時代の斜めうしろ

粘着を"容認"してはいけない

(2010年11月28日 23:55)

「荒らし・粘着はスルー」といふのが“ネットマナー”とされてゐるが、野嵜さんは「“スルー”は荒らし・粘着を容認することだ」と主張してゐて、そのため粘着には徹底的に批判する。

すると批判された粘着は大抵かう言ふ。「こつちを粘着だと言ふなら、野嵜だつて粘着ではないか」と。

これは反論にはなつてゐない。

「自分は粘着ではない」と論證するなら—“粘着”以外の何物でもないことがほとんどなのだが—これは“反論”ではある。

しかし「お前も粘着だ」と言ふのは反論ではなく“居直り”でしかない。「〈たしかに粘着は惡いことだ、だが〉こつちを粘着だと言ふなら、野嵜だつて粘着ではないか」と、粘着が“非”であることを認めた上で、しかし責任を他者に押し附けてゐるからだ。責任を轉嫁したところで、自分の“非”が消えるわけではない。

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コメント(23)
N爺 | 2010年11月30日 13:12


いや、それはちょっと違ふのではないでせうか。

少くとも N爺は、自分は正当な批判をしてゐて、野嵜さんのダブハン粘着
は、粘着行為だと主張してゐます。家主としての佐藤さんはどうお考へだっ
たのでせうか。

野嵜 | 2010年11月30日 17:42

いや、N爺さん、あなたは粘着ですよ。

少くともN爺さんが「野嵜とゆかいな仲間たち」(わらひ)「だけ」を「批判」してゐる、と云ふのは、客觀的事實ではないですか。

しかし、「野嵜以外への關心を示してゐるポーズ」をとつてゐたとしても、他の人とは箸にも棒にもかからぬ無害な會話をしつゝ、依然として「野嵜の言動」をウオッチし續け、他の人とは違つて「野嵜の言動だけ」惡意で以て解釋し、野嵜が目立つ發言をする度に一々茶々を入れ續ける、なんて事をやつてゐたら、それもまた「粘着アンチの活動を續けてゐる」と見られねばなりません。

また、粘着であつても、言ふ事は一見如何にももつともらしい理窟であり、自分のしてゐるのは「正當な批判」だと主張するのも一般的です。

矢張り、N爺さんの言動は粘着のものである、と斷定されねばなりません。

野嵜 | 2010年11月30日 17:44

と言ふか、「野嵜さんの」と言つて、野嵜と云ふ論者に興味を持つてゐる、と明言してゐる時點で、N爺さんが野嵜粘着である事は明かではありませんか。

N爺さんは、「何が論じられてゐるか」よりも、「論じてゐる人の行爲が何うで人格が何うである」と云ふ事を「決定したい」――だから、N爺さんは粘着である、と斷定出來ます。N爺さんが粘着でないなら、誰が粘着であり得るでせうか。

Author Profile Page 佐藤 俊からN爺への返信 | 2010年11月30日 20:53

無視しても效果が無いのだから、無視してゐるわけにもいかない。

N爺さん、記事の中に「N爺さんは粘着だ」と書いてありますか? 「佐藤が粘着がどうのかうのと書いてゐる、きつと俺のことを言つてるんだ」と思ひ込んで、コメントしたと。自分が“粘着”だと云ふ自覺はあるやうですね。

そのとほり、N爺さんのやうな“粘着”を批判してゐるのですよ。

>自分は正當な批判をしてゐて、野嵜さんのダブハン粘着は、粘着行爲だと主張してゐます

野嵜さんがいつN爺さんを非難するためだけにブログを開設しましたか? N爺さんのブログには「ご冗談でせう野嵜さん」なんてカテゴリがありますよね。つまり「野嵜に粘着してやるぞ」と宣言してゐる。ぼくに對しても、ぼくが「N爺さんと話してもムダなので、コメントしても讀みません」と言つてるのにも關はらず、「爺のことを言つてるんでせう」と上記のやうに“因縁”つけてコメントし續ける。これでもN爺さんは自分は“粘着”ではないと。見え見えな“ダブハン”で皮肉を言ふことが“粘着”だと。

ぼくは特定の相手にしつこくつきまとふことを“粘着”といふと思つてたんですがね。

あと二重投稿になつてたんで削除しました。そんなに慌てなさんなよ。

塗炭 | 2010年12月 1日 02:24

やあ、N爺、元気さうで何より。貴殿のブログを拝見すると益々ご活躍のやうで結構です。

私(塗炭)も特定のブログや電子掲示板にしか出没しないので「家主」さんから見れば「粘着」と思はれても仕方がありません。出来るだけ投稿しないやうにはしてゐるのですが、先方の反論があれば投稿せざるを得ない事も。しかし先方が「放置」されれば、それ以上投稿する事はありません。

