ホームページ入門講座<chapter1>とんだハイパーリンク

<section1>恥づかしい話

最初に、わたし自身の話をする事をお許しいただきたい。しかも、かなり恥づかしい話である。しかし「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、わたしの間違ひを見て、もしもこの文章を讀んでゐる方が、自分も同じ間違ひを犯してゐると氣付いたら、是非とも他山の石としていただきたい。

わたしはかうして個人サイトを運營管理して、繪や文章を發表してゐるわけである。それらに對して、反應、批判や贊同があるのは當然だし、言つてしまへばそれらが慾しくてサイトを立ち上げたのである。

さてあるとき、アクセス解析を見てゐたら、檢索エンジンや相互リンクしてゐただゐてゐるサイトからではないリンクがあつた。なんだらうと思つてURLを開いてみると、野嵜 健秀さんの「闇黒日記」で、わたしのコラムについて批判があつたのだ。

當時わたしはほかのサイトとの差別化を圖るため、正假名遣ひでコラムを書いてゐた。と言つても、正字正假名サイトは野嵜さんのサイトをはじめwebには既に多数存在していて、大して「賣り」にもならなかつたのだけど。まあ旧仮名遣いロリコンイラストサイトと言ふ評価は頂いたが。其の上かなり適當な、「だうもすひません」と言ふやうないい加減な假名遣ひであつた。その邊を野嵜さんは指摘されてゐたのだ。實際、間違ひだらけだらうといふことは自覺してゐて、「もし間違つてたら教へてください」とか書いてゐたのだが、教へてゐただゐたにもかかはらず、當時のわたしはものすごく頭に來たのである。

「文句があるなら直接言へよ!」

野崎さんが、わたしのコラムに直接リンクを張つて批判されてゐた事に、わたしは猛烈に腹が立つたのである。

ここで、「直リンク」と言ふと、「a要素に因つて別のサイトのWebページに直接リンクを張る事」と「img要素やobject要素に因つて他のサイトのイメージファイルや音聲ファイルを自分のWebページに貼り付ける事」と兩方の意味で使はれるが、前者は「リンクを張る」、後者は「無斷轉載」と呼ぶべきであらうと思はれる。

當時のわたしが、「直接リンク」にあれほどまでに腹が立つたのか、つまりわたしは「晒し者」にされたと思つたのだ。「ここに馬鹿が居るぞ」と指を差されて笑ひものにされた、そんな氣がしたのだ。

とまれ、假名遣ひ自體は、「あ、さうですね、間違つてますね、あはははは」ぐらいで濟ませられる、と言ふか笑つてごまかす程度のものでしかなかつたのに、直接リンクですつかり頭に血が上つてゐたわたしは野嵜さんを口汚く罵り、中傷した。終ひには野嵜さんや、引佐 龍成さんに掲示板で諭されるも、わたしは聞く耳持たず馬鹿を晒してしまつたのであつた。そのときのログは、「MEMOPAD1」(當時わたしは掲示板でコラムを書いてゐた)として殘してあるけど、この邊の「論爭」と呼ぶにも値しない、子供の駄々は今見てもほんとに恥づかしい。恥づかしいが、最初に述べたやうに、その馬鹿振りを見て、わたしの轍を踏まないやうにしていただきたい。

さて、ここまで讀んで、「うわ、ほんとに恥づかしいやつだな、こいつ」と思はれる方と、「何で恥づかしいの? 怒つて當然ぢやない」と思はれる方とがいらつしやるかと思ふ。何故、わたしは當時を思ひ出すと恥づかしくなるのか。理由はこれから述べる事にしよう。特に何で恥づかしいのか分からない方には是非讀んでいただきたい。

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<section2>リンクの權利

詳しい出典は失念したのだが、糸井重里氏が、「ホームページとはよく言つたもので、その人にとつてまさに家のやうなものだ」と言ふやうな事を仰られてゐたのをどこかのパソコン雜誌で見かけた事がある。だとすれば、TOPページが玄關とならうか。と言ふ事は、TOPページ以外のページに直接リンクを張られるのは、例へるなら窓からずかずかと土足で踏み込まれたやうなものだと言ふことか。「デイープリンク」と言ふこともあるが、TOPページ以外のコンテンツにリンクを張る直接リンクに腹を立てるWeb管理者は結構居るのである。折角立派な玄關を作つたんだから、ちやんと入り口から入つてくれよ、てなわけだ。

