間違ひの喜劇
(2010年10月24日 21:49)
間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない
この命題は眞か。
“對偶”をとつてみる。
發言する資格があるのは、間違つたことを言はない人間である
これが眞ではないことはいふまでもないだらう。間違つたことを言はない人間
なんてゐるわけがない。ゐるとすればそれは“神樣”である。よつて冒頭の命題も眞ではない。
人間は「間違つたこと」をいふから、“議論”がある。互ひに意見を—間違つてゐるかもしれないことを承知で“發言”を出し合ひ、“間違ひ”を指摘しあつて、より“正しい”意見に近づけるためである。
冒頭の間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない
が“正しい”といふ人間がゐるとすれば、それは自分が“常に正しい”と考へてゐるからである。さうでなければ、まづ自分自身に發言の資格がないことになつてしまふ。前述のとほりこの命題は正しくなく、“間違ひ”なのだが、しかし間違つたことをいふ人間でも發言する資格はあるのだから、この命題を主張する自由もある。—他人から「その意見は間違つてる」といはれるだけだ。もつとも主張した本人は自分が“常に正しい”と考へてゐるから、その“正しい”自分の意見を否定する人間こそが“間違つてゐる”、發言する資格がない、そんな奴らの意見など聞き入れる必要はない、と考へるだらうけど。
ぼくがwebで發言するとき、自分の意見が100%正しい、と思つて發言してゐるわけではない。逆に、間違つてるかもしれないけど、間違つてゐるかもしれないからこそ、世に“問ふて”みよう、と考へて發言する。もし間違ひであればその間違ひを指摘してもらひ、意見を修正する。指摘が納得いかないものであれば意見を變へる必要はない。
「反證主義」といふ言葉を最近知つたのだが、ぼくの考へがこの主義の理念に近いものであり、“間違ひ”ではないことを知つて非情に心強かつた。
參考;(10月30日 23:30)
- 話せばわかる 神は細部に宿り給う
- 「對偶」をとる、といふ方法はどこかで見た記憶があつたんだが、ここだつた。
お互い人間なんだから、話せばわかる
、といふには、「あなたの話は私も分かる」といふ姿勢でなければならない。
追記;(11月23日 23:30)
Twitter / かふし:延々が永遠になりさうな位なんだけど、援護出來る智識が無い
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> 間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない
> この命題は眞か。
> “對偶”をとつてみる。
> 發言する資格があるのは、間違つたことを言はない人間である
> これが眞ではないことはいふまでもないだらう。"間違つたことを言はない人間"
> なんてゐるわけがない。ゐるとすればそれは“神樣”である。よつて冒頭の命題
> も眞ではない。
そもそも、それが「命題」か?といふ疑問は措くとして、その後の「論理」がを
かしいのではありませんか?この「命題」を偽である、と証明するには、間違っ
たことをいふ人間の中には、発言する資格が有る人もゐる、と言はねばなりませ
ん。佐藤さんはそれを証明できてゐない。(勿論、資格の有る無しは、この場合
主観的ですから、なかなか「証明」は難しいでせうが。)
> 人間は「間違つたこと」をいふから、“議論”がある。互ひに意見を—間違つて
> ゐるかもしれないことを承知で“發言”を出し合ひ、“間違ひ”を指摘しあつて、
> より“正しい”意見に近づけるためである。
上記を全部無視しても、これはまっとうなご意見だと思ひます。
> ぼくがwebで發言するとき、自分の意見が100%正しい、と思つて發言してゐるわけ
> ではない。逆に、間違つてるかもしれないけど、間違つてゐるかもしれないから
> こそ、世に“問ふて”みよう、と考へて發言する。もし間違ひであればその間違
> ひを指摘してもらひ、意見を修正する。指摘が納得いかないものであれば意見を
> 變へる必要はない。
御意。これにも同意します。
しかし、もしこれがかつて「爺は意見を変えるつもりが無いのに……」との批判
の敷衍であれば、それは「論理の飛躍」でせう。「爺に有効な反論ができない」
から、いきなり「爺は意見を変ヘるつもりが初めめからない(だから議論の意味が
ない)」とするのでは、やはり「無理筋」としか言ひやうがない。
> 「反證主義」といふ言葉を最近知つたのだが、ぼくの考へがこの主義の理念に近
> いものであり、“間違ひ”ではないことを知つて非情に心強かつた。
いえ、「(ポパーの)反証主義」はその「理念」からは遠いと思ひます。
爺> 爺の言葉をそのまま信じろ、とは言ひません。ただ、もし気が向いたら、野嵜さ
爺> んの挙げている「フレームワークの神話」の注を良く読んで、反証主義がどんな
爺> ものかよく理解してから、これまでの「論争」を冷静に見直してみて下さい。
お願いですから、このあたりを読み返してみて下さい。
>いえ、「(ポパーの)反証主義」はその「理念」からは遠いと思ひます。
「思ひます」は反証できないやね
「N爺」といふハンドルネームは「NG」といふ意味なのだらうか。
「自分の言ふことは“NG”ですよ」のといふ“謙遜”のつもりなのだらうか。
さうであるなら「自分の言ふことはでたらめですよ」と言つてゐるといふことだ。
爺氏のコメントはもともと讀んでゐないが、ますます讀む氣が失せた。「でたらめ」をなんで讀まなきやならないのか。
野嵜さん、
> 「思ひます」は反証できないやね
いえ、「反証主義」が佐藤さんの「理念」に遠くない事を言えば「反証」できた
事になると思ひます。
佐藤さん、
> ぼくがwebで發言するとき、自分の意見が100%正しい、と思つて發言してゐるわけ
> ではない。逆に、間違つてるかもしれないけど、間違つてゐるかもしれないから
> こそ、世に“問ふて”みよう、と考へて發言する。もし間違ひであればその間違
> ひを指摘してもらひ、意見を修正する。指摘が納得いかないものであれば意見を
> 變へる必要はない。
との殊勝な心掛けは所詮「言ってみただけ」だったのですか?
>野嵜さん、
あっはっはっは
>いえ、「反証主義」が佐藤さんの「理念」に遠くない事を言えば「反証」できた
>事になると思ひます。
>思ひます。
はっはっはっはっは
爺> 野嵜さん、
の> あっはっはっは
あ、図星でしたか。
爺> いえ、「反証主義」が佐藤さんの「理念」に遠くない事を言えば「反証」できた
爺> 事になると思ひます。
の> はっはっはっはっは
おや、こっちについても何も言へませんか。「反証主義」は鬼門ですもんね、野
嵜さんには。
>あ、図星でしたか。
エスパー乙
>おや、こっちについても何も言へませんか。「反証主義」は鬼門ですもんね、野
>嵜さんには。
あっははははは!
粘着乙
讀む氣も起こらなければ削除するのもめんどくさ。
野嵜さん、
爺> あ、図星でしたか。
の> エスパー乙
N爺には超能力は有りませんが、当ってゐたといふ事ですかね?
爺> おや、こっちについても何も言へませんか。「反証主義」は鬼門ですもんね、野
爺> 嵜さんには。
の> あっははははは!
の> 粘着乙
成程、野嵜さんて、仮名の時は 2 ちゃんねら(の最悪の部類)に似てくるんで
すね。小人名を消して不善を為す、とでも言ふべきか。
佐藤さん、
そんな無理筋を押してないで、読んでから議論して「正しさ」に近付きませうよ。
>野嵜さん、
粘着乙
>N爺には超能力は有りませんが、当ってゐたといふ事ですかね?
妄想乙
>成程、野嵜さんて、仮名の時は 2 ちゃんねら(の最悪の部類)に似てくるんで
>すね。小人名を消して不善を為す、とでも言ふべきか。
一人語り乙
>佐藤さん、
>そんな無理筋を押してないで、読んでから議論して「正しさ」に近付きませうよ。
正義の味方乙
粘着きめェ
N爺さんは粘着アンチである
悔やしかったら反証してみやがれw
野嵜さん、
なんだか子供の喧嘩(「おまえのかーちゃん……」)じみてきましたが、他所だ
と何でもやれるぜえ!、といふ事でせうか。でも、何だか納得できますよ、野嵜
さん。なんだかんだ言っても、野嵜さんの倫理観って所詮そんなもんですよね。
佐藤さん、
悔しいけど、それは「反証不可能」です:-p。(馬鹿念ですけど……。でも、あな
た本当に分ってないですね、反証主義。)ともあれ、野嵜さんの懸命の妨害が功
を奏したのか、爺の「議論への誘い」は無視されて、いましばらくは無明の境地
で居るんだい!と……御同慶の至り。
野嵜さんが好きなんだねw
N爺さんは仮名じゃないのかwww
悔やしかったら本名で書けよ(嘲笑)
ぼくが、「N爺」なんてふざけたハンドルネームのコメントなど讀めない、と言つたにも關はらず、「N爺」のハンドルネームを使ひ續けてる。つまりは「讀む必要はないですよ」と言つてるわけだ。ぢやあ讀まない。
だからと言つて、「爺」に戻しても讀まないけど。
はじめまして。対偶について気になっていたのですが、最初に書き込む度胸がなかったので、紛れて書き込んでみます。
私の考えでは「対偶は版のではない」または「対偶を使うときにまれにうまくいかないときがある」「気をつけて使うべきだ」と思います。
雑誌のパズルコラムで読んだことがあるのですが
「『怒らないと勉強しない』の対偶は『勉強すると怒る』である。
母『勉強しなさい!怒らないと勉強しないんだから』
子供『その対偶は『勉強すると怒る』だよね?じゃ、いつでも怒られっぱなしじゃん?』
母『え?…あら、変ね?』」
このパズルの解釈はともかく、そういうこともあると考えて「出てきた答えが常識と一致するかどうか」を一度問うてみるのが良いかと思います。
さて、私も佐藤さんと同じように対偶を取ってみて
「發言する資格があるのは、間違つたことを言はない人間である」と出ます。
佐藤さんはここで「これが眞ではないことはいふまでもないだらう。「間違つたことを言はない人間」なんてゐるわけがない。ゐるとすればそれは“神樣”である。よつて冒頭の命題も眞ではない。」と結論づけていますね(結論づける、という言い方が悪ければ「そのように解釈した」としましょうか?お好きな言い方をして頂いて結構です)。
私はここで「確かにおかしい。しかし『間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない』と言うことはあるし、常識的にそんなに間違ってはいない。なぜだろう?」と考えました。
そして「間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない」という発言がなされる場合をシミュレートしてみて「『間違ったことを繰り返し言う人・人の意見に耳を貸さずに間違ったことに執着する人』に対して『それは態度自体がまずいよ』と指摘するために言う」場合が多いのではないかと思いました。
ですので、この発言は字義通り取るべきではなく「間違った意見に執着していては議論は成り立たないよ」という意味に取るべきだと考えました。
「(いつまでも)間違つたことを(ばかりを)いふ人間は、發言する資格がない」と言う意味ではないかと。
この解釈だと「もし間違ひであればその間違ひを指摘してもらひ、意見を修正する。指摘が納得いかないものであれば意見を變へる必要はない。」と両立しますし、特に問題はないのではないかと。
私は「議論するときは間違いを恐れるな」はいいことだと思います。ただしそれに寄りかかってしまう人がいた場合に「間違いを減らす努力は(できれば最大限に)せよ」ということを言いたかったのではないかと思っています。
理論的には「議論をするときは間違いを恐れるな」はいいことなのですが、それをフル活用してしまうと、例えば「水はいい言葉をかけて凍らせると決勝が綺麗になる」と言った意見が出てしまうのではないかと。間違いを指摘するのは簡単ですが、そんなのが毎回毎回出てきては(ごめん、結晶がキレイになるのは言葉じゃなくて音楽だった→却下(笑):ごめん、結晶がキレイになるのは言葉でも音楽でもなくて気持ちだった→却下(?):ごめん、結晶がキレイになるのは…)議論が進みませんよね?
こんなもんでどうでしょう?
すみません、匿名になってしまいました。これを含めて直近3つの発言はすべて 私=330 の発言ですm(__)m。
>爺さんへ
どこぞではどうも。
>この「命題」を偽である、と証明するには、間違ったことをいふ人間の中には、発言する資格が有る人もゐる、と言はねばなりません。佐藤さんはそれを証明できてゐない。(勿論、資格の有る無しは、この場合主観的ですから、なかなか「証明」は難しいでせうが。)
「発言する資格」とは何ですか?
全ての人間は不完全であるが正しいとすると、発言するのに「資格」は要らない。取り敢へず何でも発言してみて間違つてゐるなら正す。佐藤さんはさう言つてゐるだけでせう。
人間は神にはなれない。したがつて全ての人間は一人の例外もなく間違ひを犯す。私も爺さんも、です。それを怖れて物を言はないよりも、どんどん言つてみて間違ひを正して行く方が有益と言へませう。「資格」の有る無しは関係ありません。むしろ不完全な人間だからこそ間違ひを認めて反省する事が要求されます。爺さんはね、相手に反省しろと要求するだけで自分は絶対に反省しない。あなたは神ですか。俺様には佐藤さんの発言を正してやる「資格」があるとでも勝手に思つてゐるのではないの? 何処の馬の骨か判らん奴に説教されるのは敵はない。
今回も念を押して措きますが、人間は神にはなれないと云ふのは私のオリジナルではなく(佛教に限らず)伝統宗教でさう教へてゐる。人間が傲慢の罪に陥るのを戒めてゐるのです。私の主張を引つ繰り返すのは簡単で、人間は神になれると論証すればよろしい。私は一般人だから伝統宗教で教へてゐる事を信じてゐるだけです。頭脳明晰な爺さんにとつて、こんな一般人を凹ませるのは赤子の手を捻るような物でせう。
330さん、今後ともよしなに。
自分から見て、「あいつは間違つたことを言つてゐる。いくら『間違つてゐる』と言つてやつても全然改めようとしない」、と考へたとします。しかし、實は自分のはうこそ間違つてゐて、相手のはうが正しい、といふこともあります。「間違つてゐる」と言はれたはうからしてみれば、「向かうの言つてることは全然理屈になつてない、『間違つてゐる』のは向かうのはうぢやないか。なんでこつちが改めなきやいけないんだ」としか考へられません。
「あいつの間違つてゐることは一々言つてやるまでもない。あいつに發言する資格なんかないのだからあいつの發言を潰してやれ」と考へてしまふ人間は屡々ゐます。いはゆる「アンチ」や「粘着」といはれる人間ですが、彼らは自分から見て「間違つてゐる」と見なした人間の「發言する資格」を奪ふため、ブログを炎上させたり、名を騙つて荒しを働いたりします。
自分の“正しさ”に固執しすぎるのは危險です。
無論、「間違いを減らす努力」は當然のことで、自分の“正しさ”こそまず疑つて、筋はとほつてゐるか、自身で客觀的に檢證し、世に問ふてみる。とはいへ“檢證”するのは自分ですから、完全に客觀的とはいかない。反論されて、もしそれが自分の意見よりも理に適つてゐれば、それを取り入れる。
さういふ姿勢は必要です。
“水からの傳言”にしてみても、ぼくは「間違ひ」だと思ひます。「いい言葉」だとか「結晶が綺麗になる」だとか、あまりにも判斷の基準が恣意的すぎる。「間違ひ」といふよりは「『間違ひ』だと證明のしようがない」といふべきでせう。
ですが、ぼくは「“水傳”を主張する人間に發言する資格はない」とは思はない。“水傳”そのものは「間違ひ」であつても、「水に特定の周波數を掛けながら凍らせると特殊な効果が得られる」といつたやうな科學的な研究のヒントになるかもしれない。
科學とは一見つまらないアイデイアから發展するものです。
「“水傳”を眞に受けてしまふ人が現に出てゐる」といはれるかもしれませんが、さういふ人は“水傳”がなければまた別のものに流れるだけだと思ひます。
對偶のパズルですが、「怒らないと勉強しない」の對偶は、「勉強する、怒ると」だと思ひます。
「(母親が)怒らないと(息子が)勉強しない」←→「(息子が)勉強する、(母親が)怒ると」
まあ實際は、
母「屁理屈言はないで、勉強しなさい!」
となるでせうけど。
「參考」であげた記事を見て、“對偶”を使つてみたくなつたのです。
そのパズルコラムでは、答えは
「勉強しているなら 怒られたってことだ」
となっていました。
ほぼあっていますね。さすがです。
いや、「ほぼあっている」ではなくて
「同じことを言葉を違えて言っている」ですね。
つまり「正解」と言うことだと思います。
塗炭さん、
爺> この「命題」を偽である、と証明するには、間違ったことをいふ人間の中には、
爺> 発言する資格が有る人もゐる、と言はねばなりません。佐藤さんはそれを証明で
爺> きてゐない。(勿論、資格の有る無しは、この場合主観的ですから、なかなか
爺> 「証明」は難しいでせうが。)
> 「発言する資格」とは何ですか?
それは言ひ出した佐藤さんに聞いてみて下さい。
爺は「論理がをかしい」*1)と言ってゐるのであって、そんな「発言する資格」
を云々してゐるのではないし、ましてや「佐藤さんに発言する資格が無い」等と
は一度も言った事はありません。(さう言へば、「○○を読んでない爺は、発言
する資格が無い」と言はれた覚えはありますね、野嵜さんに。)
(*1)A->B の対偶を取って B*->A* とするのは良いとしても、B* が偽であるか
ら命題全体が偽であるとは言へない。全体が偽であるとするには、B と A* が偽
であると言ふ必要がある。(高校数学の教科書に書いてあると思ひますが。)もっ
と言ふなら「資格がある」とか「するべし」とかを含む命題を形式論理でどうか
うしようといふのに無理が有ると思ふ。
> 全ての人間は不完全であるが正しいとすると、発言するのに「資格」は要らない。
> 取り敢へず何でも発言してみて間違つてゐるなら正す。佐藤さんはさう言つてゐ
> るだけでせう。
ええ、爺も、その論理展開はともかく、結論には同意します。最初のコメントで
もさう言ってるではありませんか。
> 人間は神にはなれない。したがつて全ての人間は一人の例外もなく間違ひを犯す。
> 私も爺さんも、です。それを怖れて物を言はないよりも、どんどん言つてみて間
> 違ひを正して行く方が有益と言へませう。「資格」の有る無しは関係ありません。
> むしろ不完全な人間だからこそ間違ひを認めて反省する事が要求されます。
ええ、ええ、これにも全く同感ですよ。(人間の不完全さを「神」をひっぱり出
して「証明」するのは、ちょっと納得できませんが。)
しかし、
> 爺さんはね、相手に反省しろと要求するだけで自分は絶対に反省しない。あなた
> は神ですか。俺様には佐藤さんの発言を正してやる「資格」があるとでも勝手に
> 思つてゐるのではないの? 何処の馬の骨か判らん奴に説教されるのは敵はない。
といふのは全く見当違ひの非難ですね。勿論爺は神様ではないので(無神論者に
さう言ふのは結構イケてる冗談かも)間違ひもやらかしますし、そもそも「反省
しろ」等と言った事はないと思ひますが。爺は常に「個別」の事例について「具
体的」に批判してゐるつもりです。それを「発言を正してやる云々」とか「説教
だ」とか言ふのは、議論なり相互批判を否定したいのでせうか。ついさっきの
「間違ひを正して行く方が有益」とか「間違ひを認めて反省する事」とかいふの
は、言ってみただけ、ですか?
また、爺は「絶対に反省しない」と塗炭さん(や、野嵜さん、佐藤さん)が仰る
のは、既に「みみタコ」の類になりつつありますが、しかし、それは単に塗炭さ
ん他が爺に再考を迫るだけの論拠を持ち出せなかった、といふ事ではないです
か?塗炭さんの主張や論拠を爺が「不当に無視して反省を蔑ろにしてゐる」とい
ふ実例がお有りなら、是非それを挙げてみて下さい。(塗炭さんが、自説を撤回
するなり、「反省」した例が有れば、それを示して頂けるともっと説得力が有る
かも。)ちなみに、議論の際の「反省」ってどういふ事なんだろ、と爺は密かに
疑ってゐますが。)
> 今回も念を押して措きますが、人間は神にはなれないと云ふのは私のオリジナル
> ではなく(佛教に限らず)伝統宗教でさう教へてゐる。人間が傲慢の罪に陥るの
> を戒めてゐるのです。私の主張を引つ繰り返すのは簡単で、人間は神になれると
> 論証すればよろしい。私は一般人だから伝統宗教で教へてゐる事を信じてゐるだ
> けです。頭脳明晰な爺さんにとつて、こんな一般人を凹ませるのは赤子の手を捻
> るような物でせう。
いえ、今回も繰り返しますが、爺は「人間は神になれる」ではなくて「神は居な
いだらう」と言ってるのです。(塗炭さんが当然のやうに引き合いに出される仏
教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も無い)」
と仰ったやうな気がします。しかも、悟りを開いて仏陀となるべく修行しろと勧
めてゐる。)なので、それ(「人間は神になれる」と論証しろ)は「無理筋」
(見当違ひ)で、いかに頭脳明晰な人でもなんとも議論のしやうが無いと思ひま
すよ。
蛇足ですが、「一般人を凹ませるのは赤子の……」って、塗炭さんは、ひょっと
して、爺に「赤子みたいに手を捻られて凹んでゐる」と?それは申し訣なかった
ですね。でも、論理の誤りや事実の誤認を指摘されて凹むのは、「議論しませう」
と矛盾してゐると思ひます。そんな事で凹んでないで、元気を出して議論しませ
う。
「N爺」、つまり「わたしは“間違ひ”です」といふハンドルネームで、「あなたは間違つてゐる」といふのであれば、「『あなたは間違つてゐる』といふのは間違つてゐる」、すなはち「あなたは正しい」。
小人名を消して粘着を為すw
早く本名さらせよ
>爺さんへ
爺さんは何を「議論」したいのですか?
爺さんは私(塗炭)と云ふ人間を相手にしたがつてゐる。俺とお前でどちらが偉いか「議論」に拠つて「証明」して見せると考えてゐる。爺さんの言ふ「議論」は例外ナシに特定個人の知識量の多寡を問ふてゐます。私はね、真理を述べたのです。人間は神にはなれない。これを真理ではないと言ひたいのなら、爺さんの側で論証なり反証なりして下さい。解り易く言ふと、伝統宗教の教へを信じてゐる人を否定したいのなら、その伝統宗教の教へを否定する事。無神論者の爺さんなら簡単でせう。
いちいち細かい事を議論する積りは無い。何度言へば解るんだ、この糞爺。
塗炭さんへ、糞N爺です
> 爺さんは何を「議論」したいのですか?
自分から議論をふっかけてをいて、これまた法外な質問ですが、答は後述といふ
事で。
> 爺さんは私(塗炭)と云ふ人間を相手にしたがつてゐる。
上述のやうに、先に「相手にしたがった」のは塗炭さんの方だと思ひますが、そ
れに反論しては不味かったですか?でもまあ、佐藤さんも野嵜さんもまともに爺
にとりあってくれないので、塗炭さんには感謝してますよ。
> 俺とお前でどちらが偉いか「議論」に拠つて「証明」して見せると考えてゐる。
> 爺さんの言ふ「議論」は例外ナシに特定個人の知識量の多寡を問ふてゐます。
「どちらが偉い」とか「知識の多寡」とか、それは考へすぎではないです
か?少くとも爺の方ではそのやうに考へてはゐません。目下の論題に集中しませ
う。
> 私はね、真理を述べたのです。人間は神にはなれない。これを真理ではないと言
> ひたいのなら、爺さんの側で論証なり反証なりして下さい。解り易く言ふと、伝
> 統宗教の教へを信じてゐる人を否定したいのなら、その伝統宗教の教へを否定す
> る事。無神論者の爺さんなら簡単でせう。
さうですか、爺はそれに応えたつもりですが。「神は居ない」と思ってゐるもの
に、「人は神になれる」を論証しろといふのは筋違ひでせう、と。そもそも存在
しないものに「成れる」訣がないぢゃありませんか。
あと、「人は神になれない」が伝統的宗教の教へであるといふのは確かですか?