N爺は佐藤さんが「放置」してゐるにも拘らず「佐藤さん」「佐藤さん」と書き込んで来るから嫌はれるんですよ。

N爺 | 2010年12月 4日 13:44


佐藤さん、

> 無視しても效果が無いのだから、無視してゐるわけにもいかない。

御自分のブログのコメントを無視する訣にいかないのは、まあ自然な事でせうね。

> N爺さん、記事の中に「N爺さんは粘着だ」と書いてありますか? 「佐藤が粘着が
> どうのかうのと書いてゐる、きつと俺のことを言つてるんだ」と思ひ込んで、コ
> メントしたと。自分が“粘着”だと云ふ自覺はあるやうですね。

あれ、そうではなかったのですか?……と思ったのだけど、

> そのとほり、N爺さんのやうな“粘着”を批判してゐるのですよ。

なんだ、やっぱり。佐藤さん、しっかりして下さい、結局何が言ひたかったので
すか?

爺> 自分は正當な批判をしてゐて、野嵜さんのダブハン粘着は、粘着行爲だと主
爺> 張してゐます

> 野嵜さんがいつN爺さんを非難するためだけにブログを開設しましたか? N爺さん
> のブログには「ご冗談でせう野嵜さん」なんてカテゴリがありますよね。つまり
> 「野嵜に粘着してやるぞ」と宣言してゐる。

それは早とちりですね。「野嵜さんを批判してやるぞ」と読んで下さい。

> ぼくに對しても、ぼくが「N爺さんと
> 話してもムダなので、コメントしても讀みません」と言つてるのにも關はらず、
> 「爺のことを言つてるんでせう」と上記のやうに“因縁”つけてコメントし續け
> る。これでもN爺さんは自分は“粘着”ではないと。見え見えな“ダブハン”で皮
> 肉を言ふことが“粘着”だと。

コメントしても読みません、と仰ったのは大分前の話で、この記事では、爺が批
判されたと思ったので出て来たのですが、それが間違ひだったら引っ込みます。
一体、どなたを批判したつもりだったのですか?

> ぼくは特定の相手にしつこくつきまとふことを“粘着”といふと思つてたんで
> すがね。

ええ、ええ、いつかのダブハン粘着野郎みたいなのは確かに「粘着」だと思ひま
す。で、佐藤さんは「批判」されても「粘着だ」と仰るのでせうか。

それはそうと、佐藤さんは、コメントする人の IP アドレスが解るのでせうか。

> あと二重投稿になつてたんで削除しました。そんなに慌てなさんなよ。

それは失礼しました。お手数をおかけしました。

野嵜 | 2010年12月 5日 12:54

要するにN爺氏は「粘着行爲」を單純に「批判」と言換へてゐるだけですね。

野嵜 | 2010年12月 5日 12:56

N爺氏は、
・N爺氏が他人にしてゐる粘着行爲は批判であるから正しい
・他人がN爺氏にしてゐる批判は粘着行爲だから正しくない
と言つてゐるわけです。

Author Profile Page 佐藤 俊 | 2010年12月 5日 14:24

>結局何が言ひたかったのですか?
「N爺さんは粘着である」

>「野嵜さんを批判してやるぞ」と読んで下さい。
讀めません。
「御冗談でせう野嵜さん」カテゴリを見てみると、野嵜さんが「歴史的假名遣ひ」に就いて言へば歴史的假名遣ひ、「現行憲法無效論」に就いて言へば憲法、「フリーウェア」に就いて言へばフリーウェア…N爺さんは、野嵜さんが言ふことに「ケチを附けてゐる」だけです。しかも1年以上も。まさしくかう云ふのを「粘着」と言ふのですよ。
これが野嵜さんの「歴史的假名遣ひ」に就いてN爺さんに反論があると言ふならまだ分かる。だが野嵜さんが別なことを言ひ出せばそつちにもケチを附け出す。結局N爺さんは野嵜さんの人格、「存在」そのものを否定してゐるだけです。
第一、人の言ふことを「冗談」呼ばはりしてゐる時點で相手の言ふことをまともに論ふと云ふ氣があるとは思へない。

