12月最初の日記はちょっと趣向を変えてみる。
超常現象の1つに、『植物の意思』がある。
サボテンとかに電極をくくりつけ、スピーカとアンプをつなぐと、音が出る。火をかざしたり植物の一部を切り取ったり、声を掛けてみたりあやしてみたり、植物に様々な刺激を与えると音は微妙に変化する。不快な刺激だといやそうな音を出すし、褒めたりすれば楽しそうだ。
植物も意思を持っている!
ってちょっと待たんかい。植物に電極を取り付けて、電位の変化を測定する。これって人間で言えば、心電図や脳波を計っているのと同じことではないのか。脳波を音声に変換して、「心の声です」なんて言ったって、誰も取り合わないだろう。まあ心電図や脳波は、体調や感情の変化によって変動する。起きて活動すればβ波、リラックスすればα波、と言った具合に。
勘違いしている人が多いのは「α波が発生する」事を謳い文句にしている健康商品があるが、別にリラックスすれば何も着けなくてもα波は出る。リラックスして、脳が落ち着いた結果出る脳波がα波なのであって、α波が出る=リラックスできて身体にいい、というのは本末転倒しているのです。閑話休題。
火を近づけたり、触ったり声を掛けたりすれば、熱や震動を与える事になる。であれば植物の組織内のイオンが移動して、電位差が変化し、結果として音声が変化する。だからと言って「植物に意思がある」事にはならない。単なる機械的な反応なのかもしれないからだ。
ここまで考えたら、人間の神経細胞の働き、その結果の精神活動、これもまた分子機械の反応なのかもしれないと言う気がしてきた。そういう事を一生懸命考えているのが大脳生理学であり心理学なんだろうけど。ちょっと空恐ろしい場所に行きそうなのでこの考えはこの辺で今回はやめにしよう。本題からずれてるし。
まあ100歩譲って、「植物には意思がある」としても、果たしてそれが人間にコミュニケーション可能なのか? 性懲りも無く次回に続けてしまう。
今月からタイトルをつけてみることにした。ゆうき まさみ氏も『Newtype』に連載している『果てしない物語』で「タイトルとは1行の詩だ」とおっしゃっている。この考えも面白いので、機会があったらオレも考えてみよう。
本題。
「植物にも意思がある」のか? と疑問に思って、「植物には意思がある」としてではそれと意思の疎通はできるのか、と言うところまで話を進めた。
結論。出来ないと思う。
今度公開されるディズニー映画『ダイナソー』の予告を見てたら、主人公のイグアノドンがサルや他の恐竜と会話するシーンがある。ラッコが友達のアライグマやシマリス、スナドリネコと楽しくやっているマンガもある。しかしこのマンガ、なぜぼのぼのだけ名前があって、後は「シマリスくん」や「アライグマくん」なのはなぜだろう。まあいいや。ファンタジーとしてなら楽しいけど、実際は有り得ない、だろう。もしあれが本当なら、人間はサルや犬猫と会話できるだろう。「会話できる!」と思っている人もいるようだけど。人間同士でさえ、言語が違ってしまうともう意思の疎通はほとんど出来ない。
ましてや植物である。人間とはまるで違う思考回路を持っているだろう、『思考回路』があったとして。『言語』があったとしても、果たして人間に理解可能なのか? クジラの歌を翻訳するほうがよほど簡単に思える。
植物に意思は無い、とはオレは言わない。雑誌『ムー』の増刊号で、『プラズマ生命体』なるものを紹介していた。つまり、太陽を始めとする恒星はプラズマの塊である。そのプラズマの動きを観察してみると、生命体の活動としか思えない、我々人類には理解しがたいが、恒星もまた生命体なのだ! というハラ抱えて笑ってしまいそうな説なのだが(「生命体」の定義すら確実ではないのに、「プラズマの動き」とか言われてもねぇ……)、前半はともかく、後半は否定できない。石(意思を持った石とか)や植物が何か考えてない、とは言いきれまい。しかし人間には理解できないだろう。未だにサルの言葉1つ翻訳できないのだから。もしも彼らが生きているとして、向こうも人間が「生きている」とは夢にも思わないのではないだろうか。彼らに夢があるかどうか知らないが。
スピーカの音声を「翻訳」して、植物は大自然の意思を伝えてくれている、と主張する人もいたりするが、植物に聞こえるものが何で動物、人間には聞こえないのか。「大自然の意志」とやらも、「戦争をやめよう」とか「自然を大切にしよう」とか、えらくありきたりの事しか言わない。なんで「人間は滅んでしまえ!」とか言わないのだろうか。こっちの方が「大自然の声」としてはよほど説得力があるのだが。
植物に意思があるのかどうか、ほんとのところどうなってるんだ。下水のリケッチァにでも相談してみるか。
ウッキー! アキキヤー!!
