このコンテンツは、旧『ゴーマニズム研究会』にアップしてあったルポなどを再編集したものである。
当時、オレは「Puイーター」と「藤原 亮一」と言うHNを使っており、藤原の名で文章を書いている。「『脱ゴーマニズム宣言』裁判論 争巻き込まれ顛末記」はPuイーターを藤原がルポした、という体裁を取っているが、そのままにしてある。
基本的に、文章には手を加えていない。
この著作権裁判は現在も係争中である。どうやらまだまだ決着は着きそうにないが、この裁判、現在のオレ自身としては、批判は納得せざるを得ないので、小林を弁護する余地はないが、必要以上に「勝ち」をひけらかす上杉にも賛同はしかねる。
このコンテンツはオレがWebで発表したものとしてはもっとも反響が大きく、この裁判について議論している『Yahoo!』掲示板にも取 り上げられたくらいだ。
「小林 よしのりが負けた」と言う事態に、ファンがどのように反応したのか、御覧になっていただければ幸いである。
私は『マンガ者』である。
『マンガ者』とは、これは私の勝手な定義だが、「マンガを深く愛し、しかしさめた目で見る事が出来る者」、つまり、『マンガ』と言う文化に対して、どっぷりと頭まではまる事無く、けれど愛情を持って、接している者の事を言う。『作品』として『マンガ』を愛で、同時に『作品』としての『マンガ』を分析も出来る者、と言ってもいいかもしれない。
端的に言ってしまえば、「マンガを『愛して』いる者」と考えていただいて構わない。
くだくだ説明してしまったが、その『マンガ者』として言う。『脱ゴーマニズム宣言』は、「マンガ評論のあるべき形」などでは、断じて、無い!
この裁判の事を知らない人のために説明しておくと、『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』で有名なマンガ家小林 よしのりが、自著『ゴーマニズム宣言』において、いわゆる「従軍慰安婦問題」に対し、「『従軍慰安婦』に対し、国家賠償の必要は無い。なぜなら、『日本軍による強制連行』は無かったし、『業者による強制連行』すら本当にあったのか分からない。慰安婦は『性奴隷』どころか、立派な『プロの売春婦』だったのではないか」とそれまでの「定説」(笑)を覆すような問題提起を行った。それに対し、関西大学上杉 聡講師が、反論として出版したのが件の『脱ゴーマニズム宣言(以下『脱ゴー宣』)』である。……のだが……『脱ゴー宣』において上杉氏は、作者小林に無断で、『ゴーマニズム宣言』のコマを「引用」、小林はこれを「著作権の侵害」とし、賠償金と『脱ゴー宣』の出版差し止めを求め上杉氏を提訴、第1審は小林側の敗訴に終わったが、現在上告が認められ、第2審が係争中、である。
両作品の「内容」に関してはここではどちらにも触れまい。どちらを『信じる』かは、実際に両書を読んでいただき、判断は皆様にゆだねよう。問題にしたいのは、先述したように第1審では小林側が敗訴、つまり上杉氏側が勝ってしまった点である。
この上杉氏側の勝利に、多くのマスコミが注目、特に朝日新聞では1面で取り上げ、「『漫画評論』の新しい地平」とまで見出しをつけていた。四方田 犬彦氏も、『SPA!』のコラムで、この評決を支持する姿勢を見せている。つまり朝日新聞や四方田氏のような、「権威」がこの上杉氏側の勝利を支持している。上杉氏自身も、それまで「マンガ評論」などとは1度も口に出さなかったのに、マスコミが持ち上げたとたん、「マンガヒョーロンマンガヒョーロン」と連呼している。それに対し、小林を支持する声は小さい。
だが、私の目から見れば、この「上杉氏側勝利」はこう見える。
上杉氏は、『脱ゴー宣』の前書きで、『異種格闘技戦に臨むような気持ちで書いた』という記述している。だが、その『異種格闘技戦』とは、例えば小林が相撲取りだとする。実際は相撲協会はガチガチだから、『異種格闘技戦』なんてありえないが、まぁ実現したとしよう。だが、「小林は従来の相撲のルール通り、廻し一丁で闘わなければならない、だがこっちは完全フル装備、プロテクターを体中に装備し、凶器の持ち込みも可、転ぼうが土俵の外に出ようが「負け」ではない」と上杉氏は要求しているのだ。『脱ゴー宣』を読む限り、私にはそうとしか思えない。
尤も、実際に勝負が始まれば、上杉氏は小林の張り手一発で土俵外どころか客席まで吹っ飛び、そのまま失神。取組続行不可能でTKO(相撲にTKOなんて無いが)と言う結果でしかなかった。これは無論裁判の事でなく、あくまで私が見た両作品の内容からの私個人の審判だが。
だが、上杉氏の、『勝つためなら何でも有り』、はっきり言ってしまえば『卑怯なやり口』が、「新しい相撲だ!」と注目されてしまったのである。小林のやり方、つまり本来のルールで行う相撲は、「古臭い」「もう時代遅れだ」とけなされているのである。しかも、上杉氏を持ち上げ、小林をけなしている連中は、それまで『相撲』なんて見た事も無い門外漢でしかなく、しかし彼らは大きな発言力を持っている。つまりは朝日を始めとした大新聞や、四方田氏のような『権威』のある身分の人などなのだが、彼らが『A』だと言えば、世間は『A』だと思ってしまうのである。(『相撲』云々と言うのはもちろん例え話です。『相撲』を『マンガ』・『マンガ評論』に置き換えて、考えてみてください)
この上杉氏の『やり口』、『裁判での勝利』に対し、小林本人、また小島 功先生をはじめとする何人かが反論をしてはいるが、その声は大きくはなっていない。
私も『脱ゴー宣』を実際に読んでみたが……内容については言わない事にする。途中で読むのを止めて、生まれて始めて「金返せ」と思った、とだけ言っておこう。
まあ『誹謗中傷』も『評論』のうち、と考える事も出来る。
だが、上杉氏の言う『引用』は、私の目から見れば『盗用』でしかない。『引用』とは、引用元の資料に対し、『敬意』と『感謝』を以って行うものだと私は思っている。「どーしても必要なんです、すいません」と資料、そしてその著者に頭を下げながら行うものではないのか。上杉氏の『やり口』は、「たかがマンガだ」と頭から軽視し、切り刻み、絵を描き変えて、べたべたと貼り付けたのだ。確かに、『文章』の引用では著作者に許諾は特に要らない。だがそれにしたって、あまりにも『引用』の範疇を越えていれば当然トラブルとなり得る。
『盗用』を『引用』と言い張って、しかも「『マンガヒョーロン』のあるべき形」とまで誇らしげに宣言し、さらには、同じ『やり口』を使った『次回作』まで準備していると言うのだから、こちらとしては最早失笑せざるを得ない。
『マンガ者』として言う。『脱ゴー宣』は卑怯なやり口の『盗用』本であり、これを「マンガ評論の新しい地平」などと認める事は、断じて、出来ない。
*
『Pop Culture』(『ポップカルチャークリティーク』の誤り:筆者注)と言う雑誌があるが、この雑誌の『創刊号』で『エヴァ』評論特集をやっていたのだが、カットはたった3枚。しかも『原作』からの『引用』は『劇場版』のアスカのカット1枚が表紙にあるだけで、あとはなぜか『石川 賢』風(笑)のパロディイラストと、庵野監督と宮崎監督の関係を初号機とゲンドウに置き換えて見事に表現したパロディイラスト、計3枚だけである。評論も実に素晴らしい物ばかりで、『エヴァ』に『精神汚染』された私の目からウロコがまとめて10枚ごそっと落ちてきた程である(笑)。ぜひ御一読をお勧めします。
文責:藤原亮一
この文章を、「巻き込まれ顛末記」と言うタイトルにするのは、正確ではないかもしれない。なぜなら、「巻き込まれた」のはこのサイトの管理者であり私の友人でもあるPu(プルトニウム)イーターなのだが、実際は巻き込まれ「かけた」だけだからだ。とは言え、Pu本人も「この論争に対して幾つか思う所がある」と言っているので、このタイトルを採用する事にする。
まずは、この論争の契機から書かねばなるまい。このサイトをご覧になられている方々には今更説明の必要も無いだろうが、関西大学講師上杉 聰が『脱ゴーマニズム宣言』と題した本を上梓した事からこの論争は始まっている。
