時代の斜めうしろ

『叛逆の物語』のほむらに惚れた

(2013年11月11日 23:45)

前囘『叛逆の物語』の感想を書いた時、「衝撃的な展開だつた」と書いた。

さう感じた人は多いやうで、シヨツクのあまり食欲も失せて「叛逆ダイエットだ」なんて言葉も見かけた。

そのシヨツクは、つまるところ「ほむらがまどかを裏切つた」「俺達のまどかをほむらに奪はれた」と云ふことではないかと思ふ。

實際、ぼくも一囘目を觀た後さう感じたのだ。

しかし、二囘目を觀て考へが變はつた。

以下ネタバレ

前囘の記事で、ほむらがまどかを貶めたのは、魔女化の後遺症でまともな思考ができなかつたから、と書いた。また記事を書いた後、魔女だつたときの邪惡な思念が殘つてしまつてゐたのか、とも考へた。

だが二囘目を觀てゐて、ほむらの行動は混亂してゐた爲でもないし、魔女化の影響でもない、と思つたのである。

ほむらが魔女化した時、實驗開始の時點でソウルジェムはすでに「限界まで濁りきっていた」と云ふ。ほむらのソウルジェムを濁らせたものをほむら自身は「絶望も希望も超えるもの、まどかへの愛」だと言つた。

前作のラストで、ほむらはまどかの意志を受け止め、戰ひ續ける決意をした。だがその決意は案外早目に鈍つてしまつたのではないか。「誰もまどかのことを憶えてゐない、私自身すら妄想なんぢやないかと思つてしまふ」とほむらが言ふやうに、ほむらとまどかの距離は絶望的なものであつた。

しかし円環ではない、思はぬ形でまどかに再會し、ほむらは本來の自身の願ひを思ひ出す。「まどかとの出會ひをやり直したい、彼女に守られるだけぢやなく彼女を守る自分になりたい」「まどかを救ふ」つまりまどかを魔法少女でも女神でもない、普通の女の子のままでゐさせる。それは「永遠の迷路に閉ぢこめられても構はない」と決意させるほど強固なものであつた。

だが當のまどかが目の前にゐないのだから、その決意も揺るがざるを得ない。

前にぼくは、前作のOP曲『ルミナス』の頬擦りカツトについて、「微笑ましいが、悲しくもある。ほむらはまどかと普通に“友達”になりたかつただけなのだ」とTwitterでツイートしたことがある。

今囘の映畫の中でもほむらは、まどかが手の屆かない存在になつてしまつた、みすみすそれを許してしまつた、と云ふ後悔を抱き續けてゐたことを告白してゐる。

まどかの、「全ての魔女を消し去りたい」「全ての魔法少女の希望を絶望で終らせたりしない」と云ふ願ひは崇高だし、ほむらもまたいづれ救はれるものではある。だが、それまでほむらは取り殘されたままではないか。

まどかは、心優しいし、「自分には何のとりえもない」とコンプレツクスを抱いてはゐるが、その實強い。仲間たちが死んで行く中、なんとかそれを積極的に働きかけて止めようとするし、そんな状況で最後まであきらめず、大逆轉をやつてのけた。中學生が、友達が目の前で何人も死ぬやうな状況に遭つたら自暴自棄になつてもをかしくないのに、まどかは冷静に決斷を下すことが出來る。

一方でほむらは、人當たりは頑なに鎧つてはゐるが、それは内面の弱さの裏返しでもある。さうしなければ決意を保てないからだ。またまどかが魔法少女にならない爲に、ほむらは積極的に本人へ「魔法少女になつてはいけない」と働き掛けるのではなく、まどかの周圍から魔法少女になる機會を取り除くと云ふ消極的な方法であつた。説得できる自信がなかつたからだらう。

まどかの強さは、ほむらを飛び超えてしまふ。自分の願ひの爲にほむらを置いていつてしまふし、時には自分を殺させたりまでしてしまふ。ほむらにしてみれば、まどかを殺すと云ふこれ以上殘酷な仕打ちがあるだらうか。

