の運動能力、推して知るべし。
とは言え、バットをちゃんと振って、ヒットやフライを打てる人でも、ホームランはそうそう打てないのではなかろうか。「ホームランバッター」と呼ばれるようなプロの打者でも、何試合かに1本出るか出ないか。もっともこれは相手もプロのピッチャーだから、投げられる玉の質の問題もあろうけど。ただ、時速100キロ超の小さなボールを捕らえる視力、反射神経、バットを振りぬき、グラウンド外までボールを持っていく膂力、様々な物が揃わないとホームランにはならない。
視力も反射神経も膂力もなし、スィングするとまず当たらず、ストライクでバントをしてもろくすっぽ当たらない、当たってもゴロで1塁アウト、なんて私には、「ホームランを打てる」というのは単純に尊敬できるのであった。
普段生活していれば、「言葉」を聞いて、生活していかざるを得ません。でも時々、「?」と首を傾げるような「言葉」もあります。どこか、引っ掛かるのです。このエッセイでは、私に「引っ掛かった」言葉を、ちょっと捕まえて、観察してみようと思います。
で今回は「教育」です。勘違いしてらっしゃる人が多いようですが、『教育』は『権利』ではなくて、『義務』なんです。権利であるのは、『学問』なんです。
義務であるからには、拒否はできないはずなんですけど、その義務を拒否する事がヒーローになるような風潮があります。
高校、大学ならば、権利だから不登校も自由、と言えなくはないです。ですが、それとて、「勉強したい」といったのは本人でしょうけど、学費を出してるのは親です。決して少ない額じゃありません。事情はありましょうけど、そうほいほい休んでいいもんなんでしょうか。
話がずれました。小中学校は「義務教育」と呼ばれているのに、それさえも「行きたくなかったら行かなくていい」事になりつつあります。「義務」なのに「行かなくていい」のはおかしい。でもマスコミでは、登校拒否は一種のステータス、のような扱いまでされています。
ですが、学校に行くのは、人生のうちで最初の義務です。人生は義務の連続です。「いやだから」義務は果たさなくていい、のなら、「学校」の後の「義務」、労働、家族、社会…を、やろうという気になるでしょうか。なるはずないです。義務を「果たす」のと「果たさない」の、どちらが楽でしょうか。「楽」な道を選んでしまうのが、人間の性なのですが。
私はファミコン世代の走りである(年齢がバレそうだが)。プレステやドリキャスではどうなのか知らないが、ファミコン(TVゲームの総称でという意味はなく、ほんとの意味での「ファミコン」。AV接続ではないぞ、なんとRF、要するにアンテナ接続しかなかったのだ。なぜかIIコン《この言い方ももはや死語》にはマイクがついてたぞ。「ドラクエ」でラスボスにマイクで「べギラマ!!」と叫ぶと勝手に死ぬんだぞ。閑話休題)では、「ウラ技」というものが有った。
有名なところで言えば、「100人マリオ」とか、「迎渡阿鈴(げいとあれい)」(笑。なぜここで笑えるかで年がばれる。この字で良かったっけ?)とか。
「ウラ技」には2種類あって、製作者が最初から意図して入れた物、つまり本来的な意味での「裏」の技、あまりにも有名な「上上下下右左右左AB」や、「『影の伝説』10人スタート」なんかがそれ。もう一つは、製作者が意図していないもの、ゲームシステムの裏をかいた物や、「バグ技」と言ってプログラムのバグでなってしまう物などがある。「システムの裏」なんかでは、「100人マリオ」なんかはその典型だし、「バグ技」は一時賛否両論が挙がった「ゼビウス無敵コマンド」や、これはゲームボーイだが、「ミュウ出現コマンド」がある。
ところで、これらはコンピュータ上で作られた世界に存在する物だが、現実世界において「ウラ技」はないのだろうか。
この間、「マトリックス」と言う映画を見た。見てない人にはネタばれになって申し訳ないが、主人公ネオは電脳空間でガーディアンプログラム「エージェント」と戦うのだが、舞台が電脳空間だから、主人公やともに戦う仲間たちは文字通り「その気になれば何でも出来る」。