無論この本が、小林 よしのり著『ゴーマニズム宣言』に対する批評、反論である事は言うまでも無い。とは言え内容に関してはひどい物で、論理らしい論理はごくわずかでそれも小林によって論破された説をさらに粗悪にして繰り返すのみで反論にはなっておらず、あとは小林や『新しい歴史教科書をつくる会』や秦 郁彦氏らに対する誹謗中傷やデマに終始するのみという有様であった。
この『脱ゴー宣』の「内容」のひどさに関しては、この論争における「小林否定派」にしても認めざるを得ないようで、『反小林』=『親上杉』と言う図式にはならない。
寧ろ問題となっているのは、内容その物より、『脱ゴー宣』本文における『ゴー宣』からのコマの引用であった。マンガ業界においては、コマの引用の際には、引用元の作者に許可を得るのが慣習、となっているようだ。だが上杉はコマの引用を作者である小林に無許可で行った。小林はこの無許可引用を「著作権の侵害」であるとし、裁判に訴えたのである。
裁判が始まった時点では、『ゴー宣』の読者であったPu、そして私も、「小林が勝つ」ものと当然の如く思っていた。だがその後、どう言うわけか『ゴー宣』でも裁判の続報は伝えられず、どうなってしまったのかと思っていたところ、かつて『ゴー宣』が掲載されていた扶桑社の雑誌『SPA!』誌上の四方田 犬彦氏のコラム『次は火だ!』に、「小林よしのり敗訴」と、それに絡めて「引用と著作権」についてのコメントが載っているのをPuが見つけ、その後『ゴー宣』でも敗訴と、その判決に対する小林の不服のコメントが掲載された。
私たちも近所の図書館に行き、新聞のバックナンバーで小林の敗訴を確認した。
私もPuも「小林 よしのりが負けた」と言う衝撃の事実に激しく動揺していた。丁度その頃、Puはホームページ『プルトニウム研究所』を立ち上げていた。PuはHPに、この件について文章を掲載する事にした。だが、その内容は二転三転する。『脱ゴー宣』の内容そのものに対しての反論にすべきか、あるいは上杉の行った(Puは「盗用」と表現した)引用に関して反論するか、もしくは判決に対しての不服か。
内容への反論は小林本人がすでにしている。判決への反論はと言えば、こちらも本人が反論しているし、Puは「適切な方法であれば」マンガのコマの引用も『アリ』だとしていた。であれば、書くべきは『自分の感想』なのではないか、と決定し、Puはキーボードを叩いた。
だが、当初書いた文章はあまりにも感情が先走り、Puは「読者に不快感を与える」と考え一時は掲載を見送る。当時、私もその文章を見せてもらったが「上杉憎し!」が画面から滲み出していて、読むに耐えなかった。私は「これはまずいだろう」と忠告し、Pu本人も書き直す必要がある、と考えていたため、改めて感情を出来るだけ押さえ、感想を書いた。以下に掲載する『マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事』がそれである。なおこの転載に関して、Pu本人の許可は得てある。
マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事
私は『マンガ者』である。
『マンガ者』とは、これは私の勝手な定義だが、「マンガを深く愛し、しかしさめた目で見る事が出来る者」、つまり、『マンガ』と言う文化に対して、どっぷりと頭まではまる事無く、けれど愛情を持って、接している者の事を言う。『作品』として『マンガ』を愛で、同時に『作品』としての『マンガ』を分析も出来る者、と言ってもいいかもしれない。
端的に言ってしまえば、「マンガを『愛して』いる者」と考えていただいて構わない。
くだくだ説明してしまったが、その『マンガ者』として言う。『脱ゴーマニズム宣言』は、「マンガ評論のあるべき形」などでは、断じて、無い!
この裁判の事を知らない人のために説明しておくと、『東大一直線』や『おぼっちゃまくん』で有名なマンガ家小林 よしのりが、自著『ゴーマニズム宣言』において、いわゆる「従軍慰安婦問題」に対し、「『従軍慰安婦』に対し、国家賠償の必要は無い。なぜなら、『日本軍による強制連行』は無かったし、『業者による強制連行』すら本当にあったのか分からない。慰安婦は『性奴隷』どころか、立派な『プロの売春婦』だったのではないか」とそれまでの「定説」(笑)を覆すような問題提起を行った。それに対し、関西大学上杉 聡講師が、反論として出版したのが件の『脱ゴーマニズム宣言(以下『脱ゴー宣』)』である。……のだが……『脱ゴー宣』において上杉氏は、作者小林に無断で、『ゴーマニズム宣言』のコマを「引用」、小林はこれを「著作権の侵害」とし、賠償金と『脱ゴー宣』の出版差し止めを求め上杉氏を提訴、第1審は小林側の敗訴に終わったが、現在上告が認められ、第2審が係争中、である。
両作品の「内容」に関してはここではどちらにも触れまい。どちらを『信じる』かは、実際に両書を読んでいただき、判断は皆様にゆだねよう。問題にしたいのは、先述したように第1審では小林側が敗訴、つまり上杉氏側が勝ってしまった点である。
この上杉氏側の勝利に、多くのマスコミが注目、特に朝日新聞では1面で取り上げ、「『漫画評論』の新しい地平」とまで見出しをつけていた。四方田 犬彦氏も、『SPA!』のコラムで、この評決を支持する姿勢を見せている。つまり朝日新聞や四方田氏のような、「権威」がこの上杉氏側の勝利を支持している。上杉氏自身も、それまで「マンガ評論」などとは1度も口に出さなかったのに、マスコミが持ち上げたとたん、「マンガヒョーロンマンガヒョーロン」と連呼している。それに対し、小林を支持する声は小さい。
だが、私の目から見れば、この「上杉氏側勝利」はこう見える。
上杉氏は、『脱ゴー宣』の前書きで、『異種格闘技戦に臨むような気持ちで書いた』という記述している。だが、その『異種格闘技戦』とは、例えば小林が相撲取りだとする。実際は相撲協会はガチガチだから、『異種格闘技戦』なんてありえないが、まぁ実現したとしよう。だが、「小林は従来の相撲のルール通り、廻し一丁で闘わなければならない、だがこっちは完全フル装備、プロテクターを体中に装備し、凶器の持ち込みも可、転ぼうが土俵の外に出ようが「負け」ではない」と上杉氏は要求しているのだ。『脱ゴー宣』を読む限り、私にはそうとしか思えない。
尤も、実際に勝負が始まれば、上杉氏は小林の張り手一発で土俵外どころか客席まで吹っ飛び、そのまま失神。取組続行不可能でTKO(相撲にTKOなんて無いが)と言う結果でしかなかった。これは無論裁判の事でなく、あくまで私が見た両作品の内容からの私個人の審判だが。
だが、上杉氏の、『勝つためなら何でも有り』、はっきり言ってしまえば『卑怯なやり口』が、「新しい相撲だ!」と注目されてしまったのである。小林のやり方、つまり本来のルールで行う相撲は、「古臭い」「もう時代遅れだ」とけなされているのである。しかも、上杉氏を持ち上げ、小林をけなしている連中は、それまで『相撲』なんて見た事も無い門外漢でしかなく、しかし彼らは大きな発言力を持っている。つまりは朝日を始めとした大新聞や、四方田氏のような『権威』のある身分の人などなのだが、彼らが『A』だと言えば、世間は『A』だと思ってしまうのである。(『相撲』云々と言うのはもちろん例え話です。『相撲』を『マンガ』・『マンガ評論』に置き換えて、考えてみてください)
この上杉氏の『やり口』、『裁判での勝利』に対し、小林本人、また小島 功先生をはじめとする何人かが反論をしてはいるが、その声は大きくはなっていない。
私も『脱ゴー宣』を実際に読んでみたが……内容については言わない事にする。途中で読むのを止めて、生まれて始めて「金返せ」と思った、とだけ言っておこう。
まあ『誹謗中傷』も『評論』のうち、と考える事も出来る。
だが、上杉氏の言う『引用』は、私の目から見れば『盗用』でしかない。『引用』とは、引用元の資料に対し、『敬意』と『感謝』を以って行うものだと私は思っている。「どーしても必要なんです、すいません」と資料、そしてその著者に頭を下げながら行うものではないのか。上杉氏の『やり口』は、「たかがマンガだ」と頭から軽視し、切り刻み、絵を描き変えて、べたべたと貼り付けたのだ。確かに、『文章』の引用では著作者に許諾は特に要らない。だがそれにしたって、あまりにも『引用』の範疇を越えていれば当然トラブルとなり得る。
