藤原日記11月分

20日

前に見た326のイラストに、こんなメッセージが書き込まれていた。

「束縛でもケータイしなきゃ、『自由』に殺されちゃうよ」

326は前NHK福岡が作ったドキュメンタリで取り上げられてて、「福岡で今人気の路上アーティスト」として紹介されていた。全国的に大ブレイクする前の話で、当時からあの絵と、メッセージで表現していた。これは人気が出そうだな、と思っていたが、ここまでブレイクするとは、思ってもみなかった。

オレはあまり人気が出てしまうとどうでも良くなるので、今326からは距離を置いている。福岡だけの人気でいてくれれば良かったんだが……

何の話をしてたんだっけ? 

うろ覚えなので、正確に引用できないが、たしかこんな意味の事を書いてたと思う。

今ほど、『自由』や『個性』が尊重されている時代も無いだろう。しかし人間は完全に自由に生きられるほど強くはできていないようだ。やっぱり、『他人』は必要なのだ。『束縛』が欲しいのである。しかしそれは『接触』としか呼びようの無い束縛でしかない。触れ合うだけ。交じりはしない。まさに表面上。「ピュアな人間関係」、か。

最近携帯の付加機能として、メールが受信できる機種が増えているが、よく考えると、不思議な使い方をしている。メールが届くと着信音が鳴る。そしてすぐさま確認する。オレから見ると、首を傾げる光景だ。

電子メールの特徴は、電話の簡便性と、手紙の応時性、手軽に送れて、好きなときに読める、のが利点だったはずだ。いつでも読めるのに、なぜ来るが早いか目を通さなければならないのだろう? オレはパソコンでやってるので、プロバイダのサーバに貯めておけるけど、携帯ではそうはいかないのか? 着信してすぐ読まないと、次のが来たら消えてしまうんだろうか。メール来るなり読んでいるのを見てると、そうとしか思えない。

オレは携帯は持っていない。掛ける相手もいないし、掛かってくる事も無い。外出歩く仕事でもないし、携帯を持つ意味が全く無い。だから持ってない。持ったら東京プリンの『携帯哀歌』その物になってしまう。♪電話を作ったエジソン憎い〜か。電話を作ったのはベルなんだが。

まあオレもあんまり人のことは言えないか。こうしてHPを立ち上げて、人様に見せられるようなレベルではない自己満な絵や文章をさらしているのも、「評価」が欲しいからである。「うまいですね」でも「下手だな」でもいいから、反応が欲しいからやっている。オレはこの手段があるから、携帯は要らないのかもしれない。

まあこの高度情報化社会で、今はITと言ったほうがいいか、情報を遮断して生きるのも一つの生き方だろう。オレの友人で、電話(有線)さえ持たずに暮らしていた奴がいた。そいつは単に金が無かったんだが…今日日…悲しすぎる…それは……

19日

 うーむ、いかん。

 1週間も更新を怠っていた。

書こうと思う事はたくさんあるのだが、一辺でも書かないと、つい怠けてしまう。オレが作家にはなれないな、と思っているのはこの辺であって、見事なまでに集中力が欠けている。「趣味」であっても、毎日はやれないのだ。まあ「仕事」にすれば、気が乗らないとかたるいとか言ってられないからやるかもしれないが。

言い訳はこれぐらいにして。

オレはSF者を自認しているが、大して古典は読んでない。精々ウェルズの『タイムマシン』とか『モロー博士の島』とかぐらいである。古典と言うよりは「基本」か。『ボッコちゃん』は読んだけど『日本沈没』は読んでないし。

さておき、これではいかんなと。『伝統』を知らずして、『新境地』は拓けまい。手始めに、ホーガンを読んでみることにした。創元SF文庫『星を継ぐもの』である。知ってる人は知ってると思うが、『ふしぎの海のナディア』の最終話のサブタイトルの元ネタは、これである。

面白かった。思わず徹夜して読んでしまった。

人類発祥の秘密は月にあった!? 月で発見された10万年前の人間の死体が発端となり、文字通り謎が謎を呼び、解き明かされた秘密はさらに深い疑問となる。ストーリーはこんな調子で、人類の起源が、パズルのように解き明かされていく。この小説が書かれたのはもう40年前のことだが、全く色褪せてない!

オレは本を読むときには「ノリ」が必要だと思っている。新しい本を手に取るとき、導入部でオレをのせてくれるか。因みにいま話題沸騰の『ハリーポッター』、オレは読んでいない。第1作の『賢者の石』を少し読んだところで、止めてしまった。のれなかったのである。

『星を継ぐもの』は、オレを最高にのせてくれた。もう最初から最後まで、「超ノリノリ(古いか)」だったのである。逆に言えば、それだけの力があるからこそ40年経った今も読まれているのだろう。

オレも物書きならば、それぐらいのパワーを持った作品を物にしてみたいが、できるだろうかなあ。

しかしまだ1冊読んだだけだ。これでSF者を名乗っては福島 正美が怒るぞ。しかし面白かったなぁ。次は何を読もうかと思ったら、なんと続編があるではないか。やれ嬉しや。次は『ガニメデの優しい巨人』を読んでみよう。

18日

前回の前置きの福田 和也の話を蒸し返すが、1000字でまとめる、と言うのは1つの話題を1000字でまとめる、と言う意味であって、こうして延々2回も3回も、『国民の道徳』について書いたときにはたしか9回、つまり9000字、原稿用紙にして20枚は書いたのか。こりゃすげえ、いやそんな話ではなく、つまり1つの話題を1000字でまとめられないのだから、文章の練習になっていないんじゃないの、にしてもオレはこうして本題と関係ない話題で始めるのが好きなようだ。いいじゃん落語だって「枕」ってのがあるんだから。けど枕は本題とまだ関連あるからいいけど、オレの枕は全くないからいかんのだ。

と言うわけでまたも読者を混乱させ、字数を稼いで本題。だからその稼いだ字数を本題に回せっての。

図書館に子供を連れてくるな、と言う理論を展開しようとして、図書館に子供を連れてくる有効性に気付いてしまった。

つまりこうだ。

図書館には本がある。貸すほどある。特に児童書は、子供の目を引くような表紙になっている。そりゃ当たり前で、子供の目を引かなきゃ売れない。さておき、目が引かれれば当然手にとって、中身を見たくなる。ぱらぱらとでもめくっても、何か目に止まる物、絵でも文章でもいい。絵を見る事は鑑賞眼を養うし、文字を読めば当然国語教育の第1歩である。まだ字が読めない子供は、読んでもらえばそれもやはり国語教育の一環である。人間は言葉で考える。であれば、国語教育は思考能力、論理性、ひいては情操の発達にもつながるのだ。

