さてさて、特になにも、恐怖の大王も降らずセカンドインパクトも起こらず、新世紀になってしまった。しかしまあ当然の話であって、オレの好きな詩にこんな一節がある。中島 らもさんのエッセイからの孫引きなので、詳しい出典は知らないけれど。
世界は終わる。どかんとではなく、めそめそと……
世紀を超えたからといって、何が起ころう筈も無い。夜が明けたところで今日が昨日とさほど何も変わらないように。
とまあずいぶん間を空けてしまったこの日記だが、年の初めのためしとて、終わり無き世のめでたさよ。およそ20日ぶりの再開と言う事で、久しぶりに『ゴー宣』ネタで行ってみる。
「運動」と言う物はやはり、辛い思いをしながら、義務感で行う物なのだろうか。「楽しく」やってはいけないのだろうか。問題が解決しても、続けていくべきなのだろうか。1度足を踏み入れてしまったら、一生関わっていかなければならないのか。
とここまで書けば、当然『脱正義論』の話だと分かっていただけるであろう。
作中、「支える会」内部において、大人と学生との間で軋轢があったにもかかわらず、訴訟自体は和解と言う決着を見たにもかかわらず、それでも運動を続けようとしている学生に対し、小林は「日常に戻れ!」と諭すわけだが、2年近く経って、彼らは今どうしているのか。残念ながらオレは寡聞にして知らない。目が醒めてやめたのか、それともまだ続けているのか。
学生は小林の言うように「楽しく」(小林の考えとは少し意味合いが違っていたようだが)やろうとして、「恫喝」と言っていいほど否定され、すっかり落ち込んでしまったと言う。しかし、なぜそんな思いしてまで続けなければいけないのか。彼らは親でも子でもない。言ってしまえば、何の義理も無い。
いやな思いするぐらいだったら、やめてしまえばいいのだ。
なんてことが言えるのも、今オレが運動にはまってないからかもしれない。もしかしたら、オレも『脱正義論』を激しく拒否していたかもしれないのだ。
1000字になったので例によって例の如く次回に続く。このネタは3回ぐらい続くかもしれない。
間を空けてしまったが『脱正義論』の続き。
今だから告白しよう。と言ってそんなにもったいぶる話でもないが。薬害エイズ支援運動の大イベント「座り込み」、オレも行こうと思っていた。実際は、学生の事とてテストがあったのと、田舎に住んでたので東京まで行く金が無かったのである。仕方なく当日はニュース番組を朝から晩までチェックし、犠牲者には申し訳無いがトンネル落盤のニュースしか流れないのにやきもきしつつ、ブラウン管に食い入っていたのである。しかし今にして思えばそれで良かった。
もしその場に行ってたら、そのまま運動に参加し、今も運動を続けていたかもしれない。ひょっとしたら、『脱正義論』で「日常に戻れ!」と叱咤された学生はオレだったかもしれないのだ(考え過ぎか)。
結局オレは小林に洗脳される事無く、運動には参加せず、己の生活を優先させてしまった不届き者なわけである。しかし言い訳させてもらうなら、薬害エイズには興味はあったものの、被害者にはさほど情が沸かなかったのである。実際に行動に移すほどではなかったのだ。
小林がこの運動から手を引いてしまったのは、運動でやれることは終わったと考えた事、被害者、特に子供に対する情を失ってしまった事、なにより、『個の連帯』の提唱者として、自分の『個』と激しく衝突するこの運動からは身を引くしかない、と考えた事、以上が大きな理由だろう。
「西部 邁に懐柔された」と考える人もいるようだが、ならなぜ西部を批判し、「手を引け」と言われているのに厚生省にテロまで考えたのだろうか。まあさておき。