『盗用』を『引用』と言い張って、しかも「『マンガヒョーロン』のあるべき形」とまで誇らしげに宣言し、さらには、同じ『やり口』を使った『次回作』まで準備していると言うのだから、こちらとしては最早失笑せざるを得ない。
『マンガ者』として言う。『脱ゴー宣』は卑怯なやり口の『盗用』本であり、これを「マンガ評論の新しい地平」などと認める事は、断じて、出来ない。
*
『Pop Culture』(『ポップカルチャークリティーク』の誤り:筆者注)と言う雑誌があるが、この雑誌の『創刊号』で『エヴァ』評論特集をやっていたのだが、カットはたった3枚。しかも『原作』からの『引用』は『劇場版』のアスカのカット1枚が表紙にあるだけで、あとはなぜか『石川 賢』風(笑)のパロディイラストと、庵野監督と宮崎監督の関係を初号機とゲンドウに置き換えて見事に表現したパロディイラスト、計3枚だけである。評論も実に素晴らしい物ばかりで、『エヴァ』に『精神汚染』された私の目からウロコがまとめて10枚ごそっと落ちてきた程である(笑)。ぜひ御一読をお勧めします。
今にして読めば、まだやはり感情が字面の上を踊っている。だが当時は、私もそうだったが、Puもまた「動転していた」と言っていい。腰を落ち着けて書けるような状態ではなかったのだ。
もっとも、その時すでにPu本人もその事を分かっていたとも言える。Puは何度もこの文章をHPに載せるか載せまいか逡巡している。だが「私はこの判決に関しては不服である」と考えている者はいる事を発信するため、Puは掲載を決める。PuはWeb上に、「反小林」サイトを幾つか見つけていて、そう言った方面からのリアクションを予想していた。
余談になるが、Puが見つけた「反小林」サイトの中には「『脱ゴーマニズム宣言』裁判を楽しむ会」なるHPもあって、それは上杉の支持者が運営し、上杉本人も文章を寄せていると言う、いわば「上杉 聰公式HP」であった。Puはこの「楽しむ会」の内容に関して、「『裁判を楽しむ会』なんて名前をつけるのなら中立の立場で観戦すべきなのに、完全に上杉氏サイドでものを見ている。『小林 よしのりを嘲笑う会』にタイトルを変えたほうがいいんじゃないのか」と批判している。もっともその後、Puが見つけたある小林ファンサイトではこのHPを「『笑われる会』の間違いじゃないか」と辛辣にけなしていた。
それはさておき、Puの予想に反し、リアクションは何も無かった。「反小林」サイトの過激さ、劣悪さ、「小林がインターネットは『うんこ溜め』『便所の落書き』と言っているのが良く分かる」とPuが言うほど感情的でパラノイアな内容から、きっと苛烈な反響が返ってくるものと考えていたのだ。ところが、何もない。全くない。この結果にPuは拍子抜けしてしまった。
実は、Puは予想していた反響を「客引き」に利用しようとしていたようだ。つまり、反響が大きなものになれば、何事かと注目が集まる。『プルトニウム研究所』は、Puの趣味であるイラストと、小説を発表するためのサイトであるが、そのようなサイトはWeb上にごまんとあり競争が激しい。現に立ち上げ当初はカウンタが1つしか回っていない、つまりPu本人しか来ていない、と言う情けない日もあり、焦っていた。そのため、『ゴー宣』で耳目を集めておいて、客を集めよう、と言う目論見もあった。これはPu本人も「実は」と認めている。
だがかなり邪なこの陰謀は見事に的を外してしまった、と言うわけである。その後『プルトニウム研究所』は、『TINAMI』や『サーファーズパラダイス』などの検索サイトに登録され(『YAHOO!』は4度申請して未だに登録されてない。邪悪な客引きへの天罰、と言うところか?)、客の多いサイトに相互リンクを張ってもらうなどして、そこそこ客は来るようになった。「ありがたい事です」とはPuの弁である。
そのようなわけで、Puが『マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事』を書いた事を忘れはしないまでも記憶の片隅に追いやってしまった頃、『プルトニウム研究所』の掲示板に書き込みがあった。「こんなものが」と言うメッセージとURLのみが記された書き込みをPuが見つけ、「なんだろう?」とそのURLにアクセスしてみると、『YAHOO!』掲示板にリンクが張られていた。URLは掲示板の1つ『「ゴー宣」著作権問題の判決について 』の中の書き込みの一つに直接つながっていた(その後『YAHOO!』掲示板の改修が行われたため、現在、掲示板のURLから直接飛ぶ事は出来ない)。その書き込みは、「小林 よしのりファンは小林の言う事をただ鵜呑みにするだけの『信者』に過ぎない」と決め付ける内容で、「信者」の例として、『マンガ者として〜』がリンクを貼られ、タイトルをあげられていたのだ。その書き込みは、文中に「私は引用とは『敬意』と『感謝』を以って行うべきものだと思っている」とあるのを捉えて、「それならお前は上杉のところに頭下げに行ったんかい」とPuに詰問している。
この「敬意」と「感謝」と言うくだりに関して、Puは言う。
「大学で卒論を書いたとき、担当のゼミの教授が『資料の引用に特に許可は要らないし、お金を払ったりする必要は無いけれど、引用元の資料と作者に対する「敬意」と、引用させていただいてありがとうございますと言う「感謝」の気持ちは持っていたほうがいいよ』と言ってて、印象に残ってたんだけど、『引用』に関するエッセイだと言う事で加えておいたんだけどね。もっともその先生、『卒論は自分の意見は1/5あればいいほうで残りは引用で埋めるものです』なんてことを言ってたけどね……」
それまで、メールを出したり、掲示板に書き込んだりしてそれに対する「返答」はあったものの、コンテンツに対する「反応」はこれがはじめてであり、しかもそれが反論であったため、Puは相当ショックを受けたようだ。再反論も考えたが、『YAHOO!』掲示板のその書き込みには返信も無く、特に話題として発展してもいなかったので、Puは書き込みに対して無視を決め込むことにした。Puは「読むと不快になるんだけど気になって」『YAHOO!』掲示板を時折チェックしていたが、話題が広がっている事はとりあえず無かった。
しばらくして、客足の伸び悩みにPuはホームページの改装を考える。『プルトニウム研究所』はそれまで、CGイラストと文章の2枚看板、と言うほどご大層なものでもないのだが、2つのメインコンテンツがあった。それをイラストのみにし、文章は姉妹サイトととして独立させる事にした。学生時代Puが企画したものの、準備号だけ作って企画はお流れとなっていた文芸同人誌『DIVE』をホームページとして立ち上げることにしたのである。
余談になるが、『DIVE』の立ち上げと前後して、私藤原が運営する『ゴーマニズム研究会』も『プルトニウム研究所』の姉妹サイトとして立ち上げさせてもらっている。
さて、文章コンテンツを別サイトとして立ち上げるのだから、ホームページの構成も変更を余儀なくされた。件の『マンガ者〜』もURLが変わった。だがそうすると、『YAHOO!』掲示板の書き込みから『マンガ者〜』にリンクが張られているが、そのリンクが切れてしまうことになる。
「削除したわけじゃないけど、逃げたと思われるのも癪だしな」
そう考えたPuは、『YAHOO!』掲示板にURL変更のお知らせを掲載する事にした。以下はその際の書き込みである。
URL変更しました
>●マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事
>http://www.fuki.sakura.ne.jp/~pu-lab/writing/essey/go-sen.htm
最近ホームページの改装したのでこのページのURLが変わりました。新しいURLは
http://www.fuki.sakura.ne.jp/~pu-lab/dive/essey/go-sen.htm
になったのでよろしく。
ところで「プルトニウム」のつづりが間違ってる(Puは『pultonium』と言うHNで書き込んでいた。「プルトニウム」の正しいつづりは「Plutonium」:筆者注)のは秘密だ!