>で、佐藤さんは「批判」されても「粘着だ」と仰るのでせうか。
N爺さんのやつてゐることが眞つ當な「批判」であるならそのこと自體に文句はつけません―内容の是非はともかく。ですがN爺さんのやつてゐることは「粘着」としかいいやうがない。さう云ふくだらないことはやめろと言つてるんですよ。

N爺 | 2010年12月 9日 14:40


> 御冗談でせう野嵜さん」カテゴリを見てみると、野嵜さんが「歴史的
> 假名遣ひ」に就いて言へば歴史的假名遣ひ、「現行憲法無效論」に就
> いて言へば憲法、「フリーウェア」に就いて言へばフリーウェア…N爺
> さんは、野嵜さんが言ふことに「ケチを附けてゐる」だけです。しか
> も1年以上も。まさしくかう云ふのを「粘着」と言ふのですよ。

いや、それは佐藤さんの「独自な定義」もしくは単なる「思ひ込み」で、そもそ
も「ケチをつける」といふ言ひ方に既にバイアスがかかってゐるやうに思へます
が、爺に言はせれば、むしろ、憲法からフリーウェアまで、ことごとく意見が違
ふ、といふ事でせう。

> 第一、人の言ふことを「冗談」呼ばはりしてゐる時點で相手の言ふこ
> とをまともに論ふと云ふ氣があるとは思へない。

その「類推」もしくは無理な憶測から離れられませんか、佐藤さん。「御冗談で
せう」は次に「ファインマンさん」が来るのですよ、本歌では。彼は N爺の中で
はパーソナルヒーローなんです。で、何より、その中で爺がやってゐる批判に、
あまり無茶な言ひ分は無いと思ひますが。

例へば、野嵜さん・佐藤さんの「反証主義」への誤解に対する批判とかは、至極
真っ当だと思ひますし、佐藤さんが謙虚に読む気さへ起せば、「爺はその誤解を
解こうとしてゐるんだ」と分って頂けると思ひますが。粘着としか言ひやうが無
いといふ、その判断の根拠を聞かせて頂けると嬉しい。

野嵜 | 2010年12月 9日 17:06

N爺さんの「批判」こそN爺さんの「独自な定義」もしくは単なる「思ひ込み」ですよね。

また、私も佐藤さんも別に誤解なんてしてゐません。寧ろN爺さんの方こそ間違つた理解をしてゐると云ふ事は、N爺さんの粘着的な態度それ自體が「實證」してゐると思ひます。

野嵜 | 2010年12月 9日 17:09

また、N爺さんが佐藤さんに「謙虚」さを執拗に要求してゐる事實は、N爺さんが傲慢である事實を「實證」してゐると思ひますし、その執拗さ・傲慢さはN爺さんが粘着である事を「實證」してゐると思ひます。

少くとも、「自分の傲慢さ」を棚上げしながら「相手の謙虚さ」を要求してゐるN爺さんの態度は、非常に可笑しいものです。なぜN爺さん自身は謙虚にならないで良いのですか。
――勿論、N爺さんはこの質問にまともに答へません。私の豫言は非常によく當る。

Author Profile Page 佐藤 俊からN爺への返信 | 2010年12月 9日 22:17

野嵜さんがぼくの言ひたいことをほとんど言つてくれるので、つい「まあいいか」と思つてしまふけど、やつぱり「自分の言葉」で言はなきやダメだよね。

「ことごとく意見が違ふ」人と1年以上もお付き合ひしてゐるとは、相當お暇を持て餘して、ぢやなかつた奇特な方ですね。

野嵜さんやぼくにファインマンさんと同じくらいの尊敬の念を抱いてゐるわけですか。照れるなあ。

>謙虚に読む気さへ起せば
N爺さんの文章を讀むときは、精進潔齊して姿勢を正して讀め、と言ふことですね。分かりました。

…めんどくせえな…

N爺 | 2010年12月10日 14:01


> 野嵜さんがぼくの言ひたいことをほとんど言つてくれるので、つい
> 「まあいいか」と思つてしまふけど、やつぱり「自分の言葉」で言は
> なきやダメだよね。

さうですよ。もうそろそろ自立せねば。

> 「ことごとく意見が違ふ」人と1年以上もお付き合ひしてゐるとは、相
> 當お暇を持て餘して、ぢやなかつた奇特な方ですね。

暇はあまり無いですが、一週間に二三回くらなら大丈夫です。

> 野嵜さんやぼくにファインマンさんと同じくらいの尊敬の念を抱いてゐる
> わけですか。照れるなあ。

ええ、勿論ですよ。

爺> 謙虚に読む気さへ起せば
> N爺さんの文章を讀むときは、精進潔齊して姿勢を正して讀め、と言ふ
> ことですね。分かりました。

まあ、そこまで言ってないと思ひますが、「はあ〜ん」なんて色っぽい声を出す
よりはマシ、といふ事で手を打ちませう。

で、「反証主義」については、意見の変化は有りましたか?

