ホームページ入門講座<chapter2>使へないインターネツト用語

<section6>缺陷住宅

突然ですが、あなたは「ホームページ」を作つた事がお有りですか? 學校の授業や職場の研修で作つた事があるぐらい。はいはい。職場や學校のホームページを皆で作つた。成る程。Webマスタになつて自分のホームページから世界中に情報を發信してゐる。OK。

では「ホームページを作つた事がある」方にもう1つ質問です。

「W3C」つてご存知ですか?

ホームページを作つた事があつても、W3Cといふ單語には首を傾げる人が、恐らくは10人中9人は居ると思ふ。そんなタグ有つたつけ? www(ダブリュースリー)の間違ひぢやないの?

しかしホームページを作つてゐて、「HTML」を知らない人は居ないだらう。IEでもNNでも、「ページのソース」を表示させると、テキストに<p>とか<table>とか言ふやうなのが交じつてゐるのを見ることが出來やう。所謂「HTMLタグ」である。

『FrontPage』や『PageMill』のやうな「ホームページ作成ソフト」で1から10まで作つてゐる、つまりタグの存在を丸きり知らないでもホームページは作れるが、しかしホームページを作れる程度の技倆があれば、タグの存在を知らない、と言ふ事はまづ有るまい。かうした、HTMLタグが打たれて、Webブラウザで閲覽できるやうなテキスト文書が、「HTML」文書と呼ばれてゐるわけだ。要するに、アンカーを埋め込む爲の<a>タグとか、フォントを調節する爲の<font>タグとか、かういふタグを取り決めてゐるのが、"World Wide Web Consortium"略して"W3C"と呼ばれる團體なのである。

しかし「タグ」と呼んできたが、W3Cの仕樣書に據れば正確には「要素」である。タグは、要素を「マークアツプ」するための手段に過ぎない。「要素」や「マークアツプ」に關しては後述する事にして、一先づは、HTMLのフォーマットを決定してゐるのが、W3Cである事を覺えて頂きたい。

大抵のWebマスタ、即ちホームページ作成者はこの事には無頓着である。HTMLを決定してゐるW3Cの存在を知らずにHTMLを用ゐてゐる、何處の誰が作つたものか全く無自覺に使つてゐるのだ。Macはappleで作られてゐるし、VAIOはSONYが作つてゐる。WindowsならMicrosoft。それを知らないで使つてゐるユーザは……結構居る。しかし、それは單なる「ユーザ」なのだからそれでいい。東京から新宿に行くのに、JRが運營してゐる山手線を使ふか、營團が運營してゐる丸の内線を使ふか、乘客、即ちユーザにしてみればどちらでも構はない。料金や込み具合、到着するまでの時間などのサービスを乘客が比較して、乘る電車を選擇するだけの話である。勿論、サービスを提供するのが何者なのか、知つてゐるのに越した事は無いけれど、提供されるサービスを利用するだけの一般ユーザにそこまで求めてもせうがない。JRが走らせてやうが營團が運營してゐやうが、乘客にとつて電車は電車なのである。

しかし、之がHTMLユーザなら話は違つてくる。HTMLは、前述したやうにW3Cが取り決めてゐる。尤も正確に言へば、W3CはHTMLの「仕樣」を勸告してゐるだけであり、「かうしろ」と言つてゐるわけではない。現在、W3CはXMLにも準據した「XHTML1.0」の仕樣書を發表し、ユーザはこれを使用するやう勸告してゐる。飽くまで「勸告」であつて、HTMLユーザは必ずしもそれに從う必要はない。はつきり言つてしまへば從つてないユーザがWebでは殆どである。仕樣書に從つてゐない、ブロウクンなHTMLでも、ブラウザは表示してくれるからだ。

しかし之も理由は後述するが、W3Cの勸告する仕樣書に則つた「Valid」なHTMLを記述した方が、何かと利點は多いのである。

そもそもが、HTMLユーザ、即ちHTMLを用ゐるのはそれを使つてWebページを「作る」爲である。つまりHTMLユーザは前述したやうな、サービスを利用するだけの「單なるユーザ」ではなく、HTMLを材料とする「クリエイタ」なのである。その材料に就いて、最も詳しく書かれてゐるのは、どのリファレンスでもない、他ならぬW3Cの仕樣書なのである。

杉と松と檜との材質の違ひが分からない大工の建てた家に、誰が住みたいだらうか。平目と鯛と河豚の味が區別できない板前の捌いた魚を食ひたいと思ふだらうか。仕樣書を讀まずにHTMLを扱ふのは、かつら剥きを包丁ではなく、通販で賣つてるやうな「かつら剥き噐」でやるやうなものである。「かつら剥き噐」で大根を剥いて、それで「かつら剥きができる」と言つていいのだらうか。言へないでしよ? さういふことである。

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<section7>「正しいHTML」とはなにか

尤も、HTML仕樣書を讀んだ事が無い、W3Cも知らない「Webクリエイタ」がwwwに蔓延るのも仕方が無い。

わたしは仕事柄、たまに「ホームページ作成研修」を受けるのだけど、どの團體が行ふどの講座に出ても、「W3C」の3文字が講師の口から出てきたのを聞いたことは無い。そもそも講師も知らないんぢやないのか。

本屋に行けば棚の一角を占める「ホームページの作り方」の類の本にも出てゐない。リファレンスの部類でも精々、HTMLの解説に出てゐればいい方である。

當たり前だ、講座や本で説明されるのは「ホームページの作り方」、言つてしまへば「ホームページ作成ソフトの使ひ方」であつて、「HTML文書の書き方」ではないんだもの。人目を引くホームページを作るには、どうしたらいいかは教へてくれるが、HTML文書の正しい綴り方は教へては呉れない。受講者だとて、教へて慾しいのは動く繪を載せたり、音樂を鳴らしたりして自分のホームページを如何に目立たせるか、その方法を教はりに來てゐるのであつて、正しいHTML文書の記述の仕方を學びに來てゐるのではないのだから、仕方ないのだけれど。

え? 別に「正しいHTML」なんか知らなくたつて、ホームページは作れるし、ちやんとブラウザにだつて表示されてゐるぢやないか?

正しいHTMLでなくても、ブラウザがそれなりに表示してくれるのは、ブラウザがエラーを訂正してくれるからに過ぎない。「ブラウザで表示できる」からと言つて、そのHTML文書がちやんとした記述になつてゐるといふ基準にはならないのである。

wwwにはHTML文書が正しく記述されてゐるかどうかチエツクしてくれるサービスが幾つか在る。W3Cが提供してゐる「the W3C MarkUp Validation Service」や石野 惠一郎さんの「AnotherHTML-Lint」が有名處だが、これらに掛けてみると、恐らくWebに在るHTML文書の90%ははねられるだらう。

では、「正しい」HTML文書を作るにはどうしたらいいか。

先づ文章を用意し、W3Cの仕樣書に從い適切に要素を指定する。その後然るべき文書型を宣言する。これだけ。それ以上何も、する事は無い。簡單でしよ?

