50 expressions挑戰中。休み休みだけど。
50 expressions挑戰中。
そんな時代もあったねといつか笑って話せるさ中島らもさんが言ふには、人には1日に必ずその日の天使が居るんださうだ。ある日らもさんが「おれなんか生きてたつて無駄なだけだ」と1人思ひ詰めてゐると、外から「おいも〜おいも〜ほつかほかほかのおいも〜」と焼き芋賣りの聲がして、思はず「ぷ」となつてしまつて重苦しい氣分はどこか行つてしまつたさうだ。「ほつかほかほか」の所がとくに良かつたらしい。天使はいつもそばにゐる。
50 expressions挑戰中。♪ねのねのなんでも修行中〜
は古いか。
「号泣」大声をあげて泣き叫ぶこと。なんだ、ぢやあ間違ひぢやないや。良かつた良かつた。念の爲
「慟哭」も引いてみると、
悲しみに耐えきれないで声をあげて泣くこと。ふむ「号泣」と大して意味は變はらないんだな。ん? まだ項目があるぞ。
号泣すること。……
♪一晩中泣いて泣いて
何日か前Latest topics經由で、50 expressionsなるものを知る。さー言へばここは舊假名づかひロリコンイラストサイト
だと言ふのに、最近繪描いてないなア。よし、ちよつとやつてみるか、いいリハビリになるだらう。
と言ふわけで數日前から描き始めてゐるのです。
まアお題の趣旨はリンク先を御覽なつていただくとして、一應同じキヤラで順番通りで描いていくことにする。今後も描いていく豫定ですがお題に「合格」かどうか、先づは5枚ほど見ていただきませうか。ここでは小さいサイズで表示してありますが、各々に大きいサイズの畫像へのアンカーを置いてあるので、御覽なりたい方はダウンロードして下さい。
デッサンの狂いは初心者だけでなく、絵を描くのに慣れていても割と躓いてしまう点である。でまあよく「絵の描き方」の類には、裏から透かして見ると、歪みが良く分かる、と書いてありますわね。プロのマンガ家でもやってる人は多いらしい。『燃えよペン』を見る限り、少なくとも島本 和彦先生はやってらっしゃるだろう。この方法、絵の先輩である友人Dに教わって私もやってたんだけど……
実はこの方法、あまり良くないらしい。
何故かと言うと、透けない画材に描いてたらどないすねん。裏返したって見えないぞ。まあそれは冗談として、このやり方だと絵を一旦裏返さなきゃいけないわけだけど、狂いが分かったとしても表に戻してしまった途端また分からなくなってしまう事がある。「場所」を覚えていても、どう歪んでいたのか、どう直せばいいのか、忘れてしまうのですな。
そもそもが、「裏返さないと歪みを見つけられない」ようでは駄目なんですな。正確なソースは忘れたんだけど、webでプロのアニメータのグループがやってる「絵の描き方」サイトがあるんだけど、私が見た時、「しばらくしたら閉鎖します」みたいなことが書いてあったんで、今あるのかどうか。まあこれもうろ覚えなんだけど。とまれそのサイトで、デッサンの歪みを見つけるには裏返して透かして見るといいとよく言うけど美術学校に通ってる間そんな歪みの直し方は1回も聞かなかった。じゃあどーしてたかと言うと絵を回転させて見てみろと言われたんだって。実際やってみるとこれでも歪みは分かる。横倒しにしてみたり、天地ひっくり返してみたり、これなら見つけたらすぐに修正もできるし、絵を持ち上げたり窓に貼り付けたり、結構なお値段の(冗談抜きでほんとに高いんだこれが)トレス台も買わなくていい。
また『脳の右側で描け』を持ち出すんだけど、この本にも天地逆のスケッチを模写する課題があって、普通に模写するとしおしおなのに、逆さだとまともに描けてしまうのだ。普通に見ていると左脳で見る「Lモード(しょぼいweb端末の事じゃないよ)」で見てしまう。この「Lモード」だと歪みを左脳が修正してしまって、見つけることが出来ない。だが逆さにしたり横倒しにしたりするといつもと違う視点で観る事になり「Rモード」に切り替わる、つまり「歪み」が脳内で修正されず「歪み」として捉える事ができるわけだ。言ってしまえば「Rモード」が開眼できれば、裏返したりひっくり返したりするまでも無く、歪みを見つけることができるのだ。さらには、描いてしまってから歪みを修正するのではなく、「最初からデッサンが狂わないように描く」事が肝心だ。歪んでなければ、直す手間が要らないからね。
今でもつい紙を持ち上げそうにはなるけれど。
最近「グラップラー刃牙(バキ)」に嵌ってしまって、第2部の「バキ」まで既刊分全巻揃えてしまった。知らない人の為に一応粗筋だけ。東京ドームの地下に在る目潰し金的噛み付きチョークなんでも有りの地下格闘技場。ここでチャンピオンとして君臨するのが若干17才の格闘士(グラップラー)バキ! バキは「地上最強の生物」と呼ばれる父勇次郎を超える為、最強を目指して闘う、と言うマンガなんだが、このマンガの中に、大山 倍達氏をモデルにした(中村 日出夫氏も混じってるらしいが)「愚地 独歩」と言う空手家が登場する。よく考えてみると「愚地」と書いて「おろち」と読むってすごい苗字だがさて置き、大山氏の「ゴッドハンド」になぞらえて独歩は「武神」と呼ばれ、牛を殺した大山氏宜しく虎を素手で屠る程の空手の達人(前述の勇次郎は700kgの北極熊を殺してるし、バキも体長3mの大猿「夜叉猿」を倒してるし、ライオンに間接技掛けるレスラーは居るし、アナコンダにレスリングで戦うレスラーも居るし、そう言うマンガなんである)なのだが、独歩がバキに空手をレクチャーするシーンがある。独歩は「正拳突き」「前蹴り」「手刀」「貫手」「裏拳」「足刀」などまるっきりの基本の空手技でバキを翻弄してみせ、わたしはね。今見せた基本技を五十年……毎日千本以上続けているんだよ……呆れただろ……それができる馬鹿なら誰だって今のような真似ができる。たとえ相手が地下格闘技場チャンピオンでもね
