ホームページ入門講座<chapter4>ゴウ トウ ホーム

<section21>ホームページは「家」か?

section2で、「ホームページはその名が示すやうに家のやうなもの」だと言ふ糸井 重里氏の言葉を引き合ひに出したのだが、確かに、「家」或は「店舖」とか言ふ感覺を持つてサイトを制作してゐる人は多いと思ふ。だからこそ、掲示板をちよつと荒らされたり、他のサイトで批判されたりするとすぐにへそを曲げてしまふのだらう。「なんて失禮な客だ」と。確かによその家に上がり込んで傍若無人な振る舞ひをしたら非禮を咎められるのも仕方ない。

しかしホームページは「家」ではない。

そもそもホームページの「ホーム」と言ふのは野球の「ホームベース」と同じで、「發着點」と言ふ意味である。本來webにおける「ホームページ」とはブラウザを開いて、最初に表示されるページの事を言つてゐた。その後、webサイトにおいて最初に表示されるページの事も言ふやうになり、今ではwebサイトそのものや、webページ自體をも「ホームページ」と呼ぶやうになつてゐるが、ホームページを「家」と認識するのは些か不適當である。

wwwは分讓住宅地ではなく、圖書館と考へるはうが適當だ。しかしかなり特殊な圖書館で、原則的に誰でも書架を作る事ができ、文書を閲覽してもらへる。個人でwebサイトを立ち上げる場合、プロバイダやレンタルサーバに登録し、サーバのスペースを借りると言ふ場合が多いので、餘計に「分讓住宅」の感覺が身に着いてしまふが、これもプロバイダなどの企業が立てた書架の棚の1つを借りてゐる、と考へたはうが例へとしては適當だらう。webサイトを立ち上げる場合、本來は自分でhttpサーバを用意して、そこにコンテンツを設けるのが普通なのだ。先程の圖書館のたとへで言へば、このサーバが書架となる。個人で書架を立てるのはなかなか大變だから、企業の立てた書架の棚をレンタルするわけである。

さう、webサイトとは文書が置かれた「棚」であり、webページとは「文書」なのだ。何しろ「ページ」なのだし、html「文書」なのだから。「掲示板」は言はば横に鉛筆の置かれた白い紙である。その棚に置かれた文書を讀んで、どんな感想を言ふかは閲覽者の自由だ(勿論感想を言はない自由だつてある)し、そこに筆記具付きで白い紙が置いてあつたら何書かれても仕方ない。いやな書き込みだつたら棚の持ち主はその紙を捨てるなり、消すなりすればいい。書かれるのがいやだつたら紙と鉛筆を置かなければいい。

chapter1の繰り返しになるけど、リンクを張る、と言ふのは「この文書は第3棟2階の北側3番目上から1つ目右から3つ目の棚にある『イラスト』と言ふ文書だよ」とリンク元の文書に書くだけの話であつて、更に閲覽者がその情報を目にしたとしても實際にその棚に行つて「イラスト」文書を見るかどうかは分からない。リンク張られたぐらいで目くぢら立てたつてしやうがないのである。

してみると、スクリプトと言ふのは本を開くと繪が飛び出してくる「仕掛け繪本」のやうなものでしかないわけだ。見た目には面白いけど、「だからどうした」。「仕掛け繪本」にもエリック・カールのだんまりこおろぎはらぺこあおむしのやうな傑作はあるけど、これらはお話としても面白くて、仕掛けも效果的に使はれてゐるが、大抵の仕掛け繪本は子供騙しに過ぎない。肝腎の中身が伴つていなければ仕方ないのだ。

さて「ホームページ」についてだが、英語で"home"は「家庭」の事で"house"は「家屋」の意味合ひがある。つまり"home"は「自分が歸る爲の家」、"house"は「人が出入りする家」と言へるかもしれない。"home"は私的であり、"house"は公的空間、「うち」と「いえ」と言ふわけか。ならば、「ホームページ」で無禮な振舞ひをした(とホームページの管理者が感じた)ら管理者が怒り出すのも無理はないかもしれない。何しろ人を迎へ入れるためではなく、自分が住むための「家」なのだから。だけど「ホーム」が人を迎へ入れる爲の場所でないとしたら、他人に見てもらふ事を目的とするwebページを「ホームページ」と稱するのは不適當だ。糸井さんが言ふやうに「家」だとしたら「ハウスページ」の方が相應しいかも。いや、「1度足を踏み入れたなら、客は主人の言ふ事に從え!」と考へてゐる「家主」が多いのだから、やつぱり「ホームページ」でいいのか。

てな事を考へてゐたら、いい事を言つてゐる人が居られた。

見知らぬ人は家に入れません。家は公開しません

公開されているものを家と呼ぶのは無茶苦茶です

そーなんだよ、家は家族を迎へ入れる爲の住處なのであつて、全くの見ず知らずの他人を上がり込ませる場所ではない。普通家に上げるのはその家に住む家族の知り合ひである。他人が人の家に入る時、挨拶なしでは入らない。さうか、だから訪問しておいて掲示板に書き込みとかしないと怒る管理人が居るわけだ。「挨拶も無しに默つて歸る氣か!」と。

かうなると、益々「webサイト」の呼び方が正しいと分かる。

サイト"site"とは「地點」の事である。"website"とは即ち、「web上の地點」と言ふ意味になる。webは元來が共有のリソースなのだから、言はば天下の往來である。webサイトとは要するにhtml文書や畫像や音聲フアイルなどが存在する「地點」に過ぎないのだ。webサイトを運營するのは、そこで情報を公開してゐるだけであり、そこを訪れた人が、一瞥しただけで去つてしまはうが、じつくり見ていかうが、それを強制する事は誰にも出來ない。譽めるのも貶すのもまた見た人の自由である。

それに良く考へてみれば、いきなり人樣の家に上がりこんでもてなして貰はうなんて思はないでせう「隣の晩御飯」のヨネスケでもなけりや。ヨネスケだつて最初の家を除けばその家のお隣さんと一緒に上がらせて貰つてゐる。つまり、お邪魔しようとする家の知己を頼つてゐるのである。

「ホームページ」と言ふのは最初にも言つた通り、ブラウザで最初に表示されるページの事であり、擴大しても精々「webサイトの最初のページ」の事であり、「webサイト」を「ホームページ」と呼ぶのはをかしい。逆に言へば、「ホームページ」と呼んでしまふから、「家」だと言ふ錯覺が起きてしまつて、必要以上に「家のしきたり(しかもそのサイトでしか通用しないやうな珍妙なルール)」に囚われてしまつて、ちよつとでも自分の意に添はない客が來ると「歸れ!」と逆上してしまふ管理人を生んでしまふのだらう。

糸井さんは言葉のプロだらうに、「ホームページ」の意味に就いて無頓着すぎるのではないのかな?