前作では、まどかが中心になつて物語が描かれ、次々と試練に遭ふ爲まどかに感情移入して觀てゐたが、かうしてみるとまどかも結構ほむらを傷つけてゐるのである。

それに、まどかは社交的で、マミや杏子ともすぐに打ち解けたし、冷たい態度を装ほつてゐたほむらも内面の優しさを見拔き、友達にならうとしてゐた。まどかにとつてほむらは「最高の友達」ではあるが、「大勢ゐる友達の中で」なのである。對してほむらにとつてまどかは「たつた1人の友達」。マミや杏子は「信頼出來る同業者」ではあるが友達ではない。

友達も多く、世の爲人の爲に自分を犠牲にすることも厭はないまどか。だがほむらにはまどか1人しかいない。しかし、自分が「まどかの友達」なんて言つていいのか、と云ふコンプレツクスがほむらにはあつたのではないか。

―餘談ではあるが、ほむらは杏子とは馬が合つてゐたやうだし、杏子とうまくやつてゐれば、その後の運命も變はつてゐたかもしれないが―

まどかが魔女を消し去つた世界に現れた魔女。それはまどかの願ひを汚すものであり、赦されない弱さであるとほむらは斷じた。しかしほむらは魔女が自分自身であると、薄々氣付いてゐた。まどかを汚してゐるのは自分自身であると、分つてゐたのである。まどかがゐない世界で揺らいでしまつた決意。そんな心の隙にインキュベーターは付け込んだ。まどかが利用されさうになつたことににほむらは怒り、完全な魔女にならうとした。魔女になつてしまつたのは自分の心の弱さのせゐであり、神聖なものとしてゐたはずのまどかを自分が汚してしまつた。實驗は一因ではあるが魔女への道程はほむら自身が歩んできてしまつたのだ。それはほむらが最も望まない形でのまどかとの再會なのだ。

物語の前半ではほむらは眼鏡を掛け、三つ編みにしてゐる。それはかつてほむらが、まどかとの約束を果たす爲に捨てたはずの「弱さ」であつた。しかし物語の前半で、ほむらは眼鏡のままで、まどかや仲間たちと夢のやうな時間を過ごす。ほむらはこれが夢であることに氣付くと、眼鏡を捨て三つ編みも解いて戰ふ。傷ついたほむらをまどかは優しく慰めるのだが、その際にほむらの髪を撫でながら、三つ編みにしようとする。まどかにしてみれば、髪を解いたほむらは無理をしてゐるやうに見えたのかもしれない。だがほむらは編んでもらつた髪を解いて再び戰ひへ赴く。解いた髪は、まどかの爲に戰ふことを決めたほむらの決意の證なのだ。

だがそんな決意を、ほむら自身が汚した。そんなほむらを責めるのは切り捨てた眼鏡のほむらだ。「ルミナス」の椅子のセツトで、まどかはほむらの手をすり拔けて消えてしまふ。茫然とするほむらを、眼鏡のほむらが無言で取り圍む。

「あなたは私を切り捨てて、強くなつたんでせう? やつぱりまどかを救ふことなんかできないぢやないの」と言つてゐるかのやうだ。

さらに魔女と化したほむらを斷頭臺へと引き連れていくのは眼鏡のほむらの姿をした使ひ魔の兵隊である。切り捨てたはずの己の弱さに、ほむらは苛まれるのだ。

自分を救出しにきた仲間たちもほむらは拒絶する。まどかを汚し、仲間たちを巻き込んでしまつた自分をほむらは赦すことはできない。まどかに合はせる顔が無い―と書いて、ほむらが魔女化した“Homulilly”の姿を思ひ出した。最初に現れた“Homulilly”は、ゲームなどに登場した、文字通り「魔女」らしい、とんがり帽子の姿であつた。だが帽子ごと顔が取れ、顔が無い頭部に彼岸花が咲いてゐる姿になる。

さうなる前に、顔がないほむらを前にして杏子が項垂れる繪が一瞬現れるが、それや魔女の姿は、ほむらが眼鏡を掛けてゐた弱い自分を否定したい心の表れだ、と解説してゐたTogetterがあつて、それも一理あると思ふが、もつと單純に、「まどかに合はせる顔が無い」から、顔が失はれてしまつた、のではないか。

