前回の問題だけど、はてなブックマークに登録されてゐました。
首領(kana-kana_ceo)さんは¥ 1,000円。というか、700円+タバコの仕入れ値。
とのことなんだけど、仕入れ値
と賣値の差、つまり「利益」もこの際ふいになつてるからやつぱり1000圓でいいのでは。
ともあれ問題自體は、前からあるもののやうで、檢索したら同じものや類似する問題がありました。
しかしたばこの値段が200圓のもあるのが時代を感じる。たばこが200圓だつたのが十數年前だから、それくらゐ古い問題なのか。
前回の大學の先生もよそで聞いたのか。しかし解き方は教はらなかつたんだらうか? やはり先輩は引つ掛けられたのか。
こないだ職場での晝休みのこと。
先輩が研修のとき講師に教へてもらつたといふ問題をみんなに出してきた。こんなのである。
たばこ屋に客が來て、300圓のたばこを買ふため1000圓を出した。
ところがちやうどそのときたばこ屋には小錢が無く、たばこ屋は客の出した1000圓を、となりのお菓子屋に兩替へしてもらひ、客にたばこと釣り錢700圓を渡した。
ところが客が帰つてしまつたあと、たばこ屋にお菓子屋が來て、さつきの1000圓はニセ札だと突つ返してきた。
よく見ると確かにニセ札である。客はもう帰つてしまつてゐる。しかたなくたばこ屋は眞札の1000圓をお菓子屋に返し、ニセ札を受け取つた。
さて、たばこ屋はいくら損したでせう。
ぼくはしばらく考へて、「1000圓」と答へた。
ところが先輩は「2000圓」だといふ。
たばこと釣り錢だまし取られた上に、1000圓拂はされたから
ださうだ。
まはりの同僚も2000圓だね
と同意し、そこで晝休みも終はつてしまつたのでこの話はそれでおしまひになつてしまつたが、ぼくは納得いかなかつた。
ぼくが「1000圓」と答へたのは、「たばこ屋以外はどれだけ得をしたのか」を考へたのである。
まず客。客は0圓の価値しかないニセ札でたばことお釣り合計1000圓分をだまし取ることができたから1000圓得したことになる。
次にお菓子屋。お菓子屋は最初1000圓の小錢とニセ札を兩替して1000圓損するところだつたが、ニセ札は突つ返して1000圓を取り戻すことができた。結局1000圓の小錢と紙幣を兩替しただけなのだから損得0である。
ほかの2人の合計が+1000圓なのだから、たばこ屋の損は-1000圓しか無いはずである。たばこ屋の損が2000圓だとするなら、もう1000圓をだれかが得しなければならないことになる。
問題をはじめから考へてみやう。
必要な登場人物と持ち物をリスト化すると、
となる。
まず客がニセ札をたばこ屋に渡した。
たばこ屋に釣りがなかつたのでお菓子屋で兩替した。
たばこ屋がたばこ屋と釣り錢を客に渡した。
お菓子屋がニセ札に氣附き、たばこ屋に突つ返して1000圓の眞札を返させた。
最初と比較すると、たばこ屋の持ち物はたばこ(300圓)+1000圓の眞札=1300圓
から小錢300圓+ニセ札(0圓)=300圓
になつたので、たばこ屋はやはり1000圓しか損してゐないのである。
たばこと釣り錢だまし取られた上に、1000圓拂はされた
のではなく、たばこと釣り錢だまし取られたので、1000圓拂はされた
のである。もつと正確にいへば「たばこと釣り錢をニセ札でだましとられて、ニセ札は一旦お菓子屋に渡つたが、ニセ札であることが分かり、たばこ屋は1000圓を返した」のである。だまし取られた
ことと1000圓拂ふ
ことは併存するのではなく因果關係にあるのだ。
それにこの問題、お菓子屋は本質的には不要である。たばこ屋の手元に最初から小錢があれば、兩替に行く必要はなく、たばこ屋はたばこと釣り錢をだまし取られ、手元にニセ札が殘るだけである。先述した通りニセ札はお菓子屋に一旦は渡つてしまふが、最後に戻つてくるだけのことであり、本來はたばこ屋の手元にあるべきものである。「お菓子屋」といふ回り道のためあたかも損を2回したやうに思へるが、順を追つて考へれば損は1回だけでたばこ屋の損はやはり1000圓である。
まあだからといつて、詐欺に遭つたことに變はりはないわけで、被害者であるたばこ屋のなぐさめにはならないだらうけど。
この問題について考へていたら「パタリロ!」の次の問題を思ひ出した。
あるお店に旅行者が三人来て、それぞれ1000円づつ出し合って3000円の品物を買ったんだ。
店員が奥へお金持って行ったら 主人が
「旅の方らしいから500円おまけして差し上げなさい」
と言った。
ところが、その店員が悪いやつで200円ちょろまかして300円だけ お客に返したんだ。
3000円出して300円返ってきたのだから 旅行者は900円づつ払ったことになる。
900円かける3で2700円
それに店員がごまかした200円をたして2900円
残りの100円は どこへいったんだ?
