時代の斜めうしろ

舊かなづかひロリコンイラストサイト

(2009年8月19日 21:41)

今回のタイトルのこれ何年前にいはれたんだつけ。調べてみたら8年前か。つふかそんなにやつてたのかおれ。

世の中には、不思議なポリシーを持つひともいるらしく、こんな表記がネット上には有る。

でぼくの文章が擧げられてゐるのだけれども、?シ、IVE(DIVE)豬キ逋セ蜷?3(海百合3)とタイトルが盛大に文字化けしてゐるのはなんなんだらう。

とまれ。

近代日本語にとっては、歴史的仮名遣いを現代かなづかいに変えて、良かったと思う。もう、歴史的仮名遣いの世界は、汚染されることなく残り続けるわけだから。

また別の記事だけど、

福田恒存の『私の国語教室』とか、国語教育について政治的に負けた恨みの強さに辟易して読みきらなかった私ですが、旧かなが使われなくなったのは、近代日本語にとってはいいことじゃないかと思う。変体少女文字で記される旧かな、コギャル言葉で記される旧かな、アスキーアートにまみれる旧かな、そういうものに耐えなくても良くなったのだから。

歴史的かなづかひを文化財、あるいは骨董品と思つてゐるらしい。研究、鑑賞の對象だと。それこそ「つふか」、現代かなづかいはいくら汚染されてもかまはない、といふのだらうか。

yanoz氏がいふ現代かなづかいとは内閣告示「現代仮名遣い」そのものではなく、告示を元として現代の日本で使用されているかなづかひを指すのだらうけど、コギャル言葉アスキーアートは現代かなづかいであつても「耐へがたい」ものである。あるいはそれらが、現代かなづかいによつて生まれた素晴らしい日本語だ、とでもいふのだらうか。

yanoz氏は

小飼弾が「傷つく前の日本語」として想定しているらしい「歴史的仮名遣い」もまた、歴史的に復元され作られた仮名遣いであり、それが規則として普及したのは明治政府の言語政策の結果に他ならない。明治政府の言語政策が、どんな言語も傷つけ無かった、とは言えないわけである。

さらには

今や、「現代かなづかい」の方が、歴史的仮名遣いよりも長い伝統を持っているのだ!

とまでいふのだが。

現實に、歴史的假名遣は「あつた」のだから仕方がない。そして、今でも、私が「ここ」で書いてゐるのだし、「ある」のである。

紫式部、清少納言、藤原定家、吉田兼好、鴨長明、飯尾宗祇、松尾芭蕉、小林一茶、本居宣長、契沖、式亭三馬、......、これらの人々の用ゐた假名遣と、夏目漱石、森鴎外、與謝野晶子、芥川龍之介、或は、小林秀雄、保田與重郎、福田恆存、松原正、......、これらの人々の用ゐた(用ゐてゐる)假名遣と、實際にどれほどの違ひがあると言ふのか。

「彼ら」の書いた文章の假名遣ひと、現代の「我々」(私を除く)が書く文章の假名遣ひとを比較して見れば良い。明かに「彼ら」の假名遣ひは歴史的假名遣であり、「我々」の假名遣ひは「現代仮名遣」である。ならば、歴史的假名遣は「あつた」のだし、「ある」のだ。

白石氏やその他の「歴史的假名遣は明治政府のでつち上げ」説を唱へる人々は、尤もらしく理窟を言つてゐるに過ぎない。しかし、「明治政府がでつち上げた」と云ふのは、實際にはなかつた事で、ただ、「あれば歴史的假名遣を否定するのに都合が良い」から、理論として採用されたに過ぎない。即ち、「明治政府によるでつち上げ」説こそでつち上げだつたと云ふ訣だ。」

