DIVE

MEMOPAD4

50年の怨靈(1/18)

まだ言ふか、つて感じなんだけど、「追悼」と言ふのは死者の冥福を祈る、つてことなんだから「宗教を問はず」つてのならまだ話も分かるが、「無宗教の追悼施設」なんてものは有り得ない。よしりんゴー宣なーるほど! 国が新宗教を創るわけだ〜〜〜っと皮肉つてたけど。

ほんとになんで今この時期に? と思ふ。春例祭や秋例祭の時期でもないし、「外圧には屈しない」と言ふ姿勢を示し、本氣で大東亞戰爭の戰死者を弔ふのなら8月15日が最も相應しからう。さう言へばインタヴユーでお正月だからと言つてたやうな気がするけど、と言ふことは眞逆「初詣」なのか?

まア中韓が反感を示すのは分かり切つてゐるのだからもう一々報道せんでもよからうに。何も反應が無かつた時にこそ報じるべきだらう。だけど中國が反發するのは分かる。自國を侵略してきた兵を祀るとはどう言ふことかと。でも何故韓國が反發する? 當時は「味方」だつたんですよ。「日本人」としてだけど祀られてゐる韓國人も居る。日本の爲に犠牲となつた韓國人の冥福を、日本の首相が祈る。それがなぜ気に障るのだらうか。まア「參拝は植民地支配及び大東亞戰爭の肯定、即ち軍國主義への囘歸だ!」と言ふ意味で反發するのだらう。これは國内でも同樣の意見がある。だけど「參拝→軍國主義」は「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の因果関係しかない。戰死者を弔ふのと軍国主義化とは相當隔たりがある、と思ふのだが。それにありもしない「大虐殺」の「30万人の犠牲者」の記念館作つてる軍國主義國家に反感買はれる筋合ひはないわい。そして必ず言ふのが「わが國とアジア諸國の國民感情を傷つけ」つてセリフだけど、ほかのアジア諸國は拍手喝采だつたらどうするつもりだらう。

この問題に、必ずついて囘つてくるのが「A級戰犯合祀問題」なのだけど、「A級戰犯」と言ふのはいいけど、では何の罪状で、どんな刑を受けたかご存知でせうか。「文明に對する戰爭を起こした罪(最近もどこかで聞いたやうな)」で、最高で「絞首刑」ですよ。懲役になつた被告も獄中で死んだり、釈放されたりしてゐる。しかも判事の1人パル氏は「無罪」を主張してゐる。戰爭を起こしたことが罪だと言ふなら、連合國側には戰犯は1人も居ないのか。こんな「罪」でしかないのに、刑を終へやうが、例へ死刑にならうが、「A級戰犯」は赦されざる大罪人だと。「永久戰犯」だと。さー言ふことですか。

前にも書いたが、ラブアンドピースセンターなんぞにしたらどんな災厄が起こるか分かつたもんぢやない。…眞逆或ひは、今の日本が色々な意味でガタガタになつてしまつてゐるのは、50年以上蔑ろにされ續けた、いや辱めを受け續けてきた英靈が怨靈と化し、日本に崇り爲してゐるのだらうか!? くはばらくはばら……

書く理由(1/15)

ありみかさとみさんが運營してゐらつしやる「さとみかん」と言ふアンテナがある。「アンテナ」とはCGIを使つたリンク集で、登録したサイトが更新されるとそれを捕捉して更新状況が表示されるやうになつてゐるので、日記サイトや掲示板のやうに頻繁に更新されるサイトを確認するのに便利である。実は當サイトも「或正字・正假名遣ひの日常」に捕捉していただいてをり有り難いこつてす。

さて先日「さとみかん」に捕捉されてゐる秋川ひみつさんの「おかし日記」を讀んでゐたらこんな記述が。

 あと、その機会におもいっきし言われてしまったし、まあそれも当然の事だと思うんで、正字表記辞めます。 現在再び異体字の変換作業を行っています。 なんつうか、「お前の絵でその字は絶対似合わない」&「その字のせいで一見さんを逃してるぞ」とかいろいろ言われまして、まあそれももっともな事であるし、自分の中途半端な趣味のせいで折角の機会を無駄にしてしまうのも勿体ない話なんで、そういう運びになりました。

ありや。私も舊かなで書いてて、旧かな使いロリコンイラストサイトと呼ばれたことがあるんだけど、まあその時は人間城の主さんに言はれたやうに「なんちやつて舊かな」だつたんだけど。なぜ舊かなで書いていたかと言ふと、ホームページ入門講座でも書いたやうに、他のサイトとの差別化の爲だつたんだけど、正字正かなサイトはもう既にたくさん在つて、大した差別化にもならなかつたんである。でまあ、かかわりを拒否されるとも書かれたし、所詮戦後民主教育の仔ぢやと言ふことで、現代假名遣ひに戻したんですが、最近かうしてまた正字正かなで書いとるわけです。

なんでだと言はれると、野嵜さんのやうにそれが正しい日本語の表記だからだと言ふわけでもない。まア「少數派」だからかな。マイノリテイーの優越感とでも言ひませうか。世間一般がやつてないことをやつてると。XHTML1.1をvalidで綴つてゐるのも同じ理由である。StrictHTML、正道が少數派であると言ふその樂しさですな。「須らく日本語(HTML)は正しくあるべし」と言ふことでやつてる人たちからするとえらい不真面目な理由だけど。

ところで「さとみかん」は運營してをられるありみかさんの趣味もあるんだらうけど、イラストを掲載してゐるサイトも多い。それも人が見たら「ロリコンイラスト」と呼ばれさうなの。まアありみかさん自身さうだからか。さー言へば私も最近は「ロリコンイラスト」描いてないなあ。

ペンは何よりも弱し(8/3)

以前、「所詮戦後民主主義教育の子ぢや」と言ふ亊で一旦は止めてゐたのだが、別に何と言ふ亊も無いのだけど、この文體に戻す亊にする。詰まり「旧かなづかいロリコンイラストサイト」に戻るわけだが、閲覽者にかかはりを拒否されるかどうか、まあやつてみるのだ。

ペンには何の力も無いと言ふ事か。

メデイア規制法案と呼ばれてゐる、「個人情報保護法案」や「人權擁護法案」は、次期國會に於いて繼續審議となつた。この「メディア規制法案」を巡つては、マスコミを始めとする、規制の對象とされる樣々なメデイアが「反對」を表明してゐる。特に個人情報保護法案は、運用が始まつた「住民基本臺帳ネット」と絡んで、單なるメデイアの規制に留まらず、國民1人1人を監視する爲の法律だと言ふ主張も在る。「國家=管理・統制」のイメージしか持つてゐないのだねと思ふのだが、國家も警察も、1億2千萬人をずつと見張つてゐる程暇ぢや或りませんて。寺山 修司ぢやあるまいし、普通に生活してゐる1庶民の暮らしを監視してて、何が樂しいものか。まあ法案になんぞ興味を持つて、反對の聲を擧げるやうな思想性の有る「市民」は、監視されても仕方ないと思ふけどね。

そもそもが「メデイア規制」なんて言つてるが政府や政黨だつて廣報紙や機關紙と言つたメデイアを使ふのだし、「マスコミ規制」の方が相應である。第一「規制」にしたつて、規制「されるかもしれない」と言ふ「可能性」を前提にして話が進んでゐる。

言つてしまへば「メデイア規制法案」に對するマスコミの反對聲明は「敗北宣言」で或る。法案が成立したが最後、マスコミは一切の力を失ふ、と自らの無力を曝け出してしまつてゐるのだ。冗談ではない。權力の暴走を防ぐのがマスコミの役割の1つではないのか。自分逹に矛先が向けられた途端、身動きが取れなくなつてしまふのでは權力を掣肘る事など出來ないではないか。法に盾突いてまで取材、報道は出來ないと言ふのならば、「眞實」には法を侵してでも求める價値は無いと言ふ事か。

確かにこれは「お祭り」かもしれない。「盜聽法」の時もあれだけ騷いだと言ふのに結局成立後何が變はつたはけでも無かつた。祭りは何かを變へるために行はれるのではない。寧ろ「日常」が變はらない爲に行はれるのだ。

トンデモ対空想科学南海の大決闘(7/22)

これまた山本弘氏の著作なのだが、『こんなにヘンだぞ! 『空想科学読本』』と言う本が出ている。タイトルを見れば分かるとおり、柳田理化雄氏の『空想科学読本』に始まる「空想科学」シリーズの批判本である。

以前、「と学会」も「空想科学」も、もうマンネリだなと書いたんだけど、と学会会長である山本氏が「空想科学」を批判している。こりゃ面白い、同じ穴の狢の喧嘩か? とか失礼なことを考えつつ、一先ず読んでみた。