10メートルは離れているビルとビルとの間を飛び越えたり、垂直な壁を走って見せたり、それこそ、「超能力」としか見えないような芸当をやってのける。
この電脳空間は現実世界とまるで同じに造られている。だからそこに「住む」人々は普通に生活しているつもりなのだが、やろうと思えば、コンクリートの壁をぶち抜いて見せる事だって可能なのだ。相手はプログラムで作られた虚像でしかないのだから、その「壁」に対し、「オレがぶつかると粉々に砕ける」と考えれば、と言うかそう言った「プログラム」を作れば、可能になる。
只、「でも本当に存在する壁なんじゃないか」「痛いんじゃないか」と言う「恐れ」や「躊躇」と言う名のプログラムが同じに存在すると、ぶち抜けてもこちらも大怪我をするか、壁にはね返されて終わりだ。
無論、現実世界は電脳空間ほど単純なロジックで作られてはいない。
電脳空間は確かに、「現実」と見まごう程の「虚像」は作れる。
しかしそれは「0」と「1」の集合に過ぎない。もっとも「マトリックス」の電脳空間はこれ以上の「虚像は作れないであろう」といえる構造をしている。詳述は避けるが、人間の「夢」を利用した「世界」だからだ。「夢」のあまりのリアルさに飛び起きてしまった経験は誰しもがある事だろう。
もっともそれを管理しているのはやはりロジックコンピュータでしかないのだが……
しかし、もし現実世界もまた、何らかのロジックで作られているとしたらどうか。物理学者なんかはそれを追及しているのだろうけど、もし、「ある」と仮定する。ならば、「ウラ技」は存在するのではないだろうか。
この世界を作った何者かが意図して入れた「裏技」、世界を構築したときに生じたミスを利用した「バグ技」。そう言ったものは、「もしも」だが、「現実世界はあるロジックで構成されている」と仮定した場合、「ある」のではないだろうか。
そして、この「ウラ技」と呼ばれるものが、例えば「マトリックス」では、主人公ネオが、飛んでくる銃弾を空中で止めてしまう。「銃弾」というプログラムの働きを停止させてしまった、といえるのだが、この考え方は、「水を禁じれば流れる事あたわず、火を禁じれば燃える事あたわず」と言う考え方に通じる物がある。この思考法、そう言った方面(笑)に詳しい方、と言うか、このようなエッセイを読んでらっしゃるような方(笑)には言うまでも無いだろう。古代日本の呪術、「呪禁道(じゅごんどう)」である。
つまりネオは銃弾を禁じた。「弾を禁じれば殺す事あたわず」。即ち、「銃弾」プログラムを強制終了させてしまったわけだ。
こう考えると、魔法の「呪文」や、密教の「真言」、佛教の経文などは、「隠しコマンド」そのものと言える。また、佛教の「印」、舞踊などもそうだろう。何も言葉だけが「コマンド」なのではなく、ある一定の動きもまた、「コマンド」足りえる。そして、その「コマンド」とは何か。現実世界では通常閉じられたままでいる、新たなプログラムを発動させる為の物である事は言うまでもない。その本来発動しないプログラムが動き出し、現実世界を変化させることを何と言うか。「超能力」「魔法」「奇跡」……さまざまな呼び名があろう。
安易に「超自然」などと言った安物に答えを求めるのは簡単だが、「科学」は一朝一夕に崩れるような物ではない。しかし科学もまた、「世界」の正体を解き明かしたわけではない。であれば、この現実世界に「ウラ技」があるかもしれないし、その「ウラ技」を使う事ができるならば、それこそ、「無敵」になれるかもしれない。
一本だたらは実在するのではないかと最近考えている。
一本だたらと言うのは、山の妖怪で、毛むくじゃらで目はひとつ、その名が示す通り足は一本しかない。
名前からすると、ダイダラボッチの一種なのかもしれない。体格も人より大きいらしい。
「新耳袋」第4夜に、一本だたらに似た妖怪の事がのっている。身長は2m近く、目は一つだけ。毛皮を着て背負子を背負っていたと言うことは、山で何かを採っていたのだろう。その妖怪は目撃者にタバコを求め、二、三話しもしたそうだ。その言葉には独特の訛りがあったと言う。とにかく、こちらと言葉は通じるらしい。
