だめもと
(2010年4月 3日 22:11)
「やはり「話」にならない」で取り上げた爺氏のブログ記事だが文中で、
「負けた」と感じ、それを「悔しい」と思ってゐる事が透けて見える
一方的に「負け意識」にこだはるのでは、「いじけ」てゐるやうにしか見えません。
敗北主義に凝り固まってゐる
「負け犬の遠吠え」
よほどぼくが「負けたこと」にして「勝ち誇り」たいらしい。かう書くと爺氏は「またまた佐藤さんの敗北主義が始まりましたね」とか極附けてくるだらうけど、それが「勝ち誇つて」ゐるのである。
透けて見える
、にしか見えません
、結局爺氏の印象でしかなく、「はあさうですか、そんなつもりはないんですが」としか答へやう
がない。
それに、假にぼくが敗北主義
で悔し
がつてゐやうが「正しい」ものは「正しい」のだし、爺氏が「勝ち誇つて」自信滿々であつたとしても「間違ひ」は「間違ひ」である。
敗北主義
であらうがなんだらうが、ぼくの主張とはなんの關係もない。主張の是非だけを問ふべきであつて、その點でいへば爺氏の主張は「間違ひ」以前で、中身の無い「いちやもん」でしかない。
爺氏の「正しさ」がぼくの「正しさ」よりも優れてゐるのであればぼくは爺氏の「正しさ」に從ふ。しかし爺氏の「正しさ」はぼくにはまつたく「正しい」と思へない。だから從へない。それを爺氏は佐藤が愚かだから正しいことも「正しい」と分からないのだと嘲ふ。だがいつてしまへばそれは爺氏が「正しさ」を「愚か者」にも分かるやうに説明する責任を押し附けて、ぼくに理解、いや屈服を強制してゐるだけである。
何度もいふやうに眞當な議論は、互ひに得るものがある。しかし爺氏と言葉のやりとり
をしてゐても何も得るところがない、それどころか時間の無駄、互ひに損をしてゐるだけである。
「議論」にならない限り、爺氏のコメントは今後も削除せざるを得ない。
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爺氏は、自分の頭では何一つ考へてゐません。Wikipediaと同じで、「出典」があれば、何だらうが全部そつくりそのまゝ受容れてしまひます。正しいか否かの判斷はしません。出典があるか否かだけが爺氏には大事なのです。だから爺氏の判斷は何時も硬直してゐて話が出來ない。斯う云ふのは役所に良くゐるタイプです。一般人には嫌はれるタイプですね。
爺氏は、少くとも、考へる訓練はしてゐません。兔に角、何でもかんでも「文字通り」にしか、爺氏は理解出來ません。科學と言へば自然科學であり、人文科學なるものの存在それ自體すら、認める事が出來ません。或は、爺氏は、ポパーの主張を、ジャンルを限定するだけのものだと受止め、物事を考へる態度の問題を扱つたものだと理解する事が出來ません。
爺氏は、相手に「要出典」「要出典」と繰返してゐるだけです。Wikipediaと一緒です。だから、「出典」がありさへすれば爺氏は受容れてしまふ。それが正しいか何うかを、爺氏は判斷しない。「出典がある」=「正しい」です。反證可能性について爺氏は文句を言つて來ましたが、當の爺氏は「檢證出來る」事だけに拘つてゐます。
もちろん、斯う云ふ指摘を爺氏は「ガハハ」と言つて笑ひ飛ばします。けれども、笑ひ飛ばすだけで否定出來ると本氣で信じてゐるとしたら、それは淺はかです。爺氏の發言は、爺氏以外の他人が何う理解するかが問題です。爺氏當人が何う思つてゐようが、爺氏以外の他人の目に爺氏が何う寫つてゐるかが問題であるわけですから。即ち、「ですなあ」とか餘裕ぶつこいて見せてゐる爺氏の態度と、本當に爺氏が餘裕でゐるのか――いやいや、そんな事より、さう云ふ物の言ひ方をしてゐれば、爺氏は不愉快な人物だ、と云ふ印象が廣まるだけでせう。それを爺氏は、全然氣にしてゐない。他人の目に自分が何う映つてゐるかを、爺氏は認識する事が出來ない。爺氏は、佐藤さんや私だけに物を言つてゐる積りで、佐藤さんや私が不愉快になるやうな物の言ひ方をしてゐる積りでゐるのですが、他人が讀んで何う思ふかなんて、爺氏は想像もしてゐない。
「正しさ」が問題であるのなら、爺氏もこんな「他人を不愉快にさせる」と云ふ目的がバレバレの文章は書かないです。しかし、誰が何う見ても爺氏は、佐藤さんや私を不愉快にさせようと、さう云ふ文體で文章を綴つてゐます。
爺氏は、反證可能性について、隨分長々と絡んで呉れましたが、結局、全然理解してゐないんです。實際、文章の讀み方ですら、「斯う讀んでは行けない」と云ふ間違つた讀み方が「ある」。「絶對に正しい讀み方」なんてものは「ない」にしても、間違つた讀み方はある。私は典型的な文系人間ですが、文章の讀み方は良く知つてゐます。最近は「讀みたくない文章」を見ると腦が勝手に理解を拒否するやうになつて、誤讀を連發して、それで「讀みたくない文章を書く人」から「野嵜は誤讀する人間である」と言はれるやうになつてゐますが、惡意丸出しの文章なんて讀みたくないですからね。
少くとも、文章には讀み方があり、「讀取つては行けないもの」を讀取つたら、それは間違ひである、と言ふ事が出來る。文章の讀み方について、これは「正しい」讀取り方であると言ふ事が必ずしも出來ないものではあるけれども、正しくない讀み方をした場合、我々は「正しくない」と指摘する事が出來ます。
けれども、理系の爺氏は、さう云ふ事を知りません。文章を讀むにしても、それは主觀的な行爲だから「科學的」なんて事はあり得ない、と、その程度の認識でゐます。だから文章を身勝手な立場から好き勝手書くんです。反證可能性と云ふ事が何も解つてゐないんです。
ところが、爺氏は得々と反證可能性について語りました。なぜでせう。「出典」があつたからです。「出典」を丸寫しすれば「議論」が出來る、と、さう爺氏は素朴に思つた。御笑ひですが爺氏の「出典」は、Wikipediaでした。爆笑。爺氏はWikipedianだつたのですね。馬鹿です。
ポパーを讀まないで、爺氏はWikipediaと云ふ「出典」を丸寫しして、「議論」をしたのです。
そして、爺氏は、考へない。考へるにしても、素人丸出しの、皮相淺薄な物の見方しかしない。皮相淺薄で、物事の上つ面しか見ないのは、役人と一緒です。役人は少くとも、役に立つ仕事をするから増しです。爺氏は、世間的に役に立つ事を何もしてゐません。「ブログ」でも、何も言つてゐません。
この「ブログ」のコメント欄にも、佐藤氏を小馬鹿にしたやうな事を書込むだけです。爺氏は、特定個人を相手に、嘲りの言葉を投附けるだけです。それを見てゐる第三者の事を、何一つ考へてゐません。或は、誰かを小馬鹿にしてゐるだけで、それで自分は世間に役に立つてゐるのだとか、本氣で思つてゐるのでせう。爺氏は何處ぞの喜の字の信者らしいですから、「野嵜やその周圍の人間を揶揄するならば、何ら建設的な事を言はなくても、それで自分は世の中の役に立つてゐる事になるのだ」と、心から信じられてしまふのかも知れません。
もつとも、喜の字信者の爺氏も、喜の字が書込みの削除を肯定してゐる事實には目を瞑つてゐるやうです。不思議な話ですが、何でも自分に都合良く考へて「身方」を「身方」としてキープしておかうとするのが、この手のアンチの人の特徴です。黨派根性丸出しです。
爺氏なんかより非道い長文の書込み(及び連投)ごめんなさい。
ええと一つだけ忠告させていただきます。この手のアンチの人の攻撃、相手にするのも適當にしておかないと、ちよつと前の私みたいに、何もかも面倒くさくなつて日記を止めてしまふとか、さう云ふ事になり勝ちです。叩くなら徹底的に――ではなく、適當なところでほつたらかしにして、他の事に首を突込んだ方が良いです。
私も竹下義朗とかアレクセイとか、長い間喧嘩を續けた連中がゐますが、さう云つた連中は途中で相手にするのをやめてしまひました。別にそれでいいと思ひます。もつとも、あゝ云つた連中は一往、自分の主張が「ある」わけで、zak_kとか「義」とか喜六郎とかの、ただただ嫌がらせだけの爲に嫌がらせをする、何處か頭のねぢが飛んでゐる人間に比べればまだ増しであるわけですが……。
爺氏も、喜六郎と同じで、何を考へてゐるのかさつぱりわからない、うなぎみたいに捉へどころの無い、今大量に増殖してゐる「匿名の人間」の一人です。自分の主義・主張は明かにしないで、只管他人を叩く。これがこの手の人間の特徴ですが、安全地帶から石を投げて遊んでゐるんです。喜六郎なんかは最う長い事一つのハンドルに拘つて、價値觀が判明しつゝあります。爺氏の場合は、理系である、と言つてゐて、價値觀から超越した存在である事を強調してゐますが、何かものを言ふのに動機がない人間なんてゐませんし、動機は全て價値觀と云ふ主觀に基くものです。それを明かにしない爺氏が鄙劣漢である事は明かです。
この手の鄙劣な人間を相手にし續けると、自分も同じやうな人間に見られるやうになります。日記でも意識してこの手の人の話題を採上げないやうにしないと、どんどん話が偏るやうになります。爺氏は喜ぶでせうが(あの人は怒りません。怒らないのに批判なんて出來やしませんから、あの人のしてゐる事は單なる嫌がらせです)、適當にしておいて下さい。長文失禮しました。
ご忠告痛み入ります。
いまはまだ頭に血が上つてゐて怒りが收まらない状態ですが爺氏ほどの「根氣」はありませんので、收まつたらそのうちまたラーメンや映畫のことでも書くかと思ひます。(もつともさうすると「逃げてゐる」、で叩くと「蒸し返してきた」。ぢやあどうしろといふんでせう。ほんとにわけがわからない)
あはは、爺もとうとう卑劣漢ですか。自分は議論から逃げておいて、議論するな、
とか、やばそうな質問には答へるな、等と平気で佐藤さんに仰る野嵜さんの「倫
理感」には日頃からかなり感銘を受けてゐますので、さう言はれては爺も恐れ入
るしかありません。
それにしても、どうしてさう人の態度や思惑に議論が行ってしまふのでせうね。
(しかもいつも大外れ。)もうそれしか「反論のしやう」が無いのでせうか。アッ
カンベーと同列に思へるのですが。あ、さうか、レッテル貼りの野嵜さんには、
どうしてもこれが要るんだ。でも、そんな事より、目下といふか、卑近といふか、
「13 歳からの論理学」的といふか、そんな「議論」がまだ沢山残ってゐるやうに
思ふんですけんどね。
例へば、佐藤さんの「正しさ」ってどういふ意味ですか、はこれまでもこれから
も、佐藤さんの御主張の正当さんに関する重要な質問だと思ひますが、これにつ
いてちっとも明確にしようとされないのは、何か理由がお有りなのでせうか。
また例へば、よくお二人に「空威張りだ」と言はれる爺ですが、この前の野嵜さ
んには脱帽しました。佐藤さんは、本当のところ、どう感じたのですか。また、
このやうな態度に対してファインマンさんは、どんな感想を持つと思はれますか?
また例へば、野嵜さん御自身は相当「勝ち負け」に拘っておられるやうですが、
勝ち負けに拘るべきではないと主張される佐藤さんはこれについてどう思はれま
すか?爺の拘るべきではないでない、といふ主張について野嵜さんはどうお考へ
ですか?
