「本物」とはかういふことだ
(2009年12月11日 21:55)
- 『ご冗談でしょう、ファインマンさん』訳者あとがき
社会に対する「積極的無責任者」などと自称されてはいるが、大は宇宙から、小は子どもの教科書にいたるまで、彼ほどその根本問題を鋭く見ぬき、本気で憂えている人はそういないと私は思っている。その表現が普通の人と違うため、ふざけた人間だと思う人もいるらしいが、子供であろうが素人であろうが決してばかにせず、いつも対等な人間として話をするということが、ほんとうにできる人なのである。
「素人考へ」に對し、眞正面から向き合ひ、眞摯に應へるのが「本當」の「専門家」である。「素人考へ」を嘲笑するのは、専門家「氣取り」の知つたかぶりでしかない。
ファインマンさんは、やはり本物である。
たしかにご冗談でせう
と言ひたくなつてしまふやうな自傳だ。
あるときはロス・アラモスの若き天才、またあるときは金庫破り。あるときはノーベル物理學者、またあるときはナンパ師。
出張に行けばマーチングバンドに參加し、夜中にたたき起こされた腹いせにノーベル賞を斷はらうとする。
ノーベル物理學者といへど普通の人間である。ただし、ただ者ではない。
興味が沸いたので『科学は不確かだ!』も讀んでみた。こちらからもファインマンさんの科學に對する眞摯な姿勢が傳はつてくる。
ファインマンさんは科學を樂しんでゐる。しかし、科學は人の役に立つだけでなく、人を傷附け、脅かすことも知つてゐる。決して科學に魂までも奪はれてはゐない。改めて、だからこそ本物である。
さらに調子に乘つて『ファインマン物理学』も讀んでみたがさすがに「はじめに」くらいしか讀めなかつた。しかし教科書であつてもファインマン節は健在であつた。かーいふ先生に教はつた學生はしあはせだなー。
追記(2010年1月12日 00:28)
掲示板やブログのコメントからこちらをご覽になつたかたもゐらつしやるかもしれませんが、「婆や」と名乘つてゐる投稿者は別名「義」といふ、リンク元のコメントのやうに野嵜健秀さんを誹謗するスパムをばらまいたり、また「野嵜健秀」を騙つて掲示板を荒らし、野嵜さん本人に「掲示板荒し」の濡れ衣を着せようとしてゐるネツトストーカと思はれます。
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佐藤さん、「御冗談でせう、ファインマンさん」を御読みになった由。なんだか爺も嬉しく思へて、これへのコメントのやうなものを書きました。こちらを御覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/4901158.html
圖に乘るな糞爺。
素人が素人を叩くのが「アンチ」。
――爺氏は、それを言はれてむかついたんでせう。
あらま。そんなにのぼせあがってしまって……丁寧に言ってもダメ、謝っても許
してくれない、一体どうすれば良いのでせうね。
ところで、爺にはさっぱり分らないのですが、どこがそんなにお気に障ったので
すか?
1) 二つ目の引用のところ?(ファンマンさんにも容赦されないかも、と言ったとこ
ろですね。)
2) もしくは、カーゴ・カルト・サイエンスの章を読んで、どう考えが変ったのか爺
が聞いた事?
ともあれ、気を静めて再読して、できれば「困ります、ファンマンさん」も読ん
で感想を聞かせて下さい。
あらま、さう読めるんですか、野嵜さんには。「ド素人」「ジレッタント」を自
称自認する爺には、佐藤さんの記事に「むかつく」要素は見当りませんし、どう
見ても、「むかついて切れてゐる」のは佐藤さんのやうに思へますが。野嵜さん
が自分と同じ日本語を話してゐるのか時々心配になります。
では、素人が素人を見下して天狗になるのが「アンチ」、と言換へませうか。
もつとも、むかついてもゐないのに何で爺氏は一生懸命批判を書いてゐるのか、私には動機が理解出來ません。爺氏は、何の爲に批判をしてゐるのでせうか。
と言ふか、爺氏は、爭つても仕方のない部分で爭ひたいらしいですが、それは科學的な態度と言つて良いのでせうか。私は、爺氏には科學に就いて偉さうな口をきく資格が無いやうに思ひます。
また始まつた。
だから「アンチ」「糞爺」だといふんだよ。
「爺」と名乘るやうな「いい年」なら口の利き方くらいわきまへろ糞爺。
成程、野嵜さんには、爺が「むかついた」から、「攻撃してゐる」に違いないと
思へるのですか。でも、それは自己のマインドセットを他人に投影してゐるから、
ではありませんか。野嵜さんは御自分があまりにそれにどっぷりつかってゐるか
らさうとしか思へないのでせう。
誤読してゐるようだから、それを指摘したい、また、本の読後感を聞きたい、と
いうまったうな動機だってあるのですよ。
あらまあ、私のコメントのどこが「口の効き方を弁へてゐない」のですかねえ。
長幼を云々するなら、まずご自分から年少者としての口の効き方を弁へてはいか
がですか。まるで「落書きするなの落書き」みたいです。
そんな調子ぢゃあ、寛容なファインマンさんだって、とても真摯に向き合っては
くれないと思ひますよ。
爺氏は、論者の態度やら何やらを論ずるのだけに興味があり、真理はどうでもいいんですね。やつぱりポパー読んでないんだ。
