MEMOPAD2

三峯 徹をよろしく(8/30)

タイトルで最早ピンときちゃう人も居るんだろうてなあ。

最近おれはエロ本を買わなくなった。いや、性欲が無くなった、と言うわけではなく、「お前、インターネット始めてから、エロ本買わなくなったな」とふかわりょうが指摘するように、インターネット始めたからなんだが。だってあーんな画像やこーんな動画が無料(電話代掛かるけど)でウハウハなんだもの。AVのレンタルさえしなくていいんだから。

あーんな画像やこーんな動画がどーんなのか知りたい人は適当な検索サイトで然るべきキーワードを入力すればいくらでも出てきます。ただし、18歳未満は見ちゃ駄目なのは当然だがそれ以上の人も自己責任で見る事。国際電話やQ2でボられたとか、むらむら来て犯罪犯しちまったとか言われてもおれは知らん。1回ぐらい痛い目見てみればいいのだ。2万円は痛かったな、くそっ。

いやそんな話ではなく。

おれはオタクの事とて、ヌードポルノ写真誌も買ってたのだが、やっぱり買うのはエロマンガ誌が多かった。でどー言うわけだかエロマンガ誌は読者の投稿コーナーが充実してるんである。

考えてみるとほんとになんでなんだろ?

うーん。エロマンガ誌を読むようなのにはオタクが多い。オタクには絵描くのが多い。投稿コーナーがあれば投稿する。数が多いのでコーナーのページが増える。常連が生まれてくる。質・量とともに充実してくる。ってな事なのかなー?

普通の投稿コーナー、お題イラスト、とかで複数の投稿コーナーがある誌も珍しくは無かった。まあまあ上手いのが多くてエロマンガ誌だから当然えろいのも多いし、見てて中々面白い。ところが上手いのの中にもへたれなのも居る。上手い人は常連になって「贔屓」になってしまうから、下手なのも1、2割混ぜるらしい。長くなりそうなので次回に続く。

この世には不思議なことなど何もなし(8/26)

なぜか川柳。

おれの妹が体験した話である。

妹が布団に入って寝ようとした。しばらくして、身体が上下しているのに気付いた。何事かと思えば、妹が横たわった布団が、丁度呼吸でもしているかのように膨らんだり萎んだりしているのだ。なんだなんだと灯りを点け、布団を矧ぐってみたが、そこには何も居なかった。今のはなんだったのかと訝りながらも布団に再び潜り込み、そのまま何事も起こらず、寝てしまったそうだ。

後にも先にも、そんな事はそれっきりだったそうだが。

布団を矧ぐったらトトロが居たら面白かったのに。

おれの爺様は既に亡いのだが、これはおれが大学に通っていた頃の事。

爺様は年も年で老いと病で病院と家を行ったり来たりしていたのだが、そんなある日、元々サボりがちだったのだがその日もおれは下宿に居た。しかしいつものように「めんどくさい」のでは無く、この日は何か「家に居なければ」、そんな感じがして学校に足が向かなかった。

とは言え学生なのだから学校に行かねば為らぬ。今から行けば2時間目に間に合う、と思って出ようとすると、電話が掛かってきた。実家からだった。母親は爺様の見舞いに来れないか? と言う。入院はいつもの事で、そんなに危ないとは聞いていなかったので、急な話だったが、ただ事ではない様子が電話口から伝わってきたので、行く事にした。

実家から電車で4時間は掛かるところに住んでいて、当然電車賃もそれなりに掛かる。貧乏学生の事とて普段はおいそれと(まさに「おい」「それ」とだ)は実家には戻れないのだが、この時は丁度戻るだけの電車代は持っていた。電車の乗り継ぎも丁度良く、爺様の入院先に行ってみると、爺様が息を引き取るところだった。

もしこの時、おれがもう少しでも早く学校に出掛けていれば携帯電話など無い時代の事で、連絡も着かずおれは爺様の死に目に逢えなかっただろう。

虫の報せとはこの事を言うものか。

あれは一体なんだったのだろう?(8/25)

先日、休日だったのをいい事に1日中マターリと2chのオカルト板を見ていた。流石に真っ昼間に見ていたのだけど、昼間からじっとりと汗をかきながらWeb怪談を見ていると言うのもなかなかドキュソである。

おれはそういった話は全く信じないので、却って怪談が面白く感じられるのかもしれない。 とは言え、おれにもそう言った体験が無いわけではない。お話しよう。

子供の頃、おれは寝つきが悪く、いつも1時間は布団に入っても寝返りばかり打っていた。その日も床に就いたはいいが寝られない。ふと、鈴の音に気付いた。ちりん、ちりん、ちりんと、鈴が鳴っている。どこから聞こえてくるのか見当も付かない。そもそも夜更けに誰が鈴を鳴らすと言うのだろうか。おれの寝室の隣には茶の間があって、人が居るとすれば祖母が起きてTVを見ているのかもしれないが、本当に祖母なのか。大体何で祖母が鈴を鳴らさなければいけないのか。鈴の音はしばらく続いたが、不思議と「怖い」とは感じなかった。やがて「プツッ」と音がして、鈴の音も止んだ。「ああ、ばあちゃんがTVを見てて、それを消したんだ、鈴の音はTVからしてたんだ」とその時は自分を安心させて、寝てしまったのだけれど、ずっと鈴の音だけを鳴らし続ける番組なんて変な番組だ。聞こえていたのは本当に鈴の音だけで、他に音は聞こえていなかったのだ。

あれは一体なんだったのだろう?

もう少し大きくなってからの事だ。学校からの帰り道、夕暮れ空を見上げてみると、夕日に照らされているのか、オレンジ色のラグビーボールのような物体が空を音も無く滑っている。

「ああ、これがUFOか」

飛行船かとも思ったのだが、にしてはおかしい。えらく高度を取っているし、エンジンやプロペラも付いていない。熱気球にしては形は平らである。旅客機はたまに見るけど、こんなラグビーボールのような形に見えた事はない。それに旅客機よりも明らかにスピードは遅い。

 おれが見つめる間、それはゆっくりと視界を横切っていく。話に聞くように、突然方向転換するわけでもなく、光ったりするわけでもない。見ていてもつまらないので、見るのを止めて家路を急いだ。

あれは一体なんだったのだろう?

役者やのォ(8/24)

「民衆こそ歴史の主役」とは昨今良く言われる。

そうなのだろうか?

「民衆史」というのは確かに存在するだろうし、研究の対象ともなり得るだろう。だけど、それは歴史の一要素であって、しかも主要素ではない。

 土一揆が戦国時代を招いただろうか?百姓一揆や打ちこわしが徳川幕府を終らせただろうか。

 そう言えば矢鱈一揆を持ち上げる連中も居る。一揆って今で言えば労働争議であって、社会を変革しようだとか、立ち上がれ民衆よとかでやったわけでなく、明日から暮らしが少しでも楽になればいいな、年貢を安くしてくれ、と言う庶民的な希望であって、システムそのものの転覆を図る市民革命とは性質を異にするはずだ。

結局名も無き市民は名も無きエキストラでしかないのである。

戦国時代の発端は応仁の乱でありそこには足利 義政や日野 富子らがいた。徳川幕府の終焉は黒船来航に始まる尊皇攘夷と佐幕派と維新志士の戦いがあった。歴史は人間が人間であるからこそ存在する。であれば、歴史は人間と人間のドラマに他ならない。無論エキストラ無しではこのドラマは成り立たない。しかしドラマを動かしている役者こそが主役であり、それは「歴史上の人物」と呼ばれる人々なのである。

「民衆こそ歴史の主役」と言うのは結局マルキシズム的市民主義の変形なのだろう。マルキシズムは今更説明するまでもないだろうけど、労働者の社会を目指すイデオロギーである。マルキシズムは市民革命と結びつき今では労働者は「市民」に置き換わった。「市民」=「民衆」が主役であり、それは現在、未来、そして過去においてもそうでなければならない。その願いが、「民衆こそ歴史の主役」、名付けるならば「市民史観」とでも呼ぶべきようなものを生み出したのではないか。

だけどそれは歴史の流れの一つを見ているに過ぎない。その流れ、民衆史をも飲み込み流れているのが「歴史」なのだ。歴史の主役は「民衆」ではない。主役はちゃんと居るのである。

笑う言霊使い(8/24)

言葉はそれ自体呪力を持つ。と言ってもこれはオカルト的な魔力を持ち出すまでも無く、実際に効果がある力である。例えば、おれは「佐藤 俊」と言う名でWeb上で活動しているが、この名は本名なのだけれど、普段「俊」と呼ばれている人、例えば家族に「佐藤 俊」と呼ばれたら非常に奇異な感じがする。この奇異な感じこそが正に言葉の持つ呪力の例である。日本ではこの呪力の事を「言霊」と呼んだりもする。