被害者を「かわいそうに」と思って始めた運動ならば、「かわいそうに」思えなくなったらやめてしまっていいはずである。支援する対象が息をしているのもいやな奴なら、支援する理由は無い。ボランティアは『奉仕』であって、『奴隷になること』ではない。己の生活を犠牲にしてまで続ける運動は、『宗教』とか、『イデオロギー』とか、別の呼び方をされるべきだろう。
にしても、『真昼の食い倒れ』作戦はおもしろそうだったなぁ。『1000円持ってきて』と告知された時にはどんな真似するのかどきどきしたものである。まあこのときも時間と金がなくて行かなかったんだけど。東京に行く機会があったら、厚生省の食堂、行ってみよう。
♪しゃばだばしゃばだば、って、『脱正義論』の話はまだ続けるつもりだけど、ちょっと思いついた事があったのでインターミッション。
この文章を読んでいるあなたが、男性で、電車に乗ってたとする。突然手首を掴まれ、掴んでいる相手に痴漢呼ばわりされる。身に覚えは全く無い。うろたえているうちに着いた駅に降ろされて、そのまま御用。裁判に掛けられ有罪。
繰り返すが、あなたは身に覚えが全く無い。
こんな場合どうするか? そのまま大人しくやったと言ってしまうのか? いや、ほとんどの人は無罪を主張するはずだ。
しかし、よほどうまく対応しない限り、痴漢冤罪を晴らすのは難しいらしい。例え無罪を勝ち取ったとしても、拘留された時間は戻らないし、社会的信用も損なわれる。
無論、実際に痴漢をやる人間が悪いだけの話なのだが、やってもいない罪で人生狂わされたらたまらない。
実はこれと似たような事態が、国単位でも起こっている。と書けば、『ゴー宣』読者ならすぐピンとくるだろう。日本の戦争責任問題である。
痴漢冤罪でも、警察による追及に耐え兼ねて、やってもいない罪を認めてしまうことは往々にしてあるようだが、戦争責任でもとりあえず謝っとけばすむだろうと、責任を認めてしまう場合が多いのはご存知のとおりだ。
『謝罪派』の常套句として、「悪いことしたら謝りなさいとお母さんに言われました」と言う台詞があるが、その台詞自体は間違ってはいない。しかしやってもいない「悪い事」でも謝らなければならないのだろうか。さらに言えば、やってもいない「悪い事」をなにが何でも謝らせようとすることが「正しい」といえるだろうか。
字数が尽きたのでこの話題も続いてしまう。
と乗り合わせた他の乗客、これは他の国のことだけど、からも言われてしまっている状況であるのが今の日本だ。さらには身内からも、つまりは日本国民のことだが、「悪いことしたんだから謝れ」と言われている始末である。野次っているほかの乗客からしてみれば、これほど心強い味方はいないだろう。本来、弁護すべき立場にいる者が非難に回っているのだから。
日本国民にしてみれば、正義を貫き通しているつもりだろう。他の国も「正しいこと」のために日本を糾弾している、と思っている。ところがそれは違うのであって、痴漢をしようとしていて、その後ろめたさから糾弾する者、これはまだ「憐れむ」余地はあるが、もっと悪質な事に、実際に痴漢を働いていて、自分の罪をごまかすため声高に非難する者もいるのである。
『ゴー宣』読者なら、この自分の罪を逃れようとしている国がどこの事か分かるはずだ。
さらに言うと、「被害者」の中には、示談金目当てで、実際さわられてもいないのに『痴漢よ!』と被害をでっち上げるのもいたりする。ある国で元慰安婦を探したところ、そこに派遣されていた日本軍の数より多かったと言う笑うに笑えない例もあるのだ。
だけどやってもいない事で謝らせるのはそううまくはいかないようだ。最初は嘘ついてでも日本に罪を着せようとしていたのだが、調べてみると証言に矛盾が生じてくる。実際、痴漢冤罪でも「被害者」の証言が後を追うごとに過激に、具体的になってくる事は良くあるらしい。具体的になってくると言うのはその時の状況を思い出したからではなく、記憶を都合よく再構成して、「いかにもあったように」語るからだ。だけどこんな証言に証拠能力はあるだろうか。
