たまに見に来てます。(日記の過去ログが無くなって残念)
で、掲示板を通りすがって、何だかつい読んでしまいました。
こ、これは、、、、
な、ナンテ無意味なんだあーーー!!
佐藤さん、大丈夫です。野○(読めませんでした。ごめん)さんは(少なくともここでは)何も生み出してませんよ。
あのようなダークサイドに引き込まれてはイカンです。さっさとこんな内容の無いヤリトリは消して、意見を書いていった方が良いと思うッス。なんか書かれても無視ッスよ。あんなネチネチした揚げ足とりをやってる人は、ぜ〜〜〜ったい普通の人に『勝てない』ですから。わざわざ下りていって相手をしてやる必要は無いです。根本的にあなたはこの人より上です。
だってここのヤリトリ見ただけで、野○さんのこと嫌いになったもの。楽しくない気分になったもの。結局、何がしたいのかわからーん!
いいですか?無視ッスよ!
それではこれからも頑張ってくだされ!
すばらしい結末でしたね。
野嵜さん、書き込みありがとうございます。6スレッドにもわたる批判、真摯に受け止めさせていただきました。
人間城の主さん、お言葉ごもっともでございます。
今回の件に関し、おれに理は一片もございません。
お心ある批判に対し、無礼な、恥知らずの言動で以って答えたことを深く反省し、お詫び申し上げたいと思います。
すみませんでした。
なんで平謝りせんならんねん。
そりゃまあ、わざわざ「あんたのこと批判するよ」と知らせるのも変な話だし、「知らない間に批判されてて気分悪かった」と言うのはおれのわがままであることは認めざるを得ません。この駄々同然の言動は謝ります。
ただし、「同じことをすればいいだけの話だ。」と人間城の主さんもおっしゃっておられるので、反論するところは反論します。
おれの仮名遣いが間違っているとの事ですが、確かに、「だう」とか「なひ」とか使ってました。だけど今は使ってませんよ。野崎さんの文章を読むと、現在は「だう」とか「なひ」は使っていないとは一言も書かれていません。これじゃ今でもおれが野崎さんが指摘された間違った仮名遣いを使ってるように思われるじゃないですか。
「だう」は「『だう』ってほんとにあったっけ?」と気付いて、辞書で調べたら「だう」なんてない、昔から「どう」だった、「なひ」は「考えてみりゃ『なき』の音便だから『なひ』はないよな」と気付いて、今は使ってません。ハ行4段も指摘される前から分かってます。
「ついで」や「あるいは」、「まづい」とかは指摘されるまで気付きませんでしたが。
「辞書ぐらい調べろ」「気付いたんなら過去ログ直せ」と言われると弱いけど。
あと、おれとしては「見れます」等の所謂「ら抜き」言葉は「アリ」だと思うんですけど。
まあ歴史的仮名遣いを使う理由も無いんで、今後は普通に書きます。
歴史的仮名遣いもろくに出来ないくせにおれが「右寄り」を名乗るのはちゃんちゃらおかしい、と言うわけですか。それならおれは今後「中道」で行くことにします。「サヨク」じゃないだろうし。
おれが「歴史的仮名遣い」を使うのは右翼や伝統主義者「ぶり」たいわけじゃなく、「気取りたい」のだと書きましたが、さらに本当の理由を言うと、「おもしろそうだから」です。オタクな話題を歴史的仮名遣いで語る。あこりゃおもしろいや、と思ったんですが、ちょっと外したようですね。
「知識と教養ある大人」ってのは別におれがそうだと言ってるわけじゃありません。そうであればいいなと言う希望はあるけど。
「GARALLY」って何語かとの事ですが、英語に決まってるじゃないですか。これが日本語だったらおれもびっくりしますよ。つづり? 間違ってますよ、もちろん。これまた辞書ぐらい調べろよと言われると弱っちゃうけど。まあ「GARALLY」って程でもないかな、何しろ「へたれ絵」だから、と思って、「ILLUST」に変えましたけど。何語だとまた言われそうですね。それに「GARALLY」にしちゃってるの、主さんも言うようにおれだけではないじゃないですか。他の連中は批判しないんで? なんでおれだけ?
「コミケ論」に就いてですが、「何もしていない人に評論されても聞く気になれません。」との事ですが、それじゃあコミケ批判は同人活動やってなきゃやる資格ないって事ですか。
オタクの端くれとして、コミケには興味あった。しかしいざ入り口に立ってみると、「あこりゃおれの行く場所じゃないや」と思って引き返した。なんでおれはコミケに足を踏み入れる事が出来なかったんだろな?その理由を考えてみたのが件のコミケ論なわけです。
別に「世界で始めて看破した」つもりは無いんですが、おれがコミケの入り口で感じた違和感を文章にしたらああなった、と言うところですね。そりゃコミケ作家も、同人活動に就いてそれぞれの悩みがあるとはおれだって察しますよ。だけど、その悩みの立脚点が、何かおれには違和感がある、そういうことです。同人活動やってもいないのに彼らの悩みなんか分かるわけないだろうと言われたらそれまでですけど。
折角ですんで、皆さんのコンテンツにリンクを張って反論させていただきました。問題ないですよね?今回の件はほんといろいろ勉強になったな、これは皮肉ではなくて。
「気分が悪くなる」ことをした相手、つまり批判した者に対して誹謗中傷をもって報復したことに野嵜健秀さんという方は注意しただけで、誰も「気分を悪くするな」と言っているわけじゃあないでしょう。あなたの感情を他人に抑制される謂われは無いはずですから。
その点を「わがままでした」としてしまうと、今後佐藤さんは、ネット上に公開する全ての作品が批評にさらされたとき、笑っているしかなくなりますよ。
ネット上で「●●に批判された。気分を悪くした。」と書くのは可能ですし自由です。野嵜さんが「泣き言」だと思っていても、貴方にはそれを書く権利があると思います。
>これじゃ今でもおれが野崎さんが指摘された間違った仮名遣いを使ってるように思われるじゃないですか。
改善された部分もあれば、改善されない部分もあります。
「会ひた<ひ>な」→「い」
「思つて<い>たので」→「ゐ」
「ありが<と>う」→「た」
「思つていただきた<ひ>」→「い」
「言<ほ>うと」→「は」
「思<う>ところがあるので」→「ふ」
「思<い>ます」→「ひ」
「加<え>ると」→「へ」
「おれは思<う>」→「ふ」
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/kokugo/SeikanaHayawakari.html
と云ふ文書を隨分昔に書いて、長い事公開してゐるんですが、お讀みではなかったやうですね。
「このコラムを楽しみにして読んで下さる方は読まないで下さい」
「樂しみにして讀む」と云ふ言ひ方は「あり」なのですかねえ。何となく不自然な感じがする。
「ひよつとしたら今も知らないところでフアン増やしちやつて※かもしれない」
※のところに何かあるべき語が拔けてゐますね。
御希望があれば、最近の佐藤さんの文章から假名遣の誤りを全部書拔きますが。
まあ、「間違へて何が惡いか」と云ふのが佐藤さんのお考へなのでせうから、私が何を言つても無駄でせうがねえ。
以下、笑ひ話。
赤信號を渡つてゐて警官に注意された醉つぱらひ曰く「赤信號みんなで渡れば恐くない」
「それぢや困るんだよ」と警官、苦笑ひ。
「赤信號だらうが青信號だらうが、道を渡つて何が惡い」
「道を渡るのは構はんが、交通法規と云ふものがある」
「交通法規は絶對的な眞實なのか? 警察の權威を笠に着やがつて、威張るんぢやねえ」
うーむ、すつかりネツトキチガヒの烙印を押された感があるな。ネツトキチガヒ言ふても、朝から晩までモニタに齧りついてるネツト中毒の事ではなくて、webスペース上の変人、と言ふことですよ。言はなくても分かるつつーの。ああこの辺がネツトキチガヒなのか。
webスペースの変人は、世間では普通の人。ならば私は、喜んで変人にならう。♪ふおーえばーらーぶふおーえばーどりーむ小泉はあんまり好きじゃないんだけどね。
野嵜さん
>御希望があれば
いらん。
>笑ひ話
すいません、どこが面白いのか分かりません。日本語苦手なもんで。
人間城の主さん
>「悪い人ではなさそう」という評価は撤回。クズだこいつは。
>「右から見るとはかういふことさ」と啖呵を切ってたけど、右を名乗るのは止めるわけ? ヘタレが。
違います。私は菜食主義者です。もっともおいしそうな肉料理を見ると、すぐに戒律を破ってしまいますが。
>いらん。
かう云ふ言ひ方をするからつつこまれるのだと思ふ。
すいません、何度考へても「笑ひ話」、笑へません。
野嵜さんはこれで笑へるんですか?だとしたら竹中直人よりもはるかにシユールなギヤグセンスの持ち主ですね。おれにはとても着いていけません。
しかしまあ、ケチョンケチョンにけなしてくれましたねえ。ところで、おれの友達は「ケッチョンケチョン」と言ふんですが、どつちなんでせうね?
>ヘタレ野郎
だめだなぁ、「被査問人に警告します、当査問会を侮辱し、その品性と権威を嘲弄するがごとき行いは、厳につつしまれたい!」ぐらいのことは言わなきゃ。所詮知識と教養ある大人に過ぎなかったか。結構、その知識と教養を友として、あなた自身の狭い道をお行きなさい。
こないだせっかくアドバイスしていただいたんで、こんな事を言うのは心苦しいんですけど、しょうがない、言いましょう。
信号無視の酔っ払いが滑稽だと言うのは分かります。だけどそれで「笑え」と言うのはねえ……
つまらないギャグに接すると普通は「寒い」ものですが、おれはこの「笑い話」には寒ささえ感じません。基本的に勘違いしている「笑い」なんですね。所謂「オヤジギャグ」よりも勘違いしてます。構造的には「新聞の一齣マンガ」に通じるものが有りますがそれよりも「笑い」の図式から外れている。
これで笑えると言う人は……うわっさむっ! 「笑い話」自体より寒い!
そんなケーシー高峰よりもハイブロウなセンスには到底着いていけません、おれ。あまりの高度に息が詰まってしまいます。
医学ではこれをハイケーシー、ハイキーシ、ハイキーシュ、肺気腫と言います。
……上毛ふれあいセンターでは大受けだったんだけどね?
野嵜さんが「笑い話」を挙げたのは、佐藤さんを楽しませるためでも笑わせるためでもないでしょう。
「笑え」では無いのです、笑い者になってる佐藤さんを喩えたかったのです。
おそらく野嵜さんはこの笑い話を理解できずにオロオロとさせるのが目的だったので、予定どおりにまともな書き込みが出来ないあなたを見ながら今ごろブランデー片手に夜景を見下ろしながら「フッ」と笑みをこぼされていることでしょう。
もし佐藤さんが噛ませ犬の役を敢えて演じているというのであれば、もうちょっと楽しませてくれる方であれば良かったと正直ガッカリしてます。
一応今後の活躍に、おそらくボクだけでしょうけども期待してます。頑張ってください。
こんなん出ましたけど。
http://fk.sakura.ne.jp/~pu-lab/manzai1.htm
で?
