時代の斜めうしろ

やはり「話」にならない

(2010年3月27日 21:59)

改めて書くけど、このブログは「アンチ」—眞當な批判ではなく、揶揄や中傷でしかないコメントやトラツクバツクは削除する。だから爺氏のコメントは削除してゐるのだけど、削除したコメントを爺氏はブログに轉載してゐる。

どうせ即削除されるんだから

即削除されるやうなコメント、といふことは爺氏自身が「アンチ」だと分つてゐるのである。であれば削除されても文句はいへない。

爺も少々辟易してきたところだったし、(Kirokuro さんに「相手にする価値も無い」と「粘着」を咎めらた事でもあるし)、もう没交渉にしようと思ってゐたのですが、かうやって話を蒸し返すのは何故なんでせうね、佐藤さん。

何故といはれても、ぼくが爺氏をいつ何時批判しやうが自由だし、爺氏がそれに對し反應するのも自由である。辟易してゐるのであれば、こつちがなにをいはうが没交渉にすればいいだけである。

佐藤さんが「当て擦り」を言ってゐる時は、爺も少々「揶揄」に走る傾向が有ります。それは認めます。

ぼくが蒸し返し、当て擦りしてゐるといふが、それに對して「揶揄」に走るのであれば爺氏はぼくと「同レヴエル」、爺氏もそれこそ下愚の性移るべからずといふことになつてしまふ。

もつともぼくは、相手にする価値も無いのにブログや掲示板を立ててまで粘着したことはないが。

あと、議論に詰ると「アンチ呼ばはり」に走るのも、なんだかみっとも無いです。

でも、さうでない時は爺の議論や質問は卒直で答えやうのあるものばかりではないかと思ひます。

みっとも無いもなにも、爺氏のやつてゐることは議論ではない。思ひ込みと極附け、「主觀」と「非論理」の「アンチ」であり、反證可能性がなく答えやうがない。さうでない時が無いのである。

繰り返しになるが、ぼくは「議論」は歡迎する。「アンチ」は御免蒙る。爺氏は即削除されないやうな「議論」をすべきである。

蒸し返し(2010年3月28日 21:09)

ぼくが自己弁護してゐると爺氏はいふが、「議論」とは、自分の主張への質問や反論に對し、説明や補足をして、より自分の主張の正當性を高めることであり、「自己辯護」にほかならない。自己弁護してはならないといふのであれば、爺氏は「議論」そのものを否定してゐるのである。

ともあれ、片方が敗北主義に凝り固まってゐる時に、「Win-Win」の関係を築くのは難しい。

ぼくは「議論」とは「勝ち負けの問題ではない」といつてゐる敗北主義に凝り固まってゐるといふのは、爺氏の主觀でしかないし、前にもいつたやうに無意味な「いちやもん」で「話を逸らしてゐる」のでしかない。「Win-Win」の関係以前に、爺氏は「議論」をしてゐないのである。

片方が敗北主義に凝り固まってゐる「、と極附けてゐる限り、」「Win-Win」の関係を築くのは難しい。

爺氏は自身の主張を「揶揄」「アンチ」だと自覺してゐるが、さうであれば改めるべきである。

「議論」をしませう。

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コメント(11)
の | 2010年3月29日 23:30

議論する積りがないから當てこすりばかり言ふんだらうな。

Author Profile Page 佐藤 俊 | 2010年3月29日 23:44

爺氏からコメントがあつたのだが、やはり「揶揄」でしかなかつたので削除した。しかし、「爺の言い分のどのあたりが iwatam さんの『議論の仕方』に抵触しますか」といふことなので引用しておく。

「感情を害する発言について」発言の自由 | iwatamの個人サーバ

とはいっても実際に暴言を吐く人も誹謗中傷を繰り返す人もいますし、それを黙って受け止められるほどの聖人ばかりではないのも事実です。しかしよく考えて下さい。それらの発言が本当に悪いのは人の感情を害する発言だからでしょうか。それ以前に、議論になっていない発言だからではないでしょうか。そういう人には、感情を害するという理由ではなく「ここは議論の場だから、人の意見を聞くつもりのない人は退場して下さい」と言うべきです。

(強調筆者)

また「つまり、ある意見が「反証可能かどうか」は、論者の思い込みの強さと は関係ないし、「正しさ」そのものは「捨てさせ」たり「守っ」たりできないと 爺は思ひます。」とのことだが、まつたくそのとほりで、爺氏が自身の「正しさ」を絶對と「思ひ込む」のは自由だが、ぼくには爺氏の「正しさ」は受け入れられない。といふことである。

Author Profile Page 佐藤 俊 | 2010年3月29日 23:53

「「揶揄」に走る」のはそれこそ「当て擦り」ではないのだらうか。
とか「當て擦り」してみる。

婆 | 2010年3月30日 09:20

形の上で議論が出来ているのなら文句を言うことはないではないですか爺さんや?
年を取ると無駄に文句が多くなって嫌ですのう。

Author Profile Page 佐藤 俊 | 2010年3月30日 10:18

削除した爺氏のコメントより抜粹。

遠回しに(相手を明示せず) 言ふのが当て擦り、揶揄は相手をからかふ事。なので、佐藤さんのは当て擦りで すが、爺のは揶揄。で、これははっきり爺に向けて言ってゐるので、「当て擦り」 ではない。