ありゃりゃ。子供を図書館に連れてくるのはいい事尽くめではないか。サルが人間になれる場所なんじゃないか図書館は。

ここまで来たら言ってしまえ。オレが「餓鬼図書館に入れんな」論を展開しようとしたのは、図書館では落ち着いて本を読みたいからである。子供を図書館に連れてくるのはいいが、図書館は本来、ゆっくりと本の世界に浸る場所であったはずで、騒音はそぐわないはずなのだが。

前に言ったかもしれないが、子育ては「親」の義務である。餓鬼を人間らしくさせるのは親の務めのはずだ。図書館は公の場ではないのか。そこではせめて餓鬼に人間の皮をかぶせておいて欲しいんだよ。

本を読むのは一向に構わないが、餓鬼一人静かに出来ないんだったら、外に出ていただきたい。子供と体を使って遊んでやるのも立派な教育なのである。

えらく説経めいてしまったが、図書館に子供を連れてくる事の意義を図らずも見出してしまったが、少なくとも、図書館は『餓鬼の遊び場』じゃないだろう。オレは静かに本を読みたいのである。

17日

以前、『ダ・ヴィンチ』で福田 和也が「プロになりたきゃ1日1000字程度のコラムを書くといい」と書いていたので、こうして日記形式で文章の練習をしている事は前に書いた。しかしこんなふうに一遍にまとめて書いてたら意味ないような気がしてきた。運動でだって、例えば腕立て伏せ1日100回1週間やるのと、1週間のうち1日だけ700回やって、後の6日間は休んでいるのとでは効果はまるで違うだろう。無論効果的なのは前者だが、養老先生じゃないけど、脳とて筋肉と同じ器官なのだから、毎日少しずつ鍛えた方が効果的なのではないか。いや、ハードはそれでいいとしても、ソフト、精神はどうなる。同じシステムでも、MS−DOSを入れるか、Winにするかで扱い方はまるで違ってくるだろう。

こうして関係ない話を延々続けて読者を混乱させるのは悪い文章の見本です。文章を書いてみようと思っている皆さんは真似しないように!

では本題。

図書館はいつの間に託児所になったんだ。

ひどい親になると自分は悠々と本を読んでて、子供はその辺走り回っていたりする。子供と言うのは親に自分を見て欲しいものだから、親の目がこちらに向いていないと奇声を発する。人がせっかく高尚な本を、いや読みゃしないが、本の世界に没頭しようとしているところへ南米のサルが雄叫びを挙げるものだから我に返ってしまう。でなきゃ走り回り、いつ転ぶかどこかにぶつかるか、見ていられない。いや、危ないからなんて殊勝な心がけではなく、単に転んだら泣いてうるさいからなんだけど。まあ一辺痛い目見てみればいいのかもしれない。

「幼い頃から本に触れるのが大事」らしいが、冗談じゃない。幼い頃に本を与えたらオレみたいに子供の時はいやな餓鬼で、大人になっても大人になれない人間になってしまう。幼い頃から本に触れてきたオレが言うのだから間違いない。

はっきり言う。図書館は餓鬼の遊び場ではない。

図書館に児童書があるのは否定しない。図書館は冊子体情報の集積場であり、であれば、対象年齢や、思想、言語、娯楽か教育かで差別して収書するのは図書館の存在意義にもとる。極端な話、図書館にはこの世で発行された全ての書籍があるべきなのだ。国会図書館は日本で発行された本をことごとく所蔵する事を方針にしているようだが。と言うわけで児童書が所蔵されているのは当然だ。

しかしそれは親が選ぶ為にあるのだ。どうせ子供を連れて来たって、『きかんしゃトーマス(原作ではなく人形劇の絵本の方)』とか『アンパンマン』とかしか選ばない。それも本を読むことにはなり、知識、情操、両面の教育になる、と言う気がする。いかん、「図書館に餓鬼連れてくるんじゃねえ」論を展開しようと思っていたのに、話が変な方向に行こうとしている。以下次号。

16日

出張、職場の旅行とたてこんでいたもので日記の更新ができんかった。

スポーツの世界では1日休んで衰えた筋肉は1ヶ月掛けないと取り戻せないと言う。そしたら1ヶ月休んだら3年は鍛え直さないといかんわけか。スポーツやっとらんで良かったわい。文章も1日休んだら衰えたりして。数日休んでるから、半年は鍛え直さないといかんのか。

まあ衰えてるかどうか、書くだけ書いてみよう。

いつから図書館は餓鬼の遊び場になったのか。

調べ物をする必要もあるので、と書けば聞こえはいいが、実際はいりもせん情報を頭に詰め込んでいるだけ、いや詰め込んでいるのならいずれ役に立つかもしれないが、詰め込んだ端からぽろぽろとこぼれているのでは詰め込んだ事にはならない。えーと何の話をしていたんだっけ。図書館に勤めている友人もいるし、図書館にはよく行く。

オレは大学で司書課程を取っていたのである程度は分かるし、友人からも聞いたのだが、最近の図書館は子供にきてもらえるよう努力しなければならんそうだ。道理で最近図書館で子供をよく見るのだが……

変な話だ。

オレは図書館は「文化施設」だと思っていた。文化施設は図書館の他に、美術館とか、演劇場とか、体育館も入るかもしれない。体育館はそりゃ走り回るところだとは思うが、それにしたって餓鬼がわめく場所ではないだろう。美術館で餓鬼に泣かれりゃ不快だ。劇やコンサートを演じている場所に子供は連れてこまい。

なぜ図書館だけ餓鬼にこびる必要があるのだ?