仏教では(少くとも御釈迦様は)「神は居ない」と言った。その仏教が「人は神
になれない」と教へてゐる筈はないと思ひます。
> いちいち細かい事を議論する積りは無い。何度言へば解るんだ、この糞爺。
宗教の「中心的」な教義(この場合は釈尊の主張)が細い事である訣がないと思
ひますが、如何?
>爺さんへ
私の言つてゐる事が通じてゐないので繰り返し。
>仏教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も無い)」と仰ったやうな気がします。しかも、悟りを開いて仏陀となるべく修行しろと勧めてゐる。
「死後の世界も、当然輪廻も無い」とするなら、御葬式や先祖供養の行事一切が否定される。いいですか、佛教以外のキリスト教、イスラムでも御葬式をします。「死後の世界」(來世)があると考えてゐるからこそ、其処へ送り出す為の何らかの儀式をする。最う少し解り易く言ふと、人間は死んだら終り、とは考へてゐない。故に人間は命懸けの行為もするのです。
千年前の修験者が、現在から見ると碌な装備も無く、三千メートル級の高山に登つてゐた事は周知の通り。現在でも困難な高山に。何故か。自分の命よりも「悟りを開いて仏陀となる」事を絶対と考へてゐた。さう考へないと彼ら修験者の行動は説明できない。死んだら終りと考へるなら命懸けの修行なぞ誰もやらないからだ。
現世で人間が「仏陀」になれる筈がありません。なれるのなら來世の存在を説く必然が無いからです。現世が全てと云ふ事になる。現世が全てなら楽しく豊かに暮らす方が良い。しかし釈迦はそんな刹那的な生き方だけを説いてゐません。事実として現代人でも命懸けの行為をする事がある。代表的には戦争。私は戦争を必ずしも賛美しないけれど、人間が持つ清冽な側面としての戦争は認めてゐます。
難しい佛典(御経)を読めとは言はないけれども、せめて常識で考へたら如何。佛教が、或は、伝統宗教が來世を否定する筈がないでせうに。一方、自称無神論者は來世を否定する。ならば來世を否定する論証やらをして下さい。「無理筋」とか何とかの屁理屈は御免蒙る。あとね、「神はゐない」のだから神にはなれないと言ふのなら、「神はゐない」論証なり何なりをする事。私は「神はゐる」と言つてゐる。其処を引つ繰り返さないと駄目です。念を押して措きますが、お前が先に論証しろなんてのはナシ。
もうね、何度言つても通じそうにない。爺さんは頭は良いかも知れないが人間が腐つてゐる。
塗炭さん、
爺> 仏教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も無
爺> い)」と仰ったやうな気がします。しかも、悟りを開いて仏陀となるべく修行し
爺> ろと勧めてゐる。
> 「死後の世界も、当然輪廻も無い」とするなら、御葬式や先祖供養の行事一切が
> 否定される。いいですか、佛教以外のキリスト教、イスラムでも御葬式をします。
> 「死後の世界」(來世)があると考えてゐるからこそ、其処へ送り出す為の何ら
> かの儀式をする。最う少し解り易く言ふと、人間は死んだら終り、とは考へてゐ
> ない。故に人間は命懸けの行為もするのです。
いや、それは論理がをかしいと思ふ。生きてゐる人が、葬式や先祖供養をする事
が、死後の世界の存在を証明した事にはならない。肉親や知人の死を悼む気持は
共通で、だから儀式が有る、といふ方が近いでせう。それを、たまたま、(教祖
の教へを枉げて、死後の世界や、地獄や天国を説く)伝統宗教の僧侶がやってゐ
るだけ、といふ事でせう。
> 千年前の修験者が、現在から見ると碌な装備も無く、三千メートル級の高山に登
> つてゐた事は周知の通り。現在でも困難な高山に。何故か。自分の命よりも「悟
> りを開いて仏陀となる」事を絶対と考へてゐた。さう考へないと彼ら修験者の行
> 動は説明できない。死んだら終りと考へるなら命懸けの修行なぞ誰もやらないか
> らだ。
私は修験道の事をよく知りませんが、このあたりは、以下の「現世で人間が『仏
陀』になれる筈がありません」と矛盾しませんか?
> 現世で人間が「仏陀」になれる筈がありません。なれるのなら來世の存在を説く
> 必然が無いからです。現世が全てと云ふ事になる。現世が全てなら楽しく豊かに
> 暮らす方が良い。しかし釈迦はそんな刹那的な生き方だけを説いてゐません。事
> 実として現代人でも命懸けの行為をする事がある。代表的には戦争。私は戦争を
> 必ずしも賛美しないけれど、人間が持つ清冽な側面としての戦争は認めてゐます。
塗炭さん、あなた、本当に仏教徒ですか。来生の存在を信じる事が刹那的でない
生き方ですって?爺の乏しい知識からでも、現世でどうしても避けられない苦しみ
(生病老死)から解脱するために(現世で)悟りを開くべし(執着を去るべし)、
といふのが仏教(少くとも釈尊の教へ) の根幹である、くらゐの事は解ります。
命懸けの利他的な行為が、(自分の)来生を信じるところから生まれる、のは一
面の真理でせう(「靖国神社で会はう」)が、しかしそれが称揚すべき事でせう
か。むしろ、他人に、自殺行為を勧める・強要する、現世での抑圧を甘受させる、
といふ面も有るでせう。前にも書いたかも知れませんが、爆弾を満載した車でや
る自殺テロの実行者に、天国の素晴しさを説くのは普通の事で、時にはそこで殉
教者に傅く処女の数が 50 人にまでエスカレートする事が有るとか。
あと、バラモン教の輪廻思想は、極端なまでの身分制度であるカーストを補強し
てきました。「おまえが今不可触賤民なのは前世の行いが悪かったからだ(諦め
ろ)」といふ訣ですね。釈尊が輪廻を否定したのは、この現世の「苦」のひとつ
の源としての身分制度を否定するためであったと思ってゐます。
> 難しい佛典(御経)を読めとは言はないけれども、せめて常識で考へたら如何。
> 佛教が、或は、伝統宗教が來世を否定する筈がないでせうに。一方、自称無神論
> 者は來世を否定する。ならば來世を否定する論証やらをして下さい。「無理筋」
> とか何とかの屁理屈は御免蒙る。あとね、「神はゐない」のだから神にはなれな
> いと言ふのなら、「神はゐない」論証なり何なりをする事。私は「神はゐる」と
> 言つてゐる。其処を引つ繰り返さないと駄目です。念を押して措きますが、お前
> が先に論証しろなんてのはナシ。
さうですか、爺は常識的に考へてゐるつもりですけどね。ただ、殆んど原型を留
めない程に分裂・変容した(現在の宗派ごとの)教義の一部を恣意的に選ぶ事が
「常識」とは思えず、教祖達の教へが本当はどうだったか、を考へるべきだ、と
いふのが爺の立場ですが。
しかし、塗炭さんの言ひ分「仏教徒だけど一神教の神々に限らず八百万の神の存
在を信じてゐる」は、釈尊の教へ、どころか現在のどの宗門の教義とも真っ向か
ら対立するやうに思へるので、とても「常識的」とは言へず、まずそれを説明す
る必要が有ると思ひます。
独自の「証明」が無理なら、せめて、どれかのお経に「神は存在する」とか「人
は神にはなれない」と書いある箇所を示して頂けませんか?
> もうね、何度言つても通じそうにない。爺さんは頭は良いかも知れないが人間が
> 腐つてゐる。
まあ、さう言はずに、気長にやりませう。
佐藤さんの「間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない」が果して命題か、というN爺さんの指摘はもったいなかったですね。N爺さんが適切に佐藤さんを誘導したら有意義なお話につながったでしょう。「間違ったことを言う」は日常語の表現なので、意味があいまいなのですよ。ここをN爺さんがスルーしてしまったから、不毛な議論が続くことになってしまいました。
N爺さんは「この「命題」を偽である、と証明するには、間違ったことをいふ人間の中には、発言する資格が有る人もゐる、と言はねばなりません。佐藤さんはそれを証明できてゐない。」とご指摘になりました。これはちょっとおかしいですね。これは証明する必要がありますか。「間違ったことを言う人間の中には、発言する資格がある人もいれば、ない人もいる、このことを証明しなさい」とN爺さんは言っていますが、何をどう証明すればよいのでしょうか。「人の中には、女もいれば、女でない人間もいる、この論理を証明してみましょう」と言っているようなものです。N爺さんは論理学がよく分かっていらっしゃらないのではないでしょうか。
303さんの「『怒らないと勉強しない』の対偶は『勉強すると怒る』である。」というのは、日常語の文章だからおかしな感じがするのでしょう。「わたしという母親が怒らないならば、あなたという子供は勉強しない」「あなたという子供が勉強するのは、わたしという母親が怒るときである」少しも変ではないですね。
「論理」、「論理」と煩い奴だ。爺さんは次のやうに書いた。
>仏教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も無い)」と仰ったやうな気がします。
「やうな気がします」。阿呆か、お前は。こんな物を根拠に他人の主張にけちを附けるな。左翼なら左翼らしく、釈迦が述べたとされる○○の佛典には××と書かれてゐる。拠つて論理的に死後の世界も、当然輪廻も無い、ぐらいの主張をしたらどうだ。あんたは自分の主張は好い加減にして措きながら、他人の主張の粗探しに異常に熱心だから嫌はれるんだよ。
§
死んだら終りと考へるよりも、死んでも來世があると考へる方が人間の本質を上手く説明出来る。人間は自分の命を擲つても何かの為に行動する事があるからだ。腐つた左翼には解らんだらうがね。
現代の日本人の多くは命よりも大事な価値を認めてゐない。しかし命よりも大事な価値があると考へないと人間は何故戦争を止められないのかを説明出来ない。戦争を理性的に考へるなら危なくて誰もやらない筈だ。それでも命を擲つて戦ふ事がある。それは自身の理性を超えたところからの命令に従つてゐると考へれば筋が通る。もちろん命令に従はない事もあり得るが、いづれにしても、自身の理性を超えたところ、と云ふのを解り易く神や佛と呼んでゐる。
現世に於いて全ての人間は不完全である事を免れない。したがつて自身の理性と神佛の命令との挟間で死ぬまで葛藤が止む事は無い。現世では精神の安寧は得られないゆゑに伝統宗教では來世での救済を説いてゐる。ただし來世で救済される為には現世をより良く生きよとしてゐる。「天国」や「地獄」はその為だ。どちらにしても來世を否定する伝統宗教は無い。あるとしたら現世利益を説く怪しい新興宗教だ。
§
私は一介の在家である。宗派などに拘らず伝統宗教に共通する考へ方を述べてゐる。伝統宗教に共通する部分は真理と言つて良い。なあ、爺さんよ、あんた伝統宗教を批判してゐるのか、さうではなく私(塗炭)と云ふ人格を批判してゐるのかどちらだ。私個人を叩いたところで伝統宗教を批判した事にはならない。兎も角、経典でも宗教書、哲学書でも良いから名著と言はれる物を数冊読んで出直して来い。ばかたれ。
最うここでは附き合はん。くそー昼飯が遅くなった。
論理学徒さん、今後ともよしなに。
爺氏は結局、「間違つたことしか言はない佐藤には、發言する資格は無い」といひたいのでせう。
爺氏とはかうした「不毛な議論」にしかなりません。「不毛な議論」を續けることしか爺氏は興味がないやうですし。
論理学徒さん、
態々のご指摘ありがたうございます。無論、爺は、論理学の専門家でもなんでも
ないので、恐れ入るしかないのですが、ただ、一部腑に落ちないところがありま
すのでご教示願ひます。
> 「人の中には、女もいれば、女でない人間もいる、この論理を証明してみましょ
> う」と言っているようなものです。N爺さんは論理学がよく分かっていらっしゃ
> らないのではないでしょうか。
さうでせうか。「人は全て女である」(命題 A)の「否定」は、「人の中には女で
ないもの(男)も居る」(命題 B)で、最初の命題を否定するには、これを「証
明」せねばなりません。形式論理としてはさうなるのであって、B が「当り前か
どうか」といふのは、議論が論理的かどうかには関係無いでせう。B が当り前な
ら、A が偽であるのは自明だ、といふだけの事です。
> 303さんの「『怒らないと勉強しない』の対偶は『勉強すると怒る』である。」
> というのは、日常語の文章だからおかしな感じがするのでしょう。「わたしとい
> う母親が怒らないならば、あなたという子供は勉強しない」「あなたという子供
> が勉強するのは、わたしという母親が怒るときである」少しも変ではないですね。
いえ、確かにをかしいし、さう感じるのは、論理的に間違ってゐるから、ですね。
因果関係と十分条件をとりちがへてゐます。といふか、「あなたという子供が勉
強するのは、わたしという母親が怒るとき [厳密には『怒った後』]である」は正
しく対偶を取っていますが(なので変ではないですが)、これは「勉強すると怒
る」と全然違ふ意味内容になってゐる、といふ事ですね。
失礼ながら、論理学徒さんは、かつての野嵜さんと同じレベルではないか、と。
(一見良い線行ってるやうに見えるけど、肝心なところでハズしてゐる……)
もし御本人でしたら「言はずもがな」でした、ご容赦。
佐藤さん、
といふ事で、まんざら不毛な議論ではなかったやうですよ。あと、念のために言っ
ておきますが、「発言する資格が無い」なんて爺は言った事ないですよ。「論理
がをかしいですよ」といふ指摘で、「あ、俺は発言する資格がないのか」となる
のは「過剰反応」ですね。
塗炭さん、
五月蝿い奴にコメント頂きありがたうございます。
爺> 仏教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も
爺> 無い)」と仰ったやうな気がします。
> 「やうな気がします」。阿呆か、お前は。こんな物を根拠に他人の主張にけちを
> 附けるな。左翼なら左翼らしく、釈迦が述べたとされる○○の佛典には ××と書
> かれてゐる。拠つて論理的に死後の世界も、当然輪廻も無い、ぐらいの主張をし
> たらどうだ。あんたは自分の主張は好い加減にして措きながら、他人の主張の粗
> 探しに異常に熱心だから嫌はれるんだよ。
確かに典拠が曖昧ですね。すみません。「上座仏教」ではそう教へてゐると記憶
してゐますが、今典拠を挙げる事ができません。だから「気がします」と書いた
のでした。しかし、そんなに「一つ前」の「口振り」に切れるところをみると、
塗炭さんも、「人は神にはなれない」と書いてある経典が見付からなかったと見
えますね。「私は真理を述べている」はちょっと言ひ過ぎでしたか?
> 死んだら終りと考へるよりも、死んでも來世があると考へる方が人間の本質を上
> 手く説明出来る。人間は自分の命を擲つても何かの為に行動する事があるからだ。
> 腐つた左翼には解らんだらうがね。
さうですねぇ、爺のやうに「腐った左翼」には、「来世が有る」は「人間の本質
を上手く説明」できてはゐないが、「人を自殺的行為に駆り立てるには都合が良
いだらう」と思へます。
> 現世に於いて全ての人間は不完全である事を免れない。したがつて自身の理性と
> 神佛の命令との挟間で死ぬまで葛藤が止む事は無い。現世では精神の安寧は得ら
> れないゆゑに伝統宗教では來世での救済を説いてゐる。ただし來世で救済される
> 為には現世をより良く生きよとしてゐる。
来世の御利益については上記参照。しかし、そんなに葛藤を感じるのは、やっぱ
り前提条件に無理が有るのではないですか?神仏は居ない、とした方が、ずっと
楽かも知れませんよ。C. Dennette さんは、神を信じられない神父さんが増えて
いる、と書いてます。
でも、そんなに悩む人が居るところを見ると、キリスト教はまだ見込みが有るの
かも。我が「葬式仏教」に至っては、妻帯、飲酒はあたり前、それに怒り悩む人
は少数派、ですもんね。
> どちらにしても來世を否定する伝統宗教は無い。あるとしたら現世利益を説く怪
> しい新興宗教だ。
いえ、「エホバの証人」は、はっきり「死後の世界等といふものは無い」と言っ
てます。
> 私は一介の在家である。宗派などに拘らず伝統宗教に共通する考へ方を述べてゐ
> る。伝統宗教に共通する部分は真理と言つて良い。なあ、爺さんよ、あんた伝統
> 宗教を批判してゐるのか、さうではなく私(塗炭)と云ふ人格を批判してゐるの
> かどちらだ。私個人を叩いたところで伝統宗教を批判した事にはならない。兎も
> 角、経典でも宗教書、哲学書でも良いから名著と言はれる物を数冊読んで出直し
> て来い。ばかたれ。
さうですか、塗炭さんは「伝統宗教に共通する部分」つまり真理を述べてゐる、
と。でも、その割には、典拠が曖昧なのは何故?共通する部分ならば山程出典が
見付かるでせうに。また、原始仏教や上座仏教に疎いのは「葬式仏教で良い」と
思ってゐるからでせうか?でも、いつか「原典にあたれ」とか仰ってましたよね。
言ふまでもなく、塗炭さんの人格を批判してゐるのではなく、その論じるところ
を批判してゐます。浅学非才の爺は、ついつい塗炭さんの論じるところから、仏
教全般、伝統宗教全般を判断してしまふ。しかし、さすがに「ばかたれ」から、
僧侶全般を断じたりはしませんので、ご安心を。
>爺さんへ
あんた、都合が悪くなると細かい点を挙げて相手の揚げ足を取る。俺様はお前のやうな素人には絶対に負けないとでも思つてゐるんぢやねえの?
「人間は神にはなれない」は「全ての人間は不完全である」から容易に導き出せる。「全ての人間は不完全である」は何処かで書いたやうに佛教でさう教へてゐる。何度も繰り返すが、自称無神論者の爺さんに要求してゐるのは「神はゐる」を否定するか「全ての人間は不完全である」を否定するか、そのどちらか一方だけ。うじうじ言つてゐないでさつさとやれ、馬鹿。おまえのかあちやんでべそ。
>爺さんへ
つけたし。
助け船を出しておく。ニーチェ辺りの思想書に基づいて「神は死んだ」と主張すれば一応「神はゐる」を否定出来る。かつてかう主張する左翼が大勢ゐた。左翼なら左翼らしく、と書いただらう。伝統宗教を根幹から引つ繰り返さないまでも、それを揺るがすきちんとした主張をしろと言つてゐるだけだ。私は真当な左翼は認めてゐる。
塗炭さん、
> あんた、都合が悪くなると細かい点を挙げて相手の揚げ足を取る。俺様はお前の
> やうな素人には絶対に負けないとでも思つてゐるんぢやねえの?
いや、そんな風には思ってゐません。弄けず、勝ち負けにはこだはらず、より真
当な結論に近付くやうに努力しませう。
> 「人間は神にはなれない」は「全ての人間は不完全である」から容易に導き出せ
> る。「全ての人間は不完全である」は何処かで書いたやうに佛教でさう教へてゐ
> る。何度も繰り返すが、自称無神論者の爺さんに要求してゐるのは「神はゐる」
> を否定するか「全ての人間は不完全である」を否定するか、そのどちらか一方だ
> け。うじうじ言つてゐないでさつさとやれ、馬鹿。おまえのかあちやんでべそ。
いや、それはをかしい。「全ての人間は不完全である」は多分仏典に書いてある
だらうと爺も思ひますが、そこから「人間は神にはなれない」は言へないでせう。
あと、「神は居ない」を「証明」しても、「全ての人間は不完全である」といふ
命題の真偽とは何の関係もない。「全ての人間は……」が塗炭さんの仰りたい事
であれば、何だか無駄な努力をしてゐるみたいですね、我々。
ちなみに、塗炭さんの相手を長々とやってゐる爺は馬鹿でせうが、その母親はで
べそでありませんでした。
> 助け船を出しておく。ニーチェ辺りの思想書に基づいて「神は死んだ」と主張す
> れば一応「神はゐる」を否定出来る。かつてかう主張する左翼が大勢ゐた。左翼
> なら左翼らしく、と書いただらう。伝統宗教を根幹から引つ繰り返さないまでも、
> それを揺るがすきちんとした主張をしろと言つてゐるだけだ。私は真当な左翼は
> 認めてゐる。
助け船ありがとうございます。でも、爺の感想は「もともと無いものが、死ぬ訣
ないぢゃないか」です。といふかニーチェさんの「神は死んだ」はレトリックだ
と思ひますけど。
「伝統宗教をひっくり返す」のが爺の趣旨ではありませんが、塗炭さんは、伝統
的な仏教を引っくり返してゐると思ひますよ。在家とは言へ仏教徒だのに、一神
教の神々はおろか八百万の神の存在を信じる、と言った時に。
ちなみに、塗炭さんが認める「真当な左翼」って例へばどのようなお方なのでせ
うか。
>爺さんへ
ばーか。
N爺さんは何故ここに書きこんでるの?
N爺さんの本名は何? まだ逃げているの?
N爺さんは答えなければならないことには絶対答えないね
うーん、困りましたね。
それじゃあ、AはBであるかBでないかである、を証明してください。
なんかストーカーG氏が執拗に俺を呼んで呉れてゐるので一往。
無神論者のGさんが「神は存在しないと證明出來ます」と言つてゐるのだけれども(まだその證明の具體的な内容を聞いてゐないと思ふ)、キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると「存在しない事が證明出來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する事になるのであります。
實際、科學が「神の非存在を證明してゐる」事に對して、現代のカトリシズムは「神は巧みに隱れ給ふもの」と説明してゐます。
これ、Gさんは「詭辯」だと言ふだらうけれども、もし本當に詭辯だとしたら、キリスト教が論理に立脚した宗教である事を裏側から證明する事になりますね。
>キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして
本当ですか?たくさんの哲学者や神学者が「神の存在証明」をしようとがんばったのは、どうなるんでしょう?
>現代のカトリシズムは「神は巧みに隱れ給ふもの」と説明してゐます。
現代ならそうなのかも知れませんが。
すみません、あんまり驚いたもので。
変な口調で失礼しました。
ちょっと考えたのですが、ひょっとして野嵜さんはキリストが40日断食したあと、悪魔が出てきて
「この石をパンに変えれば?あなたが神の子供ならばできるでしょう?」と言われてキリストが「人はパンのみで生きるにあらず」と答えたあと、
悪魔がまだがんばって「この山から飛び降りてみな。あなたが神の子供なら、神様が守ってくれるはずだ」と言ったのに対して
「神を試してはならない」
と答えたことを「神は存在が説明できないと定義されている」と解釈したのでしょうか?
