『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』觀てきた。
なかなかに、衝撃的な結末であつた。
なぜほむらはあのやうな結末に至つたのか。
まどかが消えた後の世界で、一應の心の整理をつけ、新たな暮らしをはじめたことが前作のラストで語られたほむら。それは案外充實したものだつたのではないか。鬪ひ續け、いつかはまどかと再會できると云ふ希望があつたし、マミや杏子と云ふ「信じられる」仲間もゐて、「まどかのことを忘れさうになる」くらゐ、新しい生活はほむらにとつて惡くはなかつた。
しかし、再會は思はぬ形で訪れた。それはほむらをむしろ絶望の底へと叩きこむものであつた。だがそれは同時に、手の屆かぬ存在になつたはずのまどかを、取り戻せるかもしれないと云ふ希望でもあつた。
その時點で、憧憬であつたまどかへの想ひは「執着」へと變はつたのではないだらうか。
「愛」は、まどかのやうな、慈しみや獻身と云つた輝かしい面だけでなく、執着や獨占と云ふ邪な面もあるのだ。
そして、そのチヤンスはやつてきた。ほむらはそれを實行した。言つてしまへば、身も心もズタボロにされた直後だつただけに、まともな思考が出來る状態でないところに、その機會が來てしまつたのだつた。
前から、女神まどかは「最大最強の魔女」なのではないかと考へてゐた。まどかが魔女化した姿である“Kriemhild Gretchen”は「救濟の魔女」であり、救濟の爲結界内に地球上の全生命を吸ひ上げてゐるのだと云ふ。
この魔女の能力が、全宇宙に廣がつたのが女神まどかではないか。改變された宇宙は、實はまるごとまどかの結界なのだ。
同じことをほむらもやらうとした。しかし、惡魔は神を斃すことはできない。抗ふのが精々だ。ほむらができたのは、まどかの一部を手元に置くことだけだつた。女神でも魔法少女でもない、普通の女の子のまどか。だがそれはほむらが最も望むまどかの姿なのだ。
できるのならまどかと二人きりの、だれにも邪魔されない世界にもできたはずだ。あるいは、「まどかの作つた世界を壞したくは無い」と云ふほむらの無意識の願ひがさうさせたのか。他に誰もゐない世界はむしろ家族や友人を大事にするまどかにとつて幸せではないと思つたのか。
とは言へほむらが變へた世界は奇妙に綻び、まどかの力も制禦しきれてゐない。やはりほむらは神にはなれない惡魔でしかない。
しかし、惡魔と自稱(自嘲?)しながらも、かつての仲間たちにはちやんと居場所を與へてゐるし、散々煮え湯を飲まされたキュウべえにはきつちり仕返ししてゐたりする。自分の手で取り返したはずのまどかにも、一歩踏み出すこともなく、素氣ない態度しか取れない。ほむらは人間らしさ、優しさを捨てきれてはゐないのである。
このエントリを書いてみて、ぼくはほむらにかなり感情移入してゐることに氣付いた。