あと、あなたも「誤読です」が好きな人種なんですね。
うーむ、いつもながらユニークな論理で、なかなかついて行けないのですが、つ
まるところ……
ポパーを読んだ人(つまり野嵜さんですね)は、常に真理を語る事に興味が有る、
といふ事になりませうか。(「逆」を取ったので、まず間違ひないと思ふ。)
しかし、野嵜さんが「常に真理を語る事に興味が有る」なんて、まさかねえ、等
と思ってゐたら、
> あと、あなたも「誤読です」が好きな人種なんですね。
と来ますか。野嵜さん、少し前の「誤読」論争がよっぽど応へたと見えます。何
しろ「追い銭」みたいな「やっぱり誤読ではないと思ふ」は、memo8 さんに大受
けしてましたもんね。さう言へば、最近、引用してからコメントする事が減った
やうですが、これは「誤読です」と言はれるのを恐れての事だったのですか。
ちなみに、爺は「誤読です」が好きな訣ではありませんが、そこのところをまず
はっきりさせないと話が始まらない、とは思ってゐます。でも、野嵜さんの場合
は、たまたまの「誤読」なんかではなく、そもそも人の言ってる事を普通に理解
する能力を欠いてゐるやうに思へる。今回のポパーは大丈夫ですか?例へば「歴
史的假名遣ひは科学的である」を補強してくれる事が何か書いてありましたか?
なんかやたら語りたがりますねこの爺さん。
ちなみに、事實として私は誤讀してゐないので、memo8氏や爺氏の方が「野嵜が誤讀した」と云ふ論理で勝たうとしてゐるに過ぎません。
面倒なので私はあなた方に應對してゐません。memo8氏も爺氏も「話が通じない人種」に屬する人だと判明してゐるので。話が通じる人とだけ話をするのが正しい態度だと思つてゐます。話が通じない爺氏やmemo8氏を相手にするのは、時間の無駄です。
あと、「歴史的假名遣は科學的である」と云ふ「假説」を補強しても意味はないです。ただ、爺氏の批判が不當である事を言へるだけです。どつちみち「爺氏やmemo8氏が納得するかどうか」は大した意味を持ちません。爺氏やmemo8氏がこの世における絶對的な判定者であるわけがありませんから。Kirokuro氏らと同じやうに爺氏も自分が至上の判定者である積りでゐるらしいですが、それは思ひ上りです。
或は、爺氏は、怒つて粘着してゐるのでなく、嘲る目的で粘着してゐるんですか。それは私の理解を超えます。
普通の人間は、相手が目下の人間と承知して、その相手に何時までも附き纏ふなんて、をかしな行動は取りません。爺氏も、Kirokuroなんかと同じで、野嵜や佐藤さんに對して、(爺氏自身の證言に據れば)むかつきもしてゐないのに、ただただ何時までもえんえん附き纏つてゐると云ふのですが――客觀的に見れば、さう云ふ爺氏は、をかしいです。
爺氏は、反論しますか。しないでまた何時ものやうにガハハと笑つて胡麻かしますか。
一般論ですが、粘着アンチの人は、自分がをかしい事を、指摘されても、絶對に認めませんね。爺氏はまだまだ執拗に書込み續けるでせうが、それがをかしな行動である事實を爺氏は絶對に認めようとしないでせう。
けれども、事實を認めないで、理論で自己正當化をはかる爺氏は、をかしいです。少くとも、ポパーの話で野嵜を非難する資格は、ないです。
「糞爺」だから「糞爺」といつてるんだこの糞爺が。
僞物糞爺に對する禮など必要ない。
> なんかやたら語りたがりますねこの爺さん。
あはは、精一杯の「反抗」ですか。でも、冷静さを装ひ通してゐるの
は偉い。「圖に乗るな糞爺」よりはよっぽどインパクトがありますよ。
> ちなみに、事實として私は誤讀してゐないので、memo8氏や爺氏の方が
> 「野嵜が誤讀した」と云ふ論理で勝たうとしてゐるに過ぎません。
出た、「勝ち負けに拘る」野嵜さん。それにしても、「事実として私
は誤読してゐない」てのも凄い。その「事実」が疑はれてゐるのに、
何遍同じ事を繰返したって、「真理を追及」した事にはなりませんて。
> 面倒なので私はあなた方に應對してゐません。memo8氏も爺氏も「話が
> 通じない人種」に屬する人だと判明してゐるので。話が通じる人とだ
> け話をするのが正しい態度だと思つてゐます。話が通じない爺氏や
> memo8氏を相手にするのは、時間の無駄です。
がはは、これも笑へます。自分から議論を始めておいて、都合が悪
くなったら(劣勢になったら)、急に面倒になったり時間が惜しくなっ
たりするんですか。
> あと、「歴史的假名遣は科學的である」と云ふ「假説」を補強しても
> 意味はないです。ただ、爺氏の批判が不當である事を言へるだけです。
へー、補強したり弁護したりする必要もない程落ちぶれてしまったん
ですか、その仮説。やっぱりね。それと「言へる」のなら、はっきり
言いませうよ。
> どつちみち「爺氏やmemo8氏が納得するかどうか」は大した意味を持ち
> ません。爺氏やmemo8氏がこの世における絶對的な判定者であるわけが
> ありませんから。 Kirokuro氏らと同じやうに爺氏も自分が至上の判定
> 者である積りでゐるらしいですが、それは思ひ上りです。
成程。野嵜さんを批判できるのは「至上の判定者」(神様の事か?)
