文章を入力するときでも頭の中には「文章」は無い、といふ話を前にしましたが、ペンで紙に書くときはどうだらう? と思つて、書きながら思考をトレースしてみたが、ぼくはやつぱり「文字」は思ひ浮かべてゐない。
ATOKで入力するときと同樣、頭の中にはやはり「文字」としては存在してゐなくて、ただこれから書かうとする「ことば」—なきさん風に言へば「音」—として存在してゐる。
難しい漢字を書かうとするときはその「字」を思ひ浮かべるけど、ふつうに文章を書くときは文字はほとんど腦裏には出てこない。1文字1文字、ここはかな、ここは漢字と決めながら書いてゐるわけではなく、無意識のうちに手がかなと漢字を書き分けてゐる。
だからぼくにしてみると1文字ずつ漢字/平仮名を決定していく(=手書きにきわめて近い)
といふことにはならないのです。
言つてしまふと、キーボードではローマ字にしてもかなにしても漢字を直接入力することはできない。連文節變換にしてもSKKにしてもどう頑張つても手書きと「同じ」にはならない。ぼくにしてみれば「漢字かなまじり」では考へてはゐないので、一々漢字かかなか決めながら入力しなければならないSKKよりも、一連の文章をひとまづ入力してしまへる連文節變換のはうがどちらかといへば「手書きに近い」と感じます。
ぼくがSKKを使はうとするのは、外國語を身につけやうとするのと同じことなのではないか
とこれも前に書いたけど、ぼくがSKKを使ふとき、文章として「想起」してからでないと打ち込めないのは、つまりSKKを使ふときのメソツドが腦内に無いからではないでせうか。
ちようど英語の文章を考へやうとすると、バイリンガルでない限り「今日はとても良い天氣です」は"It is very fine today."と一旦訳さなければならない。實際のところ"It is very fine today."くらい一發で出ますが。
とまれバイリンガルであれば一々訳さないで頭に浮かぶらしい。つまり日本語のメソツドと英語のメソツドが腦内にあり、日本語なら日本語、英語なら英語でそれぞれ思考できるそうだ。
なきさんが言ふとほり6ヶ月もSKKを使つてゐればSKKのメソツドが腦内に構築され、ATOKと同樣一々文章として「想起」しなくても打ち込めるやうになるかもしれない。