え、こんなんぢや、人目を引く、派手なホームページなんか出來ないぢやないか、と言ふ聲が聞こえてきさうだが、ちよつと待つて頂きたい。

HTMLとは、"HyperTextMarkupLanuage"、即ち「ハイパーテキストマークアツプ言語」と言ふ意味だが、前にも述べた通り、これは本來學術論文をやり取りするためのフオーマツトである。プラツトフオーム、即ち、コンピユータやOSが違つても、同じ内容のテキストが表示できるやうに開發された。さう、HTMLは「テキスト」を表示するための手段なのだ。決して、「色取り取りの畫面」を作るための手段ではない。

確かに、wwwの普及に因り、W3CもHTMLにfont要素やcenter要素などの「見榮え」の爲の要素を追加した。これら視覺系要素は、Netscape社がNNに獨自に組み込み、しかも「見榮えの良い」Webページを簡單に作ることが出來るため、W3Cも已む無くHTML3.2において追認した、と言ふ背景がある。しかしそれらは「テキストの要素をマークアップする」といふ本來のHTMLの目的から外れる、と言ふ事で現在は「見榮え」の爲の要素や屬性の幾つかは「推奬されない」事になつてゐる。更には、マークアップ言語としての性質がより強くなつたXHTMLが開發され、その仕樣が現在最もW3Cから推奬されてゐる。

ここで「マークアップ」とは何か説明する必要があるだらう。

「文章」は、「見出し」と「本文」に因つて構成されてゐる、と考へる事が出來る。まづ「大見出し」が在つて、その下に「中見出し」、さらに「小見出し」、そしてそれら「見出し」によつて示される「本文」が在る、と言ふ構造である。猶、これらは文章を構成する「要素」であると言へる。逆に言へばだからこそ、「見出し」や「本文」であると「定義付け」する事が可能なわけだ。

このやうに「定義付け」する事がつまり「マークアツプ」である。

HTMLで言へば、先づ「大見出し」は<h1>となる。"h"は"heading"、即ち「見出し」の事だらう。その下にくる「中見出し」は<h2>、「小見出し」が<h3>となる。(見出しを示すh要素はh1からh6まである)そして「本文」は、「段落」即ち"paragraph"によつて構成されてゐるわけだから、p要素によつてマークアツプされる事になる。またテキストには、必ず「タイトル」が存在するはずだから、title要素を示す必要がある。title要素は、W3Cの仕樣書に據ればHTML文書においては必須、必ず記述されなければならない。只單にブラウザのタイトルバーにメツセージを表示する爲の要素ではないのだ。

HTMLに限らず、HTMLの基礎となつたSGMLやXML、また文書のレイアウトを整形するためのTeXなどの「マークアツプ言語」と呼ばれる特殊言語は、このやうに、テキストに對してマークアツプを行ふ事で、要素の定義付けやテキストのレイアウトを實行する。ここで氣を付けなければならないのは、HTMLにおいて、マークアツプをしなくても、テキストには「要素」は存在してゐるのであつて、マークアツプをしたから要素が現れてくるわけではない。HTMLのマークアツプは、元々存在してゐる要素を示してゐるに過ぎない。

HTMLのマークアップでは「タグ」が用ゐられる。<p>〜</p>と言ふやうに開始タグと終了タグで要素を挾む事でマークアップを行ふわけだが、屡々「タグ」=「要素」と見倣され、p要素を「pタグ」と呼んだりしてゐるが、タグは要素をマークアツプするための手段であり、「タグ」を要素そのものの意味で使ふのは間違ひである。

まあ、難しい事をこちやこちや書いてしまつたが、要するに、HTMLとはテキストの構造を明確にマークアツプし、ブラウザやプラツトフオームが違つてもテキストを同じ内容で表示する爲のフオーマツトであつて、「レイアウト」とか「見榮え」の爲にあるのではないのだよ、と言ふ事である。

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<section8>Lynx Shock

今でこそこんな「正しいHTML」なんて偉さうな事言つちやつてゐるけど、わたしだつて最初は「レイアウト」や「見榮え」を氣にしてゐたのである。table要素でマージン整へたり、「フオントいぢり系」程ではないにしろfont要素使つたり、HTMLをテキストの整形に使つてゐた。W3Cを知り、仕樣書を讀んで、それに從つたHTMLを心掛けるやうになつてからも、やはり何處か「見た目」に囚われてしまつてゐた。「見榮えのいい、視覺に訴へるサイト」に拘つてゐたのだつた。

そんなわたしの「見た目信仰」を粉微塵に打ち碎いてくれたものがある。

"Lynx"と言ふWebブラウザをご存知だらうか? Linuxではない。LinuxはOSである。一先づは見ていただかうか。「Yahoo! Japan」のIEでの表示と、同じくLynxでの表示である。さあどうだ、この味氣ない畫面は! 何しろLynxはコマンドプロンプトで動いてゐるのである。詰まりCUIで動くのだ。勿論マウスポインタでクリックは出來ないから、方向キーなどでハイパーリンクを扱ふことになる。ご安心召され畫像だつてちやんと見ることが出來る。ダウンロードして「Susie」とかの畫像ヴユーワで見れば宜しい。設定フアイルを弄くつて、イメージをダウンロードすると自動的にヴユーワが立ちあがるやうにする事も出來ます(出來る筈なんだけど、わたしのは上手く行つた例がない。何故だ)。

ええ〜こんなのホームページぢやない、と思はれるかもしれないけど、之だつて立派なホームページである。正しいHTMLで記述されてゐれば、ちやんと著者の書いた内容通り表示される。HTMLの目的が、閲覽する環境が違つても同じ内容の「テキスト」を表示するためのフオーマツトなのだから、このやうな表示でも別段構はないわけだ。

因みに、Lynxや"w3m"のやうなテキストしか表示しないブラウザをそのままだが「テキストブラウザ」と呼んだりする。w3mは本來テキストヴユーワであつて、HTMLブラウザではないけどね。

初めてLynxで自分のサイトを見た時はそれは衝撃だつた。「見榮え」や「レイアウト」なんて「何それ」とでも言はんばかりに何處かに行つてしまつてゐるのだもの。

Lynxはテキストしか表示しないため、とても動作は輕快だ。ハイパーリンクも方向キーだけで行へるので、卻つてグラフィックブラウザよりも使ひ勝手が良かつたりする。なのでたまに使つてゐるのだけど、IEで見た時は畫像を使つたりレイアウトに凝つたりとてもcoolだつたサイトが、Lynxで見てみると所謂「代替テキスト」、img要素にalt屬性を指定して居なかつたりするので、全く何も表示されなかつたり、テキストが變な囘り込み方をして讀み辛くなつてしまつてゐたりと、coolだつたのがへらく「シオシオのパー」になつてゐたりして面白い。「化けの皮が剥れた」と言ふのは正にこの事か。 Lynx、1度お試しあれ。

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<section9>菩提樹の下で

闇黒日記」の野嵜さんぢやないけれど、「テキスト」を、餘計な裝飾など考へずにマークアツプさへすれば、Validで尚且つStrictなHTML文書が出來上がる筈なのである。だがそこに「見榮え」や「レイアウト」とか「動きのある」とか言ふ「邪念」が交じるので、HTMLはさ迷つてしまふわけだ。なんだか「佛の道」みたいな話だが、一般化、大衆化してしまつたwww、ホームページが、かうした「煩惱」を抱へるのは仕方ないことなのかもしれない。斯くも「人目を引く爲」のホームページが大量生産されてゐる現状では、「HTMLはテキストを論理的にマークアツプする爲のフオーマツト」であると言ふ悟りを得ることは中々難しい。