もう一つ、「新耳袋」には、身長3mの僧形の一つ目妖怪の話ものっている。 ところで、一つ目で一本足(もしくは片足を引きずっている)と言えば、思い出せるのがいわゆる「山の民」である。彼らは、山奥に住まい、火を用いて鉄を鍛えた、とされている。一つ目なのは、火を見る時に片目をつぶっている姿からの連想、あるいは火で片目が潰れてしまった者の妖怪化とも言われる。
しかし目はいいとしても片足なのはなぜなのだろう。精鉄時の事故で足を損なってしまったのだろうか。
まあいいか。
彼らは大和朝廷によって「まつろわぬ民」とされ、追いやられた。鬼、妖怪として。その時の怨みが一つ目一本足の妖怪を生んだのか。はたまた、真実妖怪だったのか。
彼らは、火を使い鉄を産む。火の神、鉄の神である。
とり・みき氏の「石神伝説」にも一つ目一本足の神が登場する。吉備津日子によって退治された鬼、温羅である。そう、「桃太郎」の原型だ。吉備の国、岡山は鉄の産地であった。「吉備」の枕詞「まがねふく」は「鉄を作る」と言う意味である。その鉄を狙った大和朝廷によって滅ぼされた吉備の「まつろわぬ民」の妖怪化された姿こそが鬼温羅であった、と言う解釈が「石神伝説」では為されていた。
そう言えば、ギリシャ神話の火の神、火山の神、鍛冶の神であるヘパイストス(ローマ神話のバルカン、英語の"volcano"の語源でもある)もまた片目がつぶれ、片足を引きずっている。ユーラシア大陸の東と西で、火の神が同じような姿をしているのは興味深い点だ。
ここでもう一つ思い起こされるのが「ひょっとこ」である。彼もまた火の神、竈の神である。彼は竈の火を吹くために片目をつぶり、火吹き竹を吹くために口を突き出している。しかし、昔日本テレビ系列で「金曜ロードショー」の後にやっていた(今この時間は「FAN」をやっているが)「TVムック謎学の旅」では、ひょっとこは火吹き竹を吹くためだけに口を突き出しているのではなく、口笛を吹くためにあのような突き出した口をしている、と言うのだ。なぜ口笛を吹くかといえば、それはお上への反抗の現れだと言う。なぜ口笛がお上への反抗になるのか、理由は残念ながら忘れた。「たとえどんなにお上がオレたちをいじめようと、口笛を吹くぐらいの余裕はあるんだぜ……」、または、口笛は呪術的な行為であり(夜中に口笛を吹くと蛇が出る、と言う言い伝えがある)、口笛自体が反抗の標である。多分後者の理由ではなかったか。 おお、ひょっとこは「まつろわぬ民」だったのだ!
日本中の山はもはや観光と開発によって人の足跡のない場所はないかのように思える。どっこい、山はそれしきで踏み荒らされてしまう程底の浅い迷路ではない。人の目に留まらぬところ、人が足を踏み入れぬところ、あるいは踏み入れることのできないところ、魔界への入り口はまだまだある。そんな処に「まつろわぬ民」、一本だたらはまだ住んでいそうな気がする。
最近、「環境問題」が取り沙汰されている。『環境ホルモン』『酸性雨』『核物質』『オゾンホール』『野生動物の絶滅』……
ところで、『環境』とは何だろう? 「(1)めぐり囲む区域(2)四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用と及ぼし合うものとして見た外界。自然的環境と社会的環境とがある
(広辞苑)」と辞書には書いてある。最近、『環境』と言えば、後者の事を指す事が多いようだ。
市民団体、一般市民、そして政治家。皆「自然を守れ」と大合唱している。
だがそれは、本当に『自然』のためにやっている事なのだろうか? 地球環境は地球が誕生して以来、刻々と変わってきている。種の絶滅も日常茶飯事、それらは『環境破壊』なのだろうか? 地球と言う、ちっぽけな惑星の上で起こっている、全宇宙を見ればどうでもいいような、取るに足らない、惑星の活動に過ぎないのではないか?
