藤原日記2月分

1日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(3)

なんでいきなり前回カラオケの話を挟んだかというと書きたくなったからである。ほかに理由は無い。単なるインターミッションなのであまり気にしないように。

では話を戻して。

小林 よしのりがすでに「知識人」である事は今までも述べた。だがその言葉はそれまでの知識人が知識人同士、つまり「分かる奴にだけ分かればいい」と言ったある種の特権意識があったのに対し、庶民に対して向けられている。それは小林自身が「良き観客」という言葉で表しているように、世の中を動かすのであれば世論を作らねばならない、小さな組織を形作ってそれだけで動くだけでは自己満足は得られたとしても世の中を動かす力は持ち得ない、世間の耳目を集め、人々の口の端に登るように言葉を伝えなければならない。それは運動において持ち出される「素人の力」とは異なる意味を持つ。つまり、「世間」その物を動かす事が大事なのだと、小林は説く。

この点が小林をして従来の知識人と一線を画している。

極端な話、知識人は自分さえ分かっていればそれで良かった。仏教で言えば「小乗」である。つまり自分自身の真理を見つけるために論考を重ね、その思考の筋道を書き記す。わかる人間がそれについて来ればいいだけの話であって、ついてくる者さえ必要ではない、頼るは己のみ。掴んだ真理を実際にどうこうしようとはしなかった。だが小林は実践してみなければ気がすまない。世間が自分の見つけた真理で、世界が自分を中心に回らなければ収まらないのである。

そう言えば小林は「出たがり作者」である。

デビュー作の『東大一直線』にも「漫画 狂也」と言うマンガ狂のキャラが出るが、容貌からして小林の分身である事は言うまでもない。『どとーの愛』でも冒頭に小林が「トレンディな愛などくそくらえじゃい!」と登場するし、『おぼっちゃまくん』も「生まれ変わったらぜったい金持ちになっちゃるー!」と小林が叫んで始まる。とは言え、小林自身が作品の世界自体に干渉することはあまりなかったのだが、「最新作」の『ヤングマガジン』に連載始まったのはいいものの人気が出ずにすぐに終わってしまった『次元冒険記』では第1話で小林が作品の世界に引きずり込まれてしまう。

こんな小林であればこそ、エッセイマンガを描いたならば、その作品世界、即ち、現実に出たがるのは当然である。先に述べたように、エッセイマンガは現実の後追いしかできなかった。現実を報告する力しか、持っていなかったのである。だが『ゴー宣』は現実を動かし、それをマンガに描くことによってさらに現実が動く。「薬害エイズ運動」や「教科書問題」で実際に世間が動いているところを読者は目撃しているのである。『東大一直線』を読んで小沢 健二が東大を目指し合格したのは『ゴー宣』ファンには今更語るまでもないが、それはスポーツマンガを読んでスポーツを始めるのと大差ない。しかし『ゴー宣』で行われている現実への干渉は全く異質のものと言っていいだろう。

続く。

2日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(4)

今回は珍しく、大して前振りもなく本題。

東大 通や御坊 茶魔を始めとする、小林マンガの主人公達はみな強烈な「個」性を持ち合わせている。それはマンガでは当然の事であって、主人公を作る場合、強烈に個性を強くするか、逆にプレーンな性格にする。そうやって脇役との差別化を図るわけだが、小林は前者の手法で主人公を作ることが多い。自分を主人公にしたマンガ、つまりエッセイマンガでも、『おこっちゃまくん』や『ゴーマニスト』としてキャラ付けている。

今更書くまでもないことだが、小林のマンガは「人のむなぐら捕まえてごーいんに読ませる」マンガである。絵もアクが強いし、ストーリーやギャグも、子供向けに描いてきていたせいもあるだろうけどどぎつい。何より主人公のキャラが立ちまくっている。

「キャラクターが立つ」と言うのはマンガ用語だが、つまりいいにつけ悪いにつけ、強く読者に印象付けられることを言う。このキャラが次に何をやらかすのか? 何を見せてくれるのか、読者は期待する。東大 通ははちゃめちゃな『験勉』で受験戦争を嘲ってみせ、茶魔は金の力と『茶魔語』で周囲を振り回す。同様に、ゴーマニストよしりんは「ごーまんかまして」世の中を動かしているわけだ。

ここで気を留めておかなければならないのは、『ゴーマニズム宣言』の作者小林 よしのりと「ゴーマニストよしりん」は別物、だと言う事だ。よく「マンガと現実の小林は違う」との批判が聞かれるが、だったら西原 理恵子は普段からあんなてるてるぼうずのような恰好をしているのか。「まるで小林が主人公のようにふるまっている」とも言われるが、『ゴー宣』は「よしりん」が主人公のマンガなのである。では「よしりん」=小林 よしのりではないのだから、「よしりん」が言う事、つまり『ゴー宣』で語られる事に小林は責任持たなくていいのかと言うと無論そんなはずはない。『ゴー宣』は小林が見聞きした事をよしりんというキャラでマンガに再構成し(この辺は『ゴー宣』もまた現実の後追いをするしかない)、よしりんに仮託して小林は自説を述べているのだから、「よしりん」が語ることは小林が考えたことなのだ。

尻切れトンボだけど次回。

6日 森 雪に対し謝罪と賠償を!

ソネハチと言う名前を聞いてピンと来る方はこの日記の読者には多いかと思う。ポップサイバーなムネのでかい美少女3DCGで名をはせるクリエイターである。最近3DCG描きはやたら増えている感があるが、この人は『テライ ユキ』のくつぎ けんいち(くつぎはもともと今風の、言ってしまえば並みのオタク絵マンガ家だったのだが、テライ ユキのおかげで化けた)と並んで、3D美少女CG業界では売れっ子である。3DCGを扱う書籍や雑誌でこの2人の名を見ない事はない。

誌名は失念したのだが、オレが本屋で3DCG雑誌を立ち読みしていると、ソネハチのCGが掲載されていた。アニメ特集だったのだが、3DCGの009とかボヤッキー(ちゃんと「ポチっとな」をしていた)とかに交じってソネハチの作品も掲載されていて、題材は『宇宙戦艦ヤマト』の森 雪であった。

