帰ってきたゲームの変人

(MEMOPAD「自分でやれ」改題)

ベイブレードの「ベイ」って何だろうね。

どこで読んだのかは忘れたけど、最近の子供の遊びは、ポケモンにしろベイブレードにしろミニ四駆にしろカードにしろ、自分闘ってねえじゃんってのがあって、そう言えばそうだね、と思った。

私の世代は、丁度「ビックリマン」やファミコン、ミニ四駆が出始めた頃の最初の世代である。言うなれば、子供の遊びに商業主義が絡み出したのだ。ミニ四駆のマンガとかも既に有ったけど、今みたいに「行っけぇー!!」とか叫ぶとオーラがほとばしって加速、なんてことは無かった。走り出したら後はマシン任せである。今のマンガのミニ四駆は音声入力操作なのかもしれないけど、だったら最初からラジコンにして、プロポで操作すりゃいいじゃん。そう言えば最初のミニ四駆って、「ホーネット」とか「ホットショット」とか、ラジコンのミニチュアだったんだよね。してみると、ラジコンは高くて子どもにはおいそれと手が出ない、だから小さくて、まっすぐしか走らないけどずっと安価で子どもの小遣いで手が出せる値段のミニ四駆を出したと言う事か。ミニ四駆で遊んでから本物のラジコンへ、と言うタミヤの戦略も有ったのかもしれないけど、そう言う移行は余り無かったように思われる。逆にラジコンはマニア向けのホビーになり、ミニ四駆はオリジナル商品が売り出され、すっかり子どもに浸透した。んで「何とォー!!」ってこれじゃトミノか。兎も角何か叫ぶとオーラを吹き出して走るようになったわけである。

まあミニ四駆もブームは冷めた感があるが、私の友人Sが大学に通ってた頃、工業大学だったもので丁度ブームの真っ最中だった事もあり構内でミニ四駆が非常に流行ってて、私がSの家に遊びに行くと、まあ昔私も色々とやってたので、アドバイスを乞われたことがある。面白いのが、Sのやってたのが航空力学で、つまり浮く為の勉強だったのだが、ミニ四駆は浮いちゃコースアウトして困るわけである。だからどうにも勝手が違うようで、軽量化は飛行機もミニ四駆も必要だが、ミニ四駆の場合軽過ぎるとダウンフォースが弱まってしまう。だからウィングとかを着けるわけだけど、単純に飛行機の羽根を逆さに着ければいいというわけでも無いらしい。色々と話し合ってて楽しかった。

こー言うような「セッティングの妙」を愉しむとかなら、まだミニ四駆は自分で闘っているかもしれない。でも「させるかーッ!!」とか叫ぶと進路変更して後続をパスさせない、と言うのではね。ミニ四駆って結局レース前のセッティングが勝敗を決めるんであって、レーサーはスタートしたが最後ゴールまで見守ってるしかないんだよね。途中でコースアウトしておしまい、と言う事も有るけれど。

正直に言いましょう。やってました、「ポケットモンスター」。と言ってもピカチュウバージョンだけどね。「ポケモン」や「デジタルモンスター」略して「デジモン」なんかは、自分が闘わないゲームの代表と言えよう。まあこれらはプレイヤーは「トレーナー」としてゲームを遊ぶんだから当たり前か。スタート時に貰ったり、道中捕獲したりして得たモンスターを育てるのが趣旨である。ちょっと前に、「たまごっち」と言う携帯ゲームが有って、育て方に因って様々なキャラが登場してくるんだけど、「ポケモン」や「デジモン」は育てるだけでなく、対戦させる事も出来る。 ところで私が「ポケモンピカチュウ」をやってたのは大学に通ってた頃である。こー言ういい年こいてガキの遊びに熱中するような奴を「大きいお友達」とか称するわけだが、そー言う大きいお友達のゲームで「ダービースタリオン」略して「ダビスタ」がある。これはプレイヤーは調教師になって馬を育て、レースに出場させたりする。最近だと野球やサッカーでも選手ではなく監督としてプレイするタイプのゲームが出ている。