</section21>

<section22>家族の風景

ちよつと前になるけど、ビデオカメラのTVCMで、こんなのがあつた。

渡部 篤郎と田中 律子演じる夫婦(實際夫婦なんだけど)が、運動會に出てゐる。玉轉がしをしてゐたのだが、夫婦仲良くこけてしまふ。それを商品であるカメラで撮影してゐた子どもが、隣に坐る友逹と頷き合つて言ふ。

「ホームページ的にはオイシイね」

誰が見るか。

笑ひに「格」が在るとして、何がこの世で1番格下かと言ふと、「素人」だと思ふ。「笑へるか笑へないか」はこの際問題ではない。そりや子どもがでんぐり返つてケーキに頭から突つ込んだり、ヤギが牧場主の頭にかぶりついたりすりや可笑しいよ。笑へるよ。だけどさうした「ズツコケ」は言つてしまへば誰にだつてできる。「誰にだつてできる」物に、「價値」は認められるだらうか。

ビデオカメラはすつかり一家に1臺の感があるが、私はやつぱり、「投稿ホームビデオ」番組がその普及に大きく貢獻したと思ふ。私が小學生の頃だから、もう十數年前になるが、小堺 一機と關根 勤が司會の「コサキンかつてにごつこ」と、加藤 茶、志村 けんが司會の「加トちやんケンちやんごきげんテレビ」といふ番組が有つた。この2つが「投稿ビデオ」のはしりであらう。「ごきげん」は1時間のうち前半が加藤志村が主人公のコントドラマ「探偵物語」だつたのだが、後半に投稿ビデオのコーナーがあつた。「かつてに」は30分全て投稿ビデオである。その後山田 邦子と渡邊 徹が司會の「邦子と徹のあんたが主役」と言ふ1時間丸ごと投稿ビデオの番組がスタートする。この頃はほんとに「ブーム」と呼んでいいほど大小の投稿ビデオ番組が各局で放送されてゐた。投稿ビデオ專門の番組こそ今では無くなつたが、投稿ビデオコーナーを設けてゐる番組は現在でも有る。

なんでここまで投稿ビデオがブームになつたのか? それは番組のタイトルにも有るやうに、「あんたが主役」になれるからである。まあ時間にすればほんの數分だけど、全國の視聽者を相手に主役を張れるのである。それこそ玉轉がしで一緒に轉がつてしまつたりしてもよし、逆立ちで歩く我が家の猫でもよし、滿面の笑みで走り囘つてゐたのにテーブルの角にごつんと頭をぶつけてわんわん泣いたうちの坊やでもよし、菟に角誰もが有名人になれるのである。ただし數分間だけではあるけど。筒井 康隆の「おれに關する噂」がある意味現實となつた。文字通り誰もが數分間だけスターになれる時代がやつてきたのである。

ただし、飽くまで數分間「だけ」に過ぎない。投稿したビデオが流れて、畫面の中でズッコケ、お茶の間はドッカーン。スタジオ大爆笑。タレントたちが、何か面白いコメントを付けてくれる。ハイ終はり、次のビデオ行つてみやう。

ふと思つたのだけど、この投稿ビデオブームつて、ビデオカメラメーカの宣傳作戰だつたのではないか? この手の番組を見て、「よし、うちも投稿しよう」とビデオカメラを買つた消費者は結構多いと思ふ。投稿はしないまでも、寫眞だと止まつてゐる繪、一瞬のシーンしか撮れないが、ビデオならテープとバッテリーさへ有れば幾らでも、何時間でも撮れる。運動會や文化祭を丸1日撮影する事だつてできるのだ。投稿ビデオのやうな樂しい場面を澤山撮れるぞ、と言ふ具合である。ビデオカメラは、「主役になれる」と言ふ幻想を假託され、市場での商品價値を得たのである。しかし、TVで流れてゐるのは、週に何百本と送られてくるテープをクルーが選別した一握りに過ぎない。それこそ投稿できるやうな面白い場面は、テープの山ができるまで撮つてそれでも撮れるかどうか分からない。

投稿ビデオ自體は、「ブーム」は終はつたものの、「番組の素材」としてのニツチは業界で確立してゐる。ビデオカメラもまた、家庭での地位を築いた。されども投稿ビデオブームは去つてしまつた。折角撮つたテープを送らうにも番組が無い。送つたとしても、採用して貰へるかどうか分からない。しかし今や、投稿ビデオ番組と入れ替はるやうに、テープを送るよりも手輕で、しかも確實に見て貰へる手段が登場した。

「ホームページ」である。

いまや動きのあるホームページは常識だ。最近はビデオカメラもデジタル化し、パソコンの性能も上がつてより家庭で動画フアイルを簡單に作れる。

「わが家のホームページ」お父さんがにこやかに挨拶し、訪問者を出迎へてくれる。最近運動會があつたので、うちの子の驅けつこの樣子を見て下さい。殘念ながら3位でしたけど、一生懸命走りましたよ。お母さんも得意のケーキの燒き方を紹介いたしまーす。

だから、誰が見るか。

以前ホームビデオを見せられた事があるんだけどこれがまたつまらないのつまらないのつて。何が樂しくて人樣のガキの運動會の樣子を延々見せられなきやならないんだ。當の家族は喜んでゐるが、客のこつちは愛想笑ひしてゐるしかなかつた。

日常にも「笑へるポイント」といふのは確かにある。だがそれは正に「一瞬」でしかない。素人が、その瞬間を捕らへるのは本當に「運」に頼るしかない。只漫然とビデオカメラを覗いてゐたつて、撮れやしないのだ。ホームビデオが面白いのは、それが家族の樣子だからである。自分の家族を見てゐて不滿を感じる人間は居まい。しかし他人が見て面白く思へるかどうかは別の話だ。ホームビデオと言ふのは正に「自己滿足」の産物であつて、しかも自己滿足程他人をうんざりさせるものはない。「私の家族のホームページ」はさうしたホームビデオと同じく、本人逹だけが樂しめるものでしかない。