第一、字も読めない、いや言葉さえろくに操れない餓鬼を図書館に連れてきて何をさせようと言うのか。図書館は本を読む場所じゃないんかい。

オレが通っていた大学の教授がいい事を言っていた。「馬を水辺に連れてくる事は出来る。しかし水を飲ませる事は出来ない」。いくら図書館に連れて来たって、当人に読むつもりがなけりゃ100万遍来たところで1ページも本を繰りはしないだろう。

長くなったので例によって次回。

15日

さて「藤原 亮一」という別人格を作り、『ゴーマニズム研究会』を旗揚げしたオレですが、だーれもこない。掲示板に書きこみも無いし、メールも来ない。あれー? 『ゴー宣』について、アンチが噛み付きやすそうな文章を書いてみても、食いつく気配無し。坊主に拍子抜けしてしまい、『研究会』は閉鎖。

その後も『DIVE』で藤原名義でこうして日記を書き綴っていたのですが、別名義で書いてて、特にメリット無し。一々「私はPU」「オレは藤原」と言ってるのもめんどくさくなった。

なので、こうして同一人物だと言ってしまうわけです。

とりあえず、『藤原』の名前はまだ使うつもりです。ドメイン名が~pu-labなので『プルトニウム研究所』のタイトルを外してしまう事も出来ず、いや変えてもいいけど、せっかく相互リンクしてくれたほかのサイトに忘れられてしまうかもしれない。いや実はお知らせするのがめんどくさいだけなんだけど。絵や小説は『Puイーター』で。このHN、高校時代に作ったんだけど気に入ってるんですよ。『藤原 亮一』はエッセイとか、後この日記もまだ続けようと思うので、使う事にしましょう。要は栗本 薫さんが中島 梓名義でエッセイを書くのと同じと思っていただければ。栗本さんと、『魔界水滸伝』と、『天狼星』と、「同じ」だとはえらいくちはばったいけど。

どちらかが気に食わなくなれば統一するかもしれない。別のHNを作るかもしれない。いっそ本名にするかもしれない。うーむ、なんか気楽だ。そのせいか文面までお気楽になってしまっている。浮ついてる事。まあいいさ。

てなわけで心機一転とは言いたいが、特に何が変わるわけでも無し。これからも1日1000字をめどにいろいろ書いていこう。と言いつつ3日分1度に書いてるけど。

まとまらぬままに、これからも『Puイーター』と『藤原 亮一』と『プルトニウム研究所』、及びこの日記、どうかよろしく。

11月14日

栗本 薫と中島 梓。

まあこれで分かる人は分かってくれるだろうけど。別にばれてもどうと言う事は無いし、バレバレかもしれない。だから言ってしまおう。

Puイーターと藤原 亮一は同一人物です。

果たしてモニタの前でひっくり返ってしまった人とどうも無かった人と、どれぐらいの割合になってるのか。

いっときますが「藤原 亮一」も本名ではありません。また実在する「藤原 亮一」さんともなんの関係もありません。いっそ本名を明かしてしまったほうがいいのかも。 弁護士も言ってたが、匿名性が本領のWeb上では、逆に本名を出して勝負するほうが強い、とも思うが、残念ながらその勇気はありません、あしからず。

なんで「藤原 亮一」というHNをつけるに至ったか。

まあ『顛末記』にも書いたんだが、オレが『プルトニウム研究所』を立ち上げて、まだ違和感はあるな。Puと藤原は別人と言う設定だったから。藤原として文章を書いているときに、Puとしてやったことを「オレがやった」と書くのは。まあさておき。初めての反応がアレだったわけで、ちょっとショックだった。

『ゴー宣』にかかわるとろくな事が無いと。

Puとして『ゴー宣』について書くのはやめとこう、と怖気づいてしまったわけです。

文体も藤原とPuが交じってるな。「どう違うんだ」といわれても困るけど。

とまれ、しかし一応は『ゴー宣』信者でありますから、『ゴー宣』について書きたくなったりしたわけで。けれどPuの名前で書くと、またあんな反応をされたら。あ、そうだ、じゃあ別人として書けばいいや。Puが割りとおとなしめに書いて、『ゴー宣』について書くキャラは少々噛み付くような書き方にしよう。名前はどうしようか。父方と母方の祖父から半分ずつ借りよう。

と言うわけで、「藤原 亮一」が誕生したのです。

しまった、長くなった。以下次号。

13日

前回『ホットショット2』の話をしたんで、映画の話をまたする。

日本だとパロディ映画が作られる事はあまりない。日本ではパロディはあまり評価されない。1つヒット作が出ると、明らかに2匹目のドジョウを狙ったな、と思える作品が続出するのに(『エヴァ』がブームになった後キャラクターの心理にスポットを当てた作品が多く出たように)、露骨なパロディとなると、少ない。精々バラエティでやるぐらいだ。

それに引き換え、さすが映画の国と言おうか、アメリカではパロディが多く作られている。この『ホットショット2』もそうで、主演のチャーリー・シーン演じる主人公は明らかにランボーだし、話自体は『地獄の黙示録』、その他『氷の微笑』や『トップガン』など、本作を知っていれば思わずにやりとし、知っていなくても笑えてしまうシーンがてんこもり、である。

そう、『てんこもり』がアメリカのパロディ映画のキーワードなのだ。

1つの作品だけでなく、新旧のヒット作を詰め込み、徹底的にギャグの波状攻撃を執拗に行う。例えば、『チキン・パーク』と言う映画があるが、タイトルを見れば分かるように『ジュラシック・パーク』のぱくりだが、なぜか『アダムスファミリー』も入っていたりする。

ハリウッドのすごいところは、パロディ映画にもスターがいる、というところだ。レスリー・ニールセンはその代表であろう。ニールセンは『裸の銃を持つ男』(これ自体007シリーズの『黄金銃を持つ男』のパロディだ)シリーズ(このシリーズは2作目が『21/2』、3作目が『331/3』。このセンスもいいなー)が有名だが、『スパイ・ハード』と言う映画も主演している。無論『ダイ・ハード』のパロディなのだが、この映画に出たとき、ニールセンは70を過ぎていたらしい。よくもまあ出演したなと感心する。

あとなぜか登場人物(?)が全員親指と言うパロディ映画もあって、『親指タイタニック』や『親指スターウォーズ』があったりする。

ギャグパロディだけでなく、エロパロディも盛んだ(これは日本のAVにも言えるけど。お国は違えどエロは強い)。『時計仕掛けのオレンジ』をもじった『時計仕掛けのオージー(「オーストラリア人」のこと。だけどオーストラリア人は全く出てこない)』とか、『タイタニック』のパクリ『パイパニック』がある。この『パイパニック』は邦題で、英題は『バイタニック(Bytanic)』。これは原作にもあった3角関係を、バイセクシャルにしてエロにしたからだけど、邦題には逸話があって、TV朝日系の深夜番組『トゥナイト2』でエロパロディ映画特集をやったとき、リポーターの北野 誠が映画を輸入している会社に取材していたとき、ちょうど当時『タイタニック』がブーム全盛期で、北野が「もし『タイタニック』のエロパロディがあったら邦題は是非『パイパニック』にしてくれ」と頼み、実際、『タイタニック』のエロパロに『パイパニック』の邦題が付けられた、めでたしめでたし。別にめでたくはないか。