証拠があやふや、となると今度は「強制性」とか「戦争した事自体悪い」とか言い出してくる。だがそれは「電車の中で女性の横に立っているのに手を下げていたのは痴漢する意思があったからだ」と糾弾するのに等しい。これがどんなにべらぼうな「罪状」か分かっていただけるだろうか。
『加害者の人権』などという言葉は聞いただけで怖気がするが、「加害者」でもないのに「権利」を剥奪されるなんて言う事態はあってはならない。なおかつ、名誉も傷つけられている。「お前がやったんだろう!」といわれても「違う!」と叫び、いわれなき糾弾とは闘わなくてはならないのだ。
前にも書いたけど、清水 義範氏も言ってたし、オレの友人も「例え話は分かった気になるだけだ」と言ってたけど、日本の戦争責任問題と痴漢冤罪問題がなにか同じ根っこがあるような気がして、こんな書き方にしました。痴漢冤罪については『痴漢「冤罪裁判」/男にバンザイ通勤させるのか!』(池上正樹/小学館文庫)に詳しいです。この文章の参考にもしました。
では『脱正義論』に話を戻す。「ボランティア」を日本語に訳すとしたら「奉仕」だろう。しかし「奉仕」だと、「全てを奉げ仕え」なければならないような気がしてくる。しかしボランティアとは本来、生活に余裕のある人が、その余裕を人の為にまわすことだろう。だからその余裕の無い人間が、ボランティアをしてはいけないのだ。つまりそれは、溺れている人を助けようとして一緒になって溺れていては救助にならないのと同じだ。ましてや「自分探し」のため、自己補完のためのボランティアなど言外である。その前にまず自分を救わねばならないだろう。
『脱正義論』に反論する意見の中には、「運動にはまった」学生たちこそ「個」が完成しており、慰安婦運動こそが「個の連帯」だと言う論説もあるが、冗談言ってはいけない。説明責任すら果たせず、批判していた組織と全く同じ行動をとる団体の、どこに「個」があるのか。他のイベントを潰し、「謝れ」と言われても最後まで謝らなかった学生のどこに「個」が完成しているのか。そして、『強制連行』が論点だったはずなのに『「広義の」強制連行』にスライドし、果ては『連行』も『広義』もどこかに行って『強制性』を問題にしてまで続けている運動が、小林が為し得なかった「個の連帯」だとは、浅学にしてオレは知らなかった。
運動に出来る事は、「力を貸す」事であって、と言うか、「力を貸す」事しか出来ない。「一緒に闘う」には浅羽 通明が言うように、薬害エイズ裁判ならHIVウィルスに感染するしかないし、慰安婦運動なら苦界に身を落とすしかないが、そこまで出来るのか? 運動にはそこまでする覚悟が必要なのか。しかし「運動」は「奴隷」に成り下がらなければ意味が無い、とまで考える人もいるようである。「奉仕」したいのではなく「奴隷」になりたいのなら、オレは止めはしないけど。なるほど、奴隷ならば「ご主人様」は必要だろう。1つの問題が終っても、いやまだ終ってない、別の問題がある、と運動を続けるのは、つまり奴隷根性が染み着いてしまって、社会問題と言う主人無しでは生きられなくなってしまっているからではないのか。
「奴隷」であることにしか呉 智英の言う「やりがい」を見つけられないのなら、そうなるしかないのかもしれない。
浅羽 通明が『教養論ノート』(今読んでいるのだけど面白かったらこれも感想を書こう)で、『ドラゴンボール』や『行け! 稲中卓球部』を引き合いに出している。おおそうか、マンガを例えにしていいのか。と言うわけで、オレもやる(小学生か)。