ともあれ、元気出して議論しませう。
>どうしてさう人の態度や思惑に議論が行ってしまふのでせうね。
斯う言ふ爺氏が。
>あはは
何うしてこんな言葉から話を始めて佐藤氏の説を補強してしまふのだらう。
>しかもいつも大外れ。
だーかーらー。爺氏は何うして何時も斯うやつて自分の意圖を自分で定義してしまふのですか。あなたは他人から何う見られてゐるかを全然氣にしない。だから自己中心的で獨り善がりな主張を繰返してしまふのですよ。
>レッテル貼りの野嵜さん
「野嵜さんはレッテル貼りをする。と云ふのは……」と説明するのなら、議論は出來ます。けれども「レッテル貼りの野嵜さん」では、それこそレッテル貼りで、議論になりません。爺氏は、人を非難する前に、自分の態度を反省したら何うですか。
>また例へば、野嵜さん御自身は相当「勝ち負け」に拘っておられるやうですが、
またさうやつてレッテル貼りをする。あなたは、他人を「レッテル貼り」と言つて非難しますが、自分は平然とレッテル貼りをやりますね。
ところでなぜ「おられる」と爺氏は書いてゐるのでせうか。歴史的假名遣では「をられる」が正しい。
以前、國語の表記について、私は客觀的に・批判できるやうな形で定めるべきだと主張しました。それに對し、爺氏は主觀的に定めるべきだと主張しました。
――これが私には理解出來ない。主觀的に定めたら、批判できません。ところが爺氏は「できる」かのやうに言ふ。
しかし、主觀的に決めた事について論爭しても、單に個人の主觀の押附け合ひが生ずるだけです。そこに批判は存在しません。ところが爺氏は、さう云ふ爭ひをしませうと言ふのです。私にはそこが理解出來ない。
今も爺氏は「ともあれ、元気出して議論しませう。」と言つてゐます。なぜ「元気出して」なのか。感情剥き出しで、主觀的に、言爭ひをしませう、と云ふ事なのか。
――ならば何うして「人の態度や思惑」を論ずるなと爺氏は言ふのか。目茶苦茶です。人が解るやうに爺氏は物を言つてゐない。爺氏は獨り合點してゐます。
爺氏は、爺氏が私や佐藤氏の「態度や思惑」を云々するのは良いが、私や佐藤氏が爺氏の「人の態度や思惑」を云々するのは駄目、「と云ふ事」にしたいのでせう。
斯う言はれると、爺氏は、何時ものやうに「あはは」「大外れ」と言つて胡麻かさうとするでせう。しかし、とぼけるのも大概にして貰ひたい。
アンチの人は全て、例外なしに、自分の立場、根本的な考へ方、信條を明かにしません。ただ、他人の言葉尻を捉へて、揚げ足取りを繰返します。爺氏のやつてゐる事もそれです。
斯うした、場當り的で、淺薄皮相な攻撃をする、と云ふ事が、それ自體として、常人には理解不能です。「なぜ粘着アンチは、執拗に、特定個人に絡み續けるのか」――アンチは、相手が間違つた事を言つてゐる、と説明して、自分は完全に説明した! と思ひます。
しかし、なぜ「間違ひを言つてゐる相手」に對して「執拗に」絡まなければならないのか。「間違ひを言つてゐるから」では、「執拗さ」の説明になりません。
粘着アンチは主觀的に=個人の勝手な思ひ込みに基いて、粘着行爲を繰返してゐる……納得出來る「執拗さの説明」が無い以上、アンチの動機はさう理解されざるを得ません。アンチは、自分に都合の良いやうにのみ考へるから、さう云ふ他人の「解釋」は、理解出來ません。けれども、アンチ以外の他人は、アンチが匿さうとしてゐる惡意を、ちやんと見拔いてゐます。
もちろん、アンチも、惡意を見せたくないのではありません。殊さら匿して見せる事によつて、より嫌らしく、自分が嫌つてゐる相手に嫌な思ひをさせようとしてゐるのです。爺氏の態度が人を苛立たせるものであるのは、さう云ふ理由です。
爺氏は、自分が理系であると言つてゐます。それは、客觀的に、文系人間に絡み續ける理由を説明するものではありません。單に爺氏の立場を説明してゐるに過ぎません。
理系であるのは、別に何の問題もありませんし、それ自體として非難される事ではありません。けれども、文系の側の立場を理解せず、ひたすら「理系」「理系」と、理系の「權威」を強調して、文系の人間を罵倒・嘲笑するのであれば、それは問題であると言へます。
ところが爺氏は、自分が理系だから、と言つて、文系の人間の主張に聞く耳持ちません。文脈も何も考へず、一方的に嘲るばかりです。これで「議論」してゐる積りなのだから、御話にならない。
議論をしたければ、議論の方法を學んで來たら良いのです。ところが爺氏は、議論の何たるかなんて「解つてゐる」と、簡單に考へてゐます。爺氏は、「正しい知識」を持出して、相手の言つてゐる言葉を頭から否定します。けれども、爺氏の「正しい知識」とは、「出典のある情報」の事に過ぎません。「出典」それ自體を批判しないで、「××に書いてあつたから正しいんでしょ」と爺氏は言ふ。話になりませんが、爺氏はさう云ふ「情報の傳聞」=「知識の披瀝」が「議論」だと本氣で信じてゐる。
言つてゐる事に「出典」があるのだから、爺氏は「強い」――けれども、その出典にある情報それ自體に、爺氏は疑ひを抱かないし、またその情報に基いて考へる事も出來ない。
爺氏は、狹量で、硬直した考へ方をします。相手が少しでも獨自の發想をしようとすると、途端に「物を知らない」「的外れ」と言つて、頭ごなしに否定しようとします。
爺氏が私や佐藤さんに質問するのは、爺氏の知つてゐる「正解」に基いて、私や佐藤さんの答へを採點しようと言ふのです。爺氏は「正解を知つてゐる」――爺氏は自分が先生である積りでゐるのです。思ひ上りも甚だしいですが、爺氏に限らず、アンチの人は全て、思ひ上つてゐます。そして、さう云ふ傲慢さを反省する能力を缺いてゐる。アンチは絶對に反省しません。
「自分が誤つてゐる筈が無い」「間違つてゐるのは相手」――アンチは、相手の所爲にする事で自己を正當化する事が出來る、と信じてゐる人間です。これでは話になりません。議論になんてなるわけがない。
が、實は、アンチは、爺氏も喜六郎も、議論なんかする氣がない。人を一方的に嘲つて、遊ぶのが目的だからです。少くとも、それ以外に、アンチの動機を理解する事は出來ない。
爺さんは、何か反論ありますか。あるなら具體的に。「あはは」「的外れ」の類の、嘲りで返して呉れたら、爺氏は負けを認めたのだと理解します。
ところで、爺氏は、「論者の勝ち負け」が、「論者の主張の正邪」と、何の關係もないと、本氣で主張しますか。
と言ふか、執拗に絡んでゐる時點で、爺氏の言つてゐる事が間違ひで、その間違ひを爺氏が力づくで我々に押附けようとしてゐるだけである事は明かである、と思ひますが?
爺さん、なぜあなたは力づくで自分の主觀を押附けようとするのですか。自分が本當に正しい事を言つてゐると確信出來るのならば、我々が何を言つてゐようが構はないではないですか。
爺さんは、我々に絡む必要がないのに絡んでゐます。だから爺さんが間違つてゐるのは明かなのであり、爺さんが負け犬であるのは明かなのです。
いや實際、爺さんが正しいのなら、爺さんは正しい事を自分の「ブログ」なり何なりで言つて、有名になればいいのです。喜六郎だつて、粘着行爲をやめて、やつと人から評價されるやうになつたでせう。人に依存するのは、やめた方が良いです。
なあんだ、「元気出して」なんて言はなくても、いつもどほり野嵜さんは意気軒
昂でしたね。でも、議論が「稚拙」なのもいつもどほり。(しかし、せめて、短
かくする事に努めてみてはいかがですか?)
爺> あはは
野> 何うしてこんな言葉から話を始めて佐藤氏の説を補強してしまふのだらう。
文脈から外れた引用をやってはいけません。「あはは、爺もとうとう(ママ)卑
劣漢ですか」を、爺なら「あはは」で始めないではをれません。「怒り」しか議
論の動機が思ひつけない佐藤さんや野嵜さんなら、「なにをこの糞爺、お前こ
そ……」で始めたいところでせうか。
爺>しかもいつも大外れ。
野> だーかーらー。爺氏は何うして何時も斯うやつて自分の意圖を自分で定義し
てしまふのですか。あなたは他人から何う見られてゐるかを全然氣にしない。だ
から自己中心的で獨り善がりな主張を繰返してしまふのですよ。
わーはっはっはっは。いや失礼、「だーかーらー」と読み換へて下さい。
しかしまあ、冒頭から野嵜さんらしさ爆発ですね。爺が自分の意図を自分で「定
義」してはいけないのですか?(「定義」もちょっと変ですが。)また、爺に自
意識が全く無いってどうやって知ったのですか?で、爺の意図を「定義」できる
のは野嵜さんで、で、爺が自己中で独り善がりだと、野嵜さんが決められる……。
わーはっはっはっは(といふしか無いでせう。)
まったくどこをどう直せば「まとも」になるのか、爺などにはとても解らない
「議論」ですが、しかし、野嵜さんが依然として「まともな議論はできないだら
う」といふ事だけはよく解ります。論理云々の前にまず「客観的」な「議論」に
しないといけませんね。(問題はやっぱり「知識の多寡」ではないやうです。あ
と、また「言葉尻を捉へて」と言はれる前に言っておくなら、この「訣のわから
なさ」は野嵜さんの議論の本質的な欠陥の一つだと思ひます。これまでも繰返し
出てきましたし。)
などと「元気」ぶって反論を始めたものの、「先は長いなあ」といふ思ひがしき
り。(野嵜さんの大作を一々添削風に批判するのは大変なんですよ。なかなか理
解できないので。)なので、野嵜さん、これに続く御自身の議論の数々を、一度
ご自分の「主観的な判断」を劈開したらどうなるか添削してみて頂けませんか?
おっと、佐藤さんの弁に言及するのを忘れるところだった。
爺> 「負けた」と感じ、それを「悔しい」と思ってゐる事が透けて見える
爺> 一方的に「負け意識」にこだはるのでは、「いじけ」てゐるやうにしか見えません。
爺> 敗北主義に凝り固まってゐる
爺> 「負け犬の遠吠え」
佐藤さん> よほどぼくが「負けたこと」にして「勝ち誇り」たいらしい。かう書
佐藤さん> くと爺氏は「またまた佐藤さんの敗北主義が始まりましたね」とか極
佐藤さん> 附けてくるだらうけど、それが「勝ち誇つて」ゐるのである。
さうですか。でもそれは佐藤さんの誤解ですね。爺の言ひたかったのは、「議論
は勝ち負けではない」「自分で負けと決めてしまふな」といふ事です。確かに
「負け」といふ文字は沢山出てきますが、文脈を離れて個々の言葉だけから(し
かも好悪だけで)判断してゐたのでは「話にならない」ですよ。第一「勝ち負け
ではない」は意見が一致するところではないですか。(野嵜さんは、「勝ち負け」
第一主義のやうですが。)
爺氏の投稿があつたけれども、嘲笑ふ事が爺氏の目的と云ふ事をまたまた示して、佐藤氏の説を補強しただけだつた。何なのだらう。
>爺の言ひたかったのは、「議論は勝ち負けではない」「自分で負けと決めてしまふな」といふ事です。
爺氏の言つてゐる事が全然理解出來ない。では議論は何なのだらう。或は、爺氏のやつてゐる「議論」と、爺氏の今の主張とは、何んな關係があるのだらう。
より正しい事を言つてゐれば勝ちで、明かに正しくない事を言つてゐれば負け――そんな事は解り切つた話だ。もちろん、暴力で相手を壓倒しようとする爺氏のやうな粘着アンチもゐるけれども、それこそ話にならない。大體、當事者以外の人が見てゐて、客觀的に判斷する事を考へれば、議論でそんな事をするのは無意味だ。
客觀的に正しい・正しくないと云ふ事があるのであり、主觀的な「議論における論者の勝ち負けの印象」(爺氏はこれに拘つて「あはは」だの「わーはっはっはっは」だのと言つて自分を優位に見せかけようとしてゐる)なんてものは何の意味もない。
一言で言へば、爺氏は、議論の場で哄笑して見せるパフォーマンスをやめろ、と云ふ事。
あと。
>野嵜さんの大作を一々添削風に批判するのは大変なんですよ。なかなか理解できないので。
明かな嫌がらせ行爲。アレクセイ田中幸一がやつたのと完全に同じ。嫌がらせ目的で爺が絡んで來てゐる事は明か。
と言ふか、斯う云ふ抽象的な「議論の議論」が始まると、最うただの水掛け論に陷つてゐるわけで、議論でも何でもないです。それをやりたがるのがアンチのアンチたる所以。
長文失礼します。
>爺さんへ
爺さんが「理系」を名乗ろうと「文系」を名乗ろうと、それは勝手にやって呉れれば良いのですが、爺さんは現在の「普通の」日本人であろうと思う。私はかつての通称HTML原理主義者やかつての通称アクセシビリティ論者などを嫌と言うほど見て来ました。
ひとことで言うと極めて頭が固い。発想が偏って居る。必ず「仕様書や附随書に拠れば○○である」という言い方をする。仕様書や附随書は絶対に正しいのであって、これに沿はない貴様の主張は間違って居るという言い方をします。尤もそう反論して呉れるなら議論が成立する余地はあるのですが、自分の発想以外を排斥する人がほとんどなので議論に見せ掛けた「弾劾裁判」のようになって仕舞う。彼らは自分の発想が仕様書などの公的文書に基づいて居ると信じて居るか、或は、自分の正義が絶対に正しいと信じて居るか、いづれか。したがって当人に嫌がらせして居る積りは全く無く、或る意味「良い人」です。爺さんもそう。
人間が物を言うときには必ず自分の価値判断が混じるのですが、価値判断そのものは悪い事ではありません。むしろ人間らしい行為です。問題はその価値判断の根拠。「仕様書に○○と書いてある、ここから類推するに……」。こういう考え方をする人を一般に「理系人間」と呼んで居るけれども、出典元に、何故そう書かれて居るのか、を考えようとしません。仕様書を法律、設計図書、学術書などに置き換へても同じ。そう書かれて居る本質的な部分、すなはち、理念とか思想とかの話は「非論理的である」と思って居る。意識して機械的な部分だけを観て、機械的・形式的な判断をする事を「論理的」と思って居ます。これが間違いである事は明らか。出典元も人間が考えて書いて居るのだから必ず価値判断が混じって居る。その価値判断の根拠は理念なり思想なりである筈。
人文科学が科学であるのは、人間が人間である以上避けられない価値判断そのものに就いて考え、その根拠の正誤を検討するからです。簡単に言えば元が悪いと何をしても良くならない。思想が間違って居るなら現実の制度その他は良くならないと云う事。國語問題にしても憲法問題にしても然り。ともかくも理念や思想を扱う事を嫌うのが現在の「普通の」日本人です。
眠いので纏まらない……乱文御勘弁。
前回投稿に少し補足。
何時だったか「人文科学は科学か」問題で、爺さんのブログで「根拠は何ですか」と訊き続けたのは、爺さん御自身の価値判断の根拠を訊いて居たのです。
私は辞書を出典元にしたけれど、何故そう書かれて居るのか、を述べて居る。すなはち人間は理性と感情を併せ持つ動物ではあるけれど、人間たらしめて居るのは理性であるとして、理性的に物事を考える事を科学と呼んで良い。これが私の価値判断の根拠です。これが正しいか否か。爺さんは何う考えてをられますか?