えーと、
だいぶ前の話になるが、チンパンジーのアイちゃんが子供を産んだというニュースがあった。アイちゃんをご存知の方も多いとは思うが、人間と「言葉」を使ってコミュニケーションを取るチンパンジーである。その彼女に、子供が生まれた、と言う事はその仔ザルにも言葉が母親から伝わる可能性もあるわけで、これは脳神経学や言語学には、貴重なサンプルとなるだろう。
でもこれ、多分多くの人が勘違いしている事なのだろうけど。
彼女は、「人間の言語を使って人間と会話する」だけであって、「サル語と人間語の通訳が出来る」わけではない。極端な話、アイちゃんは自分の事をサルだとは思ってないかも。人間の言語を使って思考する彼女は、つまり人間の考え方をするわけで、彼女に「サル」の考えている事は分からないはずだ。 サルと人間の通訳を作ろうと思ったら、ある程度成長したサルに人間語を教えるか、もしくは人間側でサル語を解読するか。どっちにしても実現は難しい。
それにしてもなぜバードマンは、サルをパーマン2号に選んだのだろうか。異性人である彼には、ホモ・サピエンスとチンパンジーの区別なんてつかなかったんだろうか。
そう言えば藤子F先生の作品には、実は宇宙人だった鵺が、源義家と主人公の現代の少年の区別がつかなくて、親の仇と付け狙う、というのがあったな。
にしても、何で「ブービー」なんて名前をつけたんだろう。まあ(A)先生じゃしょうがないか。小池さんがゴルフが趣味だとは知らなかった。
とりあえず、「桃太郎印のキビ団子」でもあげてみるか。「ほんやくコンニャク」とかね。
『バトルロワイヤル』。TVでCMを見たときから「おおこれは面白そうだ」と思っていた。原作も、表紙の装丁が妙に心に引っ掛かっていて、本屋に行く度気にはなっていたのだが、映画化されるとは思ってもみなかったので驚きもあってより期待度は増している。公開されたらぜひ見に行こう。
オレは注目してはいたが、大して話題にはならないだろうな、たけしや藤原 竜也でそこそこ客呼べるくらいかな、にしてもたけしは、『悲しい気分でジョーク』に始まり、『その男、凶暴につき』とか『JM』とか、幅広いねえ、これは蛇足。と思っていたが、なんとワイドショーで取り上げられていた。「中学生のデスゲーム」というショッキングな内容だし、深作作品だしな、と考えていたら、なんと、国会議員がこの映画を批判しているのだ。
今更オレごときが「子どもの教育と表現の自由」をどうこう言うのは止す。まあオレに子供がいたら、見させようとは思わないが。と言うか、子供と一緒に映画になんか行かないけど。
オレは子供の頃プラモデルが好きだったのだが、親戚がオレに買ってくれたプラモを、親父が作ってしまった事があったそうだ。オレは覚えていない。それぐらい小さかった頃の話だ。オレは泣いて「作らせて」とせがんだらしいが、親父は「お前にはまだ早い」と言ってガンとして手を出させなかったらしい。ひどい父親だ。
しかし本来、子供は欲しい物が手に入らないものだったはずだ。大人が何でも自分の欲しい物を手に入れる。それを見て子供は思う。
「早く大人になりたい」
大人になって金を自分で稼げるようになれば、欲しい物は何でも買える。しかしよく出来ているもので、大人になってしまうと子供の時欲しかったものは大して欲しいとも思わなくなってしまうのである。
本来はそうだった。しかし、今はそうでもない。子供のままで欲しいものは手に入るし、大人になっても、子供が欲しがるような物を金があるのをいい事に買い漁るような連中もいる。
終わらないから以下次回。
最近『ZOIDS』がアニメ化されてて、えらくヒットしておるようですな。『ZOIDS』はオレが小学生ぐらいの頃発売されてたもので『ZOIDS』のアニメが製作される、と聞いた時には「何で今更?」と思ったんだけど、アニメも割とヒットしているし、当然再発売されたおもちゃも売れとるようだし、オタク業界でもジャンルを築いている。
オタク業界もそこそこの「歴史」を重ねてきて、リバイバルも行われるようになってきている。つい最近は『ミクロマン』がアニメ化されてたし、『トランスフォーマー』も復活した(もっとも、アメリカではシリーズが続いていたようなので、正確にはリバイバルと言えないかもしれない)。オールポリゴンアニメの『ビーストウォーズ』は衝撃だったなあ。
『ZOIDS』に話を戻すと、小学生だったオレは帝国派で、ゴジュラス(この名前もなぁ……例の怪獣のパクリじゃん)よりはアイアンコング(これも世界貿易センターに登ってたゴリラからつけたんだろうか? 今気付いたけど)、ブレードライガーよりはサーベルタイガーだった。直線的で鋭角的な共和国より、鈍角で構成された帝国メカが好きだったのである。にしても、アニメを見るとキャラは普通の人間だな? オレが買ってた頃はキャラも金属生命体だったはずなのに。
しかし不思議な事に、小学生の頃はあれだけ欲しかったのに、今は全然欲しくない。アニメも見ていない。と言うか、最近アニメもマンガも見なくなった。最後に見たTVシリーズアニメは『ナデシコ』である。『カレカノ』は途中で見るのを止めたし(ペープサートで「あ、もういい」と思ってしまった)、『さくらちゃん』は1話目を見てさすがに「いい年こいてこんなん見れるかっ!」高校生の時『セーラームーン』は見てたくせに。マンガはシリーズものは『ゴー宣』『FSS』『ジョジョ』『ワンピース』しか読んでいない。『バガボンド』『蒼天航路』も見てたんだが、あまりにも作者が病弱過ぎて読まなくなってしまった。
いかん、思い出話に花咲かせてたら終わらなくなった。続く。
もう2週間あまり更新をサボってしまってた。11月分はすっ飛ばしてしまって12月分から書いていたのだが、アップするのを怠っていたのである。最早『ゴー宣』は影も形もなく、オレの日々雑感をつらつらと書きたれているのだが、御用とお急ぎでない方はお付き合いください。
口上はこの辺にして、前々回と前回は、最近は大人でもマンガやアニメ見るし、おもちゃを買うなぁ、オレは買わないけど。と言う話をした。マンガは読むけど、『バガボンド』や『蒼天航路』ならまだしも、『週間ポスト』の『票田のトラクター』とか『弐十手物語』とか『週刊現代』の『特命課長只野仁』とか読むようになってしまった。て言うか、そういう週刊誌を読んでて記事が面白いのである。『ジャンプ』は立ち読みで済ましてる(読みたいマンガが2つしかないのにわざわざ買うのも)し、『FSS』が載ってても『Newtype』は読まないが、『ゴー宣』の載ってる『SAPIO』は購読している。
……まさにこれは「おっさん」である。
しかし、大人になったら、子供の時欲しかったものなんて普通いらなくなるんじゃないのか?