だが、「自然を愛そう」、「地球を守ろう」は今や錦の御旗である。それに逆らえば最早命はない(笑)。工場がちょっとでもおかしな物を垂れ流してしまおうものなら、『市民』様が『団体』で押し寄せて、けたたましく糾弾する。山を少し削ったり、木を切り倒したりしただけで、ごうごうとした非難が挙がる。
絶滅しそうな動物や植物には、「助けてー!」と代弁者が救済を求める。本当は「腹減った」「子供つくろ」としか思っていないのかもしれないのに。隣人さえ理解できない人間が、なぜ他の種の声を聞く事が出来るのだろうか?
「環境を守れ」と叫ばれるが、その『環境』と言うのは、実は『人間のための』環境でしかないのではないだろうか。人間は弱い種である。ほんの少し、環境が変わっただけですぐ命を落とす。そんな弱い種が生き延びていくためには、今の環境を保っておかなければならない。だが『たった1つの種が生きていく為の環境』。それはとてもいびつなのではないか?
『自然』の対義語として、『人工』が使われている。だが本当に人間は、全てを、自らの手で作り出す事が出来るのか? 錬金術は実現したと言うのだろうか。全て、『身の回りに有るもの』、自然から材料を得てくるしかないではないか。アリがアリ塚を建てるのと、鳥が巣を営むのと、何が変わりあるというのだろうか。
そして、『環境問題』は本当に『環境』の為なのか。あるいは、人間と言う『種』が、生き延びる為なのだろうか。実は、『環境問題』とは、『正義』でしかないのではないか。『正義』は人を正当付ける。『正義』は人を酔わせる。『正義』は人を魅了する。『正義』は、『正しい!』だが、少しでも、『正義』の正体について考えた事があるならば、『正義』の『欺瞞』を知っている事だろう。ではもし、『環境問題』が、『正義』でしかない、としたら?
私はエコロジストではない。自分で言うのもなんだが、『ど田舎』に住んでて、またその豊かな自然を愛している。しかし資本主義の恩恵に頭までどっぷりと浸かって暮らしている。今更石器人の生活に戻るつもりはさらさらない。やっても1週間で死んでしまうだろう。
人間は1度『快楽』を覚えてしまえば、そこからは逃れられない。『資本主義』と言う快楽から、私は逃れる気は全く、まるで、ない。こんな私が『エコロジスト』であるわけが無い。
だから私は、『エセコロジスト』と名乗ろう。『環境問題』と言う王様に、「あんた裸だよ」と言ってみる。自分で言うのは気恥ずかしいが、『ゴーマニズム』を標榜し、あえて『偽悪』の道を行き、「時代のこわばり」をほぐそうとする小林 よしのり、数々の破戒を繰り返し、皆が浮かれる正月の通りに、髑髏を掲げた杖を突き、「用心せよ用心せよ」と練り歩いた一休、彼ら偉大な先人の、真似だけでもしてみよう。
これが私の『エセコロジスト宣言』である。
「ぼく、諫早湾のムツゴロウでーす。干拓のせいで、住む所がなくなって困ってまーす」
「わたし、奄美大島のアマミノクロウサギ。開発のせいで、住むところが無くなってるの」
「おれ、西表島のイリオモテヤマネコなんだけど、最近は餌も少ないし、仲間もいないし、このままじゃ滅んじゃうよ。助けて!」
……あああああ! 気色わるーっ!!