こつちの問題の答へは各自考へていただきたいが、最初の問題にも「パタリロ!」の問題にも共通してゐる點がある。話をややこしくしてミスリードを誘つてゐるのである。
最初の問題でいへばお菓子屋は不必要だし、「パタリロ!」では900円かける3で2700円
なんてのはまさしく「蛇足」である。つまりは「詭辯」であつて、一見、筋が通つてゐるやうに思へるが、論理的に考へればおかしな點が存在してをり、結論は間違つてゐるのだ。
まあ「パタリロ!」のはうはパタリロが最初から相手を引つ掛けやうとしてゐるから「詭辯」で間違ひないけれど、最初の問題は「間違ひ」であることに先輩は氣附いてゐないやうだから「詭辯」だとはいへないかもしれない。
「パタリロ!」の問題の答へや、最初の問題が「やはり2000圓」だといふ方は掲示板にどうぞ。
ところで先輩が出した問題は前述の通り研修で講師に教へてもらつたとのことなのだが、その講師といふのが、大學の先生なのである。
この先生は自分が出したこの問題が「詭辯」であることを分かつてゐるのだらうか。
分かつてゐて、詭辯で受講生を引つ掛けたのだらうか。だとしたら引つ掛かつた先輩はお氣の毒樣だけど。
先生自身も「分かつてゐない」のだとしたら。大學の先生が、自分の言説が非論理的であることに氣附かない、そのことのほうがよほど「問題」であるやうな氣がする。
こないだTVを見てゐたら「おしりかじり虫」の話題をやつてて。
母親に知つてるか聞いたところ。
むかしはほんとに「おしりかじり虫」がたくさんゐたのであまり愉快な氣分にはなれないさうです。
「福田恒存をやっつける会会長」を名乘つて、あちこちの掲示板やブログコメントに投稿してゐる人物がゐますが、この「会長」は左翼デマゴーグをスパム投稿する惡質な「コピペ荒らし」です。
「会長」の投稿は福田恆存氏や保守派論客、權力組織に對する根も葉もない憶測にもとづく中傷であり、しかも同内容の投稿を複數の掲示板に投稿するスパムです。つまりは「会長」の投稿は「怪文書」でしかなく、信用するに値しません。
このサイトの掲示板も荒らされたため、投稿を削除しアクセス禁止にしました。
野嵜さんも被害者の一人ですが、「会長」の荒らし行爲、いやもはや「犯罪」についてまとめておられるので詳細はこちらのコンテンツをご覽ください。
會長は正假名論者が新假名を使ふのがどうしてそんなに氣に入らないのでせう。
新假名を使ふのが氣に入らない
のではありません。福田氏や正假名論者
を誹謗するためのネタにしてゐるだけです。
以前よその掲示板で「会長」と議論、いや「議論」ではない。こちらが向かうの矛盾點を突いて批判しても、向かうからはちやんとした反論は返つてこず、罵倒と嘲笑しかよこさなかつたのだから、「議論」とはいへない。とまれこちらが「正假名論者が新假名を使ふのが『金儲けのための二枚舌』だといふなら丸谷才一や井伏鱒二はどうなんだ」と聞いたら「会長」は「そんなやつら知らん」と言い放つてきた。
正假名論者が氣に入らない
といふよりは、先に「会長」が「氣に入らない」人間がゐて、それを誹謗するため「正假名論」を「口實」としてゐるにすぎません。
あちこちで「らきすた」最終回の話題が出てたので。
こつちはいつだらうだなと思つてゐたら。
……TV欄に載つてない?
これもある意味デジタルデイヴアイドか。
かういふニユースを見ててつくづく思ふのが。
「軆驗者」は、60年もまへのことをよくきのふのことのやうに話せるよね。
と、書くと「軆驗者は60年もの間忘れたくても忘れられない無念を抱へてきたのだ」といはれさうですが、それが「事實」であるかどうかは、また別の話です。
深夜TVをつけてたら『らき☆すた』をやつてたので見てみたらけつこうおもしろかつたので、それまで特に興味も無かつたのに、翌日から書店に行つて全卷そろへてしまひました。
3卷の裏表紙にえらく身につまされることが描いてありましたよ。
チヨココロネも食つちやつたし。さすがにでろん
までは眞似しなかつたが。
ゲキレンジャーを見てて思つたんですが。
格鬪家の口癖が參つたぜ
はいかんのぢやないか?
選擧なんかよりこつちのはうが大ニユースだ。あ、いや選擧は行つてきましたけど。
どうやら野嵜さん本人らしい。
しかしあれだけ否定してゐた「ブログ」で?
しかもYahoo!ブログで???