だけである、と。それこそ「思い上り」の最たるものでは?
> 或は、爺氏は、怒つて粘着してゐるのでなく、嘲る目的で粘着してゐ
> るんですか。それは私の理解を超えます。
「怒る」か「嘲る」しか、議論の動機が思ひつかないのですか、野嵜
さんは。上に書いたやうに、「誤読を指摘する」「感想を聞きたい」
といふ動機も有るんですって。(少くとも爺には。)
> 普通の人間は、相手が目下の人間と承知して、その相手に何時までも
> 附き纏ふなんて、をかしな行動は取りません。爺氏も、Kirokuroなん
> かと同じで、野嵜や佐藤さんに對して、(爺氏自身の證言に據れば)む
> かつきもしてゐないのに、ただただ何時までもえんえん附き纏つてゐ
> ると云ふのですが――客觀的に見れば、さう云ふ爺氏は、をかしいで
> す。
うーむ、「○○って事ですか」という要約もできない程訣の解らない
文章ですが、「ただただ何時までもえんえん附き纏つてゐる」あたり
だけは想像が付きます。でも、今は野嵜さんのブログは書き込み禁止
になっているので、これは「自分のブログに他の人の主張の批判を書
くのがけしからん」という事になりますか?それは言論の自由を保証
してゐる日本国憲法に抵触する意見です。
でも、まあ、佐藤さんのブログで、延々とやりあってゐるのは確かで、
申し訣ありませんね、佐藤さん。
でも、野嵜さんが乗り出して来なかったら、
> 長幼を云々するなら、まずご自分から年少者としての口の効き方を弁
> へてはいかがですか。
で話は終っていたはず。(実際そうなっていますね。)なので、責任
の大半は野嵜さんにあります。だって、
> 爺氏は、反論しますか。しないでまた何時ものやうにガハハと笑つて
> 胡麻かしますか。
なんて挑発するんですから。野嵜さんも粘着体質なんですね。粘着引
き寄せ体質といふべきかも知れませんが。
あ、また「語って」しまった。以後は、ブログの記事の間で、まった
りやりませう、野嵜さん。
「慇懃無禮」を気附かないのかとぼけてゐるのか。
どつちにしろ糞爺だ。
しまった、
> で話は終っていたはず。(実際そうなっていますね。)
が、実際そうなってない事になってしまった。先の陳謝は取り消しま
す。
> 「糞爺」だから「糞爺」といつてるんだこの糞爺が。
> 僞物糞爺に對する禮など必要ない。
成程、罵り合いを延々と続けよう、と言ふ事ですか?爺の趣味ではな
いですが、少しなら付き合っても良いですよ。とりあへず、
「あっかんべー」
「おまえのかーちゃん、でーべそ」
なんてのはどうですか? (これは「お決りの悪口」で、事実を伸べ
てゐるのではないのは勿論の事です。)
こつちは「事實」を述べてゐる。糞爺が糞爺なのは事實だ。圖に乘るな。
もういいや。
糞爺がつけあがるだけだ。アク禁にする。
やーい、「アク禁」、「アク禁」……
って、ちょっと恥しくなったのでもうやめますが、でもなんだか懐しい響きが
ありますよね、かういふのって。
それでは、さやうなら、佐藤さん。
(忘れずにちゃんと「アク禁」にしときなさいよ。)
ぼくは人がよ過ぎるのだらうか。
「悪魔に勝つには悪魔のファイトしかねぇ!」と考へたこともあつたけど、しよせん惡魔にはなれなかつた。
いや、「人」でゐれたことを喜ぶか。
ノズラー【のずらあ】[名](文学板)
旧字旧仮名遣いを駆使して他人を罵倒することに生き甲斐を感じる人たちの意。
彼らの多くは松原正という知識人を信奉しており、松原正と対立する西部邁や
西尾幹二などの保守知識人を叩くのが得意。
あまりに尊大な言動のために文学板の住人達に激しく嫌われている。
かつてYahoo!掲示板にて大暴れしていた旧字旧仮名遣い派のハンドルネームが
この名称の由来である。
爺が「義」から粘着仲間と認識されたw よかったね
>ともあれ、ファインマンさんのような「本物」に真摯に対応していただけるかどうかは、佐藤さんの意見が「素人考へ」かどうかではなく、それが「偽善や空威張り」かどうかにかかってゐるやうですね。で、佐藤さんの所論は、どうも容赦「されない」部類に入るのではないかとの懸念が……
爺氏の理論――
大前提「ファインマンは僞善や空威張りを許さない」
小前提「佐藤氏の所論は僞善か空威張りである」
結論「ファインマンは佐藤氏を許さない」
小前提の部分が「爺氏の個人的な判斷」であるのは問題ですね。論理としては形式的に成立つてゐますが、正しい論理ではありません。と言ふか、爺氏はファインマンをだしに使つて佐藤氏を嘲つてゐるだけです。
