きのふ新潟で行はれた鳥肌実中将閣下の「時局講演會」を見てきました。テーマはズバリ「靖國であいませう」。
「小泉は胡錦涛を靖國に連れてつて、一緒に參拜すればいいんですよ」などのご高説を披露されてました。もつとも靖国の話は全體の1/10くらいで、半分は學會ネタで殘りは前の衆議院選擧ネタでしたが。
ところで講演會のとき、閣下は背に日の丸が掲げてステージに立つておられたんですが、ぼくの席からはちやうど下のような構圖で見えてまして。
日の丸が巨大な赤いアフロに見えて困つた。
あとステージには立看板と吊看板があつたんですが、立看には「時局講演会」と書いてあつて、吊看は「講演會」。どつちかに統一してほしかつた。
とまれ講演會は樂しませていただきまして、翌朝ニユースを見たら小泉首相靖國參拜の一報が。參拜つつふか、「お參り」だよね、ありや。
用事があつたのでHPPSC2355を久しぶりに電源を入れたら、カラーカートリツジを認識しなくなつてて、使えなくなつてた。もつともスキヤナに用事があつたんで、スキヤナとしては使へたのでとりあへずは困らなかつたんですが。
このトラブルは全國的に起こつてたやうで、HPのサイトにフアームのアツプデータが掲載されてました。けどWindows用だけでMacのが無かつたんですが、けふMac用アツプデータが掲載されてたんで、アツプデートしてみました。
カートリツジは認識されたんですが、iMacのはうがプリンタを認識しなくなつてしまひました。
ドライバをダウンロードして再インストールして、ようやつと使えるやうになりました。
番組で全然この曲について觸れないので、とても10位以内に入らないし、公約も公約だから「無かつたこと」にしてしまふつもりかと思つてたんですが、ちやんと落とし前つけるんですね。
28日の放送が樂しみだ。
なんかさとみかん界隈ベビーブームだなあ。つて2件しか無いがな。
といふことで、「表記の改變」については真名垣さんが「譲歩」されました。當事者本人が出した結論なのでぼくとしてもなにもいふことはありません。
「cite屬性による出典の明示」についてはcite属性によるURIの記述は出典の明示となると云う主張も捨てない積もりです。それらに関する論争は何時でも受けて立ちます。
といふことですが、Akky氏が主な論點としてゐたのは「表記の改變」であつて、「cite屬性による出典の明示」については「知識不足」であつたことを認めてゐるわけで、真名垣さんの「譲歩」によつて、この論爭は終息するのではないかと思ひます。
ただ、
ブログなどのツールの発達によって情報の発信者が増大し続ける現在、著作権法上の問題は個人レベルの情報発信者の上にもいつ降りかかってくるか分からない身近な問題です。そして著作権法上の問題は、一部の人たちが誤解しているように、ネットマナーのような私的論争で解決を図ることの出来るレベルの問題ではなく、純粋な法律上の問題であるということをどうぞご理解下さい。
Akyy氏はこの論爭を、あくまで著作権法上の問題
と考へておられるやうですが、ぼくはこの考へかたに違和感を感じます。前にも主張したとほり、まず「改變」は被引用者の思想信条を損なふものであることを主張し、また著作權法にも觸れる可能性がある、そのことを理由に訂正を求め、しかし引用者が聞き入れ無かつた場合、最終的には法的手段を講じる、といふのならば話はわかります。當事者同士の話し合ひで解決が見られないのであれば法的手段も已むを得ないでせう。
しかしさうした話し合ひや手續きを全く踏まず、いきなり法律を振りかざすのでは相手を硬質化させてしまつて問題がこじれかねません。
少なくとも今回は、真名垣さんがAkky氏の要求を受け入れ、改變を訂正すればすむ問題でした。私的論争で解決を図ることの出来るレベルの問題
であつたのです。たしかに著作權の問題であり、法律が絡んでくる可能性はあります。だからといつて、いきなりプロバイダだ裁判だといひ出すのは話が飛躍してゐる。真名垣さんが當事者間での解決にまるで應じる姿勢が無かつたのであれば、爭ひをプロバイダ、法廷に持ち込み、法に決着をあふぐ事も納得できます。しかしAkky氏が實際にとつた手段は、いきなり法律を持ち出し、「これは當事者間だけの問題ではなく、自分と同樣webで發言を行つてゐる全員の問題なのだ」と爭ひを擴大しようとしました。しかしぼくにはAkky氏が、話を大袈裟にしようとしてゐるやうにしか思へませんでした。たとへば土地の境界線の問題でも、まず地主同士が話し合ひ、それでも決着がつかなければ裁判、といふ手順を踏むでせう。その場合でも「これは全ての土地所有者の問題だ」と主張する地主はゐません。たとひ今回のやうな問題が情報発信者
に降りかかって
きたとしても、それは結局本人同士で解決すべき問題です。いくら「判例」があつたとしても、さうした「事件」があつたことを知らなければ意味がありませんし、そもそも知つてようが知つてゐまいが、それに誰もが從ふとは限りません。。なぜAkyy氏が、當事者間での解決をはからず、司法判斷にまで思考を飛躍させてしまつたのかはぼくにはわかりませんが、Akky氏と真名垣さんは同じweb上で意見を發表してゐる對等の立場であるはずです。相手が以前から引用時の改竄の常習犯であり、被引用者が訂正を求めても全く聞き入れる樣子も無く、また同樣の改竄があちこちで横行してゐて、Akky氏もしばしばその被害にあつてゐるといふのであれば法律の、web全體の問題であることを主張してもよいでせう。ですが事實はさうではなく、法律を持ち出す必要は無かつたはずです。であればなほさら、まず話し合ひで解決をはかるべきではなかつたのではないでせうか。