「醉つぱらひ」本人に、この話は笑へません。
あの笑い話は佐藤さんに対してではなくここをお読みになってる方へ向けて書いたことになるんですね。故意に。
佐藤さんは野嵜さんのような旧かな遣いのサイトを表層的にであれ真似てみようと思わせるほど感心があり、高く評価していたわけです。
そのような方に「馬鹿は正面きって〜」ではじまる酷評を受けたのはかなりショックだったでしょう。
このスレッドの初めにある全面的な謝罪に、ボクはこのような佐藤さんの心理の動きを感じました。
それ以降の佐藤さんの書き込みは見るに耐えないものになっています。もちろん佐藤さんが初めに罵倒をもって喧嘩を売ったのですから批判をされた方にとってはそれ相応の対応でしたし、佐藤さんの今の状況も自業自得でしょう。
でも、野嵜さんが多くの方々に正字正かなを広く奨めたいのであれば、もう少し別の書き方もあったのではないかなと、一介の野次馬として贅沢すぎる期待をもっていたりするのも事実です。
この際だから白状しちゃいますと、「モーニング娘。」結構好きなんである、おれ。でまあ「ミニモニ。」とか「タンポポ」とかも聴くんですが、「タンポポ」の『恋をしちゃいました!』を聴いてて、どうにも腑に落ちないのである。曲中で、主人公の女の子がデートの相手とメールで気持ちをやり取りするシーンがあるけど、どー言うことなんだ。デートの最中、ぴつぴこぴつぴこ(としばれそうな擬音だなあ。ぴつぴこ打つもんでもあるまい)メール打つてた、と言ふ事なんだろうけど、デートして一緒に歩いてんのに?言つた方が早くない(語尾を上げて読むこと)?メル友から始まった今時の恋愛を唄った歌だけど、だからってオフラインでまでメールで意志の疎通すんの?なんとまあサイバーな恋愛だこと。
おれはケータイと言うのはどうも情報の鎖に繋がれる為の首輪としか思えない。友達や恋人と遊んでいるのにケータイには必ず出る、と言うのは昨今よく見掛ける光景ではあるけど、プライバシーを侵害されているのに全く気付いてないようだ。映画を観てるのにメール入れられて、「今いいとこなのに」と腹が立ったり、デートで盛り上がってる最中にぴるるぴるると来られて熱情が醒めたりしないんだろうか。おれが友人と遊んでいてケータイに出られたら非常に腹が立つと思う。「おれと遊んでてもつまんないのかよ」と。もしデートの相手がケータイしたらその時点で振るぞ。尤もおれの友達は流石に類が呼んだ友で、ケータイなど持ってない、持ってても掛かって来ないという寂しい連中ばかりである。ついでに言うと、振るどころかデートの相手自体そもそもおれにはいない。
考えてみればケータイがほんとに必要なのって外回りの多い職業、営業職とか、それぐらいではないの。警察官や消防士とかだって、通信機で事足りるだろうし。一先ずおれはケータイに必要性を感じないので持つ事は当分ないだろう。友人は「持てば使うようになるって」と言うが、情報の鎖に繋がれて「私」を侵食されるのは御免である。
本来なら『恋をしちゃいました!』の歌詞を引用すべきなんだろうけど、この件に関してはいまいちはっきりしないので引用しませんでした。へたれだのお。
ギレン「ガルマはなんで死んだんだ!」
シャア「おんさだすけせ」
アムロ「ぶったの!とにもぶだれだごどねがったんに!」
ララァ「んめには、守っべきものも何もねって言わんに……」
シャア「連邦のモビルスーツは化げ物だげ!」
ブライト「右舷弾幕薄っせぞ!何してけつかねん!」
ドズル「やらせはしんね!やらせはしんねぞお!」
シャア「認めっとねえもんだの、若っげすけの過ちってのはの……」
マ・クベ「あれは、いいもんだでば」
ギレン「国民よ立で!」
スレッガー「悲っしどもこれ戦争なんだでば」
カミーユ「ほんとに悪んりゃんは、地球の重力に、魂を捕らえらった人間たちだんだ!」
ロザミア「あんにゃー!」プル・プルツーでも可。
カミーユ「おーい、出してくれっしゃー、のお」
アムロ「おらにはまだ帰れる家があらんだ。こったに嬉っしごどはねー」
んめは、生ぎ延びるごどがでぎっか。
『ガンダム』の引出しはあまりねーな、おれ。
今回の件で勉強になったこと。
知らないところでファン増やしちゃったからと言ってどーと言うことはないと言うことだな、うん。
冬月 「16年ぶりだの」
ゲンドウ「んだ、間違いね。使徒だ」
綾波 「んめは死なね。おれ守っすけ。だば、まんず」
シンジ 「まんずなんて寂しごと言うなっしゃ……おれには何もねなんて、悲しごと言うなで……」
綾波 「多分おら3人目だど思わんせ」
加持 「よお、遅っせがったにっけ」
アスカ 「おめ馬鹿だげ!?」
リツコ 「てんぽこぎ……」
シンジ 「さっけな雑巾しぼっ時、かがって感じした。綾波で案外、主婦とか似合ったりしての、はは……」
綾波 「なに言わんせ」
アスカ 「おらごと、見で!」
委員長 「これにすっかの。明日は食べでくれっかの……」
アスカ 「おらごど、殺さので」
ゲンドウ「んだ、問題ね」
アスカ 「死ぬのはやんた、死ぬのはやんた、死ぬのはやんた、死ぬのはやんた、死ぬのはやんた、死ぬのはやんた、死ぬのは、やんたーっ! か、そこにいだんげ?」
シンジ 「さいってだ、おれって」
カオル 「リリンも分がってらんだろ? ATフィールドは心の壁だってごどせ!」
アスカ 「違う! こったんおれでね!」
ゲンドウ「けえれ!」
ユイ 「生ぎてれば、どこでも天国になるわ。だって生ぎてらんだもん」
アスカ 「けっしょわり」
ルリ 「バガばっかだ」これは違う。
批判したりされたりするのは疲れるな結構。さていつものお気楽コラム行ってみるか。
手紙にしろ設置電話にしろ、普及はそんなに急では無かったのがよかったのかもしれない。マナーやルールが醸成される時間があったからだ。「拝啓」「敬具」、「もしもし」、そうしたものが普及とともに生み出され、定着したのである。ところでケータイはどうか。
(「携帯」と書くと何を携帯しているのか分からないので「ケータイ」と書く事にする。以前「携電」が相応しいのではないかとどこかで読んだ事がある。おれもこれが最もよい略語なのではないかと思う。「携帯」と「電話」の頭を一つずつ取っていて、「電」と言ふ字自体「通信」と言ふ意味があるからだ。尤も「ケータイ」が定着してしまった今、「携電」なんて絶対はやらないだろうて。語感もいまいちだしね。閑話休題。)
ケータイは余りに普及が早すぎたのかもしれない。気が付いてみれば周りがみんな持っている。手紙や設置電話のやうなマナーやルールが醸成されないうちに誰もが手にしているのだ。これじゃあケータイにマナーなど無いのが電話だけになるほど納得がいく。
以前『ゴー宣』で小林よしのりが、映画を見に行ったはいいが前の客のメール着信の画面がちらちらして気になって気になって仕方なかったと描いている。
「ただやっぱりこの映画(筆者注『リング0』のこと)は女子中・高生向けだからケータイの画面がうざったくてしょーがない」
「呼び出し音は切ってるがメールが入るたびにポケットから出して見るから映画のスクリーンの下の方に緑に光る小さな画面が何度もちらついてしらける」(『新ゴーマニズム宣言』第9巻・小学館P49)
映写室で着信音を鳴らすのはまずい、と言うマナーは流石に普及しているようだが、ならばメールならいいだろうと考えた結果がこれなのである。
おれはケータイを持ったことないんだけどケータイのメールってすぐに読まないと消えちゃうわけ?後でゆっくり読むことってできないの?まあすぐに読みたいと言う気持ちは分からないではないけどね。おれもパソコン使ってるとついメールチェックしちやうから。でも高が映画観てる2時間ぐらい我慢できないの?小林のように他の客が液晶画面を見てるのを「うぜえな」とは思わないんだろうか。
佐藤氏は何を反論するのだらう。
「読んでみるとああさうか、となかなか勉強になつた。何しろこの文体はなんちやつてで使つてゐるので、間違つてたら指摘してくれないかな、と思つていたので是非参考にさせて頂く。指摘された個所を見ると我ながら誤字脱字が多いなあ。これからはもつと推敲するか。指摘してくださつた方々、ありがとう。
」と云ふ文章は「皮肉」である、と佐藤氏は言つてゐる。
詰り、批判された假名遣の誤りに關して、佐藤氏は「どうせ好い加減に書いてゐるのだから正しいも糞もあるか」と言つてゐる譯である。
「まあ今回の批判そのものに就いて何故かそんなに腹は立たない。料理を出したら付け合せを貶されたやうなもんだからだ。料理そのものは「食う気にもならない」と言はれてるんだけどなあ?腹が立つたのは寧ろその批判の姿勢そのものである。『脱ゴー宣』著作権論争の時もさうだつたけど、なんで面と向かつて言つてくれないんだろ?メルアドも公開してるし、是非批判して欲しくてかうして掲示板にしてゐるのである。
」
「なんで面と向かつて言つてくれないんだろ?
」とは言ひ得て妙で、要は「マナー違反だ」と佐藤氏は言つてゐるのである。「お前らの批判は正しいのかも知れないが、批判のやり方が惡い」と居直つてゐるのである。
「論爭」の論點は假名遣以外の何物でもない。その論點を、佐藤氏は「氣にしない」と自分で言つてゐるのである。佐藤氏は私と人間城の主さんとによる批判に、絶對に反論出來ない。
にもかかはらず、佐藤氏は「この文章がアツプされた後、悔い改めないのであれば今度はこつちも名指しで晒し者にしてやる。無論こつちは正面切つて批判する。心当たりの有る奴、己のことだ!」と叫んでゐる。さあ、佐藤氏が「正面切つて批判する」ものは何か。假名遣に關する事ではあるまい。ならば、本來の論點とは全然無關係の事柄を、佐藤氏は批判しはじめるに違ひない。
即ち、佐藤氏は、「批判の爲の批判」言換へれば「報復の爲の報復」をしかしない筈である。
議論において、本來の論點で完全に敗北してゐるにもかかはらずそれを認めず、關係のない事も持出して相手の論者にひたすら難癖をつけ續けて自己正當化をはかる人間を、某所の方言で「絶對認めない系」などと言つたりするが、少くともさう云ふやり方は「話のすりかへ」であり、卑怯な振舞ひであると云ふ事は、誰にも否定出來まい。
佐藤氏は、一體全體、何を反論してくるであらうか。
>おれのwebマスターの矜持として、他人が作つたコンテンツに断りなく直接リンクを張ると言ふのは非常に無礼な振る舞いだと考へてゐる。だからおれが人様のコンテンツを批判するのであればコンテンツのタイトルとURLを示すだけである。
[ MEMOPAD - DIVE〜新しい世界へ〜 より ]
webマスターの矜持どう考えるかは好きずきだけども。リンクアンカーの敷設だけをする、という行為そのものに批判は存在しないとおもーのですが。批判の生成元である「自分の主張」は介在してないから。リンク敷設が「批判」であるとするためには、自分の主張をノベる必要がある。ムジュンムジュン〜。
で、下のほうで蕩々とノベられてる「コミケ論」すが。正直言うと「世界で初めて看破したかのようにそんな事を語られてもなー」というか。
2回ほど行つたことがあるにすぎないコミケや、同人ムーブメントの抱える問題点等々についてそれだけ語れるということは、もっとアクティブに恒常的にムーブメントへ関わってる人間なら、それらは既にキャリアのどこかで考え悩む経験をしてるって事でつよ。そら一朝一夕にどうにかなるハナシばかりじゃないんだけど、それでもおのおのの信じる形態と主張と方法でムーブメントへの関与を続けてるわけです。ハイ。
…某 M 組の某 K 大先生が遺した偉大な一節を。
何もしていない人に評論されても聞く気になれません。 (ここで使うか(笑))
…まぁ同人活動への情熱が失せ気味になったボクにも、おもいっくそブーメランリターンしてスマッシュヒットで「が…がお…」な言葉ですがー。
當然、佐藤さんはこの「批判」にも、「正面切つて」反論なさるのでせう。
人間城の主さんはかうおつしやつてゐるのですが>「他人が作つたコンテンツに断りなく直接リンクを張ると言ふのは非常に無礼な振る舞い」なのか。じゃあなんで誰でも読めるように公開してるわけ?さっぱりわけがわからん。それで卑怯者呼ばわりされてもねえ。文脈を故意に歪曲した引用のしかたなどをすれば「卑怯」と誹られてもしかたないとは思うけど、リンクしたということはむしろ対象の主張がそのまま読めるようにという配慮でもある。まったく相手にしたくない時はリンク張らないし。悪い人ではなさそうなのであんまり苛めようとは思わないが、オレも自分の理解できない方針に乗っかってあげるほど親切でもない。反論する機会って、同じことをすればいいだけの話だ。そうやってwebの文章同士で議論や悪口の言い合いが成立してる実例はいくらでもあるわけで。大体「名指し」で批判されるのはイヤだけど面と向かって言えって矛盾してない?
佐藤さんはこの問ひかけに「正面切つて」反論なさるのでせうね。
反論は、決めつけではなく、一々の論證を以て行つていただければと存じます。「私はかう思ふ」ではなく、客觀的な根據の提示を行つていただければ、と存じます。また、氣分に基いた感情的な文章は、「敢へて」であつてもよろしくないものだ、と存じます。
また、「俺はこんなに苦勞して書いてゐるんだ」式の、恩着せがましい言ひ方も避けるべきだと存じます。
正かなの入力が大變だと云ふ話ですが、正字正かな入力を助ける辭書・ツールへのリンク集を作つてゐます。御利用下さい。
http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/Kokugo/IME/Orthographie.html
>この文章がアツプされた後、悔い改めないのであれば今度はこつちも名指しで晒し者にしてやる。無論こつちは正面切つて批判する。心当たりの有る奴、己のことだ!