思うに、昔、少なくともオレが子供の時は、欲しいものなんか手に入らなかった。オレの両親は普通の家より、オレに物を買ってくれなかったように思う。旅行にも連れて行ってくれなかったし、ファミコン(赤と白のやつ。笑うな)は親戚のお下がりだった上、カセットもろくに買ってくれなかった。『スターソルジャー』があれば近所のヒーローだったのに。そのせいかどうか知らないが、物欲が、無いとは言わないが人よりは希薄な人間に育ってしまった。休みの日になっても、「どうせどこへも連れて行ってもらえないからな」と初手から諦めているいやなガキになってしまっていたのである。
今は違うだろう。
親戚に小学生のジャリがいて、時々そこに遊びに行くのだが、プレステやら64やら、カードゲームやら、何でも持っている。オレは田舎に住んでいるから大学生の頃から物持つガキを見るようになったが、都会ではもっと早くからこの現象は起きているだろう。
1000字というのは書いてしまうとあっけない。またもや次回。
何でも買ってもらえる今のガキがうらやましいか、と言えば別にそんな気はしない。ガキのおもちゃなんて欲しくないからだ。子供の時買えなかったからと言って、今買おうとは思わない。逆に、子供の時買ってもらえなかったから、今でも欲しくないのかもしれない。
しかし、もしもこれが、子供の時から、欲しいものは、何でも、買ってもらえていたら、どうなるか?
4日分でも書いたように本来、子供は欲しいものを手に入れるために、早く大人になりたがった。大人になって、自分で稼げるようになれば欲しいものはいくらでも買えるからだ。しかしいざ大人になってみると、子供のときあれだけ欲しかったのに別段いらない。いい意味でも悪い意味でも、その時人は「大人」になってしまうのだろう。
だけど、子供の時から欲しいものが手に入ったら? 「大人」にならなくても、手に入るのだ。と言う事は? 大人にならなくて済むのである。なる必要が無いんだから。
悪い意味で「大人になりきれない」大人が増えるのは道理だ。
オタクも親になる年齢になってきて、子供と一緒にアニメに夢中になっていたり、コミケに揃いのコスプレをして出かけていったりする親も増えているらしい。趣味があるのは一向に構わんけど、言いたくなってしまう。
子供と一緒になってやるなよ。
欲しいものは子供の時から手に入り、ただでさえ大人にならなくていい、と子供が思っているところに、親も子供のような行動をしていればますます大人になる必要性は失われてしまう。
子供と一緒にコスプレして、ブースに座ってるのってあまり人に見せられた姿ではないと思うのだけど。大人にもなれていないのに「子供の心を失わない」のでは単に「成長できてない」んじゃないか。
さて、今日の分の日記も書いたし、スーパーに行ってチョコエッグ買ってこようかな。今日は何が当たるかな。
元々『ゴー宣』批評のために始めた日記なのだから、『SAPIO』も発売された事だし、感想を書いておこう。
第1回目ですでに、批判すべき知識人の1人として、田中 康夫は名前を挙げられていた。このとき一緒に挙げられていた麻原は後に小林を殺そうとすることになるし、西部とは現在では意見を重ならせる部分が多くて、今見るとちょっと面白い。そう言えば舛添や栗本も名前挙がってたけど、こっちは今まで見てもあまり言及されてない。
当初小林は、田中を(今気付いたんだけどどっちもありふれた苗字だなぁ)「なんクリ作家」としか見ていなかったようで、香山 リカ(彼女とも後に対立することになる)との対談で香山をセックスありのデートに誘ってる事を公言してたり、NOと言えない日本人を取り上げた回で、「外人か田中 康夫に迫られてNOと言えない女に似ている!」と言うような引き合いに出したりしていた。
最近では、阪神大震災の時田中がボランティアに誘ったが小林が仕事を理由に行かなかったので田中に批判されたり、『国民の道徳』についた前々章で、下半身を情報公開したほうが清廉な市民政治家なのかと小林が批判してたりしていた。
そしてついに、小林にとって田中は警戒すべき存在になったようだ。「マスコミを手玉に取る権力者」、これが今の田中の姿であると言う。確かに田中は、絶対にマスコミに悪く言われない。ニュースに登場すれば好意的なコメントが寄せられる。実はオレもこの田中の姿に見蕩れていた。「なかなかやるじゃないか」と。