(なんでこんなことを知っているかというと、私はたまたま教会にくっついていた幼稚園に通っていまして、この話を紙芝居みたいなので見た覚えがありますので(笑))
単なる推測ですので、他になにか「神の存在は説明できない」と定義されているところが聖書にあったり、神学者がそう述べているとかがあったら教えて頂けると幸いです。
(わたしは別に神が存在しようがしまいが、証明で着なかろうができようがあまり興味はありません。ただ、私の知っていることと全然違うことがすらっと出てきたので驚いただけです)
論理学徒さん、
うーん、困りましたね。爺の説明をわざと無視されたのでせうか。といふか、論
理学徒さんの学問成就は前途遼遠といふ感じがします。
> うーん、困りましたね。
> それじゃあ、AはBであるかBでないかである、を証明してください。
証明も何も、その命題 (A = B) v (A = B*) は論理的には常に真で、逆に言ふと、
物事の記述としては無意味。A = A が「常に真だが自明」なのと同じですね。
繰返しになりますが、一度、高校数学の「論理」のあたりを勉強されてはいかが
でせうか。(それだけでは 330 さんの「論理パズル」は解けないやうに思ひま
すが、でもまず基礎を固めねば。)
論理学徒さん、
うーん、困りましたね。爺の説明をわざと無視されたのでせうか。といふか、論
理学徒さんの学問成就は前途遼遠といふ感じがします。
> うーん、困りましたね。
> それじゃあ、AはBであるかBでないかである、を証明してください。
証明も何も、その命題 (A = B) v (A = B*) は論理的には常に真で、逆に言ふと、
物事の記述としては無意味。A = A が「常に真だが自明」なのと同じですね。
繰返しになりますが、一度、高校数学の「論理」のあたりを勉強されてはいかが
でせうか。(それだけでは 330 さんの「論理パズル」は解けないやうに思ひま
すが、でもまず基礎を固めねば。)
すみません、二重投稿になってしまひました。
野嵜さん、
かなりカトリシズムを勉強されたやうで御同慶の至り。(あれ、全部手でタイプ
したんですか?それとも scan + OCR であそこまでできるんでせうか。ともあれ
爺にもとても参考になりました。ありがたうございます。)
> 實際、科學が「神の非存在を證明してゐる」事に對して、現代のカトリシズムは
> 「神は巧みに隱れ給ふもの」と説明してゐます。
うーん、それはちょっと単純すぎるといふか、無神論者にもキリスト教徒にも叱
られさうな気がしますが……
(キリスト教徒の言ふ)「科学的無神論者」は、科学が「神の非存在を証明した」
とは言ってない。(まあ、さう言ひ切る人も居るでせうが、現代の主流はさうで
ない、といふ事で。)まず、「神は存在する」は反証不可能だらうから科学的で
はない(科学には手が出ない)。また、「○○は存在しない」と言ひ切る事は難
しい。「黒い白鳥は居ない」と思ってゐたら、オーストラリアで黒鳥が見つかっ
た……。同様に神様だって、今日までのところは、客観的に存在は「観測」され
てゐないけれど、明日ひょっこり降臨されて、物理的な観測にかかるやうになる
かも知れない。だから、現代の科学的無神論者は「神は居ないだらう」と言ふ。
爺も同意見です。なので、
> 無神論者のGさんが「神は存在しないと證明出來ます」と言つてゐるのだけれども
> (まだその證明の具體的な内容を聞いてゐないと思ふ)、
などと言ふのは野嵜さんの勘違ひですね。反証できる、とは言ってませんし、やっ
てもゐませんが、しかし、「そうは考えにくい」といふ例として、聖書原理主義
者の主張する「世界の寿命は 8000 年」といふのは、宇宙物理や地球物理・進化
論の主張するところと全く合はない、とは言ひました。
> キリスト教の神樣は「存
> 在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると「存在しない事が證明出
> 來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する事になるのであります。
本当ですか、野嵜さん。爺も 330 さんと同様、是非「存在が証明できない」の出
典を知りたく思ひます。
あと、これ、全く非論理的ですね。なんだか神学論争といふか教理問答を想起さ
せます。野嵜さんの独創ですか?それともどこかに書いてあった?「存在の証明」
を「肯定」に言ひ換えたらさう言へるんですか?
再掲> 實際、科學が「神の非存在を證明してゐる」事に對して、現代のカトリシズム
再掲> は「神は巧みに隱れ給ふもの」と説明してゐます。
前半は間違ってゐますが(上述)、後半は「有りさう」ですね。「客観的、合理
的に証明はできないけれど、私はそれ(神の存在)を信じてゐる」といふ事でせ
うか。
> これ、Gさんは「詭辯」だと言ふだらうけれども、もし本當に詭辯だとしたら、キ
> リスト教が論理に立脚した宗教である事を裏側から證明する事になりますね。
「G」が N爺の事だとすると、それは詭弁などではなく、潔い「敗北宣言」だ、と
言ひますね。
しかし、後半は上の「逆に神を肯定する事」のあたりと同様、爺には逆立ちして
も理解できさうもない。何で、「詭弁」を弄する宗教が論理に立脚してゐる(論
理的である)と言へるんですか?
あー、Gさんは、詭辯は非論理だと考へてゐるんですね。でも、詭辯は「論理的に間違つてゐる」のであつて、非論理ではありませんよ。そして「詭辯でない」とGさんが認めるのなら、その時點で、キリスト教は「勝利宣言」を出して良いのです。
否、Gさん達無神論者が「科學は神の非存在を證明してゐない」と認め、せいぜい「神がゐる」と云ふ事について「そうは考えにくい」(ここだけ「現代仮名遣い」なのは、Gさんが何かをコピー&ペーストして來てゐる事を推測させますね)と述べる事が出來るだけでしかないならば、キリスト教の現代的な意味はあると言ふ事が出來ます。
即ち、「人間の科學の知識には限界がある」事を、無神論者も認めざるを得ないし、科學者も認めざるを得ない事になつてゐるのですが、それは最う既にキリスト教が示してゐる、と云ふ事です。
理系のGさんは一生懸命理窟で考へようとし、理窟を操作する技術の腕を競はうとしますが、理系の人は實に些細な事で爭ひたいのだなあと文系の私等は何時も呆れてをります。
「神は存在が證明出來ない」と云ふ「定義」の「出典」を、Gさんも330さんも「具體的に示せ」と要求してゐますが、私には斯う云ふ瑣末な部分で爭ひたいと云ふ欲求そのものがをかしいと思はれます。そもそもGさんは、『現代カトリシズムの思想』と云ふ「出典」が「ある」事實を知りながら、すつとぼけて「出典を示せ」「出典を示せ」と言ひ續ける。
一方、直接「神を證明する」なんて試みが「あり得ない」事は――少くともキリスト教を齧つた事のある人ならば、誰もが理解してゐる筈です。
http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2008/09/post-16.html
私も隨分いろいろキリスト教の本を齧つたので、何處に何んな記述があつたかなんて、まあ、Gさんに馬鹿にされるくらゐ頭が惡いので、具體的になんて覺えちやゐません。ただ私の理解した範圍で要約して説明しただけです。
Gさんも330さんにしても、私に質問しないで、御自身の研究の參考にする事を、考へたらよろしいかと存じます。行きなり結論に達したいだなんて、Gさんは兔も角(既に病膏肓に入つてゐるから何うしやうもない)、330さんは性急に過ぎますよ。今度キリスト教關係(或は無関係)の本を讀む時、私の示唆を頭の隅にでも置いて、それで本の内容と突合はせつゝ、考へながら讀むやうにして貰へれば良いと思ひます。
また、神の存在の證明を試みた人々の系譜は、即ち、神の非存在の證明を試みた人々の系譜へと繋がります。何れにしても「證明したい」と云ふ異樣な欲求がヨーロッパには「ある」んですね。ここが吾々文系の人間にとつて大變興味深いところで、ヨーロッパの神學はヨーロッパの科學に繋がるんです。言換へれば、そこに吾々非キリスト教世界の人間の目は、ヨーロッパの精神史を見出す事が出來る。
Gさんは、何を言はれても自分のやり方を變へられない老人だから何うしやうもないわけですが、自分の「論理の操作を行ふ」テクニックに固執して、宗教人のロジックを「理解出來ない」とばつさり切捨てるのは、それこそ「不毛な議論」をしか呼ばないですから、止めた方が良いです。
それに、Gさんの論理は、人間の精神の動きを、只管「非論理的」とでも極附けて、排除する事によつて成立してゐるものです。Gさんが人間の精神に關する宗教の論理を「理解しようとしない」のは、單純に御自身が自分勝手に必要な條件を排除してゐる、と云ふだけであるのですが、それをGさんは頑なに認めようとしない。宗教は「人間がどのやうに思ふものである」と云ふ人間心理まで加味して人間の言動・思想の傾向を考へ、大體の方向性を指示するものです。
そこで「何時如何なる場合も例外ナシに何うする筈である」と云ふ結論を出せない、と云ふのは當り前の事なのですが、さうなると、Gさんなんかがけちを附ける餘地は大量に出現する事になる。けれども、さう云ふ宗教の――と言ふより人間性の本質を考慮の外に置いて、宗教論をやるのは、片端の議論ですよ。
と言ふか、偶像崇拜論爭とかでカトリックや正教が爭つたのは、神をはつきりとした形で捉へてしまつては行けない、と云ふのが理由だし、「人格神」であつても外觀は定まりなしとされるわけだし、「定義」なんて事が出來ないのは當り前でせう。
>330さんは性急に過ぎますよ。今度キリスト教關係(或は無関係)の本を讀む時、私の示唆を頭の隅にでも置いて、それで本の内容と突合はせつゝ、考へながら讀むやうにして貰へれば良いと思ひます。
はい、わかりました。
で、「存在が證明出來ないのは神の定義だ」というのは野嵜さんのお考えなんでしょうか?(野嵜さんが定義したこと何でしょうか?)それとも、広く知られていて(認められていて)私だけが知らなかったことなんでしょうか?
教えいて頂いたURLは「神の存在を証明することは無意味だ」みたいなことが書いてあって定義では無いように思いますが。
それから、ひょっとして「神」ってキリスト教ではない神のことをおっしゃっているんでしょうか?いや、それはないですよね?でなければキリスト教神学のURLを紹介なさったりしないはずですし。
>Gさんも330さんにしても、私に質問しないで、御自身の研究の參考にする事を、考へたらよろしいかと存じます。
>行きなり結論に達したいだなんて、Gさんは兔も角(既に病膏肓に入つてゐるから何うしやうもない)、330さんは性急に過ぎますよ。
あのう、意味がよくわからないのですが。
野嵜さん「神は存在が証明できないと定義されている」
330「ホント?違うんじゃない?(そんな定義あった?)」
野嵜さん「いろんな本を読んでみればわかるよ」
という流れのような気がするのですが、私は性急すぎましたか?
野嵜さん、
> あー、Gさんは、詭辯は非論理だと考へてゐるんですね。でも、詭辯は「論理的
> に間違つてゐる」のであつて、非論理ではありませんよ。そして「詭辯でない」
> とGさんが認めるのなら、その時點で、キリスト教は「勝利宣言」を出して良い
> のです。
「論理的に間違ってゐる」ならば「非論理的」でせう。凄い「詭弁」ですね。
> 即ち、「人間の科學の知識には限界がある」事を、無神論者も認めざるを得ない
> し、科學者も認めざるを得ない事になつてゐるのですが、それは最う既にキリス
> ト教が示してゐる、と云ふ事です。
それは違ふでせう。科学知識に限界が有るのは、別にキリスト教会に示してもら
はなくても理解してますよ。だから、毎日飽きずに「研究」してゐる。しかし、
これまでキリスト教の様々な「迷信」を論破してきた根拠については十分の確信
が有る。つまり、その「限界」の外には無い。
> 一方、直接「神を證明する」なんて試みが「あり得ない」事は――少くともキリ
> スト教を齧つた事のある人ならば、誰もが理解してゐる筈です。
> http://webheibon.jp/blog/satomasaru/2008/09/post-16.html
> 私も隨分いろいろキリスト教の本を齧つたので、何處に何んな記述があつたかな
> んて、まあ、Gさんに馬鹿にされるくらゐ頭が惡いので、具體的になんて覺えちや
> ゐません。ただ私の理解した範圍で要約して説明しただけです。
さうですか。でも、この(上の URL の冒頭)どこをどう読んだら、試みが「有
り得ない」っていふ結論になるんですか? 先哲が散々試みて成功しなかった、
とあるではないですか。
佐藤優> 古代教父の時代から、神学者や哲学者が神の存在を証明しようとしたが、その
佐藤優> ような問題設定自体が誤っている。
> Gさんは、何を言はれても自分のやり方を變へられない老人だから何うしやうもな
> いわけですが、自分の「論理の操作を行ふ」テクニックに固執して、宗教人のロ
> ジックを「理解出來ない」とばつさり切捨てるのは、それこそ「不毛な議論」を
> しか呼ばないですから、止めた方が良いです。
さうですか。でも、態々言ひ変えてみるのは、野嵜さんの言い分が論理的でなく、
良く理解できないから、です。野嵜さんのサイトから孫引きすると
稲垣> これにたいして、そもそも科学的な自然探求や自然理解を可能ならしめたものは、
稲垣> キリスト教的な神観あるいは創造観であった、という主張に注意をよびおこして
稲垣> おきたい。……裏からいえば、無神論者は世界の或る側面と結びついていた
稲垣> 「神々」を否定しているのであって、そのことはじつは世界を超越する真の神の
稲垣> 肯定にほかならないのではないか。
とありますが、いくらか詭弁と思しき点(創造説は進化論を散々抑圧したぞ、と
か、それは自然理解を可能ならしめた「一条件」でしかないだらう、とか、
「神々」と「真の神」の違ひって何?とか)はありますが、何が言ひたいかはま
あ解ります。(「いくらかは科学の発生・発展に寄与した」とか「証明はでき
ないけど、私の心の中にはいらっしゃるのだ!」でせうか。)。ところが、これ
からインスピレーションを受けたであらう野嵜さんは
> キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると
> 「存在しない事が證明出來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する
> 事になるのであります。
と仰る。これは正に野嵜さんのいふ「非論理的な詭弁」でせう。上の稲垣さんの
より数段酷い。「神はその存在が証明できない」といふ定義(条件)の下で、も
し「神の非存在を証明できた」なら「神の存在を証明できた」事になるって事で
すか?これはもう「論理」以前の問題ですね。爺の頭が固いのは認めますが、野
嵜さんの頭も相当酷い事になってるやうな……。(しかし、上の佐藤優さんの
「神学概論」も相当「凄い」ので、神学を窮めやうとすると、もしくは擁護しや
うとすると、どうしてもさうなる、といふ事なのかな。)
> それに、Gさんの論理は、人間の精神の動きを、只管「非論理的」とでも極附けて、
> 排除する事によつて成立してゐるものです。Gさんが人間の精神に關する宗教の論
> 理を「理解しようとしない」のは、單純に御自身が自分勝手に必要な條件を排除
> してゐる、と云ふだけであるのですが、それをGさんは頑なに認めようとしない。
それが既に「決め付け」ですね(掏り替へと言ふべきか)。その人間精神の中に
は爺のも入ってゐる訣で、それを非論理的と決め付けたりはしてゐません。非論
理的である、と批判してゐるのは、この場合野嵜さんの個別の「言ひ分」です。
> 宗教は「人間がどのやうに思ふものである」と云ふ人間心理まで加味して人間の
> 言動・思想の傾向を考へ、大體の方向性を指示するものです。
いや、それは必ずしも当ってゐないと思ひますよ。もしさう言ふものなら、然程
毒に(も薬に)もならんでせう。
> そこで「何時如何なる場合も例外ナシに何うする筈である」と云ふ結論を出せな
> い、と云ふのは當り前の事なのですが、さうなると、Gさんなんかがけちを附ける
> 餘地は大量に出現する事になる。けれども、さう云ふ宗教の――と言ふより人間
> 性の本質を考慮の外に置いて、宗教論をやるのは、片端の議論ですよ。
それは「自分の立場を説得的なものにするために反対論を単純化したり、あるい
は歪めたり、戯画化したりする修辞法」で、稲垣さんの言ふ「騎士道精神」に反
しますな。(うーん、有り体に「そんな事は言ってないぞ」と言った方が良い
か。)
あと、自分の論理的誤りを「人間精神の本質的な曖昧さ」から擁護するのもフェ
アではないと思ふ。人間の思考能力が必然的に曖昧で不完全なものであるとして
も、努力と学習によって論理的に物を言ふ事はできるし、さうする事が最小限の
相互理解の必要条件ではないでせうか。
まあ、「神は存在しないと思ふけど、それについて決定的な事は言はない」とい
ふ立場が心地良い、といふ人には厳しすぎる要求かも知れませんが。
> と言ふか、偶像崇拜論爭とかでカトリックや正教が爭つたのは、神をはつきりと
> した形で捉へてしまつては行けない、と云ふのが理由だし、「人格神」であつて
> も外觀は定まりなしとされるわけだし、「定義」なんて事が出來ないのは當り前
> でせう。
(「論理」はともかく)結論の「定義なんてできない」には同意します。なので、
「存在証明」なんて不可能、といふか「存在するともしないとも言ひやうがない」
に真っ直ぐ繋がりますね。納得です。
330 さん、
また、330 さんの投稿を見逃して、ピンボケを書いてしまった……
> あのう、意味がよくわからないのですが。
> 野嵜さん>「神は存在が証明できないと定義されている」
> 330> 「ホント?違うんじゃない?(そんな定義あった?)」
> 野嵜さん>「いろんな本を読んでみればわかるよ」
> という流れのような気がするのですが、私は性急すぎましたか?
さうでしたよね、これが当面の重要な話題なのでした。
すみません、また先走ってしまいました。
>と言ふか、偶像崇拜論爭とかでカトリックや正教が爭つたのは、神をはつきりとした形で捉へてしまつては行けない、と云ふのが理由だし、「人格神」であつても外觀は定まりなしとされるわけだし、「定義」なんて事が出來ないのは當り前でせう。
なるほど。「神をはつきりとした形で捉へてしまつては行けない」ということから「「定義」なんて事が出來ないのは當り前でせう。」というのは野嵜さんのお考えなんですね(先の一文はそう読むのが普通かと思います)。
では、私の考えとは違うということになります。
私の考えですが、神の定義の中に「神は万能の存在である」というのがあって、そこから
「神は万能である。万能と言うことはあらゆる属性を持つと言うことである(私はこのつながりはおかしいと思いますが)。ということは『存在する』という属性も持っている。だから神は存在する」
という存在証明をした人々がいて、これを「存在論的証明」と言う、と私は理解しています。
この証明が今でも(過去の遺物として)残っているといて、野嵜さんの言うような、証明そのものを一発で消し去るような反論(定義から否定する反論)が今までなかったということは、野嵜さんのお考えはあまり広く認められるものではない、と言うことを意味していると思います。
野嵜さんが「神は定義できない」とお考えなら別にどうとも思いませんが「定義できないとされている」「それは常識だ」とおっしゃるのは、言葉遣いとして違うかな、と私は思います。
野嵜さんにご自身の考えを改めていただこうとか「間違いをすらりと言っちゃう野嵜さんって(ry」みたいなことは一切考えていません。
しかし、単に野嵜さんのお考えであり「常識でしょ?」という程度の理由であれば「いろんな本を読んで見ればわかるよ」と言われても信用する気になりませんので、気にしないことにします。もちろん私の考えも変わりません。
怒ったりいらいらしているわけではないですよ。塗炭さんとやりとりしてうっかりぶち切れて失敗しましたので、熱くならないように気をつけているつもりです。
(また、「神の存在の證明を試みた人々の系譜は、即ち、神の非存在の證明を試みた人々の系譜へと繋がります」も、なんだか意味不明ですが(そんな系譜があるなんて寡聞にして初耳ですし、実際にあったとしても定義で証明できないものを非存在として証明する必要がどこにあるのか(定義で証明できない、といえば一発)理解に苦しみますが、気にしないことにします)
NG氏の「無神論」はただの「神なんか存在しない、と確信してゐる」と云ふNG氏の思ひ込みに過ぎません。NG氏は、「神が存在してゐない決定的な證據」を何一つ提示してゐない。「神が存在してゐると云ふキリスト教の主張に對して、神が存在してゐない事實を提示した」と云ふものではありません。要は、確實でない事を偉さうに語つてゐるだけです。
けれども、そんな事は、現代人に「迷信」と蔑まれてゐるキリスト教は、最初から解つてゐます。神はゐないとは言へない。勿論、ゐるとも言へない。だからキリスト教は、「神を信じる」と言ふのですが、どつちにしても「證明できない」事なのだから「信じないか、信じるしかない」と言つたのは、偉大です。キリスト教は科學ではありません。當り前だとNG氏は言ふでせうが、その當り前な事を2000年前にキリスト教は承知してゐたわけです。
そして、この事を、NG氏は「詭辯」と云ふ言ひ方で簡單に切つて捨ててゐるのですが、それを切つて捨てなかつたのがヨーロッパ人です。ここが日本の現代人とヨーロッパ人の本質的な違ひです。「詭辯」と簡單に考へて、最うそれ以上全く考へないのが現代の日本人NG氏。「詭辯」だと言つても全く強力な論理だと敵愾心剥き出しにして「詭辯」の「詭辯」たる所以を暴き立てようと必死になつて、科學文明を築き上げてしまつたのがヨーロッパ人。そして、究極まで科學文明を構築したヨーロッパ人は、しかし依然として、「神が存在しない事實の提示」すらも出來ない事に愕然として、科學が決して萬能でない事實を改めて自覺してゐる。ヨーロッパ人は偉いです。日本人はヨーロッパ人の文明の成果だけを皮相的に採入れてゐます。その典型がNG氏。
>野嵜さんのお考え
いや、現代カトリックの基本的な考へですよ。間違ひは言つてゐません。「野嵜の言つてゐる事を、間違ひと解釋しよう」と考へて、NG氏も330さんも、何とか自分の知識と結び附けて「根據」らしく故事つけ、野嵜の言葉を誤に見せかけようとされてゐるだけです。
NG氏も、もつともらしく私の引用文の中から孫引きして「これが典據だ」と言張らうとしてゐましたが、私は引用文以外の部分も知つてゐるのです。なぜか「目に見える部分にある記述」だけが「全て」だと思ひ込んでしまつて、それだけを根據に話をしてしまはうとする人が、特にウェブ時代の人には非常に多いのですが、ウェブの外部にも世界がある、と云ふ事は忘れてはならないでせう。特にNG氏。Wikipediaを話の種にしてゐる事は見え見えですよ。
また、330さんも、「あなたを信用しませんよ」と言つてゐますが、「人を信用出來るかどうか」と云ふ事にしか興味を持たない人が、ウェブには多過ぎます。言はれてゐる内容が問題なのに、言つてゐる人を問題にし、「あなたは信用出來ないんだよ」と嘲笑する事を目的にする。それに、私の事を「信用できない」と宣言したところで、私の言つてゐる事が「間違ひである」と證明出來た事にはならない。
NG氏は「神が存在しない事實」を提示し得ないにもかかはらず、「神は存在しない」と「確信」を表明してゐる。
330氏は「野嵜の説明が間違ひである事實」を提示し得ないにも拘らず「野嵜は信用出來ない」と結論し、矢張り「確信」を表明してゐる。
何れも、論理に興味のある筈の人ですが、非常に獨斷的です。
キリスト教の發想は、「神が存在しないとは言へない」ならば「神が存在するかも知れない」のであり、ならば「神は存在すると信ずる事は出來る」、と云ふものです。(「信ずる事は出來る」から「信ずべし」が論理として出て來るわけはないから、「信じない事も出來る」のは道理で、そこで無理を通して來たから、今の無神論者の人が不信を盛に表明してゐるわけですが、最近のキリスト教ではその邊で隨分「謙虚」にはなつて來てゐます)
これは、獨斷的と言ふより寧ろ公平な考へ方だと言ふ事が出來ます。
彼我で考へ方が隨分違ふと思ひます。
稲垣良典『現代カトリシズムの思想』(岩波新書青版781)より。pp.60-61
有神論における神の否定
つぎに第二の点、つまり有神論のうちにしのびこんでいる神の否定についてのべよう。この問題について十分な理解に達するためには、信仰のうちなる不信仰、信ずる者の前につねに姿をあらわす不信仰の深淵をつきとめなければならない。じっさい、しばしば漠然と想像されるところに反して、不信仰とのたえざる戦いを経験しないような信仰はないのである。しかし、ここでは信仰の問題にはたちいらないで、有神論者が神の存在を肯定する場合に、かれは神の存在を否定する危険につねにさらされていることを指摘しておきたい。
逆説的にひびくかもしれないが、問題になっている神否定とは、神を把握することは不可能だ、ということの忘却である。神の認識に関する懐疑論や不可知論を斥けた第一バチカン公会議(一八六九-七〇)においても、神が把握不可能(incomprehensibilis)であることは確認されていた。神はあらゆる意味で不可知だ、というのではない。たしかにわれわれは神について真実のことを認識できる。しかし、神があたかも感覚にたいして与えられた対象であるかのように、それについてのわれわれの経験をひろげ、深め、鋭くしてゆくことによって、いわばわれわれの認識のうちにつつみこむことは不可能なのである。このように神が把握不可能であることは、いわゆる否定神学の伝統としてつねにカトリック神学において主張されてきた。この点に関して中世の神学者トマスは、いかなる懐疑論者の極端な言葉もその前には色あせてしまうような表現をうちだしている。「われわれは神が、人間が神について考えうるかぎりのすべてのことを超えるものであることを信ずるとき、ただその時のみ神を真実に認識するのである。」「われわれは自分たちが神がなんであるかについて無知であることを知っているということ、まさにそのことが神を認識することにほかならない。」
しかるに有神論者が神の存在を論証したり、神の創造の働きについて語ったりする場合、右にのべた神のはかりがたさが忘れられ、われわれの経験をこのまま拡大してゆけばその中に神をつつみこむことができるかのような考え方に陥っていることが多いのではなかろうか。だがそこで考えられているのはもはや真の超越的な神ではなく、想像によってつくりあげられた神であり、人間が刻んだ偶像にすぎない。裏からいえば、有神論者がそのような神の観念に安住しているかぎりにおいて、かれは真の神を否定しているのである。そして鋭い批判力をそなえた無神論者は、有神論者の思想のうちに認められるこのような神の否定を見てとって、それをあからさまに、抗弁を許さない仕方で表現にうつすのである。