ちなみに『パイパニック』のコピーは「あなたの股間もデカプリオ!」秀逸だなぁ。身も蓋も無いといっちゃそれまでだけど。

最後になるが、『ホットショット2』にはあの『Mr.ビーン』ローワン・アトキンソンも出ている。Mr.ビーンを演じる前のアトキンソンが見れるぞ。と言っても、特に何が変わっているわけでもないが。

12日

『唯脳論』養老 孟司先生はクモがお嫌いらしい。釣りをしていて、「クモヒトデ」を釣り上げてしまい、一目散に逃げ出したと言う。じゃあ養老先生はこの映画を見たらえらいこったろうな、と思える映画をこないだTVでやってた。『ザ・スパイダー』と言って、まあ内容はそのままで、宇宙人(……)の遺伝子を組み込まれて兵器として開発された殺人グモが巨大化して、人間に襲いかかる、と言う設定からしてしょぼさ爆発なのだが、実際に見てみると輪をかけてしょぼい。

巨大化したクモは当然SFXなのだが、CGで描かれている。それがへたくそなCGで、画面から浮きまくっているのだ。このクモは人体に卵を産み付け、それが体内で成長し、宿主の体を引きちぎって飛び出してくる、と言う生まれたときから捕食活動をするクモの習性など全く考証していない、『エイリアン』をパクっただけやんけ、『エイリアン』は腹を突き破って出て来るけど、こっちは体をばらばらにしてでてくる事で差異化しているのかな、と言う設定なのだが、飛び出してくるとき人体がばらばらになるシーンは飛び散る肉片がちっとも肉片らしくなく、『ホットショット2』の凍って砕けるフセインの方がよっぽどよくできてる(『ホットショット2』自体が作り込まれてていい映画だけど)と思えてしまう。

当然のようにストーリーもしょぼくて、クライマックスはクモを主人公2人が軍のヘリコプターを操縦しロケット砲で狙うのだが、主人公達は大学生なのである。とりあえずこれ以上書くのはよそう。さらに言うと、巨大化したクモに群集が逃げ惑うシーンがあるのだが、何人かはクモに捕食されて死ぬのだけれど、どういうわけか、クモに踏み潰されて死ぬ人間は1人もいない。実に器用にクモは人のいないところに足を運ぶのである。

この映画は『日曜洋画劇場(淀川 長治フォーエバー)』で放送されたのだが、本編が終了した後、何と、続編『2』の予告も流したのだ! ただでさえ人のはいらなそうな映画なのに、『2』を予告して何を企んでいるのか。そもそも第1作を日本で公開したのか。今思い出したけど、『2』の予告には「近日公開」とも「『洋画劇場』で放送!」とも書いてなかったな。何のための予告編だったのか。ビデオだったりして。ビデオと言えば、第1作のビデオが、近所の『TSUTAYA』で貸し出していたのだが、何と放送は貸出開始の2日後だったのだ! ここまでしょぼさを極めると最早すがすがしい。

こうやって見ると、こりゃ養老先生でも怖くなさそうだ。よっぽどクモが嫌いで、小指の爪ぐらいのクモでも逃げ出す、と言うぐらいのクモ嫌いでもないと怖くないかも。それでも「クモ」以上の怖さはないと思う。おすぎじゃないが、「私にだまされなさい!」と言いたくなった。ほんとにだまされるから。

11日

裁判が普段暮らしている上でそんなに身近でないように、以前からの友人でもない限り、弁護士と懇意にしている人もあまりいないと思う。

いしかわ じゅん『鉄槌!』の続きだが、前述のように訴えられ、闘うことにしたいしかわは弁護士を雇う事になる。現在いしかわは弁護士の友人も何人かいるようだが、この時は弁護士に会うのも初めてであった。

弁護を依頼し、裁判が始まったのはいいが、裁判と言うものが全く見えてこない。被告であるにもかかわらず、いしかわは尋問が行われるまで裁判所に1度も行かないのだ。

我々は弁護士と言うものに、子供が教師に対するような畏敬(今はそんな事はないか)を抱くものであるが、『鉄槌!』を読んでみて分かるのは、学校を卒業して、教師もただの人間だとわかるように、弁護士もただの人間、一職業でしかないと言う事だ。いや、弁護士としての能力以前に、「人間」としてなってない、と言う弁護士さえいる。石川が当たってしまったのは正に「なってない」弁護士だった。

いしかわは裁判の動向を弁護士から来る文書で知るだけ。質問しようにも、素人が口出ししていいのかと懸念し、何も聞けない。だが考えてみれば、これもおかしな話ではある。被告とは言え、素人であるのだから、裁判がどう動いているのか、弁護士は報告する必要があるのではないか。無論質問にも答えなければならないだろう。素人をだまくらかして勝手に仕事を進めるのは「アカウンタビリティ」の風潮に反すると思うのだが。さらには弁護士が途中で交代したにもかかわらず事務所はいしかわにその旨を伝えていないし、なんと最初に担当した弁護士はいしかわから依頼料をぼったくっていたのである! いしかわの感想では、自分に着いた2人、一緒に被告となった出版社の弁護士、及び原告側のバス会社の弁護士、4人が4人ともろくなものではなかったらしい。

一応勝った形にはなったものの、いしかわにとってはなんとも後味の悪い裁判だったようである。いしかわは司法に関しては(立法も行政もだろうけど。後ついでにパソコンも)素人である。弁護士や検事と言ったような司法のプロではなく、素人が書いた裁判顛末記である。訴えようと思っている人、訴えられてしまった人は、読んでみると面白いかもしれない。

10日

大抵の人は『裁判』なんて物には縁がないだろうし、精々傍聴するぐらいで、実際原告席、あるいは被告席に着く経験はした事がないだろう。民主主義の3権分立、行政、立法、司法。この中で司法がもっとも市民の生活に縁遠い気はする。しかし、被告席に立つ事になることがあるかも分からない。

いしかわ じゅんが『鉄槌!』と言う本を角川から出した。いしかわはオレの好きなマンガ家なので読んでみた。いしかわはマンガ家だがこの本にマンガは4ページしか掲載されておらず、後は全て文章、挿絵一枚もなし。

いしかわが友人達とスキーに行って、車が故障してしまい、帰りはスキーバスで帰ることにした。停留所に着いて、いしかわらは用を足すためバスを一旦降りた。用を足す事は運転手に告げてあった。にもかかわらず、戻ってきたときバスはすでに出発してしまい、影も形もなかった! 吹雪の中、取り残されてしまったのである。

その後やってきた別のバスに乗り、どうにかいしかわは乗っていたバスに追いついた。しかし運転手からも、バス会社からも謝罪の一言もなし。

ここまで読んで、いしかわがバス会社を訴えたのか、と思えばさにあらず。

いしかわはこの顛末をエッセイマンガに描いた。「2度と利用しねーからな!」と怒りをあらわにして。すると、バス会社が「虚偽を捏造されて社名と信用を傷つけられた」と名誉毀損で訴えてきたのである!