私が「素人」に「笑ひ」の中でも最低ランクをつけるのは、「誰でもできる」からであり、「自己滿足」でしかないからである。素人のズツコケなど見る價値は無い。

「ホームページ」と「ホームビデオ」の「ホーム」つて同じ意味なんだらうね。

</section22>

<section23>親父の好きなコンピユータ

遲くなつてしまつた。家族は心配してるだらうか。だけど「家族」が奧さんや子どもならまだしも、おれの場合兩親なんである。いい年こいて何やつてるんだか我乍ら。

結婚する相手も居ないくせに埒も無い事考へ乍ら、おれは臺所の玉暖簾をくぐつた。

「ただいま」

おや? いつもならは袋が「お歸り」と言つてくれんのに、返事が無い。居ないのかと思へば、ちやんといつもの臺所に居る。お袋の代はりに、親父が「お歸り」。

何か佛頂面だ。お袋も何か樣子がをかしい。喧嘩でもしたのか? だとしたら氣まづいなア。

氣まづいけど腹は減つてゐる。

「飯は?」と聞くと、お袋が「先に食べたよ」と言つておれの分の支度を始めた。やつぱり何か樣子がをかしい。2人ともやけにむつつりしてゐる。こりやほんとに喧嘩かな? いやだなあ、氣まづい飯は。

お袋が温めなほした煮物と味噌汁でおれは飯を掻き込みだした。味は惡くないのだけど、雰圍氣が不味い。腹空かしてこんな時間まで仕事して、途中コンビニで買ひ食ひもせずに歸つてきたんだから、せめて飯はうまく食ひたいのに。

取り敢へず腹には詰め込んで、食噐を流しに片付けた。

「ごちさうさま」

見たいTVがあるので、テーブルに坐りなほすと、

「今日はパソコンしないのか?」

と親父が聞いてきた。相變わらず不機嫌な面だけど、聲は別に怒つてゐる樣子でもない。

確かに、歸つてくるといつもパソコンに向かふけど、今日はTVを見たいのだ。

「え? 何で」

と聞き返してみた。

「いや、いつもやつてるから」

親父にしてはどうにも煮え切らない言ひ方だ。一體何だつて言ふんだ?

それつきり、親父もお袋も默つてしまつた。臺所に居ても尻の坐りが惡いので、TVは自分の部屋で1人で見る事にした。

TVを見つつ、パソコンのスイッチも入れる。別に親父に言はれたからではなく、習慣になつてしまつてゐるのだ。いつものやうにサイトやメールのチエツクをしたりして、TVを眺めてはモニタに見入つてゐたのだけど、親父とお袋の樣子がどうにも氣になつて仕方なかつた。

眞逆なあ。

確かに最近親父もパソコン買つた、と言ふかおれが選んだんだけど、インターネツトに接續できるやうにもしたけど、あの親父が眞逆ね。でもあれは機嫌が惡かつたんぢやなくて、そわそわしてるのを隱してたのか? 何しろさつき部屋の電氣を點けたら、キーボードの上にURLの書いたメモが載つてゐたのだ。無視する事にしてたんだけど。

「親父の作つたホームページなんか見ねえよ」

とドアの向かうに言つてやると、廊下でおれの樣子を伺つてゐた親父が自分の部屋に戻つたらしく、親父の部屋のドアが閉まる音がした。ちよつと淋しげだつた。

實際、私の父親はコンピユータはファミコンで「ボンバーマン」とPSで「マージャン」をやつた事があるくらいで、仕事に使ふのでもなけりや觸る機會はあるまい。ましてやインターネットになど接續し、自分の「ホームページ」など作る筈も無い。でも「ボンバーマン」は50面クリアしてるんだよな……

このコントは、以前永瀬 正敏がやつてたDIONのCMを下敷きと言ふか、パクリと言ふか、で書いたんだけど、父親がモニタで「ようこそ」なんて言ひやがつたら、「頼むから止めてくれ」と言ふ。恥づかしいつたらありやしない。

</section23>

<section24>それは先生

『ぷっ』すまと言ふTV番組が有る。SMAPの草ナギ 剛とユースケ・サンタマリアが出演してゐるのだが、この2人が、番組の公式サイトを作る事になつた。そんなん番組のスタツフが作りやいいぢやねえかと思ふのだけど、この番組はナギスケとが四苦八苦するのを見て樂しむ番組なのでまあいい。何しろ、ノートパソコンの開き方さへ分からないやうな連中なのだ。

こいつらに與えられたのが、なんとWindowsXPがプリインストールされたFM-VBIBLOなのだ! どーでもいいけど草ナギは、今使つてるパソコンがメンバーの木村 拓哉が宣傳してるパソコンだつて氣付いてるだらうか。こいつらには勿體無い、おれに呉れ! 私のことは落ちこぼれサラリーマンだと……だから言つてないでしよ!

冗談はさて置き、こんな調子ぢやいつまで經つてもwebサイトなんぞ作れやしない。そこで先生にご登場願ふ事に相成つた。名前は忘れたけど、自分で公式サイトを作つてゐるグラビアアイドルだつた。今日日サイト持ちのアイドルなんて珍しくも無いけどね。言つてしまへば、大して賣れてないから自分でサイトを作る時間があるんだらうけど。賣れてれば「公式サイト」なんて會社やTV局が作つてくれるしね。一寸意地惡いかな。とまれこの先生、「ホームページを作るときには作成ソフトを使ふと簡單ですよ」とか言つて、ナギスケは(多分)自腹でIBM(流石はIBM、「webサイト」と書いてゐる。リンクも申請して呉れとは書いてあるけど基本的に自由だし。申請なんかしてないけどね)の「ホームページビルダー」を買ひに行かされる羽目になるのだが、實は、ナギスケが使つてゐるパソコンに、すでにビルダーはバンドルされてゐるのだ。それに氣付かない時點でどーかと思ふのだけど、まあ「作成ソフト」と言つてる時點で「先生」失格だね。グラビアアイドルにそこまで言ふのは酷だけど。ちなみに、出來上がつたサイトをAnother HTML-lint gatewayで採點してみるとHTML4.01 Transitional としてチェックしました。83個のエラーがありました。このHTMLは 18点です。ださうです。

コードや樂譜が分からない奴が「ギターの先生」とか「ピアノの先生」とは呼ばれまい。スコアブツクが書けない「野球の先生」やストライクが取れない「ボーリングの先生」も居ないし、役や點數計算の分からない「麻雀の先生」や駒の動かし方を知らない「將棋の先生」も居るまい。