山本氏は、先ず柳田氏の科学認識の誤りを指摘する。その上柳田氏はSFや特撮を笑えるネタにする為、設定を捻じ曲げたり同じ本の中で矛盾を言ってたり、屡々自己撞着に陥っていると言う。そしてSF作家が本業である山本氏は「SF考証」と言う言葉を持ち出し、例え科学的に間違っているとしても、誰もが納得できる辻褄を考えるのがSF考証であり、柳田氏はSF考証を知らない上に肝心の科学考証さえも間違っている。柳田氏は「空想科学」を愛してなどおらず、笑い者にし、否定する為に『空想科学読本』を書いている、と主張する。

確かに山本氏の指摘は尤もなのだが、「空想科学」シリーズを果たして本当に柳田氏は空想科学を否定する為に書いているのだろうか。違うだろう。山本氏がトンデモ本を愉しむのと同様、柳田氏は空想科学をネタにしているだけである。

特撮やSFを見るのに、本来の視聴者層である子どものように何も考えずヒーローの活躍を楽しむか、山本氏や『すごい科学で守ります!』の長谷川裕一氏のようにSF考証を考えるか、ちゆちゃんのようにウラの事情を邪推するか、見方は人夫々である。勿論、柳田氏のように画面に向かって「んなアホな」と突っ込むのもアリだ。詰まり山本氏と柳田氏では「空想科学」に対するスタンスが最初から違うわけで、川魚が海魚を「あんなしょっぱい所に住んで」とバカにしているようなものである。言ってしまえばヒーローが一瞬にして変身したり、身長100mの怪獣が練り歩いているのを「ほんとの事だ」なんて思う人は居ないわけで、山本氏はそれを理由付けるのが仕事なわけで、柳田氏はそれに突っ込むのが仕事なわけで、なのに柳田氏を本1冊出してまでむきになって批判する山本氏は、おれの方が背が高いと言い張るドングリと言うか。

しかし人と違う事を始めたら、一生やりつづけろと神足裕司氏も言ってるわけだし、柳田氏には「空想科学」シリーズを続けてほしいものである。応援はせんが。

トンデモと学会会長の逆襲(7/21)

「と学会」の新刊『トンデモ本の世界R』(以下『R』)で、巻頭に我らが小林よしのり先生通称よしりんの『戦争論』が紹介されている事は前にも書いたんだが、最近『R』を読み返して、気付いた点が出てきたので、一寸書いてみる事にする。

「自衛隊に入ってればいざ戦争となれば戦闘機で逃げられる」とタクシーの運転手に言われてよしりんはずっこけてしまい、これが今の平均的な若者だ。国のために命を掛けられる者などいないと嘆いているのに対して、評を書いたと学会会長の山本弘氏は統計取ったわけでもないのに何が平均的な若者だと反論し、自衛隊に入っている若者はどうなる。彼らも皆腰抜けだとでも言うのかと憤りを露にする。ところが、『戦争論』の他の個所を読んでみると、警察官、消防士、自衛官は任務のため命を捨てる場合もあると描いてある。更にはよしりんはPKOの自衛隊海外派遣に就いて 今の日本人は『行くなら勝手に行け』と死地に赴く自衛隊に対し命を掛けるべき『物語』すら用意していない、残酷な国民であると自衛隊に同情している。詰まり、山本氏はよしりんが言っている事を正反対にして勝手に怒っているのだ。

山本氏は『戦争論』評を書くに当たって、『戦争論』を批判した同人誌やwebサイトを参考にしたと言う。何で専門家が書いた書籍じゃなく、素人の書いたものを参考にするのかよく分からないのだけど、とまれ文末で戦史研究所と言うサイトを参考にしたと書いている。確かにそのサイトには、山本氏が参考にしたと思われる批判が掲載されている。『R』の山本氏の文章と戦史研究所のコンテンツを読み比べてみると、非常に似通っているのがお分かり頂けよう。「参考にした」と言うレベルではなく、はっきり言って丸写しである。

さて山本氏は、よしりんが自衛隊に言及しているにも関わらず、何故それに触れないのか? 読み落としたか、批判の為敢えて無視したのか。恐らく一番可能性が高いのは、山本氏は原典を読まずに批判だけを読んで、それを切り貼りして書評を書いたのではないか。原典をちゃんと読んでいるなら、参考にした批判と同じ読み落とし、或いは無視をしているのは単なる偶然の一致なのだろうか。真逆書評を書くのに、原典を読んでないって事は無いだろうけど……

出たとこ勝負 (7/13)

今回は豪華2本立てです。

へのつっぱりはいらんですよ

…つか、コリャきっと夏コミ前の逃避行動なんだろうなぁ。HTML や CSS をいぢったり、スクリプトを書いたり、それ系のハナシをゴチャゴチャ考えたり書いたりするのって、絵やまんがを描くのにくらべりゃ断然ラク。100 倍くらいラク。いかんなー。

だからさ、そんなに「逃避」するぐらい辛けりゃ、出なきゃいいのに。それを生業にしているわけでもないでしょうに。

前にも書いたんだが、同人誌ってのは飽くまで同人活動の結果であって、同人誌を出す為に同人活動をする、と言うのは分かるけど、即売会に出す為に同人誌を作るというのは、本末転倒してるんではないのかい。

仮に即売会で本を売って稼ぐのが職業だとしても、前にも書いたけど、身内になら兎も角、webと言う公の場で愚痴をこぼされても困ります。それぐらいなら、当然のことですが、僕は今度の新連載で当面の間アンケート1位を独走する意気込みでいますから。いずれは僕を抜いていく作家さんが出てきて雑誌を支えてくれればいいなぁ、なんて思っていますが、そう簡単にトップは張らせないつもりです。原 哲夫先生のようなことを言って欲しい。尤もこんな台詞、20年のキャリアがないと言えないだろうけどね。それにしても、兎に角凄い自信だ。


サランヘヨ

NTT東日本では現在、「夏のわくわくフェア」としてカエル型のPCカメラが当たるキャンペーンをやってるのだけど、TVCMをSMAPの中居、草ナギ、香取の3人がカエルに扮しやっている。

ところでこのCM、カメラが当たった草ナギが、香取に「彼女とのメール交換は楽しいケロよ」と自慢するのだけど、香取に「随分若い彼女だケロ」とからかわれ、「でも、もう足も生えてるケロよ」と言い訳するんだけど、……いいのか? 足が生えてるとは言え、オタマジャクシを、詰まり未成年を彼女にして。

草ナギはロリコンだケロ!


自分でやれ(6/15,16,18,20,7/10,11)は「帰ってきたゲームの変人」にまとめなおしました。


とぶさかな。(5/18)

そーらをじゆうにとびたいな♪ はいくーちゅーふよー

前にも書いたが、学研の雑誌「ムー」の6月号の巻頭特集は「スカイフィッシュ」だった。数々のテレビ番組で紹介されて以来、「スカイフィッシュ」は旬の未確認生物となっている。 「スカイフィッシュ」とはどんな生き物なのか。ビデオテープに撮影された謎の飛行生物。棒のような胴体を中心に、両側にひらひらした羽かヒレのようなものをはためかせ、高速で飛ぶ。分析の結果、音速を超える事さえあると言う! だが映像に捕らえる事はできるものの、非常に高速で飛行するため捕獲は難しく、捕獲できてもすぐに崩れてしまうような脆い体を持つので標本として保存する事も出来ない。当たり前だよな、映像の中にしか存在しないのだもの。

スカイフィッシュは不思議な事に、ビデオカメラのみで撮影される。フィルムに撮られた事は1回も無い。「ムー」の特集ではブレた虫の写真とスカイフィッシュを比較し、別物である事を示しているが、実はビデオカメラとフィルムとでは撮影の方法が違う。対象をレンズで反転して像を写すところまでは一緒だが、フィルムは感光剤を塗ったコマに像を写して、感光剤に反応を起こさせるのに対して、ビデオカメラは像を撮影素子に因って像を電気信号に変換し、テープに記録する。この時素子は非常に細かく斜めに画像を切って、それを連続して繋ぎ合わせてひも状にする。再生するときは再びひもを切り離して元通りに並べるわけだが、要するにフィルムは像をそのまま写すのに対して、ビデオだと像を一旦千切りにして記録する。と言う事は、例えば羽虫がカメラのすぐ前を横切ると、細切れに撮影される事になる。それを再生すると、胴は長く伸び、羽はひらひらしたひれのようになる。フィルムならば、動く物体の残像が「ブレ」として感光剤を反応させてしまうのだが、言わばスカイフィッシュは、ビデオカメラが作り出した特殊な「ブレ」なのだ。スカイフィッシュがフィルムでは撮影されないのはこの為である。スカイフィッシュが実在するなら、ビデオカメラが作られるよりも前にフィルムで撮影されている筈である。