「冗談のつもりだったんだけどね」とPuは言うが、否定派にしてみれば『兆発』だったのかもしれない。反論らしい反論もせず、URLの変更を知らせるだけで、最後にしょうも無い冗談で逃げているのだから。早速、Puの書き込みに対し、件の書き込みをした投稿者から、再度書きこみが為された。さらには、別の投稿者からも書き込みがあったのである。どちらも論調は似たようなもので、Puの著作権と引用に対する認識の誤りを糺すものであった。
この反応に対し、Puは非常にげんなりしたと言う。
「書くんじゃなかったと今にすれば思うよ。つまり、反応を返してきた、ってことで、向こうもこっちがその書き込みを読んでることに気づいてしまったんだね。それで、『お前は間違ってる!』って具合さ」
そして腹が立ったという。
「何と言うか、『お前らにそんなに偉そうにされる筋合いは無いぞ』と。人がせっかく親切心でURLが変わった事を知らせたのに、それに対して礼の一つも無く、『お前は間違ってる!』と来たからね。第一、オレと向こうは一面識も無い。見ず知らずの相手に、見下されるようないい方をされる筋合いは無いね。例えこっちが間違ってるにしろ」
『親切心』や『礼の一つ』はともかく、『YAHOO!』掲示板の小林否定派の論調は、確かに「偉そう」である。その文面からは「小林と小林ファンは馬鹿にしても構わない」と言う態度が滲み出しているのだ。何様のつもりなのだろうか。小林が嫌いだ、小林の言う事は納得できない、それはそれで構わない。だからと言って、馬鹿にする権利があると言うのだろうか。それは馬鹿にもしたくなるだろう。だがそれを表に出してしまっては駄目だ。
「確かに、向こうが言う事は論理には納得できるんだよ。引用とか、著作権の事とか。だけど、素直に首を縦には振れない。見ず知らずの相手に居丈高に怒鳴られて、素直にうんと言うと思うんだろうか。腹も立てずにひれ伏すとでも思っているんだろうか、向こうは」
ちなみに、「引用」に関し、Puは『マンガ者〜』を書き始めた頃から、「マンガのコマの引用はあってもいい」と考えていた。だが前述したように、「適切な範囲で」と言う保留付きで、である。「『挿絵』でしかない引用は認められない」と言う立場だ。
考えてみれば、『マンガ者〜』は結論に有る通り、「『脱ゴー宣』を『マンガ評論のあるべき形』と認めることは出来ない」と言う主旨なのである。反論するなら、『脱ゴー宣』は「マンガ評論の新しい地平」であることを証明しなくてはならないはずだ。「引用と著作権の認識が誤っている」とか、「頭を下げに行ったのか」とか言うのは、まるっきり見当違いではないにしろ、いささかピントの外れた批判であろう。
それに私は、友人の身びいきもあろうが、Puの「引用と著作権の認識」はそう誤っているとも思えない。これはPuの文章の特徴でもあるのだが、ヒントとなる言葉だけ出しておいて、簡便な文章に仕立て上げる。だが行間や字間に、隠されたキーワードが眠っている。字面だけ追うか、字間を読み取るか、それは読者次第だ。よく言えば読者を信頼しているし、悪く言えば不親切だ。それだけに、誤読も多い。私も本人に指摘されるまで、正反対の思い違いをしていた事もある。『敬意』と『感謝』の表面だけを見れば、「引用には許諾が要る」と主張していると思えるのだろう。「頭を下げながら」と書けば、文字通り平伏しながら書けと言っているのだと思うのだろう。誤読ならまだいい。だがもしも、意味は読み取れているのに、わざと読み違えているのならば、これはもはやこう言わざるを得ない。「卑怯だ」と。
ともあれ、Puは再反論を書く事にした。以下の書き込みがそれである。
『馬鹿弟子』なもので
爾(『「』の文字化け。:筆者注)小林よしのりが負けた」と言う判決が相当ショックだったので、文章も感情に流されてしまったようでした。HPに掲載するときも、載せるか載せまいか、ずいぶん迷ったのですが……
『感謝』と『敬意』と言うのは、私が大学の教授に言われた事で、「文章の引用に特に許可は要らないけど、そういう気持ちでやったほうがいい」といわれて、なるほど、と思ったので書きました。文字通り「頭を下げにいけ」と書いたつもりは無いです。それに私は、引用は賛同するのでなければ行ってはいけないと書いたつもりも無いんですが……別に肯定だろうが否定だろうがやっていいと思います。私の文章力の不足でそうとしか読めなかったかもしれませんが。
私はマンガの無許可引用もあっていいと思いますが、それでも『限度』はあると思うんですよ。文章の引用は確かに許可は要りませんが、それだってあまりに度を越せば、トラブルの原因となります。同様のことはマンガにだって言えると思うんですが……今回の判例はマンガにおける引用と著作権のトラブルの一例であって、今まで許可が必要だったのに今後すべてどんな場合でも無条件に認められる、と言うのは早計だと思います。
少々げんなりした気分が残っていた時に書いたようで、多少投げやりな文面ではある。この書き込みにも、すぐさま反論があった。内容としては、URL変更の書き込みに対しての批評と変わらない。見下したような、態度のでかさも相変わらずだ。
実は、Puは相手の非常識な態度についても言及しようと当初は考えていたようだ。「何様のつもりなのか」と。だがそれはやめた。小林否定派の論調として、「小林と小林ファンはすぐ『常識』を振り回すが、その実常識など持ち合わせてはいない」と決め付ける。つまり、「『脱ゴー宣』のコマの引用は著作権法上何の問題もないのに、『マンガ界の慣習』とかを持ち出して、反論しようとする。そんなものに何の根拠もありはしないのに」と主張しているのだが、Puは「『常識論』を持ち出してみても、どうせこの調子で言い返される」と思ってやめたのだった。
小林ファンの『非常識』を嘲る否定派は、『礼儀知らず』であると言う『非常識』さを遺憾なく発揮しているわけだが。
否定派の居丈高な態度に、Puはこう語る。
「なんだか、宗教の強引な勧誘にあったような気分だったよ。自己啓発セミナーと言うか。自分を否定されて、怒鳴られて、『ひょっとしたら自分は本当に間違ってるんじゃないか』って思ったりもしたしね。実際にそういう目にあった事はないけど、多分、こんな気分を味わうんじゃないかな、って思ったね」
実際、『マンガ者〜』を削除しようか、と思ったこともあるという。だがもし削除してしまうと、負けた事になる、それも論理ではなく、罵声に。そんな馬鹿な負け方があるか。こう考えて思いとどまったようだ。
結局、Puは再度の反論はしていない。もうする気も無いという。『YAHOO!』掲示板ももう見たくないということだ。言ってしまえば逃げているのだ。だがそれは『論破』されたからではなく、否定派の、ああ言えばこう言う揚げ足取り、何様のつもりか知らないが見下した態度、もううんざりしているのだ。付き合うだけ馬鹿らしいと判断したのである。一応、友人の弁護をしておく。 掲示板には書きこみはしていないが、『マンガ者〜』に、否定派に対する心情を述べた文章を追加している。以下にあげておこう。
この文章は第1審判決後、『小林よしのり敗訴』の結果にショックを受け、動揺しつつ書いたエッセイである。当時はまだ同様も深刻なものであったため、最初書いた文章は感情がほとばしりまくり、「読者に不快感を与える」と考えて一時は掲載を見送った。
だがどうしても世に出さずにはいられなかったので、できるだけ感情を削ぎ落とし、掲載した。しかし何の反応も無く、いささか拍子抜けしていた。
しばらく経って、私のHPの掲示板にURLの書き込みがあり、何かと思って見てみると、『脱ゴー宣』裁判に関する議論の掲示版で、私の文章を批判する内容の書き込みにつながっていた。批判は一向に構わないし、現在、反応らしい反応があったコンテンツはこのエッセイだけであるから、たとえ批判であっても反応があることはありがたい。
だが、考えてみれば、私の書いたものに異論や反論があるのなら、HPにメールアドレスを掲載しているし、掲示板も設置してあるのだから、批判を送るなり書き込むなりすればいいのだ。私は『脱ゴー宣』裁判に関する掲示板があることも知らなかったし、そこに私の文章を批判する書き込みがあることも知らなかった。こちらの掲示板に書き込みがなければ、今も知らなかったかもしれない。
思うに私は『晒し者』にされたのではなかろうか。その書き込みは私を『馬鹿弟子』と呼んでくれていた。小林よしのりの弟子になれるものならなりたいし、『弟子』と呼ばれてこれほど光栄な事は無い。ただ、『馬鹿弟子』はどう考えても誉め言葉ではないだろう。サイトの改装をしてこのエッセイのURLが変わったときに、その掲示板に書き込みをしたら、つまり私本人がその書き込みを読んでいると分かったら反応が返ってきたので本人にそのつもりは無かったのかもしれないが、批判する対象の預かり知らぬところで、批判をすると言うのはあまり誉められた態度ではないだろう。そのような行為は俗に『陰口』と言うと思うのだが。