和月 伸宏『るろうに剣心』に、安慈というキャラが登場する。このキャラは本来僧侶なのだが、明治初期の「神仏毀釈」により家族同然に暮らしていた子供たちを地主に殺され復讐を誓い、力と技を鍛え「明王」と化した、と言う設定である。この男の復讐は子供たちを殺した地主にとどまらず、この世そのもの、はびこる悪を一掃するまで終らない。しかし佐ノ助との闘いによって、一旦はその拳を収めるのである。
しかし作者はこの安慈についてのコラムで言う。「負への暴走が収まっただけ」だと。安慈の復讐は終ってなどいないのだ。そしてこうも言う。「人間一生かかってどうにか1人救えるか、と言うのにキャラクターを作者は救えるのか?」(アニメ版だと、安慈は「私が間違っていた」と安易に言ってしまう)
結局、そう言う事なのだろう。
小林の代表作の1つ『厳格に訊け!』は主人公厳格が「わしは若者を救う前に、まずこの世を救わねばならんのか!?」と救済の旅に赴くところで終る。安慈や厳格並にパワーがあるんであれば(今気付いたのだけれど、どちらも僧侶だ。しかも破戒僧。破戒の方向が全然違うけど)この世を救いに行ってもいいだろう。だが「悩んどるな悩んどるな人として若者として〜」、つまりは自分さえ救えてないのに、人を、ましてこの世を救えるだろうか。そんな力があるのだろうか、ただの若者に。
「運動」がまるで無意味だ、とは言わない。現に薬害エイズでは国や企業を動かし、和解を勝ち取っているのだから。これがなんの行動も起こしていなければ、原告は全員死んでいたかもしれない。確かに勝ったのだ。だが国や企業が変わらなければまたこのような事態は起こる。国や企業を変えるには? 運動で圧力をかければいい? 違う、己の出来る事をする、つまりは「プロ」の仕事をする事だ。「プロ」の意味に関しては『ゴー宣』を読んでいれば分かって頂けると思う。運動に参加する人の中には自分の仕事を持っているのに「素人の力こそが世の中変える」と主張する人もいるが、よほど自分の仕事に誇りが持てないに違いない。
「じゃあなんで仕事してるんだよ」と突っ込みたくなるのはオレだけだろうか。
しかしオレのやってる事って「批評」ではなく「解説」である。批評ならばもっと客観的に見なければいけないはずだ。「解説」だとしても、テキスト読んでりゃ分かる事で、下手すりゃテキストと同じこと言ってるだけのような時さえあったりする。てなこと言いつつ、誰も突っ込まないのをいいことに開き直ってこの路線を続ける。
とは言えたまには批評らしい事もやってみるか。
かつて『運動』やりかけたことがある/へなちょこで気恥ずかしいしょっぱい運動……/バカバカ! わしのバカ!
『脱正義論』は小林のこっぱずかしい告白で始まる。福岡の事とて、まだくすぶっていた学生運動に当時大学生だった小林は参加する。しかし小林の「個」は、この「続ける事が目的」の運動と衝突し、結局運動からは離れることになる。後にこの運動のリーダーと再会した小林は彼が相変わらずレーニンマンだったことにあかん! まったく変わっとらん……
と嘆息するのである。
だが小林は再び運動に参加する。原告の子供たちがかわいそうで参加する気になった薬害エイズ運動。小林は部落問題に関わった時も『差別論スペシャル』に於いて『部落解放フェスティバル』を眼目とする独自の運動論を展開していたが、それを実践するときが来たのだ。「真昼の食い倒れ作戦」。このアイディアを提示し、学生ものってくる。だが厚生省の食堂に参加者が押し寄せる事は無く、運動は次第に小林の目指すものとは違ってくる。「楽しませる事」「個の連帯」を目指す小林、従来の方法を推し進める団体、団体に「遊びでやってるんじゃないんだ!」と恫喝され、小林と団体との板ばさみに苦しみつつも、運動にはまり取り込まれて行った学生……書き下ろしマンガのラストをさらばだ 個の連帯は幻想だった
と小林は悲壮な言葉で締めくくっている。
なぜこんなふうになってしまったんだろう?