W3Cは、HTML4.01やXHTML1.0に基づいてHTML文書を作成するときには、"Strict""Transitial""Flameset"の3種類の文書型を宣言する事としてゐる。Transitialは「移行型」と譯され、仕樣書で推奬されてゐない要素も使ふことが出來る形式であり、Flamesetはflame要素を用ゐる時に使はれる形式である。flame要素はNetscape社がNNで獨自に採用し、一見使ひ勝手の良いWebページが出來るため普及し、w3cも認めてはゐる。frame要素を用ゐたWebページは確かにページの移動が樂だが、1度に3つ以上のHTML文書を讀み込むことになり讀み込みが非常に遲くなつてしまふ上、非對應のブラウザも在るからだ。その上target屬性をきちんと指定しないと、他人が作つたコンテンツをページの1部として表示してしまふことがある。つまり著作權を侵害してしまふ恐れもあるのだ。Strictは、仕樣書で推奬されてゐる要素のみを使つた「嚴密型」のHTML文書であり、"Strict"である記述が最もよいことは言ふまでもない。"Strict"の文書型宣言が爲され、HTMLValidetorでもエラーが檢出されない"valid"なHTML文書こそが、「正しい」HTML文書であると言へよう。先述したやうに、テキストに内在する要素を素直にマークアツプしていけば、それで"Strict"となるやうに、W3CはHTMLを取り決めてゐるのである。

また先述したやうに、W3CにはHTMLvalidaterと言ふサービスがあるが、"validate"「正當付ける」と言ふ意味の通り、HTML文書が勸告された仕樣書に則つてゐるかどうか確認してくれるサービスである。何しろ宗家本元が判定してくれるのだから、ここで"valid"正當と認められるのは言はば「お墨付き」であるといふわけだ。

では"strict"で尚且つ"valid"であるHTMLには、どのやうなメリットがあるのか。

先づ始めに、「作るのが簡單」である。テキストを用意して、要素を仕樣書に從つて適切にマークアップしていけばいいのだから。文字通り「色氣」さへ出さなければ、誰にでもHTML文書は作れる。それ以前に「文章」が書けなければ、「要素」も「マークアツプ」もへつたくれも無いけれど。

かうして作られたHTML文書は、實に素直である。シンプルだし、無駄が無い。さてHTMLが、プラツトフオームやブラウザが違つても同じテキストを表示する爲のフオーマツトである事を思ひ出していただきたい。ブラウザを始めとするユーザエージエントは、HTMLを讀み取り、表示するわけだが、エラーがあれば、當然正しく表示されない。尤もある程度のエラーは、ブラウザが補つてくれるけど、「カバーできる範圍」であつても、エラーが多ければブラウザはその分餘計に働かなければならない。文書型宣言やmeta要素で文書のプロパティが示されて無い場合、ブラウザは自分でそれらを判斷しなければならないし、閉ぢ忘れの在るタグを補つてやつたり、エラーが無ければやらんでもいい事をブラウザはしなければならない羽目になる。その結果ブラウザ、引いてはOS、更にはCPU、コンピュータそのものにも負擔が掛かるわけだ。勿論、大した負擔ではないけれど、ブラウザに積もつたエラーの塵の山が、OSを押し潰すことだつて有り得るのだ。エラーが全く無いHTML文書を100囘表示するのと、エラーが10有るHTML文書を100囘表示するのとではどちらがコンピユータに掛かる負擔が大きくなるかは言ふまでも無いでせう。

HTML文書は「表示されればいい」と言ふものではない。いい加減なHTML文書は、閲覽者に負擔を與える事になる。w3cの勸告に從うのは、HTMLを使つてWeb上で自分の意見を發表する權利に對する、言はば義務なのである。

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<section10>吉野家アンチテーゼ

そんな事より>>1よ、ちよいと聞いてくれよ。スレとあんま關係ないけどさ。

昨日、近所の吉野家行つたんです。吉野家

そしたらなんか人がめちやくちやいつぱいで坐れないんです。

で、よく見たらなんか埀れ幕下がつてて、150圓引き、とか書いてあるんです。

もうね、アホかと。馬鹿かと。

お前らな、150圓引き如きで普段來てない吉野家に來てんぢやねーよ、ボケが。

150圓引だよ、150圓引。

なんか親子連れとかもゐるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな

よーしパパ特盛り頼んぢやうぞー、とか言つてるの。もう見てらんない

お前らな、150圓やるからその席空けろと。

吉野家つてのはな、もつと殺伐としてるべきなんだよ。

Uの字テーブルの向かひに坐つた奴といつ喧嘩が始まつてもをかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰圍氣がいいんぢやねーか。女子供は、すつこんでろ

で、やつと坐れたかと思つたら、隣の奴が、大盛つゆだくで、とか言つてるんです。

そこでまたぶち切れですよ。

あのな、大盛つゆだくでなんてけふび流行んねーんだよボケが。

得意げな顏して何が、大盛つゆだくで、だ。

お前は本當に大盛つゆだくでを食ひたいのかと問ひたい問ひ詰めたい小1時間問ひ詰めたい

お前、大盛つゆだくでつて言ひたいだけちやふんかと。

吉野家通の俺から言はせてもらへば今、吉野家通の間での最新流行はやつぱり、ねぎだく、これだね。

大盛りねぎだくギヨク(玉子)。これが通の頼み方。

ねぎだくつてのはネギが多めに入つてる。そん代はり肉が少なめ。これ。 で、それに大盛りギョク(玉子)。これ最強

しかしこれを頼むと次から店員にマークされるといふ危險も伴ふ、諸刄の劍

素人にはお薦め出來ない

まあお前らド素人は、牛鮭定食でも食つてなさいつてこつた。

ちよつとした實驗でした。何の實驗かと言ふと、font要素やcenter要素のやうな視覺系要素を使はず、「侍魂」のやうな「フオントいぢり」が出來るかどうか試してみた。ソースを見ていただければ分かるやうに、table要素も使つてないでしよ。だけど、IEやNNのやうなグラフイカルブラウザで見れば、一見「フオントいぢり系」のやうな畫面となつてゐる事だらう。テキストブラウザぢややつぱり分からないけど。

視覺系要素の類を一切使はずに、こんな藝當が出來るのは一重に「スタイルシート」のお陰である。スタイルシートとは何か。次項にて説明しませう。

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<section11>餠は餠屋

h1要素やh2要素が「字を大きくするタグ」だと勘違ひされるのは、IEやNNで、これらがp要素、即ち本文に比べて、大きく表示されるからに他ならない。ところが、w3cの仕樣書のどこを讀んでも、ユーザエージエントに對してh1要素やh2要素はp要素に比べて大きく表示すべしとは書いてゐない。またem要素はイタリツク(斜字)で、strong要素はボルダ―(太字)で表示される事も多いが、これもまた仕樣書にそんな事は書かれてゐない。a要素、即ちハイパーリンクアンカーは下綫が引かれ、クリツクしたりする事で色が變わつたりするが、仕樣書には以下同文。