ソネハチの手にかかってえらくグラマーに、肉感的に描かれていた。劇中では松本 零士キャラの事とてかなりスレンダーに描かれていたので気付かなかったのだが、あのコスチューム、考えてみればやけにセクシーである。

ヤマトの乗員は沖田艦長や佐渡先生、徳川機関長らを除けば若い男ばかりである。古代や島は確か大学院生だったし、乗員の中では年長に見える真田さんも30は越えていまい。加藤や斎藤のような血の気多そうな連中もいる(当たり前か戦艦なんだから)。こんな中に、女を、あんな情欲をもよおさせるような格好をさせて放り込んで、よく何事も起こらなかったもんだ。

……ここまで書いて、ある事実に気付いてしまった。これから書くことは、かなり危険だ。『ヤマト』ファン、特に森 雪萌え(いるのか!?)の方はご覧にならないほうがいいかもしれない。

ではいくぞ。

そう言えば森 雪はブリッジではレーダー担当だったが、館内では「生活・衛生」班の班長だった。しかし「生活・衛生」班の仕事ってなんであろうか。それらしい仕事は佐渡先生の助手として看護婦をやっているぐらいしか見たことが無い。「衛生」はそれでいいとして、「生活」は? 

ヤマトは恒星間航行するにしてはそんなに大きい艦ではない中で、大勢の、しかも男ばかりで、何ヶ月も密閉されて暮らさねばならない。しかも何かあれば「根性」でどうにかするような「アツイ」連中ばかりだ。ストレスは常に極限状態に違いない。恐らく、「生活」の仕事はそんな彼らを、快適に暮らさせ、そのために時に慰安も行うのであろう。……ん?

だけど、なんと言っても若い男ばかりである。溜まるものもあるだろう。中には妻や恋人を地球に残して乗り込んだ乗員もいる事だろう。いまだその経験のない若者も多い事だろう。そんな彼らの欲望をどうやって「慰安」するか。

何故森 雪が、男だらけの環境であんな「危険」な恰好をしているのか。それは、もう1つ、TV画面には出せない仕事のためではないのか。その仕事とは、「生活・衛生」の一環、とは言える。しかしそんな、それではまるで、従軍……

え? 「従軍」なんだって? 従軍看護婦に決まってるじゃないか、何を言ってるんだ、全く。

……逃げを打ってしまった……

8日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(5)〜祭りの後

件の著作権裁判、これは小林の敗けである事は認めざるを得ない。小林の言い分より、マンガの引用を容認する声の方が筋が通っているのは確かだ。だが、だからと言って問題となった『脱ゴーマニズム宣言』の引用の方法がガイドラインであり、『脱ゴーマニズム宣言』が「マンガ評論の新しい地平」であるかと言えばオレにはそうは思えない。

「よしりんは[「慰安所とレイプは/違ーうっ!」のコマ]と描くが」のような、文章にマンガのコマを挟むような「引用」はふざけてるとしか思えないし、原画のサイズより拡大して載せる必要性があるのか、マンガの絵の用件である「コマ割」を変えてしまうのは「改竄」ではないのか、目伏せを入れる「意味」はあるのか、とか、疑問だらけでオレには到底納得できない。とは言えこれはオレの私見で、今挙げた例もひっくるめて全て認められる、と言う意見もあったりする。

オレはこの日記で『ゴー宣』を中心に、マンガ・アニメの批評をやっているわけだが、絵の引用が必要だった事は1回もない。必要がないような批評をしているからだと言えばそれまでだけど。けれど必要があれば引用する事もやぶさかではない。ただ、オレは引用の際、『脱ゴー宣』を手本にする事は絶対にない、と言っておく。こうやって最後まで意地を張るのが「信者」の哀しいところだけど。

ところで、オレがこの論争で気になったのは、引用容認、つまり小林を否定する論調の中に、この件で小林はおしまいだと喜ぶ意見もあることだ。

確かに、この件は小林のチョンボである。大チョンボといっていいだろう。『ゴー宣』9巻の宣伝にこの件は『逆転勝訴』として大きく取り上げられていたが、結局この件について描いた2章を掲載しただけで、特集を設けたりしているわけでもない。それ以降の連載でもこの件については描かず、欄外でも触れてない。どうやら小林もこの件については「なかったこと」にしたいらしい。

アンチ小林にしてみれば、これほどうれしい事はなかろう。何しろ小林が「敗けた」のだ。以前この件について書いたコラムでオレはアンチの狂喜を『小林敗訴祭り』と表現したが、それこそ鬼の首とったような喜びようだった。

1回じゃ終わらなかったので中途半端だけど次回。

10日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(6)〜『ゴー宣』を終わらせる方法

著作権裁判における小林の『敗北』に、狂喜するアンチがいる、と言う話を前回した。「これで小林もおしまいだ」とまで言う意見もあると書いたのだが、これは著作権裁判その物ではなく、その後の「醜く描きやがって裁判」に付帯して出てきた意見である。しかしこの意見、信者としては聞き捨てならない。

オレにしてみるとよく分からないのは、アンチは結局、『ゴー宣』がどうなればいいのか、彼らの意見に沿うように論説を変えればいいのか、それとも『ゴー宣』をぶっ潰すところにあるのか。それにしても、そんなに嫌いだったら読まなきゃいいだろうに。

オレは「アンチ」とはもっとも熱烈なファンだと思っている。結局、人は「正しい」事ではなく、「楽しい」事に引かれる。ファンが「共感」「好感」を求めて本を買うのと同様、アンチは「反感」「嫌悪感」を求めるのだろう。単にベクトルの向きが違うだけだ。「おしまいだ」と言ってる連中はほんとに「おしまい」になったら困るんではなかろうか。『ゴー宣』が終わってしまったら、何に反発して生きればいいのか。

 本当に小林が、『ゴー宣』が嫌いなら、『SAPIO』も、単行本も買わなきゃいいだけの話である。本当に「おしまい」にするつもりがあるのなら、批判するより買わないほうがずっと現実的だ。買わない→売上が減る→発行部数が落ちる→売れなくなる→『ゴー宣』連載打ち切り、と言った運びである。