あと真名垣さん、14日の記事の著作権法によると、出典の明示については「出所を明示する事」としか定義されていません。
以降のソースの記述がおかしいやうです。當方のブラウザではxmlエラーとなつてしまひます。
あとこちらも記事を少々修正。
私は口出し、割り込み、両成敗その他何でもOKです
とのことなので、横槍させていただきます。
Akky氏は14日の記事で著作権法上の同一性保持権についてざっと調べた結果
を引用しておられるのだけれど、そのなかで擧げられてゐる法政大学懸賞論文事件について、判決文を當つてみると。
当審が前記三2により認定した著作者人格権に対する侵害行為の内容は送り仮名の付し方の変更、読点の切除、中黒の読点への変更及び改行の省略であるところ、著作物における送り仮名の付し方、読点の種類・位置、改行の要否等については、これを規制する法令の定めはなく、また、常に厳格な文法上の約束事があるとは限らず、広く著作者の個性に委ねられ、他人がみだりに容喙することが相当でない分野であるといわなければならない。しかしながら、これらの改変の結果により、当該部分の実質的な意味内容が変更したと認めることはできない上、被控訴人の改変行為においては一般的に広く採用されているところの表記法を採用したものであることからすると、右改変行為により本件論文の客観的価値が毀損されたものとは認め難い。また、侵害行為の態様においても被控訴人において控訴人が前記のような表記方法を厳守していることを知りながら、殊更にこれを無視して前記改変を行ったものと認めるに足りる証拠はなく、かえって、かかる事情を知らないまま読者により分かり易い表現にするとの観点から一般的に広く採用されているところの表記法を採用したものであることは既に認定したとおりである。加えて、被控訴人の前記改変により控訴人の社会的評価が著しい影響を受けたものと認めるに足りる証拠は全くない。
送り仮名の付し方の変更、読点の切除、中黒の読点への変更及び改行の省略
は広く著作者の個性に委ねられ、他人がみだりに容喙することが相当でない分野であるといわなければならない。
が、当該部分の実質的な意味内容が変更したと認めることはできない上、
右改変行為により本件論文の客観的価値が毀損されたものとは認め難い。
つまり「已むを得ない改變」とはいへないものの、「違法である」ともいへない、といふことになります。
かなから漢字への書き換へは、この判例における送り仮名の付し方の変更
に近いものと思はれます。よつてAkky氏がたとひプロバイダや法廷に訴へ出るとしても、このような判例がある以上勝てる可能性は非常に低いのではないのでせうか。
さてこの論爭では、「blockquote(q)要素のcite屬性は『引用元の明示』といへるのか」といふ意見も外部から寄せられてゐます。これについてはHTML4.01の仕樣書の日本語訳を見てみると。
- cite = uri [CT]
- この属性の値は、元文書あるいは元記事を指し示すURIである。 この属性は、当該の引用がどこから引かれたものであるかについての情報を提供することを目的としている。
cite屬性はISBNなどのurnをも含んだuriを記述することができます。すなはちweb上のurlのみならず、書籍上の引用元も指し示すことができるわけです。「讀者への利便性」を考へるなら、本なら書名やページなど、サイトならばタイトルをtitle要素で適宜示す必要はあるでせう。
ですが、真名垣さんは以下のやうに述べてゐます。
そもそもHTMLはコンピュータの為の言語です。だからこそ、cite属性のように、結び付きが断定出来るような仕様が必要なのであります。人間はa要素とblockquote要素の結び付きを簡単に理解出来るでしょう。が、それがHTMLである以上、人間の目を理由としてcite属性のよる明示を否定するのは、根拠に乏しいと言わざるを得ません。blockquote要素は「ブロックレベル要素での引用」を示すものであり、cite属性は「引用元の明示」を行うものです。そこにUAのレンダリングと云う「見栄え」が介在する余地はありません。
takopons氏はblockquote要素内にa要素を記述する事で、当サイトの文章であると云う事を明示しました。しかし、blockquote要素内に存在しているのであれば、それはリンクの引用に過ぎません。それは出典の明示にはなりません。そしてtakopons氏はただ
<blockquote>
と書いているだけで、cite属性は書いていません。これでは、HTML文書においては引用元を明示していない引用だと云う事になります。「だから有罪」と判決を下すような裁判官は流石にいないと思いますし、私はその点について「出典を明示していないではないか」と文句を付ける気はありませんが。