小林はこの運動の内面をアカウンタビリティしつつ、この疑問に取り組む。その疑問は浅羽 通明のインタヴュー、呉 智英との対談で明らかになる。
団体ははじめから「政治」をやって、学生を運動に取り込もうとしていた。小林は運動でも「自分」を生かす事が出来るし、運動にだけ「やりがい」を感じる事も無い。だが学生には、生かす「自分」も無い、「やりがい」も運動にしか感じられない、連帯する「個」など、始めから持ち合わせていなかったのだ……
後に小林は「新しい教科書を作る会」に参加する。みたび、運動に身を投じることになるのだが、やはりここでも、小林の「個」は運動と激しく衝突してしまうのは皮肉である。
「運動」という言葉に、オレは単純に「正義」を感じる事は出来ず、何らかの「いかがわしさ」、それは「偽善」と言い換えてもいいだろうけど、を感じてたのだが、『脱正義論』を読んで「ああ、やっぱり」と納得がいった。
この本が出た後、『週刊少年マガジン』に、川田 龍平の伝記マンガが掲載されていたが、小林はどこにも出ていなかった。当然、最後に小林に向けた『知ってますよ』の顔など、描かれてはいなかった。団体が小林に描いてもらいたかったマンガは、まさにこれだったのだろう。
……やっぱあんまり「批評」になってないなこりゃ。
『ゴー宣』を攻撃する場合、「小林は批判する対象を醜く描いてイメージ操作を行っている」と書き立てるのは最早常套句となりつつある。しかしまあ、考えてみればこれもかなり的外れで、しかも情けない批判ではある。要するに「小林は卑怯者だ!」と言いたいのだろうけど、そんな「卑怯な」手段に、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てているのも大人気無いよな、と思える。
小林がいくら醜く描こうが、冷静に論説を批判すればいいだけの話であって、「不細工」と言われてヒステリックに暴言を投げ返しているようでは小林の罠にまんまと引っ掛かっているのである。「マンガ家ごとき」に本気に怒ってどうする。その事自体がマンガである。
「自分はかっこよく描いている」と言うのもある。確かに、劇中の「よしりん」と実物はあまり似ていない。だけど、読者がそれで幻滅して『ゴー宣』を読まなくなるのであればそれは読者自身の判断であって、「美化」して描いた小林の計算違いなだけである。逆に『ゴー宣』を読んで小林本人に興味が沸いて、TVや講演で「ナマ」小林を見たくなる、と言う読者だっているだろう。
なぜ小林 よしのりは、このような「イメージ操作」攻撃を受けるのだろう? 小林は今や「知識人」と言って差し支えないと思う。自分でも言うように「権威」となってしまっているのだ。これまで、「知識人」が己の意見を発表しようと思ったら、文章と言う手段しかなかった。そこに小林がマンガを持ちこんだ。大月 隆寛の言葉を借りれば「核爆弾を持ちこんだ」のである。これまでもエッセイマンガはあった。しかし「エッセイ」の域を出るものは無く、マンガで「思想」を展開してしまったのは小林が初めて、と言うか、今 までも小林以外に例を見ない。いしい ひさいちのように、思想を「表現」してみせたマンガ家はいても、「思想」その物をマンガにしてしまった例は無かったのである。
今更言うまでもない事だが、マンガは読者の視覚にもろに訴える事が出来る。だから、小林が得た印象を、そのまま読者に提示する事も出来る。それだけに、文章でしか意見を述べることの出来なかった旧来の知識人は「卑怯だ」と憤るのであろう。
字数が尽きた。以下次回。