スカイフィッシュが大量に発生すると言うアマゾンの穴「ゴロンド・リナス」の映像はTVでも紹介していたけど、スカイフィッシュも確かに写っているんだけど、それ以上に虫がわんさと飛んでいるやんけ。

映像の分析の結果「音速を超える事も有る」と言うけど、音速を超える前に「音の壁」にぶつかって弾け飛んでしまうと思うけど。

しかしながら「スカイフィッシュ研究家」は世界中に居て、webでもスカイフィッシュサイトが在るし、日本にも居るのだけど、「ムー」に登場した研究家は、なんと同僚がスカイフィッシュに襲われたのが切っ掛けでスカイフィッシュの研究を始めたのだそうだ。その時の目撃談も掲載されているのだけど、縄張りを荒らされたのに怒って襲い掛かってきたスカイフィッシュに、「許してくれ」と懇願すると、「今度だけは許してやろう」とテレパシー(!)で答え、スカイフィッシュは飛んで行ってしまったのだと言う。それ以来スカイフィッシュに取り付かれ、ビデオに撮影し、捕獲を試みているんだそうだ。折角見逃してもらったのに、そんな事してたら今度ばかりは許してもらえないんじゃないだろうか。


ムー一族(5/16,17)

ニュートンもアインシュタインも間違っていたとしたら……あなたは信じられますか?

雑誌『ムー』(学研)の6月号に衝撃的な記事が掲載されていた。「ハイパー・サイエンス入門」と題するこの記事は、現代物理学でも解明されていない重力の発生する仕組みをついに解き明かした。

真空とは「何も無い」状態ではなく、真空が「存在」している状態を言う。質量のある物体がこの真空の中に存在する時、周囲の真空による圧力が物体に働く。これが重力の正体である。重力とは「引き寄せる力」などではなく、「押しつける力」だったのだ! この記事では、スポンジを使ってこの理論を解説している。まずスポンジに穴を空ける。この穴に、一回り大きい円柱形のスポンジを挿し込む。すると周囲のスポンジに因って挿し込まれたスポンジは圧力を受ける事になる。この周りのスポンジが「真空」であり、挿し込まれた円柱形のスポンジが「物質」であり、この時「物質」が「真空」から受ける圧力が「重力」を示す。

「そうだったのか!」ってモニタの前で感心している人はよもや居るまいな。

この説は根本から成立しないのである。先ずこのスポンジによって示されたモデルだが、例えば、この「真空」を示すスポンジにもう1つ穴を空けて、同様に一回り大きいスポンジを挿し込む。この2つは上記の通り、どちらも「物質」を示す。この2つを、「地球」と「月」と見倣す事にしよう。さて地球と月とが互いに重力に因って影響し合うのは、月の公転や地球上の潮の満干を見れば分かる。さてこのスポンジのモデルはどうか。差し込まれた2つのスポンジは、互いに曳かれ合うだろうか。そんなことはありませんね。例え、この2本の間に切れ込みを入れたとしても、スポンジはその場から全く動かない。逆に、スポンジとスポンジの間には、真空を示すスポンジがあるわけだが、と言うことはこの2本のスポンジは曳かれ合うどころか、逆に離れてしまう。と言う事は迂闊に地面を走れない。走る時にはどうしても足が地面を離れるが、そうなったが最後地球と走者との間には「真空」が入り込んでしまって以降この2つを繋ぎ止めるものは何も無い。走者は足をばたつかせたままふわふわと空に吸い込まれていくだろう。モーリス・グリーンなんかは走り幅跳びをしたら踏み切り板を蹴ったら宇宙へ一直線である。それに地球は、同一の空間でじっとしているわけではなく、公転している。と言うことは公転方向へ向かって「真空」を押し割っていくことになるが、進行方向に対する面は「真空」の圧力を受けるわけだから重力が大きく、翻ってその裏側は重力が小さくなる筈である。勿論そんな現象が観測された事は1度も無い。もう1つ、この理論だと物質が存在すると、周囲の空間はそれに押し広げられる。相対性理論では空間は重力に因って縮められるが、丁度その逆なわけだ。だとすると、重力レンズ、即ち太陽や銀河の重力の影響で背後の星が本来の観測位置からずれると言う現象は、本来もっと太陽などから離れて観測されるはずの星が、太陽寄りに観測される「凹レンズ」として働くことになる。しかし実際の重力レンズは、太陽の背後に有る筈の星が顔を出すと言う凸レンズとして働いているのである。

間違っているのはニュートンでもアインシュタインでもない、この記事なのである。

前述したこの「重力=真空の圧力」理論を説いているのは、コンノケンイチと言う、「この」方面では有名なライターである。こう言った「疑似科学」も書くけど、「UFO」ものも多い。どうやらこの「ハイパー・サイエンス入門」、暫く連載するらしく、次は「赤方偏移」に就いて解明してくれるそうだ。今から楽しみである。「ムー」は学研から出ているのだが、6月号はコンノ氏の記事以外にも、総力特集スカイフィッシュの正体を探る2色刷り特集エジプト「ミイラ」呪いの報告書特別企画天空都市マチュピチュは大洪水直撃の証拠だ!!と言った渾身のラインナップである。

最近マーチン・ガードナー著『奇妙な論理』のI、II(教養文庫市場泰男訳(I)ISBN4-390-11288-0(II)4-390-11426-3)を読んだ。医学的に立証されていないインチキ療法や空飛ぶ円盤、平らな地球や彗星の齎した地殻変動などの「奇妙な論理」やそれに取り憑かれた人々を紹介している、言わば「と学会」の元祖のような人である。尤も『奇妙な論理』は「と学会」シリーズのようにどこがインチキなのか懇切丁寧に説明してくれているわけではないので、紹介されている事例を信じちゃう人が逆に出てきたりして。

ところで、この原著である"In the Name of Science"は1952年にアメリカで出版されている。その1部を抄訳した『奇妙な論理』は1980年に出版。その後、未訳分が1部を除き『奇妙な論理II』として発行されたのが1992年である。で今は2002年。原著の発行から50年、訳書の発行からも20年経ったにも関らず、この本で話題になっている「ロズウェルのUFO墜落事件」は未だに話題になっている。回収された宇宙人の遺体を解剖したとされるフィルムが以前TVで特集まで組んで取り上げられたし、TBS「世界ふしぎ発見!」でもロズウェル事件に就いてレポートしているのは前にもこのコラムで書いた

ある特定の食品さえ食べていれば健康になれると言う食餌健康法も『奇妙な論理』で取り上げているが、NTV「おもいッきりテレビ」が引鉄になった「ココア事件」が起こったのはほんの数年前であることを忘れてはならない。今でも「アロエ」だの「ワイン」だの「青魚」だのがTVで「健康に効果アリ!」となればその日の夕方のスーパーにその商品は無くなる。食品業界とTV局の陰謀ではないかと思えるくらいだ。最近特に反響が大きかったのは「玉ネギ」らしい。「タマネギ部隊」が登場するマンガ『パタリロ!』の作者魔夜峰央先生が喜んだかどうかは定かではない。

「ノストラダムス」の1999年も過ぎたって言うのに、世にトンデモの種は尽きまじ、か。


蛇の尻尾(5/10,11,12,13)

去る4月26日、4年越しで争われた所謂「『脱ゴーマニズム宣言』著作権裁判」が結審した。まあ結果としては、「原告の一部勝訴」と言うことになる。この事件は、よしりんこと小林よしのりが描いた『ゴーマニズム宣言』を批判した上杉 聰氏の著書『脱ゴーマニズム宣言』に、『ゴー宣』のコマの1部が転載されており、これをよしりんが「著作権の侵害に当たる無断転載」として出版差し止めと賠償を求めて上杉氏と出版社東方出版を訴えたのである。ところが第1審では転載は「引用」として適法であると地裁は判断、原告であるよしりんの訴えは全て退けられ、敗訴となった。これを不服としてよしりんは控訴したわけだが、第2審で訴えの1部が認められ、出版差し止めと賠償の一部額を被告が払う事になった。すると今度は被告上杉氏側が上告、しかし最高裁はこの上告を棄却して、判決が確定した。民法では、裁判の費用は敗訴した側が支払わなければならないのだが、判決に拠れば原告よしりんは費用のうち250分の249を負担しなければならないし、また賠償は認められたけど、2620万円請求してたのに20万円しか払って貰えない。とは言え出版差止請求は認められたのだから「原告の一部勝訴」とするのが適当かと思われる。