ならば、文章を綴ったり、或いは会話をする、と言う行為は呪術と呼んで差し支え有るまい。或文章を読んで何を感じるかは人其々。同じ文章でも面白がる人、頭に来る人、涙が出る人、色々である。また、字1つで文章全体ががらりと変わったりする。だがそこに元々文章自体が無ければ、人が何を感じる事も無い。

うむ。おれは数学は呪術的な側面を持つと以前から考えていたのだけれど、こうしてみると文学も魔法ではないか。さしずめ「言霊使い」と言ったところか。

ところで、時折魔法は術者を逆に操ってしまう。呪力を使っているつもりが、逆に呪力に憑かれてしまうのである。言霊使いにもそれは時として起こる。言霊使いは言霊と接する機会は普通の人よりも多い。言霊を操る能力に長けているからこそなのだが、それだけに、言霊に取り憑かれてしまう機会も多くなってしまうのだ。実際あこの人憑かれてるな、と言う言霊使いは何人か見た。誰とは言わないけど。

さて、言霊に取り憑かれた言霊使いは、言霊を意のままに操っていると勘違いする。言霊が自分の意思に完全に従うと。当たり前だよな。言霊の意志に沿って自分が動いているのだもの。言霊を綴って魔法を掛けているのではなく、言霊が綴らせているのだ。で、言霊と言うのは他の言霊とは仲が悪いらしく、取り憑かれた言霊使い同士がケンカしているのは良く見る。お互い、自分の言霊こそ優れている、と考えているからこれが結構見ものだったりする。この場合果たして、ケンカしているのは言霊使いか言霊か。「日記読みサイト」が受ける道理だ。実際このコラムも他のカテゴリに登録するより「日記読み」に登録した時はアクセスが多いものなー……

言霊に憑かれないよう気を付けたいものである、つるかめつるかめ。

言者理の理(8/23)

 久しぶりに正かなで書いてみやう。正字はめんどくさいのでやんないけど。

 以前、野嵜健秀さんを妖怪「ことば」だと言つた事が有つたが、「ことはり」の呼び名が相応しいやうに思へてきた。「言者理」とでも字を当てやうか。

 野嵜さんの文章は、縁有つた事も有り良く読まさせて頂いてゐるのだが、一々ご尤もなのだ。正しい。尚且つ論理的だ。勿論、それは悪い事ではない。いい事に決まつてゐる。だけど……敢へて言ふが、「正しさ」に囚われてしまつてゐるのだ。

 人は無謬で在りたいと願う。おれも勿論さうだ。ただ、おれは「間違ひ」は左程気にしないのだけど、野嵜さんは「間違ひ」たくないのだろう。「間違ひ」たくなければどうすればいいか。間違はなければいい。ならば、正しく或事、論理的で或事を求めるやうになつたのだらう。

ところで、出典は忘れたがおれが以前読んだ「笑ひ話」にこんなのが有る。

「正しく生きてれば間違いはないものさ」

「だけど間違いのない人生が正しいとは限らないよね」

この「笑ひ話」を是非野嵜さんに捧げたい。笑へないだろうけど。

「正しい」事は結構な事である。「論理的」で或事も大いに結構。ただ、野嵜さんは最早正しさの鋳型に自らを嵌め込んでしまつてゐる。御自分のみならず、他人の間違ひさへも許せなくなつてしまつてゐるのだ。「正しさの正しさ」に魅入られているのだ。

「正しさ」も「論理」も道具、手段である筈だ。しかし手段に囚われて、逆に操られる、詰まり憑り付かれたのだ。「正しさ」に取り憑かれた野嵜さんはおれから見れば既に妖怪である。「言者理」は今日も「理」を求めるのだらう。

最後にもう一つ、野嵜さんにこの言葉も捧げやう。

馬鹿って言うほうがバカだ。

「マサヤの世界」を君は見たか!(8/21)

2ちゃんで晒される、で思い出した。このコラムを御覧の皆様は「マサヤの世界」と言うホームページを御存知だろうか。御覧になった事が無い方は、リンクを開いてみていただきたい。

……へたでしょ?おれが言う筋合いじゃないけどさ。このページを運営している「マサヤ」君は、マンガ家を目指しているそうだけど、「年:2○歳」でこれじゃ厳しいだろー……

自作マンガ」は割と「まだ」マシなんだけどね。

この一見良くある「ヘタレ絵」サイトがどうかしたのかと言われそうだが、カウンタは余りのアクセスに壊れちゃってるのだが、200万を超えちゃってるのだ。察しの付く方も居ようが、そう、このサイト、2chで晒され、話題になっちゃってるのだ。

だけど、ここで不思議な事がある。前回書いたようにおれも2chでを晒された事があるし、もう1つ、通販PCショップに就いて書いた記事で某サクセス(隠してない)をいい店だと書いたらコヴァ(よしりんかぶれのこと)はそんなもんだと言われた。後にこの店でCPUを注文したら何の連絡も無く2週間待たされて、メールで問い合わせたら「品切れです」と言われた。これで「いい店」かどうかは皆様の御判断にお任せします。だけどコヴァなのは認めるが関係あるかゴルァ!

失礼。てなわけでおれも晒された事はあるのだ。でも大して話題になってない。ところがマサヤ君は、マンガ板(マンガの話題が書き込みされる掲示板の事)のみならず様々な板(おれが最初に見つけたのはオカルト板でだった)で話題にされ、アクセスされているのだ。もはや「マサヤ祭り」とでも言うような状況なんである。

おれになくてマサヤ君にあるもの、それが何なのか分かる人が居たら教えて下さい。何と無くはおれも分かるけどね。だけどこんな「アラシ」のようなアクセスはちょっとご遠慮願いたい気もするけど。

「ブロウクンHTMLの会」とは何か(8/19)

 さて、今日の落書きに載せたこのバナー、何じゃコリャWhat?と見た方は思われるに違いない。

説明せねばなるまい。おれが野崎さんの「闇黒日記」を読んで、W3Cの存在を知った頃のこと。仕様書(つっても邦訳だけどね)を読んだおれは最初「ケッ」と思った。HTMLはデザインのためではなく論理マークアップのための言語であり、デザインはスタイルシートで行いなさい、と言われて、生来ひねくれ者であるおれは「何言ってやがんでえ」と反発してしまったのだ。

そして「ブロウクンHTMLの会」の旗揚げを思いついたのである。

会の綱領として、

入会資格は

てな事を掲げ、この考えに同調して下さるWebマスターはサイトにバナーを貼っていただき、ブロウクンHTMLを広める、予定だった。

ところが、勧告を読んでいるうちにおれの考えが変わってしまった。Webページを開くとついソースを開いては「あ、DOCTYPE宣言してない」とか「charsetがない」「tableで体裁整えてるよ」「スタイルシートをHTMLの尻拭いに使ってる」とか考えてしまい、きちんとしたHTMLを記述しているのはwwwでも少数派である事(何しろ「IT革命」を何かにつけ口にしてきた政府のサイトですら薄らトンカチなのだ)を知り、「あ、こっちのほうが面白そうだ」と気付いてしまって、今ではW3Cのお墨付きをいただくようなCSSファイルまで作ってる有様である。(肝心のHTMLの方がまだまだなのでかなり意味無し)

発起人が綱領に完全に背いてしまってるので、旗揚げもしないうちにぽしゃってしまった。俗にこれを企画倒れと言う。

上の綱領を読んで、参加したいと思ったWebマスターの方はどうぞバナー貼ってください。繰り返しになるが、おれは参加しないけど。無責任な発起人だなあ。でもほんとに広まっちゃったらどうしよう。

裏切り者の証し>>Valid CSS! あっはっは。

屁が理屈たれるか! ブーブー言うわい!(8/18)

以前、と言ってもつい最近の事だけど、Web上で言い争いをしていた。そもそも今回の論争の発端は人間城の主さんが「MEMOPAD」と言う日記で「言う」って書いてるけど「云う」の間違いなんじゃないのと書いたのが発端だった。それを野嵜健秀さんが「言う」と「云う」の厳密な区別は無いけど、そもそも誤字だらけ、と書き、それをおれがアクセス解析で見付けて「おんどれらにんなこと言われる筋合いはないわぼけぇ!」と息巻いたはいいものの、追求されると責任逃れに終始し、ついにはこいつはドキュソだと見放され、相手にされなくなっているのがおれの現状です。淋しいよー。尤も、野嵜さんは「馬鹿」を連発するし、主さんは「クズ」の「ヘタレ」の言うし、ちと「ありゃりゃ」とおれは思ったんである。もーちょっとうまくやればドキュソ仲間に引き込めたかも知れん。

そー言えば最近野嵜さんは☆☆☆ LIBRA アレクセイの星座 ☆☆☆でこのサイトの助手であるホランドさんを徹底的に叩いている。ほんとにここまでやるか。

ちょっと思い出したけど、

青木 妖怪糞真面目小僧というような奴はいるのかなあ。真面目すぎる人もそれはそれで妖怪じみてると思うんだけど。

京極 ん。また下らんことを思い出したぞ。ブームに乗って出版された子供向けの妖怪本に「勤勉」という妖怪が載ってた。今思えばどう考えても創作妖怪だよね。ひらがなで「きんべん」と書いてあったような気がする。「真面目な妖怪だ」と説明があった。

さしずめ野嵜さんは「ことば」だろうか。文車妖妃の一種かな。

因みに「MEMOPAD」論争から、「Web上での発言の責任」に就いての論争が日記読みサイトの間で始まったのだが、こちらはどうやら収束したようである。

で、主さんの批判の中に、こんなのがあった。おれが描いたイラストのコーナーは今でこそ「ILLUST」だけど、前は「GARALLY」と綴ってあった。ええ、間違ってますよ、もちろん。そこを突っ込まれたのだけど、主さんはこんなことまでおっしゃったのだ。

…一応 google で garally で検索してみたらヒットすることすること。もしかしてオレが間違っているのだろうか。日本ではヘタレ絵の置き場所を garally と表記することに決まっているのか。

……「ヘタレ絵」とは何じゃコノヤロウ! ほしたらよ、あんたは「ヘタレ」じゃない絵を描けるとおっしゃるんですかい! なら描いてみい!