名前を出さないで皮肉を言ふ事は、名指しで批判するよりも卑怯な事です。或は、「心當りがあるだらう」と言つて「自首」をすすめるやり方は汚いのです。名乘り出た瞬間に、その人間は「私が惡うございました」と言つた事にされるからであります。名乘り出なければ名乘り出ないで「卑怯者」呼ばはりされるのだから堪つたものではありません。反論の機會を與へてゐるやうで、既に罪状が決定してゐると決めつけてゐるから、佐藤さんの言ひ方は卑怯なのであります。
佐藤さんには、自分が卑怯極まる文章を書いてゐる事を自覺して貰ひたい、その點を是非とも悔改めて貰ひたい、と思ひます。
「俺の知らない間に批判をするのは勘辨して呉れ、だが俺はアクセス解析をしてゐるから批判に氣附いた、でも許せん」と佐藤さんは言つてゐるのですが、理屈になつてゐません。
「無斷リンクは無禮」と云ふのも非常識です。代りにURLとタイトルだけを示す、と云ふのは無意味です。「名指し」である點、兩者の違ひはありません。後者は單に讀者の手間を増やしてゐるに過ぎません。
そもそも、佐藤さんは「気分が悪い」としか言つてゐません。これは駄々つ子の泣き言です。「敢へて感情をむき出しにしてゐるので」は嘘です。佐藤さんは進んで(或はわざと)感情的になつてゐるのではなく、感情的になつてゐるのをそのまま表現してゐるに過ぎません。
實際のところ、批判をするなら教へて呉れ、と云ふのは甘えです。佐藤さんは、インターネットでものを言ふ、と云ふ事の恐ろしさを知りません。2ちゃんねるで晒される、と云ふ事も經驗してゐないのではないですか。マナー違反だ、と喚いても仕方のない事はあります。
そして、インターネットに限らず、引用は無斷で可能です。原著者に通知する事なしに、批判を行ふ事は、言論界で當然のやうに行はれてゐる事です。無斷で批判される事に、卑怯も糞もあつたものではありません。
逆に、無斷で批判された、だから批判した奴は惡い奴だ、と決めつけるとしたら、その方が寧ろ卑怯です。常識知らずで世間知らずの自分が惡いのに、その自分を棚に上げて、相手を罵る――こんなに卑怯な事はありません。
佐藤さんのサイトの掲示板に批判を直接書込む事は、佐藤さんの考へでは「さうすべき事」であるかも知れません。が、私がそれを律義に實行したとしたら、どうなりますか。
良く考へて貰ひたいのだが、佐藤さん、あなたの文章には穴があり過ぎます。あなたの文章の假名遣の誤りを指摘するだけで、私の書込みはこの掲示板のかなりの部分を占有する事になります。それでもよろしいと言ふのならばやりますが、それは寧ろ「掲示板荒し」に近いのではないですか。
どうも佐藤さん相手にものを言ふのはやりづらい。「毀誉褒貶なんでも反応が有ればそれで結構嬉しいんだけどね。しかし批判される覚悟、とは言ふものの、ほんとに批判されるとかなり動揺したりする。
」とか「晒し者になるのは構はない。だけど知らない間に晒し者にされてると言ふのは気分が悪い
」とか、曖昧な發言が多いからだ。
この「Aだと思ふ。しかしAではないとも思ふ」式の文章――私はこの手の文章を書く事自體が卑怯だと思ふ。他人を卑怯者呼ばはりする前に、自分の文章が卑怯なものとなつてゐないかどうか、を佐藤さんには反省して貰ひたい。
馬鹿は正面切つて批判されなければ、馬鹿である事を思ひ知る事が出來ない、と云ふ事なので、お言葉に甘えて書込みます。
まづ、佐藤さんの文章は居丈高で、「何様のつもり」と云ふ言葉はそつくりそのままお返しいたします。佐藤さんは、御自分の文章に 關して、もつと自覺的になつた方がよろしいかと存じます。
また、正面切つて批判しろ、と言ふ同じ口で皮肉を言つたりするのは矛盾です。或は、佐藤さんはご自分の信條を述べてをられますが、その信條が「居丈高な注意書きの群れ」に挫かれた事は自慢になりません。皮肉でごまかせたものではありません。
>「内容については論評する気にもならない」んださうだ。何がつてこのコラムがである。アクセス解析をしてゐたら、このコラムを批評してくれてゐるホームページを幾つか見つけた。と言つても内容は前述の通りださうで、おれがこのコラムで使つてゐる言葉遣ひを糺してゐるのだ。
佐藤さんは、人間城の主さんと私をごつちやにしてゐます。なぜ、きちんと區別して批判しないのですか。
>「正仮名遣いもどきを用いるのは恐らく自分が「右翼」であり伝統主義者であることを主張したいからだと思う」どうなんだらう?この文体を遣ふ意図と言はれると……おれもよく分からん。
自分の事が良くわかつてゐないから、他人に穴を衝かれるのです。
>さう言へば「今日の落書き」で「見れます」と書いてるのを気に入らないと書いてあつたな。これは何となく「やーい引掛かつたな」と云ふ気分に何故かなつた。何か意図してたわけでもないんだが。
意圖せざる事に反應があつた、と云ふ事は、佐藤さんの手柄でも何でもありません。寧ろ、佐藤さんは隙をつかれたのであり、佐藤さんは痛手を負つた事になります。「『やーい引掛かつたな』と云ふ気分に何故かなつた」としたら、それは佐藤さんの自己欺瞞に過ぎません。
今回はおれに対する「批判」について、いろいろと思うところがあるのでその旨を書いてみたいと思います。敢へて感情をむき出しにしてゐるので、このコラムを楽しみにして読んで下さる方は読まないで下さい。
おれはかうしてwebスペースで駄文や落書きを発表してゐるわけだが、批判は当然覚悟してゐる。と言ふか、毀誉褒貶なんでも反応が有ればそれで結構嬉しいんだけどね。しかし批判される覚悟、とは言ふものの、ほんとに批判されるとかなり動揺したりする。
ところでwebでコンテンツに直接リンクを張つて批評を加えると言ふのは、「名指し」でするのと同じ意味を持つとおれは思う。実際、著作権論争だとか先日の仮名遣ひだとか、コンテンツにリンク有りで批判された事も何度か有る。
正直言つてあまり気持ちのいいものではない。リンクされてる事を教へてもらふか、アクセス解析でもしなけりや、自分が批判されてるなんて今も気付かなかつたかも知れない。いや、ひよつとしたら今も知らないところでフアン増やしちやつてかもしれない。
ほんと言ひたい事があるなら言つてくれよな。晒し者になるのは構はない。だけど知らない間に晒し者にされてると言ふのは気分が悪い。ほれこんなバカが居るぞと得意がるのはいいんだけど、バカにするんだつたら正面切つてバカにしてくれ。面と向かつて批判できないのなら、卑怯者と決め付けるぞ。卑怯ぢやないか。こつちは反論する機会を与へられてないんだぞ。一方的にバカにされて終りぢやないか。
おれのwebマスターの矜持として、他人が作つたコンテンツに断りなく直接リンクを張ると言ふのは非常に無礼な振る舞いだと考へてゐる。だからおれが人様のコンテンツを批判するのであればコンテンツのタイトルとURLを示すだけである。
おれのコンテンツに直接リンクで批判して下さつた方々はおれにしてみれば2重に無礼な真似を仕出かしたのである。
この文章がアツプされた後、悔い改めないのであれば今度はこつちも名指しで晒し者にしてやる。無論こつちは正面切つて批判する。心当たりの有る奴、己のことだ!
「内容については論評する気にもならない」んださうだ。何がつてこのコラムがである。アクセス解析をしてゐたら、このコラムを批評してくれてゐるホームページを幾つか見つけた。と言つても内容は前述の通りださうで、おれがこのコラムで使つてゐる言葉遣ひを糺してゐるのだ。
読んでみるとああさうか、となかなか勉強になつた。何しろこの文体はなんちやつてで使つてゐるので、間違つてたら指摘してくれないかな、と思つていたので是非参考にさせて頂く。指摘された個所を見ると我ながら誤字脱字が多いなあ。これからはもつと推敲するか。指摘してくださつた方々、ありがとう。
さて皮肉はこの辺にしてと。
「正仮名遣いもどきを用いるのは恐らく自分が「右翼」であり伝統主義者であることを主張したいからだと思う」どうなんだらう?この文体を遣ふ意図と言はれると……おれもよく分からん。パソコンで入力するのは面倒だし、実際現代仮名遣ひでもいいのである。この文体で始めちやつたから、続けてゐるやうなもんである。大体このサイトの他の個所では現代仮名遣ひなんだから。なんで続けてるんだらうな。自分でも分かんないや。まあ若気の至りと思つていただきたひ。若くないけど。主張してゐると言ふよりは気取つてゐる、のかもしれない。
さう言へば「今日の落書き」で「見れます」と書いてるのを気に入らないと書いてあつたな。これは何となく「やーい引掛かつたな」と云ふ気分に何故かなつた。何か意図してたわけでもないんだが。
まあ今回の批判そのものに就いて何故かそんなに腹は立たない。料理を出したら付け合せを貶されたやうなもんだからだ。料理そのものは「食う気にもならない」と言はれてるんだけどなあ?腹が立つたのは寧ろその批判の姿勢そのものである。『脱ゴー宣』著作権論争の時もさうだつたけど、なんで面と向かつて言つてくれないんだろ?メルアドも公開してるし、是非批判して欲しくてかうして掲示板にしてゐるのである。
陰口はもううんざりなんである。正面切つて言つて欲しいよなあ。そー言うお前はどーなんだ!?と言はれると返す言葉ないけど。いや、正面切つて言ほうと思つたんだよ。そこに行つて掲示板覗いたら……いやー引いた引いた。居丈高な注意書きの群れ。何様のつもりなんだらう。「批判は自分のページでしてくれ」とか言つてるし。ぢやあ、さうします。
しかし物事つてのは幾らでも小難しく言へるものだね。「教科書」で硬い話題が続いてしまつたので、柔らかめにトンデモな話をしたのだがちつとも柔らかくならない。とは言へ余り浮かれた文章もおれには書けない。まあいいや、小難しく行かう。
前回、お呪いに堕した風水を嘆いたのだけど、擬似科学を引き合ひに出した。例として「磁気治療器」を挙げたのだけど、これはつまり、商品名を出していいものやら。いろいろと面倒な事になりさうなので、止めやう。まあ磁石を患部に当てて、痛みやコリが和らぐものの総称、と言へばお分かりになるであらうか。
これはおれも、最近話題になつた『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(ロバート・パーク著主婦の友社刊)を読んで気付いたのである。実は磁気治療器はおれも使つたことがあるのだが、取説を読んでも「磁気がコリをほぐす」とは書いてある。これが湿布なら主成分は消炎鎮痛剤だから、痛みは和らぐし筋肉の張れも引くだらう。とは言へ「コリがほぐれる」わけではないんだけどね。しかし磁石で炎症や痛みは治まるまい。とにかく「効く」としか書いてないのだ。
だけど例へ磁気が筋肉を引つ張るのだとしても引つ張り放しでは緊張してゐるのと同じだから意味無いし、低周波治療器のやうに断続的に引つ張たり止めたりしなければならないけど永久磁石ぢや無理だ。血液の流れに影響を及ぼすにしたつて、血液の主成分は水だぞ?水は磁気に影響されないし、血液中で磁気に影響されさうなのは赤血球中のヘモグロビンぐらひだけどそれとて酸化鉄なのだし第一赤血球が磁気に影響されて止まつたら血液の流れが阻害されて却つてコリがひどくなるでせうに。
後考へられるのは神経である。神経は電気信号を伝へる、つまり電流が流れてゐるのだが、電流は磁気に影響される。あつ、これは凄い事に気付いてしまつた。磁気が神経電流に及ぼす影響、またその刺激による筋肉の収縮、これらを研究すれば、いや待てよ、磁気治療器は一定の磁力を与へてゐるだけではないか。それぢやあ一定の刺激しか与へないからやつぱり却つてコリをひどくするだけぢやないか。ああ、道が開けたと思つたのに。
おれの母親は「上半身は+と−が両方有るから何を張つても効くけど、下半身は人に因つて+と−が違ふので、迂闊に張つてはいけない」と主張する。どこの誰に聞いたか知らないが、何ですか+と−つて。田舎のおばちやんだからせうがないけど。
うーん小難しい。肩が凝つた。
「陰」と言ふと「悪い事」であり、「陽」は「いい事」であるかのやうに思へる。だが「陰」も「陽」も別に「善」でも「悪」でもない。「陰」が強まれば「陽」は弱まり、或ひは拮抗して強まる場合もある。確かに身体の「陰」が強くなれば体調は悪くなつたりはするが、逆に「陽」が強くなりすぎてもやばい。(精神の「陽」が強くなると言ふ事はつまりハイの状態で、余りに強くなるとラリつてゐるのに他ならない)書いてて気付ひたのだが、陰陽五行は現象を説明するのであつて、お呪いの方法ではない、のではないか。
α波とリラツクスの関係はよく言はれるが、世間ではα波が出るとリラツクスできる、と思はれてゐるがこれは本末転倒であり、リラツクスの結果α波が出るのだ。陰陽五行も「黄色いものを持つと金運が開ける」のではなく、「金回りがよくなつたのは『土生金』、「土」の気が強くなつた」と考へることはできる。確かに黄色は「土」の気だが、だから黄色いものを身につければ金運アツプと言ふのは短絡的過ぎないか。雷が起きるのは地面から雲への放電が原因だが、そこまで至るには低気圧の発生に因り雷雲が沸き起こるためであり、低気圧自体は地球の天候に左右される、と言ふやうに、「土」の気が強いと言う事は「火生土」、「火」の気が強く、また「木剋土」、「土」を抑える「木」が弱まつてゐる、肉体は「木」の気だからそれが弱まつてゐると言ふ事は……まあおれは陰陽五行には素人だからこれ以上の深入りは避けるけど。ただ、1つの家の気の流れが良くなつたと言つても、そのせいで正常に流れてゐた隣家の気が阻害されるかもしれないし、また1軒気の流れが変わつてそれが周囲にどんな影響を及ぼすのか。そこまで説いた風水師をおれは見たことは無い。
夢枕 獏原作『陰陽師』のマンガ版で、作者岡野 玲子さんが安倍 晴明に言はせてゐるやうに、人は分かりやすいものを好む。陰と陽、木火土金水の相生相剋、なんて話より、「黄色いもので金運アツプ」の方が人口には膾炙しやう。だが風水はお呪いなどではなく、陰陽五行は素人が手を出していいものではないはずだ。つまり核物質をそれと分からず素手で触りまくるやうなものだからだ。
こんなことはおれなどではなく、本職の風水師が世間に伝へるべきなのだ。しかし風水師は占い師か呪い師に自らを貶めてゐるのである。かくして「イオン水」だの「磁気治療器」だのと同じやうなお呪い風水が世間に流れるのである。
前回、あんな事を書いたのであかうんたびります。信じてました。おれ。UFOも宇宙人もキヤトルミユーテイレーシヨンもミステリーサークルもノストラダムスもエドガー・ケーシーも幽霊も心霊写真も超能力もあすか あきおも『ムー』も。ご安心下さい、今は全く信じてをりませんから。
実はこの点でナインテイナインに感謝してゐるのである。以前にも別のところで書いたのだが、ナイナイがやつてた深夜番組に登場した自称宇宙人の「宇宙語」を聞いて「あこりやインチキだわ」と気付き、足を洗へたのである。
おれは足は洗つたのだが、世の中には相当需要があると見へて、巷からトンデモの尽きることはない。高速○○線のトンネルが、「昔このトンネルの入り口で若い女が死に、その怨念が今もこのトンネルで道連れを待ち受けている」とか言つた説明で、「霊が招く事故多発スポット」と紹介されてたりする。しかし高速もトンネルも事故は一般道に比べて起きやすいし、調べてみると同じ線の、全く何の謂れも無いトンネルのほうがよつぽど事故つてたりする。その若い女と言ふのが死ぬまでそこで事故は無かつたのか。その前に事故があつたらそれはどうなるのか。「このトンネルは古戦場で、地元の領主が悲惨な最後を遂げ、その怨念が……」いい加減にしなさい。
一頃「風水」と言うのが流行つたが、「黄色いものは金運を招く」だの「花を置くと気が整えられて開運に繋がる」だの言つて。風水の基本となる陰陽五行説にはおれも興味はある。それは西洋科学が「原子」に因つて世界を解き明かさうとする試みであるに対し、陰陽五行は「陰」と「陽」、木火土金水の「五行」を以つて世界を説明する手法であり、西洋科学とは違つた形で、世界の謎を提示してくれるからだ。丁度数学が0と1で世界を表すやうに。
陰陽五行は、思想として必ずしもインチキとは言へない。西洋科学が取りこぼしてゐる部分をカバーしてゐる面もある。但し今言はれてゐる風水となるとおれはどうかと思うのである。そもそも風水とて今でこそ「開運のお呪い」に成り果ててゐるが、本来は陰陽五行に基づき、天子たる皇帝が住まふ都に相応しい場所はどこかを決定し、霊的な防御を施し天命を永らえるための研究である。運がいいの悪いのの次元の話ではなかつたはずなのだ。(続く)
ノストラダムスつて凄ひねへ。一発で変換したよ。
2001年である。キユーブリツクとクラークが予言したスターチヤイルドへの進化は起りさうも無いけど、1999年がもう一昨年の話である事は今更確認するまでもない。ないんだけど……
さう、1999年からもう2年、丁度7月である。なのに、未だに世間にはUFO(猪木の団体ではない)とか、心霊写真とか、風水だとか、全く廃れる様子もなく流布してゐるのである。「インチキ」と言ふ言葉は最早死語なのだらうかと首を傾げたくなつてしまふ。
一昨年まで本屋に行けば「ノストラダムス」の7文字がそこかしこで見受けられた。ところが、1999年7の月も過ぎると、一斉に姿を消したのである。ノストラダムスの予言は、1999年以降も存在してゐると言ふのに。尤も「ノストラダムス」ぢや流石にもう誰も信じはしないだらうけどね。たまに「ノストラダムスの予言した」1999年はまだ来てないとか、1999年以降の予言をネタにした本は見かけるけど。
所謂「トンデモ」、予言とか、心霊とか、疑似科学とかは、どれも似たやうな「臭い」がする。つまり、えらく腑に落ちると言ふか、分かりやすいのである。例へば、「光に対して運動してゐても観測される光の速さは常に変らない」、つまり光速度不変則なんて納得行かないでしよ?これは相対論に基づく空間の歪みや時間の遅れに因つて導かれる速度合計式を用ゐれば証明できるんだけれど、「光に向かつて光の10分の1の速さで走つたら観測される光の速さは1.1倍の速度で観測される」方が納得できるでしよ。だけどかうすると、実際に観測されてゐる事象の辻褄が合わないのだ。しかしトンデモはその合わない辻褄も手前勝手に説明する。「重力レンズは時空の歪みなどではなく太陽や銀河の周りの星間物質に因る屈折である」これはあるトンデモ本で実際に見た記述なんだけど笑つたなあ。
予言にしたつて、聖書でキリストが予言を禁じてゐるのに、「キリストの霊言」で予言してゐたりする。黙示録で神の言葉を騙る予言者が多数現れるだらうと予言されてゐるのは可笑しいし、同時に興味深い。黙示録が書かれたのはキリストの死から数百年後頃とされてゐるが、その頃から既に神の名を騙る予言者が大勢居た、と言ふことなのだらう。黙示録からもう1000年は経つてゐると言ふのになあ。
ここんとこ硬い話題が続ひてしまつたので、たまにはちよつと柔らかめの話をしてみやう。
オタクと言ふのは、自分が体動かすの嫌いな癖に格闘技好きが多ひ。「格闘技オタク」は実際に格闘技をやつてゐるわけではなく、「格闘技の知識」に就ひてのオタクなのだ。実際には身体を動かさない、習つてもものにならない、この欲求不満を知識を蓄へる事で解消してゐるのだ。
ここまで書けば言ふまでもないが、おれも格闘技は好きである。NOAH、新日の中継はよく観るし、K1、ボクシングも観る。実際にプロレスの試合に足を運んだ事も何度かある。
今は大分沈静化した感はあるが、「マンガ(アニメ、ゲームを含む意味での)」業界でも、空前の格闘技ブームがあつた。おれは『ドラゴンボール』の大ブレイクがその皮切りだと思つてゐる。その後の『ストII』に因つて始まつた所謂「格ゲー」ブームがあり、格闘技をテーマにしたマンガやアニメも多く作られた。『ストII』のTVアニメは駄作だつたなあ、毎週観てたけど。しかし『グラップラー刃牙』のやうな良作も生まれた。『刃牙』はやつぱり「トーナメント編」、あらゆる格闘技を闘わせてしまへと言う格闘技好きなら誰もが夢見る、しかし馬鹿馬鹿しさに満ちた考へ(中島 らもさんもエツセイで書いてゐるが、それは「鯨と象とどちらが強いか」と言ふ問ひに他ならない)をほんとにやつてしまつたのが白眉である。
しかし格闘マンガでは立ち技系、それも空手や拳法、さもなきやバリトウードが主人公である。それらが悪いとは言はんけど、数が多過ぎるのだ。他の種目はほんと脇役扱い。その点『刃牙』は相撲やプロレス、合気道も肯定的に扱つてくれてて嬉しかつたなあ。マウント斗羽対猪狩寛二はほんとやくやつてくれた。「斗羽と猪狩が人知れず試合していいわけねェだろーッ!