それに、“Homulilly”は巨大で、西洋風のドレスを纏つてゐる。既視感があると思つたが、ほむらが何度も倒さうとしてゐた“ワルプルギスの夜”を彷彿とさせるデザインである。

ほむらがかつてまどかがゐた世界を思ひ返す時、“ワルプルギスの夜”が出てゐない、それはまどかを殺したと云ふ記憶と直結してゐるからではないか、と指摘したブログ記事があるけど、“ワルプルギスの夜”はまたまどかがほむらの手に屆かない場所に行つてしまつた記憶とも直結する。いづれにせよ、“ワルプルギスの夜”もほむらにとつて思ひ出したくない過去であることは間違ひない。ほむらが自身の姿を自覺してゐたかどうかは定かではないが、必死に否定し續けたものに變貌してしまつたのだ。

さう言へば“ワルプルギスの夜”にも顔が無かつた。

ほむらが創りだした魔女結界、それはほむらの自己欺瞞に満ち溢れてゐた。望んでゐた世界―まどかや、仲間たちに受け入れられ、皆で樂しく戰つてゐる世界。それが欺瞞でしかない魔女結界であると氣付き、まどかを汚すものだと憤慨してみせるが、その魔女が自分自身であると薄々分つてゐながら目をそらし續けた。だがそれは現實におけるほむらもまたさうだつた。まどかを殺してしまつたことも、まどかが自らの願ひを叶へ手に屆かない場所に行つてしまつたことも、それはまどかが望んだことだからと、自分に言ひ訣してゐたのだ。

だがそんなほむらを、まどかは助けに來てくれた。ほむらを赦してくれた―少なくとも、ほむらにとつては。ほむらにとつて魔女になつてしまつたことは己の弱さの象徴であつた。まどかはそんなほむらの弱さを打ち拂つてくれた。一歩踏み出す勇氣を與へてくれたのだ。今度こそ、まどかを手放したりはしない。

最初に話を戻すと、ほむらは魔女化の影響で混亂してゐた訣でも、邪惡になつてゐた訣でもない。ずつとほむらは後悔し續けてゐた。まどかを取り戻したかつた。その結果が魔女化であり、またあの結末でもある。

實驗が無ければあるいは、ソウルジェムが濁りきつたほむらはすんなりとまどかに導かれてゐたかもしれない。しかし円環の理に導かれたほむらが見るものは、大勢の魔法少女に圍まれて、樂しさうにしてゐるまどかだつたのではないか。結局ほむらは大勢の中の「最高の友達」としてずつと一緒にゐることになつてゐたかもしれない。ほむらにしてみれば、それはそれで後悔の殘る結末なのではないか。まどかを獨占したい、まどかの側に置いてもらふのではなく、自分の側にゐてもらひたい。それがほむらの愛なのだ。

全て相手の望んだ通り、自分が合せることだけが愛ではない。相手の望みを否定することになつても、自分の思ひを貫き通すこともまた「愛」である。

「神にも等しいもの」を貶めた爲に、ほむらは惡魔―まさに欲望の象徴―になつてしまつた。「まどかを裏切つた」「まどかを奪ひ取つた」…これらは間違ひではない。だがかつて、まどかは自身の願ひの爲にほむらの願ひを否定した。今度はほむらが自分の願ひの爲にまどかの願ひを否定しただけのことである。

やうやく、ほむらはまどかと對等になれたのだ。

愛とは、一方的に庇護を受けることではない。時に相手を傷付けても、互ひに向ひ合ふことである。

ほむらが、まどかの願ひを否定してでもまどかを取り戻さうとした。それをほむらは「愛」と言ひ切つた。

しかし、ほむらは惡魔よろしくまどかを意のままの奴隷にしてしまふのではなく、普通の女の子として、自分の側に置いた。家族や友人を大切にするまどかに、まどからしくゐてほしいと望んだからではないか。

惡魔と自稱しても、惡魔にはなりきれない、そんなほむらに、ぼくは惚れた。いや元々好きだつたから、惚れ直した、かな。

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