批判は売上を必ずしも落とさない。ベストセラーになった『少年H』の批判本『間違いだらけの少年H』を山中 亘夫妻が出したが、それでも『少年H』は本屋からなくなっていない。逆に批判が宣伝になってしまう場合もある。筒井 康隆の『無人警察』がてんかん協会に批判されたとき、オレ逆に「読みたい」と思ってしまった。「プロの」批評家がこき下ろしたって終わらないものが、素人が集まって喚きたてたところで終わるものか。この辺、「プロがだめだから素人の力」という、どこかで聞いた思い上がりが見え隠れするのはオレだけだろうか。

読者は特権階級である。面白い、楽しませてくれる表現者を散々持ち上げて、つまらなくなったら捨てていい。小林が「教祖様」になってしまって、独り善がりの、ほんの一握りの人間にしかわからない言葉を吐くようになれば、それは「普通」の読者に見捨てられるときだ。「良き観客」でいればいいのである。楽しければかぶりつきで見ればいいし、面白くなければ席を立って帰ればいい。「素人」にも「力」はある。だがそれは非難の声を張り上げることではないのだ。

しかし『ゴー宣』は楽しがり、賛同してくれる「ファン」のためのみならず、非難する「アンチ」のためにも続かなければならないのだろう。是非を問わず引き受けなければならない、『ゴー宣』はまさに「金剛乗」である。

10日 今更だけどエヴァエヴァ言ってみようか

エヴァもすっかり消費尽くされた感がある。とはいえGAINAXは綾波の育成ゲーム出したり、同人でもまだまだエヴァものは健在で、業界にしばらくは根付いている事だろう。

さてエヴァンゲリオンといえば、例の最終回をめぐる論争は毀誉褒貶さまざまな意見が飛び出しはしたが結局「庵野は逃げた」と言う線に落ち着いたようである。オレもそう思う。なんとなく、今業界に跋扈している「忙しい忙しい忙しすぎて作品作るひまがない」連中のはしり、という気がする。しかし連載より同人優先するとはどういう神経しているのか。同人のほうが儲かるのか。オレが編集者だったら「次回から描かなくていい」と言うぞ。本業がデザイナーで、そっちの仕事あるから休載、というのはまだいいが、単行本の加筆修正するために休載するのは納得いかん。だったら単行本描き下ろしで描けよ。そういやマンガの描き下ろしってあまり聞かないなぁ。あああいかんいかん、話がずれてる。

庵野は、つまり面白いアニメを作りたいだけだったのだろう。『オネアミス』、『ナディア』と作って、ここまではある程度の人気でしかなかったから良かった。だが『エヴァ』は、前評判からアニメファンの期待も高かった。何しろ庵野監督のSFロボットアニメ、公開された初期設定やイメージイラストのエヴァや使徒、キャラたち……オレも含めて、アニメファンはいやが応にも期待せざるを得なかったのだ。実際始まったら、これが面白い。要するに、特撮の手法をアニメに持ち込んだ事で、新鮮な視線に若いアニメファンのみならず、往来の特撮ファンもまた驚かされたのである。(市川 森一がこの作品に賞賛の声を送っている)

また、主人公のシンジ、それまでのロボットものの主人公のような熱血漢ではなく、周囲の状況に流されるままの少年像。エヴァに乗り、人類の敵使徒と戦うシンジ。しかし彼はそれを使命と感じるわけでもなく、周囲が求めるまま、エヴァに乗れば、戦って勝てば誉めてもらえるから、エヴァに乗るに過ぎない。その姿が、趣味の世界を一歩外れた現実では積極的に何もできないファン層、いわゆるオタクは自分の姿を重ねあわせ、共感を呼んだのである。

だがそれはファンを、なにより監督自身を引きずり込む罠だったのだ。

次回に続く。

11日 エヴァエヴァ言ってるヒマはねェ!

結局、庵野は面白いアニメを作りたかっただけなのだと思う。ところが、エヴァはあまりにも人気が出てしまった。アニメを作っているとき、庵野がふと振り返ると、アニメファンが異様に期待を込めた目で彼を見ている。無論、クリエイターにとってファンの期待は願ってもないものだろう。だが、エヴァに寄せられている人気は『オネアミス』や『ナディア』とは異質であった。

エヴァはオレたちを救ってくれるんじゃないのか……?

エヴァがそれまでのアニメとは違っていた事は今更言うまでも無い。明かされない謎は、視聴者に大いに議論する余地を与えた。劇中に登場する様々なキーワード、『使徒』『セカンドインパクト』『人類補完計画』そして『エヴァ』……未だに議論が闘わされている。小説では、謎は明かす必要がなければ明かさなくてもいい事にすでになってはいたが、アニメでも謎をあえて明かさなくてもよくなったのだ。ファンは熱狂的なシャーロキアンのように、エヴァを読み解こうとしている。

 そして、キャラの内面に、あそこまで踏み込んだアニメはこれまでなかった。吐露されるキャラたちの心情。それはまさに、アニメファンの心の叫びを代弁してくれていたのである。もっとも、あれは、対人恐怖症、引きこもり、アダルトチルドレン、鬱、モラトリアム、精神科のサンプルを並べただけで、「内面を描いて」いるわけではない、という気もするけど。しかしそれはまさに、ファン、「おたく」が心に抱えているものだったのである。

だが庵野は踏み出す方向を間違えた。こうした心の部分を描く事は、まさに自分に真っ向から向き合わなければならない。筒井 康隆が「夢」を題材に『パプリカ』を書き、髪が真っ白になってしまうほどの恐怖を味わったように、庵野は最も辛い道を歩まざるを得なくなってしまった。さらには、福音を、エヴァを求めるファンが追い討ちをかける。精神病は伝染するが、まさに庵野は自分が描いているキャラに病を移されてしまった。結果が例の最終回、と言うわけである。

人のことは言えないが次回。

12日 世界の中心でアイを叫んだけもの

あーいー! 叫んでみました。

えーと、

前にも書いたが、オレは庵野は逃げた、と思う。例の最終回、庵野は後に「いっそ自分が出て朗読しようかと思った」と言っているが、いっそそうしたほうが良かったのではないか。あんな中途半端にしてしまうよりは。「実験的」で片付けられる代物ではないと思う。「もう作れるような状態ではなかった」とは言うが、他のスタッフに任せても良かっただろう。