」
相撲と言へば、今でも思ひ出す事がある。朝潮、今は若松親方となつてゐるが、引退し親方となつた朝潮が部屋を開いたばかりの頃である。新親方の稽古の様子をTVで特集してゐた。まず新弟子が鉄砲をしてゐるのだが、「ぱーんぱーん」と乾いた音がする。まあ当たつたら痛いだらうて。その後朝潮も鉄砲をするのだが、それが弟子とは違つて、「どしーんどしーん」と響くのだ。巨躯の朝潮の体重が、如何に突つ張りに乗つてゐるか知れやう。TVで相撲を観てゐても、張り手は相手を押し退けてゐる様にしか見へないが、この「どしーんどしーん」が繰り出されてゐるのだ。
相撲は格闘技オタクには馬鹿にされる事が多ひが、どうしてどうして、相撲取りもやはりプロの格闘家なのである。
図書館には余り行かない。読みたひ本があれば買ふからだ。買ふまでもない、買ふにはちと高ひ、印税を作者に与へてやるのはいやだ!つて言ふやうな本があれば図書館に行く。
こんなおれだが、実は図書館にはちよつとうるさい。小学生の頃は給食を食ひ終はれば友達は体育館に走つたのだがおれは図書館に行つた。なんといやなガキだろ。こんなガキだから、大人になつて世間知らずの頭でつかちの理屈ばつかり捏ねてるオタクになるのだおれは。なにが情操教育だ情緒不安定で鬱病にすらなつたぞおれは。
大學の時司書課程をとつたのだが、そのとき習つたことが如何にウソか、最近分かつた。いい見本がおれだ。とまれその課程で習つたのだけど、今図書館はガキに媚びなきやいけなひらしひ。いや、「媚びる」は流石にないか。兎に角、子供に来てもらへるやうな場所にしやうと。何故子供か。つまり子供の頃から、本に触れることで本に親しみを持ち、知識と精神を養うんださうだ。
ウソだね。
確かに子供は来てゐる。だが絶対本になんか興味なささうなガキばかりである。親に振り向ひて貰いたくて奇声を上げる。公園に連れて行つて一緒に遊んだ方がよほど子供のためになるだらう。第一図書館から借りてきた本で子供が本を読むやうになるのか?おれが本を読むやうになつたのは親が本を買つて来てくれたからだ。家に本があればこそ子供は本を読む。再読も読書の習慣を身に付けるのに有効な手段だからだ。2週間ばかり借りただけで習慣づくとは思へない。
結局親は託児所つき無料貸本屋としか思つてないのだらう。図書館は文化施設だ!美術館で子供に奇声を挙げさせるか!?体育館だつて子供が野放図に走り回る場所ぢやないだらう。
おれは図書館は静かに本を読むところだと思つてゐた。最近はどうやら騒いでも構わないらしひ。奇声は言ふに及ばず、走り回る、書架に登る、本を書架から放り出す、そしてそれをまるで注意しない親。本を貸し借りする時も、子供に「お願いします」「ありがとうございました」の一言も言はせない。なるほど、やんごとなきお子様ゆえ司書ごとき木端役人に声をお掛けになる必要は無いわけですな。……まず親のしつけがなつていないんぢやないか!
この間図書館に行つたら、南国の猿がきやつきやつとおれの横を跳ねて行つた。嗚呼……図書館から子供と言ふ名の猿と調教も出来ないバカな親を追ひ出せ!図書館を知識と教養ある大人の手に取り戻さう!
前回のコラムを書ひた後、『Yahoo! ニュース』を見たら栃木県の下都賀地区で扶桑社教科書を採用することになつたのこと! よし、皮は切られた、これからだ!
「民主主義を否定する者は許さぬ」と言ふ発言は二重の意味で民主主義に悖つてゐる。全ての意見、民主主義の否定さへも認めるのが民主主義であるのにそれを認めないと言ふ矛盾、またこの発言をする者自身が民主主義を否定してゐるのに他ならないと言ふ矛盾である。如何にフアシズムが民主主義の一形態か分からう。
各地の教科書採択地域で扶桑社教科書を「採択しない」と言ふ決定が相次ひでゐる。サヨクにとつては喜ばしひ結果だらう。「民主主義の敵」が敗北していつてゐるのだから。
おれが思うに、余りに話題になり過ぎた結果なのだ。「つくる会」の目的はベストセラーなんかではなく、全国の学校で採用される事だつたはずだ。だが扶桑社教科書に関して、世間に流布するイメージは悪い。実際、それはまさに「イメージ」でしかない。的外れな批判ながらしかし、確実にネガテイヴである。私立校が幾つか採用はしてゐるものの、このままでは公立の学校ではほとんどの地域で採択されない、と言ふ事態も有り得る。「つくる会」は戦略を誤つたとしか言ひやうがない。悪いイメージが世間に流布するのを放置しておいてしまつたのだ。ベストセラーになつたにも関わらず、世間に流布するイメージは相変わらず悪い。
事実、不採用を決定した地域からは、政治的な問題から採用を見送つたと言ふ声も聞こへる。「中韓があれだけ騒いでいるから」「何かと話題だから」。教科書そのものに問題があるのではなく、採用する事自体が問題になつてしまつてゐるのだ。内容を鑑みて不採用を決定するのならば仕方ない。だが内容の是非はさておき、「まず扶桑社は採用しない」ことにしてしまつてゐるのだ。これが如何に異常な事態かマスコミは伝へない。不採用に万歳三唱するだけだ。
井沢元彦が言ふやうに、それこそ非民主的な教科書があつたつていいのだ。採択の段階で吟味し、使はなければいいだけの話だからだ。だが世間に流布する悪印象だけや政治的な配慮で読みもせず門前払いで果たして「選んだ」と言へるのだろうか。
「民主主義の敵」であるならば徹底的に排斥する。繰り返しになるがそれは非常に非民主的な行為である。中韓の外圧、不採用は嬉々として報じるマスコミ、この教科書だけは使いたくないと叫んできた教育者、検定前から大声で罵つてゐたサヨク。果たして「つくる会」と扶桑社教科書と、フアシズムなのはどつちなのか。「市販」と言ふ形で蒔かれた種が、一つでも多く芽吹いてくれる事を切に願ふ。
小林よしのりが以前『ゴー宣』で言つてたやうに、朝鮮半島の歴史は、内輪揉めをしては大国に翻弄される、の繰り返しである。3国時代には倭の介入を許しているし、百済が滅んだ後も高麗と新羅の紛争が続いた。高麗が半島を統一するも元の支配下に置かれ、李氏朝鮮が取つて代はるが秀吉の侵攻に混乱し一時は楽浪郡まで攻め込まれ、近代化できなかった李王朝は日本の併合をみすみす許し、独立後も親米派と親ソ派に分かれ南北に分断してしまった。
日本が元寇に挙国一致体制で臨み、太宰府で食い止めることが出来たのとは対照的である。その後鎌倉幕府はがたがたになつたけど、日本は1つの国であり続けたのである。余りに日本びいきな見方だ?日本人が日本びいきして何が悪いこら。
とまれ、こうやつて朝鮮半島の歴史を見てみると、朝鮮人というのは反省が出来ないのかな、とまで思へてくる。この場合の反省は今韓国や中共が日本に求めるやうな過去を只管悔やむ事ではなく、過去に反へつて省みて、将来に生かす事である。
以前韓国の歴史教科書を読んだが、「日帝支配」の40年間の記述は、総じて独立への闘争の歴史なのである。日帝の苛烈極まる抑圧に対し、朝鮮民族は誇りを失わず闘い続けた。結果日本の敗北に因り、独立を勝ち得たのだと。だけどそれは、裏を返して意地悪な見方をするとかうも言へる。40年間独立闘争を続けてきたにも関わらず、とうとう自力では独立できなかつたのだと。その後を見よ、アメリカと中ソの支配下に置かれ、南北に分かれてしまつたではないか。
なぜ日本に併合されるに至つたのか、そして40年間も独立できなかつたのか、40年の間には何があつたのか、日本と韓国の間には暗黒しかなかつたのか、ここまで書いてはじめて「歴史」であり、「反省」することができる。だが今の韓国にはそれはない。ただ日本が悪かつたことにして歴史から目をそらしてゐるのだ。被害者の立場でしか歴史を見れない、これが即ち被害者史観である。
おれは予言しておく。被害者史観のままでは、いずれ韓国は再び植民地への道を歩む事になるだらう。恐らく北朝鮮に併呑されて、終はりだ。いやすでに精神は植民地化されてゐるではないか。南北会談の時の、韓国国民の嬉しさうな表情を見たか。北朝鮮による半島の支配、それは最悪のシナリオなのだけど。
扶桑社教科書の波紋は、今や日韓の外交問題から、民間交流にまで発展してゐる。やれ日韓スポーツ大会が中止となつただの、韓国の学生の訪問が取り止めになつただの、何を勘違いしてるんだか。つまり韓国の歴史認識にそぐわない思想は許さないと言ふわけだ。如何に韓国が「民国」の名に相応しくないか分からう。ま、こちとら民主国家だから、「許さない」のも認めるけどさ。だけど民間交流にまで歴史認識を持ち込むのは筋違いである。日本人が全員扶桑社教科書を支持してゐるわけではない、それこそ否定する人も居るだらう。それ以前に、たつた2冊の教科書で交流を取り止めるやうな連中と付き合うのはこちらから願い下げだ。学生の訪問なら、日本と韓国の学生同士、この問題に就ひてとことん話し合へばいいぢやないか。日本の学生が洗脳されておしまいだらうけど。
そこまで韓国が日本の歴史観にけちをつけると言ふなら、こちらもつけてやる。
さて明治の元勲の1人に、伊藤博文がいる。勘の鋭い方ならもうお分かりだらう。伊藤は暗殺されて世を去つた。伊藤を暗殺した安重根は韓国では救国の英雄とされ教科書にも登場する。日本でも日韓友好の掛け橋と称えられている…… ちよつと待てえーい!テロリストですよ皆さん!