この結果に、原告のよしりんから今のところ公式なコメントは無い。5月8日発売の「SAPIO」には載ってなかったが、原稿に間に合わなかったのか口を噤んでいるのか。よしりんは第2審の後出版差し止めで十分だ!と言っているので、今更言う事は無いのかもしれない。だけど今にしてみるとこのコメント、オウムに裁判で勝った時に描いたオウム信者の台詞に似てないか?(『ゴーマニズム宣言』幻冬舎文庫版第9巻第156章「オウムとの裁判・第3回報告」p106を見よ) 対照的に被告上杉氏は、支援サイト「「脱ゴー宣」裁判を楽しむ会」で高らかに勝利を宣言している。まあよしりんに手痛い一撃を喰らわす事が出来たのだから、気持ちは分からないでもない。

だけど……

この裁判に、「従軍慰安婦」も「教科書」も関係無い事は当然である。「著作権」の裁判なのだから。だが「従軍慰安婦」や「教科書」に就いての上杉氏の言動はどうにも首を傾げたくなるものばかりだった。「従軍慰安婦はかわいそう」「つくる会教科書は危険」と言う結論が先ず在って、そこに無理矢理理由を持ってくるのだ。「強制性」だとか「受験に役に立たない」だとか。こういう言説は「言い掛かり」「牽強付会」若しくは「トンデモ」と呼ばれる。

先述の勝利宣言にも、なんでそんな事まで言う必要があるのか分からない個所がある。次で一寸検証してみたい。

上杉氏の勝利宣言のタイトルは「歴史的な確定勝利判決となりました」。これまた大きく出たものであるが、判決としてはよしりんの一部勝訴とは言え、先述したように上杉氏が実質的に勝った、と言える結果でもある。

以前いしかわ じゅん氏の『鉄槌!』(角川書店2000年9月刊ISBN:4-04-873214-5)を読んだのだけど、まあ内容は前にも書いたから詳述は避けるとして、訴えられたいしかわ氏は相手側の「口頭での謝罪」を以って和解するのだが、相手から実際に詫びを入れられたわけでもなく、全然勝った気がしないのだが、弁護士に言わせると「大勝利」なのだという。しかしいしかわ氏に残ったのは、勝利の感激ではなく、只々不可解な裁判の、後味の悪さだった。この裁判でも原告よしりんの出版差し止めと賠償請求は認められたものの、賠償は一部額であり、「出版差し止め」と言っても、認められなかったレイアウトの改変さえ修正すれば、また出版できる。そして裁判の費用は殆ど払わなければならない。

まあ「裁判」と言うのは「勝ち負け」が必ずしも問題なのではなく、双方が納得できる裁定を下すのが目的なのかもしれない。だからこそ「和解」があるわけで。

今回の評決は原告は「負けたけど完敗ではない」被告は「勝ったけど完勝ではない」わけで、どっちも「自分が勝った」と言い張っている。よしりんの方は出版差し止めで充分だ!と「負け惜しみ」に近いけど、そこ行くと上杉氏はもう高らかに勝利を謳っている。だけど上杉氏、余りに嬉しいのか、それとも勝った事を確認しておきたいのか、筆が滑ってしまっている個所が見受けられる。

ただ、今回確定した高裁判決によると、一コマの配列を変えた私の本は「出版、発行、販売、頒布してはならない」とあります。もし東方出版に多数在庫があれば損害は大きくなったところですが、もう保存用以外ほとんど無いとのこと。高裁判決から二年近くでみんな売ってしまったことになります。現在、稀に書店に出回っているものがあるとすれば、それらはすでに東方出版の所有を離れたものと思われます。実害はゼロです。

上杉氏はよしりんの訴訟を「批判封じ」、つまり反論できないので、本そのものを弾圧させる手段に出た、と考えているようだが、「反論」自体は『ゴー宣』できっちりしているのだし、その是非は兎も角「絵を無断で使われて腹が立った、それが論敵だつたものだから余計怒りが募つた」と考えた方が自然ではないか? この訴訟が上杉氏や東方出版に対して経済的打撃を与える為のよしりんの謀略だと言うのは最早「被害妄想」である。「在庫がほとんど無い」と言っても上告が棄却された時の事を考えて増刷しなかっただけの話ではないのか。「YAHOO!掲示板」の「楽しむ会」関係者の書き込みに拠ると、どうやら違法とされたレイアウトの変更を修正した改訂版を出すようだけど。

先に挙げたのは、何か言ってる事おかしくないか? と言う程度ではあったが、「勝利宣言」の中には明らかな「ダウト」もある。

また高裁は、私と東方出版に両者で20万円のお金(利子を年5分で加算、今回の決定は高裁判決からちょうど2年目なのでその倍)と、裁判費用(印紙代559,000円)の250分の1を支払うことも命じていました。これらを合計すると、利子は20,000円、裁判費用の私たちの負担分は2,236円となりますので、合計222,236円の出費です。しかし、この程度であれば印税や売り上げ利益の中から、そのごく一部からの出費で支払うことが可能です。したがって、この場合もほとんど実害ありません。むしろ小林君の側が出した訴訟費用は、私たちの支払いで埋めてもなお336,764円が不足する状態です(この点から見ても、やっぱり小林君は負けたのでした)。

上杉氏は、東方出版と一緒に合わせて22万円余り払えばいいと考えているようだが、判決文を読むと各自支払えとなっているのだから、上杉氏と東方出版は別々に金二〇万円及びこれに対する平成九年一一月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払わなくてはならないのだ。更には、今回の決定は高裁判決からちょうど2年目なのでその倍と上杉氏は書いてるが、平成9年11月1日、これは『脱ゴーマニズム宣言』の発売日なのだが、その日から数えて年5分、つまり今月の初め5月1日に一括で払うとすると、丁度4年半となるので4.5倍になる。「年5分」と言うのが、単純計算なのか複利計算なのかよく分からないけど恐らくは単純計算だろうのでこの場合計24万5千円となる。因みに複利だと24万9104円になる。そこに裁判費用2236円の支払いもある。これを上杉氏と東方出版が半分づつ出し合ったとして1118円。

要するに24万5千円と1118円、合わせて24万6118円を上杉氏と東方出版は各自支払わなければならないのである。上杉氏の考えだと東方出版と折半で払うとすれば11万1118円で済むけど、実は10万円余りも計算を間違っていて上杉氏の考えている金額の倍以上を払わなければならないのだ。 さてよしりんは、訴訟費用のうち250分の249を払わなければならないが、その額は55万6764円。上杉氏と東方出版からの賠償が合わせて49万円となるけど、これを費用の支払いに当てるとすれば、よしりんは自分の懐から6万6764円だけ出せばいいのである。

上杉先生、「この点」から見ると、負けてるじゃないですか。よしりんの3.6倍の金を払わないといけないんですよ。この程度の額なら十分支払いは可能でしょうけど、被告なんだから判決文はちゃんと読んで下さい。支払額を倍以上間違ってどうするんですか。

それにしてもよしりんの請求金額は各自金2620万円だったのである。どう言う計算でこんな額になったのか知らないけど、もし全額支払う事になってたら上杉氏はどうなったことやら。

上杉氏が言うように私たちは、これまでなかったマンガ引用の可否をめぐる裁判で、完全に(筆者注:レイアウトの改変は駄目とされたのに?)勝利したことになります。と言うように、マンガのコマの引用は認められる、と言う判例が確定したと言う事でマンガ業界にとっては非常に重大な事件であるのは間違いない。よしりんに拠ればそれまでマンガのコマの転載には著作者の許諾が必要と言う「慣行」が有ったのだが、それは全く意味を持たない事になる。だからと言ってよしりんが言うように、コマを転載しまくった便乗商売が始まるかと言えばそんな事は無い。例えばそれこそよしりんのマンガのコマを引用した批評が出たとして、果たして読者は「よしりんのマンガのコマ」を目当てにその本を買うだろうか? そうじゃなくて、「批評」を読みたいから買う。「よしりんのマンガ」を読みたいんだったらよしりんの描いたマンガを買うだろう。ツギハギのマンガなんか誰が読むものか。マンガを引用した批評が売れたとすればそれは批評が良かったのである。

マンガを批評する際に、コマが必要だと筆者が考えたらコマを引用すればいい。そもそもが「引用」とは著作権上認められる範囲での転載を指す。引用元となるマンガを褒めちぎろうと貶しまくろうと引用に問題は無い。転載が引用として不適切だった場合、今回の裁判では正にコマのレイアウトを改変すると言う問題点が有った為原告よしりんの逆転勝訴となったわけだが、このように問題となる。また引用して著作物や著作者を誹謗中傷したとしても、それは人格権への攻撃であり、著作権には関係無い。