これも野嵜さん一流の諧謔か。
まあともあれ、おかへりなさい。
いま「銀河英雄伝説」をDVDで見返してゐるのですが、若本さんの妖艶とさへいへるロイエンタールを見たすぐあとに、「リンカーン」を見たら「すべる話」をやつてて若本さんのナレーシヨンにひつかくりかへりさうになつた。
聲優つてすげえ。
「苺ましまろ」OVAのコメンタリー見たら千葉さんと折笠さんが日常の聲でしやべつてるわけですが、千佳や美羽とは全然違つて普通の大人の女性の聲だつた。それだけ子どもの聲をつくつてるわけですが、それでキヤラソンとかもきちんと歌つてるし、さすがと感心しました。
川澄さんや能登さんはあまり茉莉やアナと離れてなかつたけど。
間違った假名遣を「スルーしない」月間とかなんとか。
ありがたうございます。訂正いたしました。
たばこ、つまりニコチンといふのは切れるのが早いので切れると吸はずにはゐられない。だから1日中吸つてゐることになるわけで、Piroさんがいふやうに「週1で嗜む」、といふのは難しい氣がする。
ところでぼくは喫煙者ですが、1日3,4本くらいしか喫ひません。
20代のころはもつと喫つてましたが、それでも7,8本でした。
學校(大學ですよ)に通つてたころは外でも喫つてたんですが、最近は家でしか喫はなくなつた。といふのも軆質的にはぼくはたばこは合つてないらしく喫ふとくらくらしてしまふ。しかし軆がニコチンを覺へてしまつて喫はずにはゐられない。まあ學校なら多少くらくらしててもさほど問題ではなかつたんですが、仕事をするやうになつたらたばこでくらくらしてると仕事にならない。さらには職場が外の喫煙所をのぞいて禁煙になつてしまつた。それでもう外で吸ふ習慣がなくなつてしまつた。
今はもつぱらたばこは家に帰つてからのまさに「一服」となつてゐるわけです。腰が落ち着かないと喫ふ氣にならない。
しかしぼくのこのサイクルつて、最初に書いたのと合はないんですが、どうなつてるのだろ。
酒は1日1本ですね。發泡酒か缶チユーハイを350缶で。休みのまへは500缶。飲み會ではビール瓶1,2本は空けて日本酒も呑むし、友人とバーに飲み行くと友人とワインデカンタ空けてからカクテル2,3杯は飲むので飲める軆質ではあるやうです。まあできれば酒も腰落ち着けて飲みたいですね。職場の飲み會では氣持ちよく醉へない。
ところで昔あつた「けふも元氣だたばこがうまい」つて、「元氣ぢやないとまづい」つてことだよなあ。實際さうだけど。
といふネタを突然思ひついたので書き留めておく。
前回ああいふくそまじめなことを書いた反動だらうか。
かふしさんとぼくのいつたことに「一無名人」が反應してゐる。しかしぼくの意見には認識がずれてゐるので返事や感想を書く必要はないだらう
とのこと。相當「圖星」であつたらしい。「一無名人」は結局、「義」のやつてゐることはたしかに犯罪だが、さうさせたのはすべて、「正義」をいたづらに振りかざし、「義」を追ひつめた野嵜に責任がある、「義」が荒らしに走るのは當然だと主張してゐる。要するに「義」は野嵜の犠牲者といひたいらしい。
後述するやうに、「一無名人」もやはり「アンチ野嵜」だから、アンチ仲間である「義」を辯護するのは當然だ。「義」の行爲を非難すると自身の言動も否定しなければならなくなる。いや、否定する必要など無い、野嵜は攻撃されて當り前のことをしたのだからいやがらせを受けても「自業自得」なのだとしか「一無名人」は考へない。「義」の荒らし行爲、そして自分が野嵜を揶揄するのには「三分の理」があるが、野嵜には「非」しかない、といふわけだ。
「一無名人」は「義」の荒らしを「犯罪」といひつつ結局は辯護してやつてゐるのだから「義」の行爲をその實「惡」とはみなしてゐない。少なくとも「味方」だと捉へてゐるから「義」を犯罪者と非難しつつその行動を全面的に支持する、といふねぢくれた理屈を平然と主張できるのだ。
しかし野嵜さんが「正義をふりかざした」のであれば同樣に「正義」をもつて言論で対抗するか、あるひはそれこそ「スルー」すればよいのではないか。さうせずに犯罪といふ、最低の「仕返し」に走つた「義」に「理」は無い。「理」の無い「義」を辯護する「一無名人」にも「理」は無い。
實はぼくは、「一無名人」のブログにコメントしたことがある。
當時、野嵜さんや木村貴さんがかかはつた「問題」について、2chの「アンチノズラー」が憶測と傅傳聞によつて兩氏を揶揄していたのだが、そこに「一無名人」が「この問題の眞相を追求する」と宣言したのだ。ぼくはそれに對し、「期待してゐます、頑張つてください」とコメントした。
この時ぼくは「一無名人」をくだんの「資材係」と同一人物だと思つてゐて、それはどうやら思ひ違ひだつたやうだが、「『眞相の追求』とは大きく出たなやれるものならやつてみろ」と思つたのである。上記のやうに発破をかけたのは、逃げ道をふさぐためである。期待をかけてやれば後に引けなくなるだらう。もしも「一無名人」が本當に「追求」をかけて、「眞相」が明らかになつてしまつたらやむをえない、少なくともいい加減な憶測は「アンチ」もできなくなる、と考へたのだ。
はたして案の定、「一無名人」は「眞相」など「追求」せず、「2ちゃんねる」は嫌ひ
といひながら2chの「アンチ」と同様に又聞きの話を事實確認
もせず、傅傳聞と憶測で兩氏を揶揄し續けただけであつた。こつちがかけた期待などまつたく意に介せず、「眞相」など氣にもしなかつた。「一無名人」が結局「アンチ」でしかないことが再確認できたわけで、ぼくは「何が『眞相の追求』だ失望した」とコメントし、以降コメントはしてゐない。
このやうにうろんな人物である自稍「傅傳統保守派」「一無名人」のいふ「傅傳統」もまたうさんくさいものである。「傅傳統」について
傳統を守る、と云ふ事は文化を變容させないと云ふ事
と「一無名人」は主張してゐるが、ぼくが考へるにまつたく逆で、傅傳統とは「變容する文化」である。