野嵜さんもぼくも、明治政府が用ゐてゐたものを「歴史的かなづかひ」と呼んでゐるわけではない。「かなづかひの歴史」そのものを歴史的かなづかひと呼んでゐるのである。

漱石や一葉の使つてゐたかなづかひが現代かなづかいに近いものである、といふか漱石や一葉、當時の日本で使用されてゐたかなづかひを研究、體系化してできたのが「現代かなづかい」であるならばぼくも「現代かなづかい」を使ふ。しかし實際の「現代かなづかい」は1部の人間が政治的に決めたものであり、かなづかひとして正しいものではない。だからぼくは「現代かなづかい」に非ざるもの=「歴史的かなづかひ」を使ふのである。普及してゐやうが定着してゐやうが間違つてゐるものは間違つてゐる。yanoz氏も、福田恒存の『私の国語教室』とか、国語教育について政治的に負けた恨みの強さに辟易して読みきらなかったさうだけど、福田氏の主張自體を否定はしてゐない。まあ明治政府が用ゐてゐた「契沖かなづかひ」が、體系としてもつともよくまとめられてゐるので、ぼくらのかなづかひもそれに近いものになつてゐるでせうが。

それにしても、ぼくはwebにおける現代語歴史的かなづかひの代表は野嵜さんのサイトだと思つてゐたのだが、ぼくなんかが「例」でよいのだらうか。さておき。

日々の業務であつかう報告書なり企画書なりを、奈良や平安の伝統をふまえた規則を覚えた上で書かなければいけないなんて理屈には、いまさら誰も説得されはしないだろう。

しかし「説得されしない」にかかはらず、「現代かなづかい」も奈良や平安の伝統をふまえた規則なのである。

現代かなづかいは眞空からぽこつと飛び出てきたわけでもない。それこそ歴史的かなづかひをベースとした、表音主義の「パツチ」でしかない。奈良や平安のかなづかひがあつて、「現代」のかなづかいも成立してゐるのである。

いつてしまへば、「現代かなづかい」も「歴史的かなづかひ」なのである。正確に言へば「現代かなづかい」は「歴史的かなづかひ」の1部なのだ。ちよつとまへに『かなづかい入門』といふ新書が出て、サブタイトルがズバリ歴史的仮名遣VS現代仮名遣なのだけれど、この2つは對立することはない。現代仮名遣歴史的仮名遣に含まれるのだから。「現代かなづかい」の對義語として「歴史的かなづかひ」といふ「ことば」があるだけで、「現代かなづかい」が生まれてゐなければ「歴史的かなづかひ」は「歴史的」などと頭につくことはなく、ただ「かなづかひ」と呼ばれてゐただけである。

しかし「現代かなづかい」は、かなづかひの歴史上誰も使つたことがない。最初「現代かなづかい」として告示され、その後「現代仮名遣い」に改正されるのだけれど、告示される前はむろん、された後も誰も使つてはゐない。完璧に「現代仮名遣い」に從つてかなを使つてゐる人など誰もゐない。告示と實際に使はれてゐるかなづかひが同じならばそれこそコギャル言葉アスキーアートが存在するわけがない。なぜなら「現代仮名遣い」自體が「完璧」ではないからだ。「特例」が存在する以上、完全な規則であるとはいひがたい。ぼくが表音主義の「パツチ」でしかないといつたのはさーいふことである。

文字の用法もまた、時代や場所によってさまざまだったのであり、「万世一系」の文字体系が日本語として時代を貫いていたなんてこともありえないことなのだった。発話の世界がさまざまな方言のそれぞれの変化のなかで多様であったように、文字使用も多様であった。

漱石には漱石の、一様には一葉のかなづかひがあつて當然である。ことばは1人1人違ふ。書き言葉のみならず、話しことばも實は人それぞれに違ふ。しかしコミユニケーシヨンが成立するのは、大部分で共通してゐるからにすぎない。違つてゐる部分をそれぞれ自身で補完してコミユニケーシヨンが成り立つてゐる。あるいは、違ふ部分を補ひ切れずデイスコミユニケーシヨンが起こるのである。しかしその各人で違ふはずの、それこそ多様であるべきかなづかひを「みんな一緒にしろ」といふのが告示「現代仮名遣い」なのである。