Author Profile Page 佐藤 俊からN爺への返信 | 2010年12月10日 19:52

やつぱりN爺さんに“皮肉”は通じないか。ハツキリ言つてやらう。

「謙虚に讀め」? いやなこつた。

大體、ファインマンさんに匹敵する尊敬の念を抱いてゐると言ひながら「謙虚になれ」とは何事だ。
N爺さんこそ謙虚になれよ。ぼくの文章を讀むときは1行ごとに五體投地して讀んでもらはう。

議論をして、ぼくが間違つてゐると分かれば考へを改めるが、N爺さんと言葉をやり取りしてゐても自分が間違つてゐるとは全然思へないし、N爺さんのはうがむしろ間違つてゐるとしか考へられない。
ポパーの著作や解説書を讀んでも、ぼくの考へは「反證主義」―「批判的合理主義」に適ふものだとますます確信さぜるをえない。

野嵜 | 2010年12月11日 04:33

N爺氏の態度はポパー的でないよ

N爺 | 2010年12月11日 13:22


佐藤さん、

> やつぱりN爺さんに“皮肉”は通じないか。ハツキリ言つてやらう。

> 「謙虚に讀め」? いやなこつた。

いや、皮肉は通じてましたよ。で、それなりに対応したつもりです。が、佐藤さ
んがさうやっていきりたってゐるところを見ると、逆ネジが効きすぎましたかね。
申し訣ないです。

> 大體、ファインマンさんに匹敵する尊敬の念を抱いてゐると言ひながら「謙虚に
> なれ」とは何事だ。N爺さんこそ謙虚になれよ。ぼくの文章を讀むときは1行ごと
> に五體投地して讀んでもらはう。

「五体投地」が具体的にどうする事なのか、寡聞にして知りませんが、少くとも
謙虚に受けて止めてゐます。

> 議論をして、ぼくが間違つてゐると分かれば考へを改めるが、N爺さんと言葉をや
> り取りしてゐても自分が間違つてゐるとは全然思へないし、N爺さんのはうがむし
> ろ間違つてゐるとしか考へられない。

御自分が間違ってゐない、爺が間違ってゐる、としか考へられない、等とそれだ
けを何遍繰返しても、それは議論とは言へないでせうし、説得力も無いと思ひま
すが。況してや

> ポパーの著作や解説書を讀んでも、ぼくの考へは「反證主義」―「批判的合理主
> 義」に適ふものだとますます確信さぜるをえない。

それでは単に議論といふか対話を拒否してゐるだけのやうに聞こえます。反証主
義が批判的合理主義と近しいものであらう事は認めますが、「それだけ」ではな
いでせう。どうしてさう確信するに至ったのか説明してみて頂けないでせうか。

やっぱり
爺> 爺の言葉をそのまま信じろ、とは言ひません。ただ、もし気が向いたら、野嵜さ
爺> んの挙げている「フレームワークの神話」の注を良く読んで、……

といふ気にはなれませんでしたか。それとも、それを読んだ上で、さう仰ってゐ
るのでせうか。

論理学徒 | 2010年12月11日 14:14

こんにちは。いつぞやは失礼いたしました。
それにしてもN爺さんのお説教はまだ続いていたのですか。あきれましたねwまるでゆすりかたかりですね。
N爺さん、あなたがご自身の意見を主張して反論を待つのなら議論になりましょう。しかし、佐藤さん一人を相手にお説教を繰り返しているだけならば議論とは言えませんよ。
それにN爺さんは、私は間違っていない、と言い訳を繰り返し、私を非難するな、と要求しているだけのようにしか見えません。自己主張が強過ぎますよw。
私にはN爺さんが佐藤さんと対話しようとしているようには見えません。一方的に意見を押し付けようとしているだけに見えます。
N爺さんは周囲が見えなくなっていらっしゃるようですので、第三者から客観的な感想を申し上げました。参考にしていただければ幸いです。

