Yahoo!の『2012』特集記事で佐治 晴夫氏のことを知り、どんな本を書いているのかと思つて圖書館に行つたらこの本があつた。しかも養老 孟司氏との對談本、養老先生も『唯脳論』から好きなのでより興味が沸いた。
いろいろと共感できる箇所があつたのでメモ。
- 養老
- 本当の自分があるという考え方は、これだけ普及した。僕も実際、そういう教育の下で育ってきたんですよ。戦後ですから。そうしたら教育の価値がどんどん下がった。それは考えてみたら当たり前だなあと思ったんです。
- なぜなら、本当の私があるということは、自分の本質は変わらないということですね。生徒も自分の本質は変わらないと思っているし、先生も自分の本質は変わらないと思っている、親も自分の本質は変わらないと思っている。その三者が集まって教育したって、何が起こりますか。
- 本質は一切変わらないで、人間の飾りみたいなところが変わるだけ、ということになるでしょう。そうすると教育の価値が下がるのは当たり前ですよね。それがあまりにも常識化した段階で突然出現したのが、麻原彰晃ですよ。中年までちゃんと医者をやっていた人がサリンを撒くし、理科系の大学院を出た学生が本気でハルマゲドンを信じ込んでサリンを作る、そういう世界になったということは、人間をそこまで変えられるって事だろう、とぼくは言うんです。
- だけど、まともな教育の場にいる人たちは夢にもそう思っていないので「本当の自分がある」と言うわけですよ。そこには大変な誤解がありますよね。
- 自分というのは、いわば外枠からできていくものだというのが本来の日本の考えです。だから年をとればとるほど、ある意味で自分ができてくる。本当の自分って初めから置いてあるものではないんです。この誤解がどこから始まったのかを自分なりに追求したら、結論は何のことはない、「霊魂の不滅」の言い換えなんですよ。西洋では最後の審判で全員が呼び出されるでしょう?
- 佐治
- 振り分けられてね。
- 養老
- そうすると、その時に「自分」が出なければならないわけですから。そういう意味の「自分がある」「内容をもった自分がある」というのが、彼らの文化では大前提なんですよ。
- いずれにしてもそこからは出られないのだから、当然個性の尊重とか、自己主張とかがあっても、彼らの世界ではそれでつじつまが合うんです。しかし日本では合わない、ということを言いたいんです。
- 僕はカトリックの教育を受けたのですが、向こうの人のほうが逆に、人間が変わるということを信じていました。だから本気で学生を相手にしていましたよ。いいほうに持っていこうと。今、おそらく日本の学校の先生には、それがないでしょう。だれも麻原彰晃を参考にしろなんて言わないでしょう。僕は、あれを見たら人間をどこまで動かせるかということが分かるんじゃないか、と言っちゃいますけどね。
- この国は一億玉砕で特攻隊もやったでしょう。教育基本法に「愛国心」を入れろとか言っている人たちがいますが、それはバカみたいな話で、ある条件にしてやれば、極端に言えば人間なんてどうとでも変わるんですよ。でも、それを学校の先生が思うということは実は怖いことなんですよ。なぜかというと、うっかりすると麻原彰晃になっちゃうし、戦前の日本になっちゃうから。そこはすごく難しいところでしょう。でも、教育が人を変えることができるという信念を失ったときに、教育としては意味がなくなってしまうんです。
- 佐治
- おもしろい話があります。僕は、高校で理科を担当している先生がただけの研修会に呼ばれて話をしました。みんなエリートなんですよ。それで宇宙の始まりの話から、人間に至るまでの話をしたときに、ある先生が私のところに来ました。彼は国立大学の理学部でちゃんとドクターもとって、立派な業績を持って高校の先生になっている人です。
- その先生が僕のところに来まして、「今日先生がお話しされたようなことは、私は全部知っています」と言うのです。それはそうでしょうね。国立大学のドクター出ている人ですからね。
- そういう人を相手に話すことじゃないので、僕は一般的な話をしたわけです。その人は「ビックバンが起こる前に、どういうゆらぎがあったか、そこのところの数学的な話が聞きたかった」と言うわけです。でもこれは高校の先生たちに対する話ではなくて、もっと専門的な話になります。