しかし、ことコンピユータになると、「先生」はどつと増える。htmlの仕樣書を讀んだ事の無い「ホームページの先生」は幾らでも居る。

前にどこかで見たんだけど、『HTML』つてなんでせうね。"HyperTextMarkupLanguoge"の略らしいけど、良く分かりませんと前書きで書いてある「ホームページ作成講座」がweb上に實在する。勉強せえよ。自分で分かつてないものをどうして他人に教へられるんだ。「ホームページの先生」の中で、i要素とq要素とcite要素との違ひをきちんと説明できる割合はどれぐらいだらうか。i要素以外は「イタリツクで表示する爲のタグ」ぢやありませんよ。「タグ」も正確ではないんだが。

アプリケーシヨンの使ひ方ならまだましな「先生」は居るのだが、コンピュータ關係の「先生」は人にもの教へられるレベルに無い連中がごろごろしてゐる。「ホームページの先生」と言ふのは結局、「ホームページ作成ソフト」の先生なのである。いや作成ソフトをちやんと扱へるなら「先生」と呼んでもいいかもしれないけど、扱へてないんである。ただでさへトンデモ無いhtmlしか吐き出さないのに、更にトンデモ無いソフトの使ひ方をしてゐるものだから見た目は菟も角、ソースはそれこそ目も當てられない。IEでは見れるけどNNだとガタガタ、となつてしまふわけだ。それを取り繕ふために「動作環境も書きませう」いい加減にしなさい。

中島 らもさんのエツセイからの孫引きになるんだけど、山上 たつひこの短篇マンガでこんなのがあるさうだ。男が4人、金も無い事とて4疉半でぼーつとしてゐる。腹は減つてるしどこか行きたいのだが金は無い。だから部屋でぼーつとしてゐるしかないのだが、その中の1人が、「麻雀をやらう」と言ひ出す。麻雀をやると金が儲かるらしい、丁度4人居る。麻雀セットもある。しかし、誰もルールを知らない。「前に見たことがあるんだけど、確かかうやつてた」とテーブルの上で牌を混ぜ始めたのはいいが、山を作つて牌を引いていくところまでは知らないため、4人して延々牌を混ぜ續けてゐる。當然金が儲かる筈も無く、1人が「しかし、ちつとも儲かりませんな」と相變わらず牌をぢやらぢやら混ぜながらぼやいて、オチ。

要するに今webに流行る「ホームページ」と言ふのは、このマンガの延々牌を混ぜ續けてゐるのと同じで、麻雀をやつてゐるやうには見えるが、實は全然さうではないのである。牌を混ぜて、山を作つて、牌を引き、捨てて、役を作つて上がつて、點數を計算し、半莊終へなければ麻雀ではない。webと言ふ名のテーブルの上で麻雀は始まることなく、牌はぢやらぢやら混ぜ續けられてゐる。

</section24>

<section25>そもそもだな

「ホームページ」つて何なの?

くまの子ウーフでもないけど、オムレツを作るときに、それが玉子と砂糖と鹽とコセウで出來てゐる事を知らないで作る人は居ないでせう。たまに牛乳とか生クリームとか入れる場合も有るけど。でも、「ホームページ」を作つてゐる人は、「ホームページ」が何で出來てゐるのか答へられるだらうか。

「ホームページ」は作れてもhtmlは知らない、"html"といふ言葉は知つてても「タグ」のことだと思つてゐる、「タグ」は知つてるが"CSS"は知らないのでiやbやfontなどの視覺系要素を使ひtable要素でレイアウトを整へflame要素でクリッカブルなページを作る。「ホームページ」を作つてゐる人の99%はこのどれかに當てはまるのではないか。「ホームページ」を作つてゐるのならね。

え? 私は「ホームページ」は作つてませんよ。私が作つてゐるのはhtml文書です。白文をまづ書いて、要素をマークアップして、文書型を宣言する(とできれば理想なんですが、實際は仕樣書に合はせちやつてます)。外部スタイルシートとして、CSSファイルを別に作つて、體裁を整へる。それを、私が借りてゐるwebサイトにアップして、皆さんに見てもらつてゐるのです。

「ホームページ」とは何度も言ふやうだが、「webブラウザで最初に表示されるwebページ」の事であつて、「webサイト」の意味で使つてゐるのは日本だけだ。まあ、「ガソリンスタンド」("gas station")や「ナイター」("night game")みたいなもんだね。尤も日本人の言葉の取り込み方はさうしたもので、肉食を禁じてゐたキリスト教の聖堂"temple"で作られてゐた魚の揚げ料理を「天ぷら」と呼ぶやうになり、しかも元々素揚げだつたのに、衣を着けるやうになつてゐる。「ジヤガタラ(ジヤカルタ)から來た」つてんで「ジヤガイモ」だし。しかもほんとは南米原産なのに。ならば、「ホームページ」が日本ではまるで別の意味で使はれるやうになるのは仕方ないのかもしれない。

ただ……「ホームページ」と一言で言つてしまつても、「インターネツトそのもの」から「webページの事」まで、當て嵌まる範圍が大小有つて捉へ所が無いのだ。まあ「ホームページを作る」と言つたら、webページ群を作つてwebサイトにアツプし、後悔、もとへ公開する、事を言ふのだらうけど、それこそ「ワープロ感覺」できるホームページ作成ソフトがこれら一連の工程をより一般人にもやり易くした。しかし、容易になるといふ事は即ち、それだけ過程がブラツクボツクス化すると言ふ事でもある。ソフトを弄れば、「ホームページ」は確かに出來上がる。だが、それがどのやうに作られたのかまるで分からなくても、HTMLも知らずに要素がどのやうにマークアップされてゐるかなんて氣にも留める事はない。「ホームページ」と言ふ言葉が曖昧模糊として、いまいち定義が難しいのは「ホームページ」と言つてる本人が「ホームページ」とは何か知らないからに他ならない。

かくして「ホームページ」は鵺の如くwebを徘徊し、そしてリアルスペースにまで這ひ出てくるのである。最近ではニュースででも「ホームページ」と言つてゐる。「XX社のホームページで」とか「何々省のホームページにおいて」とか言つた具合に。しかし何故か「出會い系ホームページ」とは言はない。「出會い系サイト」なのである。「ホームページ」といふ言葉を使ふなと先づは言ひたいのだが、使ふなら使ふでどちらかに統一せえよ。「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和國」とか「容疑者」「被告」「受刑者」とか稲垣 吾郎「メンバー」とかはちやんと統一してゐるのに。