「傅傳統文化」として、狂言や歌舞伎を擧げることに異論は出ないだらうけど、シエークスピアを翻案した「シエークスピア狂言」や、現代語や宙吊りを取り入れた「スーパー歌舞伎」が近年上演されてゐるが、これらはまさに「傅傳統」に背くものである。しかし普段は狂言も歌舞伎も古典的な演目を上演してゐるのであつて、さうした演目やしきたりも日々受け繼がれてゐる。
「シエークスピア狂言」や「スーパー歌舞伎」は、いふなれば傅傳統に對する挑戰である。傅傳統をとりまく環境や時代は日々變化しており、傅傳統もさうした變化に無關係ではゐられない。さうした變化のあらはれが「シエークスピア狂言」や「スーパー歌舞伎」なのだ。現在に限らず、近代でも、近世でも變化は起こり續け、その時代時代で挑戰はおこなはれてゐた。挑戰とは變化させることである。さうして傅傳統は時代に對應し、變容し續けた。いひかへれば「傅傳統」は絶へまない挑戰の積み重ねによつて形成されていくのである。
傅傳統とは時代を超えるものではあるが、同時に、時代を取り入れることで命脈を保ち續ける。
古典的な演目にしても、繼承されていく過程でやはり變化は生じる。演目を繼いだ當代は、常に先代と比較される。同じ演目を演じても「先代のはうがよかつた、先代にはおよびもつかない」と當代はいはれるものである。先代とは異なつた解釈で演じるとか、先代が苦手としてゐた演目を身につけるとか、當代は先代を超えなければ評価されない。
しかし「超える」といふことはやはり先代への挑戰であり、「變容する」といふことである。かうした變化の連續が傅傳統を形作つていくのである。
傅傳統は人間によつて受け繼がれていくものなのだから、親子や師弟であらうと、違ふ人間なのだから同じ演目でも異なるものになるのは當然である。また時代が違へば人間の考へかたも違ふのだから、演じ方も違つてくる。台詞や衣裝は同じであつても、演じるのは人間なのだ。
室町時代の狂言や江戸時代の歌舞伎と、現代のそれらはもはや同じではありえない。傅傳統とは變容し續けるものなのである。
逆に「變容しない文化」には城郭建築がある。
江戸時代から現存する城は全国にいくつかあるが、それらは文化財や觀光施設として保存されてゐるのであつて、城本來の目的である要塞や官公廳として使用されてゐるものはない。現代では軍事や政府に城を必要としないからである。新たに城が築かれることもあるが、それは觀光施設や成金趣味のためであり、またその建築方法も、現存する城の模倣や鉄筋コンクリートによつてである。補修のために城の改築も行はれることもあるけど、それは當時の技法をそのまま再現するものである。
城郭建築は現代ではあまりに時代と乖離しており、現存するものをそのままの形で「保存」するか、既存のものを「模倣」するだけであり、「發展」はみられない。
寫眞にメデイアとしての役割を奪はれた「浮世繪」や、國家宗教とはもはやなり得ない佛教の「佛像」もまた城郭建築と同樣に發展せず、過去の保存や模倣しかない「變容しない文化」であるが、これらを「傅傳統文化」と呼んでいいのだらうか。
「變容しない文化」はいつてしまへば「死骸」であり「保存」することしかできない。生きて變容し續けなければ「傅傳統」とは呼べないのである。
ところで「一無名人」はかうもいつてゐる。
保守派(傳統保持派)を自認する私が考へる戰後的價値觀、戰後思潮と云ふのは傳統否定、男女平等の徹底、歐米的文明の普及に因つて形作られたものであるが、その強力な推進者は朝日新聞や日教組、進歩的文化人の左翼進歩派であり、戰勝國であるアメリカも含む周邊諸國の工作活動である。最近の建築業界の不祥事は職人氣質を蔑み輕んじる利益優先の戰後的價値觀に因るものであり、この樣な不祥事を防ぐ爲に法律を整備するだけで良いと考へるのは日本精神の衰弱を意味する。私はこの樣な戰後的價値觀を否定する。
ところで利益優先と云ふのを「商賣優先」と云ふ言葉で語つてゐたら商賣人である母から咎められた。それは利益優先とか營利優先と云ふ言葉で語るべしと云ふ。母は商賣人である事に誇りを持つてゐる。今だに根強い人氣を持つ花登筐の「あかんたれ」に登場する大阪商人はヒューザーその他及びライブドアの樣な企業を眞つ當な商賣人とは認めまい。明治の商賣人にあつて平成の「營利追求人」にないものが日本精神であり、大和心であり、和魂である。
ぼくは經済にあまり詳しくはないのだけれど、戰後にも本田宗一郎や盛田昭夫、安藤百福のやうな「世のため人のため」も考へてゐた眞つ當な商賣人
がゐたのだし、平成の財界にもさうした眞つ當な商賣人
はゐるだらう。また戰前にも、札を燃やして靴を探させるやうな營利追求人
もゐた。戰後になつて日本の商賣人は利益優先
になつたわけでもなければ戰前の商賣人はみな眞つ當な
だつたわけでもない。戰前でも戦後でも眞つ當な商賣人
も營利追求人
もゐるといふだけの話である。
いつてしまへば「一無名人」は自分が好きなもの、自分にとつて都合がいいものを「傅傳統」として有り難がり、自分が嫌ひなもの、自分にとつて不必要なものを「非傅傳統的」といつて排除してゐるにすぎない。ブログの守るべき傳統文化といふカテゴリをみればよく分かるが、戰前を無批判に稍揚し、戰後を「傅傳統的でない」と切り捨ててゐる。
上記のやうに「一無名人」は戰後の左翼進歩派
を非難してゐるが、左翼進歩派
が「戰前」は切り捨ててしまへばよいと考へるのとは逆に、あるいは同樣に、「戰後」は切り捨ててしまへばよいと考へてゐるのである。「一無名人」のいふ「傅傳統」とは「因循」でしかなく、それも自分に都合よく仕立て上げた理想像でしかない。「保守」ではなく「守株」だ。
などではなく「アンチ戰後」「アンチ左翼進歩派」でしかない。傅傳統保守派
2ちゃんねるは嫌ひ
といひつつやつてることは2ちゃんねらーと同じ、戰後的價値觀