- そこで僕は彼に言ったんですよ。「先生がそういうことをよく知っていらっしゃるということは僕にも想像ができる。あなたは宇宙のことをよく理解していらっしゃるんでしょうけれど、僕から言わせていただくと、宇宙のことを知るということは、宇宙のことをあなたが勉強して知ることによって、あなたの人生がどう変わったかということをもって、知る、ということなのです。あなたは生徒に、授業を通して彼らの人生をどのように変えられるかという事を念頭に置いて、地学の講義をしていますか?」と。
- そう言ったら、彼は黙りましたね。一番そこが問題ですよね。だから僕は「わかる」ということは、「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ということだと思っています。
--お二人がいつもおっしゃることは、「学ぶ」とか「習う」ということは自分が「変わる」ということで、学んだことや習ったことはそこで初めて理解するのであり、自分が変わらないのであれば何の意味もない、まさしくそうだと思います。
- 養老
- 変わらないけど頭に入っているものを、ただの「知識」というんです。
- 佐治
- 本当にそうですよね。
- 養老
- もっと言えば、ただの知識じゃないものは、自分の中に入ったときに自分の行動を変えるということです。それはむしろ現実と僕は呼ぶ。もはや知識ではなくなって、その人にとっての現実に変換しているということです。
- 佐治
- そういうことですね。いままでの教育というのは、知識の量がどれだけ多いか、イコール学力だったわけでしょう。でも本当は、自分は学ぶ前に知識の体系を持っていますよね。学ぶということは、その中に新しい知識を入れて、それをうまくシステムの中に組み込むことです。言い方を換えれば、新しいパラダイムをつくるということが、学んで理解すること。それをさせるのが教育だと思うんですよ。
- 養老
- ところが普通はそれが怖いんです。なぜかというと、自分自身が壊れると思うから。自分自身が壊れると、もっと俗な言い方をすると、前の自分が死んで、新しい自分になるわけで、それはだれだって怖いんですよ。だって死ぬんだから。それで変わってしまったあとの自分には、逆に前の自分が理解できない。なぜあんな反応をしたんだろう、と。
- 佐治
- 人間は変わらないということはありえないでしょう? たとえば生理学的にも細胞は死んで新しく変わっていくわけですよね。昨日の自分はいないわけでしょう。
- 養老
- 諸行無常です(笑)。万物流転で。
- 佐治
- その万物流転の中で、昨日も僕は佐治晴夫だったし、今日も佐治晴夫なのですが......。
- 養老
- それを僕はシステムの安定性と呼んでいるんです。要するに北里大学だとか日本政府と同じでしょう、と。北里大学は、仔細に見ると、毎年毎年設備が変わっていますね。もしかしたら百年経ったらなくなっているかもしれない。
- 佐治
- だけど、どうして僕は自分のことを佐治晴夫だって思っているんでしょうか。
- 養老
- それは、意識を持ったからですね。意識を持つと何が起こるかというと、「同じ」という機能を強めるんです。そうすると、意識が戻ってきたときに必ず自分を確認します。
- 佐治
- フィードバックしてくるということですか?
- 養老
- 同じ私ということですね。フィードバックというよりも、むしろア・プリオリではないかという気がします。だから目が覚めた瞬間に、「私はだれでしょう」とは思わないでしょう。
- 佐治
- もう先天的に思ってしまうわけですね。
- 養老
- それが「同じ」という機能の特徴じゃないでしょうか。「同じ」という機能は、アイデンティティという言葉でよく現しますが、僕はそれが基本なのでないかと思います。だから意識があると言葉が使える。すべての「リンゴ」は「同じリンゴ」なんですよ。だけど感性は全部「違うリンゴ」だと言うわけです。
- 佐治
- 違うわけですね。
- 養老
- 唯一、われわれがまったく邪魔なしに「同じ」というものを発見するのは、自分自身でしょう。意識そのものです。寝ている間は別に自分は自分でなくていいんですから。夢の中では違う人になっていますからね。
- 佐治
- まさに荘子が言った「胡蝶の夢」みたいなことでしょう。
- 養老
- そうです。そうすると、意識レベルが下がっているわけですから、下がった意識レベルでの自己意識では、「同じ」という機能が消えているんです。覚醒した意識の一番大きな特徴は、「同じ」という一種のみなしですけれどね。
- 佐治
- ユング流の心理学でいうと、集合無意識のようなレベルということ、でもない?