何度も質問する事が悪いのではなく、自分の価値判断の根拠を示さない事が悪い。そういうのを議論とは言いません。
一往書いておくと。
そもそもポパーによる科學の定義に、ジャンルとしての「自然科學」「人文科學」の區別は意味を持たないです。
所謂自然科學の中に含められるところのダーウィニズムも、ポパーによれば科學ではありません。
自然科學は全部が全部科學と云ふわけではないし、人文科學も全部が全部非科學と云ふわけでもない。それだけの話。
爺氏は、個別の問題について、結論を述べるのに、「理窟でなく、出典だけを示せ」と要求しました。これが何うしやうもないWikipedia的發想で、だから爺氏がWikipedianだと私は言つたものです。
塗炭さんにはもうちょっと待っていただくとして、とりあへず野嵜さん、
> 所謂自然科學の中に含められるところのダーウィニズムも、ポパーによれば科
> 學ではありません。
だーかーらー、それが間違ってますって。Wikipedia の "Falicifiability" を読
んで下さい:-) "Evolution" の項です。たった二十行あまりです。お願ひします
よ。
> 自然科學は全部が全部科學と云ふわけではないし、人文科學も全部が全部非科
> 學と云ふわけでもない。それだけの話。
だーかーらー、もっとちゃんと話してごらんって言ってるでしょ。「科学と自称
する自然科学の全てが、ポパーの言ふ科学ではないし、科学と自称する人文科学
の全てがポパーの言ふ科学でもない」といふ意味ですか?ありがたくて(あたり
前すぎて)涙が出ます。たしかに「それだけの話」ですなあ、ポパーを理解して
ゐない人が語ったら。
> 爺氏は、個別の問題について、結論を述べるのに、「理窟でなく、出典だけを
> 示せ」と要求しました。これが何うしやうもないWikipedia的發想で、だから
> 爺氏が Wikipedian だと私は言つたものです。
だーかーらー、「ポパーがこう言った」と(間違って)引用するしか能の無い野
嵜さんが生え抜きの「出典主義者」なんですってばぁ。反証主義を一貫して適用
するなら、進化論は「科学」です(反証可能だから)。それを認められない(実
は認めてゐるのですが)ポパーさんがこう言った、としか言へないのなら、野嵜
さんは理屈を放り出してゐる。先カンブリア紀の「兎の化石」は反証にならない、
とお考へですか?
先カンブリア紀の「地層から出た」兎の化石と言ふべきでした。(馬鹿念ならご勘弁下さい。)
>Falicifiability
爺さんが誤読した例のあの話でせう。
>反証主義を一貫して適用するなら、進化論は「科学」です(反証可能だから)。
相変らず誤読したままのやうですね。
ダーウィニズムそれ自体は反証可能ではありません。或種の具体的な事例については反証可能なケースがあるとポパーは認めただけです。
ところがその個別のケースとダーウィニズム全体とを、爺さんは取違へてゐるんですね。話になりません。
少くとも、爺さんは「ダーウィニズムを否定する反證」が如何なる物かを言表す事が出來ません。そもそも、ダーウィニズムが科學である事を論證しようとして、具體例を澤山擧げても無意味です。
あと、私がダーウィニズムと言つてゐるのを爺さんは進化論と言換へましたね。用語の定義を穿鑿しても無意味だと云ふ話ですが、彼我で想定してゐる概念に違ひがあるのならば話は別。
そもそも爺さんが、たまたま手近に見附けた一つの事例に拘つて「どうだ」「どうだ」と言續ける――如何にもゆとり世代のDQNです。ゆとりの爺さんは本を讀まない。讀む能力が無いし、それゆゑ「本は讀まないで良い」と勘違ひしてゐる。
>「ポパーがこう言った」と(間違って)引用するしか能の無い野嵜さんが生え抜きの「出典主義者」なんですってばぁ。
「ポパーの所謂科學」について私と爺さんとの間には議論が生じたのでせう。ならば「ポパーの思想」と云ふのは議論に於て常に參照されねばならない文脈です。
ポパーの著作は、自説を補強する爲に示すべき「出典」ではなく、議論の根本に存在し、常に參照されるべき「文脈」です。
――それを爺さんは無視しろと言ふのです。ならば爺さんは「議論の仕方を知らない」無知な人です。解りませんか。
私は理窟を放り出してゐるのでなく、理窟の前提となる文脈をちやんと重視してゐるのです。それに對して爺さんは、文脈を無視し、自分勝手な事を場當り的にべらべらべらべら喋つてゐる。そこが私と爺さんの違ひです。
が、さうなると、爺さんが私の事を「解つてゐない」と非難するのは、爺さんが解つてゐないからである事を意味します。そして、解つてゐないからこそ爺さんは執拗に自説に固執し、他人を馬鹿にする事が出來る。ところが、爺さんは何も知らないのです。それが證據に「ポパーを讀んでゐないでせう」と私は何度も指摘してゐます。
爺さんがポパーを讀んでゐない事は事實なのです。そして、讀んでもゐないポパーについて、ポパーを讀んでゐる私に爺さんは偉さうに説教を垂れてゐる。一方、私は今日、ポパーの『フレームワークの神話』を買つて來ました。
少くとも、ポパーの思想に關する議論で、ポパーを讀んでゐない――そもそもポパーの本を持つてもゐない爺さんが、偉さうにポパーの思想を語るなんて事は、許されないのです。當り前です。ところがそれが爺さんには解らない。
明かに爺さんはDQNです。
爺氏の投稿から「揶揄」を削除すると3行で済む。ブログの「責任者」として、次回から「編集」しやうかな。
大體、爺さんは科學とか合理性とかを輕蔑してゐるんですよ、さう云ふ人がポパーを理解してゐるとは思へない。ポパーがなぜ批判と云ふ事を重視したかを考へれば、爺さんがしてゐるみたいな人格攻撃はあり得ない事になるんです。論者の敗北主義だの何だのと爺さんは誹謗中傷の限りを盡してゐますが、さう云ふ事を言ふ無意味さを、ポパーの讀者なら知つてゐます。
なるほど、ポパーの信者ではないから、爺さんはポパーの主張には從はないと――ならば喜六郎と一緒で、爺さんは世の中を良くしたいと云ふ意志を持たない、只管自分勝手に好きな事を言ひ、他人を侮辱して遊んでゐる、自己中心的な人間であると、さう云ふ事になります。ポパーは世の中を良くする爲に批判の重要性を説いてゐるのだから、それを支持しないのなら、世の中を良くしようと云ふ意志がない事は明かです。そしてポパーの反對者である喜六郎や爺さんが、惡意丸出しの中傷を繰返してゐるのを見れば、その思想のみならず人格は、外部の人間が客觀的に看取出來ると思ひます。
私は今、爺さんや喜六郎の人格を攻撃してゐるのではありません、爺さん逹の思想を客觀的に描寫してゐるだけです。爺さん逹がさう云ふ立場を自ら選びとつてゐるのですし、さう云ふ爺さん逹の立場を私は外部から客觀的に指摘してゐるだけです。
私は喜六郎や爺さんの人格を、主觀的に極附けるのでなく、客觀的に描寫してゐるのです。
それを爺さん逹は「人格」と云ふ言葉を見ただけで結び附けて考へてしまふのですが、本當に「解らない人は解らないのだなあ」と思ひます。
>Wikipedia の "Falicifiability" を読んで下さい。
これも一種の揶揄ですね。もし揶揄ふ意圖が無いのなら、爺さんは眞面目に説明した事でせう。
>「科学と自称する自然科学の全てが、ポパーの言ふ科学ではないし、科学と自称する人文科学の全てがポパーの言ふ科学でもない」といふ意味ですか?
ポパーを理解してゐるけれどもポパーを一册も讀んだ事がない爺さんだから、質問責めと云ふ揶揄をするんでせうね。解つてゐるなら説明出來る筈。ところが爺さんは説明しないのです。
>反証主義を一貫して適用するなら、進化論は「科学」です(反証可能だから)。
「反証可能だから」と爺さんは言つて澄ました顔をしてゐますが、この澄まし顏をする事が揶揄です。
これは既に指摘したやうに、爺さんの誤讀です。「反証可能」なのは「進化論」ではありません、自然撰擇に關する觀察可能な個別の事例です。ドグマとしての「ダーウィニズム」「進化論」は、明かに科學ではありません。ハックスリ等のダーウィニズムも爺さんは「反證可能だから科學である」と、大眞面目に主張するでせうか。何れにしても、爺さんの發言は全ての部分に揶揄があると言ふ事が出來ます。
要するに、爺さんの發言は内容が薄いのです。
あと。
>たしかに「それだけの話」ですなあ、ポパーを理解してゐない人が語ったら。
これ、爺さんが全くポパーを讀んでをらず、それゆゑポパーを理解してゐない決定的な證據です。「それだけの話」でない事は、ポパーの讀者なら、誰でも知つてゐなければならない。
『フレームワークの神話』45ページ。
「しかし、もっと大きな脅威もあります。つまり、理論は、科学理論でさえそうなのですが、知的な流行、宗教の代用、堅固に守られたイデオロギーになりうるのです。」
ポパーは「大きな脅威」と言つてゐます。ポパーは、科學革命とイデオロギー革命について語つてゐますが、科學とイデオロギーの違ひを重視します。
科學と科學でないものの違ひを認識する事は、ポパーの讀者ならば、ポパーの理解に絶對に必要な事であると知つてゐます。
繰返しますが、ポパーの讀者なら、誰でもこの事は知つてゐます。ポパー自身、改めて、科學理論とイデオロギーとの混同を「大きな脅威」として指摘してゐるのです。
ところが爺さんは「それだけの話」と言つて、にこにこしてゐます。「脅威」の存在するであらう事を、想像もしませんし、危惧もしてゐません。暢氣です。ポパーの讀者でなく、ポパーの思想を理解してゐないから、こんな暢氣な事を、爺さんは言へるのです。が、ポパーの讀者でありポパーの理解者であるならば、誰でも暢氣にはしてゐられません。もちろん、ポパーは未來に對して樂天的である事の大事さも言つてゐますが、樂天的である事と能天氣である事とは違ひます。爺さんは剩りにも能天氣です。だから爺さんがポパーを理解してゐない事は明かなのです。
>要するに、爺さんの發言は内容が薄いのです。
たしかに、爺氏はつねに自分では「答へ」をいはない。それは「答へ」がわかつてゐないことと、相手に「答へ」をいはせて、揚げ足をとることが目的だからである。
それと爺氏はしよつちゅう「あはは」の「わはは」の笑ふが、それこそ「議論に詰つて」笑つてごまかしてゐるだけである。
野嵜さん、
ごまかそうとしているのか、本当に理解できないのか…… ともあれ、
Popper himself drew a distinction between common descent and the process
of natural selection. While he agreed with evolutionists that common
descent was falsifiable (he used the even more drastic example of the
remains of a car in cambrian sediments),[13] he argued against them when
he said that natural selection "is not a testable scientific theory but
a metaphysical research programme".[14]
Popper later recanted, "I have changed my mind about the testability and
logical status of the theory of natural selection, and I am glad to have
the opportunity to make a recantation."[15] He went on to formulate
natural selection in a falsifiable way and offered a more nuanced view
of its status. He still felt that "Darwin's own most important
contribution to the theory of evolution, his theory of natural
selection, is difficult to test." However, "[t]here are some tests, even
some experimental tests; and in some cases, such as the famous
phenomenon known as 'industrial melanism', we can observe natural
selection happening under our very eyes, as it were.