著作権法によると、出典の明示については
出所を明示する事としか定義されていません。「どのサイトの何と云うタイトルの文章なのか」が明示されていない事は問題ではありません。
webページといふものは、HTMLによつて構成されてゐます。であれば、引用を示す要素であるblockquote、もしくはq要素を用ゐ、引用元をcite屬性に記述してゐるのであれば、HTMLの最低限の約束は守つてゐるといへます。その後title要素で補足する情報を適宜付け加へることは引用者の自由、權利ではありますが、HTMLを使用する上での義務であるとはいへません。
逆にAkky氏は、文章を引用するに當たり、段落を表すp要素や、強調を表すem要素を外してしまひ、イタリツクで引用であることを示さうとしてゐますが、これはHTMLの仕樣に反するばかりではなく、段落の分割を無視してしまふといふ「改變」に他なりません。br要素は單に「改行」を行ふ要素に過ぎず、改行やイタリツクによる強調で「引用」を表すことは、人間が見れば段落の變更や引用であるといふ「判斷」はつきますが、マークアツプ言語であるHTMLとして見た場合、不適切であります。かなを漢字になほすことが改變、いや「改竄」であるならば、Akky氏の引用も改竄であるとしかいへません。
實はぼくは、文章を引用する場合ソースからコピペして引用するやうにしてゐます。マークアツプが適切でない場合は手を加へますが、原文は尊重したいから、テキストそのものには手を加へません。ご覽のとほりぼくは正かな遣ひで文章を記述してゐるのですが、原文が現代かな遣いでもそのまま引用してゐます。誤字が氣になる場合はruby要素で「(原文ママ)」と挿入しtitle屬性に「筆者注」と入れます。cite屬性でurlは當然示しますが、title屬性にタイトルを入れたりして、:after疑似要素でタイトルが表示されるやうにしてゐます。これは單にぼくのやり方にすぎないので、他の人にもかうすべきだといふつもりはありません。まあ今回の真名垣さんのやうな「トラブル」は避けられるでせうね。とはいへ真名垣さんのいふとほりIEでは:after疑似要素は無意味なわけですが。ruby要素による注釈も「改變」に當つてしまふだらうし。
話はそれましたが、cite屬性によりHTMLにおける「引用元の明示」は果たされてゐる、といふことです。webにおいては、HTMLによつて文書を公開するのですから、HTMLの仕樣に從ふのが當然です。どれだけ「讀者への利便性」、ユーザビリテイを考慮したところで、「面倒くさがり」の讀者はゐるのですから、「ソースを開く」のも「直近にアンカーをおく」のも五十歩百歩でしかありません。
しかしAkky氏のイタリツクによる引用、span要素でスタイルシートを適用するといふもつともHTML上まづいやり方です。イツソi要素でイタリツクにしたはうがよかつたのに。
閑話休題。
この論爭においてAkyy氏は終始著作權法をたてにしてゐるのですが、こんなことも主張してゐます。
そもそも、当方の記事が「表記に一貫性を持たせ」ていないかのようなこの記述は甚だ心外である。当方の漢字・かな表記は、当方の文化的思想・信条等に基づき、その反映として選択している表記方法であり、その表記を引用者が勝手に改変することは当方の著作権を侵害するものと解する。
であれば、まづ当方の漢字・かな表記は、当方の文化的思想・信条等に基づき、その反映として選択している表記方法
であることを明示し、書き換へはそれを損なふものであるから原文のとほり引用してほしい、と主張すればよかつたのではないでせうか。それを理由も示さず「著作權法違反だ、改めろ」と法律を振りかざして命令されたのであれば、そりやあ真名垣さんだつて意地にならざるを得ないでせう。
そしてAkky氏はこんなこともいつてゐます。
費用対効果を考えれば、趣味レベルのブログ記事についてこれほど強硬に著作権を主張するのは馬鹿げていると思われるかもしれません。しかし、誠に勝手な思い込みながら、当方は本件を、現在インターネットの世界で横行する著作権法上の不法行為を排除するためのひとつのケーススタディにしようと考えています。一著作権者として、このような不法行為が平然と見逃されていくのを許すことができないのです。
これを讀んで思ひだしたのが、「脱ゴーマニズム宣言裁判」のときのよしりん。よしりんは脱ゴーマニズム宣言でゴー宣のコマが引用され、著作權侵害として訴え出たとき、「ゴー宣」に「これはわしだけの戰ひではない。著作權侵害からマンガ界全體を守るための戰ひなのだ!」と高らかに宣言しておいて、實質敗訴が確定すると「出版差し止めで十分だ」とトーンダウンしてしまつた。もし裁判となつて、負けてしまつたとしてもAkky氏はよしりんのやうに尻つぼみに終はつてしまはないでいただきたいものです。
ところがことここに至つて、野嵜さんがしかし真名垣氏には「しれつと修正して、一言謝る」と云ふ手がある。別に拘る必要もないところには拘らなくても良いと思ふ。たかが「いわゆる」だし。
真名垣氏は、しかし、だからと言つて、論爭に全體として負けた事にはならない。寧ろ、瑣末な問題が解消されて、本來の議論のテーマに話を戻せるから、茲で讓るのは戰術的に「あり」だ。