冒頭、私はこの文章のタイトルを『巻き込まれ顛末記』にするのは不正確か、と書いた。だがこうして経緯を追ってみると、Puはまさに「巻き込まれた」のである。
Puはこのような論争があることなど知らなかった。正確に言えば、論争が行われている掲示板の存在など、知らなかったのである。『プルトニウム研究所』の掲示板に書き込みがなかったら、今も知らなかったかもしれない。
『マンガ者〜』追加分にもある通り、Puは自分の預かり知らぬところで、批判をされたのも気に入らないようだ。だがこれにはいささか疑問を持たざるを得ない。誰にだって批判する権利はあるからだ。「預かり知らぬところ」と言っても、Puの目に触れる可能性が全くの0、と言うわけではない。現にこうして目にしている。第一、Puだって否定派を批判しているが、その文章が向こうの目には入ってないかもしれない。もっとも、ホームページは『goo』などで検索できるが、掲示板は検索エンジンには引っかからない。ホームページのほうが、目に付きやすい、と考えればPuの腹立ちにも一理はある。
考えてみれば、お互い素人なのである。言論で飯を食っているわけではない。言論で飯を食う論客同士ならともかく、素人同士で論争をするのに、のっけから喧嘩腰では、成り立つ論争も成り立たない。
件の『YAHOO!』掲示板は、小林ファンが入ってはいけなかったのかもしれない。元々、この掲示板は小林ファンが立ち上げたものだった。つまり、『敗訴』に『残念会』を開こうとしたのだが、来てしまったのは小林ファンではなく反小林であった。『残念会』は乗っ取られ、『祝賀会』になってしまったのである。いわば、『小林敗訴祭り』である。『祭り』である事は、同じカテゴリーにある掲示板が投稿数が精々二桁なのに、この掲示板は3000以上の書き込みがあることでも分かる。
こうなってしまっては小林ファンは『部外者』でしかなく、うっかり足を踏み入れてしまうと、たちまちさらし者にされてしまう。Puはさらし者の一人にされてしまった、と言うわけである。そしてさらし者が抵抗を試みようものなら、祭りの参加者はよりヒステリックに騒ぎ出すのである。祭りは終息に向かいつつあるようだが、まだ終ってはいない。
祭りを終らせたくないものもいるようで、この掲示板で知り合った否定派が集まり、ホームページを作っている。『ゴー宣』における小林の引用に関する誤解を訂正するためのホームページだそうだ。精々がんばって頂きたい。
最後に、私はこの論争における小林否定派に聞きたい。マンガのコマの無許可引用が認められる事で何かメリットはあるのかと。「マンガ文化の発展に役立つ」と言うのだろうが、具体的にどのように役立つのか。許諾が必要であるのと、必要がないのとで、何が違ってくるのだろうか。引用と賞した『挿絵』を大量に載せた便乗本が続出すると言うデメリットは考えなくていいのだろうか。その事態もまた、やはりマンガ文化の発展に役立つのだろうか。
Puがいくつか、『ゴー宣』のコマを無許可で引用し、批判を加えている便乗ホームページを見つけている。「『脱ゴー宣』に比べれば、まあ許容範囲だけどね」とPuは言うが。
さらに聞きたい。「小林が負けた」事が嬉しいだけなのではないか。本当は引用とか著作権とかマンガ文化とかはどうでもよくて、小林を否定する材料に使っているだけではないか。
本当にマンガ文化にもメリットがあるのならば、それを示していただきたいのだ。ただ「法律上問題は無い」とか「引用の認識が誤っている」とか言われるだけでは、こちらも納得は出来ない。法律で問題がないのは、判決が出て分かっている。もしも本当に、マンガ文化にとってプラスになるのであればそれはこちらとしても望ましい事だ。ぜひそれを示していただきたい。
私は小林信者の中でも原理主義過激派であると自負している。だが私でも、具体的なメリットを示していただければ納得できるかもしれない。Puもそうだと言っている。それを示す事が出来れば、あるいは、小林本人をも納得させられるかもしれない。
『マンガ文化への貢献』と言う言葉だけでは説得力はない。ビジョンを示していただきたいのだ。
その力量があれば、だが。
『著作権運動家』、と名付けて構わないだろう。YAHOO!掲示板『「ゴー宣」著作権問題の判決について』(この文章を書いている途中掲示板をチェックしてみると、このトピックは改修のためか削除されていて、今はもうない)に小林 よしのり、及び小林ファン批判を掲載、あるいはそうした主張の自身のホームページを紹介し、もしくは知り合い連名でホームページを立ち上げた、いわゆる「脱 ゴー宣裁判判決支持派」の中でもいわば『行動派』の事である。
彼らは今回の裁判における小林の主張を否定し、また小林の著作権に対する認識には誤りが多く、さらに、『ゴーマニズム宣言』 の影響力は無視できないとし、多くのファンが小林の誤った著作権認識を刷り込まれている、と主張し、『ゴー宣』作中における、著 作権、及び引用、裁判制度などについて誤解を招く表現を指摘し、その記述の訂正を求めるグループも発足している。
彼らは言う。
「今回の裁判で、小林は著作権に関する様々な誤解、曲解を世間に広めた。これを見過ごしておく事は出来ない」
一理ある。確かに今回の裁判に関しては、私でも首をひねらざるを得ない記述が多い。 ただ、私がそれ以上に首をひねりたくなるのは、「著作権」が『ゴー宣』叩きの道具に使われているだけなのではないか、と言う疑問 だ。今回の裁判は小林の大チョンボだったのかもしれない。反小林がここぞとばかりに叩くのも無理はない。しかし「『ゴー宣』を潰せば著作権の正しい認識が広がる」と言うのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」より論理が飛躍している。
信者、いや原理主義過激派の私が言うのもなんだが、『ゴー宣』はたかがマンガである。『一般書』として扱われるため、如何にも 売れているかのように見える。いや実際売れているのだが、『マンガ』としてなら、もっと売れているマンガはいくらでもある。エッセイ マンガでここまで売れた例も無いかもしれないが。
『ゴー宣』批判も確かに、手の一つではある。だが、それだけでは視野が狭すぎる。『ゴー宣』読者ならずとも、○にCの例のマーク が具体的に何を意味するのか世間一般では知られていないし、第一使う機会がない。
本当に、著作権を世間に啓蒙したいのであれば、『掲示板』や『ホームページ』でせせこましくやっていてもだめだと思う。ムーブメン ト、現実世界を揺さぶるぐらいのうねりにしていかなければだめだ。事実、この論争も『ゴー宣』の周辺で小さく完結してしまっていて、 最早収束に向かいつつある。『東芝』や『校長辞任』の例があるので、ホームページで問題提起すれば大きく広がっていく、と思うの かもしれない。だがこれらは『東芝』と言う誰もが知っている大企業の問題であり、また今世間で喧しい『いじめ』の問題であったから 波紋を呼んだのである。『ゴー宣』だけで世間を動かし得るか、と言えば甚だ怪しい。それに『東芝』や『校長辞任』にしてもネットの中 で波紋が広がっただけで、堤防を越えて現実世界に飛び込んできたのは僅かな波しぶきのみであり、東芝はその地位を小揺るぎもさせていないし、『いじめ』も相変わらず続いている。ネットの力は、これからどうなるかは分からないが、今はまだそんな物でしかな いのだ。
「そこまでやるつもりは無い、『ゴー宣』における著作権認識の誤りを糺せればそれでいいのだ」と『著作権運動家』は言うかもしれ ないが、そうなのならばこちらは「何だそれじゃあやっぱり単なる『ゴー宣』叩きか」と肩をすくめるしかない。
Puイーターは言う、
「オレが安心したのは、否定派のやり方のせこさだよ。なんだマンガ文化の発展とか、著作権とか、マンガ評論の新しい地平とか御 大層な事言ってたんで、もうてっきり、『ゴー宣』なんか過去の遺物と化して、『戦争論』が空虚になるような、そんなのを出してくるかと 兢々としてたんだよ実は。ところが結局出てきているのは、今までもあった『ゴー宣』叩きに、絵を付けただけ。『引用が認められ た』ってんで、もう嬉々としてね。だけど『脱ゴー宣』以前に、絵の引用をこんなに大っぴらにしてたかね。『著作権法上何の問題も無い』んだったら、こうなる前からやれって言うんだ」
私も以前書いたが、私の目から見れば彼らの「著作権の啓蒙」は要するに『小林 よしのり敗訴祭り』で騒いでいるに過ぎない。Pu も言うように、そう思われても仕方ない志の低さなのである。
『著作権運動家』に告ぐ!
