再三爺氏はぼくが「愚か」であり、淺薄な知識と思慮しか持ち合わせない、と笑ふ。しかしそれは、爺氏の「正しさ」を理解できない佐藤は愚か者であり、愚か者である佐藤は爺氏の「正しさ」を理解できない、というトートロジーであり、それは爺氏が「自分は絶對に正しい」といふ前提にもとづく反證可能性のない主張でしかない。
それに有り體にいつてぼくは非常に氣分を害してゐる。あへていふが爺氏を「敵視」してゐる。たとひ事實であつたとしても、「愚か者」よばはりされて愉快な人間はおるまい。
もし爺氏が、自分の意見にぼくを從はせたいと思つてゐるなら、そのハードルは相當上つてしまつてゐる。前述したやうにぼくは爺氏に好印象を持つてゐないからだ。ぼくが「愚か者」だといふなら、それこそ「愚か者」にもわかるやうに、丁寧に、わかりやすく、説得力のある主張を爺氏はしなければならない。しかし今のところ爺氏の主張は根據は主觀でしかないし、筋道も立つてゐない。それで「意見を聞き入れろ」といはれても納得はできない。
爺氏は、「ならあなたの主張も私を納得させられてゐないのだから、自分こそ『説得力のある主張をしなければならない』でせう」といふだらう。
ぼくとしては爺氏に納得してもらへるやう手を盡くしたつもりである。かういへば聞き入れてくれるのではないか、この方法ならわかつてもらへるのではないかと樣々な手段を試してみた。しかし爺氏には納得してもらへてゐないわけで、それはぼくの力量不足といはざるをえない。
しかし「納得させられなかつた=間違つてゐる」わけではない。
無論ぼくは自分の意見が「正しい」と思つて主張してゐる。しかしそれが他人にとつても「正しい」かどうかは分からない。自分の「正しさ」が他人の「正しさ」と違つてゐたとしても、即座に自分の「正しさ」は「間違ひ」であつたとは限らないし、そもそも、他人も自分も本當に「正しい」かどうかもわからない。
たしかにぼくは爺氏を説得できなかつた。しかしぼくも爺氏の主張に納得できてゐない。ただ單に、互ひの「正しさ」を受け入れられなかつた、物別れに終つた、といふことにすぎない。
議論は「勝ち負け」のゼロサムゲームではないのだから、「納得させられなかつた」=「負け」ではないし、「相手の意見に從はなければならない」といふことにもならない。自分の「正しさ」を捨てる必要はない。
ぼくは自分の「正しさ」よりも精緻で明快な「正しさ」が目の前に現れればすぐそれに乘り換へる。しかし「正しい」と思へない意見に從つたりはしない。
權力によつて「正しさ」を捨てさせられた科學者はしかし「それでも地球は動いている」とつぶやいた。まして「自由」の時代に生きるぼくが「正しさ」を捨てる理由は無い。