そもそも大前提自體、佐藤氏が何も書いてゐない事柄です。書いてゐない事について、意味を爺氏は勝手に極附けてゐるのですが、それが間違つた讀み方である事に爺氏は氣附いてゐません。
しかも、ファインマンが「子供であろうが素人であろうが決してばかにせず、いつも対等な人間として話をする」事が出來る、と云ふのと、何ら對立しない・矛盾しない内容です。それを「對立する」と勘違ひしてゐるから爺氏は何うしやうもない。
一言で言へば、話のねぢ曲げ・すり替へを、爺氏は、無意識的に・當り前の事として・無自覺に、やつてゐるのです。自覺が足らないから、誤つた事を當然の事としてやつてしまふ。が、こんな事は、ポパーの讀者ならば、あり得ない話なのです。
本當、どうしてポパーの讀者である爺氏が――或は、理系の人である爺氏が――斯う云ふをかしな讀み方を出來てしまふのか、不思議です。
論理學の事が解つてゐないと、ポパーは理解できません。ところが、爺氏は明かに論理學を理解してゐません。理系なのだから、論理くらゐは解る筈ですが、それが爺氏には解らない。
文章の論理的な讀み方の訓練を受けてゐる文系人間の方が、まだしも増し、と云ふ事ですか。爺氏にしてみれば「文系=藝術的」「理系=論理的」と云ふのは、搖るぐ事のないドグマ的な常識であるかも知れませんが……。
ポパーが「人間は死ぬ」「ソクラテスは死ぬ」「ソクラテスは人間である」と云ふ「三段論法」の問題をとりあげて、事實による反證が何うの斯うのと論じてゐましたが、これ、三段論法の事を知つてゐると簡單に理解出來るんです。
或は、反證主義そのものが本來、論理の問題であり、それを理解するには論理學的な知識を持つてゐる事が必要です。
簡單にでも論理學の知識を持つてゐる人間から見れば、爺氏の論法がまともな論法でないと解ります。メモ8氏の議論もさう――メモ8氏もやつぱり論理學の事が解つてゐない。解つてゐないからこそ、高飛車な態度をメモ8氏も爺氏もとれる。
相對主義者と呼ばれる人逹が用ゐる「論法」がをかしいものである事――これは彼等が論理學を知らない事に由來します。メモ8氏は相對主義者であり、だから自分の見方と野嵜の見方は「違ふ」と言つて、野嵜の指摘を「誤讀」と稱しました。ところが、内容的に見て、分析的に述べれば、私の見方とメモ8氏の見方が論理的に對立する事は事實として指摘できます。メモ8氏の「面白主義」と、私の立場は、論理的に對立します。單に「見方が違ふ」だけではありません。
さうした事實は、相對主義でも何でも理論的に否定する事が出來ません。爺氏はその邊が全く解つてゐません。
この「裁定者」は野嵜さんを攻撃してゐるネツトストーカ「義」です。
「野嵜健秀」を名乘る掲示板荒らし「義」について
ここまで「カヘルの面に小便」でゐられるのがぼくには理解できない。
「人間」として、大事な部分がマヒしてゐるのだらうな。
あらま、「アク禁」になったと思ってゐたから暫く見なかったら……
野嵜さん、コメントありがとうございます。(でも爺のブログでの批判・質問に
も答へて下さいね。)
> 爺氏の理論――
> 大前提「ファインマンは僞善や空威張りを許さない」
> 小前提「佐藤氏の所論は僞善か空威張りである」
> 結論「ファインマンは佐藤氏を許さない」
お見事。以前、高校数学の「論理」のあたりを復習してみたら、などと言った事
がありましたが、ちゃんとその助言を受け入れてくれたのか、最近傾倒してゐる
ポパーさんのおかげか、とにかく今や普通の三段論法が駆使できる。素晴しい。
ただ、それを論じようとすると、途端に
> 小前提の部分が「爺氏の個人的な判斷」であるのは問題ですね。論理としては形
> 式的に成立つてゐますが、正しい論理ではありません。と言ふか、爺氏はファイ
> ンマンをだしに使つて佐藤氏を嘲つてゐるだけです。
てな具合に足元が怪しくなる。「形式的に成り立つかどうか」が形式論理の重要
な部分であって、前提の内容が妥当かどうかは「論理」の「正しさ」とは関係あ
りません(だから「前提」を「仮定」とも言ふ。)だから「個人的な判断だから
正しい論理ではありません」はをかしい言ひ方です。もっと分かり易く言ふなら、
爺の書いた事を正しく要約した
大前提 「ファインマンは僞善や空威張りには容赦しない」
小前提 「佐藤氏の所論は屡々僞善か空威張りである」
結論 「ファインマンは佐藤氏を容赦しないかも知れない」
といふ議論は完全に「論理的」です。
あと、論理的な一貫性とは別に、上の小前提(佐藤さんについての爺の「個人的
意見」)ですが、
> 圖に乘るな糞爺。
> 「慇懃無禮」を気附かないのかとぼけてゐるのか。どつちにしろ糞爺だ。
> こつちは「事實」を述べてゐる。糞爺が糞爺なのは事實だ。圖に乘るな