『ゴー宣』叩きに堕すな。世の中を動かしてみろ。ムーブメントを起こしてみろ! 「著作権」は『ゴー宣』を叩く「手段」にとどめるので はなく、「目的」でなければならない。「著作権の啓蒙」という「目的」のために「手段」を選ばず「『ゴー宣』を叩く」のであればよい。「目的」が「手段」にすりかわってしまえば、それは『永久運動』への第1歩に他ならないのだ。
上杉 聰著『脱ゴーマニズム宣言』は「小林よしのりへの鎮魂歌」であるという。つまり、内容的に既に終ってしまっている『ゴーマニ ズム宣言』を墓場に送るための本、というわけだ。
Puイーターが『マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事』を書くため、『脱ゴー宣』を購入した。彼は「読ん でもいないものを批判するわけにはいかない」というポリシーの持ち主であり、であるからには1度目を通しておかなければならない。 だが『脱ゴー宣』は近所の書店や図書館にはなく、電車で1時間かかる紀伊国屋にしか置いていなかった。さて、帰りの車中、読み 始めたPuであったが、出だしから読むのがいやになったという。
私が漫画家・小林よしのり氏の精神が死んでいることに気付いたのは、この書を執筆し始めて少したってのことだった。「慰安婦」 問題を彼が取り上げ始めた頃、テレビ番組で元「慰安婦」の話す言葉と字幕が違うと言うささいな点をつかまえて、被害者への証言 を煽り始めていたが、外国語を知っている者にとっては、字幕が画面上の発言と必ずしも一致しないことはよく体験することで、律儀 な彼にとっては気になるのだろう、くらいに考えていた。(「はじめに―小林よしのりへのレクイエム」より)
延々このような調子で、批評と呼ぶにも値しないような文章が続くのである。筆者の怨念が誌面から滲み出してくるような不快感に 追い討ちをかけるように、本人はユーモアと考えて書いているだろう文体は完全に浮ついてしまっており、さらに読む気を失わせる。 それでもどうにか頑張って、読み進めてはいったのだが、『マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事』でも 書いている通り、半分まで読んだ時点で、「もう駄目だ」とページを繰るのをやめてしまったのである。「もう開く気がしない」とも書いて いる通り、本当に、その後1度も開いていない。その後私がこの本を借りて読んだときには、2ページ目をめくったところで「あ、もうい い」という気分になってしまい、本を閉じてしまった。なるほど、Puが「金返せ」と頭に来たのも無理はない、と思った。 筆者の人間性の俗劣さが見事に開示されてしまっている。本人は「王様は裸だ!」と暴いたつもりなのかもしれないるが、こちらか ら見れば王様である小林はちゃんと服を着ており、「裸だ」と言っている方こそ全裸なのだ。こんな失笑に値する図式があるだろう か。
ところで、PUは『マンガ者として、『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判に関して思う事』の文中で『脱ゴー宣』におけるマンガのコマの 引用を『盗用』だとしている。件の『YAHOO!』掲示板トピックでの論争の中でも、『否定派』論客はこの部分を捕まえ、「『脱ゴー宣』 の引用は引用の基準に則って行われている。これが盗用ならお前がやっている引用も盗用だ!」と批判している。
だが、最近私とPuがこの問題について言及しているうちに、気付いた点があった。『脱ゴー宣』の後書きに、こんなくだりがある。
これは、専門家に確認した上で行った。漫画の部分的な引用は、それを評する文章との間に必然的な連関があるかぎり、著作権 に抵触しないとのことだ。漫画に関する批評を正確に行うための「引用権」と呼んでもいいかも知れない。小林氏も、本文の94ペー ジにあるように、私の顔を勝手に描いておいて、自分の漫画だけは一切自由に引用するな、などとわがままなことは言わないだろ う。(「あとがき」より)
最初このくだりを読んで、「引用権」のくだりに関しては私もPuも異論はない、その通りだと思った。だが「私の顔を勝手に描いてお いて〜」の部分は、意味がよく分からなかった。Puと何度も、このくだりについて話し合い、一応、こうだろうと言う結論が出たので記 すことにしよう。
上杉は醜く描かれた事に相当腹が立っているようだ。確かに『ゴー宣』に描かれている上杉の似顔絵はいやらしそうなブ男である。 ただ、『脱ゴー宣』巻末の著者紹介に掲載されている写真を見ても、お世辞にも美男子だとは言えない。とにかく、かなり頭には来た らしい。「だから」、「自分の漫画だけは一切自由に引用するな、などとわがままなことは言わないだろう。」と言うのだが、なぜそのよ うな理屈が成り立つのかが、よく分からなかった。
だが要するにこう言う事だろう。上杉は元々、「慰安婦に国家賠償の必要は無い」などととんでもない事を言う小林を憎悪していた。 あまつさえ、『朝まで生テレビ』に出演したときの自分を不細工に描かれた。非常に不愉快である。ならばこちらも小林を不愉快にし てやれ。小林とその一味を徹底的にけなしてやる。さらに小林の絵も、「勝手に」使ってやれ……
つまり、上杉自身が、悪意を持って引用していると暗に認めてしまっている! 何の事は無い、本人が『盗用』であると自覚している のだ。
それにもう一つ引っ掛かるのが、「専門家」である。どんな人物なのか。唐沢 俊一とか、夏目 房乃介とか、小林が「マンガ評論は 世界一」と絶賛する呉 智英とか。もし名の通ったマンガ評論家であれば、「ああこの人が言っているのならば問題無いんだろう」と 納得できる。だが、まさか「大学の教え子のマンガオタク」と言う落ちは無いだろうか。もしそうなら、『専門家』と呼んでしまっていいの だろうか。
しかし上杉は相当面の皮が厚いのか、裁判に訴えられても「正当な引用である」と押し通し、しかも裁判に勝ってしまうと、自分の正 当性を得々と主張し、それまで一言も言っていなかった「マンガ文化」とか「マンガ評論」とか言い出し、さらに「マンガ評論のあるべき 形」などと言ってのけた。だが私は、判決が出る前、少なくとも裁判が始まる以前に、上杉がこの本を「マンガ評論」だとした事実を寡 聞にして知らない。さらにはご丁寧に、慰安婦問題と絡め、『引用』でも『慰安婦』でも自分が正しい、だから勝った、と言ってのけるい やらしさを発揮してみせた。
さらに小林が上告し、第2審が始まると裁判に平行して、今度は逆に小林を訴える構えを見せた。その主旨は、「『ゴーマニズム宣 言』作中において、小林は私を『ドロボー』と中傷した。今回の引用は正当なものであり、『ドロボー』は明らかな名誉毀損である。謝 罪しろ」。いまのところ、『SAPIO』誌にこの旨の抗議文を送付しただけで、法廷に訴えを提出してはいない。だが『SAPIO』、小林か ら謝罪が無い場合、訴えるのも辞さない構えだと言う。
この経緯を、上杉の公式HPとも言うべき『脱ゴー宣裁判を楽しむ会』で知ったとき、私は「たかが裁判に勝っただけでここまで厚か ましくなれるのか」と呆れた。自分こそ小林らを中傷し、デマまででっち上げてけなしていると言うのに。『ドロボー』と言われても仕方 ないだろう、『ドロボー』していると自分で言ってしまっているのだから。『ドロボー』しているのを自覚しているからこそ、事実を言われ て慌てているのではないか。