細かい事を言ふなら、省廳や企業のwebサイトをブラウザで最初に表示されるやうに設定してゐるなら確かに「ホームページ」だけどな。「XXのホームページ」ぢやそのwebサイトのTOPページの事になつてしまひ、他のwebページのことは指さない事になつてしまふ。まあこれはいちやもんだが。

だけどTVや新聞や、webサイト自體でも「ホームページ」と言つてしまつてゐる。ぢやあ「ホームページ」つて具體的に何の事を言ふんだ、答へてみなさいよ。意味もろくに分からないまま言葉を使ふな。「webサイト」は「webサイト」、「ホームページ」は「ホームページ」、全く別物です。「webサイト」の意味で「ホームページ」といふのは間違ひです。「webサイト」と言ふ言葉が有る以上、「ホームページ」は「webブラウザで最初に表示されるwebページ」、或は「webサイトで最初に表示される事になつてゐるページ」の事です。

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<section26>プロとアマの差

日曜大工をしたことのある人は居るかと思ふ。別に手は擧げなくても宜しい。こつちは分からないから。まア日曜大工とは何かと言ふと讀んで字の如し、日曜日にやる大工仕事である。例へば棚を吊るとか、本立てや犬小屋を作るとか、プロの大工をわざわざ呼ぶまでも無いやうな大工仕事を、お父さんとかが休日に金槌片手にトントン一仕事、てなところであらうか。

ところで……「日曜大工のプロ」つて居るんだらうか? 所謂「ホームセンター」の類には道具の扱ひ方とか、簡單な工作とかの教室を開いてゐる所も有る。講師は大抵店員だらうけど、或いは大工が片手間のバイトにやる事も有るだらう。彼らは日曜大工の「先生」ではあるけど「プロ」ではない。日曜大工で飯を食つてゐるわけではないからだ。そもそもが日曜大工とは、趣味で一寸した工作を作つたりとか、若しくは少々家が傷んだけど、大工を呼ぶには手間賃が勿體無いやうな補修を自分でする事である。つまり、元來素人がやる仕事なのだ。同じ棚を吊るにしたつて、同じ材料でも大工なら人1人ぶら下がつても平氣だけど、素人が吊ると鍋1つ置いただけで棚ごと落つこちてしまつたりする。鍋1つ置けない棚は素人だから許されるのであつて、それで飯代を貰つてる大工の作では困る。そんな大工が作つた家はくしやみをしたらドリフのコント宜しくぶつ潰れさうだ。

呉 智英氏に據れば「市民運動のプロ」つてのは居るけどな。

これまで、散々「ホームページ」と言ふ得體の知れない代物に就いて皮肉つてきたわけだが、全然首尾一貫してないのだけれど、私は「ホームページ」がwebに蔓延るのも仕方ないかな、と思ふ。「ホームページ」は「趣味」なのだと割り切つて考へた方がいいやうな氣がしてゐる。だつて考へても御覽なさいな、作つてるのは素人ですよ。HTMLとは何か、webはどのやうな仕組みで動いてゐるのか、分からないけど、「ホームページ」つて面白さうだ、自分も作つてみたい、と思へる魅力が「ホームページ」にはある。私が正にさうだつたからだ。

だが素人が作るホームページが、ごてごてとした滿艦飾で見た目だけはご大層なのはいいとしても、IT關連の大手企業やISP、政府や團體、またポータルサイトやホームページ作成支援サイトのやうな誰よりもインターネツトに就いて知つてゐなければならない筈の企業や團體のwebサイトが、全然HTMLとしてValidで無かつたり、table要素でレイアウトを整形してゐたり、企業や團體も作りたいのは「webサイト」ではなくて「ホームページ」なのだなと言ふ事が分かる。かうしたホームページは、企業なら廣報のセクシヨンが作つたり、或は「webデザイナー」とか名乘る連中に外注やアウトサウシングで作らせたりしてゐるのだらうけど、つまりは、さう言ふ「ホームページのプロ」と稱する連中も、ホームページつて何なのか、分かつてないのだね。「プロ」がちやんとしたものを作つてくれないのだから素人も「ホームページ」を作るのは道理である。

企業や團體が、建築や内裝を素人に頼んだりはしない。きちんとした技術を持つたプロに頼む筈である。建築や内裝は目に見えるし、實際に觸れる事も出來る。詰まりクライアントも仕上がりに對していい出來あがりだとか出來が惡いとかの實感を持つ事が出來る。だけど「ホームページ」と言ふのは頼んだ方も頼まれた方も實際の所わけ分かつてない。「見た目」さへ整つてゐれば、それでいいのである。

それにしてもこれを書いてる現在、「闇黒デー」つてことで野嵜さんのスタイルシートをパクら真似させていただいてるわけだけども、このスタイルは讀みやすいし非常に完成されてる。イツソずつとこのスタイルにしやうかなア。

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<section27>紙の呪縛

「壁新聞」て今でもあるだらうか? 政治團體とかのビラは今でもあるし、私の職場でも組合のビラが時々囘つたりするから、壁新聞も今でもあるだろ。私が小學生の時は學校の新聞部に入つてゐたのだが新聞は新聞でも壁新聞を作るクラブだつた。またクラスで獨自の壁新聞も作られてゐた。壁新聞を知らない方の爲の一先づ説明しておくと、大洋紙に誌面割をして記事を書いた新聞です。んで壁に貼つて掲示するから「壁新聞」と。そのままですね。

かー言ふビラとか壁新聞とかは「ミニコミ」と呼ばれる。一般大衆ではなく校内とか社内とか、限られた對象へ向けて發信されたメデイアである。同人誌もさうですね。逆に、一般大衆に向けられてゐるメデイア、新聞や雜誌、TVラヂオは「マスコミ」である。と言ふか、「マスコミユニケーシヨン」の反對語として「ミニコミ」といふ呼び方が出來たんだけどね。

