前述の、『岩波講座日本語』の續き。
つふかページとしては前になるけど。
「定家仮名遣」について。
定家の場合は、昔の基準によっているという意味で、歴史的仮名遣といえることになる。
ぶれがあつたかなづかひを定家は統一したのであるが、「定家仮名遣」といつても何も定家が恣意的に決めたものではなく、文献に據つてゐるのである。
「契沖仮名遣」について。
注目されることは、総論で『行阿仮名遣』が「世俗流布の仮名にまかせて」信じがたいことを指摘したあと、「是によりて、今撰ぶ所は、日本紀より三代実録に至るまでの国史......万葉集......及び諸家集までに、仮名に証すべき事あれば、見及ぶに随ひて、引て是を記す。」と述べて、自己の立場をはっきりとさせていることであろう。そのことは、契沖の『万葉集代匠記』精撰本(1690(元禄3)年)の「集中仮名の事」で、古書の仮名遣を調べることの大切さを説いていることとも結びつく。
「行阿仮名遣」は「定家仮名遣」を増補したものであるが、長年「手本」とされてたそれに契沖は異論を唱へてゐる。契沖もやはり文献に據り、定家を批判してゐるのであり、いはば「反證」してゐるのである。
さらに。
しかし、中には上田秋成の『霊語通』(1699(寛政9)年)のように、定家・契沖の双方を批判の上、「古則(契沖)今話(定家)いづれによるとも......何の是非をかいふべき。......おもふにまかせてかいつけおくなりけり。」という立場の人も出ている。
「定家」、「契沖」などの「かなづかひ」は全く無批判に受け入れられてゐたわけではなく、さまざまな反論、異説が唱へられ續けてゐた、とこの章(ア)歴史的仮名遣では述べられてゐる。
「かなづかひ」に限つたことではないが、日本語の研究は近代に入りヨーロツパから近代言語學が輸入され、上田萬年により科學的な日本語學が始まる以前から、實證的、反證的に研究がなされ續けてきたのである。日本語の研究が始まつたのは遠藤氏によれば漢字の傳來からである。當然のことで漢字は「外國語」なのだから外國語を學ぶためには自國語を知らねばならない。
その仮名(万葉仮名と仮名文字)は、いずれにせよ、中国語と音構造を異にする日本語を表記するものである。そのためには当然、いろいろの工夫がなされたことであろう。例えば、由(ユウ)が由美(弓)のユという音節を表わす仮名として用いられたり、あるいは、相模や因幡をサガミとかイナバと読んで表記する。そのためには、二つの国の言葉の違いへの認識が前提となるわけだから、仮名の発生は、日本語研究のあらわれの一つと考えられないでもない。
そもそも、科學的近代日本語學からみて、「定家」や「契沖」らが、資料としてまるで無価値であるならば、1章を費やして取り上げたりはしない。
石塚龍麿について。
(畧)そのほか今日の目から見れば、検討を要する点がありはするが、昭和の年代以降の上代国語研究のうえに、本書がはたした役割は、まことに大きいといってよい。
またP212〜4語法において「てにをは」--助詞をはじめとした「品詞」や「活用」の研究が早いうちから始められてゐたことも示されてゐる。
「錬金術」は、現代から見れば「科學」とは呼びがたい代物ではあるが、錬金術を始祖とする「化學」や「物理學」が科學ではないかといへば無論そんなことはない。同樣に、近代日本語學が成立する以前の日本語研究が「科學」とは呼び得ないとしても、日本語學が「科學ではない」、といふことにはならないのである。
「科學」といふ言葉自體は中世にすでにあつたらしいが、現代のそれとは意味が違ふ。當然のことで現代でいふ「科學」の概念が當時なかつたのである。契沖や宣長がいまと同じ意味で「科學」と使つてたらそれこそ言語史が覆る「大發見」である。
...て今回書いたことつて、とうに、つふか最初の段階で野嵜さんがいつてることなんだよなこれ。まあいいや、あらためて勉強になつた。