- 養老
- いや、むしろ具体的に考えているつもりで、極端にいうと、覚醒した人の意識というのは、「同じ」という機能を持ってしまったことだと思うんです。だから目が覚めた瞬間に「同じ私」なんですよ。「自分」が「同じ自分」だということを、絶えず確認してしまうんです。
- 一生の間何回目が覚めるかわからないけれど、そのつど「自分だ、自分だ」と思い込んでいれば、「自分だ」と思うようになりますよね。客観的にはそんなことは絶対にありえないわけで、どんどん年をとって変わっていき、いずれは死んでしまう。
- にもかかわらず、赤ん坊のときから、「私は同じ私」だと思い込むというのは、意識にだまされているというしかないんですね。
- 佐治
- また、それがないと生きていけないとも考えられますよね。
- 養老
- そう。「同じ」という機能がないと、実は人間社会が成り立たない。まず言葉が使えない。おそらく動物にはそれがなくて、きわめて具体的に知っているんです。よく「家(うち)」というのを例に出して言うんですが、ネコは自分の「家」がどういうものであるかを、ひょっとするとわれわれよりも詳しくいろいろなディテールを知っている。
- だけど、隣のネコにもまったく同じように「家」があるということを彼らはたぶん考えない。考える必要がないんです。だから彼らは言葉を使わない。それこそ交尾の相手さえあればいいので、言葉を使う必要性がない。だから彼らの社会生活はああいうレベルなんです。
- 人間はそこで言葉を使います。つまりそれは、相手のことを考えることができるから。こういう状況であれば、相手はこう思うだろうなと考えることができる。
- 佐治
- 言葉を使って論理を組み立てていく、一つの手段なんですね。
- 養老
- だけど、その根本には「同じ」という機能がないとできないわけです。「リンゴ」と言っても、「お前の言っている音と俺の言っている音は違うよ」と絶対音感のある人が言い出してしまったら、たいへんなことになってしまいます。言葉そのものが使えなくなってしまいますからね。
- 佐治
- (中略) 僕はヘブライ語を勉強してとてもショックだったのですが、聖書の訳が、ユダヤ教からいまのキリスト教になるときでかなり違っているんですよね。マタイによる福音書の中の非情に重要なところで、「あなたがしてほしいことを、人にしてあげなさい」という箇所がありますね。あれは僕からみれば押しつけ以外の何物でもないわけです。僕がしてほしいこととあなたがしてほしいことは違うんだから。
- それを原典で読むと、「あなたがしてほしくないことを、人にするな」って書いてあるんですよ。これはものすごく正しいですよね。聖書の中の教えも、時代とともに何かいろいろな都合で変わってきているでしょう?
- 養老
- とてもおもしろいんですが、日本のかたは私が「そういう考え方は間違っているでしょう」というと、「じゃあどうしたらいいんですか」と来るんです。それはどういうことかというと、思想が行動に影響するという考え方がまったくないんですよ。自分が、ある思想を持っているということに気がついていない。
- その典型的な例としていつも言うのが、僕が現職で東大の解剖学教室にいたときに、若い人から「先生の言っていることは科学じゃない」という批判があったんです。「科学とはなんだ?」と僕は聞くわけです。すると、「科学とは実験室で物を扱う」そういうふうなことだと言う。「お前の言っている、それが哲学だな」とこっちは言うんですよ。科学の定義は実験室で証明できるものか、と。
- そこを日本人はすごく誤解しているところがあって、世間が決めたものが、実は科学なんだと思っている。だから科学とは、実験室でこれこれこういうことをする、というようなものだと言うんです。それはもともとどこにあったかというと、ヨーロッパにあった。それを持ってきて、それを科学だと言っている。そうでないものは科学ではない、と。そうしたら、それは実は思想であり、哲学じゃないですか。
- なぜかというと、実験室で何が科学と証明できるわけではないんですから。私が言っていることを実験室に持ち込んで、これは科学である科学でないかってリトマス試験紙で判定しているわけじゃないでしょう。そうすると、「先生の言っていることは科学じゃないですよ」という言い方そのものが哲学なんですよ。だけど言っている本人は、自分は科学者で、哲学を語っているつもりはまったくない。そこの問題なんですね。
- 私がさっき言いましたが、「本当の私がある」というような考え方がこういう間違いを起こしてきたでしょう、といった時に、「じゃあどうしたらいいんですか」というのはまったくの間違いなんですよ。その考えを変えた瞬間からやることは変わってしまうんだから、「じゃあ具体的にどうしたらいいんですか」という質問は、実は人の言うことを聞いていない証拠なんです。