これらは「DQ」「FF」に代表されるRPGの範疇に含まれるだろう。「トレーナー」「調教師」「監督」と言う役をプレイヤーは演じているからだ。ただ、これまでのRPGがプレイヤーはプレイヤーであったのに対し、「ポケモン」などはプレイヤーはトレーナーである。言い換えるなら「ブラックオニキス」や「ウィザードリィ」にしろ、「DQ」「FF」にしろ実際にダンジョンを探検し、フィールドを歩き回り、モンスターと闘うのはプレイヤーである。まあ「ポケモン」でも歩き回るのはトレーナーで、敵モンスターとのバトルを手持ちのポケモンが闘う、と言うシステムなんだが。

とここまで書いて、結局プレイしているのって全部プレイヤーじゃないか。ポケモンが闘うのも、指示は全てトレーナーが与え、ポケモンはそれに従っているだけである。アニメ版「ポケモン」だと成長し過ぎたポケモンが駆出しのトレーナーでしかない主人公の命令を聞かない、と言うシーンが有ったけど、「ポケモンピカチュウ」だとそんな事は無かった。第一「トレーナーのレベル」が存在してない。

言うなれば、実際に「痛い目」を見るのは「ポケモン」では他のゲームと違ってプレイヤーではなく、ポケモンなんである。若しくは馬だったり、選手だったりする。従来のゲームと違うのは、結局その点だけではないか。

或は、その点こそが自分が闘わないゲームの本質を突いているのか?

「BURAI」なんて誰も知らないだろうけど、「遊戯王」は一度は耳にした事が有るだろう。「BURAI」と言うのは「遊戯王」の作者高橋 和希氏が最初に「ジャンプ」に連載したプロレスマンガだが、確か2巻ぐらいで終ってるような気がする。最初遊戯王を見た時、どっかで見た事有る絵だなー、と思ったのだが、「BURAI」の作者だと知った時には納得した。私が言うまでもなく、現在「遊戯王」は高橋氏を長者番付に押し上げるくらい売れている。コミックスだけでなく、劇中で登場するカードゲームも商品化され、子どもがそれで決闘と書いて「デュエル」しているのもよく見掛ける。だけどこのカード、「マジック・ザ・ギャザリング」のパクりじゃん。

「マジック・ザ・ギャザリング」、略して「MTG」は私が大学に通ってた頃日本語版が売り出されブーム化し、先に嵌まっていた先輩K氏に誘われて、私も一時嵌まっていた。その後「アクエリアンエイジ」だの「モンスターコレクション」略して「モンコレ」だのカードゲームブームはまだ続いているようだ。

元々カードゲームは、嘗ての「モンスターメーカー」のように、予めセットになっていて、枚数も決まっていたのだが、「MTG」に代表される「トレーディングカードゲーム」略してトレカは枚数が決まってない。勿論ゲームを始めるのに最低限の枚数は有るけど、極端な話1万枚カードが有ったって構わない。まあ余りカードが有っても却ってやり辛いので、普通は100枚単位だけど。こう言うゲームを行う為に揃えたカードのセットを「デッキ」と言う。大抵は「スタータキット」としてゲームが出来る枚数を揃えたセットと、「ブースターパック」と言ってスタータキットを補強する為の数枚のカードのパックが売り出されている。トレーディングカードゲームと言うのは、「トレーディング」の名の通りレアな、ゲームの中で強いとか、又元々流通している枚数が少ないとか、そう言うカードを普通のカード数枚と交換したり、ゲームに勝ったりして得たりする。またカードの絵柄に有名なイラストレータを起用したりとコレクション性もあるので、プレイヤーやコレクターがカードを欲しがると言う寸法だ。トレーディングカードの大会だと試合と交換会を兼ねている事もあって、元々の値段が1枚数円程度のカードが、レアなものだと数十万円単位で取り引きされていたりする。私も大学時代にそれこそ「MTG」1万枚くらいカードを集めてたんではなかったかなあ。卒業して引っ越す時に全部捨てちゃったけど。今でもやってるらしいK氏に引き取ってもらえば良かった。