これらは「空威張り」だと確かに言へるし、この直後に
> ぼくは人がよ過ぎるのだらうか。「悪魔に勝つには悪魔のファイトしかねぇ!」
> と考へたこともあつたけど、しよせん惡魔にはなれなかつた。いや、「人」で
> ゐれたことを喜ぶか。
等と言ふのは典型的な「偽善」でせう。
また、「嘲ってゐるだけです」もかなりの論理の飛躍ですが、それはともかく、
嘲ってゐるのではなく、誤読(見逃し)の指摘なんですよ。(下記参照)
> そもそも大前提自體、佐藤氏が何も書いてゐない事柄です。書いてゐない事につ
> いて、意味を爺氏は勝手に極附けてゐるのですが、それが間違つた讀み方である
> 事に爺氏は氣附いてゐません。
それは野嵜さんの誤解です。爺は「佐藤さんがその部分を見逃したか無視したか」
と言ってゐるのであって「さう書いた」とは言ってない(どうして、いつもいつ
もこんな初歩的な誤解・誤読をやるのか不思議なくらいのものですが。)
> しかも、ファインマンが「子供であろうが素人で
> あろうが決してばかにせず、いつも対等な人間として話をする」事が出來る、と
> 云ふのと、何ら對立しない・矛盾しない内容です。それを「對立する」と勘違ひ
> してゐるから爺氏は何うしやうもない。
さうですか。でも、そのあたりは、爺が「依然野嵜さんは論理に弱いんだ」と思
ふ所以でもあります。命題が「矛盾しない」なら即「同値」なのではなく、「直
交している」場合だってあるのです。(つまり、素人の中にも「空威張りする人」
も「それをしない人」も居るし、「対等に向き合う事」は、「厳しく批判する事」
と矛盾しない。)なので、「素人でも対等に 向きあひ」かつ「空威張りする人に
は容赦しない」ファインマンさんなら、「素人でかつ空威張りする人には、対等
に向きあひ、かつ容赦しないだらう」となる。(なので、「容赦してくれる」か
どうかは、「空威張りする」かどうかにかかっている、というのは論理的に正し
い陳述なのです。諄くてすみません。)
といふ事で、爺の言ってゐる事は(少なくともここまでは)かなり筋が通ってゐ
ると思ひます。なので、
> 一言で言へば、話のねぢ曲げ・すり替へを、爺氏は、無意識的に・當り前の事と
> して・無自覺に、やつてゐるのです。自覺が足らないから、誤つた事を當然の事
> としてやつてしまふ。が、こんな事は、ポパーの讀者ならば、あり得ない話なの
> です。
の部分は、あたってないですね。むしろ、理解力に若干欠けるところがあり、か
つまだ少し「論理」に弱い野嵜さんが肝に命ずべき事ではないでせうか。特に、
誤読といふ形で相手の言ってる事をねぢ曲げ・すり替へるのは、野嵜さんの得意
技のやうに思へます。(「そうは言ってない」と爺が咎めても、それについては
「だんまり」を決め込むのは最初から意図してゐたからか?——「相手が文句を
言はなければめっけもの」——だとしたら、知的誠意も足りない事になる)。し
かし、最近は「誤解・誤読を糊塗するための強弁」の方が見てゐてかなり痛いが。
こっちはエネルギー節約の意識が足りないと言ふ事になるか。
> ポパーが「人間は死ぬ」「ソクラテスは死ぬ」「ソクラテスは人間である」と云
> ふ「三段論法」の問題をとりあげて、事實による反證が何うの斯うのと論じてゐ
> ましたが、これ、三段論法の事を知つてゐると簡單に理解出來るんです。或は、
> 反證主義そのものが本來、論理の問題であり、それを理解するには論理學的な知
> 識を持つてゐる事が必要です。
さうですか。かつては色々勘違ひしてゐて爺に批判された事も有ったが、今は
(三段論法程度の)論理学を身につけたから、しっかり理解できたと?でも、野
嵜さんの「論理」は、上にも触れたやうに、まだちょっと危っかしいやうですの
で、理解するのが「簡単」だと思ったのなら、その理解も危ういかも知れません
よ。
1) 野嵜さんの「ソクラテス」云々の例は、普通に持ち出される三段論法の例とは違っ
てゐるやうに思へますが、これは「正しくない」例として挙げたのですか。
2) 爺などは反証主義は論理「だけ」の問題ではないと思ひますが、しかし、もしさ
うだとして、野嵜さんが日頃おっしゃる、「ポパーの融通の効く考へ方」といふ
のは、その論理をどのやうに使ふ事なんでせうか。
3) 「進化論は科学である」と主張する反証主義者達は、「先カンブリア紀の地層か
らウサギの化石が出ればそれは十分な反証である」としますが、野嵜さんはどう
思はれますか。それと、かつての「ポパーは進化論を科学ではないとしている」
といふ野嵜さんの主張とはどうかかはりますか?