- 佐治
- ある意味ではそういうことですよね。
- 養老
- つまり、その人の行動なり、考え方なり、世界観なりがその段階で変わっていない。言ってみれば、小手先を変えればすむと思っているということです。
- 佐治
- 「わかる」ということが、「わ」と「か」を入れ替えて「かわる」ということになっていない、ということですね。
- 養老
- それをやっておくと、うっかり人間は壊さなくなりますよ。僕はもう時計壊して全部部品を並べましたから。さあ、戻そうと思ったらバンザイですよ。
- 佐治
- あれはもう、ゼンマイが広がっちゃつたらどうしようもないですよね。そのときにゼンマイって、これは何というものだろうと思いましたからね。ゼンマイは子供の力では絶対に戻らないんですよ、あれは。
- 養老
- だけど一回壊させなければならないですよね。
- 佐治
- やっぱり壊すことはことは必要でしょうね。
- 養老
- あれに比べたら人間なんてとんでもなく複雑ですよ。組んで元に戻そうというわけにはいかないんだから。というふうに僕は覚えてきた気がするんだけどね。だけどいまはだれもそんなことは思っていないでしょう。だって友達をカッターナイフで殺しちゃうんだから。
- 佐治
- しかも人間の臓器なんていうのは、素人で詳しくはわかりませんけれど、たとえば一つのところが悪いときに、そこを調べてそこを治しても治らないことがあって、お互いにみんなインタラクティブにできていますよね。そこがすごくおもしろいところだと思うんです。
- 自転車レベルのものでもそうですよね。一つのところがどうしても何度も壊れるんだけど、原因は別のところにあったということがあって、そういう全体としてものを見る見方というのは必要なんだけど、どうも最近の教育にはそれがない。
- 養老
- なくなっちゃうというのは言い過ぎですが、情報器官というのはそうでしょう。ある以上は使うというのがもう一つの考えですから。つまり普通は、外から刺激が入って反応しているわけですが、人間だけは中でもつくりだす。刺激そのものも。脳をいくつかに分けて回せばいいんです。こっち側で起こったことが、グルグルと回って、やがてはそこへ帰ってくるんですから。するとまた回すんですよ。思考ってそういうところがあるでしょう? 直感的に。
--大学教育では教養課程をなくしたり、またリベラル・アーツという形でそれが復帰したり、理系・文系に分けて、理系の学生には文系のものが足りないという話も必要ないという話もあります。教養課程の「教養」ですが、養老先生自身がおっしゃったのか、養老先生の恩師の言葉だったか忘れてしまいましたが、教養とは「人の心がわかること」だと。
- 養老
- 「人の心がわかる心」ですね。僕の恩師ですよ。それはある意味では、今ふうに言うと非情に「深い」んです。
- 佐治
- 教養については、法学部のある大先生の最終講義で僕の印象に残っている言葉があります。裁判官は法律にのっとって判決を下すのですが、「最終判断はあなたの教養というものが下す。教養と、本当の意味での常識ということで判断しなければいけない」ということを言われたんですね。そこが本当の教養の意味ではないでしょうかね。
- 本当の教育には、理性を育てるということと同時に、感性、つまり情緒みたいなものかな、理性と情緒との調和というものが必要です。情緒という言葉を僕にさんざん言われたのは、大数学者の岡潔先生なんですが、岡先生は晩年に情緒ということをよく言われていましたね。情緒というのはやはり、人の心がわかるということでしょう? 人の心がわかるということはどういうことかというと、「自分」と「あなた」を入れ替えて考えるということですよね。
--国語は好きだけど算数は嫌いとか、算数は必要だけど国語は必要ないとかいろいろなことがいわれます。佐治先生の言葉を借りれば、その算数というのは、いわゆる情緒の表現はできないかもしれないけど、物事がどうなっているのかを計算で明らかにすることができる。国語、言葉というのは、足し算や引き算はできないけれども、人の悲しみとかそういう感情を表現する手段になるということを考えれば、一つのものを理解しようとしたときには、たとえば数学だけを学ぶのではなく、その周辺の知識も必要になってきますよね。
- 養老
- もし数学の中に情緒がないと思っているとしたら、まったくの誤解だと僕は思いますよ。数学者に藤原正彦さん(お茶の水女子大学理学部教授)という人がいるでしょう。彼は最近、「国語が重要だ!」(笑)って言っているんです。要するに、数学で一番大事なことは何かといったら、美的な感覚ですよ。
- 佐治
- そうなんですよ。
- 養老
- これだけきれいなものが間違っているはずがない、というのが数学者の根本的な論理なんです。