李舜臣を英雄視するのは良からう。秀吉軍と戦い、善戦したのだから。だがテロリストはテロリストである。伊藤はアジア初の近代憲法と議会政治、内閣制を創設し、また日本の初代内閣総理大臣であり、明治の元勲の1人である。翻つて安はどうか。伊藤を暗殺した以外何をしたと言ふのか。この際だから言ふ。安を英雄と祭り上げる事は、日本の立憲政治、内閣制、議会。近代政治、明治の先人に対する侮辱である!このテロリストのどこが友好の掛け橋なのか、大いなる障碍ぢやないか。
さらに言ふと、伊藤は明治政府の中でも親韓派であり、韓国の独立自決を望んでゐた。だからこそ朝鮮総督府を創り、自ら初代総監となつて韓国を見守ろうとした。だが暗殺に因つて親韓派のリーダーが居なくなり、また元勲が殺された事で明治政府は態度を硬化させ併合に雪崩れ込んだ、とする見方もある。であれば救国の英雄どころか、併合を加速させてしまつた売国奴としか言へないではないか。
教科書で安重根を取り上げるのならば、英雄ではなく「テロリスト」と明記しなければならないのではないか。テロリストなんだから。
豊臣秀吉が英雄である、と言ふのは世間に認められてゐると思ふ。足軽から関白太政大臣にまで身を興し、全国統一を成し遂げたから、と言ふのがその理由とならう。だがその後がいけない。朝鮮へ出兵し、野望の侵略者と成り果ててしまつたからだ。
本当にさうだらうか? 日本が朝鮮半島に攻め込んだのは3回ある。1回目は大和朝廷が任那(「みなま」つて入力しても出ないとはどう言ふことか)を足掛かりに。3回目は日清戦争。そして2回目は秀吉である。この3回のうち、個人で出兵を決めたのは秀吉だけだ。しかも秀吉は半島に留まらず、支那大陸までも狙つてゐた。半島は侵攻経路に過ぎなかつたのだ。或ひは東南アジア、インドをも攻め下り、ペルシア、ヨーロツパまでも眼中にあつたかもしれない。結局その野望が頓挫したのは、明の援軍(ぼやぼやしてたら攻め込まれてしまふ)と秀吉自身の死である。秀吉の死に因つて退却してしまつたと言ふ事実が、この出兵が秀吉個人の野望による事を証明してゐる。ここまでの覇者は後にも先にも日本には居ない。朝鮮出兵も含めて、秀吉は英雄なのである。
さう考へると、支那事変は偉業と言つていいかもしれない。何しろ歴史上唯一、日本が支那に攻め込んだのだ。鮮卑(こないだ知つたのだけど鮮卑つて朝鮮民族の祖先なのだね)や蒙古、満州族に支配された事はあつた。だけど倭が海を越へて攻め込んできた事はないのである。欧米列強が一部を割譲したり租借したりはした。だが、首都南京から国民党を追い出し、重慶にまで後退させたのは日本である。
こう見ると何故中共が大東亜戦争に就ひていつまでもぐじぐじ言ふのか良く分かる。中共、つまり漢民族は先述した通り、匈奴や女真など異民族に悩まされ続け、それだけに異民族を蛮族と見る傾向は強い。そして、1番最近中華に楯突いた蛮族は東夷、倭なのである。こりやあ恨むだらうね。100年はぐたぐた言い続けるらう。
どうだ、これが「右から見る」と言う事さ。小林よしのりや「つくる会」にきーきー言ふやうぢや、これ読んだら気絶するしかないぞ。
非常にがつくり来てゐるのである。
おれの住む県で、2つの採択地域で扶桑社の歴史・公民教科書を採択しない事が事実上決定したと新聞で報じられてゐたのだ。県内には14の採択地域があるが残り12地域となるわけだが、果たして1つでも扶桑社を採用する地域はあるだらうか?
しかしながら採択されなかつた事自体にがつくりしてゐるわけではない。扶桑社教科書が採択されるのが難しい事は予想できてたし、どの教科書を採択するかはその地域で決めることだし、その地域に住んでゐるわけでもないから決定に口を出す権利は無い。採択協議会が有名無実化してゐて、「前回と同じでいいんぢやないの」で決めてしまふところもあるだらうし、その地域で使用するのは相応しくない、と判断されたのなら仕方ない。そもそもそれが最も真当な理由だ。だけど不採用となったその地域は、「つくる会」のシンポも催され、歴史教科書では歴史学習の例としてその地域の偉人を取り上げてゐるんだけどなあ。さてどこでせう?
がつくり来たのは、不採用そのものではなく、それを報じた記事の方である。まあ地方紙なんてそんなものかもしれないけど、見出しが「『つくる会』教科書採用せず」なのである。この時点で最早偏向してゐる。まず「つくる会」教科書が採用されなかつた事こそが重要なのだ。まあ採択が決定した事自体は記事にならんかもしれないけど、見出しを「2地域で教科書事実上決定」とでもして、副見出しに「『つくる会』教科書は採用されず」と付ければ良からうのに逆なのだ。大体、協議会の判断が下つただけで、まだ正式に決定したわけでもない。言つてしまへば、「採用された」方が余程報じるべきニユースだと思うのだが。
尤も協議会の意見にもがつくり来たものがある。「子供には内容が難しい」おいおい、中学生用教科書ですよ!? 「中学生が使うに相応しい」と文部科学省が認めたんですよ! この地域の中学生は余程偏差値が低いらしい。尤も高校で採用したところもあるらしいけど。それにしても言ひ訳にしては苦しいし、本気で言つてるとしたら不採用にした事より問題である。「受験には役に立たない」発言に匹敵する失言だと思ふ。まさか採用したら「難しい」ことになるからぢやないだらうな。
戦後民主主義は、「自分」こそが大事、と子供たちに教へてきた。結果、本当に自分「だけ」が大事、いや「自分」とは何かさへ良く分かつてゐない連中を生み出してきたのである。『ゴーマニズム宣言』から言葉を借りるならば、「個」さへ作れば、「公」は自ずから立ち上がつてくる、と戦後言はれつづけた。だが実際には「公」はないがしろにされずたぼろとなり、「個」もまたあやふやなままなのだ。小林 よしのりや西部 邁が言ふやうにそもそも「個」と「公」は対立する概念ではなく、互いに内包し合う関係なのだ。
では「個」と「公」を再建するにはどうしたらいいか、「個」は人間がその成長過程で1人1人作り上げていくものである。では「個」を育てるには、連綿と受け継がれてきた「公」とは何か教へるべきではないのか、と言ふのが「新しい歴史教科書をつくる会」が歴史・公民教科書を作つた理由と言つて良からう。尤もこの趣旨は、「個」と「公」は対立するもの、「公」=束縛、としか考へられなければ受け入れられないだらうけど。もしくは「公」と言ふのは「立脚点」と考えてもいい。足場があればこそ、高く飛び上がつて世界とは何か見に行く事もできる。
さて「洗脳」と「教育」の違ひとは何か? 色々定義はあらうけどおれは洗脳とは「疑う事が許されない」事だと思ふ。学校を終へて、 ふと振り返つてみると、あつ、教はつてきたことは間違つてるぢやねーかと疑ふ事ができる、これは教育だし、間違いだと気付いても 「間違つてた」とは言へない、疑う事すら許されないのが洗脳だらう。
日本はまだ「教育」と言へやう。何しろ戦後民主教育を批判して良いのだ。対して中韓がさうでないのは明白だ。歴史を自分たちに 合はせて書き変へろと言つてきてゐるのである。歴史認識や戦争責任で中韓から日本を弁護する声が少しでも聞こへてくるだらう か。あつたとしても日本のメデイアは伝へないだらうけど。戦後民主主義こそが絶対であり、それを疑う事は許されないと子供達に教 え込もうとしてゐるそれこそ民主主義にもとる連中も日本に居るけど。
何にせよまるで歴史が無いお題目より、連綿と伝へられてきた「日本」とは何か教える方が「日本人」の教育としては相応しいのは 間違いない。「グローバル」だの「地球市民」だのはその後で十分である。
おれは常々、人文科学と言ふのは「自分が今何処に居るか確認する」学問だと思つてゐる。自然科学は「今自分が居る世界はど のやうな仕組みになつてゐるのか解き明かす」学問だと思ふのだがこれはまた別項で。
ところで学校で習う人文科学と言へば国語、社会、中学校以上なら英語も入るだらう。
学問と言ふのは全くばらばらに存在してゐるわけではなく、例へば言語は民族に拠つて異なるが、言語の差異はその民族が住ま ふ地理条件、また経て来た歴史に因つて生じるし、また言語自体が、その民族の特徴性を決定づけたりもする。西洋医学はアフリカ では生まれなかつたし、ホピ族の伝承はインドでは発生しなかつた。
最近『銃・病原菌・鉄』を読んだのだけれど、世の中にはおれと同じやうな事を考へる人が居るのだなと思つた。つまりこの本は、民 族や歴史と言つたものは必然性があると主張してゐるのだが、おれも以前から「歴史に偶然はない」と考へてゐたのである。極端な 話、「歴史方程式」を作つて、これから歴史がどうなるのか、全て計算ではじき出せると思ふ。但し因数が余りに膨大で、尚且つ全て の因数を式に盛り込むのは困難、と言ふかはつきり言つて不可能である。だから歴史を予測するのは非常に誤差が生じてしまふの だ。何かアシモフの『フアウンデーシヨン』じみてきたな話が。
えーと何を言おうとしてたんだつけか。
つまり学校で人文科学、国語や社会を学ぶと言ふ事は、取りも直さず、「自分がなぜ今ここに居るのか」確認する事でもある。言い 換へれば、足元をしつかりさせるための学習である。ところが、踏み締める大地など無くていい、ふわふわと宙に浮いてゐた方がい いのだ、と主張してきたのが戦後民主教育なのである。
だが足元が覚束なくて、どうして天の星に手を伸ばせうか。天の星、つまり世界とは何か知るためには、まず自分がどこに居るか分 からなくてはならない。オウムを見よ! 自分とは何かさえろくに分からぬまま、星を掴んだと思ひこんだ連中ではないか。しかし彼ら は、まさに戦後民主主義教育の申し子と言へるのである。
結局教科書展示会は都合がつかなくて見に行けんかつた。ほんとに「つくる会」が言ふやうにほかの教科書も書店で見れるやうにし てもらえんもんだらうか。小中学生の頃教科書をなくしてしまうと先輩から貰うしか手が無かつたのだけど、そのやうな事態もあるのだ から市販してほしい、全く。
今朝新聞を見たら、中韓の教科書修正要求を政府が拒否したことが大きく報じられてゐた。考へてみれば当然の事であつて、日本 が中韓の教科書(以前韓国の歴史教科書を読んだ事が有るけど明らかにおかしかった)に対し修正を要求したら反発は必至であら う。「そちらの国の歴史は間違つてるよ」と言つてゐるのだから。言つたつていいと思ふんだが。
さて相も変らずサヨクの扶桑社歴史教科書に対する攻撃は続ひてゐる。坊主憎けりや袈裟まで憎ひのか、検定を通した文部省の 歴史認識や指導要領にまで噛み付ひてゐる。だつたら文部省に対して歴史認識の修正の要求と、然る後に再検定でもさせりやいい のに。修正要求はもうやつてたりして。それに検定自体問題が有るのなら、検定を通つた他の教科書にも問題が有る、と言う事にな るのに、やつぱり扶桑社教科書だけが攻撃されてゐるのである。中韓からの修正要求だつて、扶桑社教科書だけが対象となつてゐ るわけではないのに。
それこそ井沢元彦が言ふやうに、思ひつきりフアシズムな教科書だつて有つてもいいんである。そんなトンデモない教科書、検定だ つて通らないだらうし、採択だつてされるまい。扶桑社教科書はこれまでの教科書とは少し毛色が違うだけで、だからこそ検定も通つ たし採択する学校も出てきたのだ。西原理恵子さんぢやないけど、ソ連や北朝鮮を王道楽土と生徒を洗脳しておひて、まるで反省も 謝罪もしていないやうな日教組や、それを応援するサヨクは反発するだらうけど。
扶桑社教科書は今のところ、風穴開けたに過ぎないのである。採択されなきやまた塞がつてしまふ程度の。それでも『新編日本史』 のやうに抹殺されてしまはなかつたのは、今はこの教科書が受け入れられる下地が在るからだらう。この波紋が静まる事無く、大きく 広がつていくことが望ましひ。サヨクの攻撃も鬱陶しいけど、連中の化けの皮がぼろぼろとはがれていくのだからいいのかもしれな い。『朝生!』の「受験に役に立たない」発言には恐れ入つたよなあ。
コミケがマンガ業界に齎したものつて何だらうか。
自費出版で飯を食へる才能が在るにも拘はらず、仲間意識に甘へだらだらとすり減つていく才能、或ひは根性も誇りも無い職業作 家を量産する。何もいい事無いぢやないか、とまで思へてくる。例へ自費出版であらうと、フアンの期待にも応へ、才能を生業とするこ とができれば、それはプロと言つていいんぢやないかな、とは思ふのだが、1本立ちするわけでもなく、出版社との仕事もきちんとでき ない、多額の金が動く割には人材が育つてないではないか。
おれにしてみると、今の「同人」はどうにも歪なのである。大規模な即売会が行われる直前になると、「今度出す同人誌の製作で忙 しい」と言う声をよく聞くが、「何でやねん」としか思へない。
元々同人と言うのは趣味を「同じくする人」の集まり、SFでも、マンガでもなんでもいいが、まずこれが在つて、同人誌というのはそ の活動の結果としての産物なのではないか。まず同人誌在りきの同人活動と言ふのはどこか本末転倒している。出すもんが無かつ たら参加しなきやいいやんけ。
そもそも同人誌と言ふのは人に売つたりするもんでもないだらう。同人のメンバーが金を出し合つて作り、同人内でのみ配布される ものだらう。評判の大きい同人なら、会に入るまでのことはないが、同人誌を是非読みたい、となれば実費を貰つて増刷する、ぐらひ のものであつて、売るために作ると言うのは何か違はないか、と思うのである。
もしおれが「売るため」の同人誌を作るのであれば、即売会を市場として捉へ、徹底的に売れ筋をリサーチする。絵柄とか、どのキ ヤラが今旬なのか、売り値の相場はどれくらひか、固定客のゐる作家をゲストとして招き、インターネツトや口コミでの事前宣伝も行 う。精々稼がせてもらうよ。ま実際にはやらないけど、「売る」んであればきつちりビジネスにする、と言ふことだ。大前 研一の読み過 ぎかな。
これはプロアマ関係なく、なにかものを作ると言ふことは、「表現したい、自分の中に在るものを見てもらいたい!」と言ふ情熱が無 ければならない。だけど今のコミケでは、情熱の向けられる方向がおかしひのでないのかなー、と思うのである。おれつて昔気質なの だらうか。
同人作家の中にも、確かにこれなら金払う価値は有る、と思へる実力の持ち主はゐる。実際、同人活動で飯を食つてゐる作家もゐ るやうだ。言はば「プロの同人作家」と言う、一見矛盾した存在だが、実は矛盾してはゐない。本人はどう思つてゐるのか知らない が、それはプロになつただけの話だからだ。
プロであるからにはフアンの期待とそれに対する責任を負わなければならないし、また頼れるのは自分のみと言ふ背水の陣であ る。商業誌に描くやうなある程度の保証さへない。収入を得てゐるとなれば納税の義務も生じる。さう言へば以前、脱税で逮捕された 同人作家がゐたなあ。
ここまでの才能、作品を作る能力とそれが収入になる実力、と言ふ意味での「才能」だが、それがあるとなるとプロになるしかありま せんね。商業誌で描く実力は有るのだけれど自分の描きたいものが描けない、だから敢へて野に下り、自費で本を出す、と言ふ選択 肢は在つていいと思ふ。
ここまでくればコミケはまさに「市場」と化す。幾ら人気と実力が有るからと言つて価格が高過ぎれば売れない。安過ぎれば元が取 れない。需要と供給、「経済」が立ち現れてくる。市場のリサーチも必要だし、読みを間違えて大損こく事も有らう。頼れるのは、己の 才能のみだ。
……ここまでやつてるんならおれも感心するんだけどね。コミケと言ふ「世間」でしか通用しない、仲間意識と馴れ合ひ。それしかな いだらうコミケには。例へ「プロ」として活躍できる実力が有つてもそんな状況ではスポイルされるだけだ。結局アマチユアの群れでし かないわけだ。そんなんで脱税容疑でしよつ引かれる程儲けてゐるとは呆れるしかない。アマチユアでしかないなら本の制作費以上 の金を要求するんぢやない! コミケを市場と捉へるやうな、強かな奴はをらんのかね?
