藤原日記10月分

10月31日

 オリンピックについての続きである。

何だかんだ言っても、われわれは日本に生まれてしまった。

オリンピックに金を狙える選手を送り込める国に生まれたのである。選手を1人送り出すのがやっと、あるいはオリンピックどころではない、という国だって世界にはあると言うのに。大選手団を結成し金も狙える選手を擁する国と、予選通過できれば御の字の選手を1人だけ送り出すのが限界の国。

ここにも『公』は立ち現れてくる。「金の期待」と「たった1人で背負う国」。背負うものは初手から違う。金を狙えるようになったのが自分独りの力なら「自分のため」「楽しんで」闘うのも良かろう。だがそこまで育ててくれたのは誰なのか。応援してくれる人はいないのか。

確かに、闘うのはその選手本人だ。だがその舞台に立つまでの自分を切り捨てることは出来るのだろうか。たった1人で出場するわけでもなく、国威発揚のため体がボロボロになっても出場させられるわけでもなく、自分の力でそこに至るまでの道程を。その道程に何があったのかを。忘れて闘えるものだろうか。

小林も触れていたが『NOVA』のCM、外国人が「がんばれニッポン!」と言ってくれるCMは確かにくすぐったい気持ちになってしまう。

「いやあそんなこと言わずに自分とこの選手応援してくださいよ」とTVに向かって言いたくなってしまう。しかし考えてみれば、「がんばれニッポン!」と言ってくれる国の人たちはそれだけ余裕があるのだ。他の国の選手を応援できるのだから。

日本人だって他の国の超一流選手に注目していられるぐらいの余裕はある。それどころか、自国の選手が金の感動を与えてくれるのだ。オリンピックと言う国際舞台にありながら、日本に生まれてよかったと改めて確認できるのである。ありがたい話だ。

10月30日

ちょっと順番が入れ替わってしまったが、127章の感想。

シドニーオリンピックについての感想だが、長野と論調はあまり変わってない。曰く「公が個を超える時、実力以上の力が発揮できる」。確かワールドカップのときもそんな事を言っていた。さすがに『信者』でも「なんにでも『公』を当てはめすぎじゃないか?」とは思ってしまう。あんまり「コーコー」言ってるとしまいにゃニワトリ呼ばわりされるぞ(我ながらいい皮肉を思いついたもんだ。これをアップした後「コーコー鳴いてばかりのニワトリ小林」と言うフレーズが否定派の間で流行ったりして。ただし発明したのはオレだから使用料は払っていただきたいものである)。

とは言えオレには教祖様の説教を否定する要素はない。実にあっさりと納得できるのだ。

やっぱり日本人に生まれたからには日本の選手を応援してしまう。モーリス・グリーンの圧倒的な速さや、5冠を取るかといわれた女性スプリンター(もう名前は忘れた。物書きを目指しているくせにどういう態度か)、鳥人ブブカ、「前田を破った」カレリンとかには注目せざるを得ないが、そう言った超一流選手でもなければ自国の選手に目が行くのは止むを得まい。

それにしても入場行進を見ていて思ったが日本の選手は恵まれている。選手1人送るだけで一杯一杯の国もあるというのに、「自分のため」とか「楽しんでくる」とかのんきな事を言っていられるのだから。あまつさえ、競技によってはメダル、金さえも狙えるのである。1人送ってやっとの国はそれこそ参加する事に意義があるだろうが、日本人は自国の選手にメダルを期待してもいいのだ。

しかし国を一人で背負ってきた選手と、虹色のマントを翻してきた選手と、モチベーションの差はいかばかりなものか。例え実力は段違いだとしても、モチベーションの高さでは遥かに勝っているだろう事は想像に難くない。1人しかいない、つまり彼が敗れてしまえばその国のオリンピックはそこで終わる。開会から閉会までずっと参加できる国の選手とは最早「気迫」が違うだろう。無論「気迫」で勝てるほどオリンピックは甘くないのだが、敗れ去ったとしても彼の人生は輝くのである。

日本の選手にこの「気迫」を持て、というのは無理な話だろう。気迫以外に勝てる要素を持ってしまっているからだ。その要素は気迫だけで闘う選手をあっさりと葬り去る力となる。では、その「気迫」を倒して得た勝利とは何だろう。 長くなったので続く。

10月29日

『ゴー宣』に話を戻そう、と言うわけで『台湾論』の話にするが、読んでいると小林は台湾に幻想を持ち過ぎているきらいがある。台湾をあまりにも理想国家視しているのは『信者』でも感じざるを得ない。

とは言えわかる気はする。

李 登輝氏が現代の偉人である事は議論の余地が無い。そんな人物をリーダーとし、日本人が失ってしまった『美徳』を持つ国。かつて日本であったことを『誇り』としてくれる国。しかし中国との駆け引きで、それらを失いつつある国。1人で立つか、支那に戻るか、迷っている国。小林が憧憬と危機感を抱き、台湾びいきになってしまうのも無理は無い。

果たして台湾はどこに行くのか。

「発展」の為に中国に飲み込まれてしまうのか。それとも「国」としての道を、中国とは別の道を歩むのか。言ってしまえば中国に組み込まれてしまえば楽である。ミサイルに怯える必要も無くなる。だがもしそうなってしまえば、かつて国民党が本省人に為した事が今度は中国共産党によって為されるのではないか。それに、もう既に支那と台湾は別の道を歩いてしまっている、と思う。歴史的にも、文化的にも。チベットやウイグルの悲劇を見れば分かるように、最早同じ道をともには歩けない、一緒に歩むのならば、そこに待っているのは悲劇だけだ。

オレは「生まれ変わり」は信じないことにしている、と言うか生まれ変わるにしても前世の記憶を持ったままもう一回人生をやり直せと言われてもうんざりする。ただ、もし前世の記憶を持って生まれ変わったとしたら、つまり今の記憶を持っていたら、100年後、台湾がどうなっているのか見届けたい。中華人民共和国台湾省になってしまっているか、それとも『台湾国』が生まれているか。

 いや、何も生まれ変わる必要は無いかもしれない。歴史の動く様、それが目の前で繰り広げられているのだから。

 オレも幻想を持ってるなー……

10月28日

なんだか最近『ゴー宣』とは関係無い内容ばかり続いているような気がするが、「『ゴー宣』を読んで思いついた事や考えた事」も書く、と言っているのだから、まあいい事にしよう。「『ゴー宣』と関係無いじゃないか!」と言う苦情はメールか掲示板でお願いします。と言い訳したところで、今回は別の本の話題を取り上げてしまうが、テーマ的に全く関係無いわけじゃないからいい事にしよう。