と言ってのけるのだが、「空手バカ」でもなきゃ出来ないだろそんな真似。
絵を描くには、只対象を見て描くのではなく、右脳で観る「Rモード」で観なければいけない。『脳の右側で書け』はその「Rモード」の開き方をレクチャーした本である。絵の技術と言うよりも、絵に対する「姿勢」の教科書と言った方がいいだろう。
「空手バカ」の話に戻るけど、毎日千本以上続けると言っても、只拳を振り回しているだけでは勿論駄目で、先述したような基本稽古にきちんと則って練習しなければならない。何故かと言えばそれが一番効率的だからだ。空手の目的が、相手の生殺与奪を牛耳る事であるとすれば、同じ拳を繰り出すのでも只殴るのではなく、力が拳にきちんと乗るよう、拳を握り、構えて、拳を繰り出さなければならない。正しい拳で突くから「正拳突き」なのである。「前蹴り」や「手刀」も同じ事である。「稽古を毎日千本続ける」と言っても、先ずはこうした基礎をしっかり身に着けていなければ意味が無い。
落語家の柳家 小さん師匠は剣道が趣味で、7段の腕前なのだが、師匠に拠れば「剣道は一生やり続けないとやったとは言えない」。師匠の本業である落語もそうだろうし、何でも同じ事なのだろうけど、「完成」と言うのは有り得ないが、近付く事は出来る。そして同じ近付くにしても基礎をしっかりやってそれを積み重ねた方が、寄り完成に近付く事が出来るのである。砂上に楼閣は建てられません。
参考:「脳の右側で描け」『脳の右側で描け』を基にしたワークショップのwebサイト。著者エドワーズ博士公認のようです。
『脳の右側で描け』(ベティ・エドワーズ著北村孝一訳エルテ出版刊ISBN4-87199-042-7)を読んでいる(今更!?)のだけど、この本に拠れば「絵を描く」のは「自転車に乗る」のと同じで、コツさえ掴めれば、誰でも出来るようになるんだそうだ。「絵は才能」だと思ってた私は一寸ショックだった。他に何が取り得有るわけでもない男に過ぎない私が、たった一つだけ自慢でき得るものが有るとすればそれは「絵が描ける事」だと思っていて、それはごく少数の人間にのみ与えられたもので、自分はその中の1人だと思っていたからだ。要するに、自我の拠り所を否定されたわけですな。
でも「自転車に乗る」とか「泳ぐ」とかは「飯を食う」とか「便を足す」とかとは違って出来なくても生活は出来る。まあ食うのとか便を足すのとかは障害で出来ない人も居るけど、それが出来なければ生きていけないわけだから、流動食とか点滴とか、襁褓とか人工肛門とか代替手段を色々講じるわけだ。でも自転車が乗れなきゃ歩けばいいんだし、泳げなくたってどうと言う事も無い。絵を描くのはそれこそ自転車や泳ぐのと同じ事で、出来なくても生きていける。このように「出来なくても生きていける事」と言うのは、それこそ自転車に乗れない人や泳げない人、絵を描けない人が実際に居るわけだが、そういう人たちだって練習すれば出来るようになる。では何故出来ないか、と言うと、例えば始めた段階で「これは自分には向いてないな」と思ってしまうからだ。自転車に乗ってもどうしてもバランスが取れないとか、水に浮く事が出来ないとか、「苦手意識」と言う奴だが、1度これを覚えてしまうと、払拭するのはなかなか難しい。絵で言えば、例えば学校で似顔絵を描け、となったとき、全然相手の顔に似てないとか、静物を描かされてもジャガイモのようなリンゴになってしまったりとかして「あ、おれ絵が描けないんだ」と思ってしまうわけである。そして「苦手意識」を取り除かなければ出来るようにならないのだ。絵はまあ、書くものさえ有れば誰にだって描くだけは描けるけど、「自分の描きたいもの」、先程の例で言えば人の顔をそっくりに描けるようになったり、かぶりつきたくなるようなリンゴが描けるようになるには、やはり「コツ」が要る。『脳の右側で描け』に拠れば「Rモード」、右脳で観る事が必要になる。つまり只漫然と対象を見てるだけでは駄目で、絵を描く為の視覚が必要になると言うのだ。
だ・け・ど、その「Rモード」を開眼させるためには、最初は何度も自転車で素っ転んだり、何度も溺れたりしなきゃコツを掴めないのと同じく、「描く」しかないんですねえ。本を読んだだけで描けるようになれれば苦労はしませんて。
ヒサブリに落書きエッセイを書くのだけど、←先ずは黙ってこちらをご覧頂きたい。
このサイトを初めて見た時は、「天才」って言うのはほんとにいるもんだなあと嘆息せざるを得なかった。このサイトの管理人であるとうま あらた君は今年大学に入学したばかりらしい。つまりはまだ20歳にもなってないのだ。イラストのキャプションを見て頂ければ分かるが、高校生の頃からその才能は存分に発揮されていたようだ。とは言え、私はwebで色々なネタを見てきたし、とうま君も2ちゃんねらーらしいので「XX高校文化祭」とか言うのはネタじゃねえのかと勘繰ってしまうのだが、だとしても絵が巧い事に変わりは無い。そう言えば私の通っていた高校にもI君という絵の巧い奴が居て、文化祭とかでポスター描いてた。I君もとうま君並に巧かったし、とうま君が学園の売れっ子イラストレータだったとしても不思議ではない。