を否定しておいてやつてゐることはベクトルの向きが正反對なだけでやつぱり同じ、「一無名人」は鏡に寫つた自分の顏を罵つてゐるのである。
さて「一無名人」は野嵜さんについてこのやうなことを書いてゐる。
野嵜氏はネット登場時は好青年であつと思ふ。嫌味ではない。野嵜氏は傳統的日本人ではないし、さうなりたいと思つてゐる訣でもない。逆に輕蔑する風がある。松原理論が彼の人格破壞に手を貸してはゐないか。日本文化は歐米文化には敵はないと云ふ思想は、傳統的日本人ではない日本人(及び在日各國人)には惡しき效果を與へて仕舞ふと思ふがどうだらう。
「確かに私も彼(筆者註;野嵜さんのこと)が登場した時は、松原氏の教へ子であると云ふ事で期待したが、過大評價であつた。一方で違和感が徐々に増幅して行つたが、彼の云つてゐる事が正しいのではないかと云ふ思ひもあり、複雜な思ひを抱き、混亂してゐた。實際、舊サイトを立上げてゐた時も彼に對する批判文を書き投稿しようとした事もあつたが、それは途中で止めてしまつた。私が以前のネット活動で唯一悔んでゐるのは、私の掲示板で野嵜氏に絡まれた人を援護出來なかつた事である。野嵜氏の過大評價等反省すべき點は色々あるが、悔んでゐるのはそれだけであると云つてもいいだらう。
野嵜氏も最初は謙虚な人であつたと思ふが、あの樣な増上慢にした責任の一端は過大評價して必要以上に持上げ過ぎた私にもあるのではないかと思ふが、もしさうならば、これまた悔まれる事になるが、それは考へ過ぎであらうか。
つまり最初野嵜さんを「一無名人」は自分と同じ傳統的日本人
だと期待したがそれが違つてゐた。だから根も葉もない噂に飛びついて野嵜さんを中傷し、野嵜さんが「義」の被害に遘つてゐるのを「自業自得だ」と嘲笑ふといふわけである。
野嵜さんのいふことが間違つてゐる、と思ふのであればそれを批判すればいいことだ。違和感
がある、といふのならばその違和感
を説明すればいいし、松原理論
に惡しき效果
があるといふならそれを明らかにすべきだ。
しかし、根據もない噂に基づいて、野嵜さんの人格に問題があると誹謗し、擧句犯罪の被害に遘ふのも當然、と侮辱するのは「批判」とはいはない。自分が氣に入らないといふ感情によつて他者を排除しやうしようとするのは「アンチ」でしかない。
「一無名人」のいふ「傅傳統」に野嵜は從はうとしないから批判する、といふのであればぼくはその「傅傳統」は前述のとほりいささか疑はしいものであり、それによつて批判することはできない、とぼくは批判する。前提が間違つてゐれば結論も正しいものにはならない。
「野嵜は間違つてゐる」と結論だけ示されてもぼくは納得できない。「一無名人」にとつては「野嵜は間違つてゐる」ことは自明であり、いまさら説明の必要も無いのかもしれないが、ぼくはさうは思へない。前提となる野嵜さんの言動があり、「間違つてゐる」と結論できるだけの説明がなければならない。ましてや「野嵜は非常識だ、だから嫌がらせを受けても当然だ」などといふ「いぢめつ子の理屈」や、「嫌がらせ受けるのは野嵜が非常識だからだ。野嵜が非常識なのは嫌がらせを受けるやうなまねをしたことからも明らかだ」といふ「循環論法」は到底受け入れられない。そもそも、舊知である野嵜さんに對して僞名を使ひ、僞名がばれると「改名しただけだなにが惡い」とひらきなほる「一無名人」の人格も問題がないとはいへないが。
「義」は病人だから、置いて措く。喜六郎氏にしろ、「廣報部」氏にしろ、二ちやんねるの皆さんにしても惡く云つたとして單なるウォッチャー、野嵜ウォッチャーでしかない。コリアウォッチャーの樣なもので「斜め上を行く」朝鮮に注目するがごとく、奇矯な發想、行動を取る野嵜氏に關心を持つてゐるだけであり、氣に入らないから潰さうなんてしてゐるのではないのだ。潰したら面白いものが見られなくなるではないか。さう云ふ發想もまたウォッチの對象である。
「斜め上を行く」
(もろ「2ちゃん用語」なのだけど)奇矯な發想、行動
面白いもの
他人をここまでいへるのは、自分が「まともな人間」であることに相當自信があるやうだが、ぼくはそんな驕つた人間は信用できない。狂人ほど自分は正常だといいはるものである。それにしても語るに落ちた、といふやつで、ここまで「アンチ野嵜」の心情を代辯できるのは「一無名人」自身もまた「アンチ野嵜」であるからにほかならない。
批判に對しては批判をもつて返すべきであり、侮辱や犯罪をもつて返すのは「意趣返し」でしかなく、
であらうと傅傳統保守派左翼進歩派
であらうと許されるものではない。ぼくは「義」や「一無名人」のやうな「アンチ」を否定する。
野嵜さんに「一無名人」は勝手に期待を抱き、それが間違ひであることに氣附くと「裏切られた」と逆恨みするといふまつたくの「獨り相撲」をとつてゐるのだが、前述のとほり手前勝手な「傅傳統」に從つて「一無名人」は生きてゐるわけだが、野嵜さんと同樣にその「傅傳統」に裏切られる日が、といつても本人が「裏切られた」と思ひ込むだけだが、そんな日がこないともかぎらない。いやそのはうが「一無名人」のためかもしれない。「一無名人」は漫畫
やニューミュージック
を戰後に大成したもの
と見下してゐる。そのやうな色眼鏡は外れたはうがいいだらう。
「義」が掲示板荒らしを續けてゐることに野嵜さんが愚痴つてゐる。
全ての「野嵜信者」「正字正かな信者」が擧つて「義」の狼藉を放置中。
たしかにぼくは、野嵜さんに影響されて正字正かなやStrictHTMLを用ゐるやうになつたけど、「野嵜信者」ではない。野嵜さんのいふことはうなづけるし、日記の更新を樂しみにしてゐた。だからこそ「闇黒日記」の消去は悲しいし、かうして「闇黒デー」を續けてゐるわけです。
しかしぼくは野嵜さんのフアンでしかない。このサイトの掲示板が「義」に荒らされればそりや對處はしますが、親でも兄弟でもないのに、檢策までしてよその掲示板の管理者に通報しようとは思ひません。