Author Profile Page 佐藤 俊からN爺への返信 | 2010年12月12日 00:14

“反證主義”から言へば、ぼくが“正しく”て、N爺さんが“間違つて”ゐるとはたしかに“斷言”はできない。かう言ふべきでした。

「N爺さんの言ふことは、ぼくには納得できない。N爺さんの言ふことはぼくの主張に對する“反證”にはなつてゐない」

かういふとN爺さんはぼくが「議論を拒否してゐる」と言ひますが、N爺さんの言ふことに頷けるだけの説得力がないのだから「納得できない」としか言ひやうがない。「議論を拒否する」のと「納得できない」のとは違ふ。
どんなに議論を續けても、相手の言ふことに納得できる點が見出だせないのであれば議論を續ける意味が無い。
それにN爺さんもぼくや野嵜さんが「誤解してゐる」と言ひますが、それはぼくらが「間違つてゐると極め附けてゐる」のでしかない。

N爺さんの言ふことは、まるで“反證主義的”ではありません。

塗炭 | 2010年12月12日 05:49

N爺は最初のコメントでかう書いた。

>いや、それはちょっと違ふのではないでせうか。少くとも N爺は、自分は正当な批判をしてゐて、野嵜さんのダブハン粘着は、粘着行為だと主張してゐます。家主としての佐藤さんはどうお考へだったのでせうか。

これで全部。たつたこれだけで佐藤さんに何を言へと? 「反証主義」も糞もあるか。だいたい「自分は正当な批判をしてゐて」なんて言ふ奴の主張に反証可能性があつたためしは無い。その後の投稿を読んでも、あんたは一方的に佐藤さんを諭したい――”自分に”従はせたいだけだ。

N爺は”自分が”優位に立てる相手にだけ纏はり附くストーカか、さうでなければ”自分に”同調して呉れる人を獲得しやうとする政治主義者のどちらか。いづれにしても、自分、自分、自分。日本のリバタリアンも「自分の利益を自由に追求すること」とか言つてゐたけれども。ともかくお前は頭は良いかも知らんが人間が腐つてゐる。

N爺 | 2010年12月12日 07:21


佐藤さん、

段々何の話をしてゐるのか判然としなくなりましたが、とりあへず反証主義の話
でしたよね。

> 「N爺さんの言ふことは、ぼくには納得できない。N爺さんの言ふことはぼくの主
> 張に對する“反證”にはなつてゐない」

> かういふとN爺さんはぼくが「議論を拒否してゐる」と言ひますが、N爺さんの言
> ふことに頷けるだけの説得力がないのだから「納得できない」としか言ひやうが
> ない。「議論を拒否する」のと「納得できない」のとは違ふ。

もちろん「議論を拒否する」のと「納得できない」のは違ひますが、佐藤さんの
仰りやうは「納得できないとしか言ひやうがない」(それを説明しない、できな
い)となるので、それでは、対話になりませんね、と申し上げてゐるのですが。

佐藤さんの「100% の確信はなくても、意見を世に問ひ、誤りと分ったら、それを
受け容れる」や「批判的合理主義」は、それぞれが立派な言ひ分ではあるにして
も、ポパーさんのいふ反証主義ではない、と爺は言ってゐて、それに納得できな
いならば、ポパーさんの言ひ分をそのまま書いてある「フレームワークの神話」
を読んでみて下さい(見付からなかったら Wikipedia でも良いです)と申し上げ
ている。これに「納得できない」と応えるのはなんとも筋違ひに聞こへますが。

まあ、その意図を敢て忖度するに、
1) 読んでない。
もしくは、読んだ上で、
2) ポパーの定義と佐藤さんの定義は良く合ってゐた、
3) 定義は食い違ってゐたが、今はポパーの反証主義の話をしてゐるのではない、
の何れかではないかと思ひますが、いかがですか?番号で答えて下さっても結構
です。

> N爺さんの言ふことは、まるで“反證主義的”ではありません。

(そもそも「反証主義」がいかなるものか議論してゐる時に、敢へてかう言ひ切
るあたりが、ちょっと何だかなぁ、ですが、)でも、爺の言ひ分は少くとも「反
証可能」ではありますね。その箇所を読んでみて、爺の定義と全く違ふ事が書い
てあったら、あっさり反証できてしまった事になります。

野嵜 | 2010年12月12日 18:49

反證主義が何う斯う以前に、N爺さんの政治的な主義主張があるんですよねー。

Author Profile Page 佐藤 俊から塗炭への返信 | 2011年6月 6日 00:29

塗炭さん>ともかくお前は頭は良いかも知らんが人間が腐つてゐる。

いや、頭も良くはないでせう。頭の良い人は他人を「味噌つ滓」だの「負け犬」だの呼ばはつたりはしません。

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