4) で、改めて理解を深めたその反証主義に照らしても「歴史的假名遣ひは科学的で
ある」と言へますか。
5) かつて、野嵜さんは「途中の理屈はどうでも良い、結論さへ正しければそれで良
い」といふ(爺にとっては最大級の)暴言を吐いておられましたが、論理主義者
となった今でもやっぱり同じ意見ですか。
佐藤さん、
> ここまで「カヘルの面に小便」でゐられるのがぼくには理解できない。
> 「人間」として、大事な部分がマヒしてゐるのだらうな。
さうかも知れません。でも爺は、「最低限の礼儀を守る事」の方がもっと「人間
として大事」な部分だと思ひます。
>命題が「矛盾しない」なら即「同値」なのではなく、「直交している」場合だってあるのです。
つまり
>「空威張りする人には容赦しない」
こととぼくがこの記事で主張する「ファインマンさんは子供であろうが素人であろうが決してばかにせず、いつも対等な人間として話をする」こととは、「關係の無い」話である。「論理的に正し」くても、關係の無い話はしないでいただきたい。
いや、「關係の無い話」をすること自體、「論理的に正し」くない。
爺氏へ。
あなたは間違つた事を論理的に言ふ人である。
それだけです。結論が間違つてゐるんだから何うしやうもない。
ポパーの示した三段論法については、ポパーを讀んでゐる人なら解るでせうか、説明しません。ポパーを知らないでポパーの事を論じてゐるのなら、爺氏はをかしい、それだけの話です。
ポパーは「ダーウィニズムは形而上学的研究プログラム」だと述べてゐます。が、要は「ダーウィニズムはいろいろな事象の意味を述べるものである」と言つてゐるものです。
で、ポパーは、世界3の實在的であるのと同樣に、記號體系としての言語も實在的であると述べてゐます。
私は、爺さんみたいにWikipediaに書かれてゐる事を論じて滿足する氣はありませんので、先づはポパーを讀んでから話をして下さい。
あと、禮儀正しい態度と、慇懃無禮な爺氏の態度とは、全然違ふと思ひます。
爺氏のは、最低限の禮儀も辨へない非道い態度であると云ふ事。
それに、ぼくの發言を「空威張り」「偽善」といふが、ぼくにしてみれば爺氏の態度に對する「正當な怒り」であるし、野嵜さんもさうだといつてゐる。
「論理」とは、「客観的な事實」によつて構成されるものだ。「空威張り」「偽善」といふのは「爺にとって」の、主観的な印象でしかない。
「主観的な印象」にもとづく「關係無い話」は「完全に「論理的」」であるとはいへない。爺氏も「論理」について勉強した方がいいのではないか。
『13歳からの論理ノート』をおすすめする。
それと「議論」とは「相手の話を聞き、理解すること」である。これまでの爺氏の態度を見てゐても、「相手の話を聞かう、理解しやう」という姿勢がまるで感じられない。
「議論のしかた」もあはせて讀んで、議論の「ルール」を學んでいただきたい。
アク禁にはできないやうなので、今後學んだ成果が感じられるまでは以降の爺氏のコメントは削除する。これは爺氏に限らず、「議論」は歓迎するが、「アンチ」はお斷はりする、といふことである。
野嵜さんへ
> あなたは間違つた事を論理的に言ふ人である。
> それだけです。結論が間違つてゐるんだから何うしやうもない。
爺の書いた事が「論理的」と認めて下さるのは有り難いですが、これは質問 5)
で爺が指摘した事の「裏返し」で「理屈はどうでも良い、俺の言ふ事は正しいに
決まってゐる」といふにも読めます。さうなんですか?