最近、こんな風に、動物が環境保護を訴えるような手法が出てきたが、ちょっと待て。
彼らは、本当に「助けてくれ」なんて言ったのか? 「自然の声に耳を傾けろ」なんてよく言われる。
だが、人間は人間同士でさえ、意思の行き違いなんてのはよくある。いや、100%意思を伝えるなんて、できっこない。例えテレパシーが使えたとしても、まるで逆の意味で捉えられてしまう事だってあり得るだろう。
そんなものでしかない人間が、どうして他の生き物の声なんて、聞く事が出来るだろう? 猫は「にゃあ」と言ってるようにしか聞こえないし、クイナなんかは「ぐえ」がいいとこだろう。それでも猫は、行動や鳴き声で、気持ちいいのか、不快なのか「ある程度」分かる。あくまで「ある程度」だけれど。鳥に至っては、それこそ「何を考えてるのか分からない」。
「いいや私には分かる! あの子達は苦しんでいる!」とおっしゃられる方もいようが、空耳ではないだろうか。自称「心霊研究家」がなんでも無い写真に人の顔を見つけるように、「UFO研究家」が空を飛んでいるものは何でもUFOに見えてしまうように、「苦しんでいる」声を「聞きたがっている」から、聞こえるだけではないのか。
野生動物なんて物は、人間のように、明日に絶望する事も無ければ、希望を抱くことも無い。ただ食って、寝て、殖えて。延々とそれを繰り返して来ただけである。考える事なんて、精々「腹減った」「眠い」「子どもつくろ」ぐらいだろう。
逆に言えば、人間のように、滅びを前にしてじたばたしないだけましだ。種が滅ぶのは自然界では日常茶飯事であって、どの種も大人しくそれを受け入れる。ただ一種、人間だけが滅びを免れようと右往左往しているのである。
ちなみに、冒頭に挙げたムツゴロウ、アマミノクロウサギ、イリオモテヤマネコ、私にはこう言っているように聞こえる。無論、「聞こえる」だけであって、実際に彼らの口から聞いたわけではない。
「体干からびてきたな。腹減った」
「食べ物減ったな。住むとこ変えなきゃ」
「獲物いねーな」
確かに動物は可愛い。弱い存在だし、手を差し伸べたくなる。だが「だし」に使うのはやめろ。彼らこそ、いい面の皮である。
私も使ってるけど。
私が好きなマンガに、『寄生獣』(岩明 均/著全11巻)がある。皆さんにもぜひご一読して頂きたいので、詳述は避けるが、まず、「誰かが思った『どうにかしなければ……』」というモノローグで始まるこのマンガは、ある日地球に、奇妙な生き物が発生するシーンに続く。その生き物は、人間の体の中に入り込み、脳を食う。そして、一晩のうちに宿主の頭部を栄養として成長し、頭部に擬態する。その後、急激に知識を吸収し、知能を発達させると、人間社会に潜り込み、人間を食らって生活する。
物語は、この生き物に右手を乗っ取られてしまった少年が、人間に化けた他の生き物と戦う話である。こう書くとヒーロー物のようだが、単なる『正義』に終らない、深いテーマを宿した作品である。繰り返すが、ぜひご一読して頂きたい。『寄生獣』と言うタイトルの意味が分かった時、私はあっと言ってしまった。
ところで、このマンガの中で、私が特に印象に残っている台詞がある。主人公の少年が、生き物の「2人」と、話し合うシーンがある。その中で生き物の「1人」が、こんな言葉を言った。
「すなわち『この種を食い殺せ!』」
これはつまり何かと言うと、彼らが生まれてくる時、最初に頭に浮かんだ言葉だと言う。彼らはさらに、他の生き物たちも、同じ様に生まれてくる時何かを言われる、と主張する。覚えていないのは、人間だけだ。
つまり彼らは、人間を滅ぼす、あるいは間引くために生まれてきたようだ。だが、ある意味悲しい生命である。ただ『天敵』としてのみ、レゾンデートルがあると言うのは。