とやってほんとに描かれて、しかもおれよりうまかったら立ち直れんな、おれは。

そー言えば以前、野嵜さんに2ちゃんで晒される事の恐ろしさをしらんだろうってな事を言われたけど、あるんですよ、実は。もう過去ログ化されちゃってるけど、この絵晒されてるのだ。「えらいヘタクソだなー」なんて言われるしな、くそっ。

正しさと間違いの隘路にて(8/17)

あなたの言うことは間違ってます。

間違ってて悪いか。

正しさは正しい。

間違いは間違い。

「正しさ」の鋳型に自分を嵌め込み、恰好良く立ち尽くすのは正しいのか?

「間違い」の十字架を背負い、糾弾の石持て追われ、しかし歩き出すのは間違っているのか?

「間違いを恐れるな」と人は言う。しかし正しさの正しさの前に、間違いの間違いを恐れ、立ち尽くす。この矛盾を見よ!

正しく生きれば間違いはないのか?

間違いなく生きれば正しいのか?

もし、

正しい事こそ間違っている。

間違っている事こそ正しい。

としたら、どうすればいい?

歩き出すしかない。間違っているのか、正しいのか、知る術もないままに。

矛盾。矛盾。矛盾。

矛盾してて悪いか。

HTML道(8/16)

 「HTMLにおいては『正しいマークアップ』こそ肝要であり、『デザイン』は二の次以下と心得よ」

HTMLの勉強を1からやり直そうと思う所存だが、野崎健秀さんのHTMLの定義のための覺書や、HTML4.01仕様書邦訳などを読んで今現在、こう捉えている。大間違いかもしれないのでHTMLを真面目に勉強しようと思う方は上記のリンクを開いてテキストをちゃんと読むように。野崎さんの言う通り、仕様書をちゃんと読んだ方が下手なリファレンスを読むより有用です。HTMLなんてめんどい、なんて言うなら『ビルダー』とか『ページミル』とか使う事。

おれは仕事の関係上、「ホームページの作り方」なんてのを研修で習う事がよくある。だ・け・ど、それらはあくまで「ホームページの作り方」であって、HTMLは精々「ホームページはHTMLで作られています」と説明されるぐらいである。それは仕方ない事であって、そのような研修に集まる人たちは「ホームページを作りたい」んであって、それがどのような技術で作られてるのかなんて小難しい話は聞きたくないだろう。人は理論じゃなくて、利益を欲しがるものだ。かくしてHTMLの理念は伝わることなく、ホームページは「見た目」が重視される。以前このコラムで「陰陽五行とインチキ風水」に就いて書いたけど、その図式と似てるような気がする。

 どこだったかで、「そんなに『デザイン』が大事ならPDFで作りゃいいじゃないか」と言うのを見たことがある。実際、そうなっていくかもね。ブロードバンドが普及していけばファイルの大きさも問題なくなってくるし、製作者の意図したデザインがまごうことなく表示されるのだから、PDFもより広まるかもしれない。あとflashとかも。flashは動画も表現できるし、クールでサイバーな感じもするしね(Nスタの今のオープニングってflashかあれ?)

おう、こう考えてみると、HTMLに拘るのは時代に逆行している事になる。ううむ、おれにとってもそれは望むところよ。敢えて最先端を追わない、いいじゃないの。HTMLが伝統芸能だとは、思わぬ発見だ。

 これでちゃんとしたHTMLで綴ってあれば説得力もあるんだけどね。

おのれ手打ちにしてくれる(8/16)

前にも言った通り、おれはHTLM文書を作る時にはテキストでタグを手入力している。BASICで育った世代だから手入力するのはそれを思い出して楽しい。ただし、ひどいブロークンだろうとは思う。

先日、HTMLチェッカーなるフリーソフトを見つけた。その名の通りHTMLの記述を検査し、直すこともできると言う。おれの文書はどうか、早速試してみた。

チェックしてみる。……ページ内のHTML文書全部間違えてるだと!? どう間違えてるんだろう。「</p>に対応するタグがありません」? あるよちゃんと。「<img>タグのwidthが設定されていません」悪かったな。「heightが設定されていません」いちいちうるせーな。「altが設定されていません」ふん。「この値は省略できません」

……巨大なお世話じゃおんどらァ!!

まるで西原 理恵子さんのようにキレてしまった。とは言えプログラム相手に息巻いたってしょうがない。そう、何しろ相手は機械なんである。所詮はロジックでしか動かない。であれば、言う事聞かそうと思ったらこちらもロジカルに掛かるしかない。だからこそ、HTMLができ、CSSだとかXMLとかが派生し、W3Cとかが「正しい」HTML文書を推奨するわけである。

「スタイルシート」なんてのは、おれが今更説明するまでもないけど、元々HTMLタグと言うのは「ここが見出しですよ」「ここは本文ですよ」と示すためのものだ。「論理的言語」と呼ばれる所以である。しかしWebの普及によってHTMLは一般に普及し、よりよく見せるための「見栄え」が必要となった。従って「見栄え」のためのタグも作られるようになったが、本来の論理的言語HTMLの有り様からは悖る。じゃあ「見栄え」のための設定は別、と言うことにしようじゃないかと提案されたのが「スタイルシート」なわけです。(スタイルシートについてのちゃんとした説明は仕様書邦訳)を読んでみて)

このスタイルシートも現在勉強中だけど、なかなか面白い。タグよりずっと「プログラム臭い」んである。BASIC世代としてはなかなかおいしそうだ。タグとスタイルシート、1から勉強してみようかな、なんて殊勝な事を考える今日この頃の明後日です。

森前首相が矢鱈「IT革命」を唱えてたけど、肝心の首相官邸のホームページがなってない。文章のインデントを<table>で整えてる有様。日本の「IT革命」の正体はこんなものか。尤も「IT革命」自体絵に書いた餅だったと言うのが最近の評価だけどね……

8月も半ばを過ぎて(8/15)

「日本は天皇を中心とした『神の国』」であることはおれが今更言うまでも無く事実である。何しろおれは神の末裔だからだ。おれの母親の旧姓は菅原なのだが、母方の祖母、つまり母の母に言わせると、菅公菅原 道真の子孫なのだそうだ。尤も田舎のばあ様の言うことなのでそれこそ眉に唾はたっぷり着ける必要があろうが、道真の裔だと言うのは面白いので、おれは菅公の子孫だと言うことにしている。

で、荒ぶる雷神菅公の子孫としては見過ごせない意見を見つけた。

一番簡単なのは、あの靖国神社の名前を「靖国ラブアンドピースセンター」とかにしてしまって、神道と全く関係のないものに変えてしまうことかもしれません。それならば公人として堂々と慰霊の儀式をすることが出来るわけですから。(D-Point)

雷落とすぞ! 何が「靖国ラブアンドピースセンター」じゃジョン・レノンかあんたは。そんなふやけた名前になったら戊辰以来の250万の英霊も死ぬに死に切れん。

井沢 元彦さんの受け売りになるけど、戦争も死も「ケガレ」の極みである。ましてや「戦死」となれば、これは極みに極みだ。そのように「ケガレ」を背負って死んだとなれば、普通に弔っただけでは「怨霊」と化してしまう。となれば、神として奉り魂を慰め、「ケガレ」を「ハレ」に転化しなければならない。

最近「A級戦犯分祀」が取り沙汰されているが、実はA級戦犯こそ靖国に奉らなければならないのである。極東軍事裁判で旧連合国に因って『A級戦犯』とされ処刑された魂は、謀略戦に因る戦死者であり、汚名を被せられ、旧連合国に対する大怨を抱いている。若し彼らを神として祭らなければ、怨霊となって末代まで崇りなすだろう。