マスコミに登場する田中は「市民の味方」「官僚主義にとらわれないしなやかさ」と、好意的に取り上げられている。だが田中の振りまわす市民主義が果たして県をうまく動かしていけるのだろうか? あまりに振りまわされた官僚たちがモラル、この場合は「士気」という意味でのモラルだが、その低下を招きはしないだろうか。
またしても次回に続く。
なんだかオレは『ゴー宣』の感想と言いながら、実はただ単に自分の意見を述べている気がする。しかもそれは『ゴー宣』で述べられていることとほとんど一致しているのだから、こりゃますます信者である。教祖のご託宣を自分の言葉で言い換えてるに過ぎないのだから。と、自覚は出来ているのだから、まあ大丈夫だろう。てなわけで布教を再開する。
今回の『ゴー宣』で小林は田中 康夫知事の誕生に警告を発している。なぜなら、田中のやり方は「マスコミを手玉に取り、市民の味方を強調して自分の正体を隠す(自覚できてない?)権力者」だからである。
小林は石原 慎太郎は支持しているが、なるほど田中と石原は対照的だ。かたや積極的に表に出て、こなたあまり出てこない。かたやマスコミは好意的、こなたマスコミにまま攻撃される。共通しているのはどちらも支持を集めている、と言ったところか。だけど支持層に違いはありそうだ。どっちの支持層がどうだと言うわけじゃないけど。
マスコミに対する態度にしても、石原は対決姿勢をとることが多い。「三国人」なんかは好例だろう。挑発しているようにさえ見える。マスコミに対して、いやのみならず職員や都民に対しても媚が無い。「オレが石原だ文句あっか?」と言う態度でいつも通している。
翻って田中は味方につけている。小林の表現を借りれば石原はマスコミを前にし、田中はマスコミを背にしている。ダムの工事現場で現場の職員に詰め寄ったときの田中は、レンズの「砲列」の「援護」を受け、圧倒的優位に立っていた。田中は権力者ではなく、あくまで「市民」であることを強調するが、これはどこかで見た態度ではないだろうか? 否定しようの無い「権力」となったマスコミが、それを否定し、隠すのと一緒である。道理で仲がいいはずだ。やる事なす事似通っている。
一昨日だったか、田中が知事室を1階、しかもガラス張りの部屋に移したとニュースで報じられた。朝日は1面トップに写真を載せ、TVニュースでも内装は備品を使った事を強調していた。『ゴー宣』に田中自身が「ガラス張り」になってしまっている絵が載っていて、オレはそれが知事室とダブって見えて苦笑するとともにぞっとしてしまった。
いろいろ文句をつけたが、田中が市民主義を振りかざしていても全国の見本となるような良い県を作る事ができるのならそれでいい。知事の仕事は県を良くする事だからだ。それが達成されるのなら手段は選ばなくてもいい。だがあまりに「市民」を振りかざすと前回も言ったように「モラルハザード」が起きかねない。結果、県がちっとも良くならない、あるいはさらに悪くなってしまったら、「市民」は結局何も出来ないと証明される事になる。もっとも証明されたとして、すでに何か手遅れになっている気がするが。田中知事が何をなすのか、ゆっくり見届けるとしよう。
今更言うまでもないことだが、『Xメン』は様々なバージョンがある。プロフェッサーXことエグゼビアを中心にチームが組まれている本編、サイクロップスやウルヴァリンなど、主要メンバーがアポカリプスの手下となってしまっていてマグニートーが中心となってチームを組んでいる『エイジ・オブ・アポカリプス』、能力が暴走したエグゼビアがチームの敵となる『オンスロート』など、設定が微妙に違うバージョンが提供されている。
さて、映画版だが、これもやはりそうしたバージョン違いの1つ、と考えた方が良さそうだ(映画を元にしたコミックシリーズも発売されてるが)。ローグがまだ少女で本編のジュビリーの位置付けになっているし、チームがウルヴァリン、サイクロップス、ジーン、ストームの4人しかいない。マグニートーがブラザーフッドのリーダーだし。まあ黄色と青の例のスーツでなく、黒のサイバーなスーツだったのは良かったかな。実写でアメコミなスーツはきびしかろ。
映画版は最初からシリーズで制作されているようだ。終わり方がいかにも「To be continued」だったし。そのせいでか、どうにも物足りなさを感じた。ストーリーはローグとローガン、エグゼビアとマグニートー、2本の軸で構成されているのだけど、「どっちつかず」になってしまっていて、キャラの掘り下げも浅くなってしまっている感じ。まあ今回はあくまで「第1話」と考えたほうがいいのかも?