「『ゴー宣』はマンガだから分かりやすい、だから読者も多く、支持されている。特にマンガ慣れした若者が飛びつくのに絶好なのだ」との分析もあるが、にしては、上っ面しか読めてない、コマ間を全然読み取れてない批判もよく見かける。マンガだとていくらでも難解に出来るし(『AKIRA』や『FSS』を「分かりやすい」と思える人はいないだろう)、文章だっていくらでも分かりやすく書ける。
前にオレは『ゴー宣』を「「思想」その物をマンガにしてしまった」と書いたが、思想を絵解きにしたマンガならこれまででもある。だけどそれらが『ゴー宣』ほど売れてるだろうか。本屋に行って「実用書」の棚に並んでいるマンガを2・3冊めくってみるといい。つまらなそうでしょ? 買う気になります? 「分かりやすい」=「売れる」のではないのだ。
『ゴー宣』もはじめはエッセイマンガでしかなかった。だが、今までのエッセイマンガで、『現実』を動かしたためしは無い。「エッセイ」には現実を追う事しか出来ないのだ。しかし『ゴー宣』はオウム、薬害エイズ、慰安婦、教科書……『現実』を動かしている。このダイナミズムを見よ、これこそが『ゴー宣』をして「思想」の一翼たらしめているのだ。
それだけに、今の『ゴー宣』は危険だ、と言える。実際薬害エイズの時は学生を誤った道に進ませる事になってしまった。小林は今や現実を動かせる力……『権力』を手にしている。小林の託宣通りに動いてしまっている人間もいる事だろう。小林はうかつな事は言えなくなってしまっている。オレは最近、『ゴー宣』はちょっと硬質化している、と感じるのもこれと無関係ではあるまい。読んではいるんだけれど……
小林 よしのりはここまで来てしまっている。既に一線は越えてしまっていて、もう「普通の」マンガ家には戻れない所にいる。本人が望むと望まないとに関わらず。『ゴーマニズム宣言』が小林の代表作になってしまっているからだ。
「信者」に出来る事は、『ゴー宣』があらぬ方向に行ってしまったとき、そのときには小林を見放してしまえる『個』を鍛えておく事だろう。それこそが読者の特権であり、また小林が望んでいる事だろうからだ。
醜く描かれて腹が立って、とうとう「不細工に描きやがって裁判」を起こした人物もいた(本当は「ドロボー」呼ばわりされたのが起訴理由なのだが、醜く描かれた事も理由には入っている)が、『ゴー宣』に描かれた似顔絵と本人の顔を見比べてみても、大して差があるようには見えない(起訴した本人は相当自分の顔に自信があるようだが)。
第一、自分の顔や印象を、相手がどう思うかなど自分でどうこうできる問題ではないだろう。いくら人気のあるタレント、藤原 紀香でも木村 拓哉でも誰でもいいが、彼らと言えど「大した才能も無いくせに」とか「顔がいいだけじゃん」とか、全く反感を抱かれないわけにはいかないだろう。ましてや相手はマンガ家なのだから、印象によって、あるいは表現する意図によって、描かれ方は違ってくる。無論限度はあるけど。
しかし前にも言ったが、醜く描かれたってそんな事問題にもならないような反論をすればいいだけの話である。無論、「論理」に対して、であるが。醜く描かれた事への反論が、「自分の顔には自信がある」じゃねぇ……のこのこ表に出て、顔をさらしているのだからそれに対して文句は言えないはずだ。
ええい、ここまで書いたんだから名指しで言ってやる。上杉 聰先生よ、『脱ゴーマニズム宣言』の著者紹介でご尊顔を拝させてもらいましたが、あの顔はお世辞にも褒められたもんじゃありません。小林 よしのりの顔を非難なさってましたが、人の顔のことがたがた抜かせる義理じゃないと思います。
個人攻撃はこの辺にしてと。