一応、I君と私は部活仲間だった。それも何故かワープロ部。このワープロ部と言うのが、小説は書けるが文芸部には行かず、絵を描くのに漫研にも美術部にも行かず、と言う連中が集まって作った部だった。と言うか文芸部や漫研のような「まとも」な部活に入れなかった連中が交わる朱なのである。要するに「光画部」みたいなもんだ。これで部長がアンドロイドだったら完璧だったんだが。まあI君とは部活仲間とは言ってもそんなに親しいわけでもなかったんだが。閑話休題。
I君に対してはまだ私も工房で己の力量なんぞ分かってなかったのでライバル心をこっちで勝手に燃やしてたんだが、とうま君に対しては、10近くも年が離れてる所為もあるのか、私が年を取ったのか、単純に「羨ましい」。20歳にもならないのに、ここまで描けるのは全く素晴らしい。私は才能など持ち合わせてはいない、だったら努力と気合で補えよ、と言うところだが努力もしてないし、気合も入れてないしな。こんなんで羨ましがるのならまだしも妬んだり嫉んだりしたら罰が当たる。
この才能はwebなんぞで燻らせておくには勿体無い。できればとうま君には世に出て欲しいものだが……老婆心かな。
これだけ持ち上げておいてなんだけど一言だけ。画像ファイルのサイズはもうちょっと小さくした方がいいぞとうま君。
「正しい絵」と言われると、おれは山本 貴嗣氏を思い起こしてしまう。
何て言うのかな。この人の絵って、一々理に適っているのよ。以前雑誌『コミッカーズ』(美術手帖社)での連載を纏めた『謹画信念』と言う本を出されていたけど、マンガを書くための完璧な理論を展開されている。「カメラワーク」を考えると、この画面は広角レンズで撮っている絵だから背景は丸く歪む、てなことまで氏は書かれている。『エルフ・17』が確か十数年は前だから、それだけプロとしてマンガを描いている氏の理論には裏付けがあるわけだ。
ただ……おれには「理屈だけ」でマンガを描いてるように見えるんだよね。スピリチュアルな部分が全く無い、ほんとに計算で描かれたマンガ、と言う感じがするのだ。いや、『謹画信念』でも「『理屈』も大事だけど、最も大事なのは『魂』、『パッション』と言うようなもの」と言う旨の事を仰っておられるから、魂を込めようと氏は思ってらっしゃるのだろう。しかし、山本氏のマンガからそれらは感じられないのである。山本氏は或いは、「理屈抜き」に魂で描くべき部分さえも無意識のうちに理屈で描いてしまっているのかもしれない。
そりゃ、絵を描くには様々な「理屈」は有る。人体の把握とか、遠近法とか、色相とか、ペンタッチとか、無論そう言ったものを知らないよりは知っていた方が上手に絵は描ける。だけど、立派な道具を幾ら揃えたところで、実際に使いこなせなければそれこそ持ち腐れである。思うに山本氏は、そう言った道具を作るのに一所懸命になってしまって、しかし使いこなす事は出来ていないのではないか、と言う気がする。ちゃちい道具しか持ち合わせていなくても、それを縦横に使う事で魂に訴え掛ける作品を創る事だってできるのである。
絵に「正解」は勿論無い。どんなに上手かろうが、稚拙だろうが、細部まで緻密に「作品」と誰かが認めた時点で、無論それが描いた本人だけだとしても、それは絵である。自分だけの楽しみとして描くならそれでもいいけど、自分以外の誰かに見てもらいたい、つまりコミュニケーションの手段とするなら、理屈を以って描いた方が絵に込める意図が伝わりやすくなるのは確実である。その意味で絵の「正解」は有るのかもしれない。だからと言って理屈さえあればいいかと言うとそう言うわけでもなく、前にも書いたけど下手だけど味がある絵を描いてたのに、理屈を身に着けて上手くなってしまい、変に纏まってしまって面白味が無くなる、と言う例もあったりする。
「正しい絵」が有るかどうかなんて、それこそ答えなんか無いのだろうね。
何度か話題にさせていただいた「闇黒日記」の作者野崎さんは、「2ちゃんねる」や「侍魂」を快く思っていないらしい。「2ch」には晒された恨みが有るしね、と言うのは冗談。晒したのはドキュソであり、ひろゆきさんではないからね。「W3C信者」(敢えてレッテルを貼る)の野崎さんにしてみれば、「2ch」や「侍魂」と言ったようなお化けサイト、WWWで先頭を走るひろゆきさんや健さんと言った連中が、「正しいHTML」を綴ってない、と言う憤りが有るのだろうか。先達が間違った道を歩んで後続がどうして正しい道を辿れるだろうか。
とは言え、閲覧者にしてみれば、「正しいHTML」なんてどーでもいいわけで。結局読んで面白いかどうか、なんだよね。「HTMLの理念」より「先行者」なわけで、「國語國字問題」より「モナー」なわけで。結局Web一般人にしてみりゃ「HTML」はリアルスペースにおける「科学」と同じ位置付けなのであって、知らなくたって生きていけるじゃんと。無論知らないよりは知ってた方がいい。「字を大きくしたい時には『Hタグ』を使いましょう」みたいなトンデモHTMLに引っ掛からなくて済むわけだから。