そもそもこれらはグラフイカルブラウザでの話であり、テキストブラウザだとh1要素もh2要素もp要素と同じフォントである。em要素やstrong要素、a要素フォントの大きさや書體は同じで、色が變わつてゐるだけである。

これらは全て、ブラウザに實裝されてゐる「スタイルシート」の爲せる業なのだ。

何度も述べたやうに、HTMLに限らずマークアツプ言語は、如何なる環境においても、テキストを同一の内容で表示させる爲のフォーマツトである。言ひ換へれば、人間の文章をコンピユータに理解させるための言語だと言つていいかもしれない。内容ではなく、構造を、である。テキストのみの白文でも、文書の構造を人間は理解できる。しかし、コンピユータはテキストは單なる文字データとしか扱へない。そこで、要素をマークアツプしてやる事によつて、コンピユータにも文章構造が理解できるやうになる、と言ふ寸法だ。正確に言へば、レンダルできるやうになる。ただし、かうしたマークアツプが施されたテキストをそのまま表示してしまふと、今度は人間には分かり辛くなる。HTML文書のソースを見て、タグを氣にせず讀む事が出來る人は餘り居ないだらう。そこで、「タグは表示しない」「要素の種類に從つて、適宜改行を入れる」「フオントや行の間を適宜空ける」「強調やフオントの種類、字體の大小を變える」など、表示のための設定が行はれる。それこそが「スタイルシート」なのだ。

テキストに、タグを施してやる事によつてコンピユータにも文章の構造を理解できるHTMLが出來上がる。しかしHTMLは人間には讀み辛い。そこでブラウザを始めとするユーザエージエントの出番となるわけだが、畫面に、只々同じフオントのテキストをずらずら表示されても、讀む事はできてもえらく味氣がない。例へば、「見出し」は大きく表示したりフオントを變えたり、「強調」したい部分は字體を太く見せれば分かりやすい。コンピユータ用の言語であるHTMLと、人間が見るためのツールであるブラウザなどのユーザエージェント、その間に挾んでコンピユータと人間の差の衝撃を吸收するための緩衝材が、スタイルシートなのだ。

スタイルシートのプロパテイは、ユーザエージエントに據つて違ふ。IEで思ひ通りに「デザイン」出來てゐるのに、NNではレイアウトぐちやぐちや、なんて事がよくあるのは、兩者のスタイルシートのプロパテイが違つてゐるからである。

スタイルシートには、NNが獨自に採用してゐる「JAVAスタイルシート」もあるが、HTMLのスタイルシートとして最も普及してゐるのはやはりw3cが勸告してゐる"CSS"「カスケードスタイルシート」である。スタイルシートはグラフイカルブラウザだけでなく、テキストブラウザにも實裝されてゐる。Lynxでも、a要素に下線が引かれてゐたり、em要素やstrong要素のフオントの色が變つてゐる事でお分かりいただけやう。先程仕樣書にはh1要素は大きくしろだとかem要素はイタリツクにしろだとかは書いてゐない、と言つたけど、實はCSSの仕樣書には「付録」として、w3cが推奬するCSSのプロパテイの例が掲載されてゐる。グラフイカルブラウザだと、この付録のプロパテイを基準にしてゐることが多い。多少の違ひはあるけどね。

ユーザエージエントに實裝されるだけでなく、HTML作成者が獨自にスタイルシートを組む事も出來る。w3cが勸告するCSSは、ユーザエージェントに實裝されてゐるスタイルシートのプロパテイよりも、HTMLに組み込まれてゐるプロパテイを優先して表示する。またプロパテイの適用範圍は、全要素から、要素ごと、class屬性やid屬性で要素1つずつにまで變えられる。詰まりプロパテイは、範圍の狹いものから優先的に適用される。大きいものから小さいものへ順に適用範圍が狹まつていく樣子が水流階段(カスケード)に似てゐる事から「カスケードスタイルシート」の名前が着いてゐるのだ。前回の「吉野家コピペフォントいぢり」もこのCSSを使つた。CSSは、style要素や屬性によつても指定できるけど、w3cが推奬してゐるのは、HTML文書の外部にプロパテイを記述したフアイルを作成して、link要素に因つて讀み込む「外部スタイルシート」である。

この外部スタイルシートの利點は、スタイルシートフアイルを1つだけ作れば、HTML文書や要素ごとにスタイルを設定する必要がなくなる。またサイト全體にフアイルを適用するやうにしてやれば、統一感を持たせる事もできる。視覺系要素で「見榮え」を變えてゐる場合、サイト全體の模樣替へをしようと思つたらすべてのHTMLフアイルを弄らなければならないが、外部にスタイルシートを用意してあれば、そのプロパテイを變更してやるだけで濟む。何より、視覺系要素と言ふ、HTMLの本來の意義から言へば「悖る」物を使はずに濟む點だ。何度も言ふやうだがHTMLは飽くまでも「マークアツプ」の手段であり、「見た目」を飾り立てたり「レイアウト」を整へたりするのが仕事ではない。HTMLは「マークアツプ」のみを請け負ひ、「見榮え」をスタイルシートに受け持たせると言ふ「分業」は、正に「適材適所」と言へよう。

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<section12>基本が大事

わたしは學業をやつてゐた時分、「試驗勉強」と言ふものはしたことがなかつた。普段どれだけ勉強してゐるかを試すのがテストだらうのに、試驗前になつて慌てて勉強するのは格好惡い、と思つてゐたからだ。お陰で成績は散々だつたが。だけど「テストにさへ間に合へばそれでいい」と言ふ考へは間違つてると、今でも思つてゐる。それは本當の成績とは言へないからだ。

HTMLValidatorの話をしたが、ではValidatorで"valid"と出さへすればそれでいいか、となると、そんな事は無い。例へHTMLの文法で見れば正しくても、テキストの内容に添つてゐるかどうかを注意しなければならない。p要素とdiv要素をちやんと區別して使つてなかつたり、「引用」を示す要素であるblockquoteを引用でもないテキストに使つてたり(インデントの爲とかにね)とか。テーブルレイアウト、即ちtable要素でレイアウトしてゐるホームページはよく見掛ける。甚だしい時にはbody要素の直ぐ下にtable要素が設へてあつて、ページ全體が表になつてゐたりする。それでもまあ、要素の組み方が適當であれば、文法に則つてさへゐればValidatorは"valid"と答へを彈き出す。Validatorは「タグの閉ぢ忘れ」とか「要素が他の要素と跨つてないか」とか「實體參照は爲されてゐるか」とかそれこそ機械的に分析してその結果を出力するだけであつて、要素がテキストの内容に即して使はれてゐるか、までは流石に判斷できない。

さつきのテーブルレイアウトに話を戻すと、表で表すべき内容にtable要素を使ふのは全く正しい。成績「表」とか時刻「表」とかならね。だけど表をレイアウトに使ふのは適切でない。よくあるのが、畫像を切り刻んでtable要素で竝べて、1つだけリンクアンカーを置いて僞クリツカブルマツプにするとかな。map要素を使ふべきところに違ふ要素を使つてゐるし、アクセシビリテイの觀點から言ふと、LynxやW3Mを使つてゐる人が畫像を見ようとしてダウンロードしても切れ端しかダウンロードされずなんぢやこりやと言ふことになつてしまふのだ。