いしかわは結局受けて立つ事にし、裁判が始まった。この本はこの「スキーバス事件」裁判の結審までをレポートしている。内容は被告の視点から書かれているので、「オレは間違っていない、バス会社が全面的に悪い!」と言う論調なのだが、確かにいしかわも述べているように、嘘をついてこのバス会社を貶める理由や利益はいしかわにはまるでないのだし、いしかわの友人らの証言もあるのだから、いしかわの主張の方がバス会社の主張より説得力はある。

この「スキーバス事件」は、オレは寡聞にして知らなかったのだが、マスコミで何回か取り上げられたので知っている人もいるだろうし、すでに結審しているので言っても構わないだろうけど、裁判は和解が成立し、バス会社は訴えを取り下げ、いしかわに「口頭で謝罪」で決着がついた。つまりいしかわの勝利、となったわけだが、この顛末記から感じられるのは、「勝利の喜び」ではなく、「裁判の不可解さ」である。

長くなりそうなので次回に続く。

9日

しかしまあふんぎりの悪い事だが、『国民の歴史』でまた思いついたので書く。

文中『体罰』について言及した個所があった。体罰は『権利』ではなく『義務』なのだと。体罰そのものではなく、体罰を権利と考える親や教師をこそ問題にすべきなのだと。

このくだりからオレが思いついた事。

育児・教育は権利ではなく、義務なんではないか。子供を産むのは確かに親の権利だろう。産まない権利もある。しかし、子が生まれたら、それを1人前の人間にしてやるのは親の義務であるはずだ。無論、完璧な人間などいるはずがない。だが、「せめて、人間らしく」しなければならない。

オレは人の親になった事がないので分からないが、親の目から見れば子供はそれはかわいいのかもしれない。しかし、他人の目から見れば、ただの餓鬼だ。荒俣 宏が言うように、子供は『餓鬼』や『小僧』と言った言葉で表されるように、人間以外、言ってしまえば『妖怪』にしか扱われないのだ(『一つ目〜』や『豆腐〜』がいるように、『小僧』も妖怪である。なぜ『小僧』が妖怪になったかといえば髪を剃り落とした異様な姿が「人間以外」に見えたのである。そういえば、同じ僧侶を表す『坊主』や『入道』を名前に持つ妖怪もいる。この辺は荒俣の本を読んでいただきたい。閑話休題)。

本来、妖怪でしかない『餓鬼』は人間にならなければ、世の中で生活する事を許されなかったはずである。だが今は『餓鬼』は人間にならなくてもいい、妖怪のままでいい世の中らしい。今はだいぶ姿を消したようだが、なるほど山姥が跳梁跋扈したはずだ。今世の中にいる人間だとて、本当は妖怪なのかもしれない。化けの皮を被っているだけなのかも。だがここは人間の世界だ。化けの皮被っていてもらわなくては困る。化けの皮の被り方も知らない半人前の妖怪にでかい顔されては困るのだ。

虐待して子供の心に傷を負わす親は最低だし、愛と勘違いして甘やかし、子供を人間にできない親も最低である。まあ子供も育っていく過程で、親の「人間の皮」のほころびを見つけていくのであるが、だからと言って心配する事もない。精々子供の前では人間の振りをして、皮の被り方を教えてやればいいのである。人間の世の中では、人間の振りをしていかなければならないのだ、と分かれば、子どもも化けの皮をかぶるようになる。

……例え話は話者も聞き手も分かった気になるだけで、筋道立てて説明しなければ論理ではない、と清水 義範も言っているのでこの辺にする。

 以上、妖怪人間の日記でした。早く人間になりたい!

8日

前回分で『国民の道徳』についての記述を〆たつもりだったが、今日発売(田舎なので1日遅れ)の『SAPIO』を読んでみたら『ゴー宣』でもやっていた。まあ『国民の歴史』の時も1章使って解説していたので予想はついていたが。

そのなかで、オレが引っ掛かっていた『国民の道徳』の中での「死」の扱いについて、疑問が氷解した個所があった。『正論』11月号での西部との対談から引用した部分、

 小林さんの、その感覚を私なりに言い換えればそれは精神における「死ぬ訓練」です。

「死」は非日常である。子供の時「死」について考えて、空恐ろしくなって眠れなくなってしまった経験は誰しもあると思う(「簡単に人を殺す子供」はこの経験が無いと思うのだが、この考えについては別項とする)。死について考える事は大人になっても恐ろしい。出来れば考えたくない。

だが死はいずれ、誰にも訪れる。

チベット仏教に『ポア』と呼ばれる儀式がある。某テロリスト集団のせいで誤解されて広まってしまっているが、決して「悟れぬものを殺して涅槃に送る事」などではなく、本来は死の間際に、死の世界への道順を教え、死の恐怖を取り除く儀式なのである。

『十万億土』と言う言葉があるように、死の世界は想像を絶する彼方であり、『臨死体験』も所詮「死に臨んだ」生者の記憶でしかなく、死は誰も体験したことはないが、誰もが体験しなければならない。

軍隊や警察、消防士などは乱暴に言ってしまえば死ぬのが仕事であり、彼らの訓練は死ぬ練習だと言ってしまえる。だが今の日本で(世界的にも言えるが)彼らに死に甲斐はあるのか? 世の中が死をいたずらに恐怖し、生を目的にしてしまって、彼らはいざと言う時死んでくれるのだろうか、我々のために。