今更おれが言ふまでもなく、コミケは今一大産業となつてゐる。実際、1年間で全国で行われる大小様々な規模の同人誌即売会を 合計すれば、動く金は億単位、下手すりや兆単位ではなひだらうか。夏冬東京で開かれる「コミケ」では、1回当たりほんとに億単位 の経済効果があるやうな気がする。誰か試算してくださひ。しかしここまで膨れ上がつてしまつて、果たして本当にいいのだらうか? と言ふ気がする。
膨張した同人業界の産物として、同人出身の作家を多く輩出した、と言はれるが……同人出身にろくな奴あいねへぞ。休む連中ば つかりだしさ、特に夏と冬休むのが多い。余程「故郷」が忘れられないらしひ。単行本が出るとなるとやつぱり休載。おれは単行本を 出すために連載を休むと言うのがどうにも腑に落ちない。この点小林 よしのりはプロだなあ、と思ふのはきつちり連載をして、単行 本も(しかも書き下ろしも!)出してゐるからである。尤も小林は連載を『ゴー宣』一本に抑えてるし、それができるのも小林がある程 度のベテラン作家だからできることであつて、キヤリアの短ひ同人出身では無理かな、と言う気はする。でも「仕事」をしている自覚、 それこそ小林の言う「プロの誇り」があるのかな、と思つてしまう。
これがまさに、コミケが齎した最大の弊害なのだが、マンガ(これは誰が言つたか忘れたが、アニメ、ゲームと言ふのはマンガの一 形態に過ぎないさうだ。おれもさう思ふ)業界におけるプロとアマとの境界をあやふやにしてしまつたことだ。
いやアマチユアの癖に金をもらうとはけしからんと言ふ積もりはないよ。まあそれこそ玉石混淆の、ほんの一握りの玉だけど、金払 つても見る価値の有るものを作る作家もいる。彼らが、己の才能を売り、飯を食うのはアリと思ふ。それまで出版社と言ふ大企業に 因つてのみ売られてきたものが、個人が手ずから売る、と言う商業形態も現れてきたと考へればよいのである。しかし、それは「同 人」とは言へない。最早プロなのだ。(続く)
Webマスター、特にイラスト系のサイトを運営している人の中には、同人誌を発行してゐる方も多い。これからおれが書く一連の文章 は、彼らに対して非常に挑戦的であるかもしれない。さらに、おれがWebスペースで親しくしていただいてゐる方や、相互リンクをして いただいてゐる方にも同人誌を作つていらつしやる人も多い。ちよつとまずいかなー、と言ふ気もするのだけれど、以前から言ひたか つた事なので、えゝい、書ひてしまへ!
所謂「コミケ」には2回ほど行つたことがある。行つたことあるのかと思はれるだらうか少ないなと思はれるだらうか。同人活動と呼 ばれる事はほとんどしたことがない。でコミケに行つたと言つてもほんとに見に行つただけで、買うのも友人に頼まれていた本を何冊 か購入した事があるだけである。はつきり言つておれは「部外者」なのだが、で部外者の感想なのだけれど、「祭り」だな、あれは。 それも本来的な意味での祭りである。
祭りは元々、神と一体化するための儀式である。普段とは違つた恰好、行動をすることで、日常からの離脱を試みるわけだ。ではコ ミケを見てみやう。マンガやアニメなどのキヤラクターを神と擬えるならば(さう言へば自然や現象に人格「キヤラクター」を与へたもの が神ではなかつたか)、コスプレはまさに神と一体化するための扮装、コスチユームである。同人誌やグツズは神がおわしますため の依代か。儀礼だのが存在しない点で、コミケは祭りの本質的な部分を体現してゐると言へやう。 (おれは民俗学にはまるで疎いので、この「コミケ」=「祭り」説は分かる人が見れば大爆笑の代物でしかないと思ふ。そこで一つ、 民俗学に詳しい方へのお願ひ。是非コミケを民俗学的に分析していただきたい。面白い研究の題材だと思うんですが。)
だけどおれにはどうもこの「祭り」であるコミケには違和感を覚へるのだ。実を言へば同人活動はやつてみたいと思ふことはあるし、 実際友人と同人を立ち上げやうとしたことも何度かある。大抵話だけでポシヤつたけど。しかしコミケ的な同人活動には繰り返すがお れは違和感があるのだ。
それはコミケ的同人活動が様々な害悪を齎している現状があるからだ。(続く)
以前『ゴーマニズム宣言』を読んでてなるほどと思つたことがある。
『新』の1巻で作者小林が、西部 邁と対談する件があるのだけれど、西部がこんな事を言う。絵を引用する必要はないだらうので、 ネームのみの引用とするけど、
「ぼくは知識人というのは娼婦より恥ずかしい存在と思っているわけです。娼婦は身体しか晒さないが知識人はあろうことか精神ま で晒してしまう」
西部が言う知識人は、精神を晒す事で飯を食つてゐるのだからまだましかもしれないが、おれなんかは誰も頼みもしないのに、しか も金使つて(インターネツトやるのも金掛かるでしよ)まで精神晒してゐるのだから露出狂もいいところである。よく猥褻物陳列罪で警 察が捕まへにこないもんだ。
考へてみれば全く西部の言ふ通りなのであつて、言つてしまへば全ての「表現」は精神を晒す行為に他ならないわけだから、インタ ーネツトなんて魑魅魍魎跳梁跋扈(読めるか?)もいいところである。実際、おれもさうだけど、間違つても家族や職場の同僚には見 せらんないな、と言ふやうなコンテンツ満載のサイトを作つてゐるWebマスターも多からうて。
でもまあ、インターネツトがあつて良かつたな、とは思ふよ。例へ「露出狂」だらうと、精神を晒さずにはゐられない連中は多いし、事 実かうしてここに一人ゐる。従来であれば同人誌を作るか、友達に見せるかぐらひしか発表の手段は無かつた。最終手段として「作 家」としてデビユーしてしまふ、と言ふ手もあるけど、そこまでの実力のある、精神を晒す事で他人まで満足させる事ができる露出狂も さうはゐまい。おれも「仕事」として表現ができるかどうか、自分の表現力には自信はない。
繰り返しになるが、だからWebの存在は有り難ひのだ。おれはサイトとは、個人同人誌の発展形と考へてゐるが、同人誌よりずつと 安上がりで、しかも大多数(それこそ全世界に! おれのサイトも調べてみたら韓国やタイからもアクセスがある)に発表できるのだ。 これほど露出願望を叶えてくれる表現形態が他にあらうか。
これからもWebでの表現は続けていくつもりだけど、自分が娼婦よりも恥ずかしい知識人よりも恥ずかしい存在である事は心に留め ておいた方がいいかもしれない。
ところでタイトルの意味分かるか?
夏風邪でくたばつてゐたので、コラムの更新も出来んかつた。まずはお詫び申し上げます。
ホームページと言ふ、一切の素人でも世間、いや世界に向けて情報を発信できる手段を手に入れたのをいい事に、かうしてコラム なんぞ書ひて、偉さうな説教かましてゐるわけなのだけど、正直言つて実際怖ひ事もある。怖ひと言つても住所突き止められてストー カーされたとか、大量の嫌がらせメール喰らつたとか、そんなんではない。そんな事自体起こつてもゐないし。では何が怖ひのか。
これまでのおれの言説を見ていただければ分かるやうに、まあ右寄りだらうな。
「つくる会」教科書は全国で採用されて欲しいし、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」に就ひて世間に流布する通説はウソだらけだと思ふ し、大東亜戦争が「道義的」に非難される筋合ひはないと思う。とは思ふのだけれど……
これら自分が抱く信念が、全て間違ひだとしたら、どうすればいいのか。例はある。嘗ては世間からも「正義」だと認められていたに もかかわらず、今では「お前らの言つてたことは全て間違つてゐたんだ」と宣告されたサヨクを見よ! 間違つてゐたのなら素直に認 め、改めればいい(それはサヨクの常套句でもある)のに、サヨクだけに右顧左眄して己の信念に取りすがり、株を守り続けてゐるで はないか。これが「右」には起こらないとは言ひきれない。
だけど、そこまでして守らなければいけない信念つてなんだらうか。
一方で、人間誰しもさうではないのかな、とも思ふ。実際おれも、『脱ゴー宣』著作権裁判の時、結構依怙地になつて小林 よしのり を弁護してたからなあ。結局弁護しきれなくなつて、この件に関しては小林が間違い、と認めざるを得なかつたんだけど。この件はあ る程度距離を採つて『ゴー宣』を考へるやうになつたと言ふ点で良かつたな、とは思ふけど、と同時に「信念」に安易に寄り掛かれなく なつたのである。それは今まさにおれが書こうとしていることなのだが。
『エヴア』ぢやないけど、人間、やつぱり地面がないと不安なのかもしれない。取つ掛かりが無くて、ふわふわと浮遊してゐる状態に 人は耐へられないのだらう。だが思想をやると言ふ事はどの地面、つまり思想からも自由でなくてはいけないやうな気がする。特にお れのやうにサブカルによつてものを見る奴はさうではないかと思うのだが、どれか1つの地面に立つてしまふと、他の地面を正確に捉 へられなくなるのではないか。地面にどつかと腰を下ろしてしまふのは楽なんだけどね。だけど腰を下ろしたはいいが、そこから飛び 立てなくなつて、地面が崩壊する時、ともに砕け散るしかなくなつてしまふだらう。サヨクなんかは今まさに、立つてゐた、と言ふか最早 奥底まで沈んでいた地面と、共倒れの道を歩んでゐるわけだ。
おれはまあ、見ての通り「右寄り」の地面に今立つてゐるわけだけれども、若しこの地面が崩れ去る時、そこから飛び立てるだらう か、自信はない。
NHKで『そのとき歴史が動いた』と言う番組を放送してゐる。この番組で以前、帝国海軍の戦艦大和の撃沈までを取り上げてゐ た。CGを使って、大和がどんな風に沈められていつたのか克明に再現してゐたのだが、今日日CGも売りにはならんて。
さて今までのNHKなら、大東亜戦争において日本が如何に悪虐で、愚かだつたか放送するのだが、この大和特集は、どうも違ふや うなのだ。
番組は、大和の乗組員の生き残りの証言を交えつヽ進行していつたのだが、大和が沖縄に特攻する、と言う下りになって、証言が はさまれた。ビデオにとつてゐないので、記憶に頼るしかないのだが、さて大和が呉を出港し、洋上で作戦が発令された。最早米軍 の勢力下に置かれつヽある沖縄に単艦突つ込み、浅瀬に乗り上げ砲台となる、つまり特攻だつた。
これまでなら、「反戦平和」の名の下、特攻=大東亜戦争における日本最大の愚行、と図式は決まつてゐたのだが、このときの証 言は違つた。特攻が発令されたとき、上官は震へてゐた。恐怖ではない。興奮に打ち震えてゐたのだ。それは甲板に並んだ全員が 同様であつたと言ふ。
考へてみれば、史上最大最強の戦艦ごと、3000名に及ぶ戦友とともに敵の真只中に突つ込むのである。帝国海軍軍人としての血 がたぎる、不謹慎かもしれないが、今風に言つてしまへば「燃えるシチュエーション」と言へやう。想像してみただけで全身が粟立つて くる。
かくて決意とともに大和は敵地に乗り込んだ。だが魚雷の猛攻撃を受け、大和は道半ばに、沖合いで撃沈。脱出し生き残つた船員 はその後、ある者は沖縄の海に散った戦友の菩提を弔ひ、またある者は大和の最後を語り伝へてゐる、と紹介された。