これ以降、マンガが下書きのままで雑誌に掲載される、なんて事態が起こるようになってきた気がする。『ガンガン』あたりならまだしも、『ジャンプ』でもやるとは思わなかった。さらには、士郎 正宗キャラ原案で話題となった『ガンドレス』が公開に間に合わず、一部彩色なし線のみで上映されるという椿事まで発生している。エヴァは確かに様々な面でエポックとはなったろうけど、こんな事を手本にしちゃいかんだろうて。頼むから「作品」を作っていただきたい。形だけでも仕上げて欲しい。

ファンを放り出し、アニメも放り出してしまった庵野は、言い訳のように映画を作っても、結局劇中のキャラまでも放り出してしまった。もっともそれも仕方ないかもしれない。あの最終回でエヴァにはけりを着けてしまったつもりだったのに、映画を作らざるを得ない羽目になり、とは言えすでに「終わっている」のだから、愛着を持って作れるはずもない。実際、映画でも1度逃げてしまっている。

しかし偉そうな事をつらつらと書いてきたが、26話きっちり観て、『シト新生』『最終版』果ては『特別編』まで観てるオレにこんな事抜かす資格はないかもしれない。そもそもエヴァが「普通の」終わり方をして納得できたとは思えないし、映画まで、エヴァを骨の随までしゃぶり尽くしたのだから、あの狂熱を楽しんだのだからそれでいいじゃないの、と言う気がする。言い訳がましいけど。そんなファンも同罪、と言えるのだから。オレは見てないけど最新作の『フリクリ』はちゃんと作ったようだし、庵野監督にはきっちり「罪」をつぐなって欲しい。無論、ファンも見る目を鍛えておく事は大切だけど。淀川さんじゃないけど、「もっと映画を見なさい」と言うことだろう。

字数が余ったので蛇足。

映画版の特別編を観たとき、25話でトイレに行きたくなり、「ミッドロール」(映画好きの先輩K氏はこう言う)の間でトイレに行き、さて26話だ、と思ったら「休憩」。しかもタイマー付き。新宿の劇場で観てたんだけど席から吹っ飛んで天井を突き破ってそのまますっ飛んでいくかと思った。ふらーいみとぅざむーん。

蛇足その2。

『カレカノ』はペープサートで「あ、もういい」と思って観なくなってしまった、と前に書いたけど、その後レンタルビデオで最終巻のジャケットを見て「またやりやがった」と思ってしまった。んふっふーさーあー。

蛇足その3。

母親が買ってきた女性誌を読んでたら、庵野監督の新作実写映画の話題が載ってたのはいいんだけど、庵野が「カリスマ映画監督」と紹介されてた。そうだったのか。あの、すばーらしいあーいーをーもーおいちーどー。

13日『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(7)〜「賛成の反対」って哲学かも

エヴァの話題が続いてしまっていたが、いいかげん本題に戻る事にしよう。

『ゴー宣』において、主人公よしりんを作者小林 よしのり自身だ、と読者は無意識に考えて読んでいる。だが、実際は必ずしもそうではない。キャラクターであるよしりんが『朝生!』に出演したり、「作る会」のシンポで講演したりはできない。それはあくまで小林 よしのりである。逆に小林 よしのりが「慰安所とレイプは、ちがーうっ!」と叫んでも「ザザーッ」と波が割れたりしないし、貴族趣味な恰好をして「ごーまんかましてよかですか?」と聞いたりはしないだろう(……こう言うところこそコマの引用をすべきなのか?)。小林 よしのり=「よしりん」ではない。だがよしりんが小林を投影したキャラである事は疑いない。

さらに重要な事は、よしりんは読者を投影したキャラでもある、と言う点だ。

とり みきがエッセイで言っていた事なのだが、とりが新しいマンガの企画を編集部に持ち込んで、編集者に読んでもらう。だが帰ってくる答えはいつも、「現実にいるような、読者が感情移入できるキャラを主人公に」。冗談ではないと、とりは憤慨する。非現実的なまでにはちゃめちゃなキャラにこそ読者は感情移入するのだ。『がきデカ』ならば西条ではなくこまわりに、『バカボン』ならばバカボンではなくパパに、『パタリロ』ならばバンコランではなくパタリロにこそ、読者は自己を重ね合わせる。マンガを読者は、現実とは違う別世界に旅立つために読む。せっかく別世界に来ているのに、そこでまた常識ぶってどうする。常識をぶち破るような言動をしてこそマンガの世界に来た意味があるのだ。

現実では、否応なく「常識」を求められる。だがマンガの中ならそんなもの関係ない。「非常識」を怒られようと「アフリカ象が好きっ!」と切り返し「死刑!」を宣告してしまえばいい。何が起ころうと「これでいいのだ」の一言で済ませてしまえばいいし、「だーれが殺したクックロビン」と踊ればそれですむ。周囲ははらほろひれ〜となるしかない。無論このとき、読者ははらほろひれ〜となっているのではなく、ギャグをかました主人公と一緒に、あるいは一体化して、周囲の虚無にとらわれるしかできない常識ある人々を笑っているのである。

続く。

14日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(8)〜「ちょんまげよしりん」と遊ぼう

前回、マンガの読者は、現実にいるような常識のあるキャラではなく、常識など鼻で吹き飛ばすようなキャラにこそ感情移入して読む、と書いた。読者が感情移入できるキャラを、マンガ用語で「キャラが立つ」と言う。以前、「立つ」とは「印象に残る事」と書いたが、それでは言葉が不足で、つまり読者が、自分を仮託できるキャラクターのことを言うのである。無論、「立つ」には「印象に残る」「目立つ」ことも重要な要素だけれど。

この辺、小林は、特にキャラが立つ事が重要視されるギャグマンガを描いてきたから分かっていると思う。

以前、『ゴー宣』に「ちょんまげよしりん」が登場した事があった。ちょんまげの自由なスタイルでよしりんは「所左派高校」に1日入学するわけだが、当然、周囲の高校生や教師はこの闖入者に慌てふためく。この時、「うわっ、何考えてんだこいつ」とちょんまげよしりんを遠巻きに眺める読者と、「わはは、あわててるよこいつらおっかしー」とよしりんとともに大混乱を楽しむ読者とがいると思う。この違いは「ちょんまげよしりん」と一体となれるかなれないかの差である。