そもそもがWeb自体一般人をHTMLを誤解させる方向に進ませている。「正しいHTML」に触れる機会より、H要素で「字を大きく」して(ブラウザのスタイルシートで「大きく表示している」だけに過ぎないんだが)見た目派手なページを見る時間の方が多いのだから。「ホームページ作成ソフト」がスタイルシートを吐き出してくれないんだもの。「機械」の為に作られたはずのHTMLなのに、機械がちゃんとしたHTMLを作らないんだもの。HTMLによって構成されている世界がHTMLを蔑ろにしているこの喜劇を見よ! おれも余り人のことは言えんが。
ここでふと。「正しい絵」ってあるのかな。
……驚いたか。「HTML」云々は前振りに過ぎなかったのじゃ。野崎もひろゆきも健もダシに使っただけじゃ。
余り描くのに慣れてない人の絵を見ると、えらい手が小さい事が良くある。顔はまあまあ描けてるのに、身体はデッサンがたがたと言うのも良くある。何でかっつーと、つまり顔を描くのに一杯一杯で、身体にまで気が回らないからだね。
こないだ図書館で、『そのまんまでいいんだよ』と言う本を見つけて、読んでみたら結構面白かった。この本を書いた飯島 勤さんは、子供を対象に絵画教室を開いておられるのだけど、絵そのものではなく、「絵を書く楽しさ」を教えている。まあ美術教育の是非を云々すると、それだけで文章一つ書けちゃうだろうけどこの際そこまで書く積もりは無い。この本の中で、「頭足人」と言うのが出てくる。
確かなんかしら名前が付いてたような気がするんだけど、心理学で、「丸の中に点が三角形に並んでいると人間はそれを『顔』だと認識する」って言うのがある。「心霊写真」を説明するのにも良く使われるけど、なんで(∵)とか(´∀`)だとか( ゜Д゜)だとかを顔と認識するのかと言うと、生まれたばかりの赤ん坊は、親の側にいないと生きていけない、それには親を認識しなければならない。それで、(∵)を親の顔だと先ず覚えるんだそうだ。実際赤ん坊はそんなに目は良くないのでこんな風に見えるらしい。つまり人間が相手を人間だと認識するには、顔が何より重要なわけである。「人足犬」でも「人手魚」でも無く(「ヒトデ」ってのは居るけど)、「人面犬」「人面魚」なのである。
要するに幼児にとっては「顔」=「人間」なのである。先ず顔を描いて、おおこれで人間が描けた。ん? でもなんか足んないな。そーだ、手と足があったそー言えば。胴体は意識の範疇に無い。手や足は良く動かすので顔の次くらいには認識されている。でも胴体は首の下についているだけ。なもんで顔と一体化してしまう。かくして、顔から手足の生えた「頭足人」が描かれるわけです。
でもまあある程度年齢を重ねると、胴体も認識されてくる。けどやっぱり、意識は顔に行っちゃうわけですね。顔はまあまあ上手く描けてるのに、首から下はどっちらけ、そもそも首からしてずれてる、なんて絵が描かれるのですよ。最初の話に戻ると、手には顔ほど意識が行ってないものだから、取り敢えず描くのでえらいちっちゃくてちゃちい手になる。長谷川 町子さんなんかはそれが絵柄になっちゃってるけどね。
そんなん居たら怖いわ。
7、8年ぐらい前だろうか、『八犬伝』とかで有名な碧也 ぴんくさんのインタビュー記事を読んでいたら、「人物を描く時どこから書き始めるか?」と言う質問に対して、碧也さんが「構図によってはお尻や足から描く事も有る」と答えていて「へー」と思った事が有る。
今なら別に足からだろーと尻からだろーと描けるんだけど、当時は「そんな事できる人居るのかー!」と驚いたんである。当時のおれは頭の天辺からじゃないと描けなかったんですな。尻や足から描くなんて、随分掟破りな真似をするもんだと思ったんである。とは言え描けなかったわけではない。椅子に座っているポーズを描く時は椅子を先に書いて、腰の辺りから描いた。苦労した上に歪みまくったけどね。「描ける」なんて書いたけど、その時に比べれば現在はそんなに苦労しなくても描けるようにはなっただけの話である。
おれは今でも、いつもは天辺から描き始めるのだけれど、他の所から描き出すとやっぱり多少は歪むなあ。と言う事は人体の把握がちゃんと出来てない、てことなんだろうか。まあどうにか修正はできるけどね。それにいつもと違う事をするのは何かと発見が在る。けつを描くのって結構楽しいな。いやその。
実際、違うとこから描き出したら、途端にデッサンが採れるようになったって人も居るしね。前にも似たような事書いた気もするけど、どこから描こうとデッサンが採れるくらい人体の把握ができてるのか、人体の把握がちゃんとしているからどこから描いてもデッサンが採れるのか。まあ結局この辺卵と鶏で、互いに原因であり結果なのだろうけど。そもそもが「デッサンの狂い」に気がついて、それを直す事ができる時点である程度のスキルは身に着いているんだろうけどね。おれはまだその辺ちょっとあやしいんだけど。 頭の天辺から描こーが踵から描こーが構図ができてなきゃまともには描けませんわな。人体の把握がちゃんと出来ていれば、どっから始めたって描ける、筈である。って良く考えてみたら、「デッサンが採れる」のと「人体の把握ができている」のって同じ事なんじゃないか?言い回し違うだけで。それなら別に問題ないわい。
