本書に収録された全ての、あるいはほとんど全ての論文は、合理性と合理的な批判を擁護するために書かれた。批判的な議論に耳をかたむけ、自分自身の誤りを捜し出し、そしてそれから学ぶ用意を持つということは、ひとつの考え方であるだけでなく、ひとつの生き方でもある。それは基本的には、次の二行で、わたくしが(たぶん最初は一九三二年に)言い表そうとした態度である。
私が間違っているのであって、あなたが正しいのかもしれない。だから努力すれば、われわれは真理にもっと近づくことができるかもしれない。
ここに傍点を付して引用したこれらの二行は、一九四五年に拙著『開かれた社会』(第二巻、第二四章「理性に対する反乱」の原著最初から二ページ目〔邦訳、第二巻二○七〜二○八ページ〕)において初めて印刷された。傍点を付したのは、わたくしがこれらの二行を重要視していることを示すためであった。というのも、これら二行は、わたくしの道徳的信条のまさに核心的部分を要約する試みだったからである。わたくしは、ここに要約されている見解を「批判的合理主義」と呼んだ。
「フレームワーク」と言つても、最近ビジネス書で流行つてゐるやうな意味の言葉ではない。
なので、この本を讀んでも“ビジネス”の役には立たない。
「フレームワーク」という言葉でわたくしが意味しているのは、一群の基本的仮定もしくは根本原理、つまり知的なフレームワークのことである。この意味でのフレームワークを、真理を獲得したりそれに接近しようとする願望や、問題を共有したり、他の人の目的や問題を理解しようという意欲などのような、討論のための実際の前提条件ともいいうる態度と区別することが重要である。
この本で言ふ「フレームワーク」とは上記のやうな意味なのだが、普通議論は、同一のフレームワークを前提として行はれるものだが、ポパーはむしろ異なるフレームワーク間での議論こそが重要であると言ふ。
すなわち、多くの見解を共有している人びとの間の討論は、心地のよいものになるかもしれないとはいえ、実り多いものにはとてもなりそうになく、他方、非情に異なったフレームワーク間の討論は、時として非常に困難であり、おそらくとても快適とは言えない(われわれはこのような討論を楽しむことはできるが)かもしれないが、はなはだ実り多いものになりうる。
この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗などを目的としていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。われわれが物事を新しい光の下で見ることができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。
すぐに答へとなる合意が必要な、それこそビジネスにおけるやうな討論であればフレームワークの共有は前提となるだらうが、眞理を求めるための議論であればむしろ參加者の前提が各々違つてゐるはうがより深化した議論ができるし、また合意は必ずしも重要ですらない。
この本には書名にもなつてゐる「フレームワークの神話」をはじめとした論文や講演が收められてゐるが、上に引用した箇所もぼくとしては同意できるし、またほかで述べられてゐる“科學とはかうあるべき”といふ理想論も、ぼくは同意する。冒頭に引用した「批判的合理主義」—科學に適用されれば“反證主義”となる—はぼくにとつても理想的な考え方
だし、生き方
である。
人間にはなにが眞理であるかは分かる術はないが、“批判”と“理性”によつて眞理に近づく努力はなされるべきだし、事實西洋文明はさうして發展してきた。
あるいは「批判的合理主義」も眞理に近づく手段ではないのかもしれないが、少なくとも、合理的であると云ふことは、誰もが同じ筋道を辿れるのだし、またそれが本當に合理的であるのかどうか、どこかに欠落や矛盾はないのかを確認する—批判することでより合理性は高めることができる。「誰が—年齢も性別も知識の多寡にも關はらず—やつても同じ答えになる」ことは、誰にとつても有益である。
少なくともぼくは、なに、おまえは議論をしたいだと。議論などしない。撃つだけだ
と言ひ放つた若い国家社会主義党員
—實際、ネツトにはまるで同じやうなことを言ふ「アンチ」が多いのだが—にならないやうにしたい。