さて、ミニコミにしろマスコミにしろ、共通してゐる事柄がある。TVラヂオを除けば、全て紙に書かれてゐると言ふ事である。

何當たり前の事を力説してんだ、と思はれるかもしれないが、TVやラヂオの登場までは、口承を除けば、メデイアは全て紙であつた。

一昔前「ペーパレスの時代」、なんて事が言はれてた。オフイスのコンピユータ化、まあ今で言ふ所のIT化が進めば、書類は全て電子化され、紙を使ふ必要が無くなる、電子書類は紙と違つて嵩張らないし、ネツトワーク上でやり取りできるから、處理もスムーズに行はれるやうになる、と言ふやうな「ペーパレス」はもう10年以上前には言はれてたんだけど、なんか今でも同じやうなこと言はれてるねエ。確かに書類の電子化はある程度行はれてはゐるが、矢張り今でも書類は紙が基本なんである。電子媒體は一寸としたトラブルですぐ讀めなくなる。それにメデイアの遷り變りも早い。8inchFDに保存してある十數年前のデータを讀みたくてもドライヴが無い。カセツトテープも然り。昔はデータはカセツトテープで保存してたんだよ。もつと昔になるとオープンリールだつたし。流石に私はオープンリール使つたことはないけどね。そこ行くと紙はまあインクにも因るけど、1000年前の資料も讀む事が出來る。尤もさー言ふ時代の紙は非常に高級な素材で作られてゐるからこそ1000年保つのであつて、今の大量生産の紙なんかは酸性なものだから2、30年經つと自己腐蝕してぼろぼろになつてしまふ。

紙の書類は實際に手に取れる。それに引き換へ電子書類は所詮ヴアーチヤルな存在でしかない。それに電子書類たつて、紙にプリントアウトしちやふことが多いでせう。つまり電子書類は紙に比べてまだまだ信用が無いのだ。人間は畫面に表示されるだけの存在を信頼できるほどデジタルではない。

ここで一寸モニタから目を離して、周りを見てみて下さい。何かしら紙媒體が在らうかと存ぢます。新聞でも、雜誌でも、本でも、チラシでも何でもいいです。手に取つてみて下さい。この場合一番例としていいのは新聞なんだが、紙に依るメデイアならまあ何でも、「構成」が爲されてゐますね。新聞や雜誌なら「紙面割り」とか本とかなら「段組み」とかがされてゐますはな。さう、紙媒體はかうして「レイアウト」が出來るわけです。新聞の構成なんかを見て頂ければ一番分かりやすいんだけど、決められた紙面に記事を盛り込む爲、記事と記事とが食ひ合つてゐたりする。竝び方もさうだが、横書きも縱書きも自由自在である。

かう言つた紙媒體と、電子媒體はどちらが目にすることが多いでせうか。考へるまでもありませんはな。では紙媒體と、電子媒體とはどちらが歴史があるでせうか。これも考へるまでもありません。

話を急に變へます。コンピユータにしてみれば情報とは001101001101つまりONOFFでいい。と言ふより、それしか判斷できない。だけど1101011101ぢや人間には分からない(分かる人も居るだらうけど)。コンピユータはそれ自體では「腦」だけである。今のところほんとの意味でのAIは完成してないから、コンピユータだけぢやぴくりともできない。何らかの命令をユーザ、詰まり人間が與へてやらなければ何も始められない。人間だつて腦だけぢや生きられないのと同じく、コンピユータもシリコンチツプだけでは只の石ころである。心臟、つまり電源が必要だし、命令を受け取り、處理を出力するための噐官も必要だ。即ち、インターフエースである。パソコンを例にとるならキーボードやマウス等の入力デバイスやモニタ、プリンタなどの出力機噐が、人間で言へば耳や目、口に當たる。かうしてみるとインター「フエース」とはよく言つたもので、正にコンピユータの「顏」と言ふわけだ。

さて命令を與へるには、話すにしろ、紙に書いて示すにしろ、ジエスチユアにしろ、必要になるのは「言葉」です。だけど先程書いた通り、コンピユータには0110110101しか判斷できない。しかし人間がONOFFだけで命令を與へようとするのは非常に手間である。實際世界初のコンピユータ「エニアツク」ではパネルにコードを拔き差しして計算させてゐたらしい。「コードが繋がつてゐる」=ON、「コードが繋がつてない」=OFFと言ふわけですな。だけどこの方式ぢやユーザは面倒極まりない。例へば"1+1"と言ふ計算をさせるとする。先づ「1」を入力しよう。「1」「+」「1」のスヰツチを入れ、最後に「=」をONにする。てゑと「1」「+」「1」が入力されて、「=」がONになつてるのだから「1+1」を計算しろ、と言ふことだから2進法だと1に1を足すと繰り上がつて10となる。「1+0」であれば、「1」「+」はONになつてゐるが次の「1」はONになつてない。1に0を足しても1のままだから答へは1である。勿論コンピユータがこのやうな結果を彈き出したことをユーザが分かるには、モニタやプリンタなどで出力しなければならないが、計算結果を出力させる爲の命令を新たに與へなければならない。で以つてこのコンピユータだと、「1+1」「1+0」「0+1」「0+0」の計算しか出來ない。だつてスヰツチがそれしかないんだから。こんなんぢや算盤の方がまだマシだ。これでは使ひ物にならないので、人間にもコンピユータにも分かる言葉を作り、それを使へばユーザも簡單に命令を出せるし、コンピユータも人間に分かる形で結果を出力できる。これがプログラミング言語だ。

プログラミング言語は大抵英語を基にしてゐる。英語圈で作られたと言ふ事もあるし、26字だけの英語のアルフアベツトはコンピユータに扱はせるのも容易である。さてパソコンのモニタは、今でこそ解像度1024x768色數1670萬が主流になつてゐるけど、ほんの十數年前はモノクロが當たり前だつた。それも黒地に緑とか、緑の畫面に白地とか、これがまた目に良ささうな惡さうな、味氣無い畫面だつた。所謂"CUI"と言ふ奴ですな。それもその筈でプログラミング言語、詰まり字を扱へればそれで良かつたんだもの。モニタと言ふのは詰まり計噐、コンピユータの状況をユーザに報せる爲の表示盤でありさへすれば良かつたのだ。

コンピユータが「計算機」でしか無ければCUIで良かつたのだけれど、ここにMacOS、そしてWindowsが登場する。これらのOSの劃期的だつた點は、それまでのやうな文字列とキーボードによる操作ではなく、モニタ上のウヰンドウやフアイルをマウスでクリツクすれば動くやうになつた。西原理惠子さん風に言へばびょわんでぷちぷちなわけである。まアGUIの登場が、コンピユータを一氣に身近なものにした。良くも惡くも。さて置きGUIにおいて畫面上でフアイルやフオルダを操作する領域を「デスクトツプ」と屡々呼ぶ。現實でもフアイルやフオルダを扱ふのは机の上なのだから、これはよく出來たネーミングと言へよう。