生が目的になるとは、即ち「何が何でも生き延びる」ことであり、その姿勢ははっきりいってみっともない。死は恐怖である。その恐怖が零になってしまうのはもちろん問題だが、ただただ恐ろしがっているのもなにも生まれない。死を考える事、死の恐怖を乗り越えようとする姿勢、そこに生は輝く、のではないか。

こんな風に偉そうに言っている奴に限っていざ死ななければならない局面に面したとき右往左往するのである。精々「死ぬ訓練」を重ねておくか。

7日

前回で『国民の道徳』の区切りをつけるつもりが、いまいち終わらなかった。今度こそ本当に締める。

7回もこうしてくだくだ書いてきたが、オレはこの『国民の道徳』、大変にうなずけた。『国民の歴史』で「歴史」と言う土台を固め、『国民の道徳』で「道徳」の基礎を作る。「日本人」と言う建物を建てるのにこれほどいい建て方があるだろうか。今までは薄甘い民主主義の砂場の上に、「地球市民」などと言うやたら高くて、大仰な建物を建てようとしていたのだから。

オレは「国民の道徳」についてこれまで書いてきた中で、「日本人」や「国民」は使わずあえて「人間」と書いてきた。これは「地球市民」とは違う。「国民」のありようは国それぞれ違う。それは当たり前だが、だがそれでも、「人間」として生きるためには共通する部分はある。今の日本は、「国民」以前に「人間」さえもあやふやな状態であって、そして「人間」には、「自分の生まれた国を大事に思う」部分があって、そうなれば「人間」は「地球市民」になどなれない。「日本人」になるには、「人間」であらねばならない。そう言った意味合いを込めて「人間」を用いてきたつもりである。

話はかなり飛んでしまうが、もしもスペースオペラが現実になったとして、他の星に行ったり、他星出身者に会ったりしたとき、「地球人です」と言うのには抵抗があると思う。「地球人」と呼ばれるのも不自然な気がする。「国」の成り立ちを考えたとき、1つの星が1つの政体となるのは植民とかで歴史がかなり浅い場合を除いて無理があると思う。もしも、1つの政体となるとしたらそれは「市民」のユートピアではなく、恐怖の一極支配でしかないと思う。「連邦国家」はありうるが、1政体として機能しうるかどうか? まあ政治的な問題だけでなく、気候、風土、歴史、違いに富んだ地球の国々。「地球」で一緒くたにされるのは抵抗がある。もっともこれはいまだ地球にしがみつかざるを得ない今の時代だからこう考えるのであって、銀河系規模の「宇宙時代」がくれば「地球人」も抵抗なくなるかもしれない。とは言えやはり「地球生まれ」というパトリオティズムは発生するだろうけど。「宇宙市民」と言う言葉が生まれたりして。

「地球市民」は確かに素晴らしい理想ではある。だけど実現するには「人間」では無理だと思う。「人間」から進化でもしない限り、「人間」が「私」や「個」だけで人間らしくは生きられない動物である限り。

ひとまず、日本人は「日本人」にならなければいけないと思う。「地球市民」はあるいは実現できるかもしれない。だがまだ無理だ。人間にまだ国家は必要だろうし、「国民」である事も人間にとっては必要だ。であれば、『国民の歴史』『国民の道徳』は日本人限定ではあるけれど、「人間」を育てるのに有効な手段である、と思うのだ。

ところで、「作る会」の教科書は「歴史」と「公民」セットで効果がある。逆にセットでないと、効果は半分以下になってしまう。まあ大体社会の教科書は同じ会社のセットか。いざこざのあった教科書検定委員会も、例の外交官が更迭されたらしい。さてこの2冊は、検定を通れるのか? 扶桑社は、教科書業界に食い込めるのか(これは冗談)。正念場である。

6日

『SAPIO』は隔週発売のため、どうしても間があいてしまう。そこで直接は『ゴー宣』や小林 よしのりに関係なくても、関連しているであろう事象のウオッチングも書いている。と言うわけで、初期『ゴー宣』から(第1回に登場している!)批判や分析の対象となり、最近は「つくる会」で活動をともにするようになった西部 邁が、小林に勧められて書いた『国民の道徳』をオレなりに読み解いているわけである。長くなってしまっているが、この辺で一応の区切りをつけることにする。これ以降も何か思いつけば書くかもしれない。

さて、今まで「私」「集」「個」「公」、「真・善・美」、「伝統」、「死」、と言ったキーワードを使って読み解いてきたわけだが、この『国民の道徳』を貫くテーマを一言で言うならば「温故知新」、故きを温ねて新しきを知る、これに集約されると思う。

最近は新しい事がよいとされている、いや人間が新し物好きなのはずっとそうなのかもしれない。だが昨今のような情報化社会においては、情報は新しいほど価値がある。技術の進歩も文字通り日進月歩で、昨日の最先端が明日には流行遅れ、なんて事態もありうる時代である。

だが「温故」を忘れてしまっていいのだろうか?

確かに今は「道徳」など、カビの生えた古臭い代物にしか思われないかもしれない。だが人間が、この世が昨日今日発生したものではなく、歴史を重ね、育んできたもの、大切にしてきたものがあるはずで、それを蔑ろにしていたずらに新しいものに飛びつくのはどうなのか?

言ってしまえば、「新しさに価値がある」とは即ち、「新しくなければ価値がない」、移ろい、流れていくだけに過ぎないのではないか。本当にそんなものが「必要」なのか。「故きを温ねる」つまり、人間の営み、時代が変わり、それでも残ってきたものを知る、何が本当に必要なのか、手に入れておくべきものは何か。それを見極める事が、膨大な情報の津波の中、本当に価値のある一しずくを見分ける目を育てる。さらに言ってしまえば、津波に飛び込む必要などない。荒れた海が穏やかになって、打ち上げられた浜辺から拾ってきてもいいのだ。「時代遅れ」と言われても構わないではないか。人間として生きていく事、本当に大切なものを手に入れればそれでいい。「夕べに道を聞かば、朝に死す事も可也」と孔子は言ったが、それほどの何かを手に入れられれば、荒れ狂う情報の渦にも巻き込まれる事もない。世の中が移ろうとも、己が道を歩めばいいのだ。

悟りきったような事を書いているが、オレはこれからも「私」「集」「個」「公」の間をふらふらしながら生きていくだろうし、情報化社会を批判しておいてこうしてWebで意見を発表しているのだから世話はない。

相原 コージがマンガエッセイで、「自分にとって何が必要で/何が必要でないのか/見極める力が若さだと思う」と尾崎 豊風に言っていたが、見極められないから若い、と言う気がするのだが。ちょっと思い出したので書き留めておく。