"Strict"宣言をして"valid"であると分析されたとしても、イコール「正しいHTML文書」ではないのである。

もう1つ、注意を促しておきたいのが、CSSはHTMLの「パツチ」ではありません、と言ふこと。つまりCSSは知つてゐても、HTMLの視覺系要素では出來ない事をする爲のものだと思つてゐる人が多いのである。

ホームページで「當ホームページではCSSを使つてます」と書いてあつても、ソースを見ると、前景色や背景色、リンクアンカーの色を變更するだけとか、それに外部フアイルではなく、style要素を使つて記述してるのよね。そもそもCSSつてのは正しいHTMLでなければ意味が無いのに、HTMLもCSSも中途半端な使ひ方しかされてないのである。

まあホームページを作つてゐる限りは、CSSを使ふ意味も分かり得ない。つまりHTMLが、レイアウトを整へる爲の言語だと考へてゐれば、CSSを使ふ必要性も無い。だけど、HTMLは繰り返し言ふやうに論理的マークアツプ言語、つまりテキストの構造を示す爲の手段である。ならば「レイアウト」や「フオント」をHTMLで整へるのは間違つた使ひ方だ、と分かる。言はばHTMLは「レポート用紙」なのであつて、「レポート用紙のデザイン」は有り得る。紙の大きさや色、罫綫の數や太さ、マージンとか、さう言つたものはデザインの對象となる。HTMLがレポート用紙なら、そのデザインを擔當するのがCSSであることは言ふまでもない。一方で、「レポート用紙でデザイン」は有り得ないとお分かり頂けるかと思ふ。竝べたり、切り貼りしたり……。レポート用紙はそんな使ひ方をするものではない。

それに、どんなによいデザインの用紙でも、書いてあるテキストが内容の無いものであつたら意味が無い。先づコンテンツ、内容があつて、デザインは二の次の次、と心得よ。と自戒の意味も込めて書いておかう。

さてここで幾つか御紹介しておきたいサイトがある。

先づありみかさとみさんの「娘々飯店しるきぃうぇぶ」である。ぱつと見、如何にも「ほーむぺーじ」然としたサイトである。しかしソースを見ると"Strict"で尚且つ要素が正しくマークアツプされてゐるのだ。當然"valid"だし、「Another HTML-lint」でも「たいへんよくできました」。正しいHTMLとCSSでもここまで出來るのである。

ただ、このサイトは制作者であるありみかさんが「HTMLとはCSSとは何か」ちやんと分かつてゐるからこそできるウラ技であつて、素人にはお勸めできない。「正しい」HTMLとCSSの使ひ方は野嵜 健秀さんの「闇黒日記」の方が參考になるでせうね。野嵜さんが使つてゐるのは"ISO-HTML"と言つてその名の通りISOがHTML4.01を元に策定したHTMLなのだが、何しろHTMLの基本理念に寄り忠實に策定されてをり、視覺系要素や屬性は一切使へない。font要素やalign屬性は無いのである。それだけに、HTMLとは何かその理念を學ぶ爲にはよい教材となるだらう。

ISO-HTMLの日本語版である"JIS/HTML"もあります。

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<section13>動作確認

よくWebサイトのTOPページに、「〜で動作確認してます」と書いてあるけど、それがCGIやアプレツトの事なら間違ひではないんだけど、Webページとして書かれたHTML文書の事なら間違ひ。HTMLは動いたりしません。ブラウザはHTML文書を「讀み取つて」、表示してゐるだけです。掲示板やチヤツト、入力フオームだとか言ふやうな「CGI」(入力フオームそのものは、form要素に因つて表示できるけど、實際に動作させるにはCGIプログラムが必要)や、今流行つてゐる「Harbot」のやうな「JAVAアプレツト」とかは、サーバから只送られてくるだけのHTMLとは違ひ、それ自體で動作する「プログラム」である。

CGIは「Perl」言語のやうな簡單な(と言つてもわたしは分からないけど)プログラミング言語に據つて組まれる事が多い簡單な(と言つてもわたしには組めないけど)プログラムである。Perlで組まれる事が多いものの、「Ruby」言語やMicrosoftのIISサーバでよく使はれてる「ASP」とかもあるし、何ならC言語や、後述する「スクリプト」で組んだつて構はない。Perlはシンプルで、オブジエクト指向の爲組み易く、「掲示板」や「入力フオーム」のやうに、テキストを扱ふのに適してゐるので良く使はれてゐるのだ。

では「掲示板」を例に採つてCGIが動く仕組みを見てみやう。

まづクライアントがサーバに置かれてゐるCGIプログラムにアクセスする。するとCGIはHTML文書を作成して、クライアントにそれを渡す。CGIプログラムそのものではなく、CGIが吐き出したHTMLがクライアントにダウンロードされるわけだ。クライアントはブラウザなどのユーザエージエントに依つてそれを見る事になる。「掲示板」の場合、CGIは過去に書き込まれたメツセージの記録、所謂「ログ」を讀み取り、それを元にHTML文書を作成する。

さて表示されてゐる「掲示板」の入力フオームに新たにメツセージを書き込んだとしよう。すると今度は、クライアントからサーバに、只今書き込んだメツセージが送信される。CGIはそれを受け取り、先づ受け取つたメツセージをログに書き込む。さうして更新されたログを再び讀み込み、新たなHTMLを作成し、クライアントに送信する。斯くして、クライアントのユーザエージエントには、今程書き込んだメツセージが新たに加へられた畫面が表示される事になると言ふ次第だ。

ここで注目すべきは、このCGIプログラムはサーバ上で動いてゐる、と言ふ點である。パソコンを使つてゐて、使つてゐたプログラムが暴走したり、不正な處理をしてしまつたりしたため、OSがフリーズしてしまふ、と言ふのは今や日常茶飯事の光景と言つてしまつてもいいだらうけど、CGIもプログラムであるからには、バグが有つたり、不正な處理をしたり、アクセスが多過ぎたりすると、同樣にサーバにフリーズを引き起こしてしまふ。かうなると困つてしまふ。例へばそれがホームページ用のレンタルサーバだつた利すると、そのCGIを使つてゐるホームページだけでなく、同じサーバに置いてあるホームページ全てが見れなくなつてしまふ。掲示板やアクセスカウンタは無料レンタルのが在るから、自分でCGIを置くのは止めてくれ、と言ふ利用規約が有るレンタルサーバが多いのは、この爲だ。

さてCGIがサーバ上で動くやうに、クライアント側で動くプログラムもある。「アプレツト」と呼ばれるのがそれである。JAVAアプレツトはその代表だ。此れもやつぱりプログラムなので、落ちるときは落ちます。

PealやRubyは、專らCGIとしてサーバに置かれて使はれるが、JAVAやVBを簡易にしたJAVAスクリプトやVBスクリプトと言つた「スクリプト言語」で書かれたプログラムは、サーバの機能の補完にも用ゐられるし、クライアントにダウンロードされて、Webページに「動き」を與えるのにも使はれる。JAVAスクリプトの代表的なものと言ふと、別ウインドウで開く廣告だとか、更新されるタイプの廣告バナーだとか、Webページを見てゐると結構目にする。此れもプログラムの1種であるからには、落ちるときは以下同文。