さて。

『初級軍事学講座』という本が芙蓉書房から出ている。読んでみたのだが……びっくりした。本当に『初級』なのだ。オレは祖父が海軍で通信兵をしていて、だからと言うわけでもないだろうけどそう言った方面にはもともと興味があって、軍事関係に詳しい友人がいて、そいつからいろいろと戦争や軍隊の事について教えたもらったり、後田中 芳樹の『銀河英雄伝説』を読んだりして、ある程度の知識はもっている。『戦術』と『戦略』の違いぐらいは分かっているつもりだ。『戦術』とは「戦闘に勝つための技術」、『戦略』とは「戦争に勝つための技術」、これでとりあえずは間違いないと思う。

『軍曹』と『伍長』ではどちらが階級が上か、『一尉』と『三佐』は(笑)とか、「高い位置と低い位置どちらに陣取るのが有利か」、「森に潜むのと開けた場所に出るのとではどっちが有利か」とか、「『海兵(陸戦)隊』は陸海空3軍のうちどれに所属する部隊か」とか、「師団、旅団はどちらが規模が大きいか」とか、その程度の知識しかこの本には載ってないのだ。もっとも知らない人には十分専門的かもしれないが、そこまでは分からなくても、『大尉』と『大佐』はどっちが偉いのかぐらいは知っておいた方がいいと思う。

前にも書いたが、戦争は病気に似ている。国家が罹る熱病が戦争だ、と言ってもいいかもしれない。病気に罹ってしまってから「予防をちゃんとしておけば」と悔やんでも仕方ない。無論予防は大事だ。罹らないに越した事はない。だがいくら予防していても、罹る時は罹ってしまう。では罹ってしまったらどうしたらいいか。

まずその病気が、体調や精神の不調によるものか、あるいはウィルスや細菌が原因か、それとも毒物による中毒か、治すにはどうしたらいいか、体を休ませて体力を回復させるか、抗生物質を打つか、手術して病巣を取り除くか、原因や対処法を知らなくて病気を治す事はできない。手術しなければ命に関わるのに安静にしておくだけでは意味がない。ましてや、罹ってしまって「病気になった病気になった」と右往左往しているだけでは助かるものも助からない。

繰り返すが無論予防は大事だ。誰だって熱病になど罹りたくない。だが予防しようとしている病気の正体も知らずに「予防予防」と叫んでみても、大した効果はない、のではないだろうか。

10月27日

大東亜戦争において日本が受けた戦争被害で、原爆、空襲に並ぶものにシベリア抑留があると思うが、どう言うわけかこの抑留も日本軍が悪い、と言う結論に話が落ち着いてしまう事が多いように思う。

高級士官はさっさと逃げ出してしまい、後に残された兵士は抑留され、民間人はソ連軍の脅威にさらされ、辛酸を舐めて帰ってきた。いや帰る事も出来ず異国の土となった者もいた、民間人の保護もせず逃げ出した軍も軍だし、そもそも満州に殖民しなければこんな事にはならなかった、と言うわけである。

だが考えてみれば民間人や兵士を見捨てて逃げ出した司令部は責められて然るべきだが、捕虜や民間人を虐待したソ連軍は何故糾弾されないのか。捕虜や民間人を虐待しているのにだ。日本軍の蛮行ならば証拠が怪しくても槍玉に挙げるのに、ソ連軍の蛮行、こちらは覆しようもない証拠が多数存在していると言うのに、責任はソ連軍ではなく日本軍に負われてしまうのは何故なのか。

捕虜が極寒のシベリアで強制労働させられて、引揚者は暴行や略奪され、命からがら逃げ帰ってきたのにソ連には責任はないらしい。共産主義にはそぐわない命も落とすような悪条件の労働を強制したのはどの国か。民間人を襲うような兵士はどこの軍隊だったのか。

しかもソ連は不可侵条約を一方的に破っているのである。アジアでのアメリカの1人勝ちを見逃しておけなかったのだろうが、「北北海道」と「南北海道」、あるいは「北日本」と「南日本」が形成されていたかもしれないと思うとぞっとする。もっとも小林が言うように、戦後の日本人の精神が「分断」されてしまっているけど。

原爆に関して、「日本にも責任がある」とか「戦争終結を早めた」とか言われて黙っているわけにはいかないが、「シベリア抑留は日本が悪い」と言われても黙っているわけにはいかない。「シベリア抑留はソ連が悪い!」と声を大にして言わなければならないと思う。

10月26日

『ゴー宣』ウオッチングを標榜する日記なのに、『ゴー宣』の感想を書かないのは如何。と言うわけで、128章について書く。

当初オレは「採択戦」というのは、「教科書検定を通過する事」だと思っていたので、それを「作る会」はどう頑張るのか、検定を頑張りようが無いのではないか? と考えていてよく分からなかったが、今回「学校での採用」だと分かったのでやっと得心が行った。なるほどそれなら学校に呼びかける事もできるし、「自由主義史観」には学校の先生も多いから有効な戦力となりうる、と言うのも納得。だが確かにその前に検定を通過できなければ意味はない。学校で使ってもらえないからだ。やはり書店で参考書として発売するより、学校で教科書として使った方が効果もあるし、何より、教育の現場で用いられる事を前提に作っているのだ。

考えてみると、歴史にも「指導要領」ってあるのだろうか? 「作る会」の教科書がその要領から大幅にずれている、のであれば不合格も止むを得ない? いやそれでも「書き直し」すれば済むだろう。しかし最早「書き直し」さえさせず、一発不合格にする気なのかもしれないが、その理由が「要領(あるとすれば)からずれている」のならば納得もできるが、「中国韓国の感情を逆撫でする」では理由になっていない。

なぜ自国の教科書が外国の感情に左右されなきゃならんのか。余程中国や韓国(韓国はそれでも最近はトーンを抑えているらしいが)で使われている教科書の方が日本国民の感情を逆撫でするような内容ではないか。中国が日本の歴史教科書に「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が載ってないと文句をつけるなら、こちらだって中国の歴史教科書から「日本鬼子」の記述を削除しろ、と言いたくなる。

 パイロット版である『国民の歴史』を読めば、「作る会」の教科書が「フルーイ教科書の焼き直し(『脱ゴーマニズム宣言』より)」などではない事がわかる。マルクス進歩主義の「民衆」教科書ばかりの中に祖先の営みを活き活きと伝える教科書が一冊だけあってもいいではないか。

 歴史教科書の検定委員会が「資料の遅れ」を理由に延期するらしい。これが「作る会」教科書潰し、の一環でないことを祈りたい。

だけど運良く「作る会」教科書が検定を通過できて、後は学校に採択してもらうだけだ、となっても、「作る会」(扶桑社か? この場合)は一般書店でも販売してもらいたい。オレも読みたいから。