おれの出身地は新潟だけど、言うまでも無く新潟はマンガ王国である。赤塚 不二夫、水島 新司、高橋 留美子、マンガの歴史に名を残す先人達や、最近では和月 伸宏とか、多くのマンガ家を輩出している。「ガタケット」と呼ばれる全国的な同人誌即売会も行われるし、新潟市主催でのマンガコンテストも開かれるなど、首都圏や福岡に並んでマンガが盛んだと言っていいだろう。
何故新潟でマンガが此れほど盛んかと言うと、おれの友人Sの説では、「冬は雪に降り込められて、家の中でマンガ描いてるより他無いから」だそうだ。真偽の程は定かではない。
さて新潟出身の先達の一人に、魔夜 峰央先生がおられる。魔夜先生をおれは心の師と仰いでいる。何しろ先生の『パタリロ!』を見てマンガを描き始めたようなものだからなあ。20年経った今でも影響されていると思う。
前述した通りのマンガ王国である新潟では、マンガコースのある専門学校まで在ったりする。数年前、NHKのローカル番組で、マンガ王国新潟の特集が組まれた。スタジオにはマンガコースの生徒を招き、ゲストに魔夜先生をお呼びして、マンガ王国新潟の今(と言ってももう数年前だけど)を見てみよう、と言う主旨だった。
何故新潟はマンガ王国と呼ばれるのか、そのデータ、バイトに勤しみながらプロを目指すマンガ青年、新潟出身のマンガ家(確か水島先生だった)を紹介しつつ、ラスト近くになって、生徒たちのマンガを魔夜先生に見ていただこう! と言うことになって、生徒たちは自信作を魔夜先生にお見せした。先生はトレードマークのサングラスに手をやりつつ、生徒達のマンガに目を通していかれた。一通り見終わって、コメントを求められると、「皆中々上手いですね」とまずは当たり触りの無い言葉を仰ったのだが、その後が振るっていた。
「でも十年で飽きられる絵ですね」
10年どころか、3、4年で流行り廃りが入れ替わるマンガ業界に在って飽きられよーがどーなろーがマンガ家やってきた魔夜先生ならではのお言葉だなあ。
……諸君おれは告白しよう。
女の胸が大好きなんだっ!!
大きいのも小さいのも好きである。女の子を描く時でも、やっぱり胸の辺りを描く時は念入りに描いてしまう。かつて明石家さんまが「女の乳房にゃかなわない
」と歌った(この歌高見沢俊彦さんが作ったと知った時には驚いた。どーでもいいけどさんまってあんなに人気あるのに何故歌はあまり売れないのだろうか。所さんと組んだ「明石家 さんまさんに聞いてみないとね」もあまり売れなかったし。ほんとにどーでもいい)けど、全くその通りでございます。
さっき「小さいのも好きだ」とは書いたけど、ついつい大き目に描いてしまうのはやはり男の性か。まあ手塚先生も『マンガの心』で「女の子の胸は大き目に描こう」とおっしゃってるのだし、いい事にしよう、うん。
だけど「明らかにそれはでか過ぎだろ」って言う胸を描く人も結構居るわけでして。なんかもうバスケットボール大はありそうなのも良く見掛ける。そこまででかいと生活するのにも邪魔なんじゃないだろうか。元々マンガ絵ってのは極端に「記号化」されているわけだけれど、なんかサーベルタイガーの牙みたいな素敵な進化をしてるよなー。でもまあ、実際にそういう胸の人が居ないわけじゃないんだけどね。アメリカのポルノ女優とかだといったいシリコン何十キロ詰めてんだ、ほんとに子供1人ぐらい入ってんじゃないか腹じゃなくて胸で妊娠してるのかと言いたくなるような巨大な胸をしている人も居たりするからね。そこまででかいとリビドーを掻き立てられる前にげっぷが出そうだが、需要はちゃんと有るようだから恐ろしいっつーか面白いっつーか。
男と女を描き分ける時、何が一番重要かって極端に言ってしまえば胸が膨らんでいるかいないか、だから(もう1つ、髪が長いか短いかってのも有るけど)言わば基本であり、基本だからこそ人に因って色々と拘りが有る、と言うところか。
おれが2ちゃんねらーであることは最早言うまでも無いだろうけど、こないだ見たら、またおれの絵が晒されてるでねーの。しかも「ヘタ絵」を晒すスレで、ちょっと鬱になってしまったのだが、レスで「この人、ヘタレじゃなくて一般うけしない絵柄なんだと思うな」と書いてあったのでちょっと、いや、とてもほっとした。尤もその後「俺も好きな絵ではないが・・」と続くんだけど。
「一般うけしない絵柄」かあ。うーん実を言うと昔から言われてたんだよ。高校の時の友人達も言ってたし、確かに「ハヤリ」の絵ではないかもね。おれは同郷の先達魔夜 峰央先生を心の師と仰いでいるが、友人達にも「魔夜 峰央っぽいな」とは良く言われる。『パタリロ!』を見て、マンガを描くようになったからなあ。その影響は大きかろう。『超人ロック』の聖 悠紀先生にも似てると言われた事がある。おれあんなに「初期のアニメ絵」じゃないぞ? 描線が似てる、と言うことなんだろうか。何か敵作りそうだが、初期の頃の藤崎 竜さんにも似てると言われた事がある。『封神演義』じゃなくて『WORLDS』の頃のね。うーんこれはどうだろう? 今は大分藤崎さんも「一般」のオタク受けする絵になったけど、デビューした時はあの絵は衝撃的だった。今見るとそうでもないかもしれないけど、当時としてはかなり灰汁の強い絵柄だった。その灰汁の強さが似ている、と言うことか?