「義」が利用してゐるプロバイダに通報していただけないでせうか。わたしのサイトはいまのところ直接被害に遘つてゐるわけではないので通報できません。
「義」のIPアドレスは124.38.150.34(124x38x150x34.ap124.ftth.ucom.ne.jp)
です。
かういふ物は「日記」や「ブログ」の中の文書斷片(id屬性附きのdiv要素とか)ではなく、一つの獨立したHTML文書にして公開しませう。檢索結果に表示されても、そのリンクテキストが「なんとか日記y年m月」といふ感じでは、檢索した人の興味を引くのは難しい筈です。
たしかに。といふわけで「義」についての注意を獨立した文書にしました。
かふしさんの日記より。
何故
いやがらせを受けなければならないのか。いやがらせをした方が惡いといふのに、何故身から出た錆なのか。
「一無名人」氏のいひぶんは「いぢめられるはうに落ち度がある」といふ典型的な「いぢめつ子の理屈」です。裏をかへせば「こつちは何も惡くない」といひたいわけだ。
しかし「一無名人」氏が今後いはれの無い誹謗を浴びせられたとしても氏はそれを甘受しなければならないでせう。當人がいふやうに身から出た錆
だからです。さうなつたとして、私は同情なんかしないけどね。
ところで氏は保守派(傳統保持派)を自認
してゐるのだけれど、中傷を惡びれもせず正當化するのも「傳統」にのつとつたことなのでせうか。それが日本の「傅傳統」だといふなら、そのような惡習は拂拭しなければならないでせう。
またけふもニユースから。
國語改革、すなはち「当用漢字表」や「現代かなづかい」が定められたのは、「舊かなや舊字は習得するのが難しいから、簡單なものに改めやう」といふのが主旨だつたのであり、「当用漢字表」や「現代仮名遣い」はそれを繼承するものですが、「簡單」にしたところで、習得するのもやさしくなるかといへばさうではないやうですね。
はたして國語改革は國民の生活能率をあげ、文化水準を高める上に、資するところが少なくない
ことであつたのでせうか。
そもそも政府が「國語が庶民には難しいものであるから、やさしいものにしてやらう」といふのは傲慢な「愚民化政策」であり、文化統制であります。このやうな惡政を許しておいてはなりません。
『朝鮮新報(日本語版)』より。
だいぶ前に朝日新聞で記事になつてて、その後ほかの新聞でも見かけるんだけど、讀んでみると「現地部隊の隊長が命令した」といふ内容であつて、つまりはいはゆる「白馬事件」と同樣の、一部の部隊が暴走した事件でしかない。
かうした「強制」が、日本軍の司令部による命令であつたとか、あるいは知つてて黙認してゐた、といふなら日本軍、日本政府の責任にもなるだらうけど、一部の部隊による暴走にすぎない事件を「日本軍が強制してゐた證據」とすることはできない。
「かうした事件が起こること自軆、強制を容認する日本軍の性質を示してゐるのだ」と「謝罪派」は主張するかも知れないけれど、逆に司令部からは「強制によつて慰安婦を集めるやうな惡質な業者には注意せよ」(軍慰安所従業婦等募集に関する件 - Wikipedia)と各地部隊に通達を出してゐるのだから、日本軍は強制を容認などむしろしてゐなかつたのである。強制によつて慰安婦が集められたといふ「白馬事件」においても、發覺後慰安所は閉鎖されてゐる。日本軍は「強制」によつてまで慰安婦を集める必要性はなかつたのだ。
で「朝鮮新報」のこの記事を讀んでゐたらなんだ、吉見義明教授が噛んでゐるのか。この人「日本軍が「強制」に「關輿」してゐた證據だ」といふ文書をと大々的に發表したのだけれど、内容は前述の「惡質な業者には注意せよ」といふ通達であつて、つまり證據とはまるで正反對の主張をしてゐたのである。しかもこの第1報を掲載したのがやはり朝日新聞であつた。
そもそも慰安婦つてのはすべてが強制によつて集められたわけでもない。もともと賣春婦であつた者もゐるし、軍の慰安所と知つて應募した者もゐる。それに數としては日本人の慰安婦が過半數だつたのだ。しかし今回の文書を公表した林博史教授や吉見氏ら「謝罪派」は知つてゐてそのことを明らかにはしないし、現在米議会で議論されてゐる慰安婦に關する決議案も「強制」を前提にしてゐるのである。
ところで「白馬事件」についてですが、このサイトのコンテンツ『「従軍慰安婦」に関する覚書き』でかかはつた兵士は處罰された
と書いたのですが、これを書いた時點でぼくは戰中に處罰されたと思つてゐたのですが、實際は戰後に戰犯として罰さられたやうなので、その點を追記しました。
かういふ關係のニユースでもう1つ。
實はぼく、この裁判國が敗訴したらそれもそれでおもしろいと思ひます。今後アジア諸國から戰爭責任で日本政府が訴へられたら、「請求は自國政府にすべきだ」として敗訴になるだらうから。
最近TVでよく「ネツトカフエ難民」なんてやつてますけど。
不思議なのが、なんでかういふ「難民」やホームレスは、みんな都會を出ようとしないんでせうか。
農村でよく「Iターン」の受入なんかやつてゐるわけで、ぼくの近所の町では空き家が多くなつてしまつてゐることを逆用して住宅の紹介までもしてゐる。働き口のみならず住処も得られるといふわけです。
ネツトカフエ難民は日雇ひの肉軆勞働が多いさうだけど、ならば野良仕事だつてこなせるのではないでせうか。
とはいへ、「難民」には先立つものもないし、農業はすぐに収入が得られる業種ではないので、収入が安定するまでは自治軆からなんらかの補助が必要になつてくるだらうし、實際に「難民」を受け入れるのは難しいとは思ひますが。
さとみかん補足サイトとしては答へておかねばなりますまい。
1. HTML文書を制作する際に使用しているプログラムをお答えください。(Webプログラムも含む)
2. 採用しているDTDとその理由をお答えください。
3. 何故正しくHTMLを書いているのですか?