の下りを読んだ上で、本当にそう思ってゐらっしゃるのですか?
ポパーを讀んで、反證主義を理解してゐるなら、爺氏は著作から引用して、「ポパーはかういつてゐる、しかし野嵜さんの主張はそれと違つてゐる」、といふはずである。
しかし爺氏はWikipediaから引用しただけである。
Wikipediaは百科事典でしかないし、そもそもどこの誰が書いたのかも分からない、下手すれば「素人」が書いたものにすぎないかもしれない。
そんなものを「根據」にすることはできない。
もしもWikipediaの解説が的確なものだとしても、それを示すためには結局ポパーの著作を參照する必要がある。
つーか譯してほしい。
あーなるほど。理解しました。ポパーは後に反證可能な科學として自然淘汰説を認めるやうになつたと。
ええ。さうですね。爺さんの知識は實に正確ですね。爺さんの指摘を認めますよ。私が間違つてゐて、爺さんが正しかつた。
だから何ですか。
>所謂自然科學の中に含められるところのダーウィニズムも、ポパーによれば科學ではありません。
これを取消したところで、これは私の書込みの本筋ではないから問題ではありません。爺さんは揚げ足取りをして喜んでゐます。
爺さんは、「誤を理解しない野嵜と云ふ人間を揶揄ふ」と云ふ大變な誤を犯しました。
爺さん、あなたは人格攻撃を仕掛けました。それこそが佐藤さんが怒り、私が怒つてゐる最大の理由です。それに對する爺さんの辯解や説明は、何一つありません。
爺さんは、さうした人格攻撃は當然の事だと思つてゐるのです。
けれども、人格攻撃は、ポパーもファインマンも認めない行爲です。爺さんは、それを理解してゐますか。
あと、私の主張には、誤解もありますが、正解もあります。爺さんにはその点も理解していただければ幸です。
「しかし、もっと大きな脅威もあります。つまり、理論は、科学理論でさえそうなのですが、知的な流行、宗教の代用、堅固に守られたイデオロギーになりうるのです。」
自然選択に関してはポパーは経験科学として認める発言をしてゐます。が、ダーウィン革命それ自体については、科学革命としての側面とともにイデオロギー革命としての側面も含む事をポパーは指摘してゐます。
なほ、ポパーは「われわれはもちろん、科学の批判的アプローチから学んだイデオロギーは、科学と調和しないイデオロギーよりもおそらく合理的であるといえるだろう。」と述べてゐます。
野嵜さん、
> あーなるほど。理解しました。ポパーは後に反證可能な科學として自然淘汰
> 説を認めるやうになつたと。
潔いですねぇ、野嵜さん。爺は貴方の事を誇りに思いますよ。また、加へて、
> ええ。さうですね。爺さんの知識は實に正確ですね。爺さんの指摘を認めます
> よ。私が間違つてゐて、爺さんが正しかつた。
とまで。でも、何だか少々諄いなぁ……と思ってゐたら
> だから何ですか。
……。爺、がっかりの図。「ええ、ええ、どうせ私は馬鹿ですよ」なんて過剰反
応は、昔は女性の専売特許だったさうですが、今時は男性もやるもののやうです。
>> 所謂自然科學の中に含められるところのダーウィニズムも、ポパーによれば
>> 科學ではありません。
> これを取消したところで、これは私の書込みの本筋ではないから問題ではあり
> ません。爺さんは揚げ足取りをして喜んでゐます。
「議論の本筋ではない」と御自分で宣言したら、それへの反論は全て「揚げ足取
り」になるんですか。「自己中」って便利な性格ですね。(便利だけど、説得力
が無いのが難点。ともあれ、そろそろ野嵜流「とんでも論」の始まる兆し…… )
> 爺さんは、「誤を理解しない野嵜と云ふ人間を揶揄ふ」と云ふ大變な誤を犯し
> ました。
やっぱり!「誤を理解する」というのもちょっとをかしいやうな気もしますが、
まあそれを扨置くとして、「誤りに気付かない野嵜さん」と「それをからかふ爺」
を比べて、どっちが酷いか、といふ話に持って行きますか。で、「大変な誤り」
ねえ。なんだか言い方が「自己中」といふより子供じみて来ました。
> けれども、人格攻撃は、ポパーもファインマンも認めない行爲です。爺さんは、
> それを理解してゐますか。
理解してゐません。そもそも「爺の人格攻撃」って何の事ですか。ポパー・ファ
インマンについては「要出典」……。ですが、
> あと、私の主張には、誤解もありますが、正解もあります。爺さんにはその点
> も理解していただければ幸です。
こっちは理解できます。それどころか、下記には大いに賛成します。
>「しかし、もっと大きな脅威もあります。つまり、理論は、科学理論でさえそ
> うなのですが、知的な流行、宗教の代用、堅固に守られたイデオロギーになり
> うるのです。」
御意。
> なほ、ポパーは「われわれはもちろん、科学の批判的アプローチから学んだイ
> デオロギーは、科学と調和しないイデオロギーよりもおそらく合理的であると
> いえるだろう。」と述べてゐます。
こっちは、「われわれはもちろん、」がどこにかかるか未詳ですが、それを除け
ば完全に同意できます。何だか、野嵜さんと爺の間には確固とした共通の基盤が
できたやうですね。
……で終われば、めでたしめでたし、なのですが、しかしそれでは同時に爺は
「能天気」の謗りを免れない。大事な論点が残っています。
野嵜さんが「ポパーは○○と言ってゐる」と引用する事と、野嵜さんが実際に○
○に同意する、もしくは○○と信じる、という事は違ひます。この辺どうも混同
されがちで、野嵜さんの上の「過剰反応」もそのせいに違ひない。ポパーの言っ
た事夫々に然程の重要性は無いでせう。そんなに「むき」になって取り繕う必要
も無かったのですよ。実際、爺も野嵜さんとの議論を始める前は、「ポパーは進
化論を科学とは認めてない」と思ってゐましたし。(で、それを「反証主義を歪
めてゐるといふ意味で誤りである」とも。念のため。)
だから、問題は野嵜さん自身がポパーを読んで「進化論は科学である」、はたま
た「科学と調和するイデオロギーの方が合理的である」と信じるようになったか
どうか、という点にあります。
爺は元より両方に完全に同意です。野嵜さんはどう思はれますか?
塗炭さん、
> 爺さんが「理系」を名乗ろうと「文系」を名乗ろうと、それは勝手にやって呉れ
> れば良いのですが、爺さんは現在の「普通の」日本人であろうと思う。私はかつ
> ての通称HTML原理主義者やかつての通称アクセシビリティ論者などを嫌と言うほ
> ど見て来ました。
うーむ、早速意味が良く取れませんが、とりあへず、塗炭さんが IT 業界の方で、
「HTML 原理主義者」や「アクセシビリティ論者」を後に出てくる「頭の固い人」
の例に挙げたいのだ、と理解して良いですか?
> ひとことで言うと極めて頭が固い。発想が偏って居る。必ず「仕様書や附随書に
> 拠れば○○である」という言い方をする。仕様書や附随書は絶対に正しいのであっ
> て、これに沿はない貴様の主張は間違って居るという言い方をします。尤もそう
> 反論して呉れるなら議論が成立する余地はあるのですが、自分の発想以外を排斥
> する人がほとんどなので議論に見せ掛けた「弾劾裁判」のようになって仕舞う。
> 彼らは自分の発想が仕様書などの公的文書に基づいて居ると信じて居るか、或は、
> 自分の正義が絶対に正しいと信じて居るか、いづれか。したがって当人に嫌がら
> せして居る積りは全く無く、或る意味「良い人」です。爺さんもそう。
これは Web サイト作成プロジェクトの会議の一幕でせうか。塗炭さんの書かれた
HTML ソースが上手く動かない、もしくは、特定のブラウザでうまく表示できない
問題を論じてゐる、と。だとすると、塗炭さんの言ひ分は少々頓珍漢ではないで
すか?ちゃんと動くもの、アクセシビリティを確保したものを作って納入するの
が至上命令の時に、HTML 規格の是非(その思想?)を論じようとしたら、「弾劾」
されるのも無理は無いと思ひます。
爺でも「弾劾」しますよ、きっと。「お前、明日が納期だっちゅうのに、いちび
るのもええ加減にせえよ。さっさと間違ひを訂正して試験しろ。」
> 人間が物を言うときには必ず自分の価値判断が混じるのですが、価値判断そのも
> のは悪い事ではありません。むしろ人間らしい行為です。問題はその価値判断の
> 根拠。「仕様書に○○と書いてある、ここから類推するに……」。こういう考え
> 方をする人を一般に「理系人間」と呼んで居るけれども、出典元に、何故そう書
> かれて居るのか、を考えようとしません。仕様書を法律、設計図書、学術書など
> に置き換へても同じ。そう書かれて居る本質的な部分、すなはち、理念とか思想
> とかの話は「非論理的である」と思って居る。意識して機械的な部分だけを観て、
> 機械的・形式的な判断をする事を「論理的」と思って居ます。これが間違いであ
> る事は明らか。出典元も人間が考えて書いて居るのだから必ず価値判断が混じっ
> て居る。その価値判断の根拠は理念なり思想なりである筈。
ですから、「価値判断」の根拠を論ふのは時と場所を選ぶ必要が有る訣で……。
例へば HTML の場合は、むしろ機械的な適用を心掛けるべきです。一意的な解釈
ができるように仕様書は書かれてあるべきで、かつ設計者は、それをできるだけ
仕様書の意図通りに(機械的に)解釈しなければならない。当り前ではないです
か。しかもそんな事は「論理的」「非論理的」もしくは「文系」「理系」以前の
話でせう。
> 人文科学が科学であるのは、人間が人間である以上避けられない価値判断そのも
> のに就いて考え、その根拠の正誤を検討するからです。簡単に言えば元が悪いと
> 何をしても良くならない。思想が間違って居るなら現実の制度その他は良くなら
> ないと云う事。國語問題にしても憲法問題にしても然り。ともかくも理念や思想
> を扱う事を嫌うのが現在の「普通の」日本人です。
> 眠いので纏まらない……乱文御勘弁。
相当眠そうな(訣がわからない)ので、勘弁してあげます。
> 私は辞書を出典元にしたけれど、何故そう書かれて居るのか、を述べて居る。す
> なはち人間は理性と感情を併せ持つ動物ではあるけれど、人間たらしめて居るの
> は理性であるとして、理性的に物事を考える事を科学と呼んで良い。これが私の
> 価値判断の根拠です。これが正しいか否か。爺さんは何う考えてをられますか?
正しいもなにも爺には何が「価値判断」で、何がその「根拠」になってゐると仰っ
てゐるのかさっぱり解りません。(まだ眠いのでせうか。)
しかし好意的に推測するに、「人文「科学」は科学である」という「主張」の
「根拠」が、「人に理性が有る事」、すなわち「理性的にものを考へる事全般を
科学と呼ぶべきで、人文「科学」も理性的にものを考へてゐる限りは科学と呼べ
るはずだ」といふ事でせうか。
もしさうであれば、爺はこれは「間違ってゐる」もしくは「不十分」だと思ひま
す。この「根拠」に基くと、法律、規則、神学、神話、宗教、いずれも「科学」
と言へてしまう。何にでも当て嵌るのでは、何かを定義した事にはならないでせ
う。
> 何度も質問する事が悪いのではなく、自分の価値判断の根拠を示さない事が悪い。
> そういうのを議論とは言いません。
何度も質問して申し訣ないですが、上の質問に答へていただければ幸甚です。
(何が「価値判断」で、何がその「根拠」なか、という下りですね。)
価値判断ではなく、爺の「主張」(「人文「科学」は必ずしも科学的とは言へな
い」)とその根拠(人文「科学」は、そもそも仮説の定立とその検証といふサイ
クルに則ってない事が多いし、その仮説が反証可能ではない事が多い)なら、明
確に示してゐると思ひますが、これでは不足ですか?