さて番組は、大和に乗船してゐた海軍少尉の日記を引用して締めくくられた。日記は大和の特攻が決定し、これまた記憶なので不 正確なのだが、少尉が「大和が特攻するとはこれで日本も終わりだ、日本は負けた!」と言い募る。この部分で終わつてゐればこれ までと同じなのだけど、その後も引用は続く。「だが大和と我々が散る事で、日本は目を覚ましてくれるだらう。そうすれば次はこのよ うに負けたりはしない!」なんとこの日記は特攻に向かはされる悲鳴ではなく、覚悟を決め、後進に向かつて「次は勝ってくれ!」と飛 ばされた檄なのだ。
NHKも変はつたなあ、こんな番組作るなんて。
大和も宇宙に飛んでみたり、アイアンロツクスになってセブンと戦つたりと、静かに寝かせてはもらへんもんだ。
来年の大河ドラマは前田 利家を主人公にした『利家とまつ』だが、実はおれは楽しみにしてゐるのである。え? 松島 奈々子? 誰それ。みどりやトモ子なら知つてるけど。
これは冗談だが、何が楽しみかと言ふと、利益が出るからだ。どんな活躍を見せてくれるだらうか。え、利益つて誰かつて? 知つ てるくせに。こんなサイトを見に来ておひて、知らんとは言はせんぞ。前田 慶次郎利益、慶次だよ慶次。『花の慶次』だよ原 哲夫 の。『一夢庵風流記』でも可。
慶次を誰がやるのか、それも楽しみだつたのだが、先日NHKのホームページで配役が発表された。……及川 光博? ミツチー? うーむ。『花の慶次』だと、作者が作者だけに武辺者としての面が強調されていたが、どうやら傾奇者として描くつもりのやうだ。まあ ミツチーも現代の傾奇者と言へなくもないか。何しろ「ベイベ」だしな。
これまで大河ドラマなんか観やしなかつたおれの妹も来年は見ると言つてゐるが、こつちはそれこそ松島を見たひんだらう。松島の 威光は凄まじいものがある。「加賀百万石」ぐらいしか利家に就ひて知らなくても、松島 奈々子さへ出てれば見るのだから。「槍の又 左」とか「赤母衣衆」とか「五大老」とか知らないだらうし。尤も慶次目当てで見るのとそんなには変はらんか。
以前、先輩Kが、「大河ドラマで『三国志』辺りを3年ぐらひ掛けてやつてくれないかな」と言っていたのだが、それぐらいじっくり時間を 掛けてドラマ作りをしてもいいのではないかとおれも思う。以前、半年づつ、年2回放送した事があるのだから、その逆も出来なくは無 いだらう。キヤストに頼らず、「ドラマ」をきつちり作つてみてもいいんではないか。それができるのはそれこそNHKしかないはずだ。
尤も、『陰陽師』みたいなへたれドラマ作つてるうちは無理だらうけど。
NHKもやつぱり視聴率気にしなけりやいかんのだらうか? NHKがNHKらしさを失ひ、BSデジタルもぱつとしない現状は、よく言われ るやうにTVと言うメデイアの凋落を示している気がする。
上方漫才、いや漫才そのものの元祖である横山 エンタツがいみじくもかつてこう言つたさうだ。
「笑はれるんやない、笑はせてあげるんや」
おれは芸人の真髄は、この言葉に表されてゐると思う。
家族や友人がズツコケたり、動物や幼児の滑稽な仕草に我々は笑ふ。しかし、それは当人が笑はさうと思つてゐるわけではない。 笑はれた事が、当人にとつては屈辱以外の何者でもない場合だつてある。さらに言へば、動物や幼児にすらできる、笑はれるのは何 も考へなくたつてできるのだ。
我々素人が笑ひを取らうと思つたら、ズツコケてみせればそれでいい。鴻上 尚史は「笑いは日常からのずれ」、中島 らもさんは 「笑いとは差別だ」と分析してゐるが、つまり普通に歩いてゐる分にはそこに笑ひは生じない。だが何かにつまづいて、バランスを崩し たとする。そこに「歩く」と言ふ「日常」からのずれが生じ、笑ひが発生する。そして日常からずれると言ふことは、日常を保つ事ができ ない、即ち「劣つてゐる」と見倣される。その意識、通常「差別」と呼ばれる感覚、そこから笑ひが生まれる。「笑はれた」当人が、それ が動物や幼児ならば「日常」や「差別」など存在しないから、なぜ笑はれるのか理解できない。周りの大人が笑つてゐるのに当の子供 はきよとんとしてゐる、と言ふシーンは想像に難くないでしよ。「笑はれた」のが大人なら、苦笑ひしてしまつたり屈辱に思ふのは、「日 常」からずれた事で「差別」が生じたことを感じ得るからだ。
笑はれるのは、ことほど斯様に簡単である。だが「笑はせる」となると、どうか。
我々は芸人のアホな仕草や、バカな言動に笑ふ。そこには、「日常からのずれ」も「差別」ももちろん存在してゐる。だがそれは作ら れた「ずれ」であり「差別」だ。
実は「笑はせる」のは非常に難しい。ズツコケることで笑ひが生じる、と言つても、わざと転んでみせたつて誰も笑いはしない。作ら れた「ずれ」は、実はずれていないからである。作為によつては日常はずれたりしない。余程うまく、ずれを作らないと、笑ふことは出 来ない。
そしてずれを作る技術を持つ職業、これを「芸人」と呼ぶのだ。
「つくる会」の教科書、『歴史』『公民』ともに一読してのおれの感想は、一応「合格」である。なんで「一応」と保留を付けるかと言ふ と、もつと過激な内容かと思つてたのに、いざ現物を見ると普通の教科書で、些か拍子抜けしてしまつたからである。つまり、絶賛で はないにしろ、「選択肢」としてはありだな、と言ふぐらひの意味である。
ただ、何しろ他の教科書の内容が分からないので、他が選択肢たり得るか、「選択肢」にすらなりゑてゐない可能性もある。幸ひに も近所で教科書の展示会をやつてゐるやうなので、機会があれば見に行かう。
さてまたしてもサヨク批判なのだが、「つくる会」教科書にいちやもんつける連中は、結局、何が言ひたいのかおれにはよく分からな いのである。「『つくる会』教科書は危険だ!」と言つてゐるのは分かるのだが、ぢやあどうすればいいのか、現行の教科書でいいの か、それとももつと中韓におもねつた教科書でなければいけないのか。要するに、これまでよりほんの少し右に向いた(おれには正面 を向いたように見える)教科書は危険な代物にしか見へないのだらう。ああ道理で、読みもしないで批判したわけだ。
皮肉な事に、騒ぎ立てた結果、「つくる会」教科書はベストセラーとなつてしまつた。闇に葬られるどころか、日の目浴びまくつてゐる わけである。小林 よしのりが揶揄してゐるやうに、マスコミの批判が大宣伝となってしまつたわけである。サヨクには腹立たしい結果 であらう。
市販された後に出た批判本を読んでも、結局市販前といちゃもんの内容は変はつてゐない。唯一、谷沢 栄一の『「新しい歴史教 科書」の絶版を勧告する』がスタンスが違っているぐらいだ。書店でこの谷沢の本を見たときは吃驚した。何しろ谷沢はサヨクを批判 してゐるはずだつたからだが、つまりは、これまでのサヨク歴史教育でも駄目だが、「つくる会」の教科書も駄目だ、と主張しているの である。
サヨクにしてみれば心強い味方が現れたと思つただらうが、さうではなかつたわけだ。おれは「歴史教育そのものを廃止せよ」と言 ふ谷沢の意見には同意は出来ないが、繰り言しか能の無いサヨクよりは賞賛できるのである。
昔おれが観ていたバラエテイ番組なのだが、残念ながらタイトルを失念してしまつた。今は引退した上岡 龍太郎(横山 パンチね) が司会で、条件に適う一般人50人、例へば「やくざ」とか、「ホモ」とか、「風俗嬢」とか、をスタヂオに集めて、アンケートを採つたり意 見を聞いたりして、司会の上岡やゲストのコメンテーターがコメントを返して笑いをとる番組なのだが、誰かタイトル御存知の方がいら つしやつたらレス下さい。何度かタイトル変わつてるやうな気がするんだよな。 とまれ、おれは上岡 龍太郎も好きだつたし、番組の構成も面白いので、良くこの番組観ていたのだが、この番組に関する雑誌だつ たかの記事を読んで、非常に驚いたのである。一見、50人の一般人も、上岡やゲストのタレントもその場その場でやり取りしてゐるの かと思つてゐた。ところが違うのである。
出演者の一言一言、全て脚本が在つて、アドリブで出してるとしか思へないタレントのギヤグもやはり台本が在る。リハーサルを何 度も行い、アドリブは一切なし。全て構成されてゐるのだと言ふ。
おれはこの記事を読んで、非常に感心したのである。だが今読まれた方の中には、「そんなのヤラセぢやないか」と憤られる人もあ らうかと思ふ。
だけど考へても御覧なさひよ。素人50人ですよ。中には「おまんこ」とか叫ぶ奴絶対ゐるって。TVのいろはを心得たタレントなら兎も 角、素人は何さらすか分からない。逆に、何言えばいいか分からず、借りてきた猫になつてしまう素人だつてゐるだらう。台本が在つ て、リハーサル何度もやれば、自信を持つて喋れるだらう。
この番組の作り方自体は、上岡の方針なのかも知れないけど、この事を知つて以降、おれはバラエテイ番組は全て台本があるの だと思ふやうになつた。なぜなら、それが「芸人」の在り方としては「プロ」だからである。逆に、全てアドリブ、その場その場で済ませて いるやうな番組こそ、「手抜き」の糾弾を受けるべきなのである。それは決して芸人の「仕事」ではないからだ。
ドリフひょうきん族世代だから、「お笑ひ」、バラエテイ番組は好きなのである。しかし、最近は見なくなつてしまつた。巷間よく言はれ るやうに、バラエテイの質も下がつてゐるのだらう。矢鱈引張る番組構成、しかも大した事ない、散々引張つた挙句がそれかひつ! と突込みたくなるやうな内容でしかなかつたりする。それとおれが大人になつてしまつたのも大きひだらう。何しろ『CCさくら』を一目見 て、「いい年して見れるかこんなもんつ!」とスヰイチを切つてしまつたからなあ。
まあドリフひょうきん族で育つたから、今の番組が合わないのかもしれない。『笑う犬』はおれの嗜好に合うかな、と思つたのだが、ウ ンナンの方向性はおれとは違つてゐたやうだ。「テリーとドリー」とか、「ハンサム侍」とか面白いんだけどね。
ところで、おれが小さかつた頃にも、『それは秘密です』みたひな「感動バラエテイ」はないわけではなかつた。しかし最近はやたら多 い。『バラ珍』とか『ドキュン』(2ch用語ぢやなひよ。尤もこれが由来らしひが。つまり『ドキュン』に出たがるやうな目立ちたがり屋、と 言ふ意味合いらしひ)とかね。おれはこの手の番組は嫌いなので見ない。何が悲しうて人様の事情に立ち入つて、涙まで流さなならん のか。
おれはどうにも、この手のドキユメンタリを装つたバラエテイは好かん。つまりは「覗き見趣味」と通抵するものがあるからだ。知識欲 はおれにもあるが、こんな方向に向ける気はしない。
さて、この手の番組で、冷え切つた仲の夫婦をスタヂオに呼んで口論をさせると言ふ、ある意味究極の番組があつた。番組名を隠し ても意味ないので言うけど『愛する二人別れる二人』である。これがまた視聴率良かつたんだ。犬より口の劣る視聴者が如何に多い かと言ふ事だが、視聴率絶好調にも関わらず、この番組は打ち切られた。
経緯はおれが今更説明するまでも無いが、番組に出演した夫婦が、実は芸能プロダクシヨンから派遣された仕込みだつた、つまり 「ヤラセ」だつたと発覚したのである。凄まじいバツシングがマスコミ、そして世間一般からも噴出し、程無くして番組は打ち切りに追い 込まれたのだが、おれはこのバツシングを見ていて、不思議でならなかつた。
バラエテイ番組つて、全部ヤラセでしよ?