キレイなHTML文書に萌えるから。ああ、それもあるな。
4. W3CとWHATWG、どちらに期待してますか?
5. あなたにとってHTMLとは何ですか?
先日『鬼平犯科帳スペシャル 〜一本眉〜』の放送があり、鬼平は好きだし、番組自軆は樂しく見たのですが。
劇中、張り紙の文章に
つこう(都合)により
と書いてあつた。
「つかふにより」でしよ。
なんか野嵜さんみたいなこと書いてるな。
もちろんエイプリルフールです。これがほんとだつたらどんなによかつたか。
「闇黒日記」が削除されて1ケ月以上經つわけですが、野嵜さんは人とは違ふこと、それも世間とは逆行することーー正字正かな、ISO-HTML、そして近代合理主義ーーを標榜してゐたのだから、逆風は當然のことであつたでせう。なかんづく、野嵜さんは「力のある言動」を志してゐたわけで、さうした姿勢はとかく誤解や曲解を招きやすいものであり、罵倒や誹謗が向けられるのも、さけられないことであります。
かう書くと「アンチノズラー」は大喜びしさうですが、ぼくは「アンチ」を否定する。「中傷も致し方ない」、だからといつて、「中傷してよい」、わけがない。といふか、「喜ぶ」のは自分たちの言動が「中傷」でしかないことを分かつているからに他なりませんが。
徳保さんいふところの、匿名でなされるカジュアルな誹謗中傷
にはぼくは力はないと考へる。責任が擔保されてゐないからです。匿名であるといふことは反論すべき對象が不明確であり、眞實かどうかも明らかではない。誰が發したかもわからない、惡意によつてゆがめられた情報は信用できるものではないし、それに同調する人間もまた信用できない。「野嵜はこんな愚劣な人間だ」、といふ宣傳を垂れ流すやうな人間、それを眞に受ける人間、かうした「わけの分からない」連中に對して野嵜さんの言葉は向けられたものではありますまい。傅傳
自分が不快である、といふだけで他者を排除してよいと考へる人間、根據のある批判と根も葉もない讒謗、理論によつて立てられた反論と滅茶苦茶ないちやもんの區別のつかない人間……「わけの分からない人間」といふのは確かに存在するし、さうした連中は對象が息をしてゐるだけでも氣に入らないから、相手が正しいことをいへば「知つたかぶり」「傲慢」と妬みをぶつけるし、間違へれば「バカだから間違へた、間違へたからバカ」とここぞとばかり小突き回す。野嵜さんが重んずる「論理」とは、まさに對極にゐるやうな連中ですが、そのやうな彼らが野嵜さんの「合理」を理解できるはずもない。いやだからこそ、「合理」は彼らの蒙きを啓くために必要なのですが。しかしかうした非論理がwebではまかりとほつてゐるのは現状ではあり、だから野嵜さんも絶望せざるを得無かつた。
韓国をはじめ実名利用が基本の国は存在し、それなりにうまく回っています。匿名利用の道を残すのはかまいません。けれども、誰も彼もが必要もないのに匿名で情報発信し、そのことに何らの疑問も抱いていない状況が果たして望ましいのか否か?