>だから、問題は野嵜さん自身がポパーを読んで「進化論は科学である」、はたまた「科学と調和するイデオロギーの方が合理的である」と信じるようになったかどうか、という点にあります。
理窟としてさうなるならさうだと認めざるを得ないですが、私が信じる信じないの話ではないでせう。私の外部の客觀的事實としてさうであると云ふ事。
なぜ爺さんは、私・野嵜と云ふ「人が何う思ふか」に拘るのですか。
>この「根拠」に基くと、法律、規則、神学、神話、宗教、いずれも「科学」と言へてしまう。
なぜ爺さんは、「自然科學一般」が「必ずしも全て科學であるわけではない」と解つてゐるのに、「法律一般」「規則一般」「神学一般」「神話一般」「宗教一般」をひつくるめて「全て科學ではない」と云ふのですか。
>人文「科学」は、そもそも仮説の定立とその検証といふサイクルに則ってない事が多いし、その仮説が反証可能ではない事が多い
なぜ爺さんは「全ての人文科學は一つの例外もナシに仮説の定立とその検証といふサイクルに則ってない」と言はないのですか。
テストが困難であつても全く不可能と云ふわけではないのなら、經驗科學に含まれるものと認めざるを得ないはずですが?
私には爺さんの論理がよくわかりません。是非とも解るやうに説明していただければと存じます。
川島武宣が『「科学としての法律学」とその発展』なる本を出してゐますが、爺さんは何う思はれますか。
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/31971982.html
上田賢治が『神道神學』で岸本英夫の所説を引いて廣義の宗教學の中にも科學に屬する分野があると述べてゐますが、何う思はれますか。
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/33228250.html
あと、ポパーは歴史學に就いてどのやうに述べてゐるか、まだ讀んでゐないのでよく知らないのですが、爺さんはどのやうに理解してをられますか。
野嵜さん、
爺> だから、問題は野嵜さん自身がポパーを読んで「進化論は科学である」、は
爺> たまた「科学と調和するイデオロギーの方が合理的である」と信じるように
爺> なったかどうか、という点にあります。
野嵜さん> 理窟としてさうなるならさうだと認めざるを得ないですが、私が信じ
野嵜さん> る信じないの話ではないでせう。私の外部の客觀的事實としてさうで
野嵜さん> あると云ふ事。
野嵜さん> なぜ爺さんは、私・野嵜と云ふ「人が何う思ふか」に拘るのですか。
質問の意味が良く解りません。野嵜さんと議論をしてゐるつもりの爺としては、
野嵜さん「自身のご意見」を知りたいと思ふのは当然の欲求だと思ひます。で、
「ポパーが、自然選択説も科学だと認めた」と知っただけで、「外部の客観的事
実としてさうである」と思ふようになった、といふのが今一つ爺には飲み込めな
かったのでした。実際、ポパーさんにとってはこれは「改宗」と言へる程重大な
意見の変更だった訣ですから。もし「諄い」とお感じなら謝ります。
それはともかく、「理屈としてさうなるならさうだと認めざるを得ない」のと、
「さう思ふってゐる」のは爺としては概略同じだらう(つまり、ポパーの言ひ分
を引用しただけではない、といふ意味で)と思ひますから、答へは頂きました。
で、進化論を科学として認めるならば、論理の行き着くところ、「創造説」は合
理的ではない、ひいてはそれに基づく政策(宗教と国家の分離の否定、公教育に
於ける宗教教育の制限の否定等)は合理的ではない、となると思ひますが、野嵜
さんはどう思はれますか?
> なぜ爺さんは「全ての人文科學は一つの例外もナシに仮説の定立とその検証と
> いふサイクルに則ってない」と言はないのですか。
> テストが困難であつても全く不可能と云ふわけではないのなら、經驗科學に含
> まれるものと認めざるを得ないはずですが?
仰ってゐる事がよく解りませんが(「経験科学」って何ですか?)、最初の質問
については、「そうは思はないから」が答です。塗炭さんの「価値判断」が全称
命題なので、その「否定」は「ある人文「科学」は科学ではない」となり、爺は
それの根拠を言はうとしてゐるのでした。
>「改宗」
それは人の態度・考へ方ですね。爺さんは人の思想を大變重視します。でも、「改宗」のやうな、宗教みたいな話しでは無いと思ひますよ。なぜなら、ポパーは誤を訂正したのであり、信仰を變へたのではないですから。
ポパーは、自分の信條を改めたのではなく、自分の知識を訂正したのです。
>で、進化論を科学として認めるならば、論理の行き着くところ、「創造説」は合理的ではない、ひいてはそれに基づく政策(宗教と国家の分離の否定、公教育に於ける宗教教育の制限の否定等)は合理的ではない、となると思ひますが、野嵜さんはどう思はれますか?
科學の教育としては合理的でない、と云ふ事になるのでないですか。
歴史の教育、道徳の教育の領域では、また話が別になるでせう。もつとも、どんなに神話を教へたところで、現代社會では從來の宗教に「信仰を持つ」のは困難な状況になつてゐます。戰前の日本でも、誰も神話なんて眞面目に信じてはゐませんでした。少くとも知識人は。
>「経験科学」って何ですか?
ポパーは『フレームワークの神話』第一章「科学革命の合理性」の註41に以下のやうに書いてゐます。
繰り返しを恐れて、わたくしは本講演では理論の経験的性格についての基準(経験科学と非経験科学との境界設定基準としての反証可能性または反駁可能性)についてのわたくしの提案を述べなかった。英語では「科学」は、「経験科学」を意味し、またこの問題がわたくしの著作において十分に論じられてからは、わたくしは、……次のように書いてきた。「科学的であるとされるためには、[言明は、]可能な、または考えうる観察と衝突できなければならない。」何人かの人々はすぐにこれに飛びついた。……「あなた自身の信条はどうなのですか」というのが、典型的な反応である。……。ここでもう一度その答えを述べてもよいだろう。すなわち、わたくしの信条は、「科学的」ではない、つまりそれは経験科学に属するのではなく、むしろ(規範的な)提案なのである。ちなみにわたくしの信条(とそしてわたくしの答え)は、観察によっては批判されないけれども、批判可能である――そして批判されてきた。
確認ですが、爺さんは「或人文科學は科學ではない」が「或人文科學は科學である」と認めるのですか。
爺>「改宗」
> それは人の態度・考へ方ですね。爺さんは人の思想を大變重視します。でも、
> 「改宗」のやうな、宗教みたいな話しでは無いと思ひますよ。なぜなら、ポパー
> は誤を訂正したのであり、信仰を變へたのではないですから。
「改宗」はポパーさんが自身でそう形容したから、「重大な決断であった」事を
強調するために使っただけです。ただ、宗教とまるっきり関係ない事もないやう
な気もしてます。ポパーさんは「不可知論者」らしいですが、それなら尚の事、
進化論を科学と見る事は、自身の宗教観の大幅な変更を意味するでせう。
> ポパーは、自分の信條を改めたのではなく、自分の知識を訂正したのです。
うーむ、野嵜さんの仰りやうで一番違和感が有るのはこのあたりですね。知識と
信条・信仰ってそんなにあっさり切り離せるものでせうか。ポパーさんの例を取
るまでもなく、信条・思想は、知識を体系的に積み上げる中で、少しずつ築き上
げて行くものだと思ひます。ならば、さうさう「ひょい」と変へられるものでは
ないだらう、と思ふのですよ。
爺> で、進化論を科学として認めるならば、論理の行き着くところ、「創造説」
爺> は合理的ではない、ひいてはそれに基づく政策(宗教と国家の分離の否定、
爺> 公教育に於ける宗教教育の制限の否定等)は合理的ではない、となると思ひ
爺> ますが、野嵜さんはどう思はれますか?
> 科學の教育としては合理的でない、と云ふ事になるのでないですか。
> 歴史の教育、道徳の教育の領域では、また話が別になるでせう。もつとも、ど
> んなに神話を教へたところで、現代社會では從來の宗教に「信仰を持つ」のは
> 困難な状況になつてゐます。戰前の日本でも、誰も神話なんて眞面目に信じて
> はゐませんでした。少くとも知識人は。
まあ、さうだらうと爺も思ひますが、でも、それからの帰結は「だから戦前の日
本はやりきれない」です。一方、野嵜さんは「戦前に回帰すべき」といふご意見
でしたよね。それは、これらの事をよく考へた上での結論なんでせうか。つまり
鴎外さんが、「かのように」で嘆いてみせ、漱石さんが「私の個人主義」で打破
を(暗黙裡に)勧めた「表面的な態度と内心の信条」の乖離を余儀なくされる社
会に帰ろうと言ふのは、これらをよく踏まえた上での思想・信条なのでせうか。
> 確認ですが、爺さんは「或人文科學は科學ではない」が「或人文科學は科學で
> ある」と認めるのですか。
いえ、「或る人文「科学」が科学である」と言ふだけの知識が爺にはありません。
しかも「科学」かどうかは、仮説についてだけ言へるので、ある学問分野が、科
学かどうかは、それにかかってゐる。
>「戦前に回帰すべき」
さうではなく「戦前の努力を継続すべき」です。
>ある学問分野が、科学かどうか
学問分野の中のある説が科学かどうか、を尋ねたのですが、ジャンル全体の話しか爺さんはしないとの事ですね。
爺> 野嵜さんは「戦前に回帰すべき」といふ御意見でしたよね……
野嵜さん> さうではなく「戦前の努力を継続すべき」です。
さうでした。「近代化の努力」でしたよね。それがどのやうな政策を指すのか教
えて頂ければ有難いと思ひます。
爺> ある学問分野が、科学かどうか……
野嵜さん> 学問分野の中のある説が科学かどうか、を尋ねたのですが、ジャンル
野嵜さん> 全体の話しか爺さんはしないとの事ですね。
さう取れましたか。科学的かどうかは特定の仮説についてのみはっきり言へる、
といふか意味が有る、と言ってきたつもりですが。
で、人文「科学」の特定の仮説の中に「科学的」でないものが有るとは言へるが、
「科学的」なものが有るとは言へない(無いとも言ひ切れない)、といふのが爺
の現在の意見・立場です。
>信条・思想は、知識を体系的に積み上げる中で、少しずつ築き上げて行くもの
それが「間違ひ」であつたと分かれば、それが「さうさう「ひょい」と変へられるもの」ではないとしても、改めるのは當然のことであり、それこそ「反證主義」です。ポパーは自身の主義に從つたのです。
「間違つてゐた」ことを分つてゐながらそれを改めないのは、ルイセンコや「主體農法」のやうに「害」ですらある。
また「知識」と「信仰」は扱ふ領域が違ひます。
知識は「自分は『どのやうにして』ここにゐるのか」といふ問ひには答へてくれますが、「自分は『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひには答へられません。その答へは信仰にあります。
しかし「『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひは「『どのやうにして』ここにゐるのか」といふ問ひを生み出した。存在の「理由」を問ふにはまず「存在」自體を問ふ必要がある。
「知識」と「信仰」は扱ふ領域が違ふ。しかし表裏一體なのです。
>「表面的な態度と内心の信条」の乖離を余儀なくされる社会
現在がそれほど「まし」な社會だとも思へません。
『かのやうに』や『私の個人主義』を讀みましたが、漱石が警告したやうに、個人が「むやみに個性を発展しようとして他を妨害する」、権力者は「濫用に流れる」、金力を持つた企業が「社會の腐敗をもたらす」、「ずいぶん危険な現象を呈するに至」つてゐる。
それは鴎外や漱石らが目指した日本の近代化が、「敗戰」によつて日本は民主國家に生まれ變はつて完了したと思ひ込んだ、あるいは「思ひ込まされた」ことにより、近代化をなほざりにしてしまつたのではないのか。その結果として日本人は人格を損なつてしまつてゐる。
近代化とはただ西洋の「知識」を輸入するだけではない。その「知識」の背景となつてゐる「信仰」も學ぶ必要があつた。しかし近代化は完了したのだから「信仰」は學ぶ必要はないと思つてしまひ、西洋のみならず日本古來の「信仰」も失つてしまつた。結果「知識」しか持ち合はせない「信仰」、人格無き人間、社會を現出させてしまつてゐる。
新興宗教に学歴の高い人間が集まるのも失はれた「信仰」を欲つしてゐるからではないか。しかしそれはオウムのやうな歪んだ「信仰」も生み出してゐる。
戰前が「やりきれない」のであれば現在だつてやりきれない。少なくともぼくにとつては「占領憲法」と「現代仮名遣い」をうたがひもしない今の日本はやりきれない。
