頭に來たときは、思ひ切りキレるのも惡くないもんだ。エシディシメソツドとでも名附けるか。
YUKIの新曲、聞いてるとなんだかあらぬ情景が浮かんでくるんだけど、間違つてないよね? 歌ネット - YUKI - 歌詞 - うれしくって抱きあうよ こないだ朝からFMで聞いて悶々としてしまつた。
改めて書くけど、このブログは「アンチ」—眞當な批判ではなく、揶揄や中傷でしかないコメントやトラツクバツクは削除する。だから爺氏のコメントは削除してゐるのだけど、削除したコメントを爺氏はブログに轉載してゐる。
どうせ即削除されるんだから
即削除
されるやうなコメント、といふことは爺氏自身が「アンチ」だと分つてゐるのである。であれば削除されても文句はいへない。
爺も少々辟易してきたところだったし、(Kirokuro さんに「相手にする価値も無い」と「粘着」を咎めらた事でもあるし)、もう没交渉にしようと思ってゐたのですが、かうやって話を蒸し返すのは何故なんでせうね、佐藤さん。
何故
といはれても、ぼくが爺氏をいつ何時批判しやうが自由だし、爺氏がそれに對し反應するのも自由である。辟易して
ゐるのであれば、こつちがなにをいはうが没交渉に
すればいいだけである。
佐藤さんが「当て擦り」を言ってゐる時は、爺も少々「揶揄」に走る傾向が有ります。それは認めます。
ぼくが蒸し返
し、当て擦り
してゐるといふが、それに對して「揶揄」に走る
のであれば爺氏はぼくと「同レヴエル」、爺氏もそれこそ下愚の性移るべからず
といふことになつてしまふ。
もつともぼくは、相手にする価値も無い
のにブログや掲示板を立ててまで粘着
したことはないが。
あと、議論に詰ると「アンチ呼ばはり」に走るのも、なんだかみっとも無いです。
でも、さうでない時は爺の議論や質問は卒直で答えやうのあるものばかりではないかと思ひます。
みっとも無い
もなにも、爺氏のやつてゐることは議論
ではない。思ひ込みと極附け、「主觀」と「非論理」の「アンチ」であり、反證可能性がなく答えやう
がない。さうでない時
が無いのである。
繰り返しになるが、ぼくは「議論」は歡迎する。「アンチ」は御免蒙る。爺氏は即削除
されないやうな「議論」をすべきである。
ぼくが自己弁護
してゐると爺氏はいふが、「議論」とは、自分の主張への質問や反論に對し、説明や補足をして、より自分の主張の正當性を高めることであり、「自己辯護」にほかならない。自己弁護
してはならないといふのであれば、爺氏は「議論」そのものを否定してゐるのである。
ともあれ、片方が敗北主義に凝り固まってゐる時に、「Win-Win」の関係を築くのは難しい。
ぼくは「議論」とは「勝ち負けの問題ではない」といつてゐる。敗北主義に凝り固まってゐる
といふのは、爺氏の主觀でしかないし、前にもいつたやうに無意味な「いちやもん」で「話を逸らしてゐる」のでしかない。「Win-Win」の関係
以前に、爺氏は「議論」をしてゐないのである。
片方が敗北主義に凝り固まってゐる
「、と極附けてゐる限り、」「Win-Win」の関係を築くのは難しい。
爺氏は自身の主張を「揶揄」「アンチ」だと自覺してゐるが、さうであれば改めるべきである。
「議論」をしませう。
自演乙日本一おめでたう。しかし靈夢と魔理沙はわかるとしてなんで永琳? 早苗のはうが。
餘裕ぶつた愚か者でゐるより、みつともなくても正しさを追い求めたい。
そんなもののどこがおもしろいのだらう。
嘲笑より怒りのはうがはるかにましだ。
大抵、言つた本人にかへつてくる。
「『お前が言ふな』とお前が言ふな」となるのだから、「お前が言ふな」と言ふな。
相手が絶體に負けるルールを作つておいて、「おれの勝ち、お前の負け」も無いもんだ。