「モンスターメーカー」でwebを検索してみたら公式サイトなんてものがあったの で見てみたら、「モンスターメーカー」も今やトレカになっているらしい……時代の趨勢か。

私の高校時代の友人Dは、高校の頃トレーディングではなかった頃の「モンスターメーカー」とかのカードゲームを私や他の友人とたまにやってたんだが、Dに「遊戯王」や「MTG」の話をしたら、手前で稼いだ金で買ってるわけでもないのに「トレーディング」だなんて間違ってる、と憤慨していた。とは言え、メンコやビー玉、一寸時代が下がると「ビックリマン」などのシールとか、トレーディングは元々子どもの遊びの一つだったんではないのかなあ。トレーディングから学ぶ事も色々あると私は思うんだけど。

「ビックリマンシール」は私も集めていた。「MTG」には「レア」カードがあったんだが、「ビックリマン」でもキラシールやホログラムシールなどの「ヘッド」や金銀の「天使」シールのように出る頻度が少ないシールと、「悪魔」「お守り」のよく出るシールがあって、「ヘッド」には「聖梵ムガル」のような100個に1つあるかないか、という超レアなものもあった。因みに私はそれを2枚出した。まあそれだけ買ってたって事なんだが。「MTG」をやり始めた頃も最初に買ったスタータで「道化の帽子」を引き当て、K氏に「君は『引き』が強い」と誉められ、「意識混濁の胞子」や「キノコザウルス」など沢山交換してもらったもんだ。騙された。

私は今は「MTG」もやってないんだけど、前に「遊戯王」を読んでたらよく対戦相手が主人公の出した切り札に「そッそんなカードがあったのかァー!!」と驚いてたり、時には「オッオレのデッキにこんなカードが!!」と主人公が吃驚してたりする。

何でや。

熱心なデュエリストだった先輩K氏は、「MTG」に関する様々な情報を集めていた。デュエル仲間からとかカード屋とか、「MTG」雑誌の日本語版を購入したり、カードの発売情報とかデッキの構築方とか色々収集し、研究に勤しんでいた。これはK氏が特別なのではなく、私はそこまで打ち込んではいなかったので(前にも書いたが、ゲームそのものよりゲームを通じてK氏ら友人と会うのが楽しみだったのである)やらなかったけど、デュエリストなら普通にやっている事である。カードゲームは「カードの引き」と言う運に頼る部分は有るけど、カードの特長を把握していないと勝てない。極端な話これまで発売された全てのカードを覚えていなければ勝てないのである。中には、余りに強くてゲームバランスが崩れるので、公式ルールで使用不可のカードも有ったりして、そう言うカードを大会で使えばその時点で負け、と言う事だって有るのだ。だからこそカードに関する情報を収集するのである。

ところで今出てる雑誌で「ぎゃざ」と言う攻略誌があるのだけど、表紙がまるで「MTG」と関係ないのだ。いいのかそんなんで。

一寸訂正。「オベリスク」だと思っていたが「オベリスクの巨神兵」でした。強すぎて制限掛けられるんじゃないかと思ってたら、「巨神兵」は禁止されているし、「封印されし」シリーズは1デッキに付き1組だけ、と制限が有るそうです。

「MTG」にしろ「モンコレ」にしろトレカってのは大体背後にストーリーが有って、カードはそのストーリーに沿って作られてる事が多いんだけど、「遊戯王」のカード自体には余りストーリー性が無い。まあ、マンガの中のアイテムの商品化ではあるんだけど。トレカってのはそうしたストーリー性もコレクションの対象となるんだが、「遊戯王」のカードはほんとにゲームの為のカードなのである。

逆にトレカにはゲーム性は全く無くて、ほんとにトレーディングとコレクションの為のカードも有る。NBAのカードとか、メジャーリーグのカードとか、まあ本来そう言うのを「トレーディングカード」と言うんだけどね。