にしても不思議なのは、エグゼビアの配役に全く注目が集まらなかった事だ。ピカードだよピカード!? しかし宇宙船の艦長の次は戦隊物の隊長(ちょっと違う)か。好きだねえこの人。日本で言えば『風雲! たけし城』で攻撃隊長をして、その後『マスクマン』の長官をやった谷 隼人か沖田艦長とショッカー首領の納谷 悟郎さんか(かなり違う)。トードもなかなか良かった。ダースモールで見せた「剣鬼」も良かったが、コミカルな役もできるとは。今後注目である。ウルヴァリンも正解。オーストラリアの役者でハリウッドははじめてだそうだが、まさにはまり役。特に髪型が。
オレとしては、ガンビットも出て欲しかったが……今回の物足りなさを、シリーズで満たしていけるか。あるいはこれも作戦で、第1話であえて物足りなくさせておいて、次回から食いつかせるという……下地はできているのだから、今後どうつなげていくか。これがシリーズの課題だろう。
「慰安婦」も一頃に比べると沈静化した感はある。ただ、問題なのは運動が「強制性」だの「性暴力」とか論点がすり替えられているにもかかわらず、一般には「慰安婦=性奴隷」の図式が、「UFO」とか「ユダヤの陰謀」とかのように浸透したままだと言う点だ。
そんな折、新聞に素晴らしい記事が載っていた。
『従軍慰安婦』の人民裁判である。被害者の証言を元に(加害者からの証言は無いようだ)当時の国際法に基づき、日本政府や関係者の罪を問う、という主旨で、ユーゴにおける性暴力の運動家を招くなど、戦場性犯罪の問題と歩調を合わせる動きのようだ。
無論戦場における性暴力は厳しく追及されなければならない。しかし慰安所は性暴力を防止する役割もあったのだから、戦場性暴力とは線を引いて考えなければならないはずである。だがこの人民裁判は慰安婦が性の被害者であると印象付ける目的がある。
数日後、この裁判の「判決」が新聞に掲載されていたが、予想通り「有罪」である。と言うか、それ以外の判決が出るだろうか。記事にはこの判決に法的拘束力はない事は一応記されていた。しかし、罰則規定のない50年前の国際法に拠る裁判の意味や、何と言う条約に基づいて下された判決なのか、全く記載はない。なぜ当時の日本の法律で裁かないのか。小室 等氏が言うように、問題ないからで、しかも「時効」である。だから国際法を持ち出すしかないのだろう。
何と言うか、この裁判を行った団体には同情を禁じ得ない。そこまでして「従軍慰安婦は日本の罪だ!」と確認しなければ運動をやっていけないのだろうか。気付いているのだろう、「強制性」という、あえて言ってしまうがばかばかしい理由で国家が謝罪する理由にはならないと。
慰安婦の置かれていた境遇に同情する人はすればいいし、彼女達の現在の生活を支援したければそうすればいい。しかし彼女達をダシに反日運動を続けることに最早意味はない。オレにはこの人民裁判はこの運動を続けようと無理してあがいているようにしか見えないのだ。
『エクソシスト』シリーズは3から見た。血で映画の台詞が書かれたシーンと、悪魔が鋏を持って犠牲者の後を着いていくシーンが印象に残っている。しかし肝心の悪魔払いのシーンがほとんど印象に残っていないのはどうしたわけか。
1と2は見ていなかったので、今回、ディレクターズカット版が公開される、との事なのでホラー映画の古典を1度見ておこう、しかも劇場で見れる。というわけで観に行った。
結論。大して怖くない。
悪魔憑きが精神医学「でも」説明できちゃいかんだろう。なんでイラクで掘り起こされたパズスがアメリカの少女に取り憑かにゃならんのか必然性が無い。少女を検査する時に首筋に管を突き刺して、血がびゅーっと飛び出てくるのが怖い、というか生理的な不快感をもたらすぐらいで、どこが怖いのか、よく分からない。少女の顔が醜く変貌していくのも他の媒体で見ているせいでかどうという事は無い。
少女に悪魔が憑いていく過程、少女の顔が醜く変貌し、悪魔払いでどうにか救われるも、犠牲者が出てしまう……結局「悪魔憑き」のルポルタージュに終わってしまっている。怖くなるか怖くなるか、と身構えていて、終わってしまった。そんな感じであった。
この古典にはがっかりさせられる結果に終わってしまったのだが、オレは残念だとは思っていない。
繰り返しになるが、『エクソシスト』はホラー映画の古典である。当時はホラーはイロモノであり、まともな映画ファンの見るものではなかった。しかし今は違う。ホラー映画の名作がレンタルビデオ店に行けばザクザクと積まれている。怖さもジャンルも様々なホラーが今はある。
『エクソシスト』が怖くなくなる。それだけホラーは作られたのだ。そんな時代に生まれて幸福なのか不幸なのか? よくは分からないが『エクソシスト』の恐怖が古典となってしまう時代である事だけは確かなようだ。
てなことを書いているが、この映画を観た晩、闇に怯えてよく眠れなかった事を告白しておこう。
『ゴーマニズム研究会』、再開いたします。
オレがこの日記を書き始めたのは『ゴーマニズム研究会』を閉鎖はしたが、やっぱり『ゴー宣』についてなんか書きたいな、と思ったのでこうして日記形式のエッセイを書き始めたわけです。
もっともオレは飽きっぽい性格なので、『ゴー宣』だけ書いているのもつまらなくなり、本や映画評も書いたりしているわけですが、相変わらず『ゴー宣』は読んでたのです。もちろん『SAPIO』を買って。研究会を閉鎖するにあたってその理由の1つとして『SAPIO』を買わなくなったこと、を挙げましたが掲示板にも書いた通り結局その後ずっと買っています。反応が薄かった事、はオレのページ構成がまずかったのだろうから仕方ないとして、閉鎖している理由は無くなったのですが、再開する理由も無く、男が一度「止める」と言っておいておめおめと戻れるか、とも考えていたのです。
