最近野Q
などとKirokuroがいつてゐて、なんのこつちやと思つてゐたら。
主人公の阿Qは偉大な人物では全く無く、実力もないくせに自尊心が高く物事を何でも自分の都合の良い方に解釈するどうしようもない男で、最期は強盗犯の濡れ衣を着せられて銃殺されてしまうのである。
この作品をひとどおり読んでみて、ふと阿Qって誰かさんにそっくりだなと思った。
誰に似てるのかなとしばらく考えてみて、そう!あの野嵜健秀ではないか!とポンと膝を打った次第。
今後は野嵜の事を「野Q」と呼ぶことにしたい。
野嵜さんほど阿Qとかけはなれた人はゐないと思ふのだが、ぼくも阿Qにそつくりな人間には心當たりがある。アーカイブ
だのちゃんねる
だのを作り、野Q
などと仇名を付けて自分より劣つてゐると極め付け、自分は実力はあるが自尊心は低く物事を決して自分の都合の良い方に解釈したりはしない高潔な男
と精神的勝利
にふける。
今後はKirokuroの事を「KiQ」と呼ぶことにしたい。
冗談はともかく、魯迅は、Kirokuroのやうに、阿Qをただ嘲り、蔑めといふつもりで「正傳」を書いたのだらうか。違ふ。魯迅にとつて阿Qは、革命によつて救はれるべき中國民衆そのものであるはずだ。
(前略)ところが魯迅は愚民としての民衆を徹底して批判し、そのうえでそれを救おうとする。目覚めさせようとする。阿Qはそういう愚かで情けない民衆の象徴だった。
魯迅はそういう阿Qのような民衆を叩き壊し、「雄叫びをあげて一国の民を新たにすること」をめざした。
いつてしまへば魯迅は、阿Qに向けて「阿Q正傳」を書いたのである。當時の中國民衆にとどまらない、未來、世界中の阿Qに向けて書かれたのだ。
阿Qにとどまらず、「正傳」の登場人物はみな「阿Q根性」の持ち主である。阿Qが周圍の人間全てを見下して得意になつてゐるのと同樣、周圍の人間全てが阿Qを見下して得意になつてゐる。最後の「處刑」のシーンに象徴されるやうに、阿Qを諭し、導く者、阿Qを愛する者はどこにもゐない。
いや、1人だけゐる。作者たる魯迅その人である。魯迅は阿Q、すなはち民衆を愛するがゆへに、阿Qを唾棄し、さうして阿Qを救はうとしたのである。
さういふ意味でいへば、實はKirokuroは「阿Q正傳」を讀むべき人間なのである。自らの中の「阿Q」に氣付き、「阿Q」を反省し、目覺めるべきだつたのだ。しかし、阿Qが最後まで阿Qでしかなかつたやうに、Kirokuroは自身の「阿Q」を省み、目を醒ますことができない。
福田恆存氏の『私の國語教室』同樣、何を見ても何を聞いても、Kirokuroは野Q
に精神的勝利
するための道具としか思へないのである。
實際のところ、「阿Q」でない人間は「阿Q正傳」を理解できる。「阿Q」は「阿Q正傳」を理解できない。「情け無いやつだ」と、自分自身の姿だとも気付かず、阿Qを嘲笑ふだけである。そこが阿Qが阿Qたる所以なのである。
阿Qは救はれない。では魯迅が「正傳」を書いたことは徒勞であつたのか。いや、だからこそ、阿Qは救はれなければならないのである。
...なんか思はぬ結論になつてしまつた。最初はもつとKirokuroをこつぴどく叱るつもりだつたのだが。
つふか、Kirokuroをダシにした「阿Q正傳」の感想になつてゐるやうな氣がする。