しかし、現在ではわたしは別段直接リンクに腹は立たない。以前書いたコラムでも引用させてゐただゐたのだが、再び引用させていただく事にしよう。

 自分のウェブページに勝手にリンクを張られることを好まない人はいます。確かに個人が趣味で作るウェブページに対して本人の意思に反して批評を加えることやリンクを張ることは、もしかすると、その場にいない人の噂話をするのと同程度にエチケットに反する行為であるのかもしれません。しかし、著作物を公開する行為は責任を伴うことであって、一般の批評にさらされることもそのうちに含まれると考える方が、むしろ妥当性があります。(「ウェブページのリンクおよびその他の利用について 2.リンクに関する方針」後藤斉)

第一に、ハイパーリンクは場所の指定以外の何者でもなく、口頭で「どこそこに何がある」と伝えるのと変わりがない。そうすると、ハイパーリンクに倫理的問題があるとするなら、口頭で「どこそこに何がある」と伝えた場合とそれほど変わらないことになるだろう。

(中略)

第三に、ハイパーリンクをあるHTML文書に張りたい場合、その管理者に許可を求める必要は必ずしもない。ハイパーリンクは場所の指定にしかすぎないので、ハイパーリンクを張る場合に許可が必要なら、口頭でURLを伝える場合も許可が必要になる。これはいかにも不合理である。また、口頭でURLを伝えることも規制するということは、閲覧者を規制しようとすることであって、適当なアクセス制限を設けないでハイパーリンクを無断で行うことを禁止するのは無理がある。(「ハイパーリンクの倫理学結論」大谷卓史)

例へば畫像ファイルや音聲ファイルの「無斷轉載」、これは殆どの場合、著作權法に引つ掛かる。畫像などのファイルが、元のサーバに在るオリジナルだとしても自前のサーバにコピーしたものだとしてもだ。著作權とは簡單に言へば、「この作品は自分の作つたものだ」と主張できる權利である。そこから派生して、自分の著作物を自分の意思どをり扱へる權利も含まれる。インターネットで、自分のサーバにファイルをアップロードして他人に見てもらふ。これは自分の意思で作品を公開してゐるわけだが、そのファイルを、著作者の諒解を得ず無斷轉載によつて他人が公開するのは著作權の侵害である。著作者が著作物を意思通りに扱つてゐないからだ。では上記のやうに、他の人の文章の1部を勝手に使ふことは著作權に觸れるのではないかと言ふとさうではない。論理の裏付けや批評の爲に他人の著作物の1部を自分の著作物の中に適切な範圍で插入するのは「引用」であり、これは著作權法上も認められてゐる。飜つて他人の畫像や音聲ファイルなどを丸ごと無斷で自分のWebページに貼り付けるのは、明らかに著作權を侵害する。

海外では「コレクターサイト」とでも呼ぶべきサイトが幾つも在つて、所謂OTAKUが、自分の好きな「ぢやぱにめーしよん」の公式イラストや、ファンアァトなんかを日本のサイトから拾ひ集めては、自分のサイトで公開してゐる。

また、日本人があまり海外ファンサイトを見に行かない、また無断転載を発見しても、英語が出来ないので抗議メールを出さない、ということで、「どうせ文句来ないし、許可とろうにも日本語でメールかけないし」と転載しているんでしょうね。「NoといわないのはYesである」が無断転載についての向こうの考えです。

(前略)ファンサイトの制作者は日本ではほぼ確実に同人あがりで、自分で絵が描けます。自分では描けなくても、描ける友人の一人くらいはいるものです。ですが、海外の場合、ファンサイトオーナーは作家と言うより、編集者なのです。(中略)

あと、コレクターの地位が高いので、日本より恥じる必要なく、他人の絵を集められます。無断転載の山を見て「素晴らしいコレクションですね、愛を感じます」とマジぼめしちゃう人が海外にはいるんでしょう。(水晶宮「無断転載について」水沢晶)

このやうな事情で、コレクターサイトは多いらしい。日本でもエロサイトだと、「あれ? この畫像どこかで見た事があるぞ」なんていふことは往々にしてある。他のサイトからコピーしたり、エロ本からスキャンしてゐるのである。無論かういふのは問題外である。