実はこれこそが、『ゴー宣』を「思想村の核爆弾」たらしめているのである。

単なる絵解きマンガに求心力はまるでない。なぜなら、キャラがまるで立ってないからだ。コマの中にいるのは読者にとってあくまで他人でしかない。だが『ゴー宣』は、読者は主人公よしりんに一体化してしまう。ごーまんかましているのは、よしりんであり、小林 よしのりであり、そして、読者なのだ。よしりんがごーまんかませば、マンガの中どころか世の中が揺らぐ。そんなよしりんに読者は自分をマッピングし、よしりんとなってごーまんをかます。

これまでの思想が、ニーチェにしろカントにしろマルクスにしろ、あくまでも「教えを授ける」教師であったのに対し、『ゴー宣』は読者とともに、いやこの言い方は適切でない、読者自身がゴーマニズムを「体験」する。

だが、それはよしりんと一体になれる読者の話であって、一体になれない読者もいるわけである。

またも次回。

15日 『ゴーマニズム宣言』のファンなんかやめちまえっ!(9)〜『ゴー宣』信者への道

「よしりん」と一体となり、世の中にごーまんかます読者もいれば、一体となれない読者も当然いる。『ゴー宣』を単なるエッセイ、あるいは絵解きとして読むと、小林 よしのりは何様のつもりなのかやたら偉そうなことを言っているし、「ちょんまげ」や「ペニスケース」のようなどぎついギャグは入るし、かなり下品で毒がきつい。

よしりんと一体となれるかどうか、この辺が熱狂的なファンとなるか、徹底的にアンチになるかの差だと思う。

だが、よしりんと一体となり、ごーまんをかましていても、読者はよしりんになれるわけではない。マンガと現実とは、所詮別物なのである。とは言え、マンガのまねをして「死刑!」を決めたり「これでいいのだ」が口癖になってしまう読者がいるように、よしりんとなって『ゴー宣』でごーまんかました読者は、ゴーマニズムを、よしりんと一体となっただけに強く、持ち帰ってしまうのである。

持ち帰ってしまったゴーマニズムを、そのまま受け入れてしまうか、自分なりに消化するか、拒否するか。これはもう読者の判断に任せるしかない。結果、よしりんと一体化することができなくなる、あるいは一体化することが不快になってしまう読者もいるわけだが、それは仕方ない。

「立つ」キャラ、読者が自分を仮託できるキャラは完全に世の中から外れてしまっているわけでもない。あまりに読者から遊離したキャラは、もはや自己投影すらかなわなくなってしまうからで、そんなキャラを支持する読者はいない。小林があれだけ嫌われている一方で、しかしいまだ読者も多いのは、やはりよしりんが読者の心情を代弁している部分があるからだろう。もし、小林が独り善がりに陥り、よしりんが読者の仮託など全く受け付けないキャラになってしまえば……その時は『ゴー宣』の終焉である。

信者として、そんな終り方だけはして欲しくないものである。もしも『ゴー宣』がそんな状態になっても、着いていくとしたらそれは現実と『ゴー宣』との区別がつかなくなり、よしりんと自分が同一になってしまっているのである。そんな別の意味での「信者」になってしまうのも避けたいものである。

18日 関西大学講師上杉 聰先生への公開質問状(1)

 まずはじめに断っておくが、この文章はタイトルが示す通り、手紙形式、質問状の形をとっている。最初、この質問状は上杉の支援サイトである『脱ゴー宣裁判を楽しむ会』にメールの形で送りつける事を考えていた。だが、どうせ運営者に「ふん、小林信者の嫌がらせか」と2、3行読んだだけで上杉本人の目には触れず、ゴミ箱行きがオチだろう。実際、嫌がらせのような物だし。

『脱ゴーマニズム宣言』は、『ゴー宣』信者のオレとしては、非常に疑問の多い批評である。そこで、この評論を読んでの、質問、必要ならば批判、を著者上杉に送り付けてみるつもりだった。だが前述のような理由で送り付けるのはやめ、タイトル通り元々公開するつもりではあったが、こうしてWeb上で人目に晒すこととした。

だが考えてみれば、初手から否定するつもりで読んでいるのだ。批判としては最低である。感情は抑えるつもりだが読み苦しい点はご容赦いただきたい。では始めてみよう。

拝啓 上杉 聰先生

私は藤原 亮一といいます。先生の『脱ゴーマニズム宣言』、大変腹立たしく読ませていただきました。お察しの通り、私は小林 よしのりシンパであり、『ゴーマニズム宣言』愛読者であります。Web上において、『ゴーマニズム研究会』と言うファンサイトを運営してもいます。そんな私が、貴著『脱ゴーマニズム宣言(以下『脱ゴー宣』と略します)を読めば腑に落ちない点が出てくる事は、ご想像いただけるかと存じます。

そこでこのたび、以下のように、質問をさせていただくことにいたしました。先生は関西大学講師との事で、人に物をお教えになることは得意かと思われます。授業料は払えませんが、無知蒙昧の私の目をお開きいただければ幸いです。

しまった、前置きと挨拶だけで1000字になっちゃった。と言うわけで、本題は次回からと言う事で。

19日 関西大学講師上杉 聰先生への公開質問状(2)

まず、私が『脱ゴー宣』を読んだところ、「小林 よしのりはマンガ家として終わっている」、「従軍慰安婦は性奴隷」、「小林の言う公など必要ない」、これら3本が柱になっていると読みました。でははじめに、「小林は終わっている」ことについての質問です。

「終わっている」ことの証明として、「ストレスによって絵がひどく醜くなってしまっている」として、旧『ゴー宣』1巻に収録されている『おこっちゃまくん』と、『新ゴー宣』第4巻から、それぞれコマを引用し比較する事で、「絵がひどくなってしまっている」証明としています。ですが、この2つのコマを単純に比較する事はできません。