おまけ
稲垣良典『現代カトリシズムの思想』(岩波新書青版781)より。pp.171-175
科学とキリスト教、その関係の諸相
これまで科学とキリスト教の問題の歴史的背景について簡単にのべたが、それによってこの二者の関係を敵対的なものとして捉え、前者の進歩にともなって後者は退歩し、やがては消減するといった考え方が単純にすぎることがあきらかになったと思う。この二者の出会いと総合は、はるかに複雑で長い歴史を持つものであった。ガリレオやダーウィンの学説がキリスト教世界でひきおこした波紋に目を奪われて、科学とキリスト教との関係の歴史は二者の闘争の歴史であるとわりきってしまうことは、この二者の関係を理解するのにあまり役立つとは思われない。もしそのような議論に価値があるとしたら、科学の宇宙像とキリスト教のそれとの間にはなんらかの緊張関係があり、その意味で科学とキリスト教という問題がたしかに存在することを示しているかぎりにおいてであろう。しかし、そこから二者の対立、闘争を結論するのではなんらこの問題そのものについて考えたことにならないわけであり、そのような行き方はまた歴史に背をむけることであろう。なぜなら、まさしくこのような緊張関係がより全体的で総合的な実在把握へと導いたこと、その意味でそれはみのり豊かな対立であったことを歴史は物語っているからである。科学とキリスト教との関係を考えてゆくさいには、この二者の出会いにおけるさまざまの側面に注目しなければならないであろう。
まず、さきにもふれた点であるが、キリスト教が自然の探求および支配としての自然科学や技術を可能ならしめた、という面を見落してはならない。神の絶対的な超越性を説くキリスト教はこの自然世界にたいする人間のかかわり方にとって強力な解放力であったにちがいない。キリスト教は自然世界を非神格化もしくは世俗化して、人間の支配にゆだねたのである。いうまでもなく神による世界支配が否定されたのではない。しかし、第一原因たる神の超越性があきらかにされた結果として、第一原因に訴えることなしに自然世界をそれ自体において理解する道が開かれた。いいかえると、根本的には神中心的でありながら人間中心的な視点が確立されたのである。逆説的ないい方かもしれないが、神の超越性があきらかに示されたことによって、自然研究における内在的立場に徹することが可能になった、ともいえるであろう。つまり、内在的・完結的な法則にしたがって自然を理解する道が開かれたのである。
また付帯的につぎのような要因も考慮にあたいすると思う。世界が最高の英知たる神によって創造されたことを信ずるかぎり、世界は不条理の支配する場所ではありえず、そこにかならず意味のある秩序が発見されるはずだ、との確信が生れた。これがテイヤール・ド・シャルダンも指摘しているように、多くの場合、自然研究にとってのたえざる刺激とも霊感ともなったのである。また、これは科学とキリスト教との関係についての証明あるいは説明というにはほど遠いものであるが、自然研究者の精神態度と信仰者のそれとの間には多くのおどろくべき類似点が見られることに注意をよびおこしておきたい。自然研究者が事実にたいして示す厳しくて、しかも謙虚な態度は信仰者が啓示にたいして示す態度と深い親近性をふくんでいる。信仰者も盲目的、無批判的に啓示を受けいれるのではなく、徹底した批判と絶対の謙遜とがひとつになった態度で啓示の前にひざまずくのである。また自然研究者と信仰者とは、自ら真理を把握しつくしたと思いこんだ瞬間に探求は挫折すること、自らが知りえたことはいまだ知りえないことにくらべるとほとんど無であることを自覚している点でも、深く相通ずるものを持っている。知識の増加によって神秘が減少するのではなく、むしろいよいよ神秘が深まるのである。いうまでもなく、自然科学者は科学者としてはこうした神秘に直接にかかわるのではない。しかしすぐれた科学者が、同時に人間として神秘にたいする生き生きとした感覚を有することはけっしてまれではないように思われる。ここではアインシュタインの有名な言葉を引用するにとどめておこう。「深い科学的精神の持主が、同時に独自の宗教的感情をそなえていないという例はむしろまれであろう。この感情は自然法則にたいする心の底からの感嘆という形をとる。この感情こそはかれの生活と仕事との指針である。この感情が、あらゆる時代の宗教的天才の心をとらえたところのものと似通ったものであることは、疑う余地がない。」
他方において科学はキリスト教信仰を純粋化してくれる、という面にも注意をはらう必要があろう。すなわち、科学的宇宙像との出会いによって、神の超越がより純粋に理解され、偶像礼拝の危険が遠ざけられるのである。たとえば、蒙昧な社会においては神々の業に帰せられた多くの現象――日蝕や月蝕、あるいは雷鳴、電光など――が自然現象として解明される。また宇宙の進化についての研究が進むにつれて、創造信仰から擬人観的要素がとりのぞかれ、そこにふくまれている啓示の意味をより純粋に理解することが可能となる。また神の超越性を場所的な「上」という表象で捉えることにともなうさまぎまの欠陥が克服され、神の超越性をわれわれの存在の根拠あるいは深みへの方向に求めてゆくという、より成熟した宗教態度が可能となったのである。
右にのべたことがらは、ふつう科学によるキリスト教信仰の追放の例として理解されている。自然の極微の世界にも、また宇宙空間にも科学の探求の手がのびたいま、神にとってのかくれ家はなにひとつ残っていない――このように漢然と考えるひとがあるかもしれない。しかし、その人は自分が神を擬人化しているのであり、キリスト教思想は当初からこのような擬人観にたいして戦ってきたことを思いだす必要があろう。もちろん、われわれは人体をくまなく解剖したが霊魂は発見されなかったとか、宇宙飛行中ついに神に出会わなかった、という冗談をたんなる笑い話として片づけることはできない。われわれの思考や言語は物質的条件と離れがたく結びついており、それからの超越は容易ではないからである。しかし、思考や認識そのものはまさしく物質的条件からの超越においてなりたつものであることも、われわれが自ら経験するところであり、それから目をそらすことは許されないであろう。そして、われわれ自身の精神の超越をふりかえることが、神の超越性の理解へと近づくための唯一の道なのである。
補足的な言ひ方を後からすると、言逃れだとNG氏に散々罵倒されるだらうし、330さんにもますます不信感を持たれるだらうけれども、さう云ふ事によつてより正確な表現になるのならば仕方がない。
「神は超越的な存在である」とキリスト教では言はれる(慥かにこれを「キリスト教では定義される」と言ふ事は出來る)が、この場合、科學の對稱として檢證なり反證なりが可能となる事はありえず、科學的には定義される事等あり得ないと云ふ話になる。
無神論者のNG氏や論理に興味を御持ちの330氏にとつて「キリスト教的に定義される」と云ふ言ひ方は何の意味もない筈だし、科學的に・論理的に檢討なり何なりの對象とする事が出來るやうに「定義する」事こそが御兩人にとつては重要である筈だから、さう云ふ意味で私が「神は定義不可能」と言つたのは、「間違ひ」とのみ解釋されるべきものではない。
否、矢張り野嵜は間違ひだ、と仰りたければ(その時點で私の問題提起は無視された事になるわけだし、御兩人とも無視したいのかも知れないが)、では、「超越した存在である神」と云ふ「宗教的な定義」と問題なく竝立する「檢討の對稱とし得る爲の神の科學的・論理的定義」を具體的に御提示いただきたい。
>いや、現代カトリックの基本的な考へですよ。間違ひは言つてゐません。「野嵜の言つてゐる事を、間違ひと解釋しよう」と考へて、NG氏も330さんも、何とか自分の知識と結び附けて「根據」らしく故事つけ、野嵜の言葉を誤に見せかけようとされてゐるだけです。
それはちょっとひどいな(笑)。とくに「『野嵜の言つてゐる事を、間違ひと解釋しよう』と考へて」は違いますよ。
「キリスト教の神樣は『存在が證明出來ない』と定義されてをりまして」が本当とは思えなかったのでお聞きしたので、最初から「野嵜さんの言うことは全部間違いなはずだから何とかして間違いと解釈してやろう」とは思っていません。
「何とか自分の知識と結び附けて「根據」らしく故事つけ、野嵜の言葉を誤に見せかけようとされてゐる」
確かに自分の知識と結びつけて根拠を持ち出しましたが、それはこじつけではないと私は思っています。
でも、たくさん書き写して頂いてありがとうございました。ゆっくり読んでみます。
>330さんも、「あなたを信用しませんよ」と言つてゐますが、「人を信用出來るかどうか」と云ふ事にしか興味を持たない人が、ウェブには多過ぎます。言はれてゐる内容が問題なのに、言つてゐる人を問題にし、「あなたは信用出來ないんだよ」と嘲笑する事を目的にする。
そんなに敵意むき出しにならないで欲しいな(笑)。塗炭さんとお話し(とも言えないことになってしまったのは私の責任もあります)した時に敵意を持ってしまってはダメだと言うことがよくわかりましたので(私がぶち切れて塗炭さんに敵意を持ってしまったんです)、誤解を解きたいな、と。
これ、「私が本を読まないで済ませるためのいいわけ」で、野嵜さんが間違っていると言っているわけではないです(ましてや非難しているわけではないです)。
私は
野嵜さん「神は存在が証明できないと定義されている」
330「ホント?違うんじゃない?(そんな定義あった?)」
野嵜さん「いろんな本を読んでみればわかるよ」
の続きに
330「えー、片っ端から本読まなきゃダメなの?そりゃ大変すぎてヤダ。じゃ、野嵜さんの言葉を信用しないことにすりゃ読まないで済む。神の定義は気にしなけりゃいいや」
ということなんだったんですけど。
>しかし、単に野嵜さんのお考えであり「常識でしょ?」という程度の理由であれば「いろんな本を読んで見ればわかるよ」と言われても信用する気になりませんので、気にしないことにします。
という書き方がそう読めず、「野嵜の言うことなんかはなっから信用できるかバカタレ」と読めてしまったのならすみません。
>無神論者のNG氏や論理に興味を御持ちの330氏にとつて「キリスト教的に定義される」と云ふ言ひ方は何の意味もない筈だし、科學的に・論理的に檢討なり何なりの對象とする事が出來るやうに「定義する」事こそが御兩人にとつては重要である筈だから、さう云ふ意味で私が「神は定義不可能」と言つたのは、「間違ひ」とのみ解釋されるべきものではない。
全文読む前にやっぱり気になったので。
>論理に興味を御持ちの330氏にとつて
ありがとうございます。いや、マジで。
>330氏にとつて「キリスト教的に定義される」と云ふ言ひ方は何の意味もない筈だし
そんなことないですよ。キリスト教的に「神は存在が証明できないものとして定義されている」ならそれは全然OKです。でも、そう定義されているとは私は思っていないので、これから野嵜さんの書いてくれた(引用してくれた)文を読もうかと思っているところです。
>科學的に・論理的に檢討なり何なりの對象とする事が出來るやうに「定義する」事こそが御兩人にとつては重要である筈だから
いえ、(N爺さんはどうか知りませんが)私は神の科学的・論理的定義を求めてはおりませんし、私にとっては重要ではありません。求めているのは「『キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されて』いることが一般的であるという証拠(私が、というと僭越ですが、普通の人が普通に納得できる根拠)」です。
>さう云ふ意味で私が「神は定義不可能」と言つたのは、「間違ひ」とのみ解釋されるべきものではない。
え?神が定義できるかできないかは(N爺さんに取ってはともかく)私にとってはどうでもいいんですが。
ま、まさか、あの長文は「神が定義不能である」という根拠じゃあ…。
NG氏と塗炭さんとでは、樣々な用語の定義が違つてゐる。その上、NG氏は、塗炭さんの用語に一切歩み寄らうとせず、「塗炭さんの文章を自分の語彙で理解する」と云ふ典型的な誤讀をやらかしてゐる。
だから對話が成立たない結果となつてゐる。明かにNG氏が惡い。
>いえ、今回も繰り返しますが、爺は「人間は神になれる」ではなくて「神は居ないだらう」と言ってるのです。
「神」と云ふ語を、NG氏は、「具體的に存在する或者」と考へてゐる。「神(NG氏は『具體的に存在する或者』と認識する)と塗炭さんが言つてゐるその人物を、私NGは存在しないと言つてゐるので、その人物に成代るとか成代らないとか言はれても。私NGは苦笑するしかないです」と言つてしまふ。けれども、塗炭さんは、「具體的な存在者」ではなく「人間を超越した存在者」と云ふ意味で「神」と言つてゐて、「人が神にならうとする」とは「人が恰も神のやうに人間以上の存在者にならうとする」と云ふ意味で言つてゐる。完全に想定してゐるものが違ふんですね。表面的に「語が同じ」だからと言つて、NG氏は自分の流儀に引附けて塗炭さんの言つてゐる事を解釋してしまつてゐる。
要するに、NG氏は、「論理が解る」能力は有る筈なのに、「言葉の表面的な意味で全てを解釋する」誤を冒してゐるんです。その爲に、NG氏は、他人と對話を成立たせる事が出來ないでゐる。他人の語彙を自分の語彙に飜譯する當然の行爲をNG氏は全くやらない。Aの用ゐる或語が、Bの用ゐる或語と、同じ外觀でも、異る内容である事は、普通なので、文脈その他を基に、AはBの語彙を自分の言葉に飜譯して理解しなければならないし、BもAの語彙を自分の言葉に飜譯して理解しなければならない。
言葉には記號的な側面があるから、内容と外觀は、個人個人によつて異る場合があるんです。NG氏には、それが解らない。NG氏は、「私は科學を知つてゐます』「私は論理が解ります」と言つてゐるが、言葉の使ひ方については全く無知だ。
330さんの釋明は――と言ふより、發言者の當人の主張に關する釋明は、議論に對して何の積極的な貢獻にもならない場合には、無視すべきだと思ひますので、無視します。
野嵜さん、
NG とは N爺の事でせうか。どうしてさうややこしい事をするんですかね。かな
漢変換で爺が出てこない?とまれ、
> 330さんの釋明は――と言ふより、發言者の當人の主張に關する
> 釋明は、議論に對して何の積極的な貢獻にもならない場合には、
> 無視すべきだと思ひますので、無視します。
それは無茶な言い分ですね。330 さんは野嵜さんの誤解もしくは決め付けを確
認・正さうとしてゐる。(「釈明」なんかじゃないですよ。)それを無視する、
といふのは 330 さんの批判に答へられない、もしくは答へたくない、といふ事
でせうか。
> 言葉には記號的な側面があるから、内容と外觀は、個人個人に
> よつて異る場合があるんです。NG氏には、それが解らない。NG
> 氏は、「私は科學を知つてゐます』「私は論理が解ります」と
> 言つてゐるが、言葉の使ひ方については全く無知だ。
これは恐れ入りました。是非とも「言葉の使ひ方」についてその一端でもご教
示願ひたいものです。
しかし、いかに迂闊な爺でも「塗炭さんのいふ神」(以降「塗炭神」)が、普
通に言はれる「神」とかなり違ふのでは、とは思ってゐますよ。なにしろ「在
家といへど仏教徒」が「一神教の神々のみならず神道の八百万の神の存在を信
じる」といふのですから(ここまでで、既に頭が痛くなります)。で、一方で
「人は神にはなれない」と仰る。塗炭神が「超越神」なら、まあさうでせう
ね——「定義」からして「超越」してゐるんですから。しかし、神道では、死
後「神」として祭られる「人」は何人も居る。これらはいずれも「塗炭神」で
せう。爺には明かな「論理的矛盾」と見える。
これを、野嵜さんの「言葉の使ひ方」(爺に言はせると「融通無碍の語解
釈」)からはどう読み解くのが正しいのでせうか。
もう一つ。野嵜さん御自身が「私は神の存在を信じないが……」といふ時の
「神」って、どういふものですか?「定義」できないなら、「概念」でも良い
ですよ。アミニズムの神、人格神、超越神、具体的にヤハウエ(エホバ)、そ
の他、のどれでせう。もっと具体的に言ふなら、佐藤優さんが上げてゐるやう
な箇所(モーゼと神との対話)は、客観的に存在した実話なのか、単なる寓話
なのか、といふ事になりませうか。
最後に、
> キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると
> 「存在しない事が證明出來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する
> 事になるのであります。
330 さんの仰るやうに、「証明できないと定義されている」がキリスト教徒の
「常識」ですか、といふ疑問とともに、爺が理解に苦しんでゐる「論理的な矛
盾」を野嵜さんの「語解釈」からすれば、どう理解すべきなのでせうか。
>N爺さん
呆れるとともに、諦めました(いろんな意味で)。
>佐藤さん
この場所をお借りできたことに感謝をするとともに、うまく話を進められなくてすみませんでした。
いえ、こちらこそありがたうございました。
>NG とは N爺の事でせうか。どうしてさうややこしい事をするんですかね。
NG氏は最初何と名乘つていらつしやつたのでしたつけ? わざわざ「爺」と名乘つてややこしい事にして喜んでゐるのはNG氏自身ではないですか。
>しかし、いかに迂闊な爺でも「塗炭さんのいふ神」(以降「塗炭神」)が、普通に言はれる「神」とかなり違ふのでは、とは思ってゐますよ。
本當ですか。けれども、それを責めるのは、揚げ足取り以外の何物でもありませんね。議論をしたいのなら、相手の主張に於ては相手の用語を受容れ、相手の言ひたい事を正當に理解する事が必要です。當り前の話です。
野球選手がスチールしたら警察が逮捕に行つた――これ、NG氏だつてをかしいと思ふでせう。同じ語でも、時と場合と人とによつて意味が異る事がある、ならば、文脈に應じて言葉は意味を適切に理解しなければならない。これ、ただの常識ですが、その常識がNG氏には何うして解らないのですか。
>なにしろ「在家といへど仏教徒」が「一神教の神々のみならず神道の八百万の神の存在を信じる」といふのですから(ここまでで、既に頭が痛くなります)。
常識的に考へれば誰も頭が痛くなりやしません。笑ひ。頭が痛いと言つて喜んでゐるのはあなたみたいな「論理主義者」の人だけです。要は「嚴密でない」と人を嘲りたいんでせう。けれども、NG氏なんかの「嚴密主義」の方が異常です。ただ單に、他人を理解すまいとしてゐるだけでせう。或は、NG氏のやうな「論理主義」は常識と=現實と懸離れてゐる、と云ふ事を意味します。
>もう一つ。野嵜さん御自身が「私は神の存在を信じないが……」といふ時の「神」って、どういふものですか?「定義」できないなら、「概念」でも良いですよ。
宗教的な意味では定義しましたよ。NG氏は私の文章を讀んだのですか。
と言ふか、私が「キリスト教の神」と言つてゐる事は誰でも判ると思ひますが? なんかNG氏はアニミズムだの何だのと變な事を言出してゐますが、的外れですね。
ところで私はキリスト教の神を信じてゐませんよ。
>330 さんの仰るやうに、「証明できないと定義されている」がキリスト教徒の「常識」ですか、といふ疑問とともに、爺が理解に苦しんでゐる「論理的な矛盾」を野嵜さんの「語解釈」からすれば、どう理解すべきなのでせうか。
私にはNG氏がただ、言葉を適當に並べてもつともらしい「論理」に見せかけてゐるだけのやうに思はれますね。何で言葉で考へて、論理の内容で考へようとしないのでせうか。逆に言へば、NG氏のこの言葉は無内容だと私には見えます。と言ふか「融通無碍に・自分の好きなやうに解釋する」=「野嵜の誤解釋」とNG氏は言つてゐますが、それを聞いて何か意味がありますか。
NG氏は何時もこの手の内容の無い要求をして相手を困らせようとしますね。内容のある事を要求して下さい。
あと、330氏が「呆れるとともに、諦めました(いろんな意味で)。」と言つてゐるのが全く解らない。
斯う云ふのが「融通無碍な誤解釋」と云ふ奴ではないですか、NGさん。(微笑)。
NG氏と330氏の立場――「私の知識は、全世界・全宇宙を覆ひ盡す普遍性を持ち、絶對の眞實である。私の知らない事・私に反對する意見は、全て誤である。インターネットでは、インターネット上にあり、今ここで私の目に觸れる事が出來る情報のみが、檢討の對象となる。インターネットでは、インターネット外部に知識や情報があると考へてはならないし、私はそれらを全部無視する」
これに對し。
キリスト教徒の立場――「私は、知識のみならず認識・理解の能力も不完全である事を認める。吾々人間には、理解する事も、認識する事すらも出來ない領域が存在する。さうした超絶的な存在は、證明する事が出來ない。だから、存在しない、と考へる事も出來る。けれども、私は、存在する、と考へて、私の世界觀・宇宙観・人生觀を構築し、私の生き方を律しようと決意した。」
(インターネット云々は兔も角)NG氏も330氏も「私は、私の知識が不完全であるとは認めるが、しかし、私に反對する意見を直ぐに疑ひ、私の意見の正しさを確信してゐるかのやうに振舞ふのが當然だと思ふ」と宣言し、實踐してゐる。これは「私の知識は不完全だ」と兩氏が本氣で思つてゐない事を示唆する。
即ち、兩氏は「私の知識は完全だ」と心の中で信じ、「私は正しい」と信じ――即ち「私は完全な存在であり、至高の存在である」と信じてゐる。塗炭さんは斯うした發想を「人が神にならうとしてゐる」と表現する。兩氏は、言葉の表面的な意味を捉へて「理解出來ない」と言ふ。實際は、兩氏は塗炭さんの言葉の内容をちやんと理解し(「傲慢だ」と非難されてゐる事を理解し)、「私は謙虚である筈である」と思つてゐるものだから、非難に反撥してゐるのだらう。感情的な反撥を、恰も言葉の問題であるかのやうに言つてゐるから醜い。
キリスト教徒は、「人間には限界がある=人間が證明も認識も何も出來ない領域がある」と云ふ事を認めて、その上で、「神を信ずる」と云ふ表現を使つてゐる。さうして、さう云ふ「神」を「人間の上なる存在」「私の上なる存在」と考へる事によつて、改めて「人間の矮小である事」「私がちつぽけな存在である事」をまざまざと認識し、結果として「自分が謙虚に振舞へるやうに」しようとする。
みなさん、こんにちは。N爺さんもこんにちは。
今ぼくはみなさんの徒労感がとてもよく理解できたように思います。
N爺さんは「間違ったことを言う人間の中には、発言する資格がある人もいれば、ない人もいる、このことを証明しなさい」と言っています。ところがN爺さんは「命題 (A = B) v (A = B*) は論理的には常に真。」と書いています。N爺さんは何を言いたかったのでしょうか。
>呆れるとともに、諦めました(いろんな意味で)。
330さんは偉い人なんだねえ。尤も2ちゃんねらにもかういう書き方で相手を見下す人が多い。これね、私は偉いのであなたを赦すと言つてゐるだけですよ。道徳的には反吐が出るほどけがらわしい。何故なら相手を佐藤さんが言ふ「対等な人間」と認めてゐるなら、なんで俺が言つてゐる事を解つて呉れないんだ、馬鹿野郎、おまえのかあちやんでべそ、となるのが自然でせう。相手より自分の方が偉いと思つてゐるからふんぞり返つて呆れて見せる。
330さんは次のやうに書いた。
>(わたしは別に神が存在しようがしまいが、証明で着なかろうができようがあまり興味はありません。ただ、私の知っていることと全然違うことがすらっと出てきたので驚いただけです)
「驚いただけ」のあなたに野嵜さんは長文の説明を試みてゐる。野嵜さんの方が遥かに真摯な態度と言へる。私はそこまで真摯になれないので、大した興味も無く口を挟んで来た330さんを始めから相手にしてゐない。そもそもあなたは爺さんを感情的に擁護したいだけだ。違ひますか。
>N爺へ
あんたがする私個人への批判(といふ非難)には意味が無い。ヒンズー教徒と言はれるガンジーは次のやうに述べた。
>あらゆる執着からの自由とは神を真理として現実化させることである。
なあ、無神論者の爺さんよ、私のやうな一介の在家ではなく、ガンジーのやうな宗教者が言つた事を攻撃すべきではないのかい。頭脳明晰で論理論理と煩い爺さんが自らの偉大さを世間に知らしめる為にどうぞ存分にやつて呉れ。きちんとやればおそらく学位論文になる。頑張つて下さい。(←皮肉)
おまけ。
あー、330がどこぞで喚いてゐやがる。2ちゃんねらもどきの匿名のあんたには腐臭のする其処がお似合いだよ。ここへ出てくんな、ばかたれ。
野嵜さん、
爺>しかし、いかに迂闊な爺でも「塗炭さんのいふ神」(以降「塗炭神」)が、普通
爺> に言はれる「神」とかなり違ふのでは、とは思ってゐますよ。
> 本當ですか。けれども、それを責めるのは、揚げ足取り以外の何物でもありませ
> んね。議論をしたいのなら、相手の主張に於ては相手の用語を受容れ、相手の言
> ひたい事を正當に理解する事が必要です。當り前の話です。野球選手がスチール
> したら警察が逮捕に行つた――これ、NG氏だつてをかしいと思ふでせう。同じ語
> でも、時と場合と人とによつて意味が異る事がある、ならば、文脈に應じて言葉
> は意味を適切に理解しなければならない。これ、ただの常識ですが、その常識が
> NG氏には何うして解らないのですか。
いや、そのやな例を出すところが、かなり非常識だと思ひます。(もっとありさ
うなのにしませうよ。)むしろ、おっとり刀で駆け付けた野嵜さんに、おいおい
塁を盗むのは野球のルールにあるんだよとたしなめる、といふ比喩はどうでせう。
といふ冗談はともかく、稲垣師の仰る「騎士道精神」が足りないと思ひます。
爺> なにしろ「在家といへど仏教徒」が「一神教の神々のみならず神道の八百万
爺> の神の存在を信じる」といふのですから(ここまでで、既に頭が痛くなります)。
> 常識的に考へれば誰も頭が痛くなりやしません。笑ひ。頭が痛いと言つて喜んで
> ゐるのはあなたみたいな「論理主義者」の人だけです。要は「嚴密でない」と人
> を嘲りたいんでせう。けれども、NG氏なんかの「嚴密主義」の方が異常です。た
> だ單に、他人を理解すまいとしてゐるだけでせう。或は、NG氏のやうな「論理主
> 義」は常識と=現實と懸離れてゐる、と云ふ事を意味します。
成程、常識は我にあり、と。でも、「頭が痛いと喜ぶ」のはあまり常識的とは思
へませんよ。もう少しは「説明」しないと、ちっとも説得力が無い。単に「それ
は爺の常識ではない」と云ふのと何ら変りがないですね。そもそも、論理は議論
の常識を煮詰めたものだと思ひますが。
ともあれ「騎士道精神」が大事です!