以前、小林 よしのりの『ゴーマニズム宣言』を批判した上杉 聰氏の『脱ゴーマニズム宣言』において『ゴーマニズム宣言』からマンガのコマの轉載が有り、これは引用として認められ無いと小林が裁判を起こし、小林の訴へは1部認められ、上杉氏の著作は出版差し止めと爲つたものの、違法とされた部分を改訂して現在も刊行中なのだが、この「引用」の是非を巡り議論が起こつた。結局『脱ゴーマニズム宣言』の轉載は「引用」だと決着は一應着いてゐるのだが、この論爭で「引用派」の論客がサイトを作り、その中のコンテンツで、『ゴーマニズム宣言』からコマを轉載し、小林を批判してゐるのだが、この裁判の1審2審における判例に則つてゐるので、これは「引用」と見ていいだらう。

では「直接リンク」はどうか。これは引用した通り、「著作權」以前の問題である。例へばリアルスペースで、「何處其處の美術館に誰某の繪が展示されてゐる。餘り上手くない」と言ふ批評をしたとしよう。「いや、あの繪は上手い」といふ反論はあつても、「何處の美術館に有らうといいぢやないか」といふ反論は無いだらう。と言ふか、反論にすらなつてない。ハイパーリンクとは、「何處其處の美術館に誰某の繪が展示されてゐる」と言ふやうな情報でしかないのだ。これが本當は「AA美術館」に有るのに、「CC美術館」に有る、と言つたら「ウソをつくな!」と言へるけど、「AA美術館の2階第3展示室右から5番目の繪」と言ふ情報を提示する事に、是も非も無いわけである。

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<section3>ハイパーリンク

以前廣島縣警に據つて、猥褻なページにリンクを張つたとしてリンク元のWebマスタが摘發されたと言ふ事件が有つたが、これはハイパーリンクが、間接的であつたとしても、Webページやサーバ同士に關係性を持たせる、と言ふ解釋によつて犯罪と見なされたはけだが、例へばリンク先がさうした猥褻な畫像である事を隱して、閲覽者はそれと知らずに猥褻な畫像を見てしまふ可能性があるのなら「道義的責任」も發生しようが、猥褻なページをハイパーリンクを用ゐて「紹介」する事で、リンク元のWEBページもまた「猥褻」となるのであれば、極端に言へばWeb上に有る殆どのWebページは、リンクによつて辿れるのだからその全てが「猥褻」となつてしまふ。

HTML文書をHTML文書たらしめ、インターネットを爆發的に普及させたのがハイパーリンクであると言つても過言ではなからう。今更説明するまでもないが、「アンカー」と呼ばれる、リンクを貼られた要素をクリックするだけで、求める情報が參照できる技術である。ハイパーリンクに用ゐられるa要素の"a"は、"anchor"の略である。

何故このやうな技術が開發されたのか。これはわたしの推測だけど、元々HTMLが、學術論文をWeb上で發表するためのフォーマットであつたことを考へると、論文では、參考文獻が屡々用ゐられる。つまり論文を書く爲、參考にした資料の事だが、例へばその資料が、同じWeb上に存在する場合、その所在を示す必要が有るわけで、それが即ちURLである。

URLは「サーバの種類/サーバ名/ディレクトリ名/ファイル名」と言ふやうに記述される。このサイトのTOPページなら、"http://(wwwを扱ふhttpサーバであることを示す)pu-lab.hp.infoseek.co.jp/(ドメインと呼ばれる。「jp」ドメイン中のサブドメイン「co」に在る「infoseek」ドメインの中のサーバの1つである「hp」サーバの中のわたしが使用できる「pu-lab」ディレクトリ)index.htm(TOPページのファイル名)"となる。大抵のWebサーバなら、HTML文書に「index」と名前を付けておけば、自動的にそのファイルを開くやう設定されてゐるので、"http://pu-lab.hp.infoseek.co.jp/"でも構はない。メールなら"mailto:(メールを扱ふmailtoサーバ)pultonium@yahoo.co.jp(「yahoo.co.jp」ドメインの「pultonium」に「@」宛てると言ふ意味)"となる。

さて論文を讀んでゐて、參考文獻を當たりたくなつた。それがWeb上のファイルである場合、閲覽するには、URLを入力し、ファイルを呼び出せばいいのだが、一々"http://〜"とかキーを叩くのは如何にも面倒くさい。最近ではLynxとかでも"http://"は省略できるやうだけど、それでも面倒な事には變わりない。即座に情報を參照できればいいのに。