ところがある日、掲示板を覗いてみると、何と書き込みがあるではないですか。「冷静な『ゴー宣』批評サイトの閉鎖残念」と言った主旨の書きこみで、オレはてっきりリンクを切ってあったつもりだったのですが、その実つながったままになっていて、閉鎖のお知らせを見た人が書き込んで行ってくれたのです。書き込みの最後には「再開を」とのお言葉。
その後別な人の書き込みもあり、やはり「閉鎖は残念」と「再開を」と言う主旨でした。
なんと言うか、「ああ、これでいい」と思いましたね。「この人たちのために再開しよう」と。「冷静」とは言ってはもらえたけど稚拙な批評と掲示板があるだけのサイトですが、「いいですね」と言ってくれる人もいたのです。ホームページを作る醍醐味はまさにこれで、大勢でなくてもいいじゃないか、見てくれる人がいるのだから。うん。と言うわけで、『ゴーマニズム研究会』、復活です。
しかしこうしてみると、百万羽の折り鶴が集まった橋本はほんと嬉しかっただろうて。だけど藤波を破って復活したはいいけど、新日クビになって、NOAHは三沢はいいけど秋山とかが難色示してるらしいし、どうなっちゃうんだろ。あっ、大日本かな? オレのサイトも復活はしたが橋本みたいにならなきゃいいが……
昔水島 新司先生の『あぶさん』を読んでいたらまだ影浦のいるチームが南海だった頃なんですけど、「アンチ南海」と言うキャラを徳川監督がやってて、「なにも南海のアンチなんかせんでも」と思ったんですが、結局最後には影浦の活躍を見て、徳川監督はアンチをやめてしまうのですが。
ことほど斯様に、世の中には様々な「アンチ」がいるものでございまして、もっとも有名なのは「アンチ巨人」ではないでしょうか。トンデモ本なんかよむと「アンチアインシュタイン」が多うございます。我々『ゴー宣』信者にしてみれば「アンチ小林」「アンチ『ゴー宣』」はよく目にします。「アンチ」の存在は否定はしません。と言うか出来ません。嫌いなものは嫌いでしょうがない。「ファン」が好きなものは好きなのと同じことで他人がどうこう言う筋じゃありません。
「アンチ」を定義するとしたら「対象を拒絶し否定するもの」とでも言えばいいでしょうか。実際「アンチ『ゴー宣』」サイトを見ると、よくもまあそこまで嫌いになれるな、そんなに嫌いなら読まなきゃいいのに、と思うのですが、きっちり目を通しては文句をつけるのです。ある意味、熱心なファンとも言えるのではないでしょうか。
しかし「アンチ」は否定する対象をたまには肯定してみようと思うことは無いのでしょうか? 否定する事は問題ありません。対象を否定してみる事も「批判」の一手段ではあります。しかし全否定が「批判」であるかと言えばそうは言えません。全肯定がやはり「批判」とは言えないように。いい点はいい、悪い点は悪い、と正確に認められなければ「批判」とは言えないのです。
何がなんでも否定してやる、例えいいこと言ってたとしてもそれは無視、いや無理やりにでも間違った事にしてやる、と言う態度が「批評」と呼ぶに値するかどうか?
またもや次回。
前回から「アンチ」批判、正直に言ってしまえば「アンチ小林」批判をやっているわけですが、以前「アンチ小林」にえらい目に合わされたのでその意趣返し、でもあるわけです。もしオレが電波系だったら奴らの素性を暴いて、それをネットで流して「やっちゃえOK!」とでも書いたかもしれないがそんなマネはやらない。某オタクの面汚しテロリストじゃないんだから。
サーバ容量を無駄に費やして本題。
「アンチ」と言うのはやたら偉そうな言動をとる事が多いです。控えめな「アンチ」は見た事がありません。控えめなら「アンチ」とは言わない気もするけれど。見ず知らずの相手だろうと、自分が「アンチ」とする対象の「ファン」と分かれば徹底的に喧嘩腰。何であんなに偉そうなのか?
考えてみれば、徹底的に相手を否定するからには、自分は間違ってない、絶対正しい、と考えてなければ出来ないわけで、ああこれは偉そうにもなるわ。何しろ自分が正しいと思っているのだから。
彼らは「徹底的に疑え!」とよく主張します。しかし絶対に疑わないものがあります。「自分」です。自分の言説は無謬で、間違いなどあるわけが無い、と信じて疑わないのです。批判する対象は重箱の隅を丁寧に原子一粒(量子論的に無意味)まで逃がさないのに、自分の説は検証してみた気配がありません。しようとも思わないでしょう、「正しい」のだから。
なぜ人は「アンチ」に走るのか? オレも「アンチ」に走りたいときはあります。「こいつだけは許さん、徹底的に潰す!」ってな感じで。実際アンチな文章書いたことありますしね。ただ「アンチ」をウリにしてやっていこうとは思いません。そういう文章を書くと後悔するから。感情に走った文章は読みづらいし、不快です。せっかく読んでくれるのに不快な思いはさせたくない。「毒舌」と「感情剥き出し」は似て非なるものです。「アンチ」な人は感情を文面にたたきつけて、それでいいんでしょうね。
よく「ホームページ」の利点として、個人が全世界に向けて発信できる、と言われますが、それは事実ですが、同時に錯覚を起こしがちです。まるで、自分が特別な何者かになれたような……「アンチ」がますます「アンチ」でいられるわけです。批判する対象と「対等」になれた気分になる、のだから。あるいは本当に対等である場合もあるでしょう。大抵は勘違いだろうけど。
嫌いなものは嫌いでしょうがありません。それを好きになれ、とは言えません。「嫌いだ嫌いだ」と喚くのもまあいいでしょう。それで楽しいなら、どうぞ続けてください。