10月25日

石坂 啓、と言うマンガ家がいる。

小林 よしのりとまるで正反対のマンガ家だ。従軍慰安婦には謝罪しろ、戦争は愚かだ、と言う事を小林のようにストレートに主張するわけではないが、作品からはそう考えている事が読み取れる。何しろ辺見 庸の「もの食う人びと」を原案に、慰安婦マンガを書いたりしている。数年前それを読んだオレはそのマンガを鵜呑みにしていたわけだが。

このあいだちらと読んだマンガでも、「庶民を犠牲にまでしてなんで戦争やる必要があったのか」という主旨のマンガを書いていた。その主張は『戦争論』とは対極にある、ように見える。

 しかし小林は戦争を美化するわけではなく、「大東亜戦争はやむを得ない戦争だった」として肯定しているだけである。

無論石坂が書くように、「戦争は愚かだ」と考える事は大切だ。戦争がいつかこの世からなくなる、とすれば、この考えはとても有効だ。「国民を犠牲にするから」「人命が奪われるから」「資源が浪費されるから」「国家が疲弊するから」。孫子が既に2000年前に喝破しているように、「兵は不祥の器にしてこれを使うにあたわず」。戦争は外交の一手段であり、戦火を交えるのは愚策中の愚策である。だが「愚かだから愚かだ」では無くなる戦争も無くならない。

石坂がマンガやエッセイで語る考えはそれも一面の真実ではある。だが彼女のような考え方が絶対の正義になってしまうのはそれも危険だ。そして石坂の考えは現在の日本では人口に膾炙しているのであって、小林の意見はアンチテーゼでしかないのだ。

取り敢えず、戦死した兵士やその遺族に向かって、「犬死だ」と切り捨ててしまうのは止した方がいいと思う。

10月24日

先日、この日記で川田 龍平を批判したばかりだが、その後母親の悦子氏が議員に当選したと聞いてびっくりした。立候補していたことさえ知らなかったのだが、まさか議員になってしまうとは思ってもみなかった。「薬害エイズ」での「知名度」を利用しての当選と言う気がしないでもない、いやそうに違いないだろうが、市民運動の「正義」が海千山千の国会でどれだけ通用するか、まあ見届けてみよう。優秀な政治家が一人誕生したのならば文句はないが、辻ボート ピス美が2人いてもしょうがないし。

『YAHOO!』掲示板の例のトピック、オレの文章を話題にしてくれていたのだが、いつの間にやらオレのことは忘れ去られ、偽名を使ったの使わないのの投稿者同士の罵り合いになってしまっていた。置いてきぼりにされてちょっと悲しい。しかしこのトピック、もはや『ゴーマニズム宣言』や『小林 よしのり』の名前さえ出ず、「著作権」そのものの話題が中心になってしまっている。『ゴー宣 』と「まるで」でないにしろ関係なくなってしまっているのだ。停滞してしまっていた一頃と違って、かなり議論にも熱が入ってはいるのだが、「コミックとアニメーション」のスレッドでやる意味があまりない。「政治>法」でやった方がいいのではないか。

オレはもっぱら掲示板はROM派である。余程言いたいことがない限り書き込みはしない。見学するのにも意義があるし、何より、友人が以前掲示板での論争に巻き込まれて不快な思いをしているのを見ているからだ。Webで「パソ通のフォーラムで、10年掛けて築かれた礼儀やマナーが、インターネットの電子掲示板でいとも簡単に崩されてしまった」と嘆いている文章を見たことがある。どうやら相手を言い負かさないと気がすまない、屈服させるまで引かない連中がWeb上には多いらしく、例の掲示板はまさにそういった連中の罵り合いになってしまっているのだ。

だが前述の文章には続きがあって、「裁判じゃないのだから相手を言い負かしても『勝ち』ではなく、例え無視を決め込んだとしても『負け』ではない」。発言者同士が楽しく話題を提供しあっている掲示板なら「あ、オレも書き込もうかな」という気分にもなれる。だけどギスギスした感情のやり取りしかされていないのでは、「部外者」は書き込もうという気にはならない。余程「こいつらの言うことは全部間違いでオレが正しい!」と思っていない限りは(あまりに感情的な喧嘩には茶々を入れて火に油を注いでやろうかと思うことはあるけど)。

10月23日

ここんとこ、批判する文章ばかり書いているが、この日記は特に批判するためにやっているわけでもなく、オレが『ゴー宣』を読んで、気に留めたこと、考えた事、感想、苦情? なんかを書き留めてみて、せっかくだから他の人にも読んでみてもらおう、と言う魂胆である。一信者が、教祖様のお言葉を賜って、それを自分なりに解釈してみよう、と言うわけだ。噛み砕いたつもりでもまるで同じ事しか言っていないかもしれないが、それもまた「解釈」の一つと言ってもいいかもしれない。「何を抜かすか」と憤慨される人もいるだろうし、「ははあ成程」とうなずいてくれる人もいるだろう。

 大体一日分につき1000字程度をめどに書いているのだが、『ダ・ヴィンチ』で福田 和也が「文筆業を目指す人は一日1000字程度のコラムを書いてみるといい。量もそんなに多くないし、文章の練習としては丁度いい長さだ」と言っていたのを見て将来文筆業になれるものならなりたいのでこうして書いているわけだが確かに考えて書かなきゃ1000字はそうは書けないが、音を上げてしまう量でもない。しかしこれはいわば練習だから、素振りや走り込みを客に見せていることになる。まあ画家だって習作を「作品」として発表する事だってあるんだから、いい事にしよう。オレが試合に出してもらえるようになったら、その時はオレの守備を観に来ていただきたい。

……しまった。こんな事書いたら、これからずっと一日1000字書いていかなきゃならないじゃないか。

まあ時々はサボったりもするし、「四捨五入すりゃ1000字だ」と500字ぐらいしか書かないかもしれない。まだ書き始めてから1カ月も立っていないのに早くも弱音だが、根性が続く限り、オレが『ゴー宣』ファンでいる限りは、なるべく書きつづけてみようと思う次第である。

10月22日

大東亜戦争南京戦に従軍した兵士の手記に、「虐殺を行った」と言う主旨の記述があるのを発見して、「ほら見ろ南京で虐殺があったじゃないか!」と鬼の首取ったように喜ぶ連中がいるが、言ってしまえば「そんなの当たり前じゃん」。