と言ふわけで、「ハイパーリンク」が開發され、閲覽者は參照したい情報をすぐに呼び出せるやうになつた、と言ふわけ。

以上はわたしの推測なのだけど、しかしハイパーリンクの利便性、繰り返しになるが、參照したい情報を、クリック1つで、即座に呼び出せる。これが一般にもインターネットを普及させた要因であることは疑ひない。複雜なURLを一々キーボードで入力する必要が無く、ユーザはちよつとしたショートカットキーか、マウスをちよこちよこと操作するだけで慾しいソースにありつけるからだ。

それともう1つ、インターネットの即時性も關係してゐる。インターネットでは、1秒前まで有つた情報が、次には消えてしまつて、永遠に拜めない、なんて言ふのはざらである。だからこそ、慾しい情報はすぐに參照する必要がある。そのためハイパーリンク技術を扱へるwwwが開發されたのである。

ここで思ひ違ひをしてはならないのは、リンクを張ると、アンカー、即ちリンク元と、リンク先には何らかの關係が結ばれたやうに考へてしまひがちだが、リンクを張つたとしても、その對象となるリンク先には、何ら影響を及ぼさないのである。ソースの1部を改變してしまふわけでもないし、リンク先とリンク元とは、ネットワークを形成するわけでもなく、システム上から見ても全く無關係である。違ふWebサーバ上に有るWebページとWebページとの間にリンクが張られてゐたとして、しかしその2つのWebページやWebサーバの間に、何らやり取りがあるわけでもない。ブラウザがリンクされてゐるURLを「參照」、つまり今見てゐるWebページから別のWebページに移動するに過ぎず、「やり取り」があるのは、リンク先が存在するWebサーバと、閲覽者がブラウザを使用してゐるコンピュータとの間だけである。

つまりかうだ。Webページをブラウザで閲覽してゐて、アンカーをクリックする。するとブラウザは現在表示してゐるWebページとの接續を切斷し(正確に言へば、Webページが表示された時點で、接續は既に終了してゐる)、アンカーによつて示されてゐるURLに存在するリソースにアクセスする。そのURLが有效であれば、リソースが表示される、と言ふ鹽梅だ。このとき、最初に見てゐたWEBページと、ハイパーリンクによつて參照された新しいリソース、この間には何のやり取りも行はれてはゐないのである。

「ハイパーリンク」の仕組みを考へると、リンクによつてページ同士に何らかの「關係」が發生する、リンク先が「猥褻」ならリンク元も「猥褻」と看做す解釋は間違つてゐると言へよう。

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<section4>リンクはTOPページにお願ひします

このやうな注意書きは、屡々見掛ける。しかし、これまで見てきたやうに、何かしらの拘束力は全く無い。

嘗てはわたしもさうだつたんだけど、TOPページ以外にリンクを張られる自分の意に添はぬデイープリンクは、知らぬ間に自宅に盜聽機を仕掛けられたやうな、そんな氣分になるのかもしれない。入つてくるのはいいけど、玄關から入つてきてよ。折角綺麗に飾つたんだからさあ。窓からこそこそ入つてこないでよ! 前述したけど、リンクを張られるのは、自分のWebページに他人が勝手にネットワークを形成してしまふものだと考へてしまふからかもしれない。本當にさうなら、確かにいい氣分はしないけど、それも誤つた認識に過ぎない。

例へば個人が自宅で使つてゐるパソコンのデータに對してアクセスできるやうなリンクとか、IDとパスワードを持つた1部のメンバーだけが參加できる草の根のパソコン通信に外部からアクセスできるやうにするのならばそれは立派な「ハッキング」であり、被害を訴へることもできやう。これなら盜聽機云々も當て嵌まるかもしれないけど、Webサイトは、運營するのが個人、團體關わらず、「公開された」情報である。小林よしのりの言葉を借りれば、個人のパソコンや草の根パソ通は言はば「私」的空間であるけど、誰でも自由に閲覽が可能であるWebサーバは「公」的空間である。繰り返しになるが、「公」的空間において「公」開されてゐる情報を、「この情報は、ここに在りますよ」と紹介する、只それだけに過ぎないのに、果たして「道義的責任」を問へるだらうか。