ならば中斷した時點、すなはち戰前に立ち返り、「日本の近代化」をもう一度見直してみよう、といふのが野嵜さんの主張であり、ぼくもそれに同意します。
佐藤さん、
やっと「議論」に戻って来られましたね。歓迎します。
爺> 信条・思想は、知識を体系的に積み上げる中で、少しずつ築き上げて行くもの
> それが「間違ひ」であつたと分かれば、それが「さうさう「ひょい」と変へられ
> るもの」ではないとしても、改めるのは當然のことであり、それこそ「反證主義」
> です。ポパーは自身の主義に從つたのです。「間違つてゐた」ことを分つてゐな
> がらそれを改めないのは、ルイセンコや「主體農法」のやうに「害」ですらある。
それは「反証主義」ではありません。っていくら言っても解っていただけないの
で、そっちはもう諦めるとして、でも、どうしてさういつもいつも頓珍漢な受け
応へができるのか……。爺は野嵜さんが「ひょい」と変えた事を咎めてゐるので
すよ。ポパーは、進化論への考へを変へるのに爺が知る限りでも 10 年はかかっ
てゐる。
> また「知識」と「信仰」は扱ふ領域が違ひます。知識は「自分は『どのやうにし
> て』ここにゐるのか」といふ問ひには答へてくれますが、「自分は『何のために』
> ここにゐるのか」といふ問ひには答へられません。その答へは信仰にあります。
> しかし「『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひは「『どのやうにして』こ
> こにゐるのか」といふ問ひを生み出した。存在の「理由」を問ふにはまず「存在」
> 自體を問ふ必要がある。「知識」と「信仰」は扱ふ領域が違ふ。しかし表裏一體
> なのです。
成程、どこかで聞いたやうな(さっき読んだ、エホバの証人の小冊子にあったや
うな)話ですな。で、佐藤さんは、どういふ信仰をお持ちで、その教義からどう
いふ「御自身の存在理由」を教わったのでせうか。
ちなみに、爺はにその小冊子は「笑止」でした。
爺>「表面的な態度と内心の信条」の乖離を余儀なくされる社会
> 現在がそれほど「まし」な社會だとも思へません。
> 『かのやうに』や『私の個人主義』を讀みましたが、漱石が警告したやうに、個
> 人が「むやみに個性を発展しようとして他を妨害する」、権力者は「濫用に流れ
> る」、金力を持つた企業が「社會の腐敗をもたらす」、「ずいぶん危険な現象を
> 呈するに至」つてゐる。
御自身で出典にあたったのは偉いと思ひますが、そんな無理な引用をするやうで
は、やはりきちんと理解できてゐないのではないか、と心配です。漱石は、個人
主義に基いた人格の涵養ができてゐない人間がこういふ事をやりかねない、と言っ
たのですよ。
> それは鴎外や漱石らが目指した日本の近代化が、「敗戰」によつて日本は民主國
> 家に生まれ變はつて完了したと思ひ込んだ、あるいは「思ひ込まされた」ことに
> より、近代化をなほざりにしてしまつたのではないのか。その結果として日本人
> は人格を損なつてしまつてゐる。
どうにも訣の解らない議論ですが、でもつまるところ、その「近代化」が何を指
してゐるのかが解らない、という事になりますか。
> 近代化とはただ西洋の「知識」を輸入するだけではない。その「知識」の背景と
> なつてゐる「信仰」も學ぶ必要があつた。しかし近代化は完了したのだから「信
> 仰」は學ぶ必要はないと思つてしまひ、西洋のみならず日本古來の「信仰」も失
> つてしまつた。結果「知識」しか持ち合はせない「信仰」、人格無き人間、社會
> を現出させてしまつてゐる。
やっぱりその「近代化」が問題ですね。漱石は知識に加へて「個人主義」とそれ
を保証する「自由主義」こそ重要だと言ってゐる。「信仰」は彼の主張の一部で
はない。何も漱石を引用するまでもなく、世俗化(脱宗教)が西欧における近代
化の重要な一部だったのは常識ではないですか。
> 新興宗教に学歴の高い人間が集まるのも失はれた「信仰」を欲つしてゐるからで
> はないか。しかしそれはオウムのやうな歪んだ「信仰」も生み出してゐる。
さうですね。で、明治政府が西欧の文物だけを取り入れて、「その背景となるキ
リスト教」を取り入れなかった事については、佐藤さんはどうお考えなのでせう
か。
> 戰前が「やりきれない」のであれば現在だつてやりきれない。少なくともぼくに
> とつては「占領憲法」と「現代仮名遣い」をうたがひもしない今の日本はやりき
> れない。
さうですか。普通の理性があればとても信じられないイデオロギーを「信じてい
るふりをさせられる」事と、憲法の正統性や假名遣ひの是非に関してあなたの意
見に同意する人が少ない事を同列に扱ふのは、いかにも牽強附会、といふか「と
んでも論」に聞こえますが。
> ならば中斷した時點、すなはち戰前に立ち返り、「日本の近代化」をもう一度見
> 直してみよう、といふのが野嵜さんの主張であり、ぼくもそれに同意します。
何が「ならば」なのか理解に苦しみます(まさか、佐藤さんの上述の「やりきれ
無さ」を解消するだけのために、戦前に立ち返るのではないですよね?)が、
「中断した時点」といふのは新たな視点ですね。野嵜さんは明治政府の近代化政
策なるものを信奉してゐるやうですが、それがどんなものかをどうしても教へて
くれません。ならせめて、その中断した時点が何時なのかが分れば想像が付くか
も知れません。大体いつ頃とお考えですか?(勿論、政策そのものを教へて下さっ
た方が話は早いと思いますが。)
・假説は論理的=批判が可能でなければならない。
・假説に間違ひがある=反證されれば、その假説は否定される
ぼくは「反證主義」をかう解釈してゐる。であればポパーが考へを改めたのは「反證主義」にほかならない。
「『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひの答へがさう簡單に見いだせるのであれば「宗教」も「哲學」も必要ない。そして日本における近代化の失敗は、西歐の「物質」のみを取り入れ宗教や哲學といつた「精神」はおざなりにしてゐた點にある。
「世俗化(脱宗教)」は結局西歐文明は「キリスト教」が根底にあることによる。「宗教」や「哲學」を持たない日本では「世俗化」以前に近代化の「精神」を學ぶことができてゐなかつた。
「中斷した時點に立ち返る」だけでなく、「日本の近代化」そのものを見直す必要もあるかもしれない。
「いつ」かといへば、サンフランシスコ平和条約を締結したのち「日本国憲法」を廢止しなかつた時點といふことになります。「これで日本は近代國家だ、平和國家だ」と思ひ込んでしまひ、それまで續けてゐた近代化の努力をやめてしまつた。
>「表面的な態度と内心の信条」の乖離を余儀なくされる社会
今でもさほど變はつてないやうな氣がします。
「空氣」を讀む、あるいは「讀まされる」ことがどれだけあることか。
日本は戰前すでに立憲議會政治が行はれてゐた。戰中は「天皇イデオロギー」が國家によつてプロパガンダされてゐたが、それは戰爭といふ非常事態によるものである。アメリカだとて戰爭中は「自由」といふ「イデオロギー」によつて戰爭が遂行されてゐた。
さうでないときは鷗外や漱石のやうにイデオロギー批判も許された。「思想の自由」があつたのです。
前に「児童ポルノ」問題について書いたとき思つたのですが、今の日本はあまりにも「自由」が擴大しすぎてしまひ、「倫理」や「人格」はおろそかにされてしまつてゐる。
「秩序でがんじがらめの社會」と「秩序が崩壞した社會」どちらもやりきれないではないですか。「がんじがらめ」すぎるのは望まないが、「崩壞した」ままでもいいわけがない。
「個人主義」も「自由主義」も日本でちやんと定着してゐる、とはいへない。
ぼくは「エホバの証人」の信者ではありませんが、その教義を否定はしません。
しかし信者にとつては、救濟を輿へてくれる、命よりも大事なものです。つまり他人の信教を否定するのはその人にとつて命よりも大事なものを否定することである。
「いやエホバの証人の教義が『笑止』なだけであつて他の宗教の教義は笑止ではありません」といふのは宗教差別でしかない。
ぼくはオウムを「歪んだ信仰」だと書いたが、それはオウムの教義そのものを否定してゐるのではなく、オウムのしでかしたテロ行爲を非難してゐるのである。
他人の宗教の教義を「笑止」だといふのは「信教の自由」の否定である。たとひ「宗教は否定すべきである」という思想を持つてゐるとしても、それを他人に強制することはできない。
>さうでした。「近代化の努力」でしたよね。それがどのやうな政策を指すのか教えて頂ければ有難いと思ひます。
>野嵜さんは明治政府の近代化政策なるものを信奉してゐるやうですが、それがどんなものかをどうしても教へてくれません。
>漱石は知識に加へて「個人主義」とそれを保証する「自由主義」こそ重要だと言ってゐる。
福田恆存が指摘してゐますが、個人主義にしても自由主義にしても近代化の進んだ歐米では限界が見えて來てゐるわけです。それをまた日本人は單純に輸入して眞似をして言つてゐるわけですが、それは理解した事にはならないだらうと。
日本人が日本の近代化を推進めるのならば、歐米諸國と同じやうに、個人主義にしても自由主義にしても徹底し突詰めて、限界に突當たらなければならない。さうしなければ、まざまざと個人主義の限界・自由主義の限界なんてものは知る事が出來ないだらうと。
>で、人文「科学」の特定の仮説の中に「科学的」でないものが有るとは言へるが、「科学的」なものが有るとは言へない(無いとも言ひ切れない)、といふのが爺の現在の意見・立場です。
それは意見・立場ではありません。「わからない」と言つてゐるだけです。
>爺は野嵜さんが「ひょい」と変えた事を咎めてゐるのですよ。
それが理系の人の物の見方なのでせうか。
私も十年くらゐ粘つて爺さんに虚假にされた方が良かつたのでせうか。爺さん、殘念でしたね。
實際のところ、私は「明治政府の近代化政策なるものを信奉して」等ゐません。それでは爺さんは私を非難できないんですね。だから爺さんは、意地になつて、野嵜が「明治政府の近代化政策なるものを信奉してゐる」事にしてしまはうとしてゐる。けれども、私は「信奉してゐない」んです。
大日本帝國憲法と「日本国憲法」との間には、形式的にも内容的にも連續性は「ない」ですね。爺さん、解りますか。解りませんか。「日本国憲法」は、「大日本帝國憲法を改正したもの」と言つても、「全文書換へ」である事實は明かですね。私は、「全文書換へ」では駄目だと言つてゐるだけです。形式的に「何處を改めたか」が判るやうな形で、内容的に「何が問題だから改めたか」が判るやうな形で改正しない限り、改正ではないです。單に「別の物」を何處からか持つて來ただけです。「何處からか持つて來た」では駄目です。
野嵜さんやぼくは、「現代仮名遣い」や「常用漢字」が「間違ひ」であると分かつたから正字正かなを遣つてゐるわけです。
いはばぼくらのはうが「考へ方が柔軟」なのです。
佐藤さん
> ・假説は論理的=批判が可能でなければならない。
> ・假説に間違ひがある=反證されれば、その假説は否定される
> ぼくは「反證主義」をかう解釈してゐる。であればポパーが考へを改めたのは
> 「反證主義」にほかならない。
その解釈は二重三重に間違ってゐます。反証主義は、「仮説」が科学的かどうか
に関するもので、一方、反証主義のテーゼ自身は、反証可能な科学的仮説であり
ません。奇しくも野嵜さんが上げた、「フレームワークの神話」の注釈を読んで
みて下さい。(訳が今一ですが、とにかくそこでの「信条」(gospel)が、「反証
主義」を、「言明」(statements) が「仮説」の事を指すとして良いやうです。)
> 「『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひの答へがさう簡單に見いだせるの
> であれば「宗教」も「哲學」も必要ない。そして日本における近代化の失敗は、
> 西歐の「物質」のみを取り入れ宗教や哲學といつた「精神」はおざなりにしてゐ
> た點にある。「世俗化(脱宗教)」は結局西歐文明は「キリスト教」が根底にあ
> ることによる。「宗教」や「哲學」を持たない日本では「世俗化」以前に近代化
> の「精神」を學ぶことができてゐなかつた。「中斷した時點に立ち返る」だけで
> なく、「日本の近代化」そのものを見直す必要もあるかもしれない。
二重三重に根拠の薄い議論です。といふか訣が解らない。
・要は、佐藤さんは「何のために」を知るために宗教は必要だと思ったけど、
今のところそれによって知る事はできてない、といふ事ですね。
・日本における「近代化」は失敗したのですか?でも、どの近代化なんでせう。
・宗教を待たない、とありますが神道は宗教ではない?