と「譲歩」をすすめ、真名垣さんも私が負けたとしても、私は引用した文章を原文通りにして、後は「礼儀」として「謝る」だけで、Akky氏の「要求」には十分答えた事になる。
と「訂正」に應じる姿勢を見せてきてゐる。ここで真名垣さんが折れてしまつたら、Akky氏も振り上げた拳のやり場に困つてしまふだらうなあ。
主人公2人が特攻に向かふ理由が全く見えてこないし、各キヤラクターの造形も全然淺い。いろいろはしよつてしまつて「あらすじ」になつてしまつた、といふ感じ。3時間くらゐにしてじつくり描くべきだつた。原作でもこんなもんなのか、もつとちやんと描いてあるのか。
かういふ特攻、ひいては大東亞戰爭を否定するのではない作品はもつと作られていいのではないのかと思ふので、それだけにちやんと作つてほしかつたなあ。
けふ舞臺版の公演が新潟であつたのね。
といへば、さとみかん界隈ならば犬神さんの「さんだば子」なんでせうが。
モタさんのサイトmotor homeに「Thunderbirdさん」が(logの0907)。ポツプなキヤラのさんだば子とはまた違つたアプローチですな。キユートでスタイリツシユでいいです。ぼくはこつちのはうが好みかな。
なつをおわらせられます
學生でなくなつて、數少ない「よかつた」ことの1つは「夏休みが終はるつらさ」を味ははないですむことだ。
夏休みの樂しさも味はへないんだけどね……
といふ指摘。bk1の本紹介でみつけたブログ「Rivers and Bridges」の記事。
『よつばと!』が面白いのは従って、必ずしも日常を描いているからではない。(中略)日常生活において異質な他者と心が通じた瞬間を描いたが故の温かさではなく、異質な他者とのすれ違いが残酷に露呈してしまった瞬間の、驚き、うなだれ、そして笑うしかないような感覚こそが『よつばと!』の持ち味なのだと思う。そしてその残酷なディスコミュニケーション的状況を、よつばはよつばなりに楽しんでいる。会話は噛み合わず、自分の語っていることは伝わらない。だが、よつばは意志が疎通するか否かに価値を置いているわけではない。意志が疎通しなくともそこに異質な他者が存在し、そしてその他者とのすれ違いが豊かなカオスをもたらすこと、それ自体をよつばは(もしくはよつばに共感する読者は)楽しむのだと思う。私たちは分かり合えない。でも、分かり合えないってことは、結構楽しくない? 『よつばと!』を読んでいると、そんな鷹揚な気分になる。分かり合えないけど、そこに他者がいるってことは確かで、それって面白くない? と。そのカオスを、分かり合えなさを痛みと共に受け容れるのではなく、あくまで楽しんでしまう感性を備えている。だからよつばは無敵なのだ。
おもしろい指摘だと思ひました。
無料でライセンスキーを配布中。一應メルアドは入力する必要あるんですが、でたらめで一向構はないといふ話。
普段はOpera使つてないのだけれど、この際だからキー入れておきました。
この國は起業家もプロレスラーもスポーツ選手も童話作家もNGOのリーダーも神様までも、みーんな政治主義者だ。
そんなに前でもないんだな猫の恩返し。2年前劇場で觀たときは「ジブリが猫耳アニメ作つたら反則だろ」なんて思つたものですが。
尺が短いもんだからいろいろと特典映像も流してるんだけど。
「On Your Mark」も出してくれましたか! ジブリは「千と千尋」「ハウル」みたいな大作路線だけでなく、かういふ實驗作も出してくるから侮れない。これで「ギブリーズ」も流してくれたらもはや何もいふことは無いんだが……
本編後にもなにか特典があるらしいから、期待してようかな。
さすがに「ギブリーズ」は無かつたか。
お、「ポータブル空港」の3作目? 見たいな。けど「タッチ」と併映かあ。本編見ないでこれだけ見ようかしら。
おもいッきりテレビ見てました。生電話のコーナーの前に選擧前といふこともあり年金の話題に。
みのさんが先日60歳になつたので年金の支給の申請に行つたところ、申請だつたか保険料の納入だつたかに不備があり、支給は停止されて65歳からになると言はれた、といふことで大變憤慨しておられたのだけれども。
みのさん人一倍稼いでるだらうに、やつぱり年金は欲しいのか。つふかみのさんに「年金」なんていらんだらうに。
けふAmazonから届いたあふがにすタンを讀みながらさう思ひました。あと「よつばと!」のCDも一緒に買いました。こつちはこれから聞きます。
けふも仕事でした。盆働き。
葬式を見かけました。盆佛。
旅行に出かける皆さんへ。盆ボヤージ。
佐藤ですお晩なりえんした。
前回「鋼鉄の少女たち」制作中止のごたごたについて觸れたんですが、けふ、作畫を擔當されてたマンガ家野上武志氏のサイトを見つけました。
當然ながら、制作中止にあたつての野上氏の言ひ分も掲載されてゐるのですが。……まあいろいろあつたやうで。何しろ訴訟沙汰になるくらゐ話はこじれてしまつてるやうです。
2chのスレで失敗したよつばスタジオ
なんてレスもありましたが、さいとう・プロみたいにビツグネームのもとで完全に分業制にするか、CLAMPやどおくまんみたいに仲間でやるか。プロダクシヨンでマンガ作るとなつたら上下關係をはつきりさせとくか同列でやるといふ形にしておくのがいいのかもしれません。