だけど今現在、藤崎風の絵って結構多いような気がする。それも、藤崎さんが『封神』で売れたから、と言うわけではなく、藤崎さんがデビューしてから、この手の絵、大雑把な部品の把握と、大き目に書いた末端と言った描き方の絵を見掛けるようになった、気がする。藤崎さんのデビューはおれが高校生ぐらいの頃だから凡そ10年ぐらい前か。当時は結構あの絵は衝撃的だったのである。
10年前は衝撃的だった絵が、今ではよく見掛ける、と言う事は藤崎さんは「時代を先取りしていた」んだろうか。それって「クリエーター」としては本懐だなあ。おれの絵は果たして、時代を先取りしているのだろうか、それとも単なる異端なんだろうか。
なんやかやと偉そうな事書いてるけど、ま、絵なんて自分の好きなように描けばいいんである。勝ち負けとか、正しい間違ってるとかがあるわけじゃないんだから。「絵を描きたい」という情熱があればこそ描くわけだし、「自分の絵を見てもらいたい」と言う自己表現の手段であるならば人に見せるのは至極当然である。
但し、「上手い」「下手」と言う「差」は存在するわけだし、同じく人に見せるのなら「下手だな」と貶されるより「上手だね」と誉められる方がいいに決まっている。尤もこれとて描いていくうちに上手くなっていくものだけど、幾ら描いても下手な人もいれば書き始めてすぐ上手くなる人もいる。これはほんとに「練習の質」とか、「才能と努力」とかの問題なのだけれども、「下手だけど一度見たら忘れられない程個性的」なのと「上手いけど無個性でどこかで見たようなものばかり」なのとではどっちがいいのか、これも難しい。いや、「下手なんだけどとても個性的」だったのに、その後上手くなったのはいいけどえらい「どっかで見た事ある絵」になってしまったて言う例を実際知ってるんだよ。
「上手いけど無個性」と言うのはまあこれはある程度仕方ないかもしれない。上条 敦士さんや高河 ゆんさんの頃にはシャープな描線が受けたけど『ナディア』以降貞本 義行さん的タッチのソフトなフォルムが流行るようになった。色の塗り方だと所謂「エロゲー塗り」か寺田 克也さん風の厚塗りをよく見掛ける。上手い人の描き方には、特に自分が好きなら影響されてしまうし、「ハヤリ」ってのはあるからね。
ところで、自分が前に描いたのを見ると恥ずかしくなってしまうのは上手くなっている証拠だと聞いた事があるけど、おれの場合1、2年ぐらい前に描いたものなら「うわ下手だな」ぐらいで笑って見れるけど、高校や大学行ってた時のなんて恥ずかしくてよう見れん。家の納屋(「納屋」!?)の整理をしていたら、その頃描いた絵が出てきたんだけどバインダーに挟んであってまだ良かった。バインダー見ただけでも恥ずかしかったもんね。無論ページなんか開けられない。「世も有らぬ」とはこの事かと思ったよ。しかも以前家族にも見られてるし。
……ウツダシノウ。
前に夏目 漱石の『夢十夜』の中の、「運慶は木の中の仁王を彫り出しているだけだ」と言う話をした。で、おれが思うに、絵が描ける人は紙に隠された絵をなぞっているのに過ぎないのである。この辺の事をもうちょっと詳しく説明してみる。
無論明治の木だろうと鎌倉の木だろうとほんとに仁王が埋まっている筈も無い。紙にだって絵が隠されている筈も有りません。じゃどー言うことなのかっつーと。
絵を描こうと思って、何もイメージせずに紙に向かう人は居るまい。あれを描こうこれを描こうと思って、筆を執る筈である。では描くに当たって手本が有るのと、無いのとではどっちが楽だろうか。手本を前にして描く方が楽に決まっている。漠然としたイメージで描くのと、実際に手本が有って描くのとで、どっちが上手に描けるかは自明の理である。
では紙に予め絵が在って、それをなぞるのは? これで上手く描けなかったら「絵を描く」以前の問題だろう。絵が上手い人というのは、既に紙に絵が見えているのである。絵が描けるか否かは、紙の上に絵が見えるほどイメージを作り出す事が出来るかどうかと言っていい。そして絵が上手いと言うのは、紙の上に、脳内のイメージをどれだけ投影できるか、なのである。
余り慣れていない人の絵は、えらい線ががたがたしているけど、これはイメージがうまく作れないので、紙の上におぼろげなイメージしか投影できないので、なぞろうにも線が迷ってしまうからだ。紙の上に明確なイメージを投影できるからこそ、迷いの無い線が引ける、とも言えるのだけど。線を引くのに迷いが無いレベルだからはっきりとしたイメージを紙に投影できるのか、線に迷いがあるレベルだからイメージを形作れないのか、微妙なところではあるけれど。
まあこれは慣れてないと「形」ではなく「線」を描こうとしてしまうので、がたついてしまう、と言うのは有るんだけどね。この辺の話もまた別の機会にしてみよう。
実は今回、アフガン戦争に就いて書く積もりだったのだが、今一だったので没にした。やっぱりおれは絵の話を書いていたほうがいいようだ。分相応と言うものが有る。え、絵の話をするのも不相応だ? そんな。まあ一言だけ。タリバンは滅茶苦茶女性差別しているけど、いいんですか? 田嶋 陽子先生、及び土井 たか子党首や辻元 清美先生、社民党の先生方。
写真を撮るとき、真正面ではなく左から撮った方が映りがいいそうだ。喜怒哀楽のうち、「喜」や「楽」は左側に、「怒」や「哀」は右側に強く出る、なんて話も有ったような。