戦争、特に市街戦で虐殺が起こらないほうがおかしい。無我夢中で戦っていく中、見境がつかなくなった兵士が、無辜の市民を残虐な方法で殺しまくった、このような事態はままあることだ。無論これは軍規違反となるから(「虐殺しろ」と言う命令が出ていない限り)、発覚すれば軍法会議は免れず、時には死刑にもなる。このような虐殺をなくす事は難しい。一般社会において殺人事件が未だに無くならないように。南京戦でこう言った虐殺が行われたとしても語弊はあるが当たり前なのである。

ただ、「30万人」だの「6、7万人」と言う数になると、これははなはだ疑問である。

前述した戦場の狂乱による虐殺でこれだけの数が殺された、と言うのは考えにくい。どんな大都市でも精々千人単位であろう。万単位となると、もうこれは「作戦」が必要だ。当時の南京市の人口は20万人程度であったと言う。20万人の大都市を全滅させる作戦……一体、何の目的があるのだろう?  南京戦は、蒋 介石率いる国民党軍を追撃する戦闘の一環である。結局南京では追撃しきれず、重慶まで追いかける事になるのだが。と言うことは、南京の国民党兵士をあぶり出すための作戦、となるがそれは戦闘行為であって虐殺ではなく、誰に非難される筋合いはない。

第一、そんな「作戦」を行うのであれば、馬鹿正直に市街に歩兵が突入して行うより、爆撃とか、もっと効率的なやり方が幾らでもある。重慶市は爆撃しているのだし……爆撃して、疲弊したところを戦車や歩兵で制圧する。こりゃグーデリアンの電撃作戦だな。もっとも戦闘経験の浅い日本軍だから、はなから愚直に歩兵で突入したのかもしれない。歩兵重視の方針を採っていたようだし……

まあ国民党軍をあぶり出すのが目的だとしても、南京市を制圧すればいい話だ。南京市の住人を皆殺しにする必要があるのだろうか? 日本が支那(IMEだと一発で出ない。ひでえ)人をホロコーストしようとしてたのなら話も分かるが。NSDAPのようにユダヤ人が邪魔だから排斥しようと言うのではないだろうし、ヒーローものに出てくる悪の帝国じゃあるまいし、支配する対象を全滅させてどうするんだ。

自分でも何を書いているのか分からなくなってしまったが、南京で「大虐殺」があったとすればその目的は? 手段は? ちょっと考えてみてもいいと思う。

10月21日

小林を批判するのはまあいいとして、不思議なのは、宅 八郎を参考にして、批判を展開する連中が多いことである。

なぜ宅を参考にするのだろう?

はっきり言って、自分でも言っているが、宅はテロリストである。対立していた切通 理作の住所を『SPA!』誌上で(書いた宅も宅だが載せた編集長も編集長だ)公開し、切通は脅迫やイタ電をひっきりなしに掛けられる羽目になってしまった。批判ならいくらしても構わないだろうが、プライバシーを暴いて、家族にまで迷惑を掛けると言うのはどう考えてもまともな言論人、いや人間のすることではない。

まあ盗人にも三分の理とは言うから、テロリストにも一厘の理ぐらいはあるのかもしれない。だが、だからと言って人の住所を暴いて「やっちゃえOK!」なんて書くような人物の言うことをなぜ信用する? 小林が吉本 隆明や吉見 義明の住所を『ゴー宣』で書き立てて、「やっちゃえOK」なんて言ったことがあるか!?

宅は『SPA!』を当時の編集長ともども切られたことをどう言うわけか小林の陰謀だとして小林を怨んでいるが、全くの筋違いだ。宅が切られたのは小林のせいでもなんでもなく、ただの商業論理だ。宅に連載させていても雑誌が売れない、売れない商品を切り捨てるのは当たり前の話だ。ついでに言えば、売れる商品(小林)を売らず売れない商品(宅)を売って売上を落としてしまった当時の編集長も責任を取らされて首になったのである。

仮に小林が「宅を切れ!」と言って連載を切らせても文句を言う資格は宅にはない。売れるほうが大きい顔できるのは出版業界のみならずどの業界でも当然だ。何しろ宅は中尊寺 ゆつ子「ごとき」に切られるような存在でしかない(中尊寺が『SPA!』に連載を依頼された時「宅と一緒に連載するのはいや!」とゴネて『イカす! おたく天国』が終わってしまったのは有名な話)。悔しかったら小林を超える存在になって、今度は小林を切ってしまえばいいだけの話だ。

小林も言うように怨みつらみをモチベーションにして傑作をものに出来ればそれでいい。だが怨みをそのまま垂れ流してテロを続けるのでは何も生み出せないと言っておこう。

……こんな文章書いたら、今度はオレが宅の標的になったりして。ちょっと戦戦兢兢。

10月20日

病気で寝こんでいるとき、「オレは病人なんだからみんなやさしくしろ」と思った事は無いだろうか? それに寝こんでいれば、普段より周りの人間は優しく接してくれるだろう。  これがもっとも身近な『弱者権力』の例だと思う。

オレは『弱者権力』とは、「弱さをかさに着る事」だと思っている。人権主義社会においては「弱さ」は「強い」のだ。「弱い」と言う事は即ち「正義」であり、犯してはならないドグマなのだ。  NHKで川田 龍平と郡司 篤晃が対談(この番組の企画を考えたNHKもすごいが受けた郡司も何を考えていたのか)した番組があったが、オレは観ていないのだが、川田が郡司を一方的に糾弾するような内容だったと言う。20代前半の若造が厚生官僚出身の東大教授を責め立てているのである。川田に正義があるから? いや違うと思う。スタジオの雰囲気、番組の構成が全て川田に味方していたからだ。薬害エイズ裁判の原告、しかも顔出しで行動する「勇気ある被害者」にスタジオはかしずいてしまったのだ。

だが弱者を必要以上に賞賛し、祭り上げるのはそれも差別なのである。差別の無い社会とは、弱者に強者がひざまずく事ではない。それは新たな弱者と強者の現出に過ぎない。弱者も強者と同様に振舞う世界、小林が『差別論スペシャル』で言うように、「スタートラインは皆同じ」であって、「横並びに一斉にゴール」する社会ではないのだ。ハンデがあったとしてもしゃかりきに走ってちんたら歩っている一般人など追い越してしまう弱者もいるだろうし、弱者だろうがなんだろうがガムシャラに追い越してぶっちぎりで突っ走る強者もいるだろう。冷遇される事はない、しかし優遇もされない、「差別がない」とはそう言う事だ。

今回、オレは川田を批判しているわけだが、「川田を批判するとは何事だ!」と思われる読者もいるだろう。だがそう思う事もまた川田に対する差別である。カミングアウトしたとき、批判される事も覚悟の上で名前を公表したはずだ。HIV保有者であっても特別扱いされない、それこそが川田の目指した社会、カミングアウトした意味のはずである。だのに批判を許さないのは、川田の覚悟に対して失礼なのではないだろうか。