> 「いつ」かといへば、サンフランシスコ平和条約を締結したのち「日本国憲法」
> を廢止しなかつた時點といふことになります。「これで日本は近代國家だ、平和
> 國家だ」と思ひ込んでしまひ、それまで續けてゐた近代化の努力をやめてしまつ
> た。
あれ、「戦前」じゃなかったんですか?
爺> 「表面的な態度と内心の信条」の乖離を余儀なくされる社会
> 今でもさほど變はつてないやうな氣がします。「空氣」を讀む、あるいは「讀
> まされる」ことがどれだけあることか。
ですから、佐藤さんの個人的な「不遇」さと、体制としての問題をいっしょにし
ないで下さい。そもそも、その不遇さは、明治「的」体制になったら、余計酷く
なるかも知れませんよ。
> 日本は戰前すでに立憲議會政治が行はれてゐた。戰中は「天皇イデオロギー」が
> 國家によつてプロパガンダされてゐたが、それは戰爭といふ非常事態によるもの
> である。アメリカだとて戰爭中は「自由」といふ「イデオロギー」によつて戰爭
> が遂行されてゐた。さうでないときは鷗外や漱石のやうにイデオロギー批判も許
> された。「思想の自由」があつたのです。
それは全く認識が間違ってゐると思ひます。天皇制イデオロギーの鼓吹は、最初
から明治政府の基本的政策でした。絶対主義的になったのは少し後でせうが、治
安維持法の成立はその完成を意味するでせうし、それは太平洋戦争開戦よりずっ
と前です。また、鴎外や漱石は「イデオロギー批判」をしてゐません(日記以外
では。)さういふ意味で、開戦までは「思想の自由」が有ったといふのはとんで
もない間違ひでせう。
> 前に「児童ポルノ」問題について書い
> たとき思つたのですが、今の日本はあまりにも「自由」が擴大しすぎてしまひ、
> 「倫理」や「人格」はおろそかにされてしまつてゐる。「秩序でがんじがらめの
> 社會」と「秩序が崩壞した社會」どちらもやりきれないではないですか。「がん
> じがらめ」すぎるのは望まないが、「崩壞した」ままでもいいわけがない。
私は「崩壊して」ゐるとは思ひませんが、佐藤さんのおっしゃる、ちょうど良い
ところって、どのあたりになりますか?「がんじがらめ」がさしずめイランかサ
ウジアラビア、「崩壊」しているのがソマリアといふところでせうか。もちろん
佐藤さんはその中間のどこかを目指すのでせうが、現在の日本とサウジアラビア
の間、といふ事になりますね。どのあたりですか?
> ぼくは「エホバの証人」の信者ではありませんが、その教義を否定はしません。
> しかし信者にとつては、救濟を輿へてくれる、命よりも大事なものです。つまり
> 他人の信教を否定するのはその人にとつて命よりも大事なものを否定することで
> ある。「いやエホバの証人の教義が『笑止』なだけであつて他の宗教の教義は笑
> 止ではありません」といふのは宗教差別でしかない。
さうですか、でもそれは誤読ですね。(エホバの証人は、たまたま手許にその小
冊子が有っただけで、特にそれ「だけ」が笑止な訣ではない。)でも、宗教家は
他の宗派や宗教の教義を否定しますよ。例へばその小冊子によるとエホバの証人
は特にそれが強烈です。他人の「命より大事なもの」を「邪教だ」とさえ言ひま
す(クリスマスさへ祝ってはいけないらしい)。また、カソリックは「プロテス
タントは地獄に落る」と言ひます。キリスト教徒と回教徒ならもっと凄い事を言
ひ合うでせうね。これらの言い分を、それぞれ「ごもっともです」と言ふのは、
普通の思考力を持ってゐれば不可能ではないでせうか。
> ぼくはオウムを「歪んだ信仰」だと書いたが、それはオウムの教義そのものを否
> 定してゐるのではなく、オウムのしでかしたテロ行爲を非難してゐるのである。
成程。オウム真理教の教義は実際の犯罪行為とは無関係で、宗教と自称するなら
何を広めても良いと?
> 他人の宗教の教義を「笑止」だといふのは「信教の自由」の否定である。たと
> ひ「宗教は否定すべきである」という思想を持つてゐるとしても、それを他人
> に強制することはできない。
そんな大層な……。といふか、ご自分の仰てゐる事が解って言ってます?私への
「布教」のために置いていかれた小冊子の内容を「とるにたりない」「馬鹿げて
ゐる」と言っても私がそれを信じられない、といふだけの事。
爺> 漱石は知識に加へて「個人主義」とそれを保証する「自由主義」こそ重要だ
爺> と言ってゐる。
> 福田恆存が指摘してゐますが、個人主義にしても自由主義にしても近代化の進ん
> だ歐米では限界が見えて來てゐるわけです。それをまた日本人は單純に輸入して
> 眞似をして言つてゐるわけですが、それは理解した事にはならないだらうと。
> 日本人が日本の近代化を推進めるのならば、歐米諸國と同じやうに、個人主義に
> しても自由主義にしても徹底し突詰めて、限界に突當たらなければならない。さ
> うしなければ、まざまざと個人主義の限界・自由主義の限界なんてものは知る事
> が出來ないだらうと。
福田さんも、時にはまっとうな事を仰るやうで、これには爺もある程度は賛成し
ますが、でも、それでその後「突き詰めるには及ばない」といふ結論が来るんで
すよね、きっと。
爺> で、人文「科学」の特定の仮説の中に「科学的」でないものが有るとは言へ
爺> るが、「科学的」なものが有るとは言へない(無いとも言ひ切れない)、といふ
爺> のが爺の現在の意見・立場です。
野嵜さん> それは意見・立場ではありません。「わからない」と言つてゐるだけ
野嵜さん> です。
これは恐れ入りました。しかし、それはとんでもない短見ですね。あることにつ
いて「さうは言へない」「判断がつかない」「わからない」といふのは立派な意
見の表明だと思ひますよ。ゲーデルの不完全性定理って聞かれた事ありますか?
まあ、そんな高尚な事より、仮説の批判は「全称命題になってゐる事の否定」か
ら始まる事が多いやうです。有り体に言えば、「かならずしも(いつも)さうと
は言へないやうですよ」から始まるんですね。
爺> 爺は野嵜さんが「ひょい」と変えた事を咎めてゐるのですよ。
野嵜さん> それが理系の人の物の見方なのでせうか。
そんなふうに言ひ逃れするのは文系の人の習慣でせうか。そんな訣はないですよ
ね。とまれ「進化論は科学ではない」と信じてゐた唯一の理由が「ポパーさんが
さう言ってゐる(ゐた)から」ですか?それぢやああまりに浅薄ではないですか、
と言ふ事です。
野嵜さん> 私も十年くらゐ粘つて爺さんに虚假にされた方が良かつたのでせうか。
野嵜さん> 爺さん、殘念でしたね。
あはは、お気遣ひなく。そんな期待はしてゐませんから(どっちにしても何年も
保つ訣ないですよね。「誰がどう言った」しか根拠が無いんだから。)
> 實際のところ、私は「明治政府の近代化政策なるものを信奉して」等ゐません。
> それでは爺さんは私を非難できないんですね。だから爺さんは、意地になつて、
> 野嵜が「明治政府の近代化政策なるものを信奉してゐる」事にしてしまはうとし
> てゐる。けれども、私は「信奉してゐない」んです。
はいはい、「信奉」は言葉が不適切だったやうですね。(それがどういふものか
よく考へた事も無いのに、「信奉」なんてできるはずが無いですから。)質問を
変へます。「継続すべき近代化の政策(努力)」とは何ですか。
爺> さうでした。「近代化の努力」でしたよね。それがどのやうな政策を指すの
爺> か教えて頂ければ有難いと思ひます。
の繰り返しですが。
> 大日本帝國憲法と「日本国憲法」との間には、形式的にも内容的にも連續性は
> 「ない」ですね。爺さん、解りますか。解りませんか。「日本国憲法」は、「大
> 日本帝國憲法を改正したもの」と言つても、「全文書換へ」である事實は明かで
> すね。私は、「全文書換へ」では駄目だと言つてゐるだけです。形式的に「何處
> を改めたか」が判るやうな形で、内容的に「何が問題だから改めたか」が判るや
> うな形で改正しない限り、改正ではないです。單に「別の物」を何處からか持つ
> て來ただけです。「何處からか持つて來た」では駄目です。
これまた唐突な……。
ともあれ、成程、全面書換へだから駄目、なんですか。では、一から作ったと考
へたらどうですか?
佐藤さん> 野嵜さんやぼくは、「現代仮名遣い」や「常用漢字」が「間違ひ」で
佐藤さん> あると分かつたから正字正かなを遣つてゐるわけです。
さうですか。どんなふうに間違ってゐる、と判ったのですか?そもそも、假名遣
ひや漢字表そのものが「間違ひ」といふのが良く分りませんが、どういふ意味な
んですかね。佐藤さんが常に仰る(で、爺にはどうしても理解できない)例の
「捨てられない正しさ」とやらに関係してゐますか?
佐藤さん> いはばぼくらのはうが「考へ方が柔軟」なのです
へー、若いって良いですねえ。でも保守的知識人が「柔軟さ」などを自慢してい
て良いものでせうか。福田さんなら「原則を右から左に変へて、いたづらに混乱
を引き起す必要がどこにある」と怒り出すかも知れませんよ。でも、まあ、それ
と同時に「融通無碍」を主張する人でもありますから、勘弁してくれますかね。
(もともと、さしたる「原則」なんて有るやうにも見へないし。)
>恐れ入りました。しかし、それはとんでもない短見ですね。あることについて「さうは言へない」「判断がつかない」「わからない」といふのは立派な意見の表明だと思ひますよ。
分らないなら分らないで良いけれども、自分が分らない事を自分で「立派な意見」と言うのは如何なものか。普通は自分に対して立派とは言はない。
全ての人間は不完全である。私も例外ではありません。だからこそ理性的に物事を考へて真実に近づこうとする。この作業が科学であると言つて良い。全体を把握するならその程度になります。それぞれの学問に於ける個別の仮説が科学であるか非科学であるかを決定するだけの知識を私は持つてゐない。爺さんもさうでせう。ならば既にある学問上の仮説は暫定的に科学と見做して措いて、非科学と決定するに足る十分な反証を挙げて行くのが科学ではないのですか。「さうは言へない」「判断がつかない」「わからない」程度では話になりません。
といふか爺さんは自分が分つてゐないのに佐藤さんや野嵜さんに罵詈雑言を吐いてゐる。何う見ても感情的な反感に基づいてゐる。それは良くないと思ひますよ。
>福田さんも、時にはまっとうな事を仰るやうで、これには爺もある程度は賛成しますが、でも、それでその後「突き詰めるには及ばない」といふ結論が来るんですよね、きっと。
あなたは臆測が好きですね。
もちろん、福田さんが「まっとう」だと嫌だから、爺さんはわざと自分に都合のよいやうに福田さんの意見を歪曲してゐるのです。
しかし、一度は突詰めなければならないと、福田さんは何度も書いてゐるんです。そして、突詰めて、わかつたあとなら、我々はより確実な態度を決める事が出来るでせう。それが大事だと福田さんは言つてゐる。
>それぢやああまりに浅薄ではないですか、
絡むのも大概にしたらどうですか。どうだつていい事でせう。それとも何ですか、私の主観次第で、ポパーの真贋が変化するとでも爺さんは言ひたいのですか。あなたは馬鹿ですか。
>ともあれ、成程、全面書換へだから駄目、なんですか。では、一から作ったと考へたらどうですか?