そして第2審が、『小林の逆転勝訴』に終わってしまうと、当然のことながら上杉は控訴する。だが逆転勝訴により出版差し止めと は言っても、認められなかった『コマ割の改竄』を差し替えれば、出版はできるようだ。現に『楽しむ会』でも「差し替えて発行は続け る」としている。これまた当然ながら、『楽しむ会』はTOPページに「またまた勝っちゃいました」と堂々と宣言しているのだが。ではな ぜ「勝った」のなら控訴する必要があるのか。その理由は、「『コマ割の改竄』もマンガのコマの引用の正当な手段であり、認められる べきである。そのために完全な勝利を勝ち取るために闘いを続ける」
……『完全な勝利』とは何か。私には上杉が本気で「マンガブンカ」とか「チョサクケン」とかの為に闘っているとは思えない。これは 小林も『ゴー宣』で触れているが、上杉は最早小林と裁判をする事にしか存在意義が無くなってしまっているのではないだろうか。自 分の人生で一番輝いた瞬間が『小林 よしのりに勝った』時だったのではないか。今までの人生にはないカタルシスだっただろう。新 聞に取り上げられ、TVニュースにもなった。朝日新聞は写真入りで取り上げてくれた。小林は上告したが、またも勝った。だが今度 はどこも大して取り上げてくれない。やはり「完全勝利」で無ければだめなのか。しかし小林は今度は上告しなかった。ならば、こっち が控訴して、今度こそ勝たなければならない。だがもし、受理されずに棄却されてしまったらどうする?
こうして考えてみると、上杉が小林と『SAPIO』を「名誉毀損」で訴える構えを見せているのは、第3審で棄却されてしまった場合の 布石、と考える事もできる。いや、受理されるされないに関わらず、今回の裁判はもう終りが見えてきている。最高裁まで来てしまっ ているのだから。小林と裁判を続けていかなければ、上杉の存在意義は失われてしまう。だから「醜く描かれた」などというしょうも無 い抗議をして謝罪を求めているのだろう。こんな性根だから「醜く描かれ」ても無理はないことに上杉が気付く日は来るのだろうか?
『狼と少年』を持ち出すまでも無く、信用の無い人間は、たとえ真実を言っているとしても聞いてはもらえない。しかも言っていること は感情的な中傷とデマ、状況が自分に有利になると途端にはしゃぎだす。
上杉は『脱ゴー宣』の著者紹介によれば関西大学講師である。だが、「醜く描かれたら相手の絵を勝手に使って構わない」などと主 張するような人間が、人に物を教えてもいいのだろうか。『楽しむ会』に上杉が寄稿した文章「マンガに洗脳されてしまう若者たち」 に、「大学での私の講義の最中に、例の『SAPIO』を広げて読んでいた学生----実にけしからん。注意しときゃよかった!ーーが、 授業を終えて出席票を私に提出する際、しげしげと顔を正面から眺めて行った・・。これなど、実に不愉快だ。マンガによって肖像権 の侵害が行なわれた大被害のひとつだ。確実に告訴に値する。
」と書いているが、『しげしげと』眺められても仕方のない振る舞いを している事に思い至らないのだろうか。
このような人物には何を言ったところで無駄なのだが、これだけは言っておこう。
「おっさん、いいトシして何考えてんだ」
「小林 よしのりへの鎮魂歌」は実は、上杉自身への葬送曲だったのである。
去る4月26日、4年越しで争われた所謂「『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判」が結審した。まあ結果としては、「原告の一部勝訴」と言うことになる。この事件は、よしりんこと小林よしのりが描いた『ゴーマニズム宣言』を批判した上杉 聰氏の著書『脱ゴーマニズム宣言』に、『ゴー宣』のコマの1部が転載されており、これをよしりんが「著作権の侵害に当たる無断転載」として出版差し止めと賠償を求めて上杉氏と出版社東方出版を訴えたのである。ところが第1審では転載は「引用」として適法であると地裁は判断、原告であるよしりんの訴えは全て退けられ、敗訴となった。これを不服としてよしりんは控訴したわけだが、第2審で訴えの1部が認められ、出版差し止めと賠償の一部額を被告が払う事になった。すると今度は被告上杉氏側が上告、しかし最高裁はこの上告を棄却して、判決が確定した。民法では、裁判の費用は敗訴した側が支払わなければならないのだが、判決に拠れば原告よしりんは費用のうち250分の249を負担しなければならないし、また賠償は認められたけど、2620万円請求してたのに20万円しか払って貰えない。とは言え出版差止請求は認められたのだから「原告の一部勝訴」とするのが適当かと思われる。
この結果に、原告のよしりんから今のところ公式なコメントは無い。5月8日発売の「SAPIO」には載ってなかったが、原稿に間に合わなかったのか口を噤んでいるのか。よしりんは第2審の後出版差し止めで十分だ!
と言っているので、今更言う事は無いのかもしれない。だけど今にしてみるとこのコメント、オウムに裁判で勝った時に描いたオウム信者の台詞に似てないか?(『ゴーマニズム宣言』幻冬舎文庫版第9巻第156章「オウムとの裁判・第3回報告」p106を見よ)
対照的に被告上杉氏は、支援サイト「「脱ゴー宣」裁判を楽しむ会」で高らかに勝利を宣言している。まあよしりんに手痛い一撃を喰らわす事が出来たのだから、気持ちは分からないでもない。
だけど……
この裁判に、「従軍慰安婦」も「教科書」も関係無い事は当然である。「著作権」の裁判なのだから。だが「従軍慰安婦」や「教科書」に就いての上杉氏の言動はどうにも首を傾げたくなるものばかりだった。「従軍慰安婦はかわいそう」「つくる会教科書は危険」と言う結論が先ず在って、そこに無理矢理理由を持ってくるのだ。「強制性」だとか「受験に役に立たない」だとか。こういう言説は「言い掛かり」「牽強付会」若しくは「トンデモ」と呼ばれる。
先述の勝利宣言にも、なんでそんな事まで言う必要があるのか分からない個所がある。次で一寸検証してみたい。
上杉氏の勝利宣言のタイトルは「歴史的な確定勝利判決となりました」。これまた大きく出たものであるが、判決としてはよしりんの一部勝訴とは言え、先述したように上杉氏が実質的に勝った、と言える結果でもある。
以前いしかわ じゅん氏の『鉄槌!』(角川書店2000年9月刊ISBN:4-04-873214-5)を読んだのだけど、まあ内容は前にも書いたから詳述は避けるとして、訴えられたいしかわ氏は相手側の「口頭での謝罪」を以って和解するのだが、相手から実際に詫びを入れられたわけでもなく、全然勝った気がしないのだが、弁護士に言わせると「大勝利」なのだという。しかしいしかわ氏に残ったのは、勝利の感激ではなく、只々不可解な裁判の、後味の悪さだった。この裁判でも原告よしりんの出版差し止めと賠償請求は認められたものの、賠償は一部額であり、「出版差し止め」と言っても、認められなかったレイアウトの改変さえ修正すれば、また出版できる。そして裁判の費用は殆ど払わなければならない。
まあ「裁判」と言うのは「勝ち負け」が必ずしも問題なのではなく、双方が納得できる裁定を下すのが目的なのかもしれない。だからこそ「和解」があるわけで。
今回の評決は原告は「負けたけど完敗ではない」被告は「勝ったけど完勝ではない」わけで、どっちも「自分が勝った」と言い張っている。よしりんの方は出版差し止めで充分だ!