ところで、もし彼らの言う通り、生命が誕生する時、何かを命令される、としたら。当然、私は何を言われたか覚えてない。誰もが覚えていないだろう。だが、もし言われたとしたら、こうではないだろうか。
「浪費しろ」
人間ほど、「無駄使い」をする生き物はいない。普通生き物は、食うだけ食って、寝るだけ寝て、殖えるだけ殖えたらそれで『満足』な筈である。
だが人間は違う。
満腹になるだけでは飽き足らず、「おいしい」を追求する。栄養が適当であれば、味などどうでもいいのに(尤も、「おいしい」と言う感覚は、重要な栄養分に対し「おいしい」、つまり快楽を感じさせ、個体維持に必要な栄養分を積極的に摂取するために発達した感覚だ、とする説もある。にしたって、毒や腐敗の危険信号であるはずの「苦い」「酸っぱい」さえも人間は時として「おいしい」と感じる)。本来生殖の手段である交尾を、快楽の為に行う。知恵がつけばつくほど、子を作らない。寝る間も惜しんで、他の事をしている。
だがこれは人間だけを責めるわけにはいかない。『命令』だからだ。ではこの『命令』を下したのは誰なのか? これは当然、『寄生獣』の生き物に、命令を与えた存在と同一のはずである。
『浪費』が人間の使命であるならば、現在の地球環境も、『結果』ではなく、『必然』であるのかもしれない。
この「超『環境論』」、シリーズエッセイだなどと銘打っておきながら、全然続編を書かず、全然シリーズじゃないじゃないかと思っていたのですが、久しぶりに書いてみます。
もう去年の事になりますが、岐阜県の川でパーティが増水して中州に取り残され、マスコミや救助隊が見守る中、流されてしまうと言う不幸な事故がありました。この時、中州に人がいたのにダムを放水した管理人の責任が問われましたが、かといってダムに溜まった水を放置しておけば決壊を招きより大規模な事故につながっていたのかもしれないのだから、管理人を責めるべきではないと思うのです。第1、サイレンを鳴らして増水を警告し、パーティのキャンプに出向いて注意を呼びかけていたのだから、それでも立ち去ろうとしなかったパーティにこそ責任があると思います。
ですがこの際、死者を鞭打つのは止めておきましょう。このエッセイの主旨もそこにあるわけではありません。問題にしたいのは、安易なアウトドア志向なのです。私が思うに、今流行ってる『アウトドア』というのは、『ガーデンパーティ』の事ではないでしょうか。
私はアウトドアとは、「最小限の装備と最大限の知恵で、自然に立ち向かうスポーツ」だと思っています。アウトドアで、余計な荷物は命取りになる場合さえあります。限られた装備をフルに活用し、困難を切り開いていく、逆に言えばそれこそがアウトドアの醍醐味、と言えるのです。翻って、今流行っている「アウトドア」はどんなのでしょうか。
毎年、スキーシーズンが終わると、スポーツ用品店でもデパートでもアウトドアグッズを売り出します。ですが、バーベキューセットだの、ハンモックだの、燻製器だの、確かに「野外」で使うものに間違いはないけど、キャンプに持っていくものではないだろう、と思ってしまう商品が並んでいます。私が『ガーデンパーティ』だと言うのも正にそこで、このような品物を買っていってキャンプ地でやるのは、最大限の装備で知恵は最小限とは言わないまでも、少なくとも、普段住んでいるところとは全く別の環境に来ているのに、近所の公園か、下手すりゃ家にいるのと同じ感覚なのではないでしょうか。それはアウトドアとは言わないでしょう。それで「自然と触れ合った」気分になられてもねぇ。
確かに野外で遊ぶのは楽しいし、特に都会に暮らす人にとってはめったにできない体験でしょう。しかし、そのとき自分が向き合っているのが本当に「自然」なのか、考えてみる必要はあるんではないでしょうか。