「マンガ制作から出版販賣まで自社で行ふプロダクシヨン」てなことを前回書いたんですが、同人誌だと個人ではあるけどさういふことをやつてるところは多いよね。まあ同人だからできることであつて、それこそさいとうたかを先生のやうに自分の出版社まで作つて、商業ベースに乘れるやう經營していくつてのは難しいだらう。(正確にいへばリイド社はさいとう先生の兄が經營されてるんだが、さいとう先生は役員に名は連ねてゐる)
日本のマクファーレンは出てこないか。
これからの劇画は個人の創作ではないとの考えから、はっきりした分業制度を導入。
さいとう先生は先見の明のある方だつたのだなあ。よくさいとう・プロは「さいとうたかをは目だけしかペン入れしない」なんて揶揄されるけど、逆にいへばそれだけプロダクシヨンとしての制作体制が揺らぎ無く確立し機能してゐるといふことだと竹熊健太郎だつたかがいつてたつけ。
ところで野上氏、萌えよ!戦車学校なんてのも描いてます。これも本屋で見かけたときはこめかみ押さえたくなつたなあ。
えちごやさんのSiR8月10日の記事より。
鋼鉄の少女たち、讀んだことはないんですが思ひ出がありまして。
高校からの友人でSといふ男がゐるのですが、Sと會ふときはいつも「インパクトじやんけん」をします。といつても、やらうと決めたわけではなく、ぼくのはうで勝手に「インパクトじやんけん」といつてるだけですが。
どんな遊びかといひますと、お互ひに、インパクトのある本を持つてきて見せあひつこし、どつちがシヨツクを受けたかで勝負するわけです。
前々回はSは森の生活を持つてきたのですが、こちらが持つてきたのがトニーたけざきのガンダム漫画。みごとにSを撃沈せしめました。
さて前回は、わたしは圖書館で見つけたゲバラのモーターサイクル南米旅行日記を持つていつたのですが、軍オタのSはとうに讀んでゐてダメージを與へられず、逆にSが持つてきた『鋼鉄の少女たち』でひつくりかへりさうになりました。
何しろ「エルフ耳少女の戰車隊」といふ頭抱えさうな内容で、繪もちよつと前にはやつた萌え繪といふ恥づかしくなるやうな代物だつたわけですから。
Sはこんなの讀みさうもない男なので、なんでこんなの持つてんだと聞いたら、Sが通つてた大學に遊びにいつたら、實驗室に暇潰し用においてあるマンガのなかにあつたさうで、それ以來はまつてゐるのださうです。で、Sはいかにいいマンガかぼくに口説くのですが。
「こんな繪はきみの好みだらう?」
「もう卒業したよ。そんな5年前にはやつた繪柄ぢや餘計見る氣がうせる」
「繪はともかく戰車戰の描寫は小林 源文や上田 信に負けてないよ」
「だつたら小林や上田を讀むよ」
「小林や上田は最近新しいの描いてないんだよ」
てなやりとりを延々繰り返し、結局讀まなかつたんですが、あまりのインパクトにぼくは敗退を喫したのでありました。
その後このマンガがプロダクシヨン制作であることを知り、内容はさておき日本では珍しい制作形態に關心を憶へたんですが、こんなことになつてしまつたとは。
これがマーベルとかマクファーレンとかのアメコミのやうに制作だけでなく出版も自社で行ふといふ形態(マクファーレンなんかはフイギユアまで自社で賣つてますし)であればここまでごたごたしなかつたのかもしれませんが、出版は出版社まかせにしてしまつたがためこじれてしまつたのでせう。會社のニユースだと、制作や掲載雜誌との契約上でのトラブルで非常に話がこじれてしまひ、制作中止に至るまでの經緯がここまでぶつちやけていいのかつてくらゐ詳細に書かれてゐて、文中作畫擔當の人がトラブルの原因だとして槍玉に擧げられてますが、この作畫の人も言ひ分はあることだらうなあ。
十數年前、X-MENが日本で紹介されたころ、アメコミのやうにマンガ制作から出版販賣まで自社で行ふプロダクシヨンの登場を期待してまして、いづれ日本のマンガもプロダクシヨン製が出てくるのではないか、とぼくは思つたんですが、その豫想は外れたやうですね。
あさういへば、あのときSは5巻が出てないかどうか本屋を探しまはつてたつけ。當分出さうにないことを今度會ふとき敎へてやらんと。
あふがにすタンが書籍になつてますね。webではモノクロだつた4コママンガもオールカラーになつてるらしい。買はうかな……
otsuneさんの二酸化モヒカン倶楽部より。ダヴィンチでさとう珠緒が「電車男」評で「オタクキモい」「更生しろ」と發言してゐるといふ話題。
20代の頃は、エルメスさんじゃないけれど、「オタクもいいかな?」って思った時期もあったんです。オタクというか、繊細すぎてネガティブな人。暗すぎて、あまり上手に笑えないような……。「ああ、この人に笑ってもらいたい!」って思っちゃったりして。それで少しがんばって献身的になるんですけど、まあ、すぐ飽きちゃうんですね。最後は「バカじゃないの!?」と気付いてしまって恋が終わる(苦笑)。たぶん、あの頃は「オタクも愛せる私って素敵」なんて思っていたんでしょうね。間違ってました、私。今ならはっきり言えます。キモいものはキモいんです! 「萌え〜」ですって!? もう一回、言わせてください。キモい!