オレはやらないけど。
この人の代表作、と言っても、『ゴッドサイダー』でピンと来る人はあまりいまい。『ミキストリ』なら、多少は「ああ」と言う人がいるかもしれない。こう言う傾向の作品が続いているのだが、元々は『メタルK』とか、ロボットものを描いていたのである。それがハルマゲドンを描いた『ゴッドサイダー』で一気にオカルトに傾いたのだ。
実はオレは中学生の頃『ゴッドサイダー』に完全にはまっていて、その頃から小説を書き始めていたのだがストーリーや設定をパクって書いたりしていたのだ。今となってはいい思い出である。その後『ミキストリ』が始まったのだが、『ゴッドサイダー』を引きずっていて、「ファン」だったオレは当然読み出した。
「画力があるのに下手」、「ネームで説明しすぎ」、なのが巻来の特徴である。画力はある。緻密に描きこまれている。だけど下手なのだ。見れば分かる事までネームで説明してくれる。マンガ教室の類で「悪い例」の見本になってしまいそうなぐらいにしつこく説明している。
設定もまたすばらしく、牽強付会もいいところである。「地球規模の魔方陣」とか。パズスってサタンと争えるくらい強力な悪魔なのか。第一なんでパズスとサタンが戦わなきゃならないんだろう。『黒魔術大全』か。『ミキストリ』のオチにもびっくりさせられたけど。
オレも『ミキストリ』ぐらいになってくるといい加減目が醒めてて、夢中にはならなかった。『瑠璃子女王の華麗なる日々』はさすがに読まなかった。しかしこの人、『ゴッドサイダー』でも出してたけど「瑠璃子」と言う名前になんか思い入れでもあるのか。
てなわけで巻来作品からはしばらく離れていたのだが、この間本屋に行ったら、なんと『ゴッドサイダー』が愛蔵版になっていた! 愛蔵する人いるのか? とか思いつつ手にとって表紙を見て、オレは驚愕した。
「下手だ!」
なんと、昔より下手になっているのだ! 裏表紙にコミックスのカバーイラストも載っているのだが、そっちの方が上手いのだ! 色の置き方も変だし、考えすぎて描いたせいか、女性キャラはデッサン歪みまくり。ひどい有様である。
オレが知る限り、昔より下手になってしまったのは柳沢 みきおだけだが、この人は「ワザと」下手に描いているらしい。実際、下手に描いてはいるけど、隠し切れずに上手さがにじみ出ている絵だ。本当に下手になってしまったのは巻来以外見たことが無い。
やはり巻来 功士は侮れない。って思いっきり侮ってるやんけ。
というセリフでピンと来てしまった人、誰の事を言わんとしているのか分かってしまった人ははこの文章を読む資格がある。
とは言えオレはガンダムをリアルタイムで観ておらず、塩沢さんを知ったのは『プラレス3四郎』の脇役でだった。その後、『三国志』で孔明をやったのも印象に残っている。しかしこの孔明、むくけつき関羽や張飛とかのなかで一人だけアイシャドウいれてるビジュアル系(当時そんな言葉は無かったが)だったのも印象に残った一因だろう。曹操が金髪だったのはなぜだ。
声のイメージからして、役もナイーブなタイプ、繊細なキャラを演じる事が多かった塩沢さんだけに、『しんちゃん』でぶりぶりざえもんを演じていたのには目を丸くしてしまった。ブタだぜブタ!? でも妙に合ってたからさすが声優、プロと言おうか。とは言え結構エキセントリックな役も多かったのは事実である。
だが実際そんなに丈夫な人でもなかったのだろう。当たり所が悪かったとは言え、階段から転んで頭打って死ぬと言うのは。それにしても病死とかならともかく、転落死とは変わった死に方をしたものだ。前に塩沢ファンを自認する女性マンガ家が塩沢さんに会って、「自分より肩幅狭かった」と言っているが、女性より肩幅狭いと言うのは大袈裟としても、華奢な人だったのは間違いなさそうだ。
あの透明な、しかし存在感の有る澄んだ声を聞けなくなるのは残念だ。似たようなタイプの声優には二又 一成さんや若手なら三木 眞一郎がいる。特に三木は似たような役がやれると思う。2昔前なら塩沢さんが演じていたであろう役を三木は結構やっている。『エスカフローネ』のアレンとかね。あ、そう言えば『エスカ』にも塩沢さん出てたっけな、『カメレオン人間』の役で……
しかし死者を語るときには、なぜ最後にご冥福をお祈りして締めなければならないのだろう。第一『冥福』ってなんだ。死の世界で安らかに過ごせるようにってことだろうか。地獄に落ちてたら冥福も何も無いと思うんだが。とは言え死んだ後どうなるのか、知る由は誰も無い。てなわけで、
ガンダム劇場版がDVD化されて、声が採り直しでマ・クベが塩沢さんじゃなくなってしまった事を知ってこの文章を書きました。
塩沢 兼人さん、ご冥福をお祈りいたします。
この日記を、バックナンバーから読み返してくだされば分かると思うが、一応は『ゴー宣』がウェイトを占めているとは思うが、映画評あり、マンガ、アニメあり、たまに説経ぶってみたり、よく言えばバラエティに富み、悪く言えば取り止めが無い。
オレのサイトは個人経営にしちゃまあ人は来てると思うけど、とは言え個人サイトでも日に万単位でカウンタが廻るバケモノサイトもあるにはあるが、うちの客足は悪くないと思う。ではこの客足を伸ばそうと思う。どうすればいいか? 簡単だ。発信する情報を特定の物に絞ればいいのだ。つまり、アニメでもゲームでも何でも一つの作品に絞って、それに関する情報を流す。ディープであればディープであるほど良い。インターネットにサーファーが求めるのはまさにそうした波、乗り手を選ぶ波だ。技を持ったサーファーにしか乗りこなせない波、その波を求めるサーファー、究極の需要と供給、一見は必ず常連となり、サーバが悲鳴を上げるほどのアクセス……