カードではなくてシールの話なんだが、まあ同じトレーディングものということで、最近「ビックリマンシール」の復刻版が出ている。「ビックリマンシール」は最初は「天使対悪魔」と言う構図だったんだけど、段々ストーリー性を帯びてきて、コレクション性も高まってきたのである。前に書いたけど私も集めていたんだが、「ZOIDS」と同じく「何で今更?」。まあ主な客層は、リアルタイムで知らない今の子どもだけど、彼らの目には新鮮に映るだろうし、私のように子どもの時リアルタイムで知っている「大きいお友達」にとっては「懐かしー!!」と2つの世代をターゲットとして狙えると言う寸法だ。けど最近「ZOIDS」アニメ化もされたけど、キャラクターは人間だったな? 私が買ってた頃だと「ZOIDS」は惑星ゾイドの地殻が金属元素の割合が多かった為に金属生命体が発生し、ゾイド人は動物を改造して兵器化している、と言う設定だった。その設定は最近のでも同じようだけど、ゾイド人も金属生命体だったんだけど……(こー言うところが「大きいお友達」)

「ビックリマンシール」に話を戻すと、シールだけ集めて菓子は捨てる、と言う問題が今も最近も有るけど、実は私も捨ててました。チョコウェハースはまあまあだったんでちゃんと食ってたけど、その後シール3枚入りのスナックが発売されてシール欲しさに買ったはいいが肝心のスナックが不味くて食えなくて部屋に隠してたはいいけど親に見つかってしまい怒られた事は1度2度でない。

その頃、シールを集めてる子供達が主人公のマンガがあってタイトルは覚えてないんだけど、そのマンガで主人公達が遭難した時、互いに元気付ける為、シールの話で盛り上がるのだが、流石に子ども心に「何じゃこりゃ」と思った。死ぬか生きるかって瀬戸際に、もう一寸別の話題はないのかね。

「MTG」などのカードゲームや、RPGなどをしている時に、モンスターの息遣いや繰り広げられる魔法の様子を思い浮かべながら楽しむプレイヤーは多い筈だ。「遊戯王」が受けたのは、カードのモンスターが実際にフィールドに出現して、闘う様子が実際に見えるからだと思う。勿論実際に市販されてるカードじゃモンスターが出てきたりしないけど、マンガの中だけででも、プレイヤーの夢は叶えられたわけだ。

同じような事はミニ四駆にも言えるわけで、オーラが迸るのはあれは元々「速さ」の表現だったのだろうけど、どういうエネルギーなのかは良く分からないけど、兎に角凄まじいパワーを発生させながら疾駆するスーパーマシン、と言うわけだ。迫力を出す為に、背後に虎とか竜とかを描くのは古典的なマンガ表現だけども、「竜の力を宿したマシン」なんかだと走ってる最中にマシンが竜の姿になってしまったりする。

こー言う「パワー」を漲らせているという表現て「北斗の拳」のアニメ版が元祖で、「ドラゴンボール」に因って一般的なマンガ表現になったのだろうけど、外に放出しちゃったらパワーが失われてしまうんじゃないの? 閑話休題。

カードは実際紙切れでしかないし、ミニ四駆は真っ直ぐ走るだけのプラモデルに過ぎないんだけど、購買層、詰まり子どもにとって、商品はマンガに出てきたアイテムのレプリカなのである。そりゃ勿論子どもだって商品のカードにモンスターが入ってたりミニ四駆に竜の力が封じてあるなんて思ってるわけでもない。しかし、マンガの中で主人公が手にしているアイテム、それは大抵「この世に1つしかない」と言う設定である。そのアイテムの、レプリカとは言え同じ物を手に出来ると言う幻想を仮託され、商品は市場を駆け抜けるのである。

まあ小林よしのりがマンガは今やおもちゃのプロパガンダに利用されていると嘆く所なんだけど。

よく考えてみると「MTG」に代表されるカードゲームって、モンスターを召喚して闘わせるんではあるけど、魔法を使うのはプレイヤー自身だし、大抵、プレイヤーのライフの削り合いで勝敗を決するわけだから、自分で闘わないと言うわけではないような気がしてきた。