よしりんも言うように、神として1度祭ったら、後から動かすことなどできないのだ。以前からおわす神の新しい神社が作られる、ということはあるけど、それは神の住まう新たな社が作られただけで、神がそこに移動しているわけではないのだ。例えば新たに「東条神社」を作ったとしても、東条 英機はやはり靖国に居るのである。

若し靖国が「ラブアンドピースセンター」になってしまったら、社を失った250万の英霊は怨霊となって災いなすことは想像に難くない、くわばらくわばら。

因みに、8月15日は靖国神社にとって特別な日でもなんでもないそうです。

また、先の大戦において、我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して、ここに改めて深い反省の意を表するとともに、犠牲となられた方々に謹んで哀悼の念を捧げます。(全国戦没者追悼式式辞)

 ……「我が国」って言っちゃったか。あ〜あ〜あ。

ただすけぇ!!(8/15)

しまった、前回の越前ベストメンバーに吉宗こと山口 崇を忘れていた。反省を込めて上様に怒られみる。だけどやっぱりおれにとって『タイムショック』は山口 崇なんだよ。加賀 剛史本人は嫌いじゃないんだけど、この司会だとどーしても「アーレクイジーッヌ!」が連想されてしまう。第一あの格好は何だ、ほんとに「鉄人」と変らんやんけ。

司会で思い出した。ナレーションの芥川 隆行も忘れてた! いかんなあ、時代劇好きを名乗る資格なしだね。芥川さんといえば兼高 かおるさんとの『兼高かおる世界の旅』が思い起こされますねぇ。芥川さんと兼高さんの掛け合いが絶妙でございましたのよ。

ええいこのおれの思い付くままに書いて本題とは全然違う方向に行っちゃって関係あるような無いようなこと延々書くくせはどうにかならんのか。要するに文章が下手だってことなんだけど。

源さんと三次がいなくなってしまってから『越前』は見なくなってしまった。いや、孫さんや赤垣の旦那が悪いわけではない。小松 政夫好きだし。だけど、おれにとっては源さんと三次がいないとどうにも見る気が起こらない。人情味のある、しかしどこか飄々とした風貌の源さんと、盗人と言うよりは最早忍者のような行動力と、越前への忠義、盗人が出てくると、大抵昔馴染みの三次。やっぱりこの二人は『越前』に無くてはならないとおれは思う。『黄門』の助さん格さんのように役者が変ってもOKではない、取り替えの効かない存在だったのだ。大坂さんと松山さんはほんと惜しい人をなくした。

大坂志郎さんと言えば、一度現代劇のTVドラマに出ていたのを見た事が有る。まあ日本映画で初めてキスシーン、有名なガラス越しのキスを演ったのは大坂さんだから現代劇に出てても不思議じゃないんだけど。て言うか不思議がる事でもないんだろうけど。とは言え確か大工だったか植木屋だったか? やっぱりお江戸言葉で、「ようがす」って台詞をTVドラマで聞いたのは後にも先にもこれっきりだけど、似合ってたなあ。

そう言えばこのドラマ、確か山口 崇が出てたような。ほら繋がった。

せめて伊吹 吾朗(8/7)

村上源次郎と猿の三次を覚えておいでの方も最早少なくなったやもしれぬ。

今でこそ『大岡越前』の同心と言えば佐野浅男演じる「孫さん」こと佐橋 孫兵衛だが、孫さん以前にも人情味溢れる同心がいた。そして、普段は小料理屋の亭主だが、元盗人で越前の密偵となって働く男がいた。同心の名は村上 源次郎、密偵はましら、或は猿の三次。

源さんを演じるのは大坂志郎、三次は松山 英太郎、これにすっとびの辰(高橋 元太郎)、出目の幹太(谷 幹一)、「御前」こと大岡忠高、演じるのは片岡 千恵蔵! その妻妙(加藤 治子)、雪江(平 淑恵)、榊原 伊織(竹脇 無我)、その師呑舟先生(志村 喬!)、書いてるだけで涙が出てきた。おれにとっての『大岡越前』ベストメンバーである、って主役を忘れてた。忘れちゃいけない(忘れたくせに)加藤 剛。

おれが小学生だった頃、家に帰ると真っ先にTVのスイッチを引張っていた。いや、引張るスイッチだったんだよ、当時は。そういやTV版『パトレイバー』のエンディングに、「TVスイッチ引張る」と言う歌詞があったけど、その頃にはまだ有ったんだよ。そんなことはどーでもいい。TVのスイッチを点けて何を見たか。「ルパン3世」にはまだ時間が有る。その頃おれのじい様はまだ生きてたんだが、じい様の事とて当然時代劇が好きだ。アニメの時間の前には、TBS系の時代劇の再放送が有る。当時はTVは1家に1台しかないような時代だった。「ファミコン」すらまだない。とくれば見るしかないでしょうよ。「3時のあなた」を。る〜る〜るさ〜んじにってこれは「会いましょう」か。じゃなくて、時代劇を見てたんですよ、アニメが始まるまで。

じい様がプロレスを見てた(長州がブレイク中の頃)んで、おれも見るようになったんだけど、時代劇もじい様に教えてもらった事になるのだなあ。

『水戸黄門』、『大岡越前』、『江戸を斬る』、面白かったなあ、ほんと。長くなりそうなので、次回に続く!

私事だけど、昨日おれの職場のホームページのアクセスを、うちが追い抜いた。職場のホームページを追い越すのが1つの目標だったので、ちょっと嬉しい。

スピノサウルスの憂鬱(8/6)

この夏、『ジュラシックパーク3』が公開される。今回の主役はスピノサウルスとプテラノドンの2枚看板だそうだが、プテラノドンは有名どころだからいいとして、スピノサウルスとはいいのを持ってきてくれた。ティラノサウルスよりも細面で、ゴジラを彷彿とさせる背ビレ。全く無名でもないが、ティラノやプテラほど有名でもない。すっかりシリーズのレギュラーになった感のあるディノニクス(『2』の狩りのシーンは見事!)や、『1』で登場したストルチオミムスもいい所突いてたけど、スピノサウルスか。正直1本取られた。

それにしても、どこかで目にしたかは忘れたのだけど、「今回のメインの恐竜はティラノサウルスよりも強暴なスピノサウルス」っておい、見たんか。どっちもタイプとしては同じなのだし、トラとライオンとどっちが狂暴か、なんて分かるものでもないだろうに。

同じようなタイプと言えば、アロサウルス(「ジュラ紀公園」なんだからほんとはこっち出すべきなんじゃないのかと思うんだけど。ティラノは白亜紀だっつうのに)とか、ゴロもといゴルゴサウルス、タルボサウルス、メガロサウルスなど大型肉食恐竜は数あれど、やっぱりスピノサウルスはいい選択である。

やっぱ「背ビレ」のインパクトはでかい。しかしゴジラのようだなんて書いたけど、スピノの背ビレはゴジラみたいにギザギザしているわけでもなく、1枚の帆になっている。多分は体温調節に使ったんだろうてな。あるいは、TVCMとかで水に潜むシーンが在ったけど、背ビレ宜しく泳ぐのに使ったのかもしれない、なんて推理は専門家に任せておけばよろしい。子供やおれのような恐竜好きの「大きいお友達」は背ビレのかっこよさを楽しめばいいのである。

ところで、『ジュラシックパーク』の恐竜は、蚊が吸った恐竜の血液DNAの断片を、カエルの染色体に組み込んでトリの卵に移植して孵化させた、と言う設定だったはずだ。だからあれは恐竜の姿をしたカエルだ、なんて指摘をどこかで聞いたことがある。なんだか「ゴジラは着ぐるみで中に薩摩 剣八郎が入ってる」と言う事実ぐらいに身も蓋も無い。尤も薩摩さんは着ぐるみ脱いでもそんなに変わらんが。けど、スピノサウルスの姿形と習性のカエルがいたらそれはそれですごい話である。実際に居たら嫌なカエルだが。

 もし『4』が作られるとしたら、おれとしては主役は背ビレつながりでディメトロドンにして欲しい。インパクト弱えー。

オタクのお子さん(8/5)

先日書いた外国の「OTAKU」に就いてのコラムで、野嵜健秀さんの「外国で日本のマンガが受けるのは文化の再輸入に過ぎない」と言う説におれは以前から「そーかなー?」と思っていたので、反論した。すると再反論と、その他諸々批評をいただいた。それについて今回はちょっと書く。

餘談ですが、i要素がp要素を跨いでゐます。HTMLの文法違反です。

中村氏や小堀氏の先、福田恆存さんにまで行けば良かつたのですが

おれは余計なお節介をするHTMLエディタが嫌いなのと、手入力が好きなので辞典片手にテキストでTAGを打っているのですけど、HTMLを言語とするならば、おれのはブロークンもいいところでしょうねう。一応、IE5とNN4.7で確認はしているのだけれど、恐らくゾマホンの日本語より怪しい代物に違いない。ブラウザの性能でカバーしてもらっているようなものです。