かう言つたwwwで動く簡易プログラムは、確かに便利ではある。HTMLだけでは成し得ない、樣々な機能をWebで實行できるからだ。しかし、何度も繰り返してきたやうに、これらは、簡易な言語で組まれた輕いプログラムである。だけど實行されれば、コンピユータに負擔を與えるのだ。ただ單に、ユーザエージエントに依つて「讀み込まれる」だけのHTMLとは違ひ、コンピユータのパワーを消費して實際に「動く」のである。そしてバグが有れば、落ちる。そのプログラムだけが落ちるのならばよいのだが、OS全體を卷き込んでしまふこともある。OS全體が落ちる事を「フリーズ」と呼ぶ事は書くまでも無い。いやフリーズしたくらゐならOSの再起動で濟むが、「クラツシユ」、OSがぶつ壞れる事だつて有る。これくらゐのバグが在つて、しかもそれがスクリプトだと、多くのクライアントにダウンロードされて、そして被害を與えることになる。正確に言へばこのやうなプログラムは「ウイルス」とは呼ばれないのだけれど、作成した本人にその積りが無くても、プログラムはまるでウイルスのやうな惡さを仕掛けてしまふのだ。(JAVAに依つてWebページを開いただけでクライアントに植付けてしまふと言ふウイルスも存在する)

逆に、端から惡意を持つてプログラムを仕掛ける連中も居る。「ブラウザクラツシヤー」所謂「ブラクラ」はその代表例だらう。例へばスクリプトに、「新規ウインドウを開け」とか、「新規メールを作成しろ」とか書いて、その命令が無限にループするやうにすれば、新規ウインドウやメール作成ウインドウがどんどんどんどん開いてしまひ、その負荷に耐へ切れなくなつてブラウザが、時にはOSそのものが固まつてしまふ。この惡戲プログラムは簡單に組めるので、ちよつとスクリプトを齧つたくらいでも作れてしまふ。これとても、最初からブラクラにする積りが無くても、バグが有ればブラクラになつてしまふ可能性だつて有るのだ。まあバグが有れば、プログラムが動かない事のはうが多いだらうけどね。

JAVAスクリプトなんかは、只見るだけのWebページに色々「動き」を與えてくれるので、結構初心者は使ひたがる。マウスポインタを畫像に持つてくると繪が切り替はつたりとか、ステータスバーに「ようこそ」とかメツセージを流すとか、ポインタにシユーテイングゲームのオプシヨンのやうなのがふよふよと着いてきたりとか、ほんとにぱつと見「樂しげ」、實に「人目を引くホームページ」が作れちやふのだ。ホームページ作成ソフトの方でも「素材」としてスクリプトを用意してゐることが最近では多くなつてゐる。だ・け・ど、ある程度Webの經驗を積んでくると、正直言つてスクリプトが鬱陶しくなつてくる。

無料サーバで開いてゐるサイトだと、ページの上下に切り替はる廣告バナーが設置してあつたり、小さな新規ウインドウで開く所謂「POP廣告」が出て來たりする。これらはJAVAスクリプトで書かれたプログラムであることが多い。まあこれは、無料サーバではレンタル料を無料にする代りに、廣告を掲載させて稼いでゐるので仕方ないのだが、このPOP廣告、閉ぢても別のページに移動したりするとまた開いてしまつたり、酷い時にはハイパーリンクを開く度に小さなウインドウが開いて、氣が付いたら畫面中廣告だらけ、なんてことも有つたりする。その爲、「Vector」や「窓の杜」のやうなオンラインソフトサイトにPOP廣告を自動的に閉ぢるソフトが置いてあつたりするのだ。

それにJAVAスクリプトを使つてゐるやうなWebページは、總じて「重い」。JAVAを使ふやうなサイトのHTMLは總じてStrictではない上にvalidでさへない。その上JAVAスクリプトの構文までも記述してあるのだから重くなる、つまり入り組んでゐて、書いた本人も譯分からない構文になつてしまふのも無理は無い。さらに初心者ともなると、flame要素使ひまくるので、一度に3、4つのHTML文書を讀み込む事になつて餘計重くなる。

この際だから言つてしまふが、JAVAスクリプトで出來るやうな事つて、確かに「見た目」は派手だけど、「だからどうした」と言ひたくなるやうなものばつかりである。Webの閲覽に慣れてくると、さう言つたJAVAに據る效果や「ブラクラ」が鬱陶しいので、ブラウザの設定で「無效」にしてしまふ事は往々にしてある。

この際白状してしまふが、實を言ふとおれも使つてました、JAVA。だから「そんな折角JAVAを使つてるのに」と憤る氣持ちも分かるけど、はつきり言つてしまふと、今日日JAVAぐらいで、見に來た人は驚きやしませんつて。

</section13>

<section14>「見やすさ」とは何か?

わたしは今の所Webブラウザとして、IE6、Mozilla1.1、Opera6、Chimera0.6、Lynxを自分のパソコンにインストールしてゐる。因みに全て日本語版です。こんなにブラウザを集めて何をするかと言ふと、別に何も。まあたまに、同じページを見比べたりもするが、大して變わらないので餘り之もしない。大して變わつてたら大問題なのだが。今は專らChimeraを使つてゐる。

前に述べたやうに、「〜で動作確認」と言ふやうな注意書きはよく見掛ける。「IEでのみ確認してますのでNNでは表示が崩れる場合があります」て言ふのもある。前にも書いたがそれぞれのブラウザでスタイルシートや要素などの獨自の仕樣があるので、IEでは大丈夫なのにNNだとガタガタ、となつてしまふのだ。

何度も言ふやうに、HTMLは「見榮え」の手段ではない。それはスタイルシートの仕事だ。あ・く・ま・で、HTMLは「テキスト」をやり取りするためのフオーマツト、これ以上でもこれ以下でもない。インターネツトを介し、テキストを配布する爲の書式としてHTMLが、それを閲覽する爲の手段としてWebブラウザが色々と開發されてゐる。さう、HTMLはWebブラウザのデータではなく、先づHTMLが在つてWebブラウザが存在するのだ。言つてみれば、HTMLが「マスタ」であり、Webブラウザこそが「スレイブ」なのだ。

Webブラウザが在つてがHTMLが在るのではない。HTML、正確に言へば仕樣書にブラウザが從うべきなのである。

「CSSは未對應のブラウザが多いので使へない」と言ふ認識は誤りで、ブラウザはCSS對應であるのが「當然」なのだし、無論古いバージヨンのブラウザだと新しいCSSに對應してゐないものは在るが、ならばCSSなしでもきちんと内容が傳わるHTML文書を書くべきだと考へなければならない。ブラウザを基準にHTMLの出來を判斷するのではなく、正しい、strictでありvalidであるHTMLを書いたなら、それを正しく表示できないブラウザこそが「出來損なひ」だと言つていい。