前にTVを点けてたら「ガオレンジャー」をやってて、やたらメカが出てくるので何じゃこりゃと思いつつもついつい見入ってしまったりしたのだが、実はこう言うからくりだったのね。つまりクリスマス商戦を前に、おもちゃの宣伝をやっておこうと。んでメカを操る能力を持った敵を出して、「同士討ち」をさせて、顔見せをしようと。だけど出てきたはいいがあっさり操られて集団で主人公達をいたぶるのはヒーロー物のメカのおもちゃの宣伝にしては逆効果のような気がするんだけど……

ロボットアニメやヒーロー物は、是全ておもちゃのCMと考えていいようだ。何しろ「ガンダム」でさえそうだったんだから。初めてそれを知った時、正に夢を粉々に打ち砕かれた。今でもこのように「現実」を改めて突き付けられると心に忸怩たる物がある。

最近のヒーロー物で、出てくるメカが矢鱈多いのは番組自体がおもちゃのCMである事と無関係ではない。今やメカが十数体出てくるのはざらで、それが全部合体可能だったりする。「ダイレンジャー」だと、全てのメカが合体しているのが本来の姿、と言う設定があったりして、そりゃ全部揃えなきゃなるまいよ。尤も、その「本来の姿」はメカが「組体操」しているようにしか見えなかったんだが。「オーレンジャー」だとピラミッド型のメカに他のメカが全部入って必殺技を放つのだけど、……「ダイレンジャー」のメカは「組体操」にしろ合体しているとまだ分かるけど、「オーレンジャー」のは中に全部収まっちゃうものだから、合体前と合体後で見た目変わってないのよ。

『空想科学読本』じゃないけど、合体なんかするより、バラバラで戦ったほうが遥かに有利な筈なんだけど。合体しているより、バラバラで居たほうが全滅する可能性だって少ないわけだし。てな事を言うと、長谷川裕一さんじゃないけど、合体してないと「本来の力」を出せないと言う「すごい科学」があるわけか。

「ジュウレンジャー」が放映されていた時、私の友人Kは、私が「獣のレンジャーだからジュウレンジャー」と説明してやっても「10人居るんだろ」と言ってたけど、実際は6人居たわけで、この「6人目の戦士」の登場が切っ掛けでどんどんメカが出てくる、と言うのもパターンである。そのうちほんとに10人になったりして。今やってる「仮面ライダー龍騎」は「仮面ライダーバトルロワイヤル」と言うプロットなのでライダーが13人居るらしいが、余計な心配だが出番捌き切れるのか?

自分が闘わないと言う切っ掛けから、おもちゃ業界を考える話に広がってしまったが、この辺で風呂敷き畳むか。

自分が闘わないと言っても、そう言うゲーム自体は昔からある。タイの闘鶏とか、スペインじゃなくて新潟の山古志で行われてる方の牛同士が闘う闘牛(「角突き」と言うそうだ)とか、土佐の闘犬とか、時代を遡れば、古代ローマのグラディエーターなんかもそうだ(関係ないけど、映画「グラディエーター」観たんだけど、実に良かった。アカデミー賞受賞も納得である)。言ってしまえば「スポーツ観戦」なんて正にそうである。観客はスタジアム、或はTVラジオの前で、選手に、監督に、或いは審判になれるのである。しかし、観客がどれほどのめり込んで、プレイヤーと一体化しても、汗と泥だらけになり、傷付き、勝利の栄光を掴むか或いは一敗地に塗れるのは選手たちである。

「グラディエーター」と言えば、私が中学生の時、「ボクシングは古代ローマの拳闘奴隷を思い出して胸が悪くなる」と言った社会科の教師が居たけど、「職業」と「奴隷」の違いがあるだけで、実際同じなのかもしれない。只、ボクサーと同様、拳闘士もまた「闘士の誇り」を持って闘っていたのではないのかなー。「奴隷」だったからと言って、何から何まで全て強制されていたと言うわけでもないだろう。