上杉氏は「素人」だった為に、逆に「業界の慣行」からすれば「横紙破り」な引用が出来たのかもしれない。下手に慣行を知っていれば腰が引けて引用しなかったかもしれない。

ソースは忘れたんだけど確か2chの「ゴー宣板」で以前、『旧ゴー宣』の頃のよしりんだったら、もしよしりんが当事者としてではなくこのような事件が起きたら「マンガ家諸君『引用』を恐れるな! 引用は適法であり批評の手段である! 慣行と言うシェルターにこもらず、批評を受けて立て!!」とごーまんかましたかもしれないと言うレスを見掛けた事が有って、「言えてるなあ」と思ったものである。だけどよしりんが当事者だからこそ、このような事件が起こって、ここまで大騒ぎになった、とも言える。とは言え第1審から第2審に懸けての間ぐらいのお祭りではあったけどね。第1審は朝日新聞は1面で取り上げてたのに、結審はどこもベタ記事。何だか尻つぼみである。

ところで『脱ゴー宣』裁判は終わったものの、「楽しむ会」はまだ続くようだ。名誉毀損裁判の行方を楽しむことが至上目的なって(原文ママ)きたからだそうだ。まあ、本人が楽しいならそれでいいんだが。

複利計算は、貴ちゃん(14才)重ちゃん(12才)@小田原市のホームページ/経済学チェック編/利息・返済額計算に拠りました。


勉強しろ(4/29,30)

私はもう「学校」というものから足を洗って久しいが、若し機会があるなら、また大学に通ってみたい。一応大学は出てるけど、最低ランクの5流私立なので、今度はきちんと勉強して国立か名の知れた私立に行ってやろうかな。行ければだけど。定年に為ってから大学に通うのも悪くない。最近「長寿大学」なんてタイトルの老人向け講座がよくあるけど、何、年齢制限なんて無いんだ、ほんとの大学に定年後の爺様が通ったって悪くあるまい。実際、東大辺りには4、5回入学を繰り返している人が居るんだそうな。勿論、ちゃんと卒業して、また入り直しているのだ。学ぶ事が好きなんだねえ。

森高 千里の歌じゃないけど、勉強はしないよりする方がいいって言うのは本当だ。だけどそれが分かるのは、残念ながら学校を出てしまってからだった。今にして思えば、学校で勉強する事って楽しい事だったんだなあ。「分かる」事、「知識が身に着く」事はとても気持ちのいい事である。まあ私は知識を吸収する事が大好きなので、「もう1回学校に行きたい」なんて考えられるのだろうけど、大抵の人は「学校なんかもう沢山」だろう。石坂 啓が『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』なんて甘ったれたタイトルの本書いてるけど、それこそ死にそうな思いで10年余り通って、やっとおさらばできたのに、なんでまた勉強しなきゃ行けないんだ。

しかし私が大学で司書コースを取った時に習ったのだから、もう4、5年前から言われ続けているんだけど、これからは「生涯学習」の時代だそうですよ。学校終ってもまだ勉強しなきゃいけないんですよ。

と言うのはウソで「生涯学習」とは言っても、学びたくない人はやらんでいいし、「趣味」だって「生涯学習」の定義から言えば立派な「生涯学習」の1つなのだからやりたい人が気楽にやればいい。のだが、「生涯学習施設」である近所の図書館の案内パンフには「いきいきわくわくふれあい学習」「学びの楽しさ再発見」なんて書いてある。まあ図書館とか公民館とかの文化施設は、地域住民に利用してもらわなきゃ存在価値が無くなる、職員はリストラされておまんまの食い上げになっちまうからこうして客寄せするのは分かるんだが。

「楽しく」なけりゃ「学習」できないんだったら、しなきゃいいのに。

私が大学の一般教養で取ったドイツ語の先生は、実にいい事を仰っておられた。「馬を水辺に連れてきても、水を飲ませる事はできない」馬に水を飲む意志が無けりゃ、つまり生徒が勉強しようと言う意志が無ければ、幾ら教えたところで無駄、と言うわけである。逆に言えば馬が水を飲みたいのなら、連れて行くまでもなく水辺まで走って水面に鼻先を突っ込むだろう。

それとこの大学は元々歯科大だったのを、文学部を増設したのでキャンパスが変な形で拡張された為、キャンパス内の道もやたら入り組んでしまって教室の移動をするのもえらい手間なのを「いい事だ」と仰っていた。「学問に近道は無い、むしろ回り道をした方がいい、と言う事をこのキャンパスは教えてくれる」と言うんだが、まあ創設者にそんな高尚な考えは無くて、単に土地買収とかの問題だと思うけどね。だがこの先生の仰る事は正しくて、すぐに答えが分かってしまうより、苦労して覚えた事のほうが身につく。

先述したように行ってたのは最低ランクの5流私立大だったけど、学ぶことは色々と有った。「人生そのものが勉強」と言うのはほんとである。これも「生涯学習」の1つかな。

「学ぶ」事は「楽しく」なんか無い。はっきり言って「辛い」。しかし、「知る」事、「腕が上がる」事は快楽に繋がる。その快楽が学ぶ辛さを乗り越えさせる。と言うよりも、学ぶ事が好きなのであれば最初から辛さなど感じない。傍目からは「よく続けられるな」と言うような苦行でも、本人には楽しくて堪らないのだ。無理に楽しくしなくたって、楽しいものは楽しいのである。この場合、苦しい事が却って陶酔を呼ぶマゾヒズムも含まれる。スポーツ選手が足腰も立たなくなる程の練習を重ねるのは、試合で勝つと言う目標も有るけど、練習それ自体が楽しいからでもある。宗教者が神に近づく為の道程もまた険しい。しかしそれを赴くのは神と言う目標それだけではない。修行そのものがやはり楽しいからだ。絶叫してしまうと分かっていてジェットコースターに乗ってしまうように、顔を歪めるほど酸っぱい梅干しについ手を伸ばしてしまうように、苦しみに耐える事もまた快楽となる。「学ぶ楽しさ」とはそう言った類のものであって、面白おかしければいいと言うものでもない。

昔引越し屋のCMで「べんきょーしまっせ」と言うのがあったけど、あれは引越しの技術を向上させます、と言っているわけではなく(勿論技術の勉強も大事だろうけど)、「経営が大変になるくらい料金をお安くします」と言う意味での「勉強」である。「強いて勉める」、つまり無理してでも頑張る事を「勉強」というのだ。

繰り返しになるが言う。学ぶ事は楽しくなんか無い。楽しくなけりゃ学びたくないのなら、最初から学ぶ必要なんて無い。


アニメの話、好きでしょ? 私は嫌いだけど。(4/28)

と言うわけで観に行きました、『WXIII PATLABOR THE MOVIE3』。脚本はとり・みきさんなのだが、実にとりさんらしい。ストーリーと伏線が、クライマックスへときっちり収斂されていき、でラストシーンでしっかり終わらせる。いい意味でも悪い意味でもけれんが無いのだ。だからと言ってつまらないわけではない。「滋味」と言えばいいのだろうか、派手な演出、観客に目を向けさせるこれまでのアニメに「よくあるような」小細工は無いのだけど、ちゃんとした「ドラマ」を味あわせてくれる、と言ったところだろうか。1つだけ難を言えば、レイバーの存在が薄い。一般レイバーは画面の端々には出るけど、とりさんがパンフで言うように、レイバーと怪獣と言うウソを同時に吐くのだから、「レイバーが存在する世界に、怪獣が現れた」と言う非日常の中の非日常を描くのに作品の中では日常であるレイバーが語られてない。対怪獣用にいきなりイングラムが出てきたら観客面食らわないか。日常であるから語るべき事は無いのか、それとも端から「パトレイバー」である事を知っている客が対象なのか。私はリアルタイムで「パトレイバー」を知っているからいいけど、リアルタイムでは見とらん若い客も居るだろうに。最初の方に第2小隊一暴れ、と言うシーンを挿めば、「ああロボットアニメなわけね」と分かるのに。犯罪レイバーを取り押さえる為交通規制が敷かれ、渋滞に巻き込まれた主人公の二人が現場を見に行くと、久住が指揮をしていた後藤さんに逢う、てな感じで。ひょっとしたら「廃棄物3号」辺りにはそう言うシーンも在ったのかもしれないけど、前述の通り小細工を排する演出だったんで、こう言う正に小細工はナシにしたのかも。只、全く小細工が無いかと言えばそうでもなく、クライマックスの13号が倒されるシーンで、「えっこう来る!?」と言うようなシーンがある。ネタバレになるから言わないけど、あれは結構衝撃的だった。

『グラップラー刃牙』の作者板垣 恵介氏が言うように、マンガは駄菓子である。栄養にはならない。アニメやゲームも同様。だけど、中には駄菓子ではない、ちゃんとした材料で作られた「本物の菓子」を、例えるなら京の老舗の和菓子とか、フランスの3つ星レストランが作るケーキとか、そう言うものを作りたいと思う作家も居る。アニメならば宮崎や大友、そして押井がその代表だろう。先の例えで言うならば宮崎は老舗、大友押井はレストラン、と言うところか。私が『WXIII』に対して感じた「滋味」は、職人の作る味だったのだ。