この部分に關しては參考になりました。ありがたうございます。

とはいへ「当て擦り」 も「揶揄」も、どちらも「みっともない」ことではある。ぼくが「みっともない」のであれば爺氏も「みっともない」。

Author Profile Page 佐藤 俊 | 2010年3月30日 10:31

言葉尻をとらまへて「話を掏り替へてゐる」爺氏のコメントは、「形の上」でも「議論」になつてゐない。

野嵜 | 2010年3月30日 22:11

佐藤さんは反省するけれども爺さんは反省しない。此處が二人の違ひなんだらうな……。

佐藤さんへ。「質問責めにして嫌がらせする」爺氏に答へる必要はありません。「私は質問したのだから答へを聞く用意があります」と爺氏は言つてゐますが、爺氏は「正解かどうか採點する」積りなので、意見を聞いて自分の考へを改める用意はしてゐません。この人は何時もさうですが、これでは議論になりません。

と言ふか、アンチの人は何時もこれです。「『信者』や『厨』に質問を出して、誤答が返つて來る事を期待する」――アンチの人は必ずこのやり方で人を馬鹿にします。
アンチの人は「正解」を知つてゐます(爺氏曰「その質問は別にそんなに難しくもないだらう」)。もちろんその「正解」は「アンチの人にとつての正解」に過ぎないのですが、「アンチの人にとつて」でしかない事がアンチの人には全く認識出來ません。だから話にならない。

形式的に「ことばのやりとり」になつてゐる事を爺氏は評價してゐますが、爺氏は「爺氏が質問して佐藤氏が『正解』を出す」事を「議論が噛合つてゐる」と言ひ、「佐藤氏が爺氏の期待する『正解』とは違ふ事を言ふ」のを「議論が噛合はない」と言ひます。
こんな馬鹿な「議論」はありません。もちろん、何故「馬鹿」であるかを、爺氏は理解する事はありません。爺氏を含むアンチの人々は皆、例外なしに、獨善的で、自分の考へに他人が屈服する事だけを望み、それが實現した時、「議論が成立した」と言ひます。そして、「議論が成立しない」=「相手が自分に屈服しない」時、アンチは執拗に攻撃を行ひ、非道い侮辱の言葉を浴びせる。さうする事が「良い」とアンチの人は信じてゐるのです。爺氏もまた。
――本當に御話になりませんが、アンチにしてみれば「話にならないのは信者・厨のせゐ」と云ふ事になります。アンチの人は「自分が惡い」と全然思はないんです。何うしやうもないです。

野嵜 | 2010年3月30日 22:25

個別の知識については爺氏の方が「良く知つてゐる」事があります。アンチの人は、案外知識が多く――といふか、中途半端に物を良く知つてゐて、だから思ひ上つてゐるのですが――知識の部分でアンチが「勝つ」事はあります。それは部分的な知識に限つた事であり、人格全體としては(わらひ)話が別なのですが、その邊、アンチの人は全くわからないので、思ひ上つて、人を嘲るわけです。
それは兔も角、私もさうですが、佐藤さんも、物を知らないところがあります。

徒然草の件では、爺氏の解釋の方が合つてゐたと思ひます。佐藤さんは古典のおさらひを一度やつて置いた方が良いと思ひます。と言ふか、佐藤さんは餘り本を讀んでゐないのではないですか。或は、新刊しか讀んでゐないのではないですか。その邊の本屋で新書とか雜誌とかの御手輕に手に入る本を買つて來て讀んでも、仕方がないです。正論でもWiLLでもさうです。
一方で、爺氏は、議論の仕方を――そもそも爺さん、あなたはポパーを讀んだ事があるのですか。國語學についてはいくらかでも本を見たのですか。橋本進吉にしても時枝誠記にしても、著作を手に入れる努力をしたのですか。何もしてゐないと思ひます。
私は爺氏に何も期待出來ないと思つてゐます。爺氏は言ひわけをして、これ以上の知識を得る努力をしないやうにしないやうにとしてゐます。「私に學ばせたかつたら參考書を示すがいい」と爺氏は、居丈高に曰ひます。自分で探すのが當り前なのですが、他人に探させて自分は何もしない。さうやつて爺氏は人を馬鹿にするのです。斯う云ふ人とは話が出來ません。

Author Profile Page 佐藤 俊から野嵜への返信 | 2010年3月30日 23:03

>古典のおさらひ
野嵜さんの「おすすめ」はなんでせうか。
あと「昭和天皇」論もあはせて。

Author Profile Page 佐藤 俊から野嵜への返信 | 2010年3月31日 21:49

ひよつとして、「吉田兼好は『アンチ』であつた」とぼくがいつたと思はれてる?
たしかに、言葉不足といふか誤解を招く表現だつたかもしれない。

無論、兼好が「アンチ」であつたわけではなくむしろ逆で、「至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む」、「己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ」、「万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ」—優れた人間を妬み、自分とは違ふ考へを嘲ひ、知つたかぶりをする—「アンチ」は室町時代にもゐて、兼好は「かうであつてはならない」、と戒めてゐるのである。
室町時代でも、平成のネツト時代でもかういふ人間がゐるといふことは、「アンチ」はもはや日本人の「宿痾」なのかもしれない。げに「下愚の性移るべからず」。

野嵜 | 2010年4月 1日 00:31

ええと文脈を讀み違へてゐました。「爺氏の解釋の方が合つてゐた」は取り消します。失禮しました。

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