時代の斜めうしろ

天魔覆滅

(2009年11月23日 21:28)

ぼくは「ラプラスの魔」は「ゐる」と思つてゐる。いや、現代物理學では「ラプラスの魔」は否定されてゐることは知つてゐます。しかし、「人智」を超えてゐるからこそ「惡魔」ではないか。人ならぬ「惡魔」であれば、宇宙の全てを知ることだつて不可能ではない。

あるいは「究極の方程式」があつて、それは數學はいふに及ばず、物理學でも化學でも、いやいや過去も未來も全て解き明かせてしまへる「神」の方程式。自然科学のみならず、人文科學、社會科學までも解き明かしてしまへる。しかし人間がどう背伸びしたつて「ラプラスの魔」にはなれないのと同樣、「究極の方程式」ももしあつたとしても人間がそれを見出だすどころか、そも人間には理解できないでせう。複雜すぎて理解できないか、あるいは「單純すぎて」理解できないか。

科學はいまのところ、宇宙を説明する手段として最も信頼されてゐますが、それは科學が「たまたま」、宇宙を合理的に説明できるといふことにすぎない。實はもつと單純明快で、より精緻な、合理的手法があるのかも知れない。とはいへ人間はそれを考へつかない以上、科學で宇宙を説明するしかない。

しかし科學は、惡魔でも神でもない人間が考へることだから、「絶對」はありえない。いや科學に限らないが人間のなすことで「絶對」があるとしたらそれは狂信者の腦の中だけだ。

それでも、「完全」に近づかうと、「實證主義」や「反證主義」、觀察や證明、論理による正當化、あるいは否定されるリスクを持たせ、批判にさらすことで信頼性を強くする、といふ立場が提唱されてゐるが、これらとて「完全」ではない。人間に「完全な」實證も反證もありえないからである。

で、あれば、科學とは不確實な假説に、肚を決めて信を置く、といふことにほかならない。惡魔でも神でもない人間は、「より」確實な答へ--そんなことはできつこないと覺悟しつつ−を求めて無限に問ひ掛け續けるしかない。

三宅さんがおつしやるとほり、科學においては「答へ」よりも、一連の思考思惟の過程にこそ価値がある

また、「無限に問い掛け續ける」、といふことは、今ある答への前に、それまでの無限の「問ひかけ」が、そして無限の「答へ」がある、といふことである。ではそれらは、新たな答へが出れば「ご破算」となるのか。いや、今ある答へは、それまでの「問ひかけ」と「答へ」の歴史の上に成り立つてゐる。であれば、その歴史を「ご破算」にすることは許されないし、できない。

「間違ひ」の積み重ねこそが、眞實への道程なのだ。


科學をぼくは「宇宙を説明する手段」と書いたが、それはすなはち宇宙によつて生まれ、宇宙を「宇宙」だと認識する「人間とはなにか」を説明することにほかならない。

それは「藝術」や「宗教」もまた目的を同じくする物である。藝術は「表現」によつて、宗教は「信仰」によつて「人間とはなにか」を解き明かさうとしてゐる。

ここで「宗教」が出てくることに違和感を感じる人がゐるかも知れない。

しかし宗教とは、それこそ「人智」を超えた物に、救ひを求めることであるが、救ひは、宗旨につて違ひはあれど「いかによく生きたか」によつてもたらされる。「いかによく生きるか」、それは「人間はどう生きるべきか」、すなはち「人間とは何か」を追求することである。「生きる」ことは人間の存在意義そのものであるからだ。


とはいへ、ぼくのいふ「科學」が「理想」でしかないことは分つてゐる。實際の科學者が、そこまで理想を追ひかけてゐるわけでもないだらうし、案外「目先の結果」しか求めてゐないのかもしれない。研究が「生活」になつてしまへばなほさらだらう。

藝術や宗教でも「眞理」が解き明かせなかつたやうに、科學にだつて「眞理」は分からない。であれば眞理を求める必要は無いのか。眞理を求めることは無駄な努力でしかないのか。

知恵とは「よりよく生きよう」とする意志にほかならないが、そんなこと考へてるヒマがあつたら、ルーチンワークで生きていたはうがよほどラクだし、効率的である。

だがそれは人間以外の、動物の生き方でしかない。

人間が知恵を持つてしまつたこと。その手段として「藝術」「宗教」そして「科學」が生まれたこと。それは「自分--人間とはなにか」といふ疑問を永遠に持ち續ける、といふことである。そのために人間は苦しみ、惱む羽目になつたのたが、ではなんのために知恵があるのか。--これはそれこそ「宗教」が受け持つ命題だらうけど、宗教も有効な答へをいまだ出してはゐない。

ラプラスの魔はそんな人間を嘲笑ひ、究極の方程式をもてあそぶだらう。それでもぼくは、眞理を求める人間の知恵に意味があることを願ふ。


...これつて哲學?

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コメント(2)
| 2009年11月26日 14:51

いえ、「哲学」にはまだ遠いかも、もう少し頑張りませう。

何故、もしくはなんのために「世界が有るのか」「人間が存在するのか」「知恵
が有るのか」……等といふ問を、敢て切り捨てるところから科学は出発してゐる
のです。

Author Profile Page 佐藤 俊からへの返信 | 2009年12月16日 22:17

糞爺の「哲学」や「科学」にあはせる必要はない。

だれがいつ糞爺の生徒になつたのだ。
「頑張りませう」だの「がつかりした」だの、「感心する」だの「ほめてあげる」だのいはれる筋合ひはない。

「教師」にだつたらしてもいいが。「反面教師」に。かういふ無神經な人間には、なつてはいけない。

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