しかし顔を出さなくたって、中村 とうようみたいに音符に描かれてしまう事だってあるわけで、マンガはキャラクターを出さなきゃ文字通り話にならない。『薬害魔王』なんてキャプションを入れられ、おどろおどろしく描かれていた阿部 英は『真相』シリーズだと逆にキャラが立ちまくってかえって魅力的になってしまっていた(どういうわけか『脱ゴー宣』に引用する際、阿部に目伏せは入れられてなかった。あんなひどい描かれかたされてるのに……)。ただ醜く描かれてるだけ、というのは、立つ力量もない、それだけのキャラクターでしかないということなのだ。
あ、つまり、馬鹿にしてるってことなのか……
突然なにを言い出すのかと思われるかもしれないが、あるいは正気に返ったかと思われるかもしれない。
かように、描いている小林 よしのりを「21世紀の救世主」ととるか、「わめくしか能のない狂ったマンガ家」ととるか、そりゃまあ読む人によって違うだろう。読む人が「右」だとしても単純に日本礼賛を叫ぶわけでもないし、「左」だとしても弱者を無下に切り捨てているわけでもない。
オレが初めて「小林 よしのり」に触れたのは『マガジン』に連載されてた『異能戦士』からだった。とは言えそれ以前から小林の事は知っていたのだが、オレが覚えている小林のマンガで一番古いのがこれなのである。この『異能戦士』、小林本人は気に入ってるらしいが、当時NHKの番組『YOU』に出演した時スタッフに「知りませんな〜」とコケにされたり、パーティで編集者に「あんたみたいに人のむなぐら捕まえてゴーインに読ませるマンガの時代じゃないんだよ」と面と向かって中傷されたり、あまりいい思い出はないらしい。しかし、この『YOU』のスタッフ、作家を呼ぼうってのにどんな作品描いてるか、今どんな仕事してるのか「知らない」って言うのはどういう了見だ。オレは実際にマスコミ業界の人間にあった事は無いのだが、そんなに失礼な連中ばっかりなんだろうか。そう言えば、筒井 康隆先生や中島 らもさんのエッセイにもTV業界人がいかに無礼者ばっかりかとかいてあったな。
さておき。
『異能戦士』で小林は、読者から「戦士」を募っていた。このマンガは数メートル離れるのが限界なテレパシーを持っていて「その先は言わないでー!!」が決めゼリフの主人公や、なんでもかんでも実況する男とか、「ただおるだけ」のやつ(漢字は忘れたけど「タダケ ルダオ」と言う名前だった。当時からこう言うネーミングセンスだったのだ。「東大 通」だってそうだし)とか、小林テイストあふれる『異能力』を持ったキャラが「礼儀作法」をモットーとする(これまた小林テイスト)悪の組織と戦う、と言うストーリーなのだけど、劇中、『異能力』を持った読者を登場させていた。
小林はこの頃から、インタラクティブマンガを描いていたのである。
『救世主ラッキョウ』だと実際に信者を集めてたり、『厳格に訊け!』では読者の悩みに答えてたり、何より忘れてはならないのが、『茶魔語』だろう。マンガの名ゼリフが流行語になった例はいくつもある。「マタンキ」とか「まいっちんぐ」とか。自分で挙げといてなんだけど、例としては弱いような気がするが。しかし精々1作品に2・3語程度で、あれほどマンガの言葉が1大ムーブメントになった例は他にないと思う。
まだ続くぞ。
前回挙げたような「読者参加型」マンガのほかに、「めんこ」(『めんぱっちん』)や「輪投げ」(『風雲わなげ野郎』。廃刊寸前の『キング』が「最後の賭け」としたことで『ゴー宣』ファンには有名だろう)と言った地味な遊びを題材にした、しかし少年マンガテイストあふれる熱血なマンガを小林は描いたりもしている。今にして思うと、小林はこういった遊びを自分の力で流行らせてやろうとしていたのかもしれない。その目論見があったにせよ、実際は外してしまったわけだが。