旧仮名遣いにしてもそうだけど、突っ込まれるのは仕方ないです。この辺に関しては「笑って許して」としか言うません。許しちゃもらえないだろうけど。

この手の感情的な(同時に、佐藤氏にとつて都合の良い(全然良くないっす:筆者注))意見が「過去ログ」の一番上に來る事を見越して、佐藤氏はリセットしたのではないとは思ひたいが。

過去ログでおれを「応援」している書き込みが1番最初に来ているのは偶然です。掲示板のリセットは予告してやったのだし、書き込みは全部保存しておくことにしたのですから。過去ログを読めばおれが如何にアホか延々書いてあるし、それに……この方には悪いんですけど、全然「応援」になってません。この時はおれも大分頭には来てたけど、その来てた頭でも「え?」としか思えませんでしたもの。

第一、自分にとって「都合のいい」過去ログにするんだったらもっと「都合よく編集」します。これも今までの言動を省みると信じちゃもらえないだろうなあ。自分の蒔いた種とは言えしょーが無い。

日本の漫畫は、その發展過程で日本的ならざるものが入り込んでゐる、と云ふ事實の方が重要だ、と思ふ。

マンガは日本の文化か? という質問に対しては、おれは「そうだ」と言っていいと思います。手塚 治虫先生がディズニーの影響を多大に受けていることは疑い有りません。しかしディズニーは結局ディズニーのままであったのに対し、手塚先生は独自のマンガを展開しています。政治風刺として生まれた「ポンチ絵」は結局発展することなく消えています。これらに日本のマンガが大いに刺激を与えられ、変化していったことは間違いありません。「文化の流入流出」と言う観点から見れば、マンガが欧米で評価されているのは文化の再輸入、と捉える事はできます。

しかし繰り返しになりますが、日本にはマンガが成立する「下地」が在りました。だからこそ日本においてマンガは大人の鑑賞に堪え得る文化として発展したのです。欧米ではマンガは子供と「OTAKU」の見るものでしかないでしょう。

だけどマンガが世界中に輸出され、ハリウッドなどメインカルチャーにも影響を与えている現状を、おれは「世界に誇れる」かと言うとそうは思えません、と言うか、思いたくない。西部 邁先生が言うように「読んだら家系の恥」、よしりんが言うように「電車の中で読んではいかん」、でなければ「マンガ」はその力を失うのです。サブカルチャーでなくなったらマンガはお終いなのです。

だから、マンガが世界中に紹介され、其処彼処に「OTAKU」が居る現状を、おれは胸を張るのではなく、痛し痒しと頭を掻く方がいいんじゃないのかなあ、と思うのですよ。

ところで……お気づきにならなかったようですね? 「括目」。おれも今気づいた。まあいいや、残しとこ。

「OTAKU」か「WOTAKU」か(8/4)

 外人が、「We are OTAKU!」と声高らかに宣言するのは昨今よく見る。おれの大学の先輩K氏は、こうした外人OTAKUが非常に嫌いだそうで、「あの連中に『オタク』だなんて言って欲しくない」と言っているのを聞いたことがある。OTAKUが多いのはもちろんアメリカだが、フランスにもOTAKUは多い。

最近フランスの映画監督エンキ・ビラルが描いたマンガ「ニコポル3部作」が日本でも発売された。近所の図書館に入っていたので読んでみたのだけど、うーむ、日本のマンガとは違うのはあたりまえだけど、アメコミのように大味なタッチでもない。

何だろう? そうだ、「絵コンテ」を読んでいるような感じなのだ。無論、ネームは吹き出しに収まってコマに入ってるし、コマ割も単調ではない。マンガの体裁は採ってあるのだけど、絵が「画面」としてかっちり収まってて、これは映画として撮った方がいいんじゃないかなあ、とおれには思えたのだ。

「ニコポル3部作」はSFなのだけど、同じフランス人のリュック・ベッソンが撮った『フィフス・エレメント』に非常に近い感じを受けた。そー言えば、最初『フィフス・エレメント』の予告見たときは『ファイナルファンタジー』の映画なのかなと思ったっけ。

「マンガ」「フランス」で思い出したのだけれど、野嵜健秀さんがこんなことを言っている。

御大手塚はディズニーの影響を多大に受けてゐる。戰前の漫畫は、フランスのポンチ繪なんぞの影響が非常に濃い。

「漫畫やアニメは日本の誇る文化」と言つて「文化輸出だ」と威張つてゐる人には申し譯ないが、それは「文化の里歸り」か「文化が故郷に錦を飾つた」だけの事ではないのかね。

そーかなー? 日本には「浮世絵」とか、「能」や「歌舞伎」のような、マンガの下地があった。「ディズニー」や「ポンチ絵」って言うのは「影響」は与えてはいるものの、結局日本でこそ「マンガ」が発展したのだ。マンガは「日本の文化」だと言っていいと思う。茶や漆は中国から伝わったけど茶の湯や漆器は「日本の文化」として紹介されている。尤もマンガはサブカルチャーだけどね。しかし面白いのは、これまたサブカルチャーである浮世絵がメインカルチャーのゴッホやゴヤに影響を与えているように、マンガもハリウッドやフランス映画に影響を与えているのである。こう考えると『ライオンキング』や『マトリックス』は面白い存在である。

『アトランティス』は幾ら何でもと思うけど。

ところで……

『フィフス・エレメント』でブルース・ウィリスが屋台のラーメンを食うシーンがあるけど、あれって『ブレードランナー』の「Udon,four!」に何か言いたいことがあるのかね。

SSF(8/4)

誰だ『ファイブスター物語』と読んだ奴は。

先日『SMAP×SMAP』で香取 慎吾と草剪 剛主演のショートショートフィルムが放送されたが、今度ビデオソフトとして発売される。宣伝の為『めざましテレビ』でも報じられていた。放送された時は見なかったんだけど、見たらなかなか面白そうだ。レンタルされてたら見てみよう。気に入ったら買ってもいいし。

これはずっと前になるけど、確か去年の夏だったか? 近所のガストで飯を食ってたら、館内モニタでイベント名は失念したけどアメリカのSSFを上映するイベントが告知されていた。これまたなかなか面白そうなフィルムが有りそうだった。ティム・バートンやスピルバーグの無名時代の作品も公開されたそうだが、残念ながら見に行けなかった。

おれはこういったSSFが好きなのだ。おれの大学の先輩で映画好きのK氏もSSFのネタをいくつか持っていて機会があれば映像化したいと言っている。しかしこーいうSSFを見ると思うんだけど、なんでSSFってあんなシュールと言うか、パンクな作品が多いのだろ? おれの妹は『SMAP×SMAP』で放送されたとき見たらしいけど、「わけ分かんなかった」と言っていた。さもありなん。

だけど考えてみるとマンガでも、いがらし みきおや吉田 戦車は4コマ出身である。彼らのような「シュール」のみならず、「シニカル」いしい ひさいちや「パンク」西原 理恵子も4コマ出身である。出身も何もいしいは4コマ専門だけど。また所謂「ガロ」系、つげ 義春だとか丸尾 末広だとか根本 敬だとかは短編に傑作が多い。こんなところに××クラゲがいようとは。

『めざましテレビ』でも言っていたのだけど、SSFは予算が安く済むし、スポンサーなどのしがらみも無い。しかし上映時間は30分も無い。監督はフィルムに「本当にやりたいこと」を詰め込まなければならないのだ。なるほど濃い作品になるわけである。

「長編は煮込みと同じで味を見ながら作れる。しかし短編は炒め物のように火力と一瞬の手業で短時間に仕上げなければならない。だから短編は難しい」と言うようなことをどこかで読んだことがある。中島 らもさんだったか筒井 康隆氏だったか? であればSSFは「手抜き」は全く許されないに違いない。

アニメでも最近『Blood』のような良作が出ている。SSFに括目せよ。

面子は濃かったんだけど(8/3)

西尾 幹二、高橋 史朗、高森 明勅、藤岡 信勝、西部 邁、小林 よしのり、会員だけど井沢 元彦、あと抜けちゃったけど大月 隆寛、濤川 栄太。

うーむ、並べてみると濃い面子だ。尤もおれが「つくる会」発足前から知ってたのは小林、西部、井沢、藤岡、大月だけだけど。小林、井沢以外はそもそも『ゴー宣』を読んで知ったんだけどね(井沢は『逆説の日本史』を読んでいた。

結局下都賀地域の採択も覆ってしまい、これで公立で教科書を採用するところはなくなったかな、と思っていたら都の養護学校で採択!? 養護学校か、これは盲点だったな。もっとも不採択を求める運動はすでに起こっているようだけど。採択を決定したと教育委員会のコメントが「内容が充実している」「指導要領に沿っている」と不採択を決定した地域とは正反対なのが面白い。流石は石原都政。三浦 朱門編著の『「歴史・公民」全教科書を検証する』(小学館文庫)に拠れば最も指導要領に沿っているのは扶桑社の教科書になるんだそうだけどね。