だから、『電車男』がヒットすることはとても有意義なこと。秋葉系の人が『電車男』を読んで、「俺も変わったほうがいいのかな」と気付いてくれると嬉しい。男の子は「俺、モテたい!」というやんちゃさがあったほうが絶対にイイもん。早く妄想から抜け出して、現実の世界で生きるべきです!
最近電波男讀んだんですけど、その中で「「負け犬」女がオタクと付き合はうつてのは、キモかはいいペツトとして見てゐるか、「更生」させて「まとも」にすればいいと思つてゐるだけだ」なんてことが書いてあつたけど、はからずもさとう珠緒がそれを裏付けてくれたわけだ。30代以上・未婚・子ナシ
といふ「負け犬」の定義からいへば、さとうももう「負け犬」だよな。
最近はかうした中學生の職場體驗がおおはやりで、ぼくの職場でも來てくれる子がゐるんですが、その子たちを見ててつくづく思ふのが、中學生は「こども」です。「性慾」なんか抱いちやいけません。
それはともかく、當日はこの店繁盛するだらうなあ。どんな格好をするのだらうか。ちやんとお店の服を着るのか、はたまた學校の制服の上にエプロンドレスか。どつちもアリだな。
しかしその子も、よりにもよつて職場體驗先にメイドカフエを選ばんでも。先生や親は「メイドカフエ」つてどんなところか知つてるんだらうか。先生もお客として來る豫定ださうだけど、入つた瞬間生徒を引つぱつて店を出たりして。
最近「無断リンク禁止」論爭がやたらと再燃してゐる。なんでだ? と思つてゐたんだけど、ブログブームのせいだらうな。「再燃」といふより、「個人ホームページ」時代の論爭を知らない人たちが「無断リンク」をあげつらつてゐるやうに思はれる。特にブログはトラツクバツクがあるから、なほさら「無断リンク」もすぐに分かつてしまふ。「管理者の意にそはぬリンク」に過敏にに反應してしまふのだらう。
ブログがいかにはやつてゐるかぼくが實感したのは、何しろこないだ職場で「ブログ研修」なんてあつたんだもの。しかしブログつてのは個人、せいぜいがネツト商店でだらうに、事業所のコンテンツとしてブログは不適當だと思ふんだが。
とまれ。「無断リンク禁止」と並んで「ホームページ」初心者がはまるのが「右クリック禁止」だらう。「画像を勝手に保存するな」「ソースをこそこそ覗き見るな」といふわけだ。
「スラッシュドット」のタレ込みで、右クリックとHTMLソース閲覧の禁止を提供するソフトが登場とのことなんだけど、レスにもあるとほり、ちよつとした手間で破れてしまふ程度の「無効化」でしかない。ソースの暗号化も簡單に解除してしまへるし、Broken Diaryの記事にもあるとほりFire Foxだと畫像の保存もデフオルトでできてしまふ。まあ5000円程度のソフトぢやそんなものか。
とはいへ、初心者にとつては「夢がかなふ」ツールなんだらうなあ。剣呑剣呑。
魔界倶楽部の総裁であつた星野勘太郎は聲こそすごいしやがれててドスが利いてゐるのだが
びっしびしいくからなア
覺悟しとれよオ
口調は語尾が上がつてて妙にかはいい。
マツクのペツパーチーズダブルバーガーのCM。
棚橋と中邑が出てて、やられてるのはストロングマシーンで、辻さんと小鉄さんが實況してるのはわかるんだが。
後藤も出てるのをTVで何度見ても見逃してしまふとです。いまマツクのCMライブラリで確認したんですが、マシーンがやられてコーナーから飛び出してくるのは分かるけど、ほんとに後藤かどうかいまいち。後藤昔から影薄いからなあ。
つていふパロデイを當時の「ひょうきん族」でやつてました。
スペースバンパイアは20年前に公開されて以來ずつと見たかつたんですがわざわざヴイデオ借りるほどぢやなし何度かTVでも放映されたけど見る機會を逃してたんですけど、けふやうやく見ました。
……アホでエロくていいですな。まだ「ネクストジェネレーション」に出るまへのピカード船長がえらいことになつてます。テーマ曲つてあの曲だつたのか。
ぼくは曙やサツプに技なんぞ求めやしない。ひたすらボカボカ殴つてればそれでいいのだ。體格に恵まれてるんだから單なる腕力で相手は倒れてくれる。小賢しく間合いをとつたり懷に飛び込まうとしたりしなくていい。できもしないんだから。そこいくと洪萬はガードなんぞお構ひなしにただただパンチをぶんまはしてくれるからなあ。何も考へずパワーバカ全開で見てて気持ちがいい。デヴユーしたときの氣味惡いダンスがちよつといやだつたんだが、今後洪萬應援しやうかな。
ぱっぴっぷっぺっぽぉっ
ASSさんの妄執日記の記事 久し振りにネットマナーについて。やつぱりかういふことをいふ人つてあとを絶たないのか。
ところで。