爺> もう一つ。野嵜さん御自身が「私は神の存在を信じないが……」といふ時の
爺> 「神」って、どういふものですか?「定義」できないなら、「概念」でも良いで
爺> すよ。
> 宗教的な意味では定義しましたよ。NG氏は私の文章を讀んだのですか。と言ふか、
> 私が「キリスト教の神」と言つてゐる事は誰でも判ると思ひますが? なんかNG氏
> はアニミズムだの何だのと變な事を言出してゐますが、的外れですね。
あらま、さうですか。「キリスト教の神」と一口に言っても、モーセと会話をす
るヤハウエのやうな「人格神」の存在を自明としてゐた時代が有りましたが、今
は「人間が把握する事は不可能」な神となってゐるので、
> ところで私はキリスト教の神を信じてゐませんよ。
について、ですからそれ(キリスト教の神)は上のうちのどれですか?といふ
質問なんですが。
でも、まあ、好意的に解釈すると、現在の公的見解「人間には把握できない神」
の事でせうか。成程。では、野嵜さんは途端さんの見解「一神教の神々はおろか
八百万の神までその存在を信じる」については、どうお考へなのでせうか。
> 私にはNG氏がただ、言葉を適當に並べてもつともらしい「論理」に見せかけてゐ
> るだけのやうに思はれますね。何で言葉で考へて、論理の内容で考へようとしな
> いのでせうか。
あらま、爺は「論理はわかるだらうが言葉の使い方については全く無知だ」と、
すこし前に云はれたばかりですが。言葉の使ひ方を明確にしやうとしたら、今度
は論理で考えろ、ですか。ったく、融通無碍もそこまで行くと……
> 斯う云ふのが「融通無碍な誤解釋」と云ふ奴ではないですか、NGさん。(微笑)。
いや、「誤」解釈では融通無碍とは云はない。やはり、苦し紛れにころころ変は
る解釈の事を云ふんでせうね、世の中の「常識」では。
> キリスト教徒の立場――「私は、知識のみならず認識・理解の能力も不完全であ
> る事を認める。吾々人間には、理解する事も、認識する事すらも出來ない領域が
> 存在する。さうした超絶的な存在は、證明する事が出來ない。だから、存在しな
> い、と考へる事も出來る。けれども、私は、存在する、と考へて、私の世界觀・
> 宇宙観・人生觀を構築し、私の生き方を律しようと決意した。」
それは必ずしもキリスト教徒の立場をうまく要約できてないと思ひますが、とも
あれ、キリスト教の神の存在を信じない野嵜さんは、この立場に与するんでせう
か。
> (インターネット云々は兔も角)NG氏も330氏も「私は、私の知識が不完全である
> とは認めるが、しかし、私に反對する意見を直ぐに疑ひ、私の意見の正しさを確
> 信してゐるかのやうに振舞ふのが當然だと思ふ」と宣言し、實踐してゐる。これ
> は「私の知識は不完全だ」と兩氏が本氣で思つてゐない事を示唆する。
> 即ち、兩氏は「私の知識は完全だ」と心の中で信じ、「私は正しい」と信じ――
> 即ち「私は完全な存在であり、至高の存在である」と信じてゐる。塗炭さんは斯
> うした發想を「人が神にならうとしてゐる」と表現する。兩氏は、言葉の表面的
> な意味を捉へて「理解出來ない」と言ふ。實際は、兩氏は塗炭さんの言葉の内容
> をちやんと理解し(「傲慢だ」と非難されてゐる事を理解し)、「私は謙虚である
> 筈である」と思つてゐるものだから、非難に反撥してゐるのだらう。感情的な反
> 撥を、恰も言葉の問題であるかのやうに言つてゐるから醜い。
なんだか、憶測に基く決め付けから感情的な反発……以前からの診断でいふなら、
被害妄想からとんでも論理の展開、過剰反応に至る……の典型的な例のやうに見
えますが。いつものやうに「ば〜か」で終らないのが不思議なくらゐのものです。
(最近は、途端さんよりは冷静になった、と云ふ事かな。)でも、もうちょっと
客観的にものを見ませうよ。
> キリスト教徒は、「人間には限界がある=人間が證明も認識も何も出來ない領域
> がある」と云ふ事を認めて、その上で、「神を信ずる」と云ふ表現を使つてゐる。
> さうして、さう云ふ「神」を「人間の上なる存在」「私の上なる存在」と考へる
> 事によつて、改めて「人間の矮小である事」「私がちつぽけな存在である事」を
> まざまざと認識し、結果として「自分が謙虚に振舞へるやうに」しようとする。
成程、で、キリスト教を信じていゐない野嵜さんは、御自分が謙虚であろうとす
る根拠を何に置いてゐるのでせうか。まあ、とても「謙虚」であらうとしてゐる
とは見えないので、このあたりは辻褄が合ってると云ふべきか。
論理学徒さん、
> 今ぼくはみなさんの徒労感がとてもよく理解できたように思います。
ありがたうございます、爺の徒労感を理解して頂けましたか。
> N爺さんは「間違ったことを言う人間の中には、発言する資格がある人もいれば、
> ない人もいる、このことを証明しなさい」と言っています。ところがN爺さんは
> 「命題 (A = B) v (A = B*) は論理的には常に真。」と書いています。N爺さんは
> 何を言いたかったのでしょうか。
いえ、論ってゐる「命題」が違ふでせう。少し前の
> それじゃあ、A は B であるか B でないかである、を証明して下さい
の話なんですが。上の論理式はこれの定式化になってゐて(従って自明)、とい
ふのは宜しいですか?
佐藤さんの云ひ分は「すべての A は B でない」(A = 間違った事を云ふ人、B
= 発言権を持つ)で、これの否定は、「ある A は B である」だと言ってゐるの
ですが。で、こっちは自明ではない。「発言権のある間違った事を云ふ人」を少
くとも一人は見付けて来なくてはならない。
で、それより言いたかったのは、佐藤さんのやうに(あやしげな論理操作をし
て)「A でない人は存在しない(居たら神だから?)」と言ってみても、元の命
題を否定した事にならない、といふ事。
高校数学の「論理」を卒業したら、全称命題、存在命題、といふキーワードを調
べてみて下さい。(で、野嵜さんが乱発する「いついかなる場合も例外無しに」
は時々をかしのですが、それを指摘してやって下さいませ。)
>いや、そのやな例を出すところが、かなり非常識だと思ひます。(もっとありさうなのにしませうよ。)
やな例だと思つたんだ。かっこわらひ。
ありさうにもない非常識で愚かしい眞似をあなたはしてゐるんですよNGさん。と言ふか、斯う云ふ意味のない反撃がNG氏は本當に好きですねえ。はあ……。
>もう少しは「説明」しないと、ちっとも説得力が無い。
ああ「説得力」! あなたも「説得されたい」んだ。
NG氏みたいな人が詐欺師に引掛かるのだと思ふ。
>でも、まあ、好意的に解釈すると、現在の公的見解「人間には把握できない神」の事でせうか。成程。では、野嵜さんは途端さんの見解「一神教の神々はおろか八百万の神までその存在を信じる」については、どうお考へなのでせうか。
何うも斯うも無いでせう。「人が信じる」事について何を言へるのですか。「俺も信じる」「俺は信じない」それ以外に何か言へるのですか。
NGさんの「通俗的無神論」の誤は、その「何も言へる筈もない」事に一々口出ししようとする御節介精神にあります。
>あらま、爺は「論理はわかるだらうが言葉の使い方については全く無知だ」と、すこし前に云はれたばかりですが。言葉の使ひ方を明確にしやうとしたら、今度は論理で考えろ、ですか。ったく、融通無碍もそこまで行くと……
NG氏、相變らず何か勘違ひしてゐますね。
この人は、「物事を峻別する」能力が先天的に缺けてゐるらしい。と言ふか、あゝ言へば斯う云ふで、人を責める事には熱心だが、自分のやつてゐる事を反省する事が出來ない。
「自分の言葉の使ひ方を明確にする」は結構、NG氏にはどんどんやつていただきたい。けれども「自分にとつて馴染みのない言葉の使ひ方をする他人の言葉は、正確に自分の言葉に飜譯する」のが當り前。
・「自分のする事については、自分で批判し、反省する」
・「他人のしてゐる事は、NG氏みたいに自分に都合良く解釋しないで、ちやんと相手にとつて一番都合の良いやうに解釋する」
>いや、「誤」解釈では融通無碍とは云はない。やはり、苦し紛れにころころ変はる解釈の事を云ふんでせうね、世の中の「常識」では。
「やな例」とか平然と「誤解釋」したNGさんがよく言へますねえ。「やな例」。ほかにも幾つか今囘も誤變換があつた。相當動搖してゐるらしい。
しかし、此處まで平然と、自分に對する指摘を無視して、他人に攻撃し續けられるNG氏の感覺は、本當にをかしい。
と言ふか、繰返しますよ。當り前の話ですが、NG氏は全然解つてをりませんので。
NG氏は、相手の發言を自分に都合の良いやうに歪曲して解釋してゐますが、それは間違ひです。
議論では、相手の發言を、相手にとつて一番都合の良いやうに(=相手の意圖通りに)解釋し、相手の言はんとしてゐる論理を、相手が言盡くせないとしても、完全に體系的に組上げて――その上で、それでもその論理には問題がある、と批判をするものです。それでないと、相手を批判した事にならない。NG氏みたいに、相手の片言隻句を取上げて、揚げ足をとつても、それは相手の些細な言ひ間違ひ・ミスを指摘したに過ぎず、相手の主張の核心を衝いた事にはならない。
>それは必ずしもキリスト教徒の立場をうまく要約できてないと思ひますが、ともあれ、キリスト教の神の存在を信じない野嵜さんは、この立場に与するんでせうか。
私はキリスト教の神を信じてゐないと書きましたよ。NG氏は何處に目を附けてゐるのでせうか。やつぱりNG氏は、文章が讀めない、片端なのではないでせうか。
>なんだか、憶測に基く決め付けから感情的な反発……以前からの診断でいふなら、被害妄想からとんでも論理の展開、過剰反応に至る……の典型的な例のやうに見えますが。
反論が出來ないから、何時ものやうに感情的な罵倒に走つてゐますね、NGさん。
と思つたら。
>いつものやうに「ば〜か」で終らないのが不思議なくらゐのものです。(最近は、途端さんよりは冷静になった、と云ふ事かな。)でも、もうちょっと客観的にものを見ませうよ。
いやいやいや。
何時ものパターンで、NG氏は、自分を否定すべき文句で以て、相手を罵つてゐますね。呆れたものだ。客觀的も何も、あなたは今、一つ前の文章で、最う感情的な罵詈雜言を竝べ立てたばかりではないですか。NGさん、あなたは三歩歩くと、最う記憶が無くなる、と云ふ人ですか。
>成程、で、キリスト教を信じていゐない野嵜さんは、御自分が謙虚であろうとする根拠を何に置いてゐるのでせうか。まあ、とても「謙虚」であらうとしてゐるとは見えないので、このあたりは辻褄が合ってると云ふべきか。
「野嵜さんは」「野嵜さんは」「野嵜さんは」。にがわらひ。
NGさんは、自分の致命的な問題點に對する指摘があると、すぐ斯うやつて「では野嵜さんは」みたいに話を摩り替へて、矛先をかはさうとしますね。
これ、典型的な詭辯ですよ。
NGと云ふ人は、自分の誤を認めない。
人から自分の誤・論理のをかしさを指摘されても、全部無視し、自分の間違ひを全部棚に上げて――逆に「あなたはどうなんですか」と激しく言返し、ただただ話を逸らして、逃げてしまふ。
本當にパターン化してゐます。
粘着荒しの典型的な攻撃パターンです。
この記事のコメント欄でも、NG氏は、前に他人に言つた「やつては行けない事」を、後の方で平然とやつたり、或は、前に自分が言つた事・やつた事を、後の方で相手がやると平然と否定したり、と、矛盾した行動をとつてゐます。
そしてそれをNG氏は一切認識してゐない。これが問題です。
NG氏は、自分は支離滅裂な言動をとりながら、他人を只管責め捲るのです。
典型的な「相手を叩く事だけが目的」の行動です。(←斯う言ふと、NG氏は「憶測に基く決め付けから感情的な反発」と云ふ御決りのレッテル貼りで逃げるんですよねー。しかし、状況證據から、NG氏の動機やら何やらには惡意がある事が餘りにも明かなんですね。そこで白を切るからますます皆、NG氏に不信感を抱く事になる。ところがそこで「爺に不信感を持つあなたたちは被害妄想」みたいに言つて、責任轉嫁をはかるのがNG氏のパターン。しかしこれ、NG氏の言動と照し合せて、やつぱり矛盾してゐるんですよ。
NG氏の言動、「惡意に基いてゐる」「自分の事を棚に上げて他人を嘲つて遊んでゐる」、さう解釋すると、全部巧く説明出來るんです。これは假説ですが、NG氏のやうな「被害妄想」と云ふ動機の推測では決定的な反論にならない、NG氏が具體的に善意を見せれば「反證」(かぎかっこつき)になるでせうが、既に皆が不信感を抱いてゐるから、NG氏が何う足掻いても信頼の恢復は出來ないでせう。330氏は、「同志」としてNG氏と同調して見せるでせうけれども、しかし「敵が同じだから」と云ふ理由でする同調、NG氏は否定する必要がありますよね。わらひ。
「無神論者は、神を否定しながら、自分が神にならうとする」
これをNG氏なんかは「わけがわからない」と言ふのだけれども、理解しようとしないからわからないだけだと思ふ。
「共産主義者は、皇帝による獨裁を否定したが、スターリンのやうな指導者による獨裁を生み出した」
これなんかは歴史的事實で、論理もへつたくれもないから、NG氏も無條件で受容れると思ふ。
で、その表現の仕方を變へると。
「共産主義者は、獨裁者を否定しながら、自らが獨裁者にならうとした」
となる。これもNG氏は肯定せざるを得ない。
けれどもそのNG氏は。
「無神論者は、神を否定しながら、自分が神にならうとする」
になると、「論理的にをかしい」と言出す。
表現の仕方の問題に過ぎないのを、一々「論理がをかしい」と言ふから、話がをかしくなる。
---
いや、「共産主義者は、皇帝による獨裁を否定したが、指導者による獨裁を生み出した」と「共産主義者は、獨裁者を否定しながら、自らが獨裁者にならうとした」とは、等價ではないですよ、笑、笑、笑、みたいな事をNG氏は言出すかも知れないけれども、「論理學的な文章」と「日常語の文章」は異るのだし、「日常語の文章」(「藝術的な文章」でも「政治的な文章」でも「道徳的な文章」でも「小説の文章」でも「日用の文章」でも、どれでも同じ)ならば、論理的な内容では同じでも、表面的には異る文章は、無限に生成できるし、それを責めてもしやうがない。
NG氏は、その日常語の文書に我慢がならなくて、何でもかんでも無闇矢鱈に論理的な文章「として」解釋しようとしてしまふのだが、そこに無理がある。
野嵜さん、
爺> でも、まあ、好意的に解釈すると、現在の公的見解「人間には把握できない神」
爺> の事でせうか。成程。では、野嵜さんは途端さんの見解「一神教の神々はおろか
爺> 八百万の神までその存在を信じる」については、どうお考へなのでせうか。
> 何うも斯うも無いでせう。「人が信じる」事について何を言へるのですか。
> 「俺も信じる」「俺は信じない」それ以外に何か言へるのですか。
えー、さうなんですか、野嵜さん。それが云へないなら、神学や神学論争や宗門
論争は全て意味がなくなる。
> NGさんの「通俗的無神論」の誤は、その「何も言へる筈もない」事に一々口出
> ししようとする御節介精神にあります。
そんな無茶な。公共の場所で宣言していて、それを論はれたら業
腹ですって?そんなに辛いのなら、初めから何も云はなければ良いではないです
か?
爺> あらま、爺は「論理はわかるだらうが言葉の使い方については全く無知だ」と、
爺> すこし前に云はれたばかりですが。言葉の使ひ方を明確にしやうとしたら、今度
爺> は論理で考えろ、ですか。ったく、融通無碍もそこまで行くと……
> NG氏、相變らず何か勘違ひしてゐますね。
> この人は、「物事を峻別する」能力が先天的に缺けてゐるらしい。と言ふか、あゝ言
> へば斯う云ふで、人を責める事には熱心だが、自分のやつてゐる事を反省する事
> が出來ない。
成程。云ふに事欠いてきましたか。物言ひが一方的になってきましたね。もう少
し根拠を示してはいかがでせうか。それに、物事を峻別できない、すなはち言葉
をきちんと定義できない、もしくは融通無碍である事については野嵜さんに一日
の長があると思ひます。なにしろ爺は野嵜さんに「厳密主義」とのおすみつきを
頂いてますからね。
> NG氏は、相手の發言を自分に都合の良いやうに歪曲して解釋してゐますが、それ
> は間違ひです。議論では、相手の發言を、相手にとつて一番都合の良いやうに(=
> 相手の意圖通りに)解釋し、相手の言はんとしてゐる論理を、相手が言盡くせない
> としても、完全に體系的に組上げて――その上で、それでもその論理には問題が
> ある、と批判をするものです。それでないと、相手を批判した事にならない。NG
> 氏みたいに、相手の片言隻句を取上げて、揚げ足をとつても、それは相手の些細
> な言ひ間違ひ・ミスを指摘したに過ぎず、相手の主張の核心を衝いた事にはなら
> ない。
さうですね。稲垣さんの云ふ「騎士道精神!」。で、野嵜さんに「相手に好意的
になれ」とは云ひませんが、もうちょっと公平・客観的になりませう。爺が野嵜
さんの非論理を論ふ時のやうに、野嵜さんが「爺の云ひ分は実はかうではないか」
といふ解釈を示して頂けると、話が早いのではないでせうか。
爺> それは必ずしもキリスト教徒の立場をうまく要約できてないと思ひますが、
爺> ともあれ、キリスト教の神の存在を信じない野嵜さんは、この立場に与する
爺> んでせうか。
> 私はキリスト教の神を信じてゐないと書きましたよ。NG氏は何處に目を附けてゐ
> るのでせうか。やつぱりNG氏は、文章が讀めない、片端なのではないでせうか。
さうなんですか、うーむ、
> キリスト教徒の立場――「私は、知識のみならず認識・理解の能力も不完全であ
> る事を認める。吾々人間には、理解する事も、認識する事すらも出來ない領域が
> 存在する。さうした超絶的な存在は、證明する事が出來ない。だから、存在しな
> い、と考へる事も出來る。けれども、私は、存在する、と考へて、私の世界觀・
> 宇宙観・人生觀を構築し、私の生き方を律しようと決意した。」
を、どう思ってますか、と御聞きしたら、「爺は文章が読めない」と。まあ、読
めないのかも知れません(野嵜さんのは特に)ので教へて下さいませ。結局さう
は決意してない、のでせうか。もしさうなら、どのやうな生き方を決意してゐる
のでせうか。
それにしても「片端」ねぇ。そんな言葉を使ふのはよした方が宜しいのでは。無
神論者の名折れですぞ。
> けれどもそのNG氏は。
> 「無神論者は、神を否定しながら、自分が神にならうとする」
> になると、「論理的にをかしい」と言出す。
> 表現の仕方の問題に過ぎないのを、一々「論理がをかしい」と言ふから、話が
> をかしくなる。
「表現の問題に過ぎない問題」を持った文章の「論理がをかしい」のはよくある
話で、だから、それを批判したら話がをかしくなる、って事はないと思ひますが。
とまれ、
(独裁を否定する筈の)共産主義者が独裁者になってしまった、その例がスター
リンである。御意。しかし、「無神論者は、神を否定しながら、自分が神になら
うとする。」これは野嵜さんの思ひ込みの他に何か論拠がありますか?野嵜さん
(無神論者)が実際に神にならうと思ってゐる、とでも?