てなことをやればいいのだが、はっきり言う。
オレには出来ないし、やる気も無い。
一応『ゴー宣』サイトは作っているが、それだとて今述べたような作り方はしていない。掲示板とオレの『ゴー宣』評。それだけ。もしこれに、『ゴーマニズム人物事典』とか『ゴーマニズム用語集』とか『ゴーマニズム年代記』とか作れば、アクセスカウンタ廻り放題、一日100、いや千単位のアクセスだって夢じゃあるまい。
でもやらない。なぜか。そこまで根性が無い。そこまで『ゴー宣』に思い入れは無い。
要するにオレは「来る者は拒まず去る者は追わず」なのだろう。アグレッシヴに獲物を追うのではなく、口をぽかんと開けてエサが入ってくるのを待っている、と言うタイプだ。
次回に続ける。
って「人生幕の内弁当」を英語とフランス後に訳しただけやんけ。そーいや『うろつき童子』の前田 俊夫さんのマンガで『La Blue Girl』ってのがあったけど、なんで接頭語だけフランス語やねん。
この一文を読んでもらえば分かるように、オレの文章は取り止めが無い。困った事に、これが生き方その物にまで取り止めが無いのである。
例えばオレは飯を食うにしても、ラーメンとかチャーハンとか、1品で頼むより、定食の方を選んでしまう。1品ではその料理しか味わえないが、定食なら飯や汁、付け合わせも食うことが出来る。せっかく同じ腹を満たすのであれば、とりどりの味を楽しみたいのである。とは言え決してラーメンだけ食うことが無いわけではないが。
オレは目標に向かって一心不乱に邁進するタイプではない。すぐに脇道にそれる。下手すりゃ脇道で道草する。オレのホームページを見ていただければ分かると思うが、取り止めないだろう。イラストも猫耳メイドがメイン、のつもりだがそれだけ描いてるわけではないし、『地統記』と言うSF小説を書いているが、それを設定やイラストで展開していくページ、にすればもっと客足はあるかもしれない。でもしない。
つまり、看板が無いのだ。「これ!」というウリが無い。まあ言ってしまえば、『YAHOO!』のホームページ作成のカテゴリにあるサイトで「悪いサイト」の見本となれるようなサイトなのである。
だからと言って「良いサイト」になろうとは思わない。
オレだからこそこう言うサイトになったのだし、このような取り止めの無さが無くなったらオレがホームページを作る意味が無くなるような気がする。「ホームページは自己プレゼンテーションの場」と言っていた人がいたが、であれば、自分を押し殺してホームページを作っても無意味だ。
友人に「息抜きの合間に人生やってる」と『あ〜る』の鳥坂さんのような言われ方をしたこともある。損な性分だと分かっているし、自分でもこの性格にはあきれる事もある。だけどしょうがない。今更正道には立ち戻れん。これからも脇見運転で行こうと思う。なに、困るのは自分だ。
というわけでこれからもこんな調子で行く。よろしくぅ(いかりや 長介ばりに)!!
強気な事を書いたけど、やっぱり見てもらえたほうがありがたいので、どうかこれからも温かい目で見守ってやってくださいまし。
草薙 琢仁と言うイラストレータがいるが、この日記を読むような人には今更説明の必要もないが、独特の、暖かみのある質感の絵を描く人である。そんじょそこらの「うまさ」とは一線を画す、「芸術性」とさえ言ってしまっていいオーラを放つ絵なのだ。
主にファンタジー方面で活躍される草薙氏だが、マンガも描いている。『上海丐人賊』とタイトルで、現在2巻まで出ている。
舞台設定はタイトルにもあるように「上海」なのだが、現実の上海ではない。「蛮別」と蔑称される半獣半人の種族が住む街である。だがこの上海には秘密があって、その秘密を狙う「満州軍」と主人公の蛮別の少年とその仲間が闘いを繰り広げる、とまあ話自体は良くある冒険ファンタジーなのだが、草剪氏の筆致によって他の作品とは一味どころか味わいそのものが違うように見える。のだが……
「満州軍」が、支那大陸に進攻した日本軍をモデルにしている事は間違いなかろう。あまりいい描き方はされてない。まさに「侵略者」のイメージだし、中には好漢もいるのだが、やはり「悪の軍隊」として描かれている。
その事で草薙氏をどうこう言うつもりは無い。オレも当時はそう思ってたんだから。劇中、「満州軍」の兵士が腹を切り裂かれた女の死体からこぼれた臓物を見て「きれいだ……」と生唾を飲み込むシーンがあったり、「三光作戦」がもろに実行されてたりと、ひどい扱いだが、まさに当時のオレが日本軍に抱いていたイメージとぴったり一致し、全く違和感は無かった。
主人公のガールフレンドが「女子挺身隊」と染め抜かれた帽子を被っていて、「おいおいそれはまずかろう」と思ってたりした。「挺身隊」=「従軍慰安婦」と思い込んでいたのである。
高校時代に軍事マニアの友人がいて、軍事関係は多少は知っているつもりだったのだが、それでも日本軍は「悪魔の軍団」だと思っていた。最近になってやっと、「天使の軍勢」とは言わないが、「悪魔の軍団」でも無かっただろうと気付いたのだ。だが今でも「悪魔の軍団」だと考えている人は多いだろう。それは責められない。何しろオレもそうだったのだから。
まだ『戦争論』どころか『ゴー宣』さえ影も形も無い時代の話でした。
だけどこの『上海丐人賊』、確か1巻が出たのがオレが高校生の時だったから、おおよそ10年前だ。読んでないんだけど2巻で終わってるのだろうか? その後も続いているのか? 『ルーンマスカー』と言い、どうして「イラストレータ」がマンガを描くとろくな事が無いんだろう。『エヴァ』と言い、『FSS』と言い……