普段駄菓子しか食ってないような客には、ドギツイ人工甘味料ではない、こう言う、材料が織り成す味と言うのは物足りないかもしれない。だから『ミニパト』みたいな駄菓子も押井は出したのだろう。私は2回観に行ったのだけど、2回目の時『ミニパト』だけ見て帰った客が居たものなあ。お蔭で劇場貸切だったけど。実は私が2回観に行ったのも、まあ本編も面白かったんだけど、『ミニパト』を見に行ったんだったりして。だって3話あるんだもの。しかも地元の映画館だと第3話から上映してて、第2話と第1話しか見れなかったんだよ。

大友が『スプリガン』でハリウッドにアニメから回答を出したのと同様に、押井も邦画、そしてアニメを含むマンガ業界に回答を突き付けたのだ。「ここまでできるようになったんだぞ」と。しかし意地悪な言い方をさせて頂くと、やっと駄菓子ではない、本物が作れるようになっただけなのである。


電波が来た(4/27)

SETIの話を書いてて思い出したんだけど、SETIの推進者でもある故カール・セーガン博士原作の『コンタクト』と言う映画がある。

SETIに参加しているジョディ・フォスター演じる電波天文学者が、宇宙からのメッセージを発見するところから物語は始まる。この時地球外生命から送られてきていたメッセージは、地球での最初のTV放送に、"1,2,3,5,7,11,13……"と言う数列をくっつけたものだった。数学の知識がある人なら分かるだろうけど、そう、「素数」(1は素数じゃないらしいが)だ。素数は1とその数以外の整数では割り切れない1以上の数の事で、数学の基礎知識の1つなのだが、つまりこのメッセージを送ってきた相手は、自分が数学の知識を持つ知的生命体である事を示しているのだ。主人公は素数に続いて送られてきた設計図に基づいて作られた宇宙船に乗り込むのだが……実は私原作も読んでないし、映画も見てません。あしからず。だけど、電波を受信してそれがメッセージだと分かる時点で地球人は知的生命体だろうに、さらに素数を知ってるかどうかまで試すとは随分意地悪な地球外生命体である。

この映画が封切られた後、NHK教育「天才てれびくん」内で放映されたアニメ「ナノセイバー」でこのシーンをパクっていた。このアニメは、ナノサイズに縮小された主人公達が患者の体内に注射され、ナノマシンを駆使して治療を行うと言う設定の「ミクロの決死圏」ものなのだが、なんでナノマシン治療薬なんていいものが有るのに医者(しかも劇中では子ども)までナノサイズになって体内に入らなきゃいけないのかよく分からないけどまあさて置く。主人公達は運び込まれた謎の患者の体内で、ナノサイズの生命体に出会うのだが、この生命体が主人公の手をとんとん叩くリズムが素数だったので相手が知的生命体だと分かるのだ。このナノサイズの知的生命体、そしてそれを体内に宿す謎の患者の正体は? と言うのがストーリーなのだが、最後まで見れなかった。残念。(webで聞いた話なんだが、この『ナノセイバー』と、同枠で放送されてた『恐竜惑星』と『ジーンダイバー』は「ポケモン騒動」の煽りを食って「永久にお蔵入り」になってるそうだが……)

体内宇宙から宇宙に話を戻すけど、地球人はSETIのようにメッセージを受信するだけでなく、送信もしている。ボイジャーやパイオニアに搭載された地球や人類の情報を記したゴールドディスクもそうだし、1974年には現在SETIに用いられているアレシボ電波天文台からメッセージが送信されている。最近このメッセージをパクったミステリーサークル(最早「サークル」じゃねえじゃん)が作られたが、宇宙の彼方から麦を倒しに来るのと、電波で返事寄越すのとどっちが楽かも分からないようなアホな連中に返事して欲しくはないなあ。

地球上で電波通信が始まって100年は経つだろう。その最初に発信された電波は、既に100光年先にまで届いているのだ。勿論かなり減衰して微弱なものになってはいるけど、強力な受信機なら捉えられるだろう。そして地球から50光年の範囲内に、電波を受信でき、それがメッセージである事を解析でき、そして、返信する事ができる知的生命体が居るなら、ひょっとしたら返信が来るかもしれない。つまり他の星でもSETIのような事が行われていたら有り得るのだ。地球外知的生命とコンタクトする方法は、何もこっちや向こうが行き来する必要は無く、電波でやり取りすればいいのである。まあ10年単位のタイムラグの在るえらく気の長いチャットだけど。

明日にでも"1,1,2,3,5,8,13……"と言う返事が来るかもしれない。


世界トンデモ発見!?(4/24,25)

さすがに「ピンク」は拙かった。「矢鱈けばけばしい絵面に凝った」って自分のことやんけ。

「これマジ!?」で特集されていた「アポロはヤラセ」のインチキさ加減に、つい大人気無く突っ込んでしまったのだけど、TV業界と言うのは性懲りも無いと言うか、人の振り見て我が振り直さないと言うか、翌週4月20日放送のTBS系「世界ふしぎ発見!」がUFO特集だった。「アポロはヤラセ」は「陰謀論」の1つで、UFOとは少し違うけど、まあトンデモに変わりない。それに、「ふしぎ発見」の方がもっと悪質だった。

今回の不思議の舞台はアメリカニューメキシコ、ロズウェルである。まあ今更説明するまでも無く、UFOや宇宙人の遺体が回収されたの秘密基地エリア51でUFOのテクノロジーが解析され、ステルス機が開発されたのと目新しいネタは無かったんだが、番組の前半ではそうしたUFOネタを扱っていたが、後半では、SETI(日本語版)や宇宙飛行士訓練の体験施設など、「ちゃんとした」宇宙技術を取り上げ、クイズの問題も「NASAが開発した保温粘土を利用したレンジで温められるぬいぐるみ」とか「オナモミの実からヒントを得て発明され宇宙船や宇宙服にも使用されているマジックテープ」とか「遺骨を衛星に搭載して打ち上げる宇宙葬」とかまともなテーマだったのである。

これじゃ「これマジ!?」より質が悪い。

「これマジ!?」はまだインチキしか扱ってないので罪は軽い。まあインチキを「インチキ」と言わない時点で有罪に変わりは無いんだけど。「ふしぎ発見」はインチキと本物とを同列に扱っているのだ。本当の宇宙技術とごっちゃにしてしまうと、UFOまでもが本当のことだと勘違いされてしまうし、逆にSETIのような学術的な研究までもがUFOと同じようなインチキだと思われてしまうかもしれない。インチキならインチキを扱うべきであり、そして「インチキ」であることをちゃんと言うべきだし、本物は本物として扱うべきである。正に糞味噌一緒にしてしまった「ふしぎ発見」は私個人としては好きな番組なので残念なのだが、「これマジ!?」より罪が重い。

SETIはアメリカの学術機関に拠って主催されている地球外生命体探査プログラムなのだが、番組でも紹介されていたようにインターネットを通じて世界中の人が参加できる。解析プログラムをダウンロードし、スクリーンセーバとして作動させておけばインターネットを通じてアレシボ電波天文台からのデータがやり取りされ、解析が行われる。もし地球外生命体が電波通信を行っているなら、その電波は整った波形をしている筈である。特に地球に向けて送信しなくても、発信された電波が宇宙空間を伝って地球にまで届くかもしれない。宇宙空間に電波は満ちているが、殆どはノイズである。そのノイズの中から、こうした整った波形が発見できたら、地球外生命体の存在が確認できるわけだ。しかし何分収集されるデータが膨大なので、こうして協力を外部に求めているのだが、ひょっとしたら一般人のパソコンがメッセージを見つけるかもしれない、壮大で、尚且つ素敵でわくわくするような計画なのだ。妄想と憶測だけの、いい加減なUFOの話とは明らかに次元が違うのである。

カール・セーガン博士が草場の陰で泣いとるぞ。

考えてみればスペースシャトルなんてえらく無駄の多い乗り物である。それでも全重量の1%にもならない帰還船だけしか回収できない、全部使い捨てのサターンVに比べれば、オービターは再利用(オーバーホールは必要だけど)できるだけシャトルはまだましか。まあ月へ行ったり宇宙ステーションスカイラブを打ち上げたりするためのロケットと、精々衛星を放出したり修理したり、無重力化での実験を行うためのオービターを比べてもしょうがない気はするけど。

ここに「重力を遮断するための装置」なんてのが有れば話は簡単である。装置のスイッチを入れれば地球自転の遠心力でどこまでもすっ飛んでいくだろう。燃料もブースターも要らない。でも重力を遮断する為のエネルギーがロケットで重力を振り切るために必要なエネルギーより大きかったら意味無いけどね。