10月19日

例の『YAHOO!』掲示板、オレは発言者は全員が全員、小林叩きだと思っていたのだが最近はどうも違うらしい。小林やマンガ業界の『著作権』や『引用』の認識には大いに『?』をつけてはいるが(オレもある程度は賛同できる)、小林擁護の立場に立って意見を展開している発言者もいるのだ。繰り返しになってしまうが、彼らは『ゴー宣』は認めた上で、しかし今回の著作権裁判における小林の主張には異を唱える、と言うスタンスである。

 オレも無許可で引用が出来るのであればそれに越した事はない、と思う。マンガの批評では絵がどうしても必要になる場合がある。その際許可がいるのいらないので無用なトラブルが起こってしまうのでは批評できるものもできなくなってしまう。

 だが『脱ゴー宣』の引用が標準になるかと言えばそんな気はしない。ネームを引用すれば済むのに文章にコマを挟むような引用はふざけているとしか思えない(「絵と文章は不可分」ならば同ページに別に絵を掲載すればいい)し、コマ割の改竄などはコマ割が絵の構図であるのはマンガのイロハのイとまでは言わないまでも「ロ」ぐらいではあるだろうに、そんな事も知らないのかと言いたくなってくる。

話がずれるような気もするが以前からの疑問なので書いておきたい。目伏せを入れるのは醜く描かれた人物への配慮らしいが、ならなぜ川田 龍平には入れて阿部 英には入れない? 阿部なんかおどろおどろしく描かれ『薬害魔王』なんてキャプションまで入れられているのに、だ。ここからも上杉がどのような意図で「引用」を行っているか分かるような気がする。第一、なぜ自分の似顔絵に目伏せを入れないのか。名誉毀損訴訟を起こすくらい不愉快なのだろうに。

 もっともこの件に関してはオレは最近楽観視している。ある小林ファンサイトで、このような主旨の文章を見かけたからだ。「『脱ゴー宣』に便乗した本が出てきてもそんなに心配は要らないだろう。あまりにも下らない『批評』や『引用』は誰も買わないからだ。」批評だとてこの資本主義社会では市場原理に晒される。2匹目のドジョウはそうはいない、ということなのだ。

10月18日

「慰安婦」の話をもうちょっと続けてみる。

小林が3巻の特別編で挙げた例を見ても、彼女達が意外といきいきとしていたのが分かる。そんなのはおためごかしであって、所詮彼女達は性暴力の被害者なのだ、と見る事もできる。ただ、深夜番組とかで、時折性風俗(山本 晋也カントク言うところの『射精産業』)に携わる女性達をルポしているが、彼女達は意外とあっけらかんと働いていて、この仕事に「誇り」をもって体を晒しているのだ。無論、彼女達がその仕事についてしまったのは、「彼氏の借金を肩代わりさせられた」とか、「不況で就職口がなくて仕方なく」と言った可哀想な理由もある。だがそれでも、「お客様が私のテクで喜んでくれるのが嬉しい」「男の人の可愛らしさを知った」と彼女達はうれしい事を言ってくれる。そこまで言ってしまえる彼女達に、『誇り』と『プロ意識』という言葉を感じずにはいられない。

この世の全ての男が(女もそうだろうけど)セックスパートナーを得られるわけではない。そして残念ながら、人間、特に男は性欲を完全に抑圧して生きていけるほど進化はしていない。ついでに言うと、戦争をせずに済むほどにも。性産業は左程進化はしていない人間の欲が生んだ仇花なのだ。性風俗を穢れた職業と切り捨ててしまうのは、満たされぬ男の欲望を文字通り体で受け止めてくれる女性達に対する「差別」であるだけでなく、「人間」に対する冒涜であるような気さえしてくる。

考えてみれば、慰安婦には日本人もいる。なぜ外国人慰安婦だけが取り沙汰されて、日本人慰安婦は全く問題にされていないのだろう? 何かこの辺からも、「慰安婦問題」の本質が垣間見えるような気がする。

オレが思うに、もし慰安婦は政府が賠償をすべきなのだとしても、その前にやるべき事があるのではないか。虐待された彼女らは心に深い傷を負っている。その傷をケアし、既に老後を迎えている彼女達が不自由しないよう過ごせる環境を作ってやらなければならない。それを国にやらせる、と言うのが運動の目的だとしても、民間でもある程度の働きは出来るはずだ。「市民の時代」なのだから、国を当てにするより、まず自分達で行動すれば良い。慰安婦の過去をほじくり返し、運動に利用するだけしといてあとはポイ、ではそれこそまさに「セカンドレイプ」だろうと思う。

10月17日

3日分を1度にアップしているような気がするがあまり気にしないで欲しい。

(前略)『タカ派』云々はまるで事実無根だのに……まさか、本当につながっているわけじゃないよな『タカ派』と。だから反論できない?……

と昨日(?)書いたが、考えてみればこの『タカ派』云々の情報自体が怪しい。いったい上杉はどんなニュースソースからこの情報を仕入れたのだろうか。ついでに聞くが、その『タカ派』とはいったい誰の事なのか。上杉の本によればどうやら『作る会』にも金を出しているようだが。だが自民党と言えば、『ゴー宣』信者にとっては、「あの」河野 洋平や「あの」宮沢 喜一のいる党である。その自民党で、『作る会』の趣旨に賛同し、『ゴー宣』に書いてあるような論旨を持っているような議員など、本当にいるのだろうか? もしいるとすれば是非名前を教えていただきたい。オレはその人物を全面的に支持するだろう。

全く現在は、新聞を開けば『従軍』慰安婦の「勇気ある証言」が紙面に踊り、TVを点ければ「旧日本軍の蛮行」がこれでもかと画面に展開される。こんな状況で、「慰安婦はプロの売春婦で、政府による賠償の必要はない。南京大虐殺はその事実さえ疑わしいし、日本軍だけが悪逆非道の蛮族の群れだったわけではない」と口にする事の何と難しい事よ。目指すのは「戦争『ぐらい』できる国」に立ち戻るだけであって、軍国主義、国家社会主義の復活ではない。軍靴などどこにも響いていないし、いくら鼻をひくつかせてもどこもきな臭くなどない。今はまさしく、『マトリックス』で人間が囚われているような、生温い羊水に満たされた繭の中なのだ。

おっと、この日記でこんな事を言ってもしょうがないのだが。

最近小林は『歴史修正主義者』のレッテルを新たに貼られている。『作る会』はまるでフリーメーソン(メーソンに失礼だが)のように陰謀を企んでいるらしい。今まで左方向からばかり光が当てられていた歴史に、右からも光を当ててみようか、と試みる事が『歴史修正主義』なのだろうか。