話を戻すと、選手には選手の、トレーナーにはトレーナーの、そして観客には観客の喜びと苦悩がある。選手と違って、トレーナーや観客は自分では闘わない。だが選手を鍛え、導き、励ます事は出来る。だがトレーナーと観客の決定的な違いは、直に選手と触れ合う事が出来るか出来ないかだ。そしてトレーナーもまた選手と同じくらい、或は選手以上に手の届かない地位である。

自分で闘わないゲームは、正にトレーナーになれるゲームである。「自分が闘う」ゲーム、つまりプレイヤーが選手となるゲームとは違うスタンスで楽しめるのだ。 ただ「自分で闘う」と言ってもゲームは所詮プログラム処理や盤面での疑似体験に過ぎないのと同じく、自分で闘わないゲームもまたトレーナーの疑似体験でしかないんではあるけどね。それ言っちゃお終いか。

何度も言うようだけど、自分で闘う、闘わない以前に、そうしたゲームを始めとするおもちゃ、それもかなり高価な商品が、子どもの頃からホイホイ手に入っちゃう状況こそ問題だ、と言う気がする。

なんか忘れてやしませんか、と言う声が聞こえてきそうなので書きますけど、ベイブレードの「ベイ」とはべーゴマの「べー」、即ちバイ貝の事である。元々ベーゴマが有って、その現代版がベイブレードなわけだ。ベーゴマは本来バイ貝で作られていたが鉄の塊になり、時代は下ってベイブレードになって、防御や攻撃の為の部品が取り付けられるようになった。因みにベーゴマには、螺旋の筋彫りが施されているが、これは貝で作っていた頃の名残である。

流石に私の子どもの頃にはベーゴマやメンコは無かったけど、ビー玉やおはじきで遊んだ事はある。ビー玉も一寸前に「ビーダマン」とか言っておもちゃもあったけど。だけどあれって爆薬製造ロボットじゃなかったんかい。これは私が小さい頃の遊びだけど、神社の裏手の地面に穴を3つばかり掘って、真ん中に棒を立て、ビー玉を指で弾いて穴に入れ、3つの穴を早く廻って真ん中の棒に当てれば上がり、と言う遊びだった。何だかゲートボールに似ているが、実際一緒にやってる友達のビー玉に当てて穴に入れてやったり、逆に遠くに飛ばしてやったりと言うルールもあった。

おれ今モニタの向こうから、この人えらくおっさんなんじゃないかと思われてるような気がする。

小学校の低学年くらいまでは、こー言うビー玉とか、缶蹴りとかだるまさんがころんだとか手つなぎ鬼とか三角ベースとかやってたんである。それが、高学年になると丁度ファミコンが売れ出して、家の中で遊ぶ時間は確実に増えた。前にも書いたけど子どもの遊びに商業主義が絡み出したのである。

それが必ずしも悪い事だ、とは思わない。ただ、子どもが外に出て遊ぶのがそうしたおもちゃばかり、と言う状況は如何なものか。何となれば、「遊び」は身一つで出来るのに。大体、ベーゴマは自分でコマに紐巻いて、床もルールも自分達で作ったのに、ベイブレードってコマ回す器具はあるわ、スタジアムもあるわ、強化パーツも全部商品化されてルールもおもちゃ会社が決めている。創意工夫も遊びに因って発達するのに、道具が全て用意されていては創意も工夫もあったものではない。

前述した友人Sに、好きかと思って「NHKロボコン」を見せたら気に入るどころか非常に嫌悪を示して、「こんなん、レギュレーションにどれだけ沿ってるか、って言う勝負じゃねえか」と憤慨し、「下らねえ」とまで吐き捨た。その気持ちは分からんでもない。

多分ベーゴマの次に来るのはメンコだな。メンコ叩きつけんのも器具を使ったりしてな。

戻る