> NG氏は、その日常語の文書に我慢がならなくて、何でもかんでも無闇矢鱈に論
> 理的な文章「として」解釋しようとしてしまふのだが、そこに無理がある。
いえいえ、言葉を正確に理解しやうとしてゐるだけです。勿論(筋の通った)日
常語の方が嬉しいですよ。まあ、論理学徒さんには論理式を並べようとして、思
ひとどまりましたが。むしろ野嵜さんは御自分の無理筋を融通無碍で弁護しやう
としてゐて、これにはかなり無理があるやうに見えます。
塗炭さん、
> あんたがする私個人への批判(といふ非難)には意味が無い。ヒンズー教徒と言
> はれるガンジーは次のやうに述べた。
> >あらゆる執着からの自由とは神を真理として現実化させることである。
> なあ、無神論者の爺さんよ、私のやうな一介の在家ではなく、ガンジーのやうな
> 宗教者が言つた事を攻撃すべきではないのかい。頭脳明晰で論理論理と煩い爺さ
> んが自らの偉大さを世間に知らしめる為にどうぞ存分にやつて呉れ。きちんとや
> ればおそらく学位論文になる。頑張つて下さい。(←皮肉)
ありがたうございます。でも、それは大層見当違ひな事のお勧めのやうな。
(といふか、八つ当たりの気味もある。)
ガンジーさんはヒンズー教徒なので、「神」を信じてゐるでせうから、さう仰る
のは極自然な事でせうし、批判するにはあたらない、と思ひます。一方、爺は仏
教は神の教へではないだらうと思ってゐるので、在家の塗炭さんが、一神教の神々
や八百万の神を信じるといふのは、一体どういふ事だらうとお思ひ、お聞きした
のでした。
ま、今さら返事が頂けるとは思ひませんが、もしお気が向いたら、ご教示下さい。
(← 皮肉ではありません。)
>爺は仏教は神の教へではないだらうと思ってゐる
だーかーらー、神にしても佛にしても「自身の理性」を超えたところにある存在。さう考へないと佛教が教へる「全ての人間は不完全である」と整合しないからだ。キリスト教でも「全ての人間は原罪を背負ふ」と教へる。佛教で言ふ悪人とキリスト教で言ふ罪人は同じ考へ方に基づいてゐる。ゆゑに繰り返し何度も言つてゐるやうに「全ての人間は不完全である」を否定すれば私の主張は根底から崩れる。うじうじ言つてゐないでさつさとやれ。ニーチェを挙げて措いたけれど、あんた一冊も読んでゐないだらう。ニーチェが嫌ならハイデガーでも何でも良い。少しは彼らの批判手法に学んだら何うだ。
自分の解釈を絶対に曲げない。しかも「だらうと思ってゐる」と来た。それは通称 負けない議論には役に立つかも知らんが、私なんぞに勝つたところで糞爺が偉い人とは証明されない。といふか佛教で教へる「全ての人間は不完全である」を真理だと信じてゐる私を凹ませたいのなら、元を否定しろ。私個人が在家佛教者である、ないに拘らず、無神論の立場から佛教または伝統宗教を否定すれば良いだけだ。
佛教とキリスト教その他を切り離したくて仕方がないのだらう。各論に持ち込めさえすれば俺様に勝ち目はあると――。自分、自分、自分。阿呆ちやうと思ふ。糞爺は何処までも「人」に執着してゐるから嫌はれるんだよ。私はそんなに気が長くない。あんたが次のやうに書いた時点から、あんたは単なる粘着だと確信してゐる。
>仏教でも、お釈迦様御自身は「神は居ない(し、死後の世界も、当然輪廻も無い)」と仰ったやうな気がします。しかも、悟りを開いて仏陀となるべく修行しろと勧めてゐる。
前半は曖昧な記述なのですつ飛ばして、後半の「悟りを開いて仏陀となるべく修行しろと勧めてゐる」。これは誰が何う考へても「全ての人間は不完全である」からこそ「悟り」を開けと奨めてゐるのであつて、ならば私の言つた事は間違つてゐない。糞爺は何が気に入らなくて「在家の塗炭さん」「在家の塗炭さん」と呼び掛けるんだか皆目判らない。
ちうか、いちいち文章を引用しなくていいよ。質問もナシ。ここまで来たらあんたのやる事はただ一つ。「全ての人間は不完全である」を科学的合理的に、或は、あんたの大好きな論理的に否定する事。私は否定できないのではないですかと指摘してゐるのだけれども、それが気に入らないらしい。いろいろいちやもんを附けてお前の主張はをかしいと言ひ続けてゐる。阿呆だろ、お前。
>> 何うも斯うも無いでせう。「人が信じる」事について何を言へるのですか。
>> 「俺も信じる」「俺は信じない」それ以外に何か言へるのですか。
>
>えー、さうなんですか、野嵜さん。それが云へないなら、神学や神学論争や宗門論争は全て意味がなくなる。
NGさんつて本當に日本語が御不自由なんですね。
>> NGさんの「通俗的無神論」の誤は、その「何も言へる筈もない」事に一々口出ししようとする御節介精神にあります。
>
>そんな無茶な。公共の場所で宣言していて、それを論はれたら業腹ですって?そんなに辛いのなら、初めから何も云はなければ良いではないですか?
「業腹」つて何處から出て來た言葉ですか。根據を御示し下さい。
NGさんは、人には根據だの論理だのを要求する割に、斯う云ふところでは感情的な極附けを平氣でやりますね。
なほ、NGさんは、斯う云ふ指摘には絶對反論しません。だから此処は、NGさんの負けです。呵々。
>成程。云ふに事欠いてきましたか。物言ひが一方的になってきましたね。もう少し根拠を示してはいかがでせうか。
言ふに事缺いて、自分の事は棚に上げて、一方的に人を攻撃しますね。私の指摘は常に正しいし、その正しい指摘をNGさんは常に眞似する。
>それに、物事を峻別できない、すなはち言葉をきちんと定義できない、もしくは融通無碍である事については野嵜さんに一日の長があると思ひます。なにしろ爺は野嵜さんに「厳密主義」とのおすみつきを頂いてますからね。
NGさんは、人によつて必ず異る言葉の定義を、「人によつて異つては行けない」と極附け、恐るべき獨裁主義を發揮して、非難します。殆ど恐怖をすら覺えますね。他人の思想をNGさんは支配したいのだと言ふ。
>さうですね。稲垣さんの云ふ「騎士道精神!」。で、野嵜さんに「相手に好意的になれ」とは云ひませんが、もうちょっと公平・客観的になりませう。
ところで「稲垣さんの言ふ騎士道精神」つて何ですか。稲垣さんは何時何處で「吾々は騎士道精神を發揮しなければならない」と主張しましたか。と言ふか、「騎士道精神」が稲垣さんの主張の本質であるとは、どのやうな根據に基いての判斷ですか。
もちろんNG氏は、絶對に答へない。
しかし、NG氏は何時も口先だけの人間だから、此處でも何うせ口だけでせうね。
>爺が野嵜さんの非論理を論ふ時のやうに、野嵜さんが「爺の云ひ分は実はかうではないか」といふ解釈を示して頂けると、話が早いのではないでせうか。
ほら、「公平・客観的にな」ると言つておきながら、「野嵜さんが」と言出した。NG氏は、自分が何かする、と云ふ事は絶對に無くて、必ず相手に要求を出す。今囘も、結局は、自分は何もしませんよ。NG氏が「「公平・客観的にな」るなんて、ありませんよ。
NG氏は嘘吐きです。
>> 私はキリスト教の神を信じてゐないと書きましたよ。NG氏は何處に目を附けてゐ
> るのでせうか。やつぱりNG氏は、文章が讀めない、片端なのではないでせうか。
さうなんですか、うーむ、
>> キリスト教徒の立場――「私は、知識のみならず認識・理解の能力も不完全である事を認める。吾々人間には、理解する事も、認識する事すらも出來ない領域が存在する。さうした超絶的な存在は、證明する事が出來ない。だから、存在しない、と考へる事も出來る。けれども、私は、存在する、と考へて、私の世界觀・宇宙観・人生觀を構築し、私の生き方を律しようと決意した。」
>
>を、どう思ってますか、と御聞きしたら、「爺は文章が読めない」と。まあ、読めないのかも知れません(野嵜さんのは特に)ので教へて下さいませ。
ええと、野嵜さんの文章は讀めないのなら、野嵜さんが教へてもNGさんは讀めないのではございませんか。さう云ふ「論理」でせう。徒勞、徒勞、徒勞。
>結局さうは決意してない、のでせうか。もしさうなら、どのやうな生き方を決意してゐるのでせうか。
「キリスト教徒=野嵜と云ふ事」に意地でもしたいらしいですね。でも、さうNG氏が「しなければならない」根據は何ですか。自分が無神論だから、それに反對する野嵜が有神論でなければ困るとか、そんな淺はかな發想があるのではないですか。
私は特定の宗教を信じてゐませんよ。
>それにしても「片端」ねぇ。そんな言葉を使ふのはよした方が宜しいのでは。無神論者の名折れですぞ。
ほらほら。NG氏の無智が明かになりましたね。「用語」の外觀だけで判斷する。
言葉は記號である、と云ふ、言語學の基礎すらも無いのです。
>> けれどもそのNG氏は。
>> 「無神論者は、神を否定しながら、自分が神にならうとする」
>> になると、「論理的にをかしい」と言出す。
>> 表現の仕方の問題に過ぎないのを、一々「論理がをかしい」と言ふから、話がをかしくなる。
>
>「表現の問題に過ぎない問題」を持った文章の「論理がをかしい」のはよくある話で、だから、それを批判したら話がをかしくなる、って事はないと思ひますが。
「をかしいのはよくある話だから批判する」と云ふのは、をかしいですね。「NG氏がをかしな事を言ふのはよくある話で、だからNG氏を批判したら話がをかしくなる、つて事はないと思ひますが」と言はれたら、NG氏は「それはをかしい」と言ふでせう。「よくある話だから」つて、そんな理由で批判をしたら、をかしいんですよ。今のNG氏の反論は、NGですね。わらひ。
>とまれ、
>
>(独裁を否定する筈の)共産主義者が独裁者になってしまった、その例がスターリンである。御意。しかし、「無神論者は、神を否定しながら、自分が神にならうとする。」これは野嵜さんの思ひ込みの他に何か論拠がありますか?野嵜さん(無神論者)が実際に神にならうと思ってゐる、とでも?
思ひ込みではありませんよ。だつて事實を言つてゐるのだから。
今、無神論者のNG氏は神にならうとしてゐる(無神論者のNG氏は自分が神のやうに偉いと思つてゐる)でせう。「いや、私は謙虚に振舞つてゐますよ」とNGさんは言ひますか。それこそ傲慢ですね。「私は謙虚である」――こんな宣言くらゐ傲慢なものはありません。
實際、NG氏は、佐藤さんに説教食らはす爲に執拗にここに書込んで來てゐるのですから、自分が偉いと思つてゐる事は――少くとも佐藤さんより偉いと思つてゐる事は、或は野嵜より偉いと思つてゐる事は、火を見るよりも明かですね。
NGさん、あなたは佐藤さんと私と、塗炭さんとに、説教してゐるでせう。それこそNGさんが「自分は此処にゐる人々よりも偉い」と思つてゐる決定的な證據ですよ。斯う指摘すると、NGさんは「何もいじけることはありません」とか言つて、吾々の方に目を向けさせようとするでせう。矛先をかはさうとする何時ものNGさんのパターンですね。何時もNGさんは、自分の事となると、必ず野嵜や佐藤さんや塗炭さんの「責任」を追求し始めて、話を逸らして、ごまかしをやりますね。
NGさんは、何時でも、自分の問題からは目を逸らしますね。「自分に問題なんて有りはしないから、あなたがたの話をするのですよ」とNG氏は言ふでせうが、それこそが「NG氏は、自分が偉い存在である=自分は神のやうに偉い存在である」と信じてゐる、決定的な證據です。
あと。
>公共の場所
これ、「特定の個人に粘着して何時までも何時までもその場に留まり續ける」NG氏の、動機の説明にはなりませんよ。
NGさん、あなたは「公共の場所」なるものなのですか。「さう、爺は公共の場所なのですよ」とか思つてゐるのなら、それこそ「NG氏が、自分は神だと思つてゐる」証拠です。
NG氏は、自分が個人を超えた普遍的な存在であり、「公共の場所」であり、「神」である、と言つてゐるわけですから。
無神論者のNG氏には、同じ無神論者のスピノザが宗教を認めてゐる事について、考察する事を御薦めしますね。
スピノザは、「論理的な領域」と「論理を超えた領域」を峻別して、「論理的な領域」を扱ふ科學と、「論理を超えた領域」を扱ふ宗教とを峻別し、兩方の價値を認めてゐます。これ、非論理的な態度ですか。
野嵜を批判する前に、NG氏にはスピノザを批判して貰ひたいですね。
塗炭さん、
まあまあ、そんなにいきり立ちなさんな。さうでなくても、支離滅裂なのに、そ
んなに怒った日には珍紛漢紛でせう。
> ちうか、いちいち文章を引用しなくていいよ。質問もナシ。ここまで来たらあん
> たのやる事はただ一つ。「全ての人間は不完全である」を科学的合理的に、或は、
> あんたの大好きな論理的に否定する事。私は否定できないのではないですかと指
> 摘してゐるのだけれども、それが気に入らないらしい。いろいろいちやもんを附
> けてお前の主張はをかしいと言ひ続けてゐる。阿呆だろ、お前。
いや、(怒りのあまり?)議論の筋道を見失ってゐるのは塗炭さんの方ですね。
塗炭さんが本当に言ひたいのは「人は誰でも間違ふのだから、資格など云々せず
に、まず発言してみれば良い」といふ事でせう。何度も言ってますが、それには
同感ですし、そもそも爺が「資格」などと言ひ出してたのではない。つまり、こ
のあたりに差は無いのですよ。
それに「全ての人は不完全である」も否定しません。
ただ、「人は神になれないから完全ではない」がをかしい、と言ってゐるだけで
す。しかし、そろそろ口が酸っぱくなってきましたので、「いや、どうしてもさ
う信じたいのだ!」といふのであれば、どうぞさうして下さいませ。
野嵜さん、
> NGさん、あなたは「公共の場所」なるものなのですか。「さう、爺は公共の場所
> なのですよ」とか思つてゐるのなら、それこそ「NG氏が、自分は神だと思つてゐ
> る」証拠です。
いや、爺は所詮「人」ですから、どうやっても「場所」にはなれないと思ひます。
爺は野嵜さん御一行様より自分が「偉い」かどうか等と考へた事はありませんで
したが、これを読むと、さすがにちょっと考へ直した方が良いかな、と思ひ始め
ました。といふか、そこまで落ちては情無いなあ、と。
最う直近のN爺様のコメントは拝読してをりません。N爺様におかれましては次の指摘に就いて有効な反論をして下さいますやうお願ひ申し上げます。
>そもそも人間の本質に関はる問題を科学的合理的に割り切れる筈がありません。これを無神論はやらうとした――科学の優越を示そうとしたから破綻したのです。
§
おまけ。
>ちなみに、塗炭さんが認める「真当な左翼」って例へばどのようなお方なのでせうか。
私は右翼である。しかし佛教が教へる「全ての人間は不完全である」を正しいと信じてゐる(信仰といふ意味では絶対であると信じてゐる)ので、私がする右翼の主張の脆弱さも認めてゐる。それを矯正して呉れるのは現世では――といふか直接には左翼の人だ。
しかしN爺のやうな自称無神論者は、お前の主張の「論理」はをかしい、と言ひ続けるだけで自分では何ら有効な主張をしない。だから腐つた左翼と言つてゐる。この佐藤さんのブログのコメント欄に、真当な左翼ならば人間の本質に基づいた反論、例へば人間性善説に基づいて反論すると書いた。N爺は相手の書いた文章を碌に読まず、何が何でも俺様の「論理」で相手を斬つて捨てやうとする。かういふ俺様は偉いんだぞと言ひたい人には、ばーかと言ふしかない。
自称無神論者は70年代にもゐて(当時は通称ノンポリ)、私は学生時代に何回か彼らと「議論」した。今N爺と「議論」するのはデジャブみたいな物だ。正直うんざりしてゐる。うんざりしてゐるが、現代の日本に於いてかつては左翼と称されてゐた考へ方が「常識」とされてゐる事には我慢ならない。宗教者の端くれとしては抵抗の姿勢を示して措く。
なあ、N爺、あんた私が挙げた『歎異抄』を読んだのか?
といふか、私は宗教者(在家佛教者)であると言つただけで、其処だけに絡んで来るN爺のやうな人が多過ぎる。
塗炭さん、
> 最う直近のN爺様のコメントは拝読してをりません。N爺様におかれましては次の
> 指摘に就いて有効な反論をして下さいますやうお願ひ申し上げます。
えーっ、まだやるんですかぁ、塗炭さん。といふか、読んでくれない人に返事を
書くのも虚しい気がする。あ、いや、「読んでない」は実は爺の質問に答へない
ための逃げ口上、といふ事ですかね。(怒ってなくても支離滅裂な塗炭さん。)
> そもそも人間の本質に関はる問題を科学的合理的に割り切れる筈がありません。
> これを無神論はやらうとした――科学の優越を示そうとしたから破綻したのです。
これに反論を、との事ですが、爺には塗炭さんがそもそも何を仰りたいのかよく
解らないのですが……
1) 「人間の本質」って何ですか。騎士道精神を発揮するなら、「それが無かっ
たら人間でなくなるもの」でせうか。認知能力、言語能力、隣人愛、道徳?
で、それに関はる問題とは、「私はなぜいまここに居るのか」「いかに生くべ
きか」「善とは何か」等々でせうか。
2) (たとへ何であるにせよ)「それに関はる問題を科学的合理的に割り切れる
筈がない」等といふのは、また極端な割り切りですな。少くとも、聖書に書い
てある事、経典に書いてる事よりは、科学的世界観の方が問題解決能力に於い
て優れてゐる問題・分野が数多くある。
3) で、それをやった、もしくはやらうとしてゐる、のは科学者、合理主義者で
あって、残念ながら、必ずしも無神論者ではありません。
4) 何に対して科学の優越を示そうとしたと仰ってゐるのか解りませんが(「宗
教的世界観」?)科学の相対的・総体的な優越は明白で、なので、まだその試
み(人間の本質にかかはる問題を科学的合理的に解かうとする)は「破綻」す
るどころか、ますますその守備範囲を広げ、宗教的世界観を追い込んでゐる。
で、「有効な反論」になってゐるでせうか。
ちなみに「反証」なら「科学は破綻してゐません」で済むかと思ひます。
爺> ちなみに、塗炭さんが認める「真当な左翼」って例へばどのようなお方なの
爺> でせうか。
> 私は右翼である。しかし佛教が教へる「全ての人間は不完全である」を正しいと
> 信じてゐる(信仰といふ意味では絶対であると信じてゐる)ので、私がする右翼
> の主張の脆弱さも認めてゐる。それを矯正して呉れるのは現世では――といふか
> 直接には左翼の人だ。
成程、塗炭さんは左翼の人に主張を矯正してもらってゐるんですか。で、それを
有り難いと思ってゐる。何とも公平無私な態度で、いや、全く恐れ入ります。実
際、世の右翼の方々が皆塗炭さんみたいだったら、世の中どんなに平和な事でせう。
> しかしN爺のやうな自称無神論者は、お前の主張の「論理」はをかしい、と言ひ続
> けるだけで自分では何ら有効な主張をしない。だから腐つた左翼と言つてゐる。
何言ってるんですか、塗炭さん。「論理がをかしい」は一番手近で有効な「矯正」
でせうに。普通の理解力を持つ人なら誰にでも納得できる筈の論拠ですよ。それ
を指摘しつづける爺は、従って、塗炭さんの「矯正」に最も貢献している一番
「まっとうな」左翼だと思ひます。(爺は「左翼」と言はれても嬉しくないです
が。)
> 自称無神論者は70年代にもゐて(当時は通称ノンポリ)、私は学生時代に何回か
> 彼らと「議論」した。今N爺と「議論」するのはデジャブみたいな物だ。正直うん
> ざりしてゐる。うんざりしてゐるが、現代の日本に於いてかつては左翼と称され
> てゐた考へ方が「常識」とされてゐる事には我慢ならない。宗教者の端くれとし
> ては抵抗の姿勢を示して措く。
「無神論者」をノンポリと言ふからには、それを左翼学生と区別できてる筈……
しかし、左翼的思想が蔓延してゐる、と爺に文句を言ふのは、爺を左翼と見てゐ
る訣だ。しかしそれを(右翼としてではなく)「宗教者」の端くれとして言
ふ……さっぱりワケワカですが。敢へて辻褄を合はせようとするなら、昔はとも
かく今は「無神論者 = 左翼」と思ってゐる、といふ事になりますかね。
でも、同じ無神論者でも、野嵜さんは右翼的、爺は(ちょっとですが)左翼的で
すよ。
うーむ、やっぱり爺ごときには、塗炭さんの「矯正」は無理、といふ事のやうで
す。
野嵜さん、
> 無神論者のNG氏には、同じ無神論者のスピノザが宗教を認めてゐる事について、
> 考察する事を御薦めしますね。
それはありがたうございます。同じく無神論者の野嵜さんもこれを読まれて「合
点」が行ったのでせうか。
塗炭さんは、御自分とは宗旨が違ふガンジーさんを持ち出して、御自分の代りに
批判しろ等と仰るので、爺は何だかなぁ、と思ったのですが、さすがに野嵜さん
は、そんな頓馬はやらないやうだ。でも、別の意味で外してますね。
> スピノザは、「論理的な領域」と「論理を超えた領域」を峻別して、「論理的な
> 領域」を扱ふ科學と、「論理を超えた領域」を扱ふ宗教とを峻別し、兩方の價値
> を認めてゐます。これ、非論理的な態度ですか。
> 野嵜を批判する前に、NG氏にはスピノザを批判して貰ひたいですね。
その言ひ分は全く論理的だと思ふし、また「自身は無神論だが他人の信仰は否定
しない(信教の自由)」といふ点に於いては意見は一致してゐるやうなので、そ
れについてはスピノザさんも野嵜さんも批判する理由が有りません。
しかし、ひょっとして、スピノザさんも野嵜さんみたいに、
> キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると
> 「存在しない事が證明出來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する
> 事になるのであります。
なんて事を仰ったのでせうか。それなら、前後を良く読んでから「本当ですかス
ピノザさん」と始めなければ……
>いや、爺は所詮「人」ですから、どうやっても「場所」にはなれないと思ひます。
屁理屈は相變らず上手ですね。
まあ、NGさんは、話を逸らして、NGさんが野嵜に粘着しなければならない動機を説明しない事を胡麻かしてゐるだけですね。
NGさんは肝心な事には何時も答へません。答へられない事だからNGさんは胡麻かすんですよね。
NGさんは、私の指摘に答へられないんですよね。
>爺は野嵜さん御一行様より自分が「偉い」かどうか等と考へた事はありませんでしたが、これを読むと、さすがにちょっと考へ直した方が良いかな、と思ひ始めました。といふか、そこまで落ちては情無いなあ、と。
さうですよ。本當に私は情けないですよ。爺さんは「そこまで落ちて」しまつてゐるんですよ。
NGさんは、何の理由も、何の動機もないのに、野嵜に粘着してゐると、認めてしまつたわけですから。
>しかし、ひょっとして、スピノザさんも野嵜さんみたいに、
>
>> キリスト教の神樣は「存在が證明出來ない」と定義されてをりまして、となると「存在しない事が證明出來る」事は神を否定する事ではなく、逆に神を肯定する事になるのであります。
>
>なんて事を仰ったのでせうか。
NGさんつて、適當に話を繋げるのが好きですね。そんな事、誰も言つてゐないでせう。誰が「その話は繋がつてゐる」と言つてゐるのですか。
NGさんは、勝手にをかしな話をでつち上げては「をかしい」「をかしい」と言ふんです。これ、何時ものパターンです。をかしいのはNGさんの頭です。
NGさんは「自分の頭はをかしくない」と主張するでせう。けれども、NGさんの發言と云ふ具體的な事實が、NGさんの頭はをかしい事を示してゐるのです。
そして、頭がをかしいから、NGさんは自分が惡いのでないかと自分を疑ひ、反省する事が出來ないのです。
NGさんは、「あはは」と笑つて胡麻かすか、その指摘は論理的でないとか、尤もらしい理由を言つて、私の事を惡く言ふでせう。けれども、さうやつて責任轉嫁し續けてゐる事實が、NGさんが自分自身を客觀的に見られない事を示してゐるのです。
>爺には塗炭さんがそもそも何を仰りたいのかよく解らないのですが……
それ、NGさん自身が惡いのではないでせうか。何でも他人の所爲にするのは良くないですよ。何でNGさんは、自分の考へ方がをかしいのでないか、と、疑ふ事が出來ないのでせうか。
>といふか、読んでくれない人に返事を書くのも虚しい気がする。
理解して呉れない人に返事を書くのも虚しい、そもそも他人を理解する努力をしない人の身勝手な解釋と下らない揚げ足取りを讀むのも虚しい、と塗炭さんが思ふのも、當然ではないでせうか。
「理解出來ません」とNGさんが塗炭さんに言ふ資格、ないですよ。だつて、NGさんが私に粘着する理由が私には解らないのですから。
NGさんのやつてゐる事は、他人に理解し難い事である。そんなNGさんが、他人に「何を仰りたいのかよく解らない」なんて言ふ資格、ないですよ。
NGさんは、「人は一般に、他人に自分の言動を理解させるべきである」と主張してゐるのでせう。そんなNGさんが、他人に自分の言動を理解させてゐないのです。
矛盾ですよ。
NGさんは、他人に「理解できない」と言ふのなら、先づ自分が他人に、自分の行動の動機を説明して、納得させるべきです。
早くNGさんは、野嵜に粘着し、佐藤さんに粘着してゐる動機を、そして、NGさんが粘着しなければならない必然的な理由を、説明し、吾々を納得させて下さい。
「あはは」「えーっ」で胡麻かし、逃げるのは、無しですよ。その他の全てのNGさんの逃避行動は、NGさんが「答へられない」事の暗默の承認と看做し、NGさんの言動が異常なものである事を認めたものと看做します。
♪讀んではもらへぬコメントを涙こらへて書いてます~
330さんがいふとほり、爺氏といふ人はいろんな意味で呆れるばかりだし、諦めざるをえない。
某予算委員会 質疑
N爺ノンポリ議員> ねえねえ「人間の本質」つて何? それ美味しいの?