10月16日

上杉 聰が最高裁に上告した件、あれはいったいどうなったのだろうか? 一向に音沙汰が無い。最高裁判所への上告って、そんなに手間と時間が掛かるものなのだろうか。ところで上杉と言えば、「不細工に描きやがって」裁判を起こしたが、オレが不思議なのは、この訴えを誰も「言論弾圧だ!」と言わない点だ。小林が上杉を訴えたときにはあれだけうるさかったのに。

小林の起こした裁判を、あすか あきおの件の裁判と同列に並べている連中もいるが、あすか あきおの訴えは、要は「オレを批判するのは許さん!」という起訴理由も噴飯物の裁判なのに対し、小林の訴えは「わしの絵が勝手に使われたがこれは著作権侵害じゃないのか」という起訴理由だが、どこかおかしい点はあるのだろうか? マンガ家としては、至極真っ当な訴えとしか思えないが。これで笑うべき起訴理由ならば、上杉の「オレの顔を勝手に、しかも醜く描きやがった」と言う起訴理由も笑うべきだろう。

まあ恐らく、小林が起訴するのは、その起訴理由がなんであろうが、笑うべきであり、言論弾圧なのだろう。そして小林を訴えるのは、その理由が何であれ、真っ当な裁判に違いない。

オレは裁判や法律には全然詳しくないし、好きでもない事をわざわざ勉強して覚える気もないので、今回の上告の見通しはまるで立てられないが、最高裁への上告が棄却、あるいは最高裁法廷でまたも「敗訴」となってしまったら上杉はどうするのだろう。前にも書いたが、だから「醜く描かれて名誉毀損」裁判を起こしたのではないだろうか。小林との「闘い」を続けるため、アイデンティティを保ちつづけるために。違うのなら構わないが、もし当たっているのならば哀れだ。

しかし上杉が名誉毀損で訴えるのなら、小林も訴えてもいいくらいだ。何しろ『自民党タカ派の子分』とか『マンガ家として死んでいる』とか、言われたい放題なのだから。『マンガ家として死んでいる』かどうかはともかく、『タカ派』云々はまるで事実無根だのに……まさか、本当につながっているわけじゃないよな『タカ派』と。だから反論できない?……

10月15日

さて『台湾論』に話を戻そう。

作中、小林にあった許 文龍氏が、「民衆から見た歴史」と言う言葉を口にされていた。そのくだり、慰安婦についての記述があったが、ちょっと思いついた事、思い出したことがあったので書き留めておこう。

戦時中は、「軍隊への支給品」となれば、それは一級品の証しであった。つまり、軍隊は普通の職場より厳しい職務が行われている。そんな職場で、粗悪な品物を使うのは大袈裟に言えば命取りになる。それだけに、品質の確かな品が求められる。それでなくても、軍隊は国家公務員、それも日本軍は「皇軍」である。天皇陛下の軍隊に並みの品物を与えるわけにはいかない。

となれば、変な言い方だが軍隊に「春」を支給する慰安婦は、売春婦の中でもヒエラルキーは高い位置にあったのではないか。性病を持ちこまれたら困るから検査は綿密に行われていただろう。いざ戦闘と言うときに、兵士が梅毒で脳が溶けてたら話にならない。

旧『ゴー宣』第 章で、こんなネームがあった。

「ストレスは女をゴーカンして発散させ」

これじゃ困るのだ。少なくとも近代戦で、こんな兵士がいたら占領政策が根本から揺らいでしまう。バレ次第即刻銃殺でも文句は言えない。女を犯す物は略奪する手当たり次第に殺す、誰がこんな軍隊を歓迎するものか。占領地で現地人とトラブルばかり起こしていては占領する意味が無い。近代戦において、と言うか古代戦から本質的にはそうなのだが、占領とは略奪する場所を作るのではなく、自軍が安全に行動できる範囲を広げる事なのだ。

考えてみれば慰安婦を「従軍」させること自体意味不明だ。「従軍」なんかさせたら糧食は余計に必要になるし、行軍中奇襲を受けたら足手まといだ。行く先々で「現地調達」すればすむ事なのに、わざわざ連れ歩く必要など無いではないか。

「強制連行」のバリエーションで、犯罪の容疑で憲兵に捕らえられ、慰安婦にさせられた、と言う話もよく聞くが、そんな馬鹿な話があるだろうか。例えば取り調べている憲兵に、「オレと一晩寝れば放してやるぞ」と脅されたとか、それならありそうだが、それは「単なる」強姦、権力の横暴であって、売春である慰安婦とは別物だろう。同一視するのは権力の被害者にも慰安婦にも失礼なのではないか。

当時は女性の地位もずっと低く、性は今とは違った意味での「商品」であり、第一人権意識その物が希薄だったのだ。これらを念頭に置かないで、果たして当時が見えてくるだろうか。

許氏との会談を読んで思いついた事、以前からずっと考えていた事を記してみた。

10月14日

今回はこれでカタがつきそうなので、ギャグ論の続き。

「よしりん冊封体制」は日本古代史について描いた時、冊封体制に触れて、「各雑誌の編集長は就任したらわしのところに挨拶にこんかい! わしの権威で編集部をおさめんかーい!」と主張しているくだりのことだ。

小林の「お山の大将」的部分は時折発露されている。前にも「集英社・講談社・小学館・扶桑社が金を出し合ってわしに家をプレゼントしてくれんかな」とぼやいたり、「世相パロディ」のうちにはいるが「不正な献菓子」の回などだ。まあ多少は本音も入っているのだろうけど。

「少年Hをタイホしろ!」は最新巻である9巻に入っているので記憶している人も多いかと思う。資料参照の失敗で知りすぎたキャラになってしまっている少年Hを批判した部分だが、特に後半の、ゾルゲが掴もうとしていた情報まで知っていた少年Hの記述は秀逸だ。

間違い無い少年Hとその父親はゾルゲの一味である!/ソ連のスパイだ!/それなのに逮捕されず戦後まで神戸に住み続けていたのだ!」と少年H親子の生活をのぞきこみながら断定し、「日本が負けたのは少年Hのせいだ」とぼやき、「あっ少年Hって妹尾 河童じゃねーか」と気付いた小林は慌ててこう主張する。「タッ……タイホしろーっ!!