おれもまだまだ権威主義だつた。とは言へ、原作・手塚 治虫、脚本・大友(『スチームボーイ』はいつできるんだ)克洋、監督・りん たろう、と来りや、オタクとしては観ないわけにはいかないでせう。
と言ふわけで『メトロポリス』を観た。
何しろ御三方のネームヴアリユがあるし、何より、マスコミに流れてゐたミツチイが、まさに天使のやうだつたので、え? 「テイ マ」? あ、そう。とまれ、期待して行つたのである。……なんてゆうか、がつかりだつた。普通につまらないのだ。楽しめる部分がなか つたのである。
テーマは、原作同様「人間と機械文明の軋轢」なのだらうけど、それにしては主人公のミ、もとへテイマは自分がロボツトと知るやあ つさり機界神になつてしまう。ちつとは葛藤せへよ。そして全世界のロボツトが立ち上がつたはずの反乱も、実に呆気なく収束してしま う。全世界規模の革命が、原因が除去されただけで収束すんなよ。
ストーリーもただただ流れていくだけで、「テーマ」が伝わつて来ない。いや「テーマ」なんかなくて、エンターテイメントなのならそれで 一向に構わない。同じ大友関係で言へば、『スプリガン』が上質のエンターテイメントに仕上がつてゐたやうに。だが、さうでもないの だ。考えさせられるでもなし、胸躍るわけでもなし、ストーリーがそこにあるだけなのだ。
何より主人公のケン一とテイマのキヤラが、全く立つてないのがこの映画の敗因と言えやう。ケン一は面白味のないただの少年だ し、テイマは結局その天使的な容姿だけ。却つて消防ロボやペロの方がキヤラ立ちしてゐる。
絵もレトロにしやうとして失敗してゐる。手塚キヤラを今の線で描いてゐるにすぎない。
この映画は、企みが全て失敗してしまつてゐるのだ。何しろ手塚作品を、大友が脚本化し、りんが監督したのだ。大友、りんがこの 作品に込めた想いは大きからう。こつちにはちつとも伝わつて来なかつたけれど。
テイマの美しさが天上的でさへあるだけに、実に惜しい。だけどおれは、この映画はつまらない、としか言へないのだ。
「女性蔑視」
「軍国主義」
「皇国史観」
「つくる会」やその教科書に対してなされた批判は、大抵このどれかに当てはまるのではないだらうか。だけどおれが現物を読んだ 限りでは、そのどれにも当てはまらない。如何に頓珍漢な批判だつたことか。さう言へば、『朝生!』でも批判派の言動はどれも言ひ がかりに近かつたなあ。
「女性蔑視」と言ふのは、「従軍慰安婦」を掲載してないことに対する批判だらうけど、「慰安婦」はゐたけど「従軍慰安婦」なんての はゐなかつたのだし、「慰安婦」を記述するのなら「吉原」とか「赤線青線」「パンパン」も記述しなければ片手落ちである。例えば今流 行りの「総合学習(ケツ)」とかで、「従軍慰安婦」につひて調べやう! となつたら、大人でも目を背けるやうな話題には事欠かないと 言ふのに、中学生ぢや性に対するトラウマが残つてしまつてもおかしくない。そもそもがウソだらけなのだし、しかも中学生ぢや見抜け ないやうなウソだ。第一「慰安婦」を総合学習のテーマに子供が選んで、それを積極的に支援する教師や親がゐたらおれはそつちの 品性こそ疑ふ。
品性を疑ふと言へば、サヨクの批判する姿勢そのものもである。教科書が検定を通過する前から、「つくる会」やその教科書に対す る批判は喧しかつた。「つくる会」そのもの、会の姿勢やメンバーの言動を批判するのはよからう。だが、出来てもいない、まだ世に出 てもいない段階で批判するのはどう言ふ事なのか。ありもしないものを、どうやつて批判するのか。現物もなく、断片的な情報で批判 する事を、俗に「憶測」と言ふと思ふのだが。
白表紙本(『朝生!』で姜 尚中東大教授が「しらびやうししらびやうし」と言つていたがそれぢや鎌倉時代の踊り子でせうに。それと も「しらびやうし」でいいのか?)の段階での批判も見られたが、白表紙本は検定委員がどの会社が作つたか分からないやうに表紙 を白紙にしているのに、なぜ「つくる会」の教科書と分かつたのか。サヨクは「つくる会」は右翼の走狗と中傷するが、「権力」とつなが つてゐるのは一体どつちなのだらうか。
『ゴー宣』で、俵 義文率いる「教科書ネット21」という団体が「つくる会」教科書をコピーして売つてゐる、と告発したのに対し、俵が 「コピー代を実費でもらつただけだ」と言い訳していたが……それつて著作権法違反なんですけど。お仲間に「著作権」の上杉 聰が いるのに、教へてもらはなかつたのだらうか。
「新しい歴史教科書をつくる会」略して「つくる会」に因つて出版された『新しい歴史・公民教科書』も訂正はあつたものの検定を通過 し、大変喜ばしい。李 登輝前総統の来日が一時流れかけた時は「これで日本は終つた!」と絶望したのだが、李氏も来日できたし、 教科書も合格した。
約束通り市販本も発売された。市販本の発売日は「つくる会」ホームページによれば「6月4日」だつたのだが、実はおれはその前 に入手できたのである。おれが行つた本屋ではポツプもなし、『歴史』は一応平積みだったが『公民』は1冊だけ。当然その1冊はお れが買つたのである。
家に帰つて、早速、読んでみた。
普通の教科書ぢやん。
もつとストーリー仕立てで、読み物つぽくなつているのかと思へば、体裁はまるきり教科書だし、学習の手引きとか、おれはもう中学 校を卒業して10年以上経つてて、当時の教科書も持つてはいないけど、でもこんな感じではあつた。
だが、確かに単なる事実の羅列ではなく、原因と経過、そして結果。結果が原因となり、流れていく、この辺をちやんと記してゐる。 いみじくも責任執筆者である西尾 幹二「つくる会」会長が『歴史』の前書きで言ふやうに、歴史において事実は最も重要だけれど、た だ事実を並べ立ててるだけでは「年表」(西尾会長は「年代記」と言つてたけど)に過ぎない。事実が、どのやうに流れたのか、それを 捉へ、記してこそ「歴史」なのである。さうでなければ、今の日本の姿は説明できないのである。
『Yahoo!ランキング』を見てみたら、『歴史』がなんと書籍総合で1位! 『公民』も3位につけた。サヨクが出した批判本が広告で必 死に「増刷!」と宣伝してゐるのとは対照的だ。私立の中学校では早くも採用を決定する学校も出てきた。これからが楽しみである。
おれは食う事が大好きである。と言つてもグルメぢやなくてグルマンだけど。で物を書くときにも、「食う」シーンに結構こだわる。
以前小説の書き方みたいな本を読んだ時、「食う」シーンをうまく書ければ、キヤラに生命感が出る、てな事が書いてあつて、何か 違わないか? と思いつつも納得したのである。
さて『2001年』は<月を見る者>ら猿人が地面の種かなんかをサルよろしく拾つて食つてゐるシーンで始まる。でモノリスを触つてウ ツキーと骨を道具にして、昨日まで一緒に餌を漁つていたバクをぶつ殺してその生肉をむさぼる事になる。 その次は月に向かうシヤトル内で、フロイド博士がチユーブ食をすするし、月面でサンドイツチとコーヒー、デイスカバリー号内での 何で作つたのか得体の知れない色とりどりのペーストを電子レンジで『チン』してヘラ(スプーンではあるまい)で掻き込む食事、で、最 後にボウマンがホテルで食うブレツクフアスト。(ステーシヨンのヒルトンのロビーでコーヒー飲んでたつけ?)この中では「まともな」、 少なくとも『2001年』を鑑賞するやうな人にとってまともな食事は、この中ではサンドイツチとブレツクフアストぐらひである。
考へてみれば「食う」事は強調されてたやうに思へる。生肉やブレツクフアストはやけに音を立ててくちやくちや食つてたし、チユーブ 食やペーストは食事に焦点を当てた画の撮り方をしてゐた。
でパンフ(リバイバル上映の奴)を読んでみると押井 守監督が一文を寄せてゐて、監督も「食う」シーンに注目してゐる。特に、< 月を見る者>が人類初の戦争に勝利したシーンの後、共食いが行われたはずだ、と述べてゐる。これはなかなか面白い推察であ る。また全部「まずそう」に撮っているとも。
押井監督がおれと同じ着眼点で書いていたのでちよつと嬉しかつたのだが、成程、人類の進化をメインテーマの一つにしているの だから、ヒトが生きていくにあたつて重要な課題である「食う」事に、キユーブリツクが意味合いを持たせたのは理に適ふ。それはおれ が冒頭で紹介した、「食う」シーンがキヤラの生命感につながるのと同じ理由であると思ふのだ。
♪モノリスだーガイコツーHALースターチヤイルドー(うわあああ)
NHKの『ゴン』は認めん。タイトルを思いついたはいいが考へてみると<月を見る者>はドテチンの方に近いやうな。ゴンはもうネア ンデルタール人ぐらひにはなつてるだろ。でも面白いからいいや。
さて皆様は、映画を観て泣いたことはおありだらうか。最近なら『タイタニツク』や『鉄道員』とかかな。おれは「泣かせ」は嫌ひなの で、あんまりさう言ふのは観ない。『タイタニツク』は付き合いで観たけど、うーん……面白かつたんだけど、あまり語る事は無い。
さて『2001年』の話題をまだまだ続けるけど、別にこの映画は「泣かせ」ぢやないだろ、と思はれるだらう。おれもさう思ふ。
しかしながら、おれはこの映画で3回泣いたのである。
まず最初に泣いたのは、フロイド博士を乗せたパンナム(嗚呼! これもある意味泣ける)のスペースプレーンがステーシヨンに接 岸する時、『蒼く美しきドナウ』に合わせて、プレーンもステーシヨンも相対速度を採つて一緒に回転してゐるシーンである。
これは「感涙」と言つてよいだらう。
画面が引いていきながら、巨大なホイールがクラシツクに乗せてゆつくりと回転する絵の素晴らしさもさることながら、接岸するため プレーンも回転するこの芸の細かさよ! (小説版では中央のシヤフト部分はホイールとは逆に回転して位置を保ち、プレーンは一 緒に回る必要が無いのだが、これも面白い絵ではある)
『2001年』はかうした、芸の細かさも見所である。
『ツアラトウストラ』に合わせた惑星直列は言ふに及ばず、パンナムのスチユワーデスが立体交差を粘着靴で歩いて横穴に入るシ ーン(当然体は横倒しになつてるわけだ)とか、前述の接岸シーンの後、カメラが引いていつて埠頭の様子を見せるのだが上下左右 に設へられた管制室にゐる係員がそれぞれ中心に頭が向かつてゐたり、埠頭とプレーンは動いてゐないのに背景の星星はきつちり 回転してたり、観ててもうたまらん。
デイスカバリー号の修理をしにポツドが表(宇宙空間ですよ、もちろん)に出たシーンだと、聞こへる音は「シーン」と言ふノイズ(これ は夏目 房乃介氏が述べていたが本当に無音だと「シーン」と音と言ふか耳鳴りがするさうだ)と息遣いだけとなかなかに不安感を煽 つてくれる。
この心憎い演出。SF者、あるひはオタクとして泣かずにいられうか。
2回目に泣いたのはラストのイメージの奔流。3回目はラストシーン、スターチヤイルドの誕生である。これらは「ずるいよ」と言ふ気 持ちだった。この映画が作られたのは1968年。33年前ですよ!? おれまだ生まれてませんよ! こんなん作られちやつたら、後の おれたちはだうすりやいいの。先に述べた、アマチユアなりのプライドが木端微塵にされたと言うのは、まさにここだつたのだ。
「だうすりやいいの」と言ふあがきが、『イデオン』や『エヴア』を生んだのだらう。実際『2001年』と『イデオン』『エヴア』は容易に結び 付けられるけど、『ウルトラセブン』や『ボトムズ』にも通ずるし、ポツドなんて頭に砲台くつつけたらボールでないの。
……かう言うタイトルしか出てこないのがおれの引出しの小ささと少なさを物語つてるなあ。
なるほど、『ボトムズ』の最終回の元ネタはこれだつたのか。「エヴアエヴア」言つてた自分が恥ずかしくなつたよ。
「作品」が、ここまで人の心を揺さぶる力を持ち得ることをおれは今まで知らなかつた。この映画は、まさにおれにとってのモノリスと なつたのだ。
前述したやうに、「趣味」の範囲ながら、「もの」を創ることができるおれはアマチユアなりの自信があつた。『2001年』はおれの精神 を、特にクリエイテイヴイテイに関する部分を粉々にしてしまつたのだ。まあ今では気を取り直して、かうしてお目汚しなものを作って ゐるわけだが。
キユーブリツクの作品を観たのはこれが初めてだし、クラークの小説もこれを観た後本屋に走つてハヤカワの文庫版を買つて読ん だのが最初である。だけど、おれが思ふに、この二人はほんとに人間なのかなと。二人とも偉大なクリエイター(まさに!)だと言ふこ とは無論知つてゐた。『フルメタル・ジヤケツト』や『現金に体を張れ』は観ておけと映画好きの先輩Kにキユーブリツクが死んだ直後 言はれたし、『幼年期の終わり』や『宇宙のランデブー』も読んでみたい。特に上帝カレルレンに会うのが楽しみで楽しみで。この偉大 な才能が出会つた時、そこに神が降りたとしかおれには思へないのだ。
実際、『2001年』は「人間が見るものぢやない」とさへ思へる。いみじくもクラーク本人も、「1回観ただけで分かられてしまつては、 我々の試みは失敗したことになる」と言ふやうに、理解を超越している。おれは「作品」を観る時、「考へるんぢやない感じるんだ」とブ ルース・リーのやうな見方をしてゐる。「作品」には「理論」はもちろん大事だが「感覚」も大事だと思うからだ。しかし、『2001年』は感じ ることすら許さなかつた。そりやさうだ。「神」を理解することも感じることも「人間」にはできない。
『2001年』は、少なくとも人間よりは高次の存在が観るものではないのだらうか。さう思へてならない。
これを読んだ心有るSF者の方は、「何今更青臭へこと言つてんだ」とお思ひになられるかもしれないが、どうかご勘弁いただきた い。今のおれはモノリスに触ってしまって骨を振り回してウツキーの<月を見る者>状態なのです。
何を以つて『クリエイター』の基準が決まるものか、何かを創作する事で飯を食うことなのか、他人が認めてくれればいいのか、それ とも本人が自分でそう思えばそれでもういいのか、おれは多分、人から認めてもらえるかだうかが勝負の分かれ目だと思ふが、とりあ えずおれは『クリエイター』ではなひのかもしれなひが、かうして自分の作品で人の目を汚している。自分が創つた物に愛着や自信、 プライドぐらひは持つてゐる。
ところがこの前、さうしたおれの「矜持」とでも言つたものが、粉砕されてしまつた。最近どうにか持ち直してきたが、今でもあの衝撃 は忘れられない。
2001年である。人類はもう木星に、あるひは土星に到達して、スターチヤイルドに進化していなきやならないはずなのだが、まあま だ半年はある。まずはHALを作らんと。
話はそれたがさう、2001年である。てなわけで『2001年宇宙の旅』が、全国でリバイバル上映された。おれの近所の映画館でも上映 してたので、SF者初級としては、観ておかなければなるまいと、出掛けた。観た。
観るんぢやなかつた。
と言ふか、
観なきや良かつた。
違ふなあ、
観てしまつた。
が一番相応しいか?
終つて、場内が明るくなつても立てなかつた。冗談ではなく、ほんとに体が持ち上がらないのである。他の観客がぞろぞろと出て行く のが不思議でならなかつた。何で皆そんな普通に歩けるの?
手すりに掴まりやつとのことで席から体を引き剥がしたが、足元が覚束無い。映写室を出て、つまづいたわけでもないのにぶつ倒 れてしまつた。
2時間半と言う長丁場で疲れたわけではない(「休憩」もあつたし)。この映画におれの精神は叩きのめされたのである。
「6月頭」と言ふ予定を大幅に過ぎてしまつたが、だうにか再開する運びとなりました。再開つひでと言つてはなんだが日記もかうし てCGI掲示板で綴ることにした。今まではテキストで文面を作つて、HTMLに直してたんだけどええ加減面倒で、それならいつそ掲示板 で書ひたれと言ふわけである。
無論レスは大歓迎である。感想、反論、御意見、気軽に書き込んでいただきたひ。おお、なんとインタラクテイヴな日記。何でしたら 新たにスレを作つても可。ただし、あまりにもひどい書きこは管理人として削除する事もあるよ。
さて『プルトニウム研究所』は「イラストメインのサイト」と言ふ体裁を採つてゐたわけだが、おれは確かにイラストも描くんだけど、小 説も書くし、エツセイも書いたりするし、「思想」の真似事もやったりする。
何しろおれは興味の対象が多岐に渡り過ぎてゐる。絵を描くのも好きだし、文章を書くのも好きだ。プロレスをはじめとする格闘技 にも興味あるし(あくまで「見るほう」であつてやる事はなひ)、陰陽五行など(最近夢枕 獏の「陰陽師」を読んでゐる)の魔術と か、UFOだとか妖怪だとかの神秘的なものと言ふかトンデモな方面にも足が向く。いはんや「教科書」とか「戦争責任」とかの「思想」の 問題も首を突つ込んでみたくなる。
これでもうちよつと学究心があれば南方 熊楠になれるかもしれなひ。いやまあ、荒俣 宏かな。
こんなものだから、「イラストメイン」では満足できなひのである。誰がつておれが。だつたらジヤンルごとにサイトを作ればいいんで なひの、と言ふ気もするけど、はつきり言ふ。やつとれんわそんなこめどくさひ事。サイト幾つ作つてもきりがなひ。さらにその時その 時で興味の対象が移ろつてしまふのであれば、ぢやあその時考へた事を書き留めて、適当な量になつたら文章にまとめればいいん ぢやなひの、と考へた。
頭の中で渦巻ひてゐる事柄を、取り敢へず少しづつでも形にしていこうと言ふ所存が、この『BBSCOLUMN』なわけである。知人友 人には既に報せてあるのだがHNも、藤原 亮一はまあいいとしてPuイーターなんて20過ぎて付ける名前でもないだらう、と言ふわけ で本名佐藤 俊で活動することとした。
『DIVE』はイラストももちろん見せるし、エンタテイメントな小説も載せるけど、それだけでは収まらなひだらう。どんなコンテンツが出 てくるかはこれからをお楽しみに。