かくして、デスクトツプに置かれたパソコンのデスクトツプで、ユーザはフアイルを整理するわけだが、今やオフイスのみならず、家庭に於いてもワープロソフトでチラシを作つたりできる。まアワープロがあれだけ普及したことを鑑みても、やはり取つ付き易いのはワープロソフトですはな。別の意味で一番取つ付きやすいのはやつぱゲームだらうけど。ワープロソフトは、畫面上の假想の紙に自由自在に文章を構成することが出來る。更にはプリンタさへ在れば實在の紙として出力することができるわけですな。ちつと前まではミニコミなんか作らうと思つたらガリ版で刷らなきやならんかつた。ヤスリの上に版下置いて、鐵筆でがりがりやつて、インクをローラで伸ばして1枚1枚刷るわけですよ。字はそれこそ金釘、香ばしい匂ひのインクで手は眞つ黒になつて刷らなければならなかつた。それが今やあなた、ワープロソフトでキーボードぱちぱち打つて、「印刷」ボタンクリツクすれば活字で出てくるし手もちつとも汚れない、と言ふ夢のやうな時代である。誤字の無い書類は作れるは、年末に爲れば年賀状は自分家でできるは、ワープロソフト樣樣である。

さてかうしてワープロソフトに觸れていくうち、1つの錯覺が起きる。こんぴゆーたでも紙を扱ふことが出來る、と。詰まり、正に「デスクトツプ」、机の上であるかのやうに、コンピユータで書類を作成し、整理し、廢棄する、と言ふ氣分がしてくるんですな。CUIの味氣無い畫面では、そんな錯覺は起こらない。無機質なテキストの列を幾等眺めてみた所で機械にしか見へ無いからだ。しかしGUIならば、印刷プレヴユーを確認しつつ文書を作成することが出來る。同じ文章をレイアウトするのでも、TeXでマークアツプするのではほんとに機械的な作業にしか思へない。だがワープロソフトならば、視覺的に、コピーアンドペーストでのりやはさみを使つて切り貼りするやうに構成することが出來る。しかも手は汚れない。

ここで家庭やオフイスにパソコンを普及させた要因がGUIを用ゐたOSの登場であることを思ひ返してみやう。GUIに依つてパソコンはコンピユータでは無く「パソコン」となつた。昔よくMacユーザが「Macはパソコンぢやない。MacはMacだ」と言つてゐたのにも逆説的にそれは象徴されてゐる。オタクの使ふ得體の知れない機械ではなく、エンタテイメント、或いはビジネスのツールと變貌したのである。今や電化製品の殆どがコンピユータに依つて制禦されてゐるがそれを普段意識しないやうに、パソコンもまたコンピユータであることを忘れられようとしてゐる。

さてパソコンはエンタテイメントやビジネスのツールであると同時に、コミユニケーシヨンツールでもある。その象徴がホームページだ。今や企業や自治體などの團體がホームページを持つことは當たり前、家族のホームページもwebに流行つてゐる。だがそれは、webサイトがHTML文書で構成されてゐること、詰まりプログラムであることを意識してない人々が作つたものだ。詰まりだ、ホームページと言ふものが在る、と考へてゐるわけだね。

ホームページは一見、非常にグラフイカルで視覺に訴へるかのやうに思へる。でも第3章でも書いたやうに、Lynxなんかのテキストブラウザで見れば、ただのテキストなんである。UNIXのやうなCUIを用ゐたOSでもwebは見れるが、當然、そこに出てゐるのはテキストの列である。かうしたwebは、webがコンピユータでしかないことを否應無しにユーザに分からせる。だがIENNのやうな視覺系ブラウザはwebがサイバースペース、現實とは別のところに在るもう1つの空間であるとユーザに思はせる。webとは、ホームページに因つて構成された世界なのだと。だからこそ「インパク」のやうなとんちんかんなイヴエントが行はれたのだ。

紙で作られた書類は、誰が見ても同じ物に見える。ホームページも同じことだと勘違ひしてしまつてゐるのだ。元々異なるプラツトホームでも同じテキストを提供するために考へ出された筈のHTMLはテキストは菟も角、同じ構成を表示するための手段と思はれてゐる。當然ですね。webはサイバースペースなのだから。もう1つの空間なんだから、誰が見たつて同じに見える、筈なんだ。さうならないのはホームページの構成が間違つてゐるからだ。いや同じに見えないブラウザやOSが惡い、いやいやブラウザに對應して無いHTMLやCSSが惡い、と責任が擦り付け合はれる。

webは所詮コンピユータでしかない、と割り切れれば樂に爲るのに。

何となくマトリックスのクライマツクスシーンを思ひ出してしまつた。無敵と思はれてゐたエージエントも、プログラムに過ぎなかつたんである。

</section28>

<section29>ホームページとは結局何か。

今一度言はう。

HTMLは、ホームページを作る爲ではなく、HTML文書を作成する爲に在る。HTMLは論理的マークアツプ言語であり、テキストを書く爲に在る。レイアウトや見榮えを整へるための手段ではないのだ。前にも言つたがHTMLとはレポート用紙である。レポート用紙に、派手な見榮えを期待する人は居ないでしよ? そもそもが「webデザイン」とは言ふがレポートを書くのにインデントとか行を空けたりする人は居ても、レポート用紙で「デザイン」する人はゐません。しかしこのレポート用紙はコンピユータの中にしか存在しない。その正體は只のプログラムである。だがプログラムであるだけに、色々な機能が備えられてゐる。先づHTMLをHTMLたらしめてゐるのがハイパーリンクだ。これはそのレポートから、參照すべき他のレポートを瞬時にして見ることが出來るといふ優れものだ。だがこの機能こそが、wwwをサイバースペースと勘違ひさせる要因でもある。アンカーをクリツクして、リンク先のフアイルがブラウザに表示される。まるで、サイバースペース内を移動したかのやうな感覺をハイパーリンクは與へる。だがそれは間違ひで、コンピユータ同士がプロトコルに據つてサーバにアツプしてゐるフアイルをユーザのパソコンに送信しただけに過ぎない。リンク元とリンク先のフアイルには何らの關連付けも行はれてゐるわけでもなく、元のフアイルに代はつてリンク先のフアイルが表示されただけなのだ。

ハイパーリンクがwwwの中を移動する手段である、と言ふ思ひ込みが、リンクの拒否と言ふ權利を主張させることに爲る。要するに、リンクを張られるのは、自宅に玄關からではなく、窓から入られるやうな感覺を覺ゑさせるのである。だからホームページの管理人は、自分の意に沿はぬ外部からのリンクを屡々嫌がる。まアわたしもさーだつたですよ。だけど、それはwww、HTMLの在り方から言へば間違つた認識である。