塗炭国務副大臣> 先生が御尋ねの件に就きましては既にこのブログで答弁した通りで御座いますが、三歩歩くと忘れる先生の為に今一度申し上げますと、私ども人間の本性は何であるかと云つた根本的な部分を指してをります。一つの例として性善説を挙げましたやうに人間を人間たらしめるもので御座ひます。なかなか一筋縄では説明の附かない部分では御座ひますが、この数千年、多くの先人によつて説明が試みられて参りました。私ども政府と致しましてはそれら前例に従ひ、つまりは歴史的経緯を尊重して参る所存で御座ひます。尚、先生の卓抜した識見も真摯に受け留め、今後の国政に反映させて参ります。以上です。(御役人作成の答弁書棒読み)
野嵜さん、
爺> いや、爺は所詮「人」ですから、どうやっても「場所」にはなれないと思ひます。
> 屁理屈は相變らず上手ですね。
ありがとうございます。(理屈はもとより屁理屈も下手糞な野嵜さんに褒められ
てもあまり嬉しくありませんが。)
でも、そんな遁辞より、この「とんでも」が「実はどういふつもりだったか」を
説明して頂けると有難い。(今だに解らない。)
> まあ、NGさんは、話を逸らして、NGさんが野嵜に粘着しなければならない動機を
> 説明しない事を胡麻かしてゐるだけですね。NGさんは肝心な事には何時も答へま
> せん。答へられない事だからNGさんは胡麻かすんですよね。
> NGさんは、私の指摘に答へられないんですよね。
「胡麻化すんですよね」と言って「胡麻化す」のは、なかなか良い手口ですね。
爺も少しは混乱しますから。(って、前にも言ったやうな。)
答えろ答えろと仰ってゐるのは、N爺が野嵜さんに「粘着」する動機ですか?答
へられません、自分に「粘着」してゐるつもりが無いので。(まっとうな
批判・議論をしてゐるつもり。)
正直なところ、野嵜さんの「爺の動機」に関する憶測は(読んではいますが)あ
まりよく理解できてゐません。なにしろ量が膨大だし、大半が間違った憶測と言
ひがかりですしね。それを問ひ質すだけの時間的余裕がない。第一、主題から離
れ過ぎでせう。その例、
((仮想「論争」はじまり))
野嵜>> 何うも斯うも無いでせう。「人が信じる」事について何を言へるのですか。
野嵜>> 「俺も信じる」「俺は信じない」それ以外に何か言へるのですか。
爺> えー、さうなんですか、野嵜さん。それが云へないなら、神学や神学論争や
爺> 宗門論争は全て意味がなくなる。
> NGさんつて本當に日本語が御不自由なんですね。
胡麻化さうとしていますか、野嵜さん。神学論争は「「人が信じる」事について
「俺は信じる」以外に何か言」っては居ない、と?胡麻化しでない、といふなら、
どう爺が誤解してゐるのか野嵜さんの「正しい」日本語で訂正すべきです。
野嵜>> NGさんの「通俗的無神論」の誤は、その「何も言へる筈もない」事に一々
野嵜>> 口出ししようとする御節介精神にあります。
爺> そんな無茶な。公共の場所で宣言していて、それを論はれたら業腹ですっ
爺> て?そんなに辛いのなら、初めから何も云はなければ良いではないですか?
> 「業腹」つて何處から出て來た言葉ですか。根據を御示し下さい。
ありきたりの形容詞を使ふ根拠ですって?話を逸らしたいやうですね。
> NGさんは、人には根據だの論理だのを要求する割に、斯う云ふところでは感情
> 的な極附けを平氣でやりますね。
感情的な決め付け?「お節介だ」に「公開された論旨を論うのはお節介ではない」
と言ってゐるのですが。で、結局「論われるのが嫌」なんですか?
> なほ、NGさんは、斯う云ふ指摘には絶對反論しません。だから此処は、NGさん
> の負けです。呵々。
あはは、野嵜さん、残念でしたね、爺が反論する事もありました。だから此処は
NG の勝ちですね……
といふのは冗談にしても、「人が信じる」事について「俺も信じる」「俺は信じ
ない」以外に何か言へる、といふのは否定できなかったやうですね。
((仮想「論争」終り))
ってやるのはアホらしいでせう、野嵜さん。いい加減によしませうよ、こんな無
意味な「押し問答」は。
勝ち負けに拘らず、相手の意図の憶測に耽らず、主題に集中しませう。(さうで
きなければ野嵜さんは単なる「ダブハン粘着野郎」です。)
塗炭さん、
よくわからない議論に敢へて反論しろ、といふので、語義を忖度しつつ議論した
ら、この「おちゃらかし」ですか。つくづく付き合ひ甲斐の無い人ですね。
でも、まあ、とりあへず爺の反論は「有効」であった、と解釈しておいて良ささ
うですね。(「一本」だったのかも。)
>ありがとうございます。(理屈はもとより屁理屈も下手糞な野嵜さんに褒められてもあまり嬉しくありませんが。)
相變らず慇懃無礼ですね。
>でも、そんな遁辞より、この「とんでも」が「実はどういふつもりだったか」を説明して頂けると有難い。(今だに解らない。)
「場所」と云ふ言葉にNG氏は縋り附いてゐるけれども、「公共」と云ふ事は必死になつて無視しようとしてゐるらしい。
>> まあ、NGさんは、話を逸らして、NGさんが野嵜に粘着しなければならない動機を説明しない事を胡麻かしてゐるだけですね。NGさんは肝心な事には何時も答へません。答へられない事だからNGさんは胡麻かすんですよね。
>
>> NGさんは、私の指摘に答へられないんですよね。
>
>「胡麻化すんですよね」と言って「胡麻化す」のは、なかなか良い手口ですね。
>爺も少しは混乱しますから。(って、前にも言ったやうな。)
>
>答えろ答えろと仰ってゐるのは、N爺が野嵜さんに「粘着」する動機ですか?答へられません、自分に「粘着」してゐるつもりが無いので。(まっとうな批判・議論をしてゐるつもり。)
「まっとうな批判・議論をしてゐるつもり」ださうだけれども、なぜそれを、何時までも何時までも長々と、えんえんやり續けてゐるのか、それが私には全く解らない。
なぜ「とんでも」とか言つて馬鹿にしてゐる私なんかを、NGさんは、何時までも相手に「したい」のか。
>正直なところ、野嵜さんの「爺の動機」に関する憶測は(読んではいますが)あまりよく理解できてゐません。なにしろ量が膨大だし、大半が間違った憶測と言
ひがかりですしね。それを問ひ質すだけの時間的余裕がない。第一、主題から離れ過ぎでせう。その例、
は?
量が厖大であるから理解出來ない。「三行で言へ」ですか。笑はせますね。
「大半が間違った憶測と言ひがかり」? 「それを問ひ質すだけの時間的余裕がない」? 逃げですね。否、何時も何時も長々と人の發言を引用しては一つ一つの文言にいちやもんを附けるわりに、「時間的余裕がない」。
逃げ口上を言ふなら、もつと説得力のある事を言ひなさいよ。
私のNG氏批判は、「憶測」だの「言ひがかり」だのではないですよ。ちやんとNG氏の發言を説明してゐるでせう。もしそれらが「憶測」で「言ひがかり」でしかないと言ふのなら、ちやんとNG氏の動機をを説明したらいいでせう。
「まっとうな批判・議論をしてゐるつもり」なんてのは、「とんでも」(とNG氏が思つてゐるところ)の野嵜をNG氏が何時までも相手にし續ける事の動機の説明にはならないですよ。
>((仮想「論争」はじまり))
この揶揄を、NGさんが「しなければならない」と思つてゐる、その根據が全く解らない。
>野嵜>> 何うも斯うも無いでせう。「人が信じる」事について何を言へるのですか。
>野嵜>> 「俺も信じる」「俺は信じない」それ以外に何か言へるのですか。
>
>爺> えー、さうなんですか、野嵜さん。それが云へないなら、神学や神学論争や宗門論争は全て意味がなくなる。
>
>> NGさんつて本當に日本語が御不自由なんですね。
>
>胡麻化さうとしていますか、野嵜さん。神学論争は「「人が信じる」事について「俺は信じる」以外に何か言」っては居ない、と?胡麻化しでない、といふなら、
どう爺が誤解してゐるのか野嵜さんの「正しい」日本語で訂正すべきです。
胡麻かしでも何でもなく、NGさんは日本語が不自由なのだと云ふ事實を指摘してゐるのですよ。それ以外に何か解釋があり得ると言ふのなら、NG氏は具體的に説明すれば良いでせう。NG氏は、いちやもんを一方的につけるだけで、自分の説を全然開陳しない。
と言ふか、NGさんの考へる神學論爭(論爭、論爭、論爭。わらひ)とやらは、どのやうなものなんですか。「信ずる」とは何であるか、と云ふ論爭ですか。
しかも今の場合、何う考へても神學論爭關係ないし。NG氏は、適當に尤もらしい言葉を引張り出して來て、人に突きつけて、參つたか、とやつてゐるだけですよ。
もし今の話と關係があると言ふのなら、NGさん、ちやんと私が解るやうに、説明して下さい。
「それが云へないなら、神学や神学論争や宗門論争は全て意味がなくなる。」つて、何うして意味が無くなるのですか。
信ずる信じないと云ふ事について、神學論爭も宗門論爭も無いでせう。神學論爭も宗門論爭も、理論の論爭で、信ずると云ふ人間の行爲の論爭ではあり得ませんよ。
NGさん、「私は信ずる」と云ふ事、この事について、神學論爭だか宗門論爭だかで言爭つたと言ふのなら、何時何處で誰がどのやうに言爭つたのか、具體的に説明して下さい。實例を指摘して下さい。何か、具體的な事件なり何なりを想定して、NGさんは述べてをられるのでせう。具體的に説明して下さい。
佐藤さん、
> ♪讀んではもらへぬコメントを涙こらへて書いてます~
いや、(佐藤さん以外は)皆さん読んでくれてゐるみたいで、嬉しい限り。
> 330さんがいふとほり、爺氏といふ人はいろんな意味で呆れるばかりだし、諦
> めざるをえない。
またまた、佐藤さんは読まずに批判する。それは正しい態度ではないと思ひます。
って、本当は読んでるだらうと思ってゐますが、で、大元の「論理の話」は佐藤
さんの中では今どうなってゐるのでせうか。ご本尊が何も仰らないので、話題が
拡散して困ります。粘着野郎共も跋扈するし。
野嵜さん、
野嵜さんの「わけわか」には慣れてきたつもりですが、
> なぜ「とんでも」とか言つて馬鹿にしてゐる私なんかを、NGさんは、何時まで
> も相手に「したい」のか。
はひどいですねぇ。爺的には、野嵜さんに絡まれてゐると思ってゐたのですが。
現に「何時も答へません」とか「答へららない事だから胡麻化すんだらう」とか。
これは「爺は答へるな」と読むのが正しいのですか?
野嵜さんの仰る事は「屁理屈」以前の頓珍漢だと思ひます。
>野嵜>> NGさんの「通俗的無神論」の誤は、その「何も言へる筈もない」事に一々口出ししようとする御節介精神にあります。
>
>爺> そんな無茶な。公共の場所で宣言していて、それを論はれたら業腹ですって?そんなに辛いのなら、初めから何も云はなければ良いではないですか?
>
>> 「業腹」つて何處から出て來た言葉ですか。根據を御示し下さい。
>
>ありきたりの形容詞を使ふ根拠ですって?話を逸らしたいやうですね。
私のどの言動を指して、NGさんが「業腹」と形容したのか、その私の言動を具體的に指摘して下さい、と要求したのですよ。
NGさんは、意識的に胡麻かしてゐるか、或は、大學入試の國語の問題を解けなかつた程、日本語の讀解能力がないか、どちらかでせうね。
>> NGさんは、人には根據だの論理だのを要求する割に、斯う云ふところでは感情的な極附けを平氣でやりますね。
>
>感情的な決め付け?「お節介だ」に「公開された論旨を論うのはお節介ではない」と言ってゐるのですが。で、結局「論われるのが嫌」なんですか?
「なんですか?」と質問の形で確認を取らうとするのが、NG氏の何時ものパターンですね。
NG氏のこのやり方こそが、「憶測」であり「言ひがかり」であるのですが、NG氏は解りませんか。
>> なほ、NGさんは、斯う云ふ指摘には絶對反論しません。だから此処は、NGさんの負けです。呵々。
>
>あはは、野嵜さん、残念でしたね、爺が反論する事もありました。だから此処はNG の勝ちですね……
いいえ、負けです。NG氏のは、反論が反論になつてゐないのだから。
>といふのは冗談にしても、「人が信じる」事について「俺も信じる」「俺は信じない」以外に何か言へる、といふのは否定できなかったやうですね。
は?
NG氏こそ「何か言へる」と云ふその「言へる何か」とは何かを、言へないではないですか。
>((仮想「論争」終り))
>
>ってやるのはアホらしいでせう、野嵜さん。いい加減によしませうよ、こんな無意味な「押し問答」は。
NG氏は、自分が批判の對象になつた途端、「押し問答」はやめよう、と言ふんですね。
>勝ち負けに拘らず、相手の意図の憶測に耽らず、主題に集中しませう。(さうできなければ野嵜さんは単なる「ダブハン粘着野郎」です。)
野嵜さん野嵜さん言つて人を呼出さうとし、主題を無視し續けてゐたのは誰ですかね。
>爺的には、野嵜さんに絡まれてゐると思ってゐたのですが。
佐藤さん的にはNGさんに絡まれてゐると思つてをられるでせうし、私もNGさんに絡まれてゐると思つてゐますよ。
實際、一々佐藤さんが記事を書かれる度に、NGさんは毎度毎度出張つて來て、上から目線で御説教でせう。
なぜNGさんは、其處までして、佐藤さんに「理解させよう」と一生懸命なのですか。或は、何うして「野嵜さんに絡まれた」と思つて、主題を無視してまで一生懸命野嵜さん野嵜さんと言つたのですか。
爺さんの一聯の言動を見れば、爺さんが「主題」に興味を持つてをらず、「佐藤さんを教導する事」と「野嵜さんを何うにかする事」にのみ興味を抱いてゐるのは、明かなんですよ。
佐藤さんを教へようとする動機と、野嵜さんを呼出さなければならないと考へた理由を、NGさんは説明すべきですね。
と言ふか。
>しかし、もしこれがかつて「爺は意見を変えるつもりが無いのに……」との批判の敷衍であれば、それは「論理の飛躍」でせう。「爺に有効な反論ができない」から、いきなり「爺は意見を変ヘるつもりが初めめからない(だから議論の意味がない)」とするのでは、やはり「無理筋」としか言ひやうがない。
これ、何う見ても、NGさんの「自意識過剰」です。
NGさんの名前が一言も出てゐない佐藤さんの記事に、「爺への批判ですね、さうですよね、なら動機がをかしいですよ」とNGさんは「憶測」で「言ひがかり」を附けてゐるんです。
をかしいですよNGさん。NGさん、主題そつちのけで、佐藤さんの動機の穿鑿をやつてゐる。
そこで、ぢやあNGさん、あなたの動機は何ですか、とやられたら、NGさん、「押し問答」になるからやめませう、と言ふのです。うわあ、としか言ひやうがない。
「押し問答」が嫌だから、NGさんには、「野嵜 | 2010年11月20日 01:08 |」のコメントだけ讀んで貰へばいいし、それに應じて呉れればいいや。
なんで佐藤さんの記事の動機に、NGさんは著目したの。何うして主題にだけ集中しなかつたの。
そして、NGさんの動機に私なんかが著目したら、どうしてNGさんは「押し問答」はやめませう、と言つたの。
>この「命題」を偽である、と証明するには、間違ったことをいふ人間の中には、発言する資格が有る人もゐる、と言はねばなりません。佐藤さんはそれを証明できてゐない。(勿論、資格の有る無しは、この場合主観的ですから、なかなか「証明」は難しいでせうが。)
同じところを再び引用したけれど、N爺にはそれを証明出来るのかい? あんた自分で証明出来ないからこそ「この場合主観的ですから、なかなか「証明」は難しいでせうが」と書いたんぢやないのか。おそらく証明出来ないと踏んで佐藤さんに証明しろと要求してゐる。これは相手を困らせる為にやる嫌がらせだ。あんたはさうぢやないと言ふだらうよ。佐藤さんが書いた事だから佐藤さんが証明すべきてな言ひ逃れをするだらう。いいか、論理の間違ひなら自分で証明して見せれば一回で済む。頭脳明晰な筈のN爺は何故さうしないのだ?
あんたは佐藤さんが書いた「間違つたことを言はない人間なんてゐるわけがない。ゐるとすればそれは“神樣”である」が気に入らないのだ。だからもつともらしい能書きを附けて「証明できてゐない」と書き込んで来た。佐藤さんの記事を根底から引つ繰り返すのは簡単だ。「間違つたことを言はない人間」はゐる、と論証すればお終い。それをやれ。さうすれば佐藤さんは納得するだらう。私は納得しないよ。あんたと言ふ人間を信用してゐない。
>でも、まあ、とりあへず爺の反論は「有効」であった、と解釈しておいて良ささうですね。(「一本」だったのかも。)
論理論理と煩いN爺がなんで自分で証明しないのか解らない。論理マンセーのN爺にとつて論理的に証明する事だけが相手を説伏させる唯一の方法ではないのか。論証はどうした、さつさとやれ。助け船を出して措く。次の文章を引つ繰り返す為には「本質」をすつ飛ばしても良いから、人間の思考行動など一切は科学的合理的に割り切れると証明すれば終り。一回で済む。
>そもそも人間の本質に関はる問題を科学的合理的に割り切れる筈がありません。これを無神論はやらうとした――科学の優越を示そうとしたから破綻したのです。
コメント合はせて300KBぐらいになつてゐるけれど、MT大丈夫なんだらうか。あとN爺の無駄に長い投稿が読み辛い。こいつの言つてゐる事は圧縮すれば「一行」になる。「あなたの要求は私には理解不能です、しかし私の要求はあなたは理解しなければなりません」。もつと短くなるな。「N爺は馬鹿で性悪です」。
>あとN爺の無駄に長い投稿が読み辛い。
讀み辛いと言へばNG氏、ウェブをメールか何かと勘違ひして行の途中に強制改行入れたり、「爺」とか行頭に入れたりしてゐる。當人だけが「讀み易い」と思つてゐる自己流の引用の表記で、凄く讀み辛いし、凄く再引用し辛い。
やめて欲しいし、前にもやめて呉れと頼んだのだけれども、NG氏、聞く耳持たない。
世界が自分を中心にまはつてゐると思つてゐる人だから、NG氏、自己流をやめないのだらう。
「人間は死すべき筈のものである」と云ふのが吾々人間の常識なんですが、これ、經驗に基く判斷で、一種の假説に過ぎません。キリスト教は「『イエス・キリストは死から復活した』と云ふ事を事實だと信ずるなら、人間の價値觀は全部ひつくり返るよ」と言つてゐて、先づそこで人の信仰を試みるんですが、そこから先は理詰め・理詰めで説得を試みてゐます。
アウグスティヌスの短い著作を讀んでも、全部、理詰めで話が進行してゐて、えらく理性的です。
NG氏は、具體的に、キリスト教徒のえらい人の著作に當つた事がなく、通俗書かWikipedia邊の記述に基いて、「キリスト教とは何う云ふものである」と云ふ「定義」を頭から覺え込んでしまつてゐるのだと思ひます。
佛教も宗教と云ふ事でNG氏は「攻撃目標だ」と安易に獨り決めしてゐるものと思はれます。實際のところ佛教は一種の唯物論で、親鸞は死んだら死體は鴨川に流して呉れれば良いとか言つてゐます。道元の禅だと、一方で不立文字を言ひますが、他方で道元が大量の文章を遺してゐて、それらがまた一種の論理となつてゐます。
NG氏は、具體的な文獻にこれまで一度も言及する事がありません。「○○だと××になつてゐる筈です」と云ふ圖式的な説明を繰返す許り。
あとはただ、コメント欄に書込まれた「宗教側の人間」の發言の揚げ足をとり續けるだけです。それでNG氏は「宗教批判」をした積りになつてゐるのです。NG氏は(330氏もですが)、ウェブの外部の情報を參照する事なく、ただ目の前の情報だけで「納得したい」のです。これ、議論をする態度ではありません。
アウグスティヌス『眞の宗教に就て』をぱらぱら捲つてゐるところなんですが、アウグスティヌスは斯う書いてゐるんですね。
>實際先ず第一に、私の心をよく知つている君が次の事を銘記してくれるよう私は望む。私は自分の僭越さを遁れるために殊更に嚴しく次の事を云うのではないが、この書の内に何らかの誤謬が見出されるならそれは唯々私にのみ歸せらるべきものであり、然し又眞實にして適切に表示された所のものがあるなら、それは全ての善き賜物の授與者なる唯一の神に歸せらるべきものである。
(大谷長譯、第九章)
キリスト教徒は、これが言へるから、傲慢の罪の陷らないで濟むんです。連中、實に巧みな仕組を考へたものだと思ひます。
塗炭さん、
爺の「反論」を読んで頂けましたか?