と「負け惜しみ」に近いけど、そこ行くと上杉氏はもう高らかに勝利を謳っている。だけど上杉氏、余りに嬉しいのか、それとも勝った事を確認しておきたいのか、筆が滑ってしまっている個所が見受けられる。
ただ、今回確定した高裁判決によると、一コマの配列を変えた私の本は「出版、発行、販売、頒布してはならない」とあります。もし東方出版に多数在庫があれば損害は大きくなったところですが、もう保存用以外ほとんど無いとのこと。高裁判決から二年近くでみんな売ってしまったことになります。現在、稀に書店に出回っているものがあるとすれば、それらはすでに東方出版の所有を離れたものと思われます。実害はゼロです。
上杉氏はよしりんの訴訟を「批判封じ」、つまり反論できないので、本そのものを弾圧させる手段に出た、と考えているようだが、「反論」自体は『ゴー宣』できっちりしているのだし、その是非は兎も角「絵を無断で使われて腹が立った、それが論敵だつたものだから余計怒りが募つた」と考えた方が自然ではないか? この訴訟が上杉氏や東方出版に対して経済的打撃を与える為のよしりんの謀略だと言うのは最早「被害妄想」である。「在庫がほとんど無い」と言っても上告が棄却された時の事を考えて増刷しなかっただけの話ではないのか。「YAHOO!掲示板」の「楽しむ会」関係者の書き込みに拠ると、どうやら違法とされたレイアウトの変更を修正した改訂版を出すようだけど。
先に挙げたのは、何か言ってる事おかしくないか? と言う程度ではあったが、「勝利宣言」の中には明らかな「ダウト」もある。
また高裁は、私と東方出版に両者で20万円のお金(利子を年5分で加算、今回の決定は高裁判決からちょうど2年目なのでその倍)と、裁判費用(印紙代559,000円)の250分の1を支払うことも命じていました。これらを合計すると、利子は20,000円、裁判費用の私たちの負担分は2,236円となりますので、合計222,236円の出費です。しかし、この程度であれば印税や売り上げ利益の中から、そのごく一部からの出費で支払うことが可能です。したがって、この場合もほとんど実害ありません。むしろ小林君の側が出した訴訟費用は、私たちの支払いで埋めてもなお336,764円が不足する状態です(この点から見ても、やっぱり小林君は負けたのでした)。
上杉氏は、東方出版と一緒に合わせて22万円余り払えばいいと考えているようだが、判決文を読むと各自
支払え
となっているのだから、上杉氏と東方出版は別々に金二〇万円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払
わなくてはならないのだ。更には、今回の決定は高裁判決からちょうど2年目なのでその倍
と上杉氏は書いてるが、平成9年11月1日、これは『脱ゴーマニズム宣言』の発売日なのだが、その日から数えて年5分、つまり今月の初め5月1日に一括で払うとすると、丁度4年半となるので4.5倍になる。「年5分」と言うのが、単純計算なのか複利計算なのかよく分からないけど恐らくは単純計算だろうのでこの場合計24万5千円となる。因みに複利だと24万9104円になる。そこに裁判費用2236円の支払いもある。これを上杉氏と東方出版が半分づつ出し合ったとして1118円。
要するに24万5千円と1118円、合わせて24万6118円を上杉氏と東方出版は各自支払わなければならないのである。上杉氏の考えだと東方出版と折半で払うとすれば11万1118円で済むけど、実は10万円余りも計算を間違っていて上杉氏の考えている金額の倍以上を払わなければならないのだ。 さてよしりんは、訴訟費用のうち250分の249を払わなければならないが、その額は55万6764円。上杉氏と東方出版からの賠償が合わせて49万円となるけど、これを費用の支払いに当てるとすれば、よしりんは自分の懐から6万6764円だけ出せばいいのである。
上杉先生、「この点」から見ると、負けてるじゃないですか。よしりんの3.6倍の金を払わないといけないんですよ。この程度の額なら十分支払いは可能でしょうけど、被告なんだから判決文はちゃんと読んで下さい。支払額を倍以上間違ってどうするんですか。
それにしてもよしりんの請求金額は各自金2620万円だったのである。どう言う計算でこんな額になったのか知らないけど、もし全額支払う事になってたら上杉氏はどうなったことやら。
上杉氏が言うように私たちは、これまでなかったマンガ引用の可否をめぐる裁判で、完全に(筆者注:レイアウトの改変は駄目とされたのに?)勝利したことになります。
と言うように、マンガのコマの引用は認められる、と言う判例が確定したと言う事でマンガ業界にとっては非常に重大な事件であるのは間違いない。よしりんに拠ればそれまでマンガのコマの転載には著作者の許諾が必要と言う「慣行」が有ったのだが、それは全く意味を持たない事になる。だからと言ってよしりんが言うように、コマを転載しまくった便乗商売
が始まるかと言えばそんな事は無い。例えばそれこそよしりんのマンガのコマを引用した批評が出たとして、果たして読者は「よしりんのマンガのコマ」を目当てにその本を買うだろうか? そうじゃなくて、「批評」を読みたいから買う。「よしりんのマンガ」を読みたいんだったらよしりんの描いたマンガを買うだろう。ツギハギのマンガなんか誰が読むものか。マンガを引用した批評が売れたとすればそれは批評が良かったのである。
マンガを批評する際に、コマが必要だと筆者が考えたらコマを引用すればいい。そもそもが「引用」とは著作権上認められる範囲での転載を指す。引用元となるマンガを褒めちぎろうと貶しまくろうと引用に問題は無い。転載が引用として不適切だった場合、今回の裁判では正にコマのレイアウトを改変すると言う問題点が有った為原告よしりんの逆転勝訴となったわけだが、このように問題となる。また引用して著作物や著作者を誹謗中傷したとしても、それは人格権への攻撃であり、著作権には関係無い。
上杉氏は「素人」だった為に、逆に「業界の慣行」からすれば「横紙破り」な引用が出来たのかもしれない。下手に慣行を知っていれば腰が引けて引用しなかったかもしれない。
ソースは忘れたんだけど確か2chの「ゴー宣板」で以前、『旧ゴー宣』の頃のよしりんだったら、もしよしりんが当事者としてではなくこのような事件が起きたら「マンガ家諸君『引用』を恐れるな! 引用は適法であり批評の手段である! 慣行と言うシェルターにこもらず、批評を受けて立て!!」とごーまんかましたかもしれないと言うレスを見掛けた事が有って、「言えてるなあ」と思ったものである。だけどよしりんが当事者だからこそ、このような事件が起こって、ここまで大騒ぎになった、とも言える。とは言え第1審から第2審に懸けての間ぐらいのお祭りではあったけどね。第1審は朝日新聞は1面で取り上げてたのに、結審はどこもベタ記事。何だか尻つぼみである。
ところで『脱ゴー宣』裁判は終わったものの、「楽しむ会」はまだ続くようだ。名誉毀損裁判の行方を楽しむことが至上目的なって(原文ママ)
きたからだそうだ。まあ、本人が楽しいならそれでいいんだが。
複利計算は、貴ちゃん(14才)重ちゃん(12才)@小田原市のホームページ/経済学チェック編/利息・返済額計算に拠りました。