5日

『国民の道徳』にかまけてばっかりなのもいい加減どうかとも思うが、『ゴー宣』関連書、というか参考書と言っていいだろうし、まだ書きとめておきたい事はあるので続ける事にする。

オレはこの本はほとんど「なるほど」と理解し、「その通り」とうなずけたのだが、唯一、最後の章となる29章は首をかしげながら読んだ。この章は以前小林、西尾 幹二との鼎談で口にしていた「意味のある生で無ければ自死も辞さない」と言う主旨を文章にしている。

西部本人はそんなつもりは毛頭無いだろうけど、まるで「ボケてしまうか植物状態になるくらいだったら自殺してしまえ!」と書いているように見える。読み取れない読者はそう読んでしまうだろう。

そうではない、とオレは思いたい。と言うか、西部も「自殺しろ」と書いたつもりは無いだろうけど。

文中にも例示されている『葉隠』の有名な一節、「武士と言う事は、死ぬことと見つけたり」。これも別に「武士は死ね」と言っているわけではない。「武士と生まれたからには、例え死ぬ事になっても為さねばならぬことがある」、何かと引き換えに死ぬ、つまり「意味のある死」を考えたとき、生も意味を持ってくる、死を無意味とすること、「死んだら全ておしまい」と言う考え方は、生を無意味にすることでもある。生を意味あるものにするには、おのずと死の意味を考えなければならない事になる。

現在は、あまりにも「死」が無意味にされている、死から「道徳」が剥ぎ取られ、「医学」に委ねられる部分があまりにも大きくなってしまっている。死が、単なる生命活動の停止、となってしまえば、生もまたただの生命活動、人間は分子機械に成り下がってしまう。

人間が分子機械であることは確かだ。だが一面、「機械」ではありえない部分も存在する。しかしそれも「ただ生きている」のでは生も死も無意味、いや「虚」となるだけである。

オレはこう読み取った。

以上、よくとろうと思えばいくらでもよく取れる、と言う見本でした。

4日

まだまだ続ける『国民の道徳』。

西部が以前から繰り返し、『国民の道徳』においても強調している言葉がある。

「伝統」だ。

つまり、人間が一万年以上歴史を積み重ねてきて、数多くの取捨選択を繰り返し、それでも現代まで受け継がれてきたものがある。その受け継がれてきたものには受け継がれるだけの価値があるのではないか、人間は変化していくものだが、それでも捨ててしまう事は出来ない何かがあるのではないか、と説いている。

例えば、結婚制度、そして家庭である。

結婚制度は昨今揺らぎつつある。シングルマザー、夫婦別姓、専業主婦、様々な単語によって説明されようとしている。

このような伝統の揺らぎは「進歩的知識人」によれば、それは新たな社会の成立だとされる。つまり、旧来の「伝統」などと言う拘束は最早不要となりつつあり、代わりにより合理的な社会が到来しようとしている、と説明される。

いや、そうではない、と西部は説く。

「伝統」を人間が守りつづけてきたのは、ただ単に依怙地に墨守してきたからではなく、社会の仕組みが変わってもそれは受け継がれてきた。「伝統」とは、「人間」が人間であるための根幹、と位置付けている。

「家庭」とは、これは良く言われる事だが社会の最小単位であり、人間がより大きい単位の社会、地域、職場、国家、を生きていくための基本となる。この事について書かれた29章をオレの母親に読ませてみた。オレの母親は教養などまるでない田舎のおばちゃんである。だがこの29章は大変うなずけた、と言う。特に共感を覚えたのはイントロ部分の最後の4行だと言う。長くなるが引用してみよう。

家族・家庭を当事者にとっても部外者にとっても魅力的なものにする努力は、人生にとってもっとも意義のある、ひょっとしたら唯一の、事業である。その事業に大きく失敗したら、広い社会の中で、人間は社会的動物としては失格者として生きるほかなくなる。そうなるのが道理である。文明はその道理を破壊した。だから、文明の社会も瓦解に至る道理である。

田舎のおばちゃんが50年生きてきて、その人生で得た経験が西部の主張と合致した、と言うのは興味深い。

オレはまだ若造だから、地域でも職場でも「○○(親父の名前)さんの倅か」と呼ばれる事が多い。この呼び名に不満を憶えた事はまるでない。逆に親父の「大きさ」を思い知らされるだけである。母親も地域では「××(オレの事だが「亮一」は本名ではないので)ちゃんのおかあさん」と呼ばれる事もあるが当然だと思っている。オレの母親を「『家庭』と言う鎖につながれた『主婦』と言う名の奴隷」と呼びたければそれでもいいが。これはオレがクモの糸のような人間関係の田舎に住んでいるからこう考えるのかもしれない。都会に暮らしていればまた別の考えを持っていたかもしれない。

だが「伝統」は決して不合理な面ばかりではない。「人間」を考えれば、却って合理的である場合さえある。少々時代にそぐわないからと言って、ぽいと投げ捨てられていいものではない。生活形態が変わっても「家庭」が存在しつづけたように。逆に言えば、どんなに時代が変わっても捨てられなかったからこそ「伝統」と呼ばれるのだ。

3日

『国民の道徳』第3弾。

『国民の道徳』は、しきりに「真・善・美」を説いている。つまり、何が真実で何が虚偽か、何が善い事で何が悪い事か、何が美しく何が醜いか、その見極めの重要さを繰り返している。

実は、オレも「公」を考える上で、「美醜の判断」、と言うよりは「美意識」もまた重要な要素となる、と以前から考えていた。

礼儀正しい振る舞いはだらしないより美しい。綺麗にプレスされたスーツと、ラフなストリートファッション、老若男女全てが美しいと思えるのはどちらか。

土人(「どじん」でIMEに登録されてない)の隈取をまねするかと思えば綺麗さっぱり土を洗い流してみたりする少女たちに「傍から見てどう思われるのか気にならないか」と聞いてみれば、「自分がしたいからこの格好をする、人の目なんかどうでもいい、自分が気に入ればそれでいい」と言う答えが返ってくる。と言っても彼女たちの場合、「自分がしたい」のは「ファッション誌に載ってたから」「皆が着てるから」「はやってるから」なのだが。