---- 反論再掲 ----
> そもそも人間の本質に関はる問題を科学的合理的に割り切れる筈がありません。
> これを無神論はやらうとした――科学の優越を示そうとしたから破綻したのです。
これに反論を、との事ですが、爺には塗炭さんがそもそも何を仰りたいのかよく
解らないのですが……
1) 「人間の本質」って何ですか。騎士道精神を発揮するなら、「それが無かっ
たら人間でなくなるもの」でせうか。認知能力、言語能力、隣人愛、道徳?
で、それに関はる問題とは、「私はなぜいまここに居るのか」「いかに生くべ
きか」「善とは何か」等々でせうか。
2) (たとへ何であるにせよ)「それに関はる問題を科学的合理的に割り切れる
筈がない」等といふのは、また極端な割り切りですな。少くとも、聖書に書い
てある事、経典に書いてる事よりは、科学的世界観の方が問題解決能力に於い
て優れてゐる問題・分野が数多くある。
3) で、それをやった、もしくはやらうとしてゐる、のは科学者、合理主義者で
あって、残念ながら、必ずしも無神論者ではありません。
4) 何に対して科学の優越を示そうとしたと仰ってゐるのか解りませんが(「宗
教的世界観」?)科学の相対的・総体的な優越は明白で、なので、まだその試
み(人間の本質にかかはる問題を科学的合理的に解かうとする)は「破綻」す
るどころか、ますますその守備範囲を広げ、宗教的世界観を追い込んでゐる。
で、「有効な反論」になってゐるでせうか。
ちなみに「反証」なら「科学は破綻してゐません」で済むかと思ひます。
---- 反論再掲 終り ----
逐条で反論しました。逐条で再反論して頂ければ幸甚です。
野嵜さん、
成程、それが仰りたかったのですか。(といふか、これが野嵜さんご自信の投稿
かどうか自信が有りませんが。なにせ自分で「野嵜さん」と言ふあたりが、どう
も怪しい。いかに非常識な野嵜さんとは言へ、かつてはこんな事はありませんで
したから。)しかし、それにしても、憶測と決め付けの見事なダブル・プレイで
すな。(やっぱり野嵜節と見るべきか。)
> 爺さんの一聯の言動を見れば、爺さんが「主題」に興味を持つてをらず*1)、「佐
> 藤さんを教導する事」*2) と「野嵜さんを何うにかする事」にのみ興味を抱いて
> ゐる *3) のは、明かなんですよ。
*1) 当初の主題は「論理」だと思ひますが、それについては、論理学童、いや失
礼、論理学徒さんの素朴すぎる疑問にも丁寧に答へてゐますので、興味を持って
ない、等は根拠の無い「いいがかり」ですね。ところで、野嵜さんは興味が無い
やうですが、どうしたのですか?かつては「論理にはちょっとウルさい野嵜」で
鳴らしてゐたやうに思ひますが。
*2) 「教導する」って、爺は自衛隊用語でしか見た事ないのですが、さすがです
ね。ともあれ、それが普通の「教へ導く」事ならば、当ってなくもないですね。
後の「のみ」が少々引っ掛りますが。ともあれ、他に動機はありません。
*3) 「野嵜さんを何うにかする事」ですか。「明かだ」といふ割には「何うしよ
うとしてゐる」といふのか解りかねますが、ともあれ、爺は「野嵜さんを何うに
かする事」に興味は(動機も)ありませんのでご安心下さい。(しかし、正直こ
れには笑ひました。)
> 佐藤さんを教へようとする動機 *4)と、野嵜さんを呼出さなければならないと考へた
> 理由を *4)、NGさんは説明すべきですね。
オープンなブログに投稿するのに、何故野嵜さんに動機を説明しなければならな
いのかよく解りませんが、それはまあ措くとして
*4) 佐藤さんは御自身の意見を世に問はうとしてゐるので、それに応へてゐるので
す。
*5) 野嵜さんを呼び出さなければならない、と考へた事はないので、その理由も
説明できません。2ch 的粘着野郎どもが跳梁跋扈していた時は、それがついつい
野嵜さんかな、と思ってしまひましたが、もし間違ってゐたら謝ります。御免な
さい。で、むしろできる事ならば、野嵜さんには出てきて欲しくなかった。今か
らでも引っ込んで頂ければ嬉しいと思ひます。(むしろ、爺のブログで「囀り批
判」に再反論して欲しい。)
NGさん。なんで私の投稿をちやんと讀まないのですか。もちろん、NGさんは、自分の投稿を他人が讀まないのには文句を言ひますが、自分は他人の投稿を讀まないのは當り前だと思つてゐるのです。
>野嵜さん、
>
>成程、それが仰りたかったのですか。
「それ」つて何ですか。曖昧な言ひ方をして、何かを暗示するのは、やめて下さい。何時ものNGさんのパターンです。
>(といふか、これが野嵜さんご自信の投稿かどうか自信が有りませんが。なにせ自分で「野嵜さん」と言ふあたりが、どうも怪しい。いかに非常識な野嵜さんとは言へ、かつてはこんな事はありませんでしたから。)
NGさんへの嫌みですよ。そんな事も解らないのですか。NGさんの人間としての感性を疑ひますね。
>しかし、それにしても、憶測と決め付けの見事なダブル・プレイですな。(やっぱり野嵜節と見るべきか。)
いやー何時も通りのNGさん得意の憶測と極附けですね。全て根據があるのに、「爺が無視すれば、根據なんてものはなくなり、全て憶測と極附けと言へるのですよ」ですか。
わらひ。
> 爺さんの一聯の言動を見れば、爺さんが「主題」に興味を持つてをらず*1)、「佐藤さんを教導する事」*2) と「野嵜さんを何うにかする事」にのみ興味を抱いてゐる *3) のは、明かなんですよ。
>
>*1) 当初の主題は「論理」だと思ひますが、
またへんてこな事をやり始めましたね。「*1)」ですか。
學術書だか何だかの猿眞似ですね。いやーすばらしい。
>それについては、論理学童、いや失礼、論理学徒さんの素朴すぎる疑問にも丁寧に答へてゐますので、興味を持ってない、等は根拠の無い「いいがかり」ですね。
「論理学徒さんの疑問にも」答へた、ですか。「にも」。「も」と言つたら、ダメでせう。
「論理の話のみ」をNGさんがしてゐたら、NGさんに責任はありませんよ。でも、NGさんは、佐藤さんの動機を勘繰る發言をしましたよね。
なぜしたのですか。
>ところで、野嵜さんは興味が無いやうですが、どうしたのですか?
ほほう。それは何を根據に言つてゐるのですか。私は論理「にも」言及してゐますよ。呵々。
>かつては「論理にはちょっとウルさい野嵜」で鳴らしてゐたやうに思ひますが。
もちろん、最初にNGさんが「論理以外の事にも」興味を示したのが惡いのですよ。
「論理の事が主題」と言ふNGさんが、一番最初のコメントで「論理以外の事にも」言及した、それも相當人の感情を逆撫でする言ひ方で、目立つやうに言つた、これ、論理的にをかしいでせう。そのNGさんの論理の可笑しさを、私は言つてゐるのですよ。
NGさんは、逃げ口上を繰返して、NGさんの誤を認めまいとし續けてゐますが――しかし、NGさんが自分の誤・自分の矛盾を認めない限り、私はNGさんの論理のをかしさを言ひ續けますよ。何しろここはNGさんの言はれる通り「オープンなブログ」のコメント欄であるわけですから。NGさんが「粘着でない」と定義されるところの行爲を、私がやつたところで、やつぱり「粘着でない」事になりますよね。
何れにしても、NGさんは、
・NGさんが最初に佐藤さんの動機に興味を示したのは何の問題もない行爲である
と主張し、また
・NGさんが佐藤さんの動機に興味を示した事と、NGさんが主題である論理の話以外の事について話をするのはをかしいと主張した事とは、矛盾しない
と考へてゐるのですね。
>*2) 「教導する」って、爺は自衛隊用語でしか見た事ないのですが、さすがですね。
私はガンダム關係で見ましたが。
>ともあれ、それが普通の「教へ導く」事ならば、当ってなくもないですね。後の「のみ」が少々引っ掛りますが。ともあれ、他に動機はありません。
なぜ教導「しなければならない」とNGさんは思つてゐるのですか。その義務感を説明しないと、NGさんの動機の説明にはなりませんよ。
「教導する事」と云ふ言ひ方は、單なる行爲を言ふのであつて、客觀的な表現です。それは心理の説明ではありません。
NGさんが言つてゐるのは「教導したい」と云ふ希望・願望・欲望です。そして、「したい」と云ふのは心理です。この時、「なぜさうしたいのか」と云ふ疑問が當然私には(他の人にも)生じます、NGさんは、御自身の心理について、突込んだ説明をする事が必要ですね。少くとも、さうしないと、NGさんは誰も納得させる事が出來ません。
>*3) 「野嵜さんを何うにかする事」ですか。「明かだ」といふ割には「何うしようとしてゐる」といふのか解りかねますが、
日本語として文章がへんですね。
>ともあれ、爺は「野嵜さんを何うにかする事」に興味は(動機も)ありませんのでご安心下さい。(しかし、正直これには笑ひました。)
笑ふのは結構ですが、私にNGさんが粘着し續けてゐる、客觀的な事實があるのですよ。
笑つてゐないで謝罪するなり、言ひ訣するなり、したら何うですか。毎囘笑つて許りで、私にはNGさんが狂人に見えます。
>> 佐藤さんを教へようとする動機 *4)と、野嵜さんを呼出さなければならないと考へた理由を *4)、NGさんは説明すべきですね。
>
>オープンなブログに投稿するのに、何故野嵜さんに動機を説明しなければならないのかよく解りませんが、それはまあ措くとして
「オープンなブログ」だから、と云ふのは、單なる客觀的な條件の指摘ですね。何の説明にもなつてゐません。大體、「オープン」な場だつたら、「ここ」でなくたつて、何處だつてあるわけでせう、なぜ「ここ」なのですか。その説明をNGさんが「しない」事について、また「憶測」だの「極附け」だのをしますよ。けれども、私が「憶測」や「極附け」を「させられてゐる」のは、全部NGさんが説明しないのが原因ですよ。NGさんは説明しないのです。説明出來ないのだらうと思ひますが、「いや、説明しないのだ」と――いやいや、NGさんは、これで「説明しました」と言ふのです。全然説明になつてゐないから、私が散々「NGさんの發言は説明ではない」と指摘してゐるのに。
繰返します。
NGさんが、佐藤さんの「ブログ」を「何時までも見續けてゐるばかりでなく、何時までも何時までもコメントを書き込み續けてゐる」と云ふ、主體的な行爲の、その動機を説明して下さい。
他のオープンな場でなく、このオープンな場を、NGさんが「選んでゐる」、その動機を説明して下さい。
>*4) 佐藤さんは御自身の意見を世に問はうとしてゐるので、それに応へてゐるのです。
NGさんは、自分が「世」であると言ひたいのですね。
NGさんは、自分がをかしな事を言つてゐると思はないのですか。わらひ。
まあ、なぜ「ほかのだれでもなくNGさんが應へなければならない」のか、とNGさんが思つてしまつたのか、その説明でない、と云ふ時點で、NGさんがちやんと説明できてゐない事實は明ですがね。
>*5) 野嵜さんを呼び出さなければならない、と考へた事はないので、その理由も説明できません。
>2ch 的粘着野郎どもが跳梁跋扈していた時は、それがついつい野嵜さんかな、と思ってしまひましたが、もし間違ってゐたら謝ります。御免なさい。で、むしろできる事ならば、野嵜さんには出てきて欲しくなかった。今からでも引っ込んで頂ければ嬉しいと思ひます。(むしろ、爺のブログで「囀り批判」に再反論して欲しい。)
NGさんが誤を認め、謝罪された件については受容れます。
けれども、ここが「オープンなブログ」のコメント欄である以上、私がNGさんの要望に應じて「引っ込む」必要は、少くともNGさんの考へに基けば、「ない」と思ひますが? わらひ。
ええ。NGさんにとつてどんなに嫌であらうとも、NGさんの主張に從へば、そんなものは何の意味もない事であります。
私がNGさんを批判する事は自由です。私は自分の權利としての言論の自由を行使します。それで私の發言の動機は、NGさんなら納得できる筈ですね。NGさんが何か主張したいと言ふのなら、それを批判する事は、自由でせうからねえ。
あと、今、NGさんは、私をNGさんのフィールドに呼込みましたね。私はNGさんの提言にはまるで信用を置いてゐませんので、全然NGさんの非難に興味を感じませんから、NGさんのところの文章は讀んでゐませんし、今後も見たくもないと思つてゐますが、私を呼び込みましたね。
NGさん、私は、「あなたの理論(或は言ひわけ)は一見尤もだが、あなた自身の現實の行爲がそれに反してゐるではないですか」と指摘してゐるのですよ。
「NGさんは、論理と云ふ主題についてのみ議論すべきである、と主張した」→「NGさんは、佐藤さんの動機を憶測し、極附けるコメントも書いた」
をかしいでせう。
「論理と云ふ主題に就いても議論すべきである」
と言ひたいのですか。
なら、
「論理と云ふ主題以外に就いても話して良い」
と云ふ事になりますね。NGさんが佐藤さんの動機を云々しても、矛盾はない、と。
しかし、それなら、私が「論理と云ふ主題以外」の事を話しても、NGさんは私を非難出來ないですよね。「論理と云ふ主題以外に就いても話して良い」のですから。どうして「やつて良い」事をやつてゐる私を、NGさんは非難出來るのですか。
NGさんは、自分に都合良く――と言ふより、場當り的に、適當な言逃れを言つてゐるだけです。
野嵜さん、塗炭さん
> NGさん、「私は信ずる」と云ふ事、この事について、神學論爭だか宗門論爭だか
> で言爭つたと言ふのなら、何時何處で誰がどのやうに言爭つたのか、具體的に説
> 明して下さい。實例を指摘して下さい。何か、具體的な事件なり何なりを想定し
> て、NGさんは述べてをられるのでせう。具體的に説明して下さい。
「具体的・客観的」に話をしようよ、といふのには爺も賛成ですが、なんかだ騎
虎の勢ひですな、野嵜さん。しかし、そもそもどういふつもりで稲垣師の著作を
長々と引用したのか知りませんが、その中には正にかう有ります……
稲> だがそこで考えられているのはもはや真の超越的な神ではなく、想像によってつ
稲> くりあげられた神であり、人間が刻んだ偶像にすぎない。裏からいえば、有神論
稲> 者がそのような神の観念に安住しているかぎりにおいて、かれは真の神を否定し
稲> ているのである。
つまり、「私は神を信ずる」と言っても何でも良い訣ではなく、真の神(超越的
神)でなければならない(さうでなければ神の存在を否定する事になる)、と仰っ
てゐる訣ですね。で、それは第一バチカン公会議で(議論されて)確認された、
と。
さらに、
稲> そして鋭い批判力をそなえた無神論者は、有神論者の思想のうちに認められるこ
稲> のような神の否定を見てとって、それをあからさまに、抗弁を許さない仕方で表
稲> 現にうつすのである。
ださうです。とすると(野嵜さんが信じてゐないと言ひ、塗炭さんが信じてゐる
と仰る)「キリスト教の神」とはこの超越神の事ですか、といふ爺の以前からの
質問は、至極まったうなものだと思はれますが、如何でせう。
野嵜さん、
爺の動機の説明では満足頂けなかったやうですが、元々、野嵜さんにそれを説明す
る必要を感じてないので、それで満足するか、諦めるかして下さい。で、爺から
の質問ですが、どうして野嵜さんは「爺はその動機を説明しなければならい」と
思ったのですか?
野嵜さん、
これが言ひたい事の中心だったのですね。解りが遅くてすみません。
> 「論理の事が主題」と言ふNGさんが、一番最初のコメントで「論理以外の事にも」
> 言及した、それも相當人の感情を逆撫でする言ひ方で、目立つやうに言つた、こ
> れ、論理的にをかしいでせう。そのNGさんの論理の可笑しさを、私は言つてゐる
> のですよ。
爺の「○○が主題」はずっと後の要約だし、それが有ってもなくても、最初に
「○○以外の事にも言及する」事に何の「問題」が有りませうや。そもそも「論
理」といふほどのものでもないだらう。後は、「当人の感情を逆撫でする言ひ方」
で、「目立つように言った」の方ですか。確かに、批判されれば、誰しも感情を
少しは害するでせうが、でも、だからと言ってきちんと批判する事が「論理的」
にをかしい訣がない。これは野嵜さんの批判の方が無理筋ですな。
ただ、無意味に感情を逆撫でするのも爺の本意ではない。どのあたりが佐藤さん
の逆鱗に触れたのか考へてみるに、やっぱり「反証主義」のあたりか。しかし、
ずっと言ってきた事を「もう一遍読み返してみて」といふのが、そんなに業腹な
事だらうか。いや多分、これはきっと爺が自分の書いた事を引用した部分だらう。
それは以下の URL を指してゐる……
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/folder/234154.html?m=lc&sv=%C8%BF%BE%DA%BC%E7%B5%C1&sk=1
これは佐藤さんに「味噌っ滓を返上する事」を勧めてゐるのであるが、同時に野
嵜さんへの批判にもなってゐる。野嵜さんはそれを怒ってゐるのに違ひない。も
しさうなら、こんな回りくどい事をしないで、爺のブログで反論すれば良いのに
と思ふ。
もう一つ。なんで、「動機」「動機」としつこく食ひ下がるのかと思ったら、爺
が最初からこれに言及するつもりで、最初のコメントを書いたのでは、と邪推し
たのですね。しかし、「反証主義」が出てきたら、それに関する最近の議論に言
及するのは当り前でせう。
>つまり、「私は神を信ずる」と言っても何でも良い訣ではなく、真の神(超越的神)でなければならない(さうでなければ神の存在を否定する事になる)、と仰ってゐる訣ですね。で、それは第一バチカン公会議で(議論されて)確認された、と。
なるほどN爺は「佛陀」は「真の神(超越的神)」ではないと言ひたいのか。人間が認識出来る形(偶像)にした「神」は「真の神(超越的神)」ではないと。そりやあさうで、佛教でも御本尊とされる佛像そのものに価値があるとは言つてゐない。それは美術品や骨董品としての価値があるだけ、或は、怪しい新興宗教が売り附ける水晶で出来た何とか佛のやうに経済的価値(現世利益)があるだけだ。だからバチカンは(バチカンに限らず佛教でも)無暗に偶像を崇拝しては行けないと言ふ。当たり前の話。親鸞は目の前の私を崇拝しては行けないと言つたぐらいだ。
解り易い例を挙げる。
四国のお遍路さんが辿る道筋には同行二人と書かれてゐる事がある。いはゆる霊場巡礼を一人で歩いてゐても、その人には必ず弘法大師が附いて導いて下さると云ふ意。弘法大師である必然は無くて、要するに自分を超えた絶対の存在があなたを見守り、導いて下さいますよと云ふ事。これでは普通の人には解り難いから千年前に亡くなつた弘法大師といふ「個人名」を附けてゐる。大日如来でも良い。いづれにしても佛教者は「一人」である事は絶対に無い。自分といふ現世を生きてゐる人間と、自分を超えた絶対の存在の常に「二人」だと考へてゐる。だからこそ外見は一人でも厳しい修行をする、また外見は一人でも自省出来る。誰か具体的な「人」と繋がつてゐるのではなく、佛様と繋がつてゐるからだ。
「人の上に人を戴く」日本人には、この同行二人の意味が解り難い。N爺なんかもさうなんだけれども、「人」以外に繋がるものを持たない。かういふ人に対して私がする説明が解つてもらへるか何うか怪しいけれども、私には自分を超えた存在があり、他の人にはその人の自分を超えた存在がある。確かに全体として見れば「多神」に見へる。佛教ではこの「見へる」を信じるなと言つてゐる。弘法大師(空海)直筆と言はれる『般若心經』が今も遺つてゐるけれど、それには「色即是空」と書かれてゐる。
同行二人は突き詰めると現世を生きてゐる人間どうしの繋がり(関係)を重視しない為に、そのコミュニケーション手段である言葉をも否定してしまふ。日本の佛教者(僧)が普通の人から見ると訣の分からない事を言つてゐるやうに見えるのはその為。これは良くないので直すべき。
>とすると(野嵜さんが信じてゐないと言ひ、塗炭さんが信じてゐると仰る)「キリスト教の神」とはこの超越神の事ですか、といふ爺の以前からの質問は、至極まったうなものだと思はれますが、如何でせう。
私はNG氏が「超越神」と言つてゐても、正しく理解して言つてゐると思へませんので、同意も何もしません。
それに、「私が」同意する意義を全く見出せませんので、NGさんの「如何でせう」なる確認それ自體に疑問を呈します。
NGさんの「議論」の目的が、「相手への確認」である以上、私にはNGさんが「相手を説得する事が議論である」と信じ、「説得しようとする人」にのみ興味があつて、事實なり眞實なりを追求する事には何ら興味がないものと判斷せざるを得ません。
>爺の動機の説明では満足頂けなかったやうですが、元々、野嵜さんにそれを説明する必要を感じてないので、それで満足するか、諦めるかして下さい。
要するに、他人に納得して貰へるやうな説明は出來ない、とNG氏は認めるのですね。NG氏には、他人を納得させられるやうな動機がない。
>で、爺からの質問ですが、どうして野嵜さんは「爺はその動機を説明しなければならい」と思ったのですか?
佐藤さんの動機を憶測・極附けるNGさんですから、當然NGさん自身の動機を説明する義務があるからです。
>爺の「○○が主題」はずっと後の要約だし、それが有ってもなくても、最初に「○○以外の事にも言及する」事に何の「問題」が有りませうや。
要するにNGさんの「○○が主題」は、後附けの理窟、私を默らせる目的で場當り的に言出されただけである事、NGさんの逃げ口上であつたと。
NGさんは、野嵜の指摘にまともに答へられない事、NGさんの主張が一貫せず、NGさんの一聯の發言に矛盾がある事實を、素直に認めたら何うでせうか。
開き直りと逃げ口上だけでは、NGさんの人格が疑はれると思ひますが。
>確かに、批判されれば、誰しも感情を少しは害するでせうが、でも、だからと言ってきちんと批判する事が「論理的」にをかしい訣がない。
「正しく批判されれば、誰でも感情を害する」と「感情を害するのは、正しく批判されたからである」とは、違ひますよ。その邊、NGさんは、意圖的に、「論理」を使つてゐますね。
>これは佐藤さんに「味噌っ滓を返上する事」を勧めてゐるのであるが、同時に野嵜さんへの批判にもなってゐる。
「味噌っ滓」なる言ひ方それ自體が、單なる惡意で、論理的な議論とは無關係です。言はなければいいでせう。
また、「勸めてゐる」と云ふNG氏の態度それ自體が、「NGさんは、なぜ佐藤さんに、勸めなければならないのか」と云ふ疑問を起させます。その動機と云ふ主觀的な理由を、NGさんが「オープン」と云ふ客觀的な状況の説明にすり替へてゐる事がまた、NGさんの惡意を推定させます。
何れにしても、NGさんの言ふところの「説明」には、大量のすり替へと大量のごまかし、いんちき、口から出任せ、後附けの言ひわけ、……、が含まれてをり、さう云ふNGさんが「論理」「論理」と言つてゐる。これはをかしい。私はさう指摘してゐるのであります。
やつぱり爺氏は“話”にならない。
ぼくが野嵜さんや塗炭さんのコメントについて何もいはないのは「全くそのとほり」と思ふからです。爺氏に對して何もいはないのは讀んでないからです。
今囘はこれで終了します。みなさん、ありがたうございました。