この記事から參孝としてリンクされてゐる「無為徒食日記」の6月分を讀んでいつて見つけた26日の「言葉を疑へより」。
嘗て「は-ひ-ふ-へ-ほ」を日本人は「pa-pi-pu-pe-po」と發音してゐましたと云う事は、時代劇とかで殿様がよくやる「よいではないか、よいではないか」は「よいでぱないか、よいでぱないか」だったという事ですね。何と言うか間抜け。…いや、昔の殿様が本当にそんな事を言っていたかどうかは謎ですけど。
「よいではないか」は「ヨイデワナイカ」でいいんではないでせうか。
たしかに古代日本語では「は-ひ-ふ-へ-ほ」は「パ-ピ-プ-ペ-ポ」と發音してましたが、奈良時代ころに「フア-フイ-フ-フエ-フオ」になり、江戸時代に「ハ-ヒ-フ-ヘ-ホ」になりました。
濁音である「バ-ビ-ブ-ベ-ボ」の清音は「パ-ピ-プ-ペ-ポ」です。といふより、「パ-ピ-プ-ペ-ポ」の濁音が「バ-ビ-ブ-ベ-ボ」であるといつたはうが正確かもしれません。實際に唇の動きを見てみれば分かると思ひます。その後「ハ-ヒ-フ-ヘ-ホ」と「パ-ピ-プ-ペ-ポ」に別れ、清音と半濁音として區別されるやうになりました。
ちなみに現在の「ふ」の發音は口が大きく開く「ハ」行の「フ」ではなく、唇を突き出して發音する「フ」になつてゐます。
以上のことはぼくが大學のときにならつたんですが、もう何年も前のことなので多少間違つてるかもしれません。
福田恆存は、「日本」は「Nippon」と「Nihon」のどちらに讀んでも構はない、「そのどちらかに統一しなければならない」と考へるのが間違つてゐる、と主張しました。どうしても、と言ふのなら、ローマ字表記は「Niphon」とでもすれば、どちらにも讀めるから便利であらう、と述べてゐます。
Niphon
だと「ニフオン」と讀まれさうですが、戰國時代に來日した宣教師がまとめた日葡辞典だと「Nifon」とされてゐるのでいいのかもしれない。Google檢索してみると學名では「Niphon」と表記されることが多いやうです。ラテン語だと「Niphon」になるのかな。外國でも「Niphon」と表記してゐることも多いやうです。
メインは東京ドーム大會の三澤對川田。
しかしほんとに團體間の垣根つて無くなつてるな。最大の溝はNOAHと全日本の、といふより三澤と元子社長の間の溝だつたんだが、それも埋まつてきた感があるし。
みのもけんじの「プロレススターウォーズ」みたいな「全團體合同興行」が行はれる日も近い。
……てなことを考えてたら橋本追悼の關係團體の合同興行の可能性もでてきた。
piroさんのここ最近の日記を讀んでると「初めてのおつきあい」に相當惱んでおられるやうだ。まあ當然ではあるけれども。
悩んどるな悩んどるな人としてヤングとして童貞として〜〜〜
いいんぢやないの「ぼく初めてなんですいろいろ敎へて下さい」で。手玉に取られるなら取られればいいし、童貞であることを向かうが分かつてくれててそれ相應に對應してくれればそれでよいではないですか。「向かうは經驗豊富で、童貞のぼくなんかいいやうに弄ばれてしまふかもしれない」なんて心配してゐるやうですが同い年なんでしょ? こつちが不安なら向かうも不安なものなのですよ。
いのち短し戀せよ漢女。
piroさんも記事で言及しておられるやうに、格ゲーにたとへるならオタクが「待ち」にまはつてしまふつてのは、童貞が女子に不自然なくらい紳士的に気高く接っするいわゆる「童貞騎士(ナイツ)」的
といふ指摘に關係あるやうな氣がする。女性に對してはスマートに振る舞はなければならない、といふ觀念がオタクにはあるやうだ。岡田斗司夫氏ぢやないけれど「何かをやるならばその「通」でなければならない」といふ魂がさう思はせるのだらうか。しかし戀愛とは1對1の人間の肉體と精神のぶつかり合ひだ。前述したやうに不安と惱みを抱へたまま相手に向き合へばよい。まへにぼくは「戀愛とは一世一代の大芝居」と書いたけど、かつこつけることと「演戯」することとは違ふ。「おおロミオ!」「おおジユリエツト!」とその役割を演じればよいのである。
後で嫌われようが捨てられようが「マンコ1発ごっつあんです」
男(女もだけど)つてのは、ほんとに戀愛を「ゲーム」と勘違ひしてるのだらうな。大の飛び道具で體力を削り、たまらず相手が飛び出すとハメからコンボでKO。かうした「格鬪ゲーム戀愛」もまたオタクに勘違ひを與へてゐる一因かもしれない。
相手はプログラムではなく人間なのですよ。必要以上に身構へる必要は無いが、モノ扱ひしてもいけない。
てなこと書いてていざさういふ立場になつたらpiroさん以上に右往左往するんだらうなおれ。
さういふことなら心配は無用ですね。がんばつてください。何をだ。