4月20日に放送された「世界ふしぎ発見!」はUFO特集だったんだけど、前回書いたようにSETIとUFOを同列に扱うような悪質な内容だった。

UFO墜落事件が有ったロズウェルをレポーターが訪れ、UFO記念館でUFO発見に関係した人々の紹介や墜落地点の模型が展示されている様子をレポートして居たんだが、ロズウェル事件で回収されたのは、「金属シートと破片、宇宙人の遺体」の筈なのに、現場を再現した模型に何故かUFOが突き刺さっている。しかも今日日アダムスキー型。まあアメリカでは今でもアダムスキーの信奉者は多いらしいからしょうがないか。

そしてロズウェルの付近には「エリア51」と呼ばれる秘密基地が存在すると言われ、近年、研究家やロシアの衛星が基地の撮影に成功した! とレポートしていたのだが、エリア51の存在自体は別に秘密でも何でも無いんですけど。只、内部が非公開なのは本当で、ステルス機やオーロラなどの機密兵器が開発されているからだ。エリア51の近くまで行くと、見張りらしき車が来た、とか言ってるが第一軍事基地なんて一般人がホイホイ近寄れる場所じゃないだろうに。私が以前車を運転していたら物々しい施設が在ったので車を止めて見て居たら詰めていた自衛官が出てきたので慌てて逃げた事があって、後で地図で調べてみたら自衛隊の通信設備だった。

エリア51で開発されているそうした兵器にこそ回収されたUFOの技術が使用されているのだ、と言うがステルス機に使用されているステルス構造や電波吸収材は地球の技術で十分開発できる。地球製のUFOも開発されているらしいが、なら何故未だにスペースシャトルが打ち上げられているのだろう。UFOは重力を遮断して飛んでいるとよく言われるが、そんな技術が有るならそれで宇宙に行けばいいのに。シャトルより余程経済的だろうに。それともシャトルはカモフラージュなのだろうか。えらく派手な上に金の掛かるカモフラージュもあったものである。


図書館には行くな(4/21,22)

新古書店や図書館に、作家はいい感情を抱いていないようだ。今のところ、新古書店で本が流通しても図書館で貸出が多くても、作家や出版社には1銭も入らない。前に、マンガ家のグループが新古書店でのマンガの売買に反対する声明を出した事があったりしたが、新古書店側でも現状の「濡れ手に粟」式の商売を続けるわけではなく、いずれ何らかの形で著作者(出版者や作家)に利益が還元できるような形にしていきたいと考えているようだ。例えば古文書とか絶版本を主に扱う本来の古書店とは違って、新古書店と言うのは新刊本が出てくれなければ商売にならないからだ。今後出版社側と新古書店側との間で何らかのガイドラインが設けられるのかもしれない。そうなれば馳 星周氏も飢え死にせずに済むだろう。

ところでこの間近所の図書館に行って『ハリーポッターと賢者の石』をOPACで調べてみると、複本も全て貸出中だったので、どれくらい待たないと借りられないか司書に聞いてみたところ、「2、3ヶ月は待っていただく事になる」と言われた。『賢者の石』は前に本屋で立ち読みした事があるが、どうにもイギリス的なバタ臭さが鼻について、最初の1章で止めた。私には合わん。

『指輪物語』は既に読了していたが、書架に行ってみると『ロード・オブ・リング』の影響か『ホビットの冒険』までトールキン関係は殆ど貸し出されていた。『追補編』だけ残ってたのがさもありなんだけど。私は自分の『指輪物語』の世界が壊れるのがいやなので『ロード〜』は見ない事にしている。フロドはもっとガキっぽくないと。閑話休題。

『賢者の石』の予約はしなかったのだけど、もし予約するなら「2、3ヶ月は待つ」のなら、その前に予約している人が当然居るわけで、『賢者の石』なんて1週間も有れば読み終わるだろうから、私の前の予約者はやはり2、3ヶ月は待たされているのだろう。

不思議だ。

『ハリーポッター』シリーズって、現在出てる3作どれも1900円(税別)ですよ。税込みでも1995円ですよ。2000円しないんですよ。今日日子どもに2000円の本買ってやれない家庭って殆ど無いだろう。いや『ハリーポッター』シリーズは大人も読む。だったら余計端金じゃないか。そもそも『賢者の石』が出版されたのはもう2年前になる。本屋に行けば平積みで売ってて、『アズカバンの囚人』ならいざ知らず、『賢者の石』は売り切れてる事は無いでしょう。2、3ヶ月待つまでも無く、本屋に行って2000円也払えば、もう読める。しかも2週間経っても返さなくてもいい、ずっと手元に置いておける。図書館の本を又貸しするのは駄目だが、自分の本を貸すのに問題は無い。家族で読んで、友達に貸したっていい。馳氏が怒るだろうけど。

それこそ馳氏じゃないが、2000円ってそんなに惜しいですか? ゲームソフト1本買うより何ぼか安いし、何よりゲームソフトはハードが無きゃ遊べんが、本はどこででも読める。お父さんにパチンコ1回我慢してもらえば2000円ぐらいすぐ用意できるでしょ? 2、3ヶ月と言う時間は2000円に相当するんでしょうか。1ヶ月に1000円足らず浮かしたって何も買えんでしょうに。

本を読むこと、即ち読書は教養の一手段である。それが実用書でも学術書でも娯楽書でもだ。しかし知識を得る為読むのでは教養とは言えない。「知識」=「教養」ではないからだ。「本を読むこと」、それ自体が教養なのである。最近は矢鱈けばけばしい絵面に凝った本も多いが、基本的に本は文字情報媒体である。大量の文字を読み、文章を理解し、その為の集中力を持続する、こういった読書力が教養を高める一助となる。そして、読書力は読書によってしか養われないのだ。

そして、教養はそれなりの代価を要求する。2000円を惜しんで2、3ヶ月待ってもいいからタダで済まそうとする輩には教養は与えられない。

ミもフタも無い事言ってしまえばタダで読むより2000円払わされて読むほうが目にも力が入ろうってもんだ。図書館で借りても、貸出期限までに読んでしまわなければいけないが、買えば自分のペースでいつでも読める。読了後読み返すのも簡単だ。しかし図書館の本だと、それこそ『賢者の石』をもう1回読みたいと思ってもまた2、3ヶ月待たなきゃならんのだ。

読書の習慣を身につけるには、幼い頃から本に親しむ事が大事なのは言うまでも無いが、本が少なくても家に本棚が有り、すぐに本が読める環境と、家に本棚は無いが、一寸歩けば図書館がある。読書を習慣付けるのに有効なのはどちらだろうか。まあ、図書館が幾ら隣近所に有ろうと、閉館してりゃ意味無いし、読みたかった本が貸出中だったりするけどね。要するに、読みたい本がいつでも読めるのと、読みたくても読めないことが有るのとではどっちがいいか、と言う話ですよ。所詮図書館の本は公共財であり、特定の利用者の為に有るのではないのだ。つ・ま・り、あなたの町にある図書館の本はあなたの本ではないということ。

そもそも、繰り返しになるが図書館に予約制があるのはいいとして、なんでベストセラーだからって2、3ヶ月待たなきゃならんのか。本を読みたいのをよく2、3ヶ月も我慢できるものだ。そんなに待ってもタダで読みたいのか。買えよ。そんなに読みたいんだったら。

本に払う2000円は、単に紙代と、流通の手間と、作家の印税と、出版社や問屋本屋の利益だけではない。2000円払った価値が有ったと言う喜びと、金返せという悔しさと、何より本1冊分の教養が詰まっている。それは図書館でタダで借りて済ませると得られないものだ。例え2、3ヶ月待ったとしても。

図書館で借りたい本が無い、予約を頼むと「2、3ヶ月お待ちになっていただきますが宜しいですか?」と言われたら一寸考えてみよう。自分はほんとにその本読みたいのかと。


水鳥の足(4/20)

「泣き言を言うハードボイルド作家」にも呆れるけど、最近はエンターテイメント業界のプロ意識が低下しつつあるのかなと思ったりする。コミケの前になると休載する同人出身マンガ家、素人頼りのTV番組、発売を延期するアニメビデオ、いろいろあるのだけど、前にナンシー関さんが言ってたけど、自分で無理難題を引っ被って、四苦八苦して、達成して感動している、と言うTV番組が最近多い。そう言うのを「マッチポンプ」と言うんだろうけど、最近ではココリコの「いきなり! 黄金伝説」なんかがそうだろうけど、先駈けとなったのはウッチャンナンチャンの「ウリナリ!」だろうな。