と言つても、この邊の勘違ひが起こつてしまふのも無理はないかもしれない。最初からHTMLでテキストを作らう、と考へるユーザはまづ居まい。Webを閲覽して、ホームページを見て、「おほこれはいい」と考へて、自分でもホームページを作らう、と考へる。これはわたしの經驗なのだけど、このやうな契機でホームページを作り始めた人は多いと思ふ。そして、普段使つてゐるブラウザ……日本のユーザなら、殆どIEかNNのどちらかだらうけど、自分が使つてゐるマシンの畫面に、シヨートカツトの置いてあるブラウザをホームページの「確認」に使つてしまふ。つまり、先づ自分のマシンで、ちやんとホームページが「映る」かどうか、なのだね。

ホームページ作成者にとつては、ホームページが「自分の意圖どほり」表示される事が大事なのである。ちやんと「レイアウト」されてゐるか、畫像で見た目を派手に、スクリプトで動きを、これらが全て意圖通りに實行されなければ氣に入らないのだ。インターネットは「インタラクテイヴ」、即ち既存のメデイアと違ひ、受け手はただコンテンツを受け取るだけでなく、コンテンツを自由に、樣々な環境で受け取る事ができるメデイアである、と言はれてゐるが、一定の環境でしか見ることのできないホームページは受け手からその「自由」を奪つてゐるのである。

わたしは日本のインターネツト文化を代表する文化人を3人擧げるならば「グローバルブレイン」立花隆氏、「インターネット的」糸井重里氏、「ドットコムショック」大前研一氏と勝手に決めてゐるのだが、以前糸井さんのサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を見やうとしたら、URLを入力しても畫面が眞つ白なままで、いつまで經つても何も起こる氣配も無い。どうしたのかと思つてページソースを見てみると、JAVAスクリプトが使はれてゐた。つまり、わたしはその時IEで見てゐたのだけど、「セキュリティ」を「高」にしてJAVAを切つてゐたので、何も出てこなかつた、といふ次第なのである。イトイさん、JAVAを切つておくやうな猜疑心の強い奴はわたしのホームページを見る必要は無いよ、と言ふ事ですか。

してみると、".tv"と言ふドメイン名が最近登場してきたのは非常に示唆的である。".tv"ドメインとは、".com"".net"のやうなTOPドメインの1つだが、このドメイン名を登録する企業The .tv Corporationのホームページに據れば、本來は日本のサイトである事を示す".jp"と同じく南太平洋の小國ツバルのカントリーコードだつたが、この企業が買ひ取つて使用權利を得た。ちなみにツバルは、このドメイン名賣卻に因つてなんと國連に加盟できるほどの利益を得てゐると言ふ。それだけ人氣が有り、商品價値の高いドメイン名である、と言ふ事なのだが……

.tvの利用価値は?

.tvドメインは、インターネットの世界における新しいスタンダードです。かつてはテキストベースのシンプルなウェブサイトが主流でしたが、現在では映像やサウンドをまるで"TV"のようにリアルタイムで楽しめるインタラクティブなコンテンツが増えてきました。かうした新時代のウェブサイトに、既存のドメインは似合いません。.tvドメインは、ストリーミング技術などを驅使したダイナミックなウェブサイトに、最もふさわしいドメインなのです。

あの……TV見たけりやTV見りやいいんぢやないでせうか? 「ビデオスターの悲劇」ぢやないけど、リアルストリーミングには失望した。1inchも無いやうな、ざらざらでぶつぶつ切れる畫像見てて何が樂しいんだ。CSもあるつて言ふのに。それにしてもこの企業は隨分氣が早い。ADSLがやつと普及し始めたばかりだつて言ふのに、映像やサウンドをまるで"TV"のやうにリアルタイムで樂しめるインタラクテイブなコンテンツもないでせうに。

映像を配信したければTVで流せばいいし、音樂はラジオで十分。インターネツトは、コンピユータ同士がデータをやり取りするための手段である。通信域も閲覽環境もまだまだ未熟なインターネットのwwwでできるコンテンツはテキストベースのシンプルなウェブサイトぐらいしか作れないのである。あるいはいづれ、映像も音樂もインターネットで配信するやうになる時代は來るのかも知れない。でも時代はまだそこまで行つてゐない。インターネツトは、まだまだHTML文書をやりとりするのが精一杯の環境でしかないのに、餘り無理させなさんなよ。

</section14>

<section15>前略、Webの上から

見ず知らずの差出人から手紙が屆ゐた。封筒を見ると色つきで見た目はいい。中身も恐らくは封筒とセツトの便箋で、これまた惡い印象は受けない。文面を讀んでみると、書き出しは「やう、元氣か?」と始まつてゐる。

さてこんな手紙を受け取つたら、あなたは讀むだらうか。

見ず知らずの相手に對し、向かうはどうか知らないが少なくともこつちは知らないのに、「拜啓」も「敬具」も無しにいきなり「やう、元氣か」と來た。普通怪しむか、「何だこいつ」とそれ以上讀まずにゴミ箱にポイしてしまふだらうけど、これで「氣さくな手紙だなあ」とにこにこして讀む奴がゐたら、わたしはそいつと知り合ひになるのは避けたい。氣心の知れた友人から來たのなら菟も角、面識の無い相手に「やう元氣か」呼ばわりされる筋合ひは無い。そんなのは「氣さく」ではない。「馴れ馴れしい」だけであり、「失禮」でさへある。怪しまれても仕方ないし、相手の讀む氣を失せさせる事請け合ひである。

「親しみやすい文章」は、存在する。長くても苦にならない、書き手の言ひたい事がはつきりと傳わつてくる、例へ形式にかつちり則つてゐたとしても、良い書き手の綴る文章は讀み易く、紙の上に視綫をすらすらと走らせる事ができる。

しかし、「親しみやすい」と「馴れ馴れしい」は違ふ。

手紙はまだ特定の相手が目を通すだけだが、Webページは不特定多數、それこそ世界中の誰からも讀まれる可能性がある。HTMLは、世界中の、誰が、どんな環境で見ても「同じ内容」が表示されるやう策定されてゐる。文書型宣言やmeta要素によるプロパテイは、ユーザエージエントに對し、HTMLのどのバージョンに即して書かれてゐるのか、言語は何に據つて綴られてゐるのか、かうした情報を示す爲のものだ。meta要素は本來サーバからフアイルがダウンロードされる時、添付される情報だが、サーバに因つては添付されない場合もある。その爲HTML文書の作成者は、meta要素でHTMLのプロパテイを記入しておく事が望ましい、とされる。確かに、書かなくたつて別に構ひはしない。ブラウザでの見た目では精々文字化けするぐらいだ。