笑った。いまこうして書いていても笑える。最近の『ゴー宣』のギャグの中でも「ちょんまげよしりん」に肩を並べる出来だと思う。

普段の小林は「はいそ敗訴ハイソサエティ」とか、「はにわはおー/めにわめおー/へにわへおー」とか、ベタな駄洒落が多いが(「はにわはおー」はオレは結構好きだが)、今回挙げた例のような、時折盛られる一服の毒は刺激的だ。この毒をして、小林に対する評判を熱烈な賞賛か徹底的な嫌悪かに真っ二つに分かれさせていると思う。もちろんオレはこの毒がたまらなく好きなのだ。時々当たったりはするが。

10月13日(金曜日だ)

『台湾論』からはちょっと離れるが、今回はギャグマンガとしての『ゴー宣』を検証してみたい。

信者ならば、『ゴー宣』でのギャグと言えば「ちょんまげよしりん」が真っ先に思い起こされるだろうが、これはかなり有名になってしまっているし、取り上げている人も何人か見かけているのでやらない。

最近のギャグでオレが珠玉と思ったのは、「広義の強制による漫奴隷」、「よしりん冊封体制」、「少年Hをタイホしろ!」の3本だ。なんだか「んがくっく」と言いたくなってしまったが。

「広義の強制による漫奴隷」は吉見 義明言うところの「広義の強制」に対する小林の反論だが、「えっこれがギャグなの?」と言っているようではまだまだ信者とはいえない。この章は、「広義の強制」という言葉のばかばかしさを見事に表現している。慰安婦問題をパロディ化してしまえるのは小林だけだろう。慰安婦を「パロディ」する時点で許しがたいと思う人もいるだろう。そこもまた小林の狙いかもしれない。冒頭の「わしは広義の強制による漫奴隷なのです」と告白を始めるコマ、マンガ家になったはいいが、がむしゃらに働かなければならなくなり、「ア……アイゴーッ!!」と叫ぶコマ、漫画家の病んだ肉体を描写したコマ、「心からの謝罪を要求しているのだーっ!!」と訴えるコマ、どれをとっても面白い。何より笑えるのは、『ごーまんかましてよかですか?』の直前のコマ「わしだって被害者になりたい!」……『秀逸』と言ってしまいたい。

このタイプのギャグは他の漫画家にはできない。『ゴー宣』、小林 よしのりならではのギャグである。小林のギャグは後述するようにべたな親父ギャグも多いが、この「世界をパロディ」してしまう手法は他の追随を許さない、と言うか真似できないだろう。このタイプのギャグとしては、金 日成の死をパロディした追悼マンガがある。そしてこのタイプのギャグは見抜ければ深いうなずきとともに笑えるが、分からないと何度読んでも分からない、読者を選ぶ笑いである。

このギャグが理解できないようでは、『ゴー宣』を語る資格なし、と言ってしまうのはおこがましすぎるだろうか。

 おこがましいですね。すみません。

 この頁も長くなってしまった。続けてしまえ。と言うわけで、続く。

10月12日

なんだか2日分を1度にアップしているような気がするが細かいことは気にしないで欲しい。

『台湾論』の続き。

「絵でイメージ操作する」小林の手法は相も変わらず健在である。

「英雄」鄭 成功は、数コマしか描かれていないが、割合美男子にかかれている。それに引き換え、国民党軍のみすぼらしさ、惨めさは何事だろうか。本を摘み上げて首を傾げている兵士なんて、まるで猿だ。次のコマではやはり国民党の兵士が、蛇口を家の壁に捩じ込んで「水が出ないぞ!」と怒鳴っている。ますますサルだ。

こんなものを描いたら、国民党が名誉毀損で訴えてくることは間違いない、いや、ほんと。蒋 介石はえらく怖いし……(特に中華民国と中共の旗を選ばせてるコマなんか)

李 登輝氏は、若者の話を受け入れてはくれるが、譲らない、太い柱を内に秘めた老人、というイメージだ。大柄に描かれて、何より、でかいあごがコマの中でも存在感を示している。『SAPIO』に掲載されたとき、初対面シーンのアップではやさしげだったが、『台湾論』に再録されたコマでは生気のある表情に書き直されている。

陳 水扁総統は、『阿扁』のイメージがあるのか、えらく可愛らしい。表情も柔和だ。厳しさと包容力を併せ持つ李氏の顔とは対照的だ。前総統と比べると、頼りなくさえ感じてしまう。もっとも陳総統も家族がテロにあったり、政治活動によって逮捕されたりしているのだから、ただの温和な人物ではないだろう。逆にそれだけの波乱に逢いながら、この温かみのある顔ができる時点で只者ではないかもしれない。

台湾人、及び台湾に貢献した日本人は生き生きと描かれ、野中 広務やサヨクのひどい描かれようったらない。まるで野中やサヨクが「間違っている」ようではないか。まさに「イメージ操作」の真骨頂である。小林 よしのりでなければ出来まい。

それにしても、長谷部氏は悪い遊び教えてくれそうだ。

10月11日

早くも『日記』ではなくなってしまったが、まあご容赦していただきたい。人に謝る態度ではないな。

11日に『台湾論』が発売された。『戦争論2』を後回しにしてまで出版した本である。本屋でぱらぱらと立ち読みしてみたが、飛ばし読みしても面白さ、作者の情念が伝わってくる。早速買ってしまった。本屋を出てファミレスでコーヒーを飲みながら1回、帰りの電車で1回、帰って家で1回、その日のうちに計3回読んでしまった。信者ならではの行動である。

構成としては、3/1が『SAPIO』連載分、残りが書き下ろし、プラスカナモリ秘書の旅行記、と言ったところである。李登輝氏との対談で『これを書くとなると本丸々1冊は掛かるんだよな〜』と小林は書いていたが、その通りに丸1冊本を出してしまった。

中でも圧巻だったのは、最も多くの頁が割かれた『台湾の歴史』である。

『国姓爺』鄭 成功の事は知っていた。高校の時に国語の参考書に『国姓爺合戦』の事が書いてあって、『心中物』のイメージがあった近松 門左衛門が英雄譚を書いていたのか、と驚いて印象に残っていたのだ。ただ、舞台が台湾だったか琉球だったかあやふやになっていたので、今回確認できたのである。

台湾への植民について言えば、「善意」の植民なんてあるわけが無い。第一、善意があって植民なんてしないだろう。領土拡張、資源確保、これらの下心無くて植民を行うはずが無い。ただし、同じ植民でも、欧米列強が行っていたよりも日本のそれはましだった、と言っていいと思う。欧米が植民地を搾取の対象と見做し、現地人を奴隷として扱っていたのに対し、日本は差別はあったにせよ(日本人が朝鮮人や支那人に対する差別心は今だってある)、人間扱いはしていただろう、「同化政策」のためとは言え教育は与えていた、現地人に初等だけにせよ教育を与えるような植民地政策を採っていた国がほかにあるのだろうか。(あれば教えてください)