「現代仮名遣い」は告示として、よりどころといひながら事實上強制されてゐる。だが告示としての「現代仮名遣い」も「常用漢字」も廢止すべきである。「歴史的かなづかひ」の「押しつけ」はダメで、「現代仮名遣い」が押しつけられるのはよいといふyanoz氏の基準は、ぼくには分からない。

現代かなづかいも政治から解放されるべきだ。現代かなづかいが、本當に現代の日本に定着してゐる、現代日本語にふさはしいかなづかひであるのならば、国家によつて強制される必要はあるまい。

なにより、現代かなづかいによってしか伝えられない情感を、私たちは、ほとんどその中に呼吸するように、生きてしまっているという伝統をすでに長く持っているのであり、英語の文法や表記が不合理の塊であるのを受け入れることも英語の伝統につながることであるように、現代かなづかいを使うこともまた、戦後の断絶によってしか明らかにならない日本語の伝統につながるということなのだ。

yanoz氏は自分の言葉は現代でのみ通じればよい、後生に殘らなくてもよい、と考へてゐるやうだ。なぜなら、現代かなづかいは文字通り現代でしか通用しないことばだからである。「現代仮名遣い」が使はれ續けるとしても、いづれ話し言葉の實態にあはなくなつてゆき、改訂される日が來る。話し言葉に合はせるのが「現代仮名遣い」の「理念」だからである。だがさうなると今の「現代仮名遣い」はそれこそ「旧仮名遣い」になつてしまひ、「現代仮名遣い」で書かれた文章は讀めなくなつてしまふ。現代かなづかいによってしか伝えられない情感は次の時代へ傳へることはできないのである。

英語の文法や表記が不合理の塊とはいふけれど、ぼくは學生時分、英語の勉強をしてゐて「合理的だなア」と感心することがしばしばだつたけど。つふか英語に限らず、言語にある法則性を研究、體系化したものをそもそも「文法」と呼ぶのぢやないだらうか。不合理の塊がなぜ研究の對象たりえるのだらうか。

戦後の断絶といつても、ぼくは断絶なんかしてゐないと思つてゐる。戰前の精神主義が戰後物質主義に轉換しただけで、良くも惡くも「和を以て貴しとなす」精神性の根本は變はつてゐない。断絶したやうに思へるとすれば、それこそ「現代かなづかい」でことばが「新しく」なり、「日本国憲法」で「民主主義国家」になつた、やうに思ひ込んでゐるだけだ。

本當に断絶してゐるとすれば...ぼくは斷絶したままではいけないと思ふ。

つふかさーいへばが「歴史的かなづかひ」として正しいのか、といはれるかもしれない。

つふかは「といふか」の略ではありますが、さーいへばはぶつちやけふざけてます。だけど『東海道中膝栗毛』だとそふいはネヘみたいなかなづかひが出てきます。これは「さういはねえ」と書くべきですが、江戸時代ではわりと普通に使はれてゐたらしい。

「そら見ろ『歴史的かなづかひ』なんか使つてゐなかつたではないか」といはれるかもしれませんが、しかしこれは「ふ」を[ウ]、「へ」を[エ]と讀む、すなはち「歴史的かなづかひ」があつたからこその表記です。『膝栗毛』だつてそもそも本文は歴史的かなづかひで書いてあります。「つふか」や「さーいへば」が『膝栗毛』のかなづかひとそんなに變はるものでもないでせう。

「現代仮名遣い」は強制だから、規則に從つてきつちり書くことが要求される。だから「歴史的かなづかひ」もさうだと思ひ込み、「つふか」や「さーいへば」に目くじら立てることになる。

しかしそれこそそふいはネヘは江戸時代の変体少女文字とでもいふべきものでせうが、これは汚染ではないのでせうか。

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