「直接リンクされて、批判されたことが頭に來るんだ」と言へるかもしれないけど、それならリンクされずに批判されるのはどうなるのか。謂れの無い誹謗中傷を浴びるのなら菟も角、情報の内容に對して批判されてゐるのなら、「反論」するより他無いではないか。批判されるのがいやなら、情報を公開しなければいい。わたしも前に「陰口を叩かないでくれ」なんて書いたけど、陰口叩かれるやうなことしてるんだからせうがないではないか。批判されること自體は既にリンクとは關係無いのだけれど。

ハイパーリンクはHTML最大の特徴である。Webの性質上、リンクを張られることを拒否することはできない。「ハイパーリンク」自體は、リンク先に何ら影響を及ぼすものではないからだ。直接リンクに對して注文をつけるのは、寒い中火に當たりながら「火は火事になるから危險だ」と言つてゐるやうなものである。どうしても直接リンクを張られるのがいやなら、Webページにリンクを拒否するアクセス制限でも掛けるしかない。しかし1人でも多くの人に見て貰ひたくてアップした情報なのに、アクセスを制限するのは矛盾してゐるのだが。

さらには、サーチ型檢索エンジンの存在をどうすればいいのだらう。meta要素で、檢索ロボットがページを讀み取るのを拒否することもできるけど、meta要素を無視してしまふタイプのロボットだとそれも意味が無い。ロボットはTOPページ下位ページお構ひ無しにエンジンに登録してしまふ。

「リンクはTOPページにお願ひします」と言ふ注意書きは、はつきり言つて書くだけ無駄なのである。

下位ページに直接リンクを張ること自體は構はないけれど、將來、URLが變わつてしまふ可能性があるので、リンクする場合はTOPページにした方が無難ですよ、といふ意味合ひで、リンクをTOPページに「推奬」してゐるサイト管理者も居る。これはまあ、本人は「親切」の積もりなのかもしれないけど、「餘計なお世話」といふ氣がしないでもない。

「參考文獻」だつて、論文が書かれた當時は入手可能だつたのに、後日絶版になつたりして讀むことができなくなる、といふのはよくある。しかし、參照元の筆者が參考文獻になつてゐることを知らない場合だつてあるのだから、入手不可能になつてゐることに參照元の筆者が責任を持つ必要は無い。これは書籍媒體よりも、情報の消失が完全に行はれてしまふインターネットでも同樣だらう。だから、リンクを張つたURLが消滅してゐたりしても張つた側が移動したURLに新たに張り直すか、「このURLは現在存在しません」とか書いてリンクを切ればいいだけの話である。

「餘計なお世話」と言ふのは言ひ過ぎだとしても、そこまで氣を囘す必要はないのではないだらうか。

以前コラムでも紹介したのだけれど、TOPページで、

サイト内のページやCGなどに勝手にリンクをしてゐるのを發見した場合は
なんらかの方法で報復を行ひますので、そのつもりでゐてください

とすごい警告をしてゐるサイトが在る。CGや小説を掲載してゐるサイトなので、以前にでもCGを勝手に使はれた經緯が有つて、それでこんな警告をしてゐるのかもしれないけど、「ページ」に「勝手にリンク」と言つてゐるのだから、直接リンクを張ることに對する警告なのだらう。だけどCGや小説パクられたんなら立派な著作權の侵害だからその憤慨も理解できないでもないけど、當サイトはリンクフリーではありません。リンクを結びたいと思はれる方は、メールにて聯絡ください とも言つたところで、リンク張られた事を怒つても仕方ないのに。

しかし「報復」とは穩やかではないけど、どんなことをする氣なんだらうか。ウィルスやSPAMでも送りつけてくるのかな。今のところ、日本で迷惑メールに對する罰則規定はないけど、はつきり言つて「犯罪」ですよ。サーバに對してハッキングなんか仕掛けたらこれは完全に「不正アクセス禁止法」に引つ掛かりますね。isWebに言ひ付けてわたしのサイトを閉鎖させたりして。批判も許さないと言ふわけか。言論彈壓だな。

あつ、直接リンクを張り返してくれるのかも! 向かうは結構人氣の有るサイトだからそれは有難い。待てよ、「2ちやんねる」で晒す氣か!? 「佐藤祭り」が始まるのか! 祭りだ祭りだア!!