同じ事ですね。訂正・改正でないから駄目です。何でこんな簡単な事も解らないのでせう。
爺さんではありませんが、日本人が戦前のやり方を「ひょい」と変へた事が悪いんです。爺さんは、なぜかその辺、全然気にならないらしいですが、鈍感な人はどうしやうもないですね。
でね、爺さんは、人が科学の領域の事で「ひょい」と考へを変へるのを嫌がるんですが、科学以外の領域でそれをやるのを凄く好むんです。普通、逆でせう。
科学の事・客観的な事で考へを変へても当り前。人文的・主観的な事で考へを簡単に変へるのは、普通ではありません。それが爺さんは逆なんですね。
もつとも、そのへんな態度が、一般的な日本人の態度なのです。その自分のへんな事が、「当り前」で「一般的」であるから、日本人は自覚できない。爺さんも自覚できてゐません。けれども、へんなものはへんなものです。それがわからないから、爺さんはへんなのですが、へんなのが今の日本には異常に多いから、爺さんは安心してゐる。
>>恐れ入りました。しかし、それはとんでもない短見ですね。あることについて「さうは言へない」「判断がつかない」「わからない」といふのは立派な意見の表明だと思ひますよ。
>
>分らないなら分らないで良いけれども、自分が分らない事を自分で「立派な意見」と言うのは如何なものか。普通は自分に対して立派とは言はない。
と言ふか、わからないならわからないとしか言ひやうがないはずで、意見なんて言へないんです。ところが、わからないはずなのに爺さんは一つの結論を出して、意見を述べてしまふ。
「人文科学に属する或学説が科学たりうるかどうかわからない、絶対に科学でないとは言へない」——だが人文科学に属する或学説が科学たり得ると主張する野嵜らは嘲笑して良いと爺さんは思つてゐる。爺さんの考へ方は異常ですね。
もちろん、頭が良い爺さんは、全部解つてゐます。爺さんはとぼけてゐるのです。
塗炭さん、
爺> 恐れ入りました。しかし、それはとんでもない短見ですね。あることについ
爺> て「さうは言へない」「判断がつかない」「わからない」といふのは立派な
爺> 意見の表明だと思ひますよ。
> 分らないなら分らないで良いけれども、自分が分らない事を自分で「立派な意
> 見」と言うのは如何なものか。普通は自分に対して立派とは言はない。
なる程、さう読めましたか?しかし、それは違ふと思ひますね。一般的な「ある
命題について真偽がわからないと言ふ事」自体は立派な意見だ、と言ってゐるつ
もりなのですが、解りませんか?
塗炭さんには、野嵜さんの「レトリック」が有効だった訣だ。
> ならば既にある学問上の仮説は暫定的に科学と見做して措いて、非科学と決定す
> るに足る十分な反証を挙げて行くのが科学ではないのですか。「さうは言へない」
> 「判断がつかない」「わからない」程度では話になりません。
さうですか。でもたとへばこの文章自体が「爺にはさっぱりわからない」といふ
しかないです。
何かを「科学」とまず見做して、それを「科学」かどうかを検討するのが、これ
また「科学」なんですか?
そもそも「話」になってないやうな気がしますが。
> といふか爺さんは自分が分つてゐないのに佐藤さんや野嵜さんに罵詈雑言を吐い
> てゐる。何う見ても感情的な反感に基づいてゐる。それは良くないと思ひますよ。
塗炭さん、どうして話がさういつも味噌糞になるんですかねぇ。爺が解らないと
言ったのは「人文「科学」のうちに科学的仮説が有るかどうか」で、それで、佐
藤さんの「反証主義」解釈を間違ひだとした事に根拠が無いとするのは、どう
も……。いや、言葉につまります。
しかし、感情的な反感に基いた罵詈雑言と言ふなら、例へば、塗炭さんの「理
系の人は頭が固い」云々のくだりを言ふべきではないでせうか。それを「間違っ
た思い込みに基くトンチンカンな非難だ」とした爺の反論は当っていますか?ま
さか「図星」だった訣ではないですよね。(もしさうだったら、冗談が過ぎまし
た。すみません。)
野嵜さん
爺> 福田さんも、時にはまっとうな事を仰るやうで、これには爺もある程度は賛
爺> 成しますが、でも、それでその後「突き詰めるには及ばない」といふ結論が
爺> 来るんですよね、きっと。
> あなたは臆測が好きですね。
> もちろん、福田さんが「まっとう」だと嫌だから、爺さんはわざと自分に都合
> のよいやうに福田さんの意見を歪曲してゐるのです。
憶測が好きですね、と言ってすぐご自分の憶測を持ちだすのは野嵜さんらしいで
すね。
> しかし、一度は突詰めなければならないと、福田さんは何度も書いてゐるんで
> す。そして、突詰めて、わかつたあとなら、我々はより確実な態度を決める事
> が出来るでせう。それが大事だと福田さんは言つてゐる。
なる程、それは失礼しました。しかし、ではなぜ自由主義・民主主義をつきつめ
るためにはより困難が増すだろうと思はれる帝國憲法に立ち返れと仰るんでせう
か。
>なる程、さう読めましたか?しかし、それは違ふと思ひますね。一般的な「ある命題について真偽がわからないと言ふ事」自体は立派な意見だ、と言ってゐるつもりなのですが、解りませんか?
分りませんねえ。一般的な「ある命題について真偽がわからないと言ふ事」自体は、私が述べた「全ての人間は不完全である」と云ふ事でせう。それに立派といふ価値判断を附けるのは何故ですか?
>爺が解らないと言ったのは「人文「科学」のうちに科学的仮説が有るかどうか」で
科学的仮説が有るかどうか分らない人が人文科学は科学ではないといふ意見を述べる事は出来ない筈ですが?
他人がどんなに眞劔だらうが、命懸けであらうが、「自分」が「くだらない」「ばかばかしい」と思へば一笑に附して良いと。
結局爺さんは「自分」以外を認める氣がないんですよ。
他人と「議論」する意味が無い。
>憶測が好きですね、と言ってすぐご自分の憶測を持ちだすのは野嵜さんらしいですね。
さうやつて自分のした事を反省しないで他人を責めてばつかりゐるのは爺さんらしいですね。
>なる程、それは失礼しました。しかし、ではなぜ自由主義・民主主義をつきつめるためにはより困難が増すだろうと思はれる帝國憲法に立ち返れと仰るんでせうか。
帝國憲法に立返れとは一言も言つてゐません。
私は、大日本帝國憲法を無かつた事にして「日本国憲法」をゼロから作つたのは良くない、大日本帝國憲法を自由主義的・民主主義的な内容に改正して、内容のみならず形式面でも改正として納得出來るものにすべきだ、と言つてゐます。(福田恆存の「當用憲法論」等も參照して下さい。福田さんは、大日本帝國憲法を復活させたら即座に民主的で自由主義的な内容に改正するやう主張してゐます。大日本帝國憲法を復活させたら不磨の大典として永遠にそのまゝ存續させよ、戰前の體制を再現せよ、等とは言つてゐません。寧ろ戰前の體制に批判的です。私もです)
私は一度も、大日本帝國憲法の體制に戻し、そのまゝ維持して、日本を非民主的で非自由主義的な國家にすべきである、等とは主張してゐません。爺さんは私がさう主張してゐると散々言つてゐますが、出典を示せるものなら示して下さい。臆測で適當な事を言つてゐるのだつたら、私を罵倒して快を貪つてばかりゐないで、反省して下さい。わらひ。
或は、爺さんは、憲法は、「内容と形式の兩方がともに良いものである」のよりも、「内容は良いが形式的にはつつこみどころありまくりである」方が良い、と主張したいですか。もしさうなら、それは何うしてですか。
塗炭さん、
> 分りませんねえ。一般的な「ある命題について真偽がわからないと言ふ事」自
> 体は、私が述べた「全ての人間は不完全である」と云ふ事でせう。それに立派
> といふ価値判断を附けるのは何故ですか?
「ある命題について真偽がわからないと表明する」事が、「全ての人間は不完全
である」といふ事なんですか?もうちょっとよく寝てから書き直して頂ければ幸
甚です。
ともあれ、「わからない事はわからないと言ふ」のが「立派」だといふ理由は、
「解ってないのに全称命題で断言する(塗炭さんの事ですね)」より正確で正直
だと思ふから、です。
> 私は辞書を出典元にしたけれど、何故そう書かれて居るのか、を述べて居る。す
> なはち人間は理性と感情を併せ持つ動物ではあるけれど、人間たらしめて居るの
> は理性であるとして、理性的に物事を考える事を科学と呼んで良い。これが私の
> 価値判断の根拠です。これが正しいか否か。爺さんは何う考えてをられますか?
の箇所を、
爺訳> しかし好意的に推測するに、「人文「科学」は科学である」という「主張」の
爺訳> 「根拠」が、「人に理性が有る事」、すなわち「理性的にものを考へる事全般を
爺訳> 科学と呼ぶべきで、人文「科学」も理性的にものを考へてゐる限りは科学と呼べ
爺訳> るはずだ」といふ事でせうか。
と訳しましたが、これで概略合ってますか?で、ご要望に従って
爺> もしさうであれば、爺はこれは「間違ってゐる」もしくは「不十分」だと思ひま
爺> す。この「根拠」に基くと、法律、規則、神学、神話、宗教、いずれも「科学」
爺> と言へてしまう。何にでも当て嵌るのでは、何かを定義した事にはならないでせ
爺> う。
といふ意見を伸べたのですが、これについてはどうですか?
また、
> ならば既にある学問上の仮説は暫定的に科学と見做して措いて、非科学と決定す
> るに足る十分な反証を挙げて行くのが科学ではないのですか。「さうは言へない」
> 「判断がつかない」「わからない」程度では話になりません。
を、
爺> 何かを「科学」とまず見做して、それを「科学」かどうかを検討するのが、これ
爺> また「科学」なんですか?
と解釈してますが、これはこれで正しい解釈なんですか。もしそうだとすると爺
にはとても理解できない代物ですが、それとも、もうちっとましな解釈が有る?
それより卒直な疑問といふか質問……塗炭さんは、反証主義に代はる「科学的で
ある事」の定義を提案しやうとしておられるのでせうか?
佐藤さん、
> 他人がどんなに眞劔だらうが、命懸けであらうが、「自分」が「くだらない」
> 「ばかばかしい」と思へば一笑に附して良いと。
だなんて酷い事を誰が言ってゐるんですか?爺は最低限の礼儀は守ってゐるつも
りです。
> 結局爺さんは「自分」以外を認める氣がないんですよ。
> 他人と「議論」する意味が無い。
ふーむ、どうしてさういふ結論なるのでせうね。成程、佐藤さんにはまだ説得さ
れた事は無いかも知れませんが、でも佐藤さんの仰る事には随分理解を助けて頂
きましたよ。
それより、「フレームワークの神話」の注ですが、読まれましたか?そこでのポ
パーさんの「定義」と、佐藤さんの「反証主義」と比べて、どちらか「切れ味」
が良さそうでしたか?
まだ読まないで、こんな愚痴を言ってゐるやうでは、反証主義をマスターする事
は永久に無理で、それこそ議論する意味が無いと思ひます。
野嵜さん、
> 帝國憲法に立返れとは一言も言つてゐません。
あらま、さうでしたか。それは失礼しました。でも、
> 私は、大日本帝國憲法を無かつた事にして「日本国憲法」をゼロから作つたの
> は良くない、大日本帝國憲法を自由主義的・民主主義的な内容に改正して、内容
> のみならず形式面でも改正として納得出來るものにすべきだ、と言つてゐます。
> (福田恆存の「當用憲法論」等も參照して下さい。福田さんは、大日本帝國憲法
> を復活させたら即座に民主的で自由主義的な内容に改正するやう主張してゐます。
> 大日本帝國憲法を復活させたら不磨の大典として永遠にそのまゝ存續させよ、戰
> 前の體制を再現せよ、等とは言つてゐません。寧ろ戰前の體制に批判的です。私
> もです)
この「復活させる」と「立ち返る」がそれ程意味内容が違ふとは思へないのです
が……ともあれ、復活させるにしても、立ち返るにしても、その後「すぐ改正す
る」ところが大事なところなのですね。わかりました。
と言ひたいところですが、でもこの後「但し、天皇主権は変へられませんよ」と
来るやうな予感がします。爺の間違った憶測でせうか。
>と言ひたいところですが、でもこの後「但し、天皇主権は変へられませんよ」と来るやうな予感がします。爺の間違った憶測でせうか。
変へられますか? どうやつて?
形式的にはどうやつても変へられませんよ。それを変へる為には革命を起こさなければなりません。
が、現実には革命が起きてゐません。だから「日本国憲法」はどうあつても成立たない憲法です。
ただし、国民主権か、天皇主権か、は、何の意味も無いのであつて、言葉に拘る爺さんが、私は理解できません。なぜなら、主権がどつちにあらうが、実質が同じなら問題ないからです。
天皇主権の形式をどうにも出来ないにしても、実質的に国民の権利を現状と同じ程度にする事は可能ですし、さうすべきである事は福田さんも主張してゐます。私もです。ところが爺さんは、言葉に拘って、私や福田さんの意図を疑はうとしてゐる。
「爺は『人文學』についてはあまり詳しくありません。ですが人文學が『科學』といふのは全くの間違ひです」
爺さんが「闇黒日記2.0」にコメントしてゐたときも同じやうなことをおつしやつてましたね。たしか1年前のことでしたが、これが「『人文學』についてこれだけのことを勉強しましたが、やはり『科學』とはいへません」といふならまだしも、1年經つても「わからない」。
つまり爺さんはこの1年、なんの進歩もなかつたわけです。
「だめもと」ではあつたのですが、やはり爺さんと「言葉のやりとり」をしてゐても、お互ひ何の益もないので、打ち切りにします。