> ポパーの示した三段論法については、ポパーを讀んでゐる人なら解るでせうか、
> 説明しません。ポパーを知らないでポパーの事を論じてゐるのなら、爺氏はをか
> しい、それだけの話です。
(「せうか、」は「せうから、」の間違ひだと仮定して……)野嵜さんの引用の
正確さや意図についてお聞きするのに、どうしてポパーの著作を読んでないとい
けないのですか?「ある著作を読んでないから『論理』といふ客観的な問題を論
じてはをかしい」といふ野嵜さんはをかしいと思ひます。それとも、ご自分の理
解に自信がないのでせうか。
諄いかも知れませんが……、普通「三段論法」の例は
「人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」「ソクラテスは死ぬ」
となります。しかるに野嵜さんの引用は順番が違ってゐる。そのこころは?とお
聞きしたつもりだったのですが。
> ポパーは「ダーウィニズムは形而上学的研究プログラム」だと述べてゐます。が、
> 要は「ダーウィニズムはいろいろな事象の意味を述べるものである」と言つてゐ
> るものです。
さうですね、それは分ってゐます。一方で、Wikipedia の "Falicifiability" に
は、著作を引用した上でポパーは「考へを変えた」とある。少くとも爺はさう読
んだのですが、野嵜さんは合意しなかった。で、今度ポパーを読み直して「反証
主義」への理解を深められたやうですが、その「論理的帰結」として、野嵜さんは
どちらに与しますか。(「ポパーが考へを変へたのかどうか」かつ「野嵜さんご
自身は、先カンブリア紀のウサギを『有効な反証』だと思ふか」といふ質問
です。)
> 私は、爺さんみたいにWikipediaに書かれてゐる事を論じて滿足する氣はありま
> せんので、先づはポパーを讀んでから話をして下さい。
さうですか。でも、Wikipeida はそんなに馬鹿にしたものでもないと思ひますけ
どね。第一、上述のやうに、爺は Wikipeida の記述から、ポパーが「改宗」した
事を知った訣です。しかも、それは翻訳されてゐないか、容易には手に入らない
論文からの引用なので、Wikipedia に依らなければ、むしろ「片手落ち」になる
でせう。
それより、「○○を讀んでから話をしろ」は、なんだか話題が客観的でない事を
示唆しているやうに思へます。訓詁の学でないのなら、一般的・客観的な議論が
できるはず。
> あと、禮儀正しい態度と、慇懃無禮な爺氏の態度とは、全然違ふと思ひます。
> 爺氏のは、最低限の禮儀も辨へない非道い態度であると云ふ事。
成程。それは野嵜さんのかねてから仰ってゐるところですね。で、それは、「言
葉だけは丁寧だが的確痛烈な批判をされて癪に障る」といふのとどこが違います
か?また、慇懃無礼なのと、(単に)無礼なのとどっちが酷いといふ事になりま
すか?
佐藤さんへ、
爺> 命題が「矛盾しない」なら即「同値」なのではなく、「直交している」場合
爺> だってあるのです。 つまり
爺>「空威張りする人には容赦しない」
> こととぼくがこの記事で主張する「ファインマンさんは子供であろうが素人であ
> ろう が決してばかにせず、いつも対等な人間として話をする」こととは、「關係
> の無い」話である。「論理的に正し」くても、關係の無い話はしないでいただき
> たい。
「しないでいただきたい」はうって変って殊勝なもの言ひですが、肝心の話の流
れがちっとも解りません。爺の理解ですと
1) まず、佐藤さんがファインマンさん(の訳者後書き)を引き合いに出して、「爺
は知ったかぶりの素人」だと当て擦りを言った。
2) 言われた爺は、これはきっと「もっとやさしくしてくれ」と言ってゐるに違いな
いと察して、同じ訳者後書きの中にある文章を引用して、その期待はかなわない
かも、と言った
1) に対して 2) が「無関係」と言ふなら、「関係ある」言い分とはどのやうな事
なんだらうか、爺には想像もつかない。まさか、野嵜さんのコメントではないで
すよね。(野嵜さんは何故か爺の心理やポパーさんを持ち出して、肝心のファイ
ンマンさんに殆んど言及してゐない。)
それもさうですが、
> いや、「關係の無い話」をすること自體、「論理的に正し」くない。
こっちはもっと解りません。単に「佐藤さんに不都合な話」が「論理的に正しく
ない話」だと仰ってゐるやうにも聞こへます。要は「論理的」の定義が「主観的」
で、とても納得できません。
ひょっとして「13歳からの論理ノート」にさう書いてあるんですか?いくら中学
生向けだからって、そんな無茶な事は書いてないと思ひますよ。佐藤さんがそれ
を読まれてさう理解したのなら、それは誤読だと思ひます。せめて「論理的」と
いふ言葉を普通に使へるようになるまで再読する事をお勧めします。(でも爺は、
佐藤さんには高校数学の「論理」の方が適してゐると思いますが、難しすぎまし
たか?)