すでに40の道府県で扶桑社教科書の不採択が決定している。採算を取るためには1割の採択が必要なようだが、最早絶望的だ。残り7県全てで採択される事はまず有り得まい。そうなれば4年後の検定には扶桑社は教科書から手を引いている可能性が大きい。

だけど何度でも書くが不思議な事態だ。扶桑社教科書には賛否両論が寄せられている。そう、全く「否定」されているわけではない。だのに採択はほとんどが「否」。ここまで採択されないのは明らかに異常である。世間の声が採択に全く反映されていないのだ。

しかしマスコミは相も変わらず中韓様の声を伝えるだけ。日本政府が再修正要求に対し、「古代史」で2ヶ所(そのうちの1ヵ所は扶桑社以外の教科書)間違いが在っただけとしたことは伝えず、「中国・韓国から歴史を歪曲しているとされている教科書」としか書かない。日本の歴史は中国・韓国に認定してもらうものだったのか。

今のところ、「つくる会」は敗北している、としか言いようが無い。しかし、「種」は撒かれている、一縷の望みは繋がっている、と信じたい。信じさせてくれ。

中村 粲氏や小堀 桂一郎氏が旧かなで文章を綴っておられるのを見て、これまで真似して旧かなでやってきたけど、いまいち板に付かなかったな。普通に書こう。所詮戦後民主教育の子ぢゃ。

ネタに逃げる悪いクセ!(8/3)

ン・パカ ン・パカ のーみそくすぐっちゃうよ

って見たこともないのに。しかも古いっ古過ぎ。最早『おじゃ魔女どれみ』もシリーズ3作目に入っとるちうのに。

ところでこないだ図書館行つたら『クレヨン王国』シリーズなるものが。原作が在ったとは知らなんだ。尤もあんなにぶっ飛んだ話ではないようだが。主人公もシルバー「王女」ではなく「王妃」だし。「12の悪いクセ」や12人の野菜と旅をする、と言うのは原作通りのようだ。シルバー王妃が主人公とは書いたが、クレヨン王国を舞台にした様々なストーリーがあって、主人公も色々いるらしい。今度読んでみようかな。

童話で思い出したけど、同じ「赤頭巾」を題材にしながら、『チャチャ』と『人狼』の差はなんだろう。そう言えば原作はどうなのか知らんけど、アニメ版の『チャチャ』も主人公は王女様だったな。王と妃である両親を封印した魔王を倒し、両親を取り戻す、という結末だった。

『クレヨン王国』もそうだけど、さすらいのお姫様(王子様でもいいんだけど)を主人公にした物語は昔からある。所謂「貴種流離譚」と呼ばれるジャンルだが、つまりは故国を失ったお姫様(くどいようだが王子様でも可)が艱難辛苦を乗り越え、ついには故国を復興させる、あるいはそれに代わるものを手に入れる、と言うストーリーである。

聖書の「創世記」も一種の貴種流離譚と言える(何しろ主人公は神に作られた最初の人間なのだ。これほど高貴な存在が居ようか)し、日本神話でもスサノオやオオクニヌシ、ヤマトタケルなどがいる。物語のアーキタイプの一つであろうし、それだけに現代に至るまで用いられつづけているのだろう。

だけどそれは考えてみれば不思議な話で、フランス革命で王制を前近代的と否定した筈なのに、人間は未だに王子様お姫様に憧れるんである。神足 裕司さんが『SPA!』に書いてたコラムで「小田 実という何でも見てやるおっさんが『なんで子供番組は王国で作られとんのやろう?』」と言っていた、と書いてたけど、そうなると呉 智英氏の「封建主義」も強ち荒唐無稽ではないのである。

 知識をひけらかす悪いクセ!

チヤ〜ンス(8/2)

宮村 優子が『ちゅらさん』に出る事になつた時、彼女はこう思つたに違ひない。

「チャ〜ンス」

先日妹と日テレ「速報! 歌の大辞テン」を見てゐた時の事。

「3人祭」がランク入りの挨拶で画面に出てくると、妹が

「加護って小学生?」と聞いてきた。

「いや、確か中学生だったと思うよ」

「ふーん」

「なんで?」

「おなかが小学生だから」

宮村 優子AV出演疑惑が取り沙汰された時、彼女はこう思つたに違ひない。

「違うっ! こんなの私じゃない!!」

近所のレンタルビデオに、大島 渚監督の『御法度』のポツプスタンドが飾つてある。『御法度』の新撰組は従来のだんだら模様の羽織ではなく黒一色である。恐らくは白黒の画面の映えを考慮したのだらう。(後でビデオ見たらカラーでした)

ポツプスタンドには出演者と大島監督の写真が擬つてある。『御法度』の新撰組は襟元のくさびの数で階級を示してゐるやうだ。平隊士の浅野 忠信(彪蔵)と松田 龍平(惣三郎)は1つ、隊長のたけし(土方)と武田 真治(沖田)は2つと線1本、局長の催 洋一(近藤)は3つ。

大島監督も羽織を着てたが、くさびは5つだつた。どうやら監督は局長よりえらいらしい。

習志野ゾーイさんも言つてたけど、確かに髷がパイルダーオンしてたな。

宮村 優子が『バトル・ロワイヤル』に「ビデオのおねーさん」役で出る事になつた時、彼女はこう思つたに違ひない。

「チャ〜ンス」

宮村 優子が『タイムレンジャー』に出る事になつた時、彼女はこう思つたに違ひない。

「チャ〜ンス」

宮村 優子が『パパパパパフィー』に出る事になつた時、彼女はこう思つたに……え、もういい?

「わ・ふーぅ」が第2の「おっはー」になりはしないかと、心配してゐるのは山寺 宏一、ではなく、飯塚 昭三だ。

あきれはててものが言へない(8/1)

『パトレイバー』の内海課長も言ふやうに、頭は優位に立つた時こそ下げるものだ。ちよつと簡単に頭下げてしまつたかもしれない。

内海課長と言へばおれは学生時代友人Sに、「君は内海課長に似てるね」と言はれた事がある。子供じみてるし、「手段の為には目的を選ばない」んださうだ。あの悪漢に似てると言はれるのは愉快だし、嬉しくさへある。後藤隊長に似てゐると言はれるのもいいやうな気がするけど。さう言へばSは黒崎君に似てたな。行動パターンといひ、顔(!)といひ。道理であいつとは仲良かつた。ものの考へ方はそいつも内海課長に似てゐるのだが。これでおれにおたけさんのやうな恋人がゐれば完璧なんだけど……その事に就いては余り言ふまい。

こんな「リアル内海課長」のおれの価値基準は、「面白さうか面白くなささうか」である。面白さうなら首突つ込むし、つまらなさうならやらない。それだけだ。流石に内海課長のやうに面白さうか面白くなささうかでほんまもんの犯罪までやる度胸はないけどね。こんな息抜きの合間に人生やつてる(これも言はれた事あるな。と言ふことは鳥坂さんにも似てるのかおれ?)やうな生き方はガチンコで人生やつてるやうな方々には度し難からう。尤もおれもガチンコで「不真面目」やつてるのかもしれないけど。

このやうな生き方は、楽しいけど何かと風当たりは強い事は今回の件で身に染みた。かと言つて生き方変へる事もできん。生き方を変へちやつたらおれはおれでなくなるからだ。誰も恨みやうが無い。そもそも恨む気無いけどね。

タモリも言つていたが、冗談は真面目にやればやるほど面白くなるものだ。であれば、おれは精々真面目にふざけるのである。「ふざけんな!」と叱られても仕方ない。ふざけてるんだから。

Web世間ではこういう奴の事を「ドキユソ」と言ふんだらうけどね。

 今、日記読みサイトの間でで「ネツトでの喧嘩の作法」と言ふか「ネツトでの喧嘩の是非」と言ふやうな話題が取り沙汰されてゐるけど、この話題でおれの名前が時々出てくる。無論肯定的な扱いは、されてないけどね。

ひと段落?(8/1)

 やれやれ、MEMOPADCGI版の過去ログ、やつと出来た。御覧になつていただければお分かりのやうに、他の人の書き込みも収録してある。自分が書いたコラムだけまとめればいいものを、おれの事を散々こき下ろしてゐる文章もまとめたのだ。えらいなあ、おれ。

でまあ、仮名遣いの間違いは野嵜健秀さんが指摘してくださつた通りなのだが、敢へて直さないでをいた。自分でも困つてしまふ程に自尊心が強く、自分が書いたものに対して「愛着」も在るので「間違つてるよ」と言はれても「はいさうですか」と素直に直す気にはならないのと、直してしまふと過去の自分を、それが「間違つてゐた自分」だつたとしても、否定してしまふやうな気がするので、直さなかつたのである。つまりは気分の問題です。