「植民地」も現在の感覚で言えば、他国を意のままに従わせる、と言うのは「悪」に感じられるが、これは友人Sが言っていたのだが、「ベトナムが今のようなある程度の繁栄を遂げているのは、フランスによってゴムの木をもたらされたからだ。つまり商品作物があったからで、こうなると『植民地』=『悪』と言えなくなる」。要するに、ある事柄を捕まえて「悪だ!」と断罪するのは簡単だが、そう大雑把に物事は割り切れない、ということである。

『台湾論』に関しては、もうちょっと続けてみる事にしよう。

10月9日

この『日記』は、『藤原日記』なんてえらく雅なタイトルだが、まずは『ゴー宣』を読んでの感想、『ゴー宣』にまつわる様々な事象のウォッチング、これらを中心に書いていこうと思っている。オレの日常生活を人様に公開したところで、面白がってくれる人はあまりいないだろう。

オレは頭が良くない。勉強も嫌いだ。インターネットを見てると、博学さを御開陳なさっている方々がいるが本当にどこで勉強してくるんだろうと思えるほど物を知っている。そこまでの熱心さはオレには無い。

本来、己の感覚によって世間の「ここが変だ」と思えるところに突っ込んでいくのが「ゴーマニズム」である。それは確かに「ごーまん」だ。知識でも理論でもなく、「感覚」でものを言うのは。だけど、考えてみれば膨大な知識や精緻な理論も「納得」出来なければ意味がない。伝わらない。

こうしてみると、オレは確かに『馬鹿弟子』なのだろう。これはまさしく『ゴーマニズム』だ。ここまで刷り込まれている。オレに掛けられた洗脳はちょっとやそっとじゃ解けないぞ。オレの感覚で行けば、『ゴーマニズム』は納得できる。「ごーまん」だけど、これでやっていくのだ。

10月8日

書き忘れていたのだが、126章で「地道に働く人々こそが日本を支えてきた」というくだりに関して、思うところがあったのでちょっと書きとめておこう。

同じ『SAPIO』で連載をされている大前 研一氏や落合 信彦氏は「会社にすがる生き方ではこれからの社会では『負け組』になってしまう、自分の力を信じ、己の足で歩いていく覚悟が必要だ」と『SAPIO』読者であるサラリーマン層に向けて主張する。だがオレは正直、「そうは言うけど」と思っていた。大前氏や落合氏はそうやって生きてきて、そして成功を収めているから「自分の力で生きろ」という物言いも出来るのだとは思う。両氏のような生き方をしている人もいるだろう。

 だが皆がみんな、一人で生きていけるかというと、そんな強い人間はめったにいないだろう、と言う気がする。だからこそ大前氏や落合氏のような人物は世の中で際立つのだ。組織の中でしか生きられない、一人では何も出来ないが、組織の中でならば才能を遺憾無く発揮できる、そう言った人間もいる。世の中の人間全員が全員、個人主義で生きてはいけないと思う。

以前からこの疑問は考えていたのだが、126章で絵解きしてくれていたので、オレも書いてみた。

10月7日

『YAHOO!』掲示板の件のトピック、前回言い忘れていたのだが復活していたのだ。一旦は削除されたのだが、『小林敗訴祭り』を続けたい連中が復活させた。しかし、削除される前は否定派肯定派入り乱れての論戦で、レスも3000を超えていたのに、復活したはいいがろくに書き込みがない状態なのだ。第一、削除される直前はほとんど書き込みがなく、リストラに会う時点で、そのトピックの役目はもう終了していると言っていいのだから仕方あるまい。僅かな書き込みも否定派が、何とか削除されまいと細々と続けているのだ。

ところが、昨日オレの文章を批判する書き込みがあった事は書いたが、それを巡ってさらにレスがついている! どうやらオレは、彼らにとってつぶすべき標的の一つになったらしい。なんだか愉快だ。当然、ラスボスは小林本人だろうけど、オレはまあ中ボスの一人にはなっただろう。そう見なされているのはなんかこうわくわくして来さえする。

それにしても、潰れかけのトピックが、オレの文章のおかげで活性化しているのだから、トピックマスターと投稿者はオレに感謝するように! もっともオレの文章の批判と言っても、オレの文章そのものよりは、解釈の食い違いをめぐっての喧嘩なのだが。置いてきぼりを食らっているようでちょっと寂しい。それにしても同じ『否定派』でも、必ずしも意見が一致する、と言うわけではないらしい。

10月6日

おおっと! 今ヤフー掲示板見たらオレのコンテンツ紹介してくれてるでないの。嬉しいねー、また知らないところでファン増やしちゃったかな。しかしオレが書いた3つの文章のうち、「『脱ゴー宣』裁判論争巻き込まれ顛末記」と「著作権運動家に告ぐ」しか紹介してくれてない。「猛々しき盗人へのレクイエム」のほうが、余程口汚く書いてあるのに。

書こう書こうと思っていた『ゴーマニズム宣言』9巻と『SAPIO』10/11号の第126章の感想、遅くなってしまったがこの日記を始めたついでに書くことにしよう。

まず9巻。

西尾、西部との鼎談、石原、小堀との対談が面白い。鼎談は西尾と西部ばかり喋っていて、小林は時々口を挟むだけで存在感なし。この2人相手では仕方あるまい。いっそ西尾と西部が『戦争論』をネタに対談、でもよかったような気がする。石原はやんちゃぶりが格好いい。小堀は名前だけ知っていたが、小林の言葉を真摯に受け止め、投げ返してくる。失礼ながら、なかなかチャーミングな方であった。

全体としては、一段落ついた「教科書問題」から「台湾編」へのインターミッション、と言う雰囲気である。 宣伝では大きく取り上げられていた「著作権裁判」は、それについて書いた2章をそのまま掲載しただけで「問答ウォーク」などのコラムは特になし。どうやらこの問題は「終わった事」にしたいらしい。

 この9巻が発売された当日、朝刊を見るとあの坂井 三郎氏の訃報が。『ゴー宣』発売日に亡くなられた事に何かの感慨を感じたのは、オレだけだろうか。

126章。

確かに台湾はコンピュータの世界市場を左右する存在のようだ。この回を読んだPuイーターはしきりにうなずいていた。彼によると、確かに台湾地震によって、シリコン市場が高騰したらしい。果たして、小林の台湾への「恋」は一人相撲に終わるのか、はたまた実るのか。最初は「なぜ台湾?」と思っていたのだが、確かに今、台湾は「熱い」! 一度行ってみようかな。食べ物おいしいらしいし。

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