『おこっちゃまくん』は、『漫間』に進化してしまった自分の身体を面白おかしく描き、「その代わりにマンガを描くと言う超能力を得たのだ」とポジティブに論を進めています。翻って『新ゴー宣』は、「広義の強制による性奴隷」と言う言葉を空洞化するため、「悲惨な話にしようと思えばどんなことだって悲惨な話にできる」ことを示すために、「わしは『広義の強制による漫奴隷』である」と、酷使によってずたぼろになってしまった身体をことさら悲惨に描いています。つまりこの両者は描かれた意図が全く違うのであって、前者はコミカルに、後者は悲惨に描いているのですから、後者のほうが「ひどい」と感じるのは当然ですが、だからと言って「絵が以前に比べて醜くなった」ことの証明にはならないのです。

また、柳 美里氏が「絵が戦時中の中国共産党のアジビラに堕している」と批判していることから、アジビラが描かれたコマを引用していますが、何故アジビラそのものを引用しなかったのでしょう? 小林の絵とアジビラとが1度に見れて一石二鳥、と思われたのかもしれませんが、このアジビラが小林、あるいはアシスタントによる模写だとは考えなかったのでしょうか。模写では、本当に「アジビラに堕している」のかどうか、判断はできないと思うのですが。(次回に続く)

20日 関西大学講師上杉 聰先生への公開質問状(3)

また絵以外にも、小林が終わっている事の証明として、小林は「権威」になりたがっているとしています。例えば、小林が自分を金 日成になぞらえた章で、「教科書にしてもいいですよ」とかまされたごーまんに対し、「教科書になりたいなんていったらおしまいだ」と言っていますが、この章は偉大なカリスマ金 日成に、現代のカリスマ小林 よしのりが捧げた追悼ギャグと考えるべきでしょう。極端なまでにカリカチュアライズされた金政権、それも結局夢落ちだったのですから。第一、あれだけコミカルに描いて、最後に「あはっ」とふざけているのに、これがギャグでなくてなんなのでしょうか。もっとも、小林の深層心理における権威指向が無自覚ににじみ出たのだ、と言われたら否定はできませんけど。

それに、小林や「新しい歴史教科書を作る会(以下「作る会」)」が自民党のタカ派から資金を供給されている、としていますけど、一体どのようなニュースソースからそのような情報を入手されたのでしょうか。自民党と言えば、河野 洋平現外相や宮沢 喜一現財相が在籍する党ですが、彼らは慰安婦問題において明らかに小林らとは正反対の行動を取っています。その他野中 広務前幹事長や小林に「足元総理」とこき下ろされた橋本 龍太郎現行革担当相と言ったお歴々が幹部を務める自民党が、果たして「作る会」に資金を提供するのでしょうか。

確かに、その後『ゴー宣』で河野グループの麻生 太郎現官房長官や、地方県議会議員などが登場していますが、自民党に在籍していながら、「作る会」に協力的な議員がいるのであれば私はその議員を大いに支持いたします。「勇気があるな」と。現に麻生氏は私の中ではかなり株を上げています。これは私の個人的な見解ですけど。

 まさか、「自民党のタカ派」云々と言う情報は、『朝まで生テレビ!』に一緒に出演していたデーブ・スペクター氏の暴言をそっくりそのまま鵜呑みにしているわけではありませんよね。検証もせずに垂れ流された根拠のない情報は、私の感覚では『流言蜚語』、あるいは『デマゴギー』と呼ぶのですが。 蛇足になりますが、デーブ氏は私はタレントとしては好きなのですが、それだけに政治的な発言における粗暴さが残念でなりません。これもまあ私的見解ですが。(以下次回)

21日 関西大学講師上杉 聰先生への公開質問状(4)

「小林は似顔絵で印象操作している」と言うのはもはや小林批判の常套句になっていますが、上杉先生もご多分に漏れずやっておられますね。だけど本当に「似顔絵で印象操作」できるものなのでしょうか? 『脱ゴー宣』では「印象操作」の例として、『脱正義論』の醜く歪んだ「知ってますよ」の川田 龍平氏の顔や、『朝生!』に一緒に出演した梶村 太一朗氏や西野 瑠美子氏の似顔絵を引用しています。引用して読者に感想を求めるのはいいとして、何故目伏せを入れる必要があったのでしょう? 似顔絵において目は非常に重要な要素です。確かに目伏せが入ってても歪んだ表情に描かれているのは分かりますが、以下に醜く描かれているかを示そうとしているのに、目伏せを入れることで、その効果は半減してしまっているのです。そもそも、何故ご自分に似顔絵には目伏せを入れないのでしょう? 名誉毀損で訴えるくらい不快だったのでしょうに。

目伏せについてはもう1つ疑問があります。薬害エイズについて言及した部分で、阿部 英元帝大教授の似顔絵を引用なさっていますけど、何故安部氏の似顔絵には目伏せを入れないのでしょう? 川田氏や『朝生!』出演者の似顔絵は「本人が不快だろう」と判断して目伏せを入れたようですが、安部氏の似顔絵はおどろおどろしく描かれ、黒い炎が立ち上っているような背景、斜線を多用した描写など、「悪役」を表現するマンガに手法を目一杯使って安部氏を「悪人」と印象付けています。あまつさえ「薬害魔王」だの「殺人医師」だのキャプションが入っていて、安部氏当人が見たら非常に気分を害する事でしょう。なのに何故安部氏には目伏せを入れないのですか? 安部は気を使ってやる必要などない極悪人だから? 言っておきますが、『脱ゴー宣』が出版された当時は安部氏はまだ裁判中で、「被告」でしかないのです。まだ「犯罪者」と決まってはいないのです。まずないでしょうけど、「無罪」になる可能性も0ではありません。それでも安部氏には目伏せは必要ないのですか。なるほど。

第一、小林が本当に「印象操作」をしようとして、論敵の顔を非常に歪めて描いたとします。しかし、読者が「似てない」「いくらなんでもこんな顔はしてないだろう」と判断してしまったらそこでおしまいでしょう。確かに、多かれ少なかれ「小林は似顔絵で印象操作している」とは私も思います。だけど、だからと言って読者は必ずしも小林の意図通りには判断しないのです。(次回に続く)

24日 関西大学講師上杉 聰先生への質問状〜(5)