それと関係有るのかどうかは知らないけど、顔を描くとき、左正面からの方が描きやすい。左からだと描き易い、と言う事は右からは描き辛い、と言う事だ。実際、割と上手な人でも右から描くのが苦手、と言う人は多いらしい。では中を取って正面はどうかと言うと、正面も苦手な人は多い。
左からの方が描きやすい。右、正面は描かなくなってしまう。左は描けるようになってもその他のアングルからは描けなくなってしまう。と言う具合らしい。雑誌『コミッカーズ』(美術出版社刊)だとこれを「どっちか症候群」と呼んでいた。左か右か「どっちか」からしか描けなくなる、と言う意味でね。
おれは絵の描き方を教えてくれた友人Dに「右からは描き辛い」と言う話を聞いて、右や正面もなるべく描くようにしてきたのでどの向きからでもそんなに苦は無い。右でも左でも同じくらい下手なだけやんけ! と言う尤もなツッコミはこの際無視する。尤も「そんなに苦は無い」と言ってもやっぱり左から描いちゃうけどね。
では右から描くのが苦手な人はどうしているかと言うと、まず左正面の絵を描いて、紙をひっくり返して裏からトレースするんだそうだ。CGだったら「左右反転」の操作をすればいいわけですね。ひっくり返すと絵の歪みが分かりやすくなるから修正ができて、却って左から描いたのより上手くなったりして。だけどこの方法でも「正面」はどうにもならんわな。
「右手で書くから」だと聞いたことも有る。おれは右利きだが確かに左向きの顔を描く方が、線を引くのも楽のような気がする。けど左利きの人でもやっぱり右から描くのは苦手、左から描くほうが描きやすい、と言う人も居るから「利き手」ばかりではないのか? 考えてみりゃ尤もな話であって、左利きだからと言って字を反対にして書いたりするわけじゃないんだから、絵を描くのにも利き手はあまり関係無いだろう。
ほんとに「左正面は写真映りがいい」と言うのと関連性が有ったりして。
何回か、「模写の弊害」を言ってきたわけだけど、一応模写の弁護もしておくと、是も前には言ったのだけど、絵を描こうと思う初心者のファーストステップには打って付けの手段だと思う、と言っておこう。
何故模写は初心者向けなのか。
絵を描くのが慣れている人は、キャンバスの上に何を描くのか、そのビジョンとプランをちゃんと組み立てる事が出来る。前回書いた「白い紙に隠された像をインクでなぞる」と言うのはこのことで、意識的にしろ無意識にしろ、絵を描く事が出来る人は、実際にペンを取る前に既に絵は描かれているのである。
翻って初心者は、之が出来ない。真っ白な紙を見ても真っ白のままなのだ。ずっと見てても穴が開くだけである。言い換えれば、一先ず「描こう」と言う意志は在っても何を描いたものか分からない、どう描いたらいいのか頭の中で組み立てる事が出来ないのである。まあ当たり前の話であって、頭の中にあるものを紙の上に完璧に写し取れたら誰だって「創作」に苦労はしない。
そんな初心者に「模写」はお薦めなのである。
「絵を描く」のは頭の中のイメージを画像化する行為である。即ち絵とは、画像化されたイメージに他ならない。既に画像化されたイメージを真似る事は、画像化の方法を学ぶ事である。模写する対象は、自分の好きなものでよい。好きだ、真似したい、と言うことは、つまり自分が描きたいと思っている対象に近いと言うことだ。「好きだ」と言うことはつまり自分が求めている絵だ、と言うことだからね。
生意気な言い方になるけど、おれも結構昔模写をよくやった。友達連中には「模写した方が上手い」とよく言われたもんだ。このコラムを書くに当たって久しぶりに模写をやってみたんだけど、今でも模写した方がよっぱりうまい気はする。プロのテクとセンスによって技量が補完されるからだね、きっと。結構新しい発見があったり、「慣れ」の中に忘れてしまった事を思い出したりして面白かったりするので、中上級者でも模写はやってみると面白いかもしれない。
ところで模写をする時、つい線をそのままトレースしてしまいがちだが、それだと絵全体ではえらいがたがたになってしまう。線だけを見るのではなく、絵を見て模写をしたほうが良いと思う。結構おれもやってしまったんだけど、「構図」や「バランス」も絵を描く時には重要になってくるからね。それと「オレ絵」には逃げない方がいいと思う。上手い人の技を盗むためにやるのに、描けない所をごまかしてしまっては如何。どーせ模写するなら「ええっ!? これ本人が描いたの?」と思われるぐらいのを描きなさい。
うろ覚えなので正確ではないのだけれど、山口 瞳氏が以前「上手い文章を書くコツは削って削って削る事です」と仰られていた。そう言えば文章の上手い人は言葉に無駄が無い、とも良く言われる。言葉をどんなふうに並べれば、伝えたいことが読み手に通じるか、分かっているからそこに無駄な装飾は要らない、逆に必要な、絶対に書かなければいけない文節を残す事が出来る。悪い意味での遊びが無いのである。
之は絵にも言える事だと思う。
「マンガ絵」は特にそうだが、線の位置が少しおかしいだけで目には奇異に映る。上手いというのは線の引き所が分かっている事だ、と言う気がおれは最近している。
と書いてちょっと思い出した。夏目 漱石の「夢十夜」にこんなエピソードがある。