さすがことえり「しながわしょうじ」も一發變換した。「しながはしやうじ」ではさすがに無理だが。つふか變換するやうに辞書を登録しとけよおれ。
庄司が筋肉ムキムキなのはネタになるほど有名だつたけど、サラ金のCM見ると品川も結構體格はいい。
で筋肉自慢の庄司だけど、以前TBSの番組で1週間腕立てをし續ける企劃に出たことがあつて、終了後胸圍がアツプした、なんていつてたけどこれつて單にオーバーワークで胸筋が腫れてるだけだと思ふ。1週間で筋肉は増量しないよねえ。
水着祭り。なんであきらが留守番なんだ。
響鬼さんもやつと仮面「ライダー」になりました。
番組のサイトを見たら明日夢役の栩原楽人くんのインタヴユーが掲載されてた。番組開始當初はほんとに子どもつぽい顏だつたけど、シヤープな顏立ちになつてきたなあ。一晩寝れば1cm背が伸びる年頃
とはよくいつたものです。
ところで
これは僕の理想ですけど。響鬼がやられたとき、くそっと落ちていた音叉を手にして明日夢が変身って。
これつて、明日夢は「安達」ヶ原の「鬼」婆の子孫で、鍛えてなくても生まれながらに鬼に變身することができて、つて伏線ぢやないだらうね。
「月9」とかのいはゆる「戀愛ドラマ」にぼくはリアリテイを感じない。「電車男」や「耳をすませば」よりもだ。會つて1週間も經たないやうな男女が、怒鳴りあつたり、傷つけるやうなことを言つたりしてゐるやうなドラマを見ると特にだ。人と人つて、特に知り合つて間も無いのならば、なほさら反應を探りながら、言葉を交はすものぢやないのかい。
出典は不明だけど、美輪明宏がこんなことをいつてゐるさうだ。
最近の若い人は、「ありのままの私を受け入れてくれる恋人や親友がほしい」と言うでしょう?私に言わせれば、それは畑から引き抜いたままの泥だらけの大根を食ってくれ、というのと同じです。食べられたものじゃありません。
恋人なら、親友なら食べてくれるはずだというのは自分の怠惰の言い訳です。自分を受け入れてほしいと思うなら大根は洗って、皮をむいて、料理をしてきれいな器にもって・・・召し上がれというのはそれからです。
自分が気品をもって人と接していれば、それにふさわしい人が親友や恋人になってくれます。
福田恆存によれば、「人間は『演戯』(「演技」ではない)するもの」であつた。しかし近代化によつて「演戯」することを忘れ、現代の人間は「ありのままの自分」で舞臺に立ち盡くしてゐるといふ。
泥だらけの大根で毆り合ふドラマが量産されるのもむべなるかな。とつたとられたといがみ合ひ、相手の心をほじくり返し、愛を育てることもせず一時の狂熱が冷めたらおしまひ。「ドラマのやうな戀」が大はやりではないか。
現實の戀愛において、「本當の心情をぶつけ合ふ」過程はありうるだらう。しかし「気持ちをぶつけること」と、罵ること傷附けることは違ふ。
恋はいつでも 初舞台
なんて歌もあるけど、戀愛とは一世一代の大芝居でなければならない。安つぽい「ドラマのやうな戀」など、してはならない。
なんでナレーターが森本レオなのかと思つたら、「きかんしやトーマス」特集だつた。
これで解答者に戸田恵子がゐたら完璧だつたのに。
「「電車男」がどうかう」いつとゐてこれかい。
これからはpiroさんのことを「萌え繪男」と呼ばう。OK「エロ繪男」だな。
けふの「Latest topics」の記事からリンクをたどつていつて見つけた記事。
妹萌えや姉萌えといった親族萌えは、他人よりは身内(親族)のほうがふりむいてくれるかもという幻想にマッチングしている。同様の路線としては幼なじみがあるが、共通しているのは、最初から相手と縁があり、仲良くなる過程が省略されていることだ。男オタク向けで需要がある恋愛のフィクションというのは、この「知り合って仲良くなる過程がいかに省略できるか?」(結果的に許嫁とか最初から好かれているとかそういうのになる)という点にあるのかもしれない。
※この「過程」というのは縁のまったくなかった人相手に対して、その縁をどうやって育てていくか?という部分がない作品が多いということ。
以前から「なぜオタクは幼なじみとの、從姉妹との、叔母との、姪との、姉との、妹との、そして母親との、なんとなれば娘との、戀愛を夢見るのか」といふ疑問をぼくは思つてゐたのだけど、kanoseさんのこの記事になにか答へを見つけたやうな氣がする。
と、ここまで書いてふと思つた。これつてpiroさんの壮大な「ネタ」なんぢやないかと。「こんなうまい話あるわけないぢやん「電車男」ぢやあるまいし」つていふオチの。
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