まとめるに当たつて、おれに対する批判と批判に対するおれの反論とを読み返すことになつたのだが、どーやらこの「論争」もひと段落着いた様子なので、おれなりにちよつと振り返つてみやう。

発端は人間城の主さんと野嵜さんが、おれの言葉遣いを批判してゐるのを、おれがアクセス解析で見つけてからだつた。その頃おれは直接批判しないのを「陰口」と考へてゐたので「おんどれらにんなこと言はれる筋合ひはないわいボケがあ!」と怒鳴り散らした。すると野崎さんがどうれと乗り込んできて、おれに対する批判を開始したのである。「面倒な事になつたな」6スレも批判を書き込まれて、正直言つてしまへばウザくなつたおれは、謝つてしまつた。

しかし謝りはしたが、先述の通り自尊心が強いのでどうにも収まらない。とは言へこれ以上正論を説教されるのも鬱陶しい。と言ふわけで冗談でごまかす事にした。うわ。最悪。そしたら主さんは相当天辺に来たらしく、「クズ」だの「ヘタレ」だのおれを罵る始末。ミイラ取りがミイラになつてしまつた。

龍成さんには「期待外れ」と見放されたが、何か期待してたのならご期待を裏切つておれとしては望むところぢや。何度も言ふやうだがおれは自尊心が強い。期待通りに振る舞つてなどやるものか。

またしても喧嘩売つたやうな気もするけど、まあいいか。

んなこと言つちやつちやあ(7/29)

 このサイトを御覧になられるやうな方で、京極 夏彦氏を知らないと言はれる方はをるまい。おれも好きである。おれは元々から妖怪好きなのだが、京極氏の妖怪観に影響を受けた部分は多い。友人に『姑獲鳥の夏』を借りて一晩で読んでしまつたのだけど、目から一体何枚のうろこが落ちたことか。

 そんな妖怪小説家京極氏が、妖怪研究家多田 克己氏と妖怪探訪家村上 健司氏とともに、鼎談本を出した。その名もズバリ『妖怪馬鹿』(新潮OH!文庫)なのだが、京極氏の小説のパロデイものが同人でも多い、と言ふ話題になつて、京極氏がこんな発言をしてゐる。

 同人の枠内でなら、何をしたっていいでしょ。商業出版にしてしまったらその途端に犯罪ですが。まあそのかわり、著者は同人誌を作っている人と接触したり、あまつさえ扇動したりするようなことは絶対しちやいけないと思うんですがね。著者側は見て見ぬふりが肝要。同人側は地下出版であることを忘れないのが礼儀ですよ。(P357)

嬉しい。プロの、しかも同人にもフアンの多い京極氏がかう言つてくれるのは非常に嬉しい。

敢へて極論するが、おれはプロの作家が同人活動をしてはいけないと思ふ。小説家が趣味として、同人マンガを描く、と言ふのはありだけど、雑誌で連載をしてゐるやうなマンガ家が、マンガ同人誌を作るのは、ある意味フアンに対する裏切りである。それは顔見知りにだけおまけする、と言ふのと同様の行為であり、中島 らもさんも「本当は知り合いにこそ高く売りつけなきゃならない」と言つてゐたが、つまりプロ意識の欠如であり、商業ベースで品物を買つてくれる客を差別してゐるのである。

商業誌では自分の本当に描きたいものが描けない、だから同人で描くんだ、と言ふのは単に甘えに過ぎない。「プロの作家」であるならば、企画の持込をするなりして商売をしつつ自分の描きたいものを描けるやうにしなければならないはずだ。そこまでできて、初めて「プロ」と言へるのだらうけど。それができないのならば、仕事ではなく、同人でやるしかないだらう。

Dr.モローさんのやうに、同人と商業誌とを渡り歩いてゐることを「売り」にするのは、ありだと思ふんだけどね。

前振りを読んで妖怪の話題かと思つて読んだ人、ごめんなさい。読んでの通り、コミケ批判です。まあ「オタク」も妖怪みたいなもんか……

闇市(7/28)

以前、所謂「コミケ」に就いてちよつと書いた。一言で言ふと、おれとしては「コミケ」はどーもなー、と言ふ論調である。すると、ありみかさとみさんが運営してゐる「娘娘飯店しるきぃうぇぶ」と言ふサイトで批判された。ありみかさんは

2回ほど行つたことがある にすぎないコミケや、同人ムーブメントの抱える問題点等々についてそれだけ語れるということは、もっとアクティブに恒常的にムーブメントへ関わってる人間なら、それらは既にキャリアのどこかで考え悩む経験をしてるって事でつよ。「なんかなー(ちと訂正)

と仰るのだが、おれはまず、その悩みの立脚点からして間違つてゐるのではないか、と思ふのだ。おれは同人誌即売会には繰り返しになるが2回しか行つた事が無いし、同人活動もほとんどした事が無い。予備校時代に誘はれて友人が主催してゐた文芸誌に何度か原稿を寄せた事は有る。こんな事してたからろくな大学入れなかったんだけどね。また大学時代に、趣味を同じくする友人と同人誌を立ち上げやうとしたことがある。この計画は結局ポシヤつたのだが以前にも書いた通りこの時計画されてゐたのが「DIVE」、このサイトの前身である。とまれこれらはほんとに古典的な同人で、現在のコミケ的同人活動とは違ふと思ふ。

こんな「コミケ門外漢」に過ぎないおれだが、即売会に対して以前から持つてゐた疑念を書いてみたのだが、この時おれは「まず同人誌ありきの同人活動」と書いたのだが、これは正確ではなかつた。「まずコミケありきの同人活動」と書くべきだつた。同人活動の結果として同人誌が在り、それが取り引きされるやうになつて、ぢやあ即売会を開いて気軽に売り買ひできるやうにしやう、で「コミケ」ができたのはいい。そこまではおれも分かる。

 だけど「コミケに出す為に同人誌を作る」と言ふのは、何度も言ふやうに本末転倒ではないのかなー、としかおれには思へないのだ。

 そして、同じ「マンガ」を好きだと言ふ仲間意識に因る甘え体質が、有能な人材を育てることも無く、埋もれてゐる才能もスポイルされ、「マンガ」業界に対して害毒にしかなつてないのではないのかなーと部外者としては思ふのである。

ついで。ありみかさんは「コミケが祭りである」と言うのはコミケ主催者のヨネザワさんがとつくに言つてるよ、と言ふが、何度も言ふが2回しか即売会に行つた事の無いおれが主催者と同じ見解に至つたと言ふのは、おれの見識が如何に正しかつたか示してゐるのに他ならない、あつはつは。

善人猶とて往生をとぐいはんや悪人をや(7/27)

いきなり引用。しかも大量に。

自分のウェブページに勝手にリンクを張られることを好まない人はいます。確かに個人が趣味で作るウェブページに対して本人の意思に反して批評を加えることやリンクを張ることは、もしかすると、その場にいない人の噂話をするのと同程度にエチケットに反する行為であるのかもしれません。しかし、著作物を公開する行為は責任を伴うことであって、一般の批評にさらされることもそのうちに含まれると考える方が、むしろ妥当性があります。(「ウェブページのリンクおよびその他の利用について 2.リンクに関する方針」後藤斉)

うーむ、納得した。諭された。特に「その場にいない人の噂話をするのと同程度にエチケットに反する行為」と言ふのはおれの「直リンク」に対する憤りのまさしく理由を言い表してくれてゐるのだけれど、「著作物を公開する行為は責任を伴うことであって、一般の批評にさらされることもそのうちに含まれると考える方が、むしろ妥当性があります。」はい、その通りです。人の口に戸は立てらりやしないのだし、あらゆる著作物、況やWebコンテンツをや批評する自由は誰にとて有る。「批評」にも「首肯」「賛同」から「反論」「否定」、「誹謗」「悪口」まで色々あらうけど、どれも行ふ自由は有る。

さらに引用する。

第一に、ハイパーリンクは場所の指定以外の何者でもなく、口頭で「どこそこに何がある」と伝えるのと変わりがない。そうすると、ハイパーリンクに倫理的問題があるとするなら、口頭で「どこそこに何がある」と伝えた場合とそれほど変わらないことになるだろう。

(中略)

第三に、ハイパーリンクをあるHTML文書に張りたい場合、その管理者に許可を求める必要は必ずしもない。ハイパーリンクは場所の指定にしかすぎないので、ハイパーリンクを張る場合に許可が必要なら、口頭でURLを伝える場合も許可が必要になる。これはいかにも不合理である。また、口頭でURLを伝えることも規制するということは、閲覧者を規制しようとすることであって、適当なアクセス制限を設けないでハイパーリンクを無断で行うことを禁止するのは無理がある。(「ハイパーリンクの倫理学結論」大谷卓史)