(2)において、私は『脱ゴー宣』の骨子は3本ある、としましたが、これは私の勘違いで、最後の「小林の言う『公』などいらない」、と言うのは「楽しむ会」の『脱戦争論』の書評とごっちゃにしていました。申し訳ありません。

さて、と言うわけで2つある骨子のうちの1つ、「小林は終っている」論に関する質問を続けます。

小林、「作る会」は自民党タカ派や右翼団体のデマゴーグに過ぎず、小林は西部 邁氏や西尾 幹二電通大教授のスピーカになり下がった、と『脱ゴー宣』は書きたてていますが、繰り返しになりますが、どこに根拠があるのでしょうか。右翼から「作る会」へのカネの流れがあるように書いてますが、一体、どのような筋からその情報をリークし、例えそのような情報があったとしてもそれは本当に信頼できるものなのか、ウラは取れているのか。推測で物を書くな、とは言いませんが、「関西大学講師」という立派な肩書きをお持ちでいながら、怪しげなデマで誹謗中傷を行って、それで言説が信用されるかどうか、考えて頂きたいものです。

残念ながら書名は失念してしまったのですが、西野 瑠美子氏も同じ様な非難を著作で行っています。この類の言動を見ると、私は腹立たしいのを通り越して憐れに思えてきます。「陰謀論」に落ちたかと。慰安婦問題そのものでも陰謀論じみた言説は時々見られますが、否定論を攻撃する際にも「陰謀」を以ってするとは……あなたは小林に「疲れてるんだ、休め」とおっしゃっていますが、私はあなたや西野氏にこそこの言葉を捧げたいです。

ついでですが、マンガ家が「終る」のを決めるのは誰でしょう? それは批評家でも、編集者でも、ましてやマンガ家本人でもありません。それは「人気」です。『ゴー宣』はどんどん部数を伸ばしつづけ、定本版、文庫版と再発行もされています。それはまさに、「人気」が『ゴー宣』を支えているわけで、つまりは世間に『ゴー宣』に対する「需要」があるからで、作者である小林は、それに応えて『ゴー宣』を供給して行かなければなりません。

思想の絵解きマンガ、それこそデマゴギーのようなマンガならこれまでにもあります。しかしそれらは『ゴー宣』ほど売れてはいません。『ゴー宣』は絵解きマンガには無い「魅力」があり、それはまさしく小林 よしのりの力量なのです。『ゴー宣』が本当に単なるデマゴギーに堕していたら、世間は見放します。その時こそいろいろな意味で「小林は終っている」のです。あなたに「終っている」などと決めていただく必要はありません。他人が勝手に「終っている」と決めていいならば、私は「上杉 聰も終っている」と言わせていただきます。(次回に続く)

25日 関西大学講師上杉 聰先生への質問状〜(6)

「小林は終っている」論に対する質問は前回を以って一旦切り上げ、『脱ゴー宣』のメインテーマである従軍慰安婦問題に関する質問に移らせていただきたいと思います。

慰安婦の軍による強制連行の証拠が無い理由に、隠されている、隠滅されたと書いていますが、証拠の隠滅とはそんなに完璧に出来るものでしょうか。口頭で行われていたからそもそも文書自体が存在しないとも書いていますが、「ある筈だ」「消された」「元々無い」、同じ本の中でこうコロコロ主張を変えないでいただきたい。悪事の証拠をわざわざ残すあほはいないとも書いておられますが、それはそうでしょう。殺人事件でも、愉快犯で捜査の攪乱という目的でもない限り現場中触りまくって指紋を残したり、髪の毛をわざわざ抜いていく犯人がいるわけありません。証拠は本人の意志に関わらず残る時は残ってしまうのです。証拠が全く無いのであるならば、その証拠によって示される事象自体が無かった、と考えるのが妥当でしょう。日本軍が強制連行に関する文書は一切、メモ程度でも残さず隠滅し、その事実を知る人間も戦後50年全く口を開かなかった、というのならば話は別ですが。もしも日本軍がそこまで出来る軍隊であるなら、アメリカ軍に戦略で敗北したのは不思議な話です。

文書による証拠が無い、だから無かった、というならオウムによる暗殺未遂だって文書など残っていないのだから、無い事になると揶揄もしてらっしゃっいますが、それはまるで話が違います。

「暗殺未遂」事件は、被害者である小林の証言と加害者側のオウム信者の証言は合致し、当時小林が仕事場にしていたマンションの住人に聞けば怪しい人物が周囲をうろついていた、という「ウラ」も取れます。なにより、似たような、VXガスを用いた殺人事件をオウムはいくつも犯している、これだけの状況証拠があるのだから、「オウムによる小林暗殺未遂はあった」と言う結論は無理なく出てきます。翻って「慰安婦」はどうでしょうか。証言は被害者のみ。加害証言は皆無で、それも「ウソ」や「洗脳」によるもの、検証もろくにされていない。そして日本軍には慰安婦を強制連行で集める理由も無いのです。「似たような事件をいくつも起こしている」と思われるかもしれませんが、その「似たような事件」自体、真偽ははっきりしていない(私は「偽」だと思いますが)のに比較の対象には出来ません。つまり「慰安婦」問題は状況証拠さえろくに揃っていないのです。これで「あった」という結論を出すのは相当無理があるのです。(次回に続く)

26日 関西大学講師上杉 聰先生への質問状〜(7)

私は常々疑問に思っていることがあるのです。この疑問には、お答えいただけたら特に幸いと存じます。

なぜ、上杉先生は元慰安婦の証言を、全く無批判に信じてしまうのでしょうか。そして、信じるべきだ、疑ってはならないとおっしゃるのでしょうか。

あえて言わせていただきます。証言そのものに、証拠能力は無いのです。どれだけ事実に即しているのか、ウラは取れるのか、証言者は信用に足る人物か、様々な「検証」を行って、始めて証言は証拠足り得るのです。これは被害者を鞭打つわけでもなんでも無く、まず真偽を見極めなくては、「事件」を明らかにすることはできないからです。「被害者」の前に思考停止してしまっていては検証も出来ません。