総務省は SNS と老人世代のネット利用促進に期待をかけています。実名利用者が匿名利用者を人数で圧倒することにより、ウェブ情報の信頼性について各発信者が責任を負う世界を現出しようというのです。「実名を出して一定の節度と責任感を持って情報発信する」という常識を確立するのは、正しいことだと私は信じます。
例えばネットでの悪口に悩む店という問題。嘘や誇張がなく、言葉の選択も正しければ、訴訟を恐れる必要はありません。匿名でなければ発信できない情報は多くないのです。
徳保さんが望む常識
はあるひは實現しないかもしれない。カジュアルな誹謗中傷
ははつきりいつて樂です。感情にまかせてもつともらしいことを投げつければいいだけだから。節度や責任感など必要ない。批判されやうが聞く耳持たなくていい。同調する人間を見つけてなれ合へばいい。かうして「惡意」は増幅する。感情に流れて動くのは樂だから、人は、そして世間はそちらに流れる。かうして先に述べたwebの現状があるのです。
しかし徳保さんがいふやうに、実名利用者が匿名利用者を人数で圧倒することにより、ウェブ情報の信頼性について各発信者が責任を負う世界
はぼくも望むことだし、だからぼくも實名でサイトを運營してゐる。節度と責任感
を持つてぼくはwebで發言したい。また野嵜さんに教へられた「知的誠實」、「責任」と「論理」をもつて言動を行ふこと。「實名を出す」といふことは批判の矢面に立つ、すなはち自身の發言に責任を持つといふことです。また論理的であるといふことは誰もがその思考の筋道を辿れるといふこと。感情で同調させるのではなく論理で納得させる。力のある言葉はかうして發せられるものなのです。
まあ、ぼくが書いたやうなことは野嵜さんも承知してゐることだらうし、その上で「もういやだ」と野嵜さんはいつてしまつてゐる。
遲くなりましたが、野嵜さん、お疲れ様でした。ぼくはもうちよつとやつてみます。
- 580 :吾輩は名無しである :2007/03/10(土) 05:12:35
- 実名出して言論活動やってる奴らって、大抵脅迫や嫌がらせ
を受けてるんだよね。
溝口敦なんて、息子が暴力団に襲われてるし、小林よしのり
や江川紹子はオウムに暗殺されかかってる。
それらに比べりゃ野崎なんて幸せ。
命を狙はれるのに比べれば、アンチブログや叩きスレを立てられるのなんか屁でもない、俺たちのやつてゐることは大したことでもない、野嵜が弱虫なだけで、俺たちに非は無い、といひたいわけか。
どこまで腐つてやがるんだ。
IAUは冥王星を「Dwarf Planet」という新たに設定した分類に組み入れた。国内の専門家は、これを「矮(わい)惑星」と仮訳してきたが、小委員会は、差別的な語感が残る「矮」は使わず、「惑星の次に位置する天体」という意味で「準惑星」を推奨することで一致した。
またこーいふ「矮小」なことをやつてるのか。
なら「矮星」はどーするのか。「準星」はすでにあるぞ。
イツソのこと「小人惑星」にしたら。
きのふラヂオのニユースを聞いててこの名前を聞いたときは「え!?」と思つたなあやつぱり。
まあとなり町ではあるけれど地元ならではの名前といはうか。
しかし全國大會で優勝するくらいだからよかつたけどこの子がスキーやらなかつたら親御さんはこのお名前でどうするおつもりだつたんでせうか。
正字正かな掲示板見られないなー、といふのは氣附いてましたが、闇黒日記やその他のコンテンツも消えてるのは知らなかつた。
復活を祈念して遲ればせながら祭りに參加。
野嵜さん、もう「闇黒日記」はあなただけのコンテンツではないんですよ。
母親が參院選に出場したとき、よしりんが『ゴー宣』で息子の將來の就職先の糸口をつけておくつもりなのだらう
といふやうなことをいつてたのだけど、そのとほりになつたな。
これも一種の「タレント候補」だけど、どーせ當選するんだろーなー。
前回に引き續きやつてみたら79點でした。
またいろいろいひたいことはありますが、寸゛さんがぼくのいひたいことをおつしやつておられる、といふか、ぼくがいひたかつたことよりさらに鋭く斬つておられるのでそちらをご覽ください。
オタクとして、「ウルトラQ」を未見なのはどうかと年明けに思ひましてDVDをレンタルしてきたんですが、驚いた。「キチガヒ」だの「オシ」だの平氣でいつてんだもの。まあ、放送當時のなすてらかすてらつてやつでせうが。
で、さつきYahoo!ニュース見てたらこんな記事が。
日本魚類学会(松浦啓一会長)は、「バカジャコ」「イザリウオ」など差別的な言葉を含んだ魚の標準和名を改名する。
(中略)
改名するのは、日本魚類学会標準和名検討委員会が差別的と判断した「メクラ」「オシ」「ミツクチ」など九つの語を含む魚で、日本産の魚類約3900種のうち30種が対象。
魚類學會のサイトによれば、リウキウキビナゴ
カヘルアンカウ
とかにかへるらしい。
さすがに「アタマノフジイウナジヤコ」「アシノフジイウナウヲ」にはしなかつたか。
ところでニユースでは動植物や昆虫などにも差別語を含んだ標準和名が多いだけに、他学会にも影響を与えそうだ。
とも書いてありますが、ぼくの大學の先輩K氏はザトウムシを「メクラグモ」と呼んでいた。K氏は茨城の出身なので當地での地方名なんでせうけど、はたして「バカジヤコ」「イザリウヲ」は地方名として生き殘るのか、それとも圖鑑とかで「リウキウキビナゴ」「カヘルアンカウ」がひろまつて、消えるのでせうかね。
「來年のことをいふと鬼が笑ふ」といひますが、去年のことをいふと鬼は怒るのでせうか。
石原都知事の餘人をもつて代へ難い
つて、もう少し時期が早かつたら新語・流行語大賞に選ばれてたんだらうなーと。で、「流行語大賞」に選出されてた「イナバウアー」ですが、眼鏡屋の弐萬圓堂から「イナバウアーフレーム」つて商品が發賣されてますが、だから「イナバウアー」つてのはそつくりかへることではなくて足を180°開いて横滑りする技のことなのに、ユーザが間違つた用法を廣めるのに荷擔しちやいかんでせうに。いや、フレームがそるのは背中ではなくて足のはうになぞらえてるのだらうか。ならいいんだが。
本年もよろしくお願いいたします。
とつい方言で畫面にむかつて叫んでしまひました。
2006年12月26日(火):朝
放送禁止5
今日になって、えらい勢いで『しじんの村』で検索されてくるようになったので、どこかの地域で放送されたのかと思ったら、新潟総合テレビで放送されたらしい。
それこそ鷹沢さんの記事を讀んで「放送禁止」を見はじめてるところだつたもんで。再放送は無いだらうなー。