個人サイトだとよく「リンクはTOPページにお願いします」と書いてある。おれも書いてるけど、強制力も法的根拠もないわけである。前に「サイト内のページやCGなどに勝手にリンクをしているのを発見した場合はなんらかの方法で報復を行いますので、そのつもりでいてください」とトンデモない事を書いてあつたサイトを見たことがある。報復されるのは怖いので直リンクはしないけど、「なんらかの方法で報復」つて何をするんだらう。ウイルスかスパムでも送りつけるのかな。おれも結構トチ狂つて暴言吐いたりはしたけど、「報復」までは考へなかつたなあ。

www、HTML、ハイパーリンク。これらの技術は現在のインターネツトを支へてゐる3本柱と言つて良からう。wwwとHTMLに因つて誰でも気軽に全世界に向けて情報を、例へそれがどんな情報であるにせよ公開できるやうになつたのだし、またハイパーリンクは情報の在り処へと閲覧者を導いてくれる。これらを否定するのは、今のインターネツトの有り様を否定することでもある。

てな感じにしおらしいことを書いてはゐるが、ついこないだまでおれもインターネツトの有り様を否定してゐたのです。さらには感情に任せて戯言を言つゐたのでした。狼が来たことを今更信じてはもらへないかもしれませんが、「直リンク」に就いてのおれの考へは間違つてをりました。おれの感情的な言説に不快感を感じられた方々、すみませんでした。

知識と教養ある大人の図書館(7/24)

用事が有るわけでもなく図書館に行く。

南国のサルはやつぱりゐる。相も変はらず託児所付き無料貸本屋と勘違いして未調教のペツトを連れてきてゐる飼主が多い。ところでおれは最近サルの鳴き声が「ヴオミーサ!」に聞こえへてせうがない。SFの読み過ぎだなあ。ならいいんだけど。

新聞のコーナーに行く。「赤旗」を読む。7月21日号にこんな記事が載つてゐた。

扶桑社の歴史教科書を栃木県の下都賀地域で採択する事になつたが、地域内の多くの市町村の教育委員会が一斉に反対、協議会で再び話し合はれる事になった。おれの家で取つてゐる地方紙では早くも「別の教科書が採用される見込み」と報じてゐるが、先走つちやつて。とまれ、「赤旗」では当然不採択を好意的に報じてゐるのだが、今日の「赤旗」に下都賀地域の市町村の一つ、国分寺町の町長の談話が載つてゐた。国分寺町は採用に反対してゐるのだが、なんと町長は「侵略戦争を正当化した」この教科書を「許す事はできない」んださうだ。個人的にどう思ふかは勝手だけど、だからと言つて町長がこんな発言をしていいものだらうか? この町長共産党員かと思つたらなんと自民党員だと言ふ。とは言え田中真紀子や野中のような売国奴もゐるしな。しかし自民党員が「赤旗」のインタヴユー受けていいんだらうか。いや、いいんだらうけど……

しかしこれぢや「つくる会」が緊急アピールを行ふのも良く分かる。おれの住む県は全県で不採用が既に決定してゐるのだけれど、教科書業界で新規参入の会社が食ひ込むのが如何に難しいか想像は付くけど、全国で公立は1個所しか採用されず、それも潰されやうとしてゐる。何なんだらうこの事態は。小林 よしのりが今日24日付けの『週刊ポスト』で「『つくる会』教科書を採用するのが火中の栗を拾うようなことになっている」と言つてゐたけど、火中は火中でも燎原の火の中だよな最早。よつぽどのことが無い限り拾ひに行く者はをるまい。

溜め息を吐いて「赤旗」を閉じる。

この図書館ではコピーサービスもやつてゐるのだけど、今日来たらコピーがえらい大掛かりな装置になつてゐた。係員に聞いてみると本を伏せてコピーするのではなく、開いてコピーする為の装置らしい。押さへつけて本を傷める事もないし、ページをめくつて連続コピーもできる。これはいい。図書館は進化してゐるのだな。

これで南国のサルがゐなければ一番いいんだけど。「ペツトは持ち込み不可」つて書いてあるんだけどね……

世界の中心でアイヤーをさけんだけもの(7/23)

高校生の頃、友達と鄭問さんの『深く美しきアジア』を読んでいて、主人公の厄災王百兵衛が幸福王百兵衛と分離する時「ぐわ〜!!」と叫んでるのを見て、「この『ぐわ〜!!』って元の中国語(鄭問さんは中国人)だとやっぱり『アイヤー』だよな」って話たっけなぁ。んなことはどーでもいい(なら書くな)。

webと言うのはどうやらセメント法廷、タマの取り合い、ガチンコ真剣勝負、やるかやられるか2つに1つ、地球は1つ、割れれば2つ、身命を賭して臨まねばならぬ場所だったらしい。道理でおれのようなへたれの流れもんがふらふらしてると痛い目を見るわけだ。

おれはWebサイトが「面白そう」だからやり始めたのだけれど、おれみたいにへらへらとではなく、サイトをガチンコで運営しているWebマスターもいるわけで、そういった人たちから見ればおれのような運営方針は度しがたいものに映ろう、「浅草橋ヤング洋品店」(現在の「ASAYAN」の前身番組。若い視聴者には「ASAYAN」が「浅草橋ヤング洋品店」の略だって知らない人もいるんじゃないか。司会はルー大柴だったぞ)で周 富徳(そー言えば周さんがメジャーになったのってこの番組からだったな)が料理勝負で金 万福に負けて、罰ゲームとして料理人の命とも言うべき中華鍋でゲレンデを滑った時の同業者のように。

最近、おれが如何に半端者であるかこのサイトで散々露呈させてしまったわけだが、以前ともびき ちなつさんの『インターネット開運マニュアル』で、「インターネットは自己プレゼンテーションの場」だと読んだことがある。であれば、おれがWebサイトをやるのであれば、おれが如何に半端か示すことができたのは言ってしまえば「成功」しているのかもしれない。おれに「ガチンコ」は無理である。西原 理恵子さん風に言うと「わらかし」でしかないからである。でも、おれはこれでやって行くしかない。

 ぼくは、半端で、へたれで、馬鹿で、クズで、卑怯で、でも、好きになれるかもしれない! ぼくはぼくだ、ぼくでいたい、ぼくはここにいてもいいのかもしれない、ぼくはここにいたい! ぼくはここにいていいんだ!

 そして全てのWebマスターたちに、おめでとう。

自己啓発セミナーの帰りってこんな気分なんだろうな、きっと。ああオタクくさ。

時には後ずさりするエビのように(7/21)

このサイトに対する批評に、こんなのがあった。

「メールで送れ」ったって、普通の人はそういうおいしいネタを自分のページに書かずにはおれないし、「せっかく掲示板形式なのに」ったって、あんな怖そうな掲示板に書き込む無謀な人がそんなにいるとは思えないし。だいたい、旧かな使いでロリコンイラストサイト、って時点で、普通の人はかかわりを拒否するわな。(フェアプレイにはまだ早い! )

ははは。あっはっは。そーか、そーだったのか。謎は全て解けた。ジッちゃんの名に賭けて!

このサイトは「旧かなづかい」の「ロリコンイラスト」サイトだったのか。まあ、合ってるんだけど。なんで客は来てるのに、まるで直接的な反応が無いのかこれで納得。そりゃ、引くわな。そんなサイト見つけたらおれも引く。自分で作っといてからに。そんなわけで改装から1ヶ月目にして早くもテコ入れ。掲示板とコラムを分ける事にしました。

それと直リンクを張って批評する事に就いて。ふーむ。そうか、確かに批評もホームページのネタになるわな。今回の件で知ったんだけど、Web日記批評のコンテンツも結構多いのである。

この期に及んでまだ言うかと言われそうだけど、知らないところでファン増やしてるのってあんまり気持ちのいい話ではない。特に、けなされてるとあればね。実はこの件は未だにおれの中では納得いく答えが出ていない。とは言え批評するのにわざわざ「あんたの事批評するよ」と報せるのも確かに変な話だしね。

批評してもらえるのは、確実におれの書いたものを読んでくれている人がいると言う事だし、感想や反論が出てくる程度には内容があると言う事になろう。痛し痒しと言うところか。でも自分や自分の書いたものがどんなふうに思われているのかは知りたい。今回の件で無理な話だと言うのが分かったのは良かったけど。

今回の件で、どこでその名前を見たのか忘れたけど、「侍魂 」と言うサイトを見つけた。前に見た事有るはずなのにすっかり忘れていたのだがあの「先行者」で大化けした例のサイトである。突然日に万単位のアクセスが来るようになったサイトの管理人健さんの日記を読んで、

小さい。ちーさい。小さいのおお。ミリだ。マイクロだ。ピコだ。ナノだ。

おれが如何にしょーもない規模で右往左往してたかよく分かった。テコ入れもしたし、これからもこのサイトは続けて行く所存です。どうかよろしく。

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