手紙にしてみたところで、見ず知らずの相手だらうと、必ず「拜啓」で書き出す必要は無い。しかし、さうした挨拶もなしの手紙は、まづ讀んでもらへない。

わたしが思ふに、文書型宣言やmeta要素は、手紙における挨拶のやうなものだ。挨拶には單なる「形式」だけではなく、「もし良かつたら私の文章を讀んでください」と言ふ意味合ひも込められてゐる、と思ふ。HTMLの場合、その文書のプロパテイを示すことで、その「出自」は明らかとなる。つまり讀んでもらふための言はば「前口上」なのだ。それが無いと言ふ事は、「讀んでもらふ必要は無い」と言つてるのと同じ事でありそれでは何の爲に文章を書いたのやら。或いは「讀むよなあ?」と言ふ傲慢な思ひ上がりのどちらかである。繰り返しになるが手紙は特定の相手に讀んで貰ふだけである。例へば氣心の知れた友人同士で、「拜啓」も「前略」も無からう。それこそ「やう、元氣か?」で構ひはしない。しかし見ず知らずの相手に對し、「やう元氣か」は餘りにも禮を失してゐる。剩つさへ、Webページは不特定多數に讀まれる爲にwwwにアップされる。閲覽者の殆どは初めて目にする人間のはずだ。手紙よりも「禮儀」を守つていなくて、どうして讀んでもらへるだらうか。

日本におけるインターネツトの草分けである村井 純氏に據ると、インターネツトが普及した原因は「いい加減さ」にあると言ふ。成程、コンピユータは本來1字1句の間違ひでも素つ氣無く"error"としか返答してくれない。しかしインターネツトを支へる技術は、「パケツト」にしろ「www」にしろ「TCP/IP」にしろある程度の間違ひも許容するやう出來てゐる。例へば、本來であればHTMLは文書型宣言が爲されvalidで無ければ表示されない筈なのだが、實際はそんな事は無い。いい加減なHTMLでもブラウザは表示してくれる。

だからと言つて、「間違つててもいい」なんて言ふのは間違つてゐるのである。

その文章を、と言ふよりはWebページを、あなたは本當に讀んでもらゐたいのか?

文章に限らず、繪でも、音樂でも、「人に見て貰ふ事」を考へると、自ずと「丁寧」に作るやうになる。間違ひは成るべく無くすやうにするし、自分の意圖が、受け手に傳わるやう作品を作るやうになる筈だ。だ・の・に、HTMLではブロウクンなタグ、DTD宣言さゑされてない、本當に人に讀ませる氣が有るのかと言ひたくなる物が横行してゐるのが現状なのだ。Webマスタが作りたいのはHTMLではなく、「Webページ」なのだから仕方ないのか。巷に溢れる「ホームページの作り方」は「手紙の書き方」ではなく、「便箋の選び方」になつてゐる。便箋や封筒のコーデイネートには氣を使ふが、肝腎の中身は平氣で「やう、元氣か?」としたためてゐるのである。

「禮儀」や「常識」が破壞され、「親しみやすい」と「馴れ馴れしい」が混同されてゐるのが今と言ふ時代だから、「手紙の挨拶」の例へは餘り肌には響かないかもしれない。「いーぢやんめんどくさいあいさつなんかなくたつて。ラクに行こーぜラクに」とか言はれたりして。わたしは人見知りする方なんで、初對面の相手にタメ口を利かれると卻つて警戒してしまふんですが。

ところでわたしが前に擧げた「インターネツト文化人3人衆」の立花、糸井、大前だが、實はわたしはこの3人がインターネツトについて語る事は全く信用してゐない。3人とも自分のサイトを持つてゐるのだが、立花氏は出版社が運營するサイトがあるし、糸井氏は先ほども擧げた「ほぼ日刊イトイ新聞」が有名だ。大前氏も持つてゐる。し・か・し、どのサイトも、TOPページのソースに文書型宣言がされてゐない。「讀んでもらふ必要は無い」と言つてゐるのだ。更に言つてしまへば、3人ともHTMLの基本さへ分かつてゐないのだ。「ほぼ日」は前にも書いたけどJAVAを切つてゐた爲入れなかつた。だからわたしは彼らが「インターネツト」に就いて云々するのを信用出來ないのだ。

</section15>

<section16>WeBTeX提案

すつかり見榮えに囚われてしまひ、論理マークアツプの本來を見失はされてゐるHTMLだが、であれば「構造」ではなく、「見た目」を定義するマークアツプ言語でWebページを作れば早いのではないか。

「CSSを使へばいいと自分で言つてるぢやないか」、と言はれさうだが、CSSはHTML文書が無ければ使へないし、それに飽くまで「正しい」HTMLで無ければ意味が無い。CSSのやうにHTMLを補完するのではなく、最初からレイアウトや文章の整形を施す爲のマークアツプを目的とする言語である。

"TeX"を御存知だらうか? Donald E. Knuth教授に因つて作られたマークアツプ言語である。HTMLが(本來)「構造」をマークアツプする言語であるのに對して、TeXは「レイアウト」をマークアツプする言語である。數學者であるKnuth教授が作つた言語だけあつて、數式のやうな複雜なレイアウトに強い。例へばワープロでも作るのがちよつと難しいやうな數式でも、TeXはお手の物である。當たり前か、數式を書く爲のコマンドが元々有るんだから。このTeXは、コマンドさへ覺えればレポートを書いたりする時にとても重寶する。元々が「組版」の出力、數式の入つたレポートを書く爲に開發されたのだから、ワープロよりも綺麗に整形された文書が出力できる。

開發者Knuth教授は現在大學を退職し、TeXを最終バージョンとしてゐる。そのバージヨンは圓周率と同じ3.14159なので「π」である。流石と言はうか。

その後TeXの開發はバージヨン「π」を基にした他の技術者に據るものとなり、日本ではLaTexやpLaTeXが有名である。

で、わたしの考へとして、このTeXをWebで使へるやうにしたらどうか、と思ふのである。

まあ名付けるとしたら"WeBTeX"とでも呼ばうか。

現在でも、TeXをWebで使ふ事は有るが、TeXで作つた文書をHTMLやXMLに變換したり、或はその逆だつたりして、TeXがWebページのフオーマツトとして用ゐられてはゐない。だけどTeXでWebページを作れたら面白いと思ふ。今やHTMLは「見榮え」の爲の所謂視覺系要素が大幅に追加されてゐて(HTML4.01の仕樣書では多くが「推奬されない」けど)、構造を示す要素よりグラフイカル要素の方が多く使はれてゐる。實際、論理的にHTMLをマークアップしてCSSで整形するより、視覺系要素を使つて見た目を整へた方が作る時は「ラク」ではある。尤も先述したやうに「サイトの改裝」をしようとか考へた時泣きを見るけどね。

勿論、本來紙に出力する爲の組版ソフトであるTeXをそのままWebで使ふ事は出來ない。だから、Web用に特化したTeX、なんて物が開發されるといいのではないかなあ。テキストの「論理構造」なんて考へる必要は無く、Webマスタは「レイアウト」に專念できる、さうしたWeb用の言語ができれば、Webページの製作もより樂になる。Webで「テキスト」を發表したい人はHTMLを使へばいいし、「Webページ」を作りたければWeBTeX、さうした使ひ分けをすればよい。

だけどTeXつて、結局はHTMLと同じ「テキスト」を記述するための言語なんだよね。畫像も扱へない事は無いけど、HTMLと同じく「插繪」程度である。「Webページ」の爲のマークアツプ言語はTeXでも無理か? それにWeBTeXが開發されても、數式を記述するためのコマンドで文章のレイアウトをすると言ふやうな間違つた用法は蔓延るだらうなあ。

WebTeXはやつぱ「ナシ」の方向で。xmlに期待しませうか。

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