主人公は運慶が大木で仁王を彫っているのを見物する。上手いものだと感心してみていると見物人の1人が主人公に、「あれは運慶が仁王を彫っているんじゃない、木の中に仁王が埋まっていて、運慶はそれを彫り出しているのに過ぎないのさ」と言う。成る程と思った主人公は家に帰って薪から仁王を鑿で掘り出してみようとするがどの木からも仁王は現れてこない。薪を全部木屑にしてしまった挙句、明治の木には仁王は埋まっていなかった、と言う落ちなのだが、おれが思うに、絵の上手い人というのは白い紙に隠されている絵を、インクや鉛筆でなぞっているだけなのではないか、と言う気がする。葉っぱや硬貨なんかを紙の下に敷いて、鉛筆で上から軽く塗り潰すと葉っぱや硬貨の模様が浮かび上がってくるのと同じようなものである。
「夢十夜」の運慶は木の中に埋まっている仁王を掘り出しているわけだが、それだけでなく運慶には木の中に埋まっている仁王がちゃんと見えているのである。或いは明治の木にも仁王は埋まっているのかもしれないが、運慶ならぬ主人公には埋まっている仁王は見えなかったのだ。だから彫り出すことも出来なかった。絵にしても同様で、紙に隠されている絵を見ることが出来て、それをなぞり出すことが出来る人と、見ることも出来ない人とが居るわけである。
「マンガ絵の模写」も確かにレベルアップの一助ではある。特に、初心者には打って付けの方法だろう。だけど、それを続けていても結局「マンガ絵」以上のものは描けない。コピーを重ねていくと、文面が劣化してしまい、字が潰れたりして判読できなくなってしまう。同様に、「マンガ絵の模写」も元のマンガ絵を超えるものを描けるレベルは身に着かない。「そこそこ上手いマンガ絵」なら描けるようにはなってもね。
「マンガ絵の模写」の一番の弊害は、「人体の把握が出来なくなる」事だと思う。おれも以前、何でこめかみが出っ張って描かれるのか、良く分からなかった。言うまでも無いが、鏡を見れば一目瞭然である。もう1年近く前の話だが、結構絵の上手い人のサイトで、日記に「目尻を黒くとがらせて処理する理由を最近知った」と書いてあって、その人はファンも多いような人なので読んで驚いた。今にして思えば、「マンガ絵」の上手い人でも、人体についての認識はその程度なのである。
人体についての認識が出来てない、つまり「記号」としての人物しか描いてない人は結構多いように思われる。自分が今引っ張っている線が、何なのか分からずにペンを滑らせている、と言うことなのだ。前回「発電所」の地図記号を例えに出したが、之がダイナモだと分かっていれば、周囲に突き出しているのが電極で、長く伸びた腕は電流、中心の丸はシャフトだと分かるけど、ダイナモだと分からなければ一体何を表現しているのか分からない。言い換えれば、どうしてこの線が現れるのか、その「線の意味」が分かっていない、とも言える。
「マンガ絵」を描くにしたって、キャラ100体を模写するより、解剖図の図版1枚を模写したり、実在の人物1人をスケッチしてみたりする方が得るものはよほど多かろう。実際、前述の上手いけど「目尻の意味」が分からなかった人もそれ以降人体のデッサンをするようになったようだし。
前に解剖図を模写してたら、友人Sに「ダ・ヴィンチの真似か」と言われた事があったな。そう言えば描いてますね。
小学生の時、既にノートの余白に落書きをちょこちょこと描いてはいたので、まあ20年近く、絵を描いていた事にはなる。20年描いて、そこそこはものになっているのか、或いは「この程度」なのか、自分じゃよく分からないが、絵を描いてきていろいろと思った事なんかを書いてみたいと思っている次第である。はっきり言って下手の横好きが書いた覚書に過ぎないので、絵を描こうと思っている人は余り参考にしない方がいいかもしれない。
さて……
ノートの余白に落書きをしてはいたが、本格的に「イラスト」を描き始めたのは高校に入ってからである。だから実質10年かもしれない。「イラスト」と言ってもつけペンにインクの所謂「マンガ絵」であり、やり方としては知っていたが、高校の友人Dが教えてくれたのでこの方法で描くようになった。大してものにはならなかったんだが。今ではアナログペンはやめてしまって「Painter」で絵を描いているんだけど、主線を描く時にはやっぱり「インクペン」を使ってしまう。
つけペンを教えてくれた友人Dは、「模写から始めろ」とも教えてくれた。自分の好きなキャラを模写すれば上達する、とね。つまり上手な人の線の引き方、デッサンなんかを真似して、技を盗むわけである。好きなキャラなら書いてて楽しいし、スキルもアップするわけだ。てなわけで模写も結構やったんだけど、今考えてみると模写にも弊害がある。
絵が「マンガ」にしかならないのだ。
マンガの絵と言うのは普通の絵に比べてかなり記号化されている。だからこそ人口に膾炙するわけだけれども、記号を見ても、元になったものを想像するのはかなり困難である。例えば「発電所」の地図記号は発電機を図案化したものだけどここから元の発電機を描ける人は居まい。
「マンガ」を見て描いた結果、とても不思議な人体が描き出される事になる。えらくこめかみが突き出した絵を時々見掛けるけど、言わば「マンガ絵の模写」による劣化コピーの産物なのである。