今のところwebの標準はHTML。ならばHTMLを正しく使はなければ爲らない。CSSはHTMLの隱し味に過ぎない。隱し味が表に出てきて仕舞つては臺無し。FLASHやPDFは標準ではない。そしてHTMLは「ホームページ」を作るためのアプリケーシヨンではない。前にWebTeXなんてのを考へたりしてたんだけど、ならばイツソ「ホームページ」用のアプリケーシヨンが有ればいいのかもしれない。つまりだ、文章の論理構造を示すHTMLともレイアウトを體裁するためのTeXとも違ふ、さうしたマークアツプではなく、最初からホームページを作るためのプログラムである。假にこのアプリケーシヨンを"Homepage"と呼ばうか。そのままだけど。さてこのHomepageでホームページを作るとしたら、まづはハイパーリンク機能はなくては如何だろ。これこそが今のwebの普及の要因であり、ホームページの魅力であるのだから。まア後は、プラツトフオームに影響されない見榮え。WindowsだらーがMacだらーが同じく表示されなければならない。これはHTMLのやうに「同じテキスト」と言ふ意味ではなく、レイアウト、段組、畫面構成が同じく表示される、と言ふ事である。勿論OSはGUIである事がHomepageを扱ふための最低條件となる。UNIX? 知るか。GNOME使へば。

Homepageを使用したホームページ(まどろつこしいな)を表示させるためのブラウザは要らない。現在、ホームページを表示するに當たつてブラウザ自體が同じ表示を阻害させてゐる要因である。ブラウザのヴアージヨンやOS、ウヰンドウやフオントの大きさ、文字コードに因る文字化けなどが製作者の意圖する表示を狂はせてしまふ。さーなると「ブラウザ」は不必要であると分かるだらう。HomepageのコンテンツはHTMLと同樣サーバ上に置かれる事になるが、HTMLと決定的に違ふのはHTMLは只ユーザのコンピユータに轉送され、ブラウザで表示されるだけだが、Homepageは自身で動くのである。それ自體がブラウザであり、コンテンツなのだ。イメージとしてはスクリプトをHTML文書に載つけてブラウザ上で實行するのではなく、スクリプトを直接OS上で實行する、と言ふ所か。若しくはブラウザ無しのFLASH、と考へれば良いか。これまでスクリプトやCGIで行つてゐたことも、Homepageで一括して出來るやうになるかもしれない。勿論ウヰンドウの大きさも作成者が決める事が出來る。

何度も言ふやうだが、このHomepageはGUIでないと見れません。CUIは知つたこつちやありません。

勿論Homepageを編輯する爲のソフトも登場してくるだらう。最初はテキストエデイタでこつこつコードを打ち込まなきやならんだろけど、いづれそれこそワープロ感覺、いや部品を組み合はせるやうにして作る事になるだらうから工作氣分か。いづれにせよ素人でも簡單に作れるやうなHomepage作成ソフトが發賣されるだらう、需要は有るだらうから。

ホームページは、Homepageに據るホームページが主流となり、HTMLは過去の遺物となる。Homepageは1つのフアイルサイズはMB單位とならふが、なアにブロードバンド化が進んでゐるんだからその點は心配いらない。

webマスタの願望を叶へてくれるHomepageはいいこと盡くめのやうに思へるが、まア、提唱者が言ふのもなんですが、缺點も幾つか。HTMLに比べてフアイルサイズは大きくなるだらうけど先述したやうに大した事ではない。後CUIでは表示できない事。いやそんな事より、最も重要な問題はウヰルスの感染源となるだらうことだ。何しろHomepageのホームページは自分で動くプログラムなのである。ウヰルス仕込み放題だね。ばら撒くも植ゑ付けるも自由自在。何となれば、ホームページ自體がウヰルスにもならう。今でもいい加減なコードのスクリプトやCGIが作者も意圖しないウヰルスになつてしまふ例は有るけど、ホームページもその事態は起こり得る。CGIに比べてHomepageのホームページの普及は大きくなるだらうから、かうした突然變異型とでも呼ぶべきウヰルスの被害は更に廣がる。ウヰルスと言ふ程の破壞活動はしないまでも、開かないとか、動かないとか、さう言つた不具合は頻發しさうだ。HTMLはまアスクリプトとか組み入れてでもゐない限り、こんな惡さはしないが、Homepageはプログラムなのだから、その分扱ひも難しくなると言ふわけだ。

Homepageはwebを寄りフレンドリーにするが、よりリスキーにもするのである。それはホームページもさうなんだけど。だけどHomepageが登場したら、みんなそれ使つてホームページ作るんだらうなー。Homapageの危險を囘避する爲には、素人はホームページを作らず、ちやんとしたHomepageの智識を持つたプロの、本當の意味でのwebマスタでなければ作れないやうにするとか。まアそれはHTMLにも言へることだが。

素人はやはりHTML文書やその他のフアイルをアツプしてwebサイトとした方がやはり無難なのだらう。勿論正しいHTMLであることは必須だが。インターネツトは、コンピユータネツトワークである。ハツカーと稱される程のプロもゐるが、多くはHTTPwwwも何も知らないやうな素人ばかりだ。では素人が、このネツトワークに參加したい、情報を發信したい、と言ふならば、最も安全で、尚且つ簡單な手段が良からう。それは言ふまでもなくHTMLだ。仕樣書に從つてマークアツプしていくだけのHTMLは素人でも出來る。JAVAやVBなどのスクリプトのやうにプログラムの智識も必要ないし、FLASHやPDFのやうに値段の馬鹿高いエデイタソフトがないと作れないわけでもない。テキストエデイタさへあれば誰にだつて作れるのだ。そもそもがwebブラウザと言ふのはHTML文書を閲覽するために作られてゐる。FLASHやPDFはプラグインがなければ見ることは出來ないではないか。アプレツトはコードを間違へるとウヰルスに變異することだつてある。HTMLはタグを間違へたところで見れないだけだ。

インターネツトに、TVのやうなコンテンツを配信するやうなパフオーマンスは、まだありません。HTMLが精々だと言ふのに、ごてごてした仕掛け繪本を作るのはよしませう。

え、それでも「ホームページ」を作りたいつて? ならflamesetでもスクリプトでもflashでも何でも使つてびじゆあるでいんたらくてぶなホームページを作つてください。さー言ふ方は本物の「ホームページの作り方の講座」を御覽になつて下さい。殘念ながら、「ホームページ」の作り方は教へられません。

さうです。この講座は「ホームページ」を作らない人の爲の「入門講座」なのです。

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