こうしてみると、小林はマンガで世の中を動かそうといつも企んでいたのかもしれない。だとすれば、賛同にしろ批判にしろ、「マンガ」が日本を、いや今や外国をも揺り動かしている。『戦争論』の右も左も巻き込んだ論争の嵐を君は見たか。現在の『ゴー宣』ムーブメント、これこそが小林が望んでいたものなのではなかろうか。
とは言えここまで現実を動かしてしまう事を予想してはいなかっただろう。『ゴーマニズム宣言』の読者はの中には「ファン」を通り越して最早「信者」と呼ぶべき行動をとるものもいる。無責任な発言1つで何が起こってしまうかわからない。小林に言いっぱなしは許されなくなった。
「権威よ死ね!」と言ってきた『ゴー宣』だったが、浅羽 通明に乗せられ「カリスマ宣言」をし、「もはやわしは権威になっちゃってんだからな」と自ら発言する。金 日成の死去に際しては自分を金になぞらえた追悼ネタをやってみたり、オウムを批判した時には「『ゴーマニズム宣言』こそが金剛乗だったのだ!」と救世主を気取る。「カリスマ宣言」の仕掛け人となった浅羽との対談本『知のハルマゲドン』の帯には「権威は死んだ。オレたちが殺した!」と宣言するに至る。これは新たな権威の誕生と言っていい。
かつて激しく批判していた西部 邁や、『知の巨人』とまで呼ばれる吉本 隆明、彼らをして小林は無視できない存在になりおおせている。
まだまだ続く。
ベタだなぁ。こんなタイトルつけといてなんだけど、はっきり言う。
飽きた。
隠しても得も損もないから言うけど、1時期カラオケにはほんとにはまっていた。学生時分だから、もう3、4年前の話か。街中でばったり出会った友達とよく分からないうちにカラオケになだれこんでたり、時間延長は当たり前、4・5時間いるのはざらだった。
しかしあるとき気付いてしまったのだ。そんなに楽しくねえなぁと。
考えてみりゃあ、オレが唄ってても周りは聴いてない。オレも人の歌なんかろくに聴きゃしない。適当に拍手するだけ。あとは曲を選んでるか、人と話してるか、酒飲んでるか、そんなもん。まあ人が聴いてなくてもいい、唄ってりゃそれで楽しい、と言う人にはそれでいいのかもしれない。
だけどオレはそれではいやだ。
せっかく下手なりに一生懸命には唄うのだから、オーディエンスには聴いてて欲しいし、人が歌うのをちゃんと聴くのも礼儀だろう。さすがに聞いてもらえないと大声張り上げて唄うような真似は「もう」してないけど、マイクを握ってるのに耳を向けられてないのはつまらないのだ。
オレだって、観客に回ってるときはいつオレの番が来るのかうずうずしてて人の歌なんかろくに聴いてやしないし。
そりゃまあ、全然楽しくないって事はないよ。気心知れた友達と行くのはそれなりに楽しい。だけど、それは友達と一緒にいること自体が楽しいのであって、カラオケ自体は別に、と思ったがそんなことはないな。真剣にうまいやつもいるし、聞いたことないようなマイナーな曲を持ちネタにしてるのもいるし、パフォーマンスで楽しませてくれるのもいる。普段大人しいのにカラオケに行くと急にハッスルしだすやつもいるしな。最後のはオレの事だけど。
中尊寺 ゆつ子先生が「カラオケは今世紀中に廃れる」と言うようなこと言ってたけど、結局ゲーセンとかボーリングとかみたいにレジャーの1ジャンルに納まった観はあるな。
歌を聴くんだったら本業の歌手の歌を聴くことにしている。やはり本職はうまいし、何の気兼ねなく歌のイメージに浸れる。オレは歌を聴くとイメージの世界に引きこもってしまうのだけど、カラオケでもそうしてしまう。つまりそれは歌い手を無視した聞き方なので、カラオケだと歌ってる人に失礼だ。
「飽きた」とは言え誘われたらその時は行くだろう。その時は何唄おうかな。アルフィーも一通り唄っちゃったしなぁ……