ともあれ、何をしてくれるのか興味あるから、無斷だけどリンク張つてみやう。あ、念の爲言つとくけど、18歳未滿禁止のエロCGと小説のサイトなんで、そこんとこは宜しく。 瀝精の淵

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<section5>ご紹介に預かりまして

ブラッド・ピット主演の『ジョー・ブラックをよろしく』といふ映畫がある。この映畫の原題は"Meet Joe Black"即ち、「ジョー・ブラックに會え」である。わたしがこの邦題を「上手いな」と思ふのは、「會え」と言つてゐるといふ事は詰まり、「會え」と言つた側は、死神ジョー・ブラックと、相手とが出會う事を豫想してゐる。だから相手に「彼をよろしく」と紹介してゐるわけだ。逆に言へば、「彼をよろしく」と言ふことは、相手がジョー・ブラックと會う事を豫想してゐるわけである。

映畫のタイトルが『ジョー・ブラックに會え』では餘りにも素氣無さ過ぎる。『ジョー・ブラックをよろしく』ならば、原題の「會え」といふ意味も含まれるし、それ自體中々洒落たタイトルになつてゐる。まあ、元々"meet"の命令形には「よろしく」の意味が有るのかもしれないけど。

「引用」と「無斷轉載」の綫引きは難しい。

度々引き合ひに出して申し譯無いが、『脱ゴーマニズム宣言』裁判では、適當な範圍であれば、マンガのコマの轉載も「引用」と認められる、と言ふ判決を1審でも2審でも出したことで、それまで許諾が必要とされてきたコマの轉載は引用として無斷でも出來る事を示した劃期的な判例であるわけだが、原告、即ち引用元の著作者、即ち小林 よしのりは『ゴーマニズム宣言』を讀めば分かる通り未だにこれを引用とは認めないと主張し、また2審では誌面の都合上、コマの位置を竝び替へた個所が不適當な改變とされ、 出版差し止めの假處分が下されてゐる。

餘談になるけど、「2ちやんねる」の「ゴー宣板」のこの裁判に關するスレで、以前の小林なら、他のマンガ家がコマの引用をされて裁判になつたとしたら「『マンガだけ特別扱ひ』されてゐる事に甘えるな! コマの引用も妥當である! 批判を恐れてゐてはマンガに明日は無いぞ!!」とかごーまんかましたかも、と言ふ書き込みが在つて、言へてるなと思つた。

事ほど斯樣に、「引用」の問題は難しいわけだが、ハイパーリンクはどうかと言ふと、これまでも見てきた通り、單なる情報の所在の「照會」であつて、「引用」ですらない。引用は著作權をある程度侵すものの、一先づは認められてゐる。であれば、著作權を撫でる程度にしか觸れないハイパーリンクもまた、認められる事にはなる。

「引用」は著作權上も認められた行爲であり、また文章の作法の1つとも言へる。

わたしが大學に通つてゐた頃、卒論のゼミの教授が、「引用」についてこんな事を仰つておられた。

「『引用』はそれ自體に問題は無いけど、引用元に對しては、敬意と感謝を以つてするべきぢやないかな」

この教授は、「卒論は4分の1が自分の文章で、後は引用で埋めればいい」なんてとんでもない事も言つておられたのだが、とまれ、別に「敬意と感謝」を以つて行はうと、逆に「惡意」を以つて行はうと、適當な方法であれば引用それ自體に問題は無い。1章を丸ごと轉載しただの、どう考へても關係ないマンガのコマを必要以上に插んでゐるといふのならそれは引用を超へた「無斷轉載」であつて問題にはなる。しかし、ハイパーリンクは引用より遙かに著作權に觸れる可能性が少ない。URLは著作權を主張できるかどうか難しいだらうし、title屬性に因つてサイトやWebページのタイトルを示したり、要約を載せたりするのは「紹介」に留まるだらう。とすれば、ハイパーリンクは引用同樣に無斷で行つて構はないだらう。

ここで、注意しなければならないのは、リンクを張るといふことは、リンク先を紹介する事に他ならないのだが、リンク先に「紹介して、アクセスを伸ばしてやるんだから有難く思へ」と恩を着せたやうな氣になるのは思ひ上がりである。無斷リンクされる事を不愉快に思ふ(それは今まで述べたやうに、「ハイパーリンク」に對する誤解に因るものなのだけど)風潮はまだまだ根強いし、それに「ハイパーリンク」はリンク先が無ければできないからである。まあ「敬意と感謝」なら良くて、「惡意」だと駄目、なんて道徳論を持ち出す氣は無いが、ハイパーリンクは「文句を言はれる筋合ひ」も無ければ、「感謝される謂れ」も無いだらう。

張つて惡いのは親父の頭である。

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