被害者である元慰安婦の証言が検証されたという話は私は寡聞にして存じ上げませんが、「加害者」、慰安婦狩りを行ったと自称する吉田 清治氏の証言、いわゆる「吉田証言」は、秦 幾彦教授らが実地調査などの検証を行い、結局はインチキであったことが立証されています。この秦教授らの行動を、上杉先生は「まともでない」と嘲笑してらっしゃいますが、証言をただただ鵜呑みにするのと、検証を行い真偽を明らかにするのと、どちらが「まともでない」か、研究者であらせられる先生にはお分かりにならないでしょうか。

なぜ秦教授らが「まともでない」か、「加害証言のみ取り上げて、『強制連行』に問題を矮小化しようとしている」、「吉田証言を問題の中心に据えようとしている」からであるとし、「吉田証言」は「問題にもならない」そうですね。それでは、先生が事務局長を務める団体のシンポに、吉田氏に講演にきてもらっていてるのはどうした事なのでしょうか。それは団体の意志で、自分は端から問題にはしていなかった、最初から「強制性」が問題だと考えていた、「強制性」が問題である事は「まともな」研究者にはとっくの昔のことであり、吉見 義明中央大教授が出した『資料集』にも「広義の強制」として記されている、とお答えになるかもしれません。

しかし、私は浅学の身で、吉見教授以前に「広義の強制」や「強制性」が問題になった話は知らないし、少なくとも吉身教授以前から「慰安婦」問題は議論されていたと思うのですが。(次回に続く)

27日 関西大学講師 上杉 聰先生への公開質問状〜(8)

秦教授を「まともでない」と嘲笑する理由に、先生は「加害証言だけを問題にし、被害者の証言に耳を傾けようとしない」とおっしゃいますが、私が先ほども申したように、証言それ自体に証拠能力はありません。加害証言だろうと、被害証言だろうと、「探せば」いくらでも出てきます。作ればいいのだから。

何故そこまで先生が慰安婦と名乗る女性の言葉を、いちころに信じてしまうのか私にはよく分かりませんが、吉田氏がそうであったように、ウソをつく人間はこの世にいくらでもいるのです。インドネシアで、高木 健一弁護士が「元慰安婦」を探したところ、インドネシア派遣軍は2万人しかいなかったのに、2万2千人名乗り出た、という事実をどうお捉えになるでしょうか。さらに、事情によって名乗り出たくても名乗れない被害者もいることでしょうから、インドネシア人慰安婦の数はさらに増える事になります。まさか、兵士1人に1人ずつ、高級士官は2、3人囲ってた、と言い出すおつもりではありませんよね。「うまくやれば金をもらえる」「日本が嫌い」理由はいろいろあるかと思われますが、2万2千人の中には明らかにウソの被害者がいることは間違いありません。それでも検証なしに信じろとおっしゃる?

秦教授は加害証言だけを問題にしているから「まともでない」?

結構。では是非お願いします、「被害証言」の徹底検証を!

元慰安婦の証言に沿って、彼女を強制連行したのはどの部隊か、その部隊は当時そこにいたのか、あるいは民間の業者なのか、どこの慰安所で働かされていたのか、1人でという事はないだろう、複数いただろうから一緒に働かされていた女性は今どうしているのか、彼女は本当にそこで働いていたのか、これらを現地調査や資料を当たって逐一検証し、信頼するに足る「証拠」を集めるのです。これには現地政府の協力を仰いではいけません。日本に対して外交カードとして使える、という意図が動くでしょう。正確な情報を集められなくなります。

もしこの調査で、慰安婦は「被害者」である、という証拠固めができれば、それこそ「しょーこしょーこ」と連呼する小林や秦教授らは反省と謝罪を求められる事になります。でもできないでしょうね。ウソだと言う事はうすうすご存知でしょうから。ウソだとばれたら、それこそ慰安婦運動は一巻の終りですからね。(次回に続く)

 しまった、2月25日は『プルトニウム研究所』が開設されて1周年だったではないの。すっかり忘れとった。作者自身が忘れてたので、1周年の特別企画とか言ったものはありません。あしからず。

28日 関西大学講師 上杉 聰先生への公開質問状〜(9)

それにしても先生の論説を拝見していると、「性の問題」=「女性は被害者」と言う図式しかないようです。それはまるきりの外れでもないでしょうけど、多くの問題を取りこぼしています。

これは私なりの考えですが、「売春」と「強姦」は同じ「性」の問題ではあるけれど、同列に議論はできない、と思うのです。慰安婦、即ち「売春」は「倫理」の問題です。確かに「売春」には「犯罪」が絡む要素もありますけど、犯罪そのものではありません。確かに多くの国では法律によって犯罪とされていますけど、アメリカで「売春の合法化」と言う公約を掲げた州知事が当選されたり、ヨーロッパでは公然と、ではないにしろ売春を事実上認めている国もあります。日本でも戦後間もなくまではそうでした、いや、現代でも「性風俗」と言う形で売春は行われています。あるいは、ポルノ雑誌やアダルトビデオで満たされぬ欲望を発散させている男は大勢います。つまり、「売春」は人間に「性欲」がある限りついて回る問題であり、社会からばっさり切り捨ててしまう事はできないのです。

一方で「強姦」はどうでしょうか。これは明らかに「犯罪」です。「犯すなかれ」が「殺すなかれ、盗むなかれ、騙すなかれ」と並んで、古代宗教以来の禁忌となっているのは、これが「悪」に他ならないからです。動物のメスでさえ望まぬ交尾は拒否する権利があります。だのに、人間は拒否されてでも性欲を暴走させる輩がいる。当然、そんな真似をしたら罰しなければならないし、昨今は様々な犯罪に理屈をつけ、「加害者の人権」などという怖気の走る代物ものさばる時代ですが、理屈があろうと犯罪は犯罪なのです。

「強姦」もまた「性」の問題であり、他の犯罪同様人間社会では解決する事のない問題でしょうが、「売春」には「犯罪」を犯すぐらいなら金払って性欲を満たした方がいい、つまり犯罪抑止の面もあるのです。「売春」と「強姦」の境界線はどこか? という問題は私ごときの浅薄な知恵では答えはでませんが、少なくとも「慰安所」=「強姦所」と言う図式には、私としては首を傾げざるを得ません。(次回に続く)

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