しかし、ご紹介頂いた中でも「議論のしかた」の方は、至極尤もな主張が並んで
ゐると思ひます。(「思ひますと書いてはいけない」といふ箇所だけはちょっと
納得できませんでしたが。)
で、爺はどの部分を学習すれば良いですか?といふか、爺のどの言説が「議論の
しかた」のどの部分から見て好ましくないと思はれますか。
あと、佐藤さん御自身や野嵜さんの議論のどのあたりが「議論の仕方」に「即し
てゐる」もしくは「違反してゐる」とお考へですか?例へば、野嵜さんの「先づ
はポパーを讀んでから話をして下さい。」は如何ですか?
>普通「三段論法」の例は「人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」「ソクラテスは死ぬ」となります。しかるに野嵜さんの引用は順番が違ってゐる。そのこころは?とお聞きしたつもりだったのですが。
そのこころも何も、
>「人間は死ぬ」「ソクラテスは死ぬ」「ソクラテスは人間である」と云ふ「三段論法」
は、「ポパーの本で問題にされてゐる」事を述べただけです。あなたはポパーの本を參照すればいい。
まあ、この普通でない三段論法、「この場合のソクラテスとは犬の名前である」と云ふ事實による反證があつたら否定されるねと、ポパーは述べてゐるんですが――。
> 大前提「ファインマンは僞善や空威張りを許さない」
> 小前提「佐藤氏の所論は僞善か空威張りである」
> 結論「ファインマンは佐藤氏を許さない」
同じやうに「佐藤氏の所論が僞善でも空威張りでもない」と云ふ事實で、爺氏の「三段論法」も否定されるわけですから、話が繋がるとも言へなくはないですが、直接の話のコンテキストは繋がつてゐないですね。とは言へ、話は繋がるんで、「佐藤氏の所論が僞善・空威張りであるか否か」の檢討も、していい事になるわけですが――實は「この小前提=佐藤氏の所論は僞善か空威張りである」が、爺氏の解釋であり、この時點で事實も糞もないと云ふ事になります。詰り、この「三段論法」、論理として檢討する事すらも無意味である――單に「全體として爺氏の解釋である」と云ふ事になります。だから私は爺氏のこの「論理」がナンセンスだと指摘するわけです。
ええ、形式的に見れば「論理的」ですよ。それだけで、内容的にはナンセンス。
爺氏が「をかしい」と思つた、ポパーの述べた「三段論法」にしても、「論理的」です。が、事實によつて否定される。爺氏自身の「三段論法」、これも「論理的」ですが、別に論理的な形式を備へてゐるからと言つて眞實であるわけではない。何時でも論理的な形式を備へてゐればいいと爺氏は信じ込んでゐますが、さう云ふ「形式的な論理」への盲信を破壞する爲に、ポパーは事實による反證の重要性を説いたんです。
爺氏。
>1) まず、佐藤さんがファインマンさん(の訳者後書き)を引き合いに出して、「爺は知ったかぶりの素人」だと当て擦りを言った。
>2) 言われた爺は、これはきっと「もっとやさしくしてくれ」と言ってゐるに違いないと察して、同じ訳者後書きの中にある文章を引用して、その期待はかなわないかも、と言った
爺氏の察し方には、何時も感服しますね(皮肉)。最う目茶苦茶。當人に目茶苦茶と云ふ自覺が無いものだから話にならないし。
しかし爺氏が素人である事は事實なのだし、ならば、爺氏の察し方が異常である事は火を見るよりも明かなのだが、それが判らないから爺氏はDQNなんですよね。
素人がどうして「やさしくしてやらう」なんて思ひ上つた事を思つていいんですかね。爺氏は自分が玄人であり偉い人間であると信じてゐるんですかね。でもつて、今、爺氏はそれを自分の口で述べてゐるも同然だ。
自分が偉い人間だと自分で言ふ人間は大抵氣狂ひです。そして、氣狂ひには自分が氣狂ひである事實が判らない。
はい、不合格。
今後爺氏の投稿は削除します。
しかしぼくにしてみれば、爺氏の「所論」こそ「偽善」「空威張り」にしか見えないんだが。それも「屡々」ではなく、「常に」。
さしづめ、
大前提 「ファインマンは僞善や空威張りには容赦しない」
小前提 「爺氏の所論は常に僞善か空威張りである」
結論 「ファインマンは爺氏を容赦しないかも知れない」
といふことになるだらう。
「枯れ木も山のにぎはひ」とはいふが、ただの枯れ木なら風情もある。
しかし腐り果ててまはりに害臭をはなつやうな「腐れ木」は切り倒さなければなるまい。
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/4901158.html
>佐藤さんが仰りたいのは、「爺に手厳しくやられたのは気分が悪い(トラウマになってしまった)」と言ふ事でせうし、せっかくの今回のやうな前向きの姿勢に水を差すのも何ですから謝ります。
爺さんに言いたいのだけれども、「俺様は絶対」と考えて相手に「情けを掛けて見せる」のは謝って居る事にならない。それは傲慢な態度の裏返しで、自分を善人に見せ掛けるための処世術です。私は仮名遣に就いては素人なのでよく分かりませんが、こういう謝り方をする爺さんが正しい事を言って居るとは思えない。「爺氏の所論は僞善か空威張りである」。