だがファッションもメイクも、人からどう見られるか、気になるから行うのではなかったのか。変な格好で町を歩けば笑われるし、あるいは突飛な服装で周囲の耳目を集める、いずれにせよ「人目が気になる」からだ。「私」や「個」だけの人間の醜悪さは、「自分がしたいファッション」に見事に現れていたのではないかと思えるのだ。

話は変わるが、以前『ゴー宣』で、小林がアンケートを行った事があった。「隕石が日本を直撃する、自分だけ逃げる事も出来るが特攻すれば日本は助かる、どうするか」もう一つ、「隕石が日本を直撃する、しかし家族は国外にいる。特攻するか、家族とともに生きるか」と言う2つの命題が提示された。オレは結局手紙は出さなかったのだが、1つ目の質問にはすんなり「特攻する」と答えが出た。だが2問目は簡単に答えが出なかった。日本を守りたい、とは思うが家族とともに生きられるなら? 迷ったのだが、日本を見捨てて家族と生きることにしたとする。家族は「一緒に生きていけるならそれでいい」と言ってくれるだろう。だがオレと家族は謗られる事になる。「国を捨てて自分たちだけ生き延びた」と。人の噂も75日、オレはその讒言に2ヶ月半も耐える事が出来るだろうか? いや、オレだけならいいが、家族も非難される。そして噂が収まったとしても、今度はオレ自身が自分を責めるだろう。「おめおめと生き延びた恥知らず」と。こう考えて、オレは2問目も「特攻する」とした。『国を守った英雄』になれるし、これはオレ自身の考えで長くなるので詳述は避けるが、オレは「固体死がその人間の死」だとは思っていない。家族の中で、オレは生きていけるからだ。

後半少し話がずれたような気もするが、「恥を善しとしない」のも『美意識』だろうから、いいことにしよう。「人からどう見られているか?」と言う『美意識』もまた、「公」の出発点の1つではないか、と思うのだ。

2日

先月分は更新分が上に来るようにページを組んでいたが、毎日きちんと更新しているならそれでもいいが、こうして数日分まとめてアップする事もたびたびだし、まとめて読もうとする読者も読みづらかろう。と言うわけで更新分は下にアップすることにした。月ごとに1ページ、と言う構成にしているので月末は更新分だけ読もうとするとページを下まで繰らなければならなくなってしまうが、この構成の方が読みやすい、と判断したのでご了承いただきたい。

さて『国民の道徳』の続き。

西部は『国民の道徳』で、小林が「ペニスケースよしりん」で絵解きしていた「私」「集」「個」「公」の関係を論理で説明している。簡単に言えば、これらのバランスがとれていて初めて健全な人間と呼べる、と言うことだ。

小林や「作る会」を危険視する連中は、小林らが「公」を叫ぶのは、人間を「公」だけの存在にしてしまおうとしている、と考えているのだろう。それは人間は「私」、あるいは「個」だけでいい、と考えるから、「公」に拒否を示すのだろうが、そうではない。『ゴー宣』、そして『国民の道徳』が説くのは、「私」「集」「個」「公」のバランスを取りつつ、4つの要素を揺らぐのが人間、だと言う事だ。

「私」のみの人間は獣に等しい。「集」のみの人間はロボットでしかない。「個」のみの人間は社会には容れらない。「公」のみの人間はなんとつまらない事か。

『個と公論』で小林が「私+私+私+……=公」への反論として、「新潟の少女監禁の犯人の『私』が集まって『公』が出来るのか」と反論したのに対し、「監禁された少女の『私』が入っていないから不十分だ」と言う意見をあるサイトの掲示板で以前見かけた事があるが、少女の「私」は変質者の暴走した「私」に押し潰されてしまっている。変質者が被害者の「私」を考えて、監禁から開放するか、あるいは初めから犯行を犯さない、のならばそれは「公」と呼ぶべきものではないのか。

国家社会主義や共産主義、軍国主義はもちろん警戒すべきである。これらが必ずしも悪、とはオレは考えない。どれもうまく運用されれば人間を幸福にするシステムであり、またそのために考え出されたからだ。ただ、これらが簡単に暴走し、人間を不幸にする事も確かである。同様に、民主主義の暴走もまた警戒しなければならない。もっとも今の日本では「警戒」を通り越して最早警鐘を鳴らさなければならないところまで来ている。そのために鳴らされた警鐘が、この『国民の道徳』なのだ。

1日

しばらく日記の更新を怠っていた。3日分一度にアップする事になるが勘弁していただきたい。

さて、西部 邁の『国民の道徳』が満を持して発売された。実はこれを読んでいたため、日記を書く事が出来なかったのだ。この本は『ゴー宣』を読み解く上で重要な参考書になると思う。よってしばらくは『国民の道徳』感想を書くが、お付き合いいただきたい。ちなみに、『国民の歴史』はすでに読了済みである。

この本のテーマを一言で言うと、西部も書いていたが『温故知新』、これに尽きる。本の内容は、最初の3分の1が日本思想史を読み解き、「日本の道徳とは何か?」を解き明かしている。残りは社会・経済・政治・倫理などにおける道徳の実践を説いている。安易な「未来思考」を批判し、「保守思想」、すなわち変化に惑わされず、営々と積み重ねられてきた「過去」に足場を置き、「伝統」を重視する、といった論調で、これまで西部が説いてきた論説と同様である。

この本において西部は「人間の生き方」を述べている。だがそれは「地球市民」などと言った良く言えば理想、有り体に言ってしまえば空疎な幻像、などではなく、あくまで「日本人」としての生き方、である。「国家の解体」を叫ぶ声は未だに続いているが、人間が人間として生きていくためには国家は必要である。例えどんなに人々の考え方が変わろうとも。歴史、民族、言語、様々な要素がおのずから国家を形作る。「地球市」が作られたとしても、それはすぐに分裂し、国家は作られる。人間がそれを望むからだ。「国民」は「地球市民」などよりはるかに現実的で、実現可能である。「国家」=「支配」ではなく、国家が形成されるのは、それを人間が望むからだ。

であれば、人間が人間たるには国家が国家であらねばなら無い。どちらかがあやふやであれば、一方もまた揺らいでしまうことになる。国家と人間は分断された単純な「支配と被支配」の関係ではなく、密接につながった、お互いを構成要素とする存在だからだ。国家が揺らげば個人はどうなるか。今の日本を見れば言うまでも無い。「個」どころか「私」さえ溶けて崩れた巷間に蠢くイドの怪物の群れを見よ!

と言うわけで次回に続く。

戻る