「ポケットビスケッツ」と「ブラックビスケッツ」をやってた時には「XXが出来なければ解散!」とか「勝負に勝った方だけCD発売!」とかあって、その様子を放送してたんだけど、番組の企画として出演者からなるアイドルグループを作って売り出す、と言うのはいいとして、CDを出して売れればそれでいいし、売れなくなったら企画を止める、つまり解散すればいいだけの話なのに、ひどい時には「ブラビ」のリーダーの南原が勝手にキャラクターグッズ(しかも木彫りの人形とか絶対に売れなさそうなの)を作って、それをメンバーで全部売り捌かなけりゃ解散、とか言って、んでどうにか売って、メンバーが「これで存続だー!」とか喜んだりしている。何でやねん。CD出したきゃ出しゃいいし、ライブやりたきゃやりゃいいし、続けたかったら続けりゃいいし、解散したくなったら解散すればいい。こっち側、つまり視聴者にしてみれば、CD聞きたきゃ買うし、行きたきゃライブ観に行くし、続けようが解散しようがやってる方の都合だろう。

要するに、感動を押し売りしているのである。おれたちはこんなに頑張っている、感動して呉れ! と言うわけだ。自分達で無理難題を作って、勝手に苦しんで、やり遂げて、泣く。えらい空しい感動である。

だけど、ウッチャンナンチャンは以前、「新春隠し芸大会」で「隠し芸」そのものをパロディにしたコントをやっている。ひょっとしたら、「ウリナリ」のマッチポンプも、全て台本に則った計算ずくなんだろうか。或いは、番組とレコード会社が結託して企んだ商売だったんだろうか。だとしたらすごいんだけど……

「新春隠し芸大会」と言えば、以前は、正月の本番の1ヶ月後くらいに、タレントの練習風景を別の特番でやっていた。これはこれでいい。本番は芸を娯しみ、練習の様子を見て「頑張ったんだなあ」と感動する。それぞれが別の番組として成立しているからだ。だが最近は実際に芸を行う前に練習の様子のVTRを流したり、本番の前の年末に練習風景の特番をやったりする。こんなに一生懸命練習しました、と言うわけだ。これはほんとに感動の押し売りだろう。タレントは本番がなんぼじゃ。過程はどうでもいい、「結果」で客を楽しませろ。


当世物書事情(4/17,18)

明治時代の初頭ぐらいまでだが、「浮世絵」と言うメディアがあった。

浮世絵と言うのはその名の通り、「浮世」、即ち当世の事件や事情、風俗を題材とした軽い絵である。単純に当て嵌める事は出来ないけど、今で言えば写真週刊誌やマンガ誌、人気の有る歌舞伎役者や相撲取りの肖像もあるからプロマイド写真に当たるか。週刊誌やスポーツ新聞に当たる「瓦版」も有ったし、今で言う小説と言った所の「黄表紙本」「洒落本」も有る。作家と版元、本屋の関係も成立しており、「商品」として価値があった。北斎や写楽、広重のような浮世絵師や、一九や南北、三馬、西鶴のように、当代も人気が有り、今でも美術史や文学史に名を残す作家や作品も多い。

しかしこれらのメディアは今は無い。

伝統文化として再現され細々と製作されてはいるのかも知れないが、商品として流通する数は多くは無い。

何故今無いかといえば、初めに述べたようにそれに代わるものが今有るからに他ならない。私は対象の様式化、記号化と言う共通点から、マンガは「現代の浮世絵」と考えているが、マンガ、小説や週刊誌、新聞と言ったメディアは、既存のメディアが占めていた位置に取って代わり、今こうして地位を築いているのである。

しかし今あるメディアもまたその地位を脅かされている。前に書いたように小説家がおまんまの食い上げになる時代がやって来るのは目に見えていると馳 星周氏が不安がるのも無理は無い。とは言え馳氏が言うように書店、新古書店、図書館に並ぶのは、ベストセラー作品ばかり で、他の本は読みたくても読めないどころか、存在すらゆるされなくなるという時代が必ず来る。とは私は思わない。大衆の画一化が進んで、『ハリーポッター』や『100人の村』のような「ベストセラー」が出る一方で、客層のタコツボ化、つまり嗜好の細分化も進んでいる。その証拠に近所の本屋でも図書館でも行ってみれば、ベストセラーばかりでなく、読む奴の顔を見てみたくなるような本も並んでいるのである。まあ馳氏が言う「ベストセラー」って言うのは馳氏が名前を挙げている宮部 みゆき氏とかのような「コンスタントに売れる作家」が書く「コンスタントに売れる本」、売上が確実に見込める本しか本屋や図書館に並ばなくなるぞ、と言いたいのだろうけど、片や絶対に一握りの客層しか見込んでないような本を専門に出す出版社だってあって、またそれを買う読者だって居るのである。

第一、「不況」と言われてその証拠のように大型の倒産が相次いでいると言うのに、出版業界での大型倒産は2001年末の鈴木書店ぐらいで、後は中央公論社が「新社」になったりはしているけど、あまり聞かない。勿論さっき書いたような誰が読むんだと言うような本を出してるような中小零細の出版社の倒産はあるんだろうけど、本なんて無くても生活はできる「贅沢品」なのに、出版業界は大して打撃を受けてない。(だから私は日本は「不況」じゃない、と思うんだけど)打撃があるとすれば「新古書店」や「図書館」と言った業界内での問題である。

「コンスタントに儲かる大型出版社とベストセラー作家」と「細々と本を出す中小出版社と作家」と言う図式は今に始まった事ではなく出版が商売となった時点から有るだろうし、逆に、宮部 みゆき氏や馳 星周氏らのようなそれこそ「ベストセラー作家」が一線に居るお陰で業界全体が潤い、その他の売れてない作家も食う事ができる、と言う事情もある。だのに馳氏が「明日食えるかどうか」なんて泣き言を言ってしまったら、ほかの作家だって不安になるだろう。

まあ馳氏らが言うような不安は、読者に定価より安く、或いはタダで本を提供してしまい、出版社に売上も作家に印税も入らない「新古書店」や「図書館」が悪いのか、それともケチな「読者」が悪いのか、はたまた商業主義に走り過ぎて「本」の価値を見失った「出版社」「作家」が悪いのか、犯人探しをやったところで責任は循環してしまって突き止めようが無いし、そんな事やる前に手を打たなければならないだろう。

まあ私は「読者」に過ぎないので本が安価に手に入る「新古書店」は有り難いし、タダで読める「図書館」もよく利用する。だけど、印税を作家に与える価値のある本は本屋で買う。実を言えば、本で飯を食いたいと言う夢も持っているので、もし運良くそんな身分に成れたら、自分の本が流通する際には印税が入るようなシステムであればいいなと思う。まあ印税を払って貰えるような本を書かなきゃいかんだろうけど。

電子媒体のオンライン出版が紙媒体を駆逐する日は来ないと私は思うし、よしんば来るとしてもずっと先だろう。スティーブン・キングがオンラインで先行出版した"The Plant"がセキュリティの甘さからタダ読みされてしまい読むための端末も殆ど売れず、出版を途中で止めてしまった経緯は有名であるが、電子媒体は手掛かりさえまだ掴めずに居る。やっぱり「本」というメディアはまだまだ強いのである。その強さに胡座をかいてしまった事に、馳氏の不安の原因があるのだろうけど。


ライトでないスタッフ(4/14,15,16)

♪ぼくらの生まれてくるずっとずっと前にはもうアポロ11号は月に行ったって言うのに(ポルノグラフィティ「アポロ」)

TVを見ていたら「これマジ!?」をやっていた。よく見ていたのだが、確か終ったんじゃと思っていたら、今後シリーズ特番として改編期に放送するらしい。

で4月13日に放送されたこの回は、「エイリアンを撲殺」とか「韓国最強の気功師」、「ジャワ島の未知の生物を逸見 政孝の息子が追う!」とか中々に衝撃のラインナップだったのだが、中でも白眉は、「アポロ計画はヤラセだった!」

この「アポロ計画の真相」シリーズはこれまでも何回か番組で放送しているらしいが、要するに、アポロ計画はアメリカが行った国家規模のヤラセだと。全世界に配信された月面での映像は、実は地球上のスタジオで撮影されたものだと。この手の番組とか本とかって、「初めて明かされる新事実!」みたいな書き方をするけど、実は結構前からあるネタだったりする事が多く、この「アポロはインチキ」もそんなに目新しいネタではない。

とまれ、以前の放送の内容も交えつつ、アポロ計画の真実を暴いていく! んだが…… 月の映像に隠されたヤラセや、計画の矛盾点を番組は指摘していくのだけど、中でも「宇宙服から落ちた石の謎」は秀逸である。

屈んでいた宇宙飛行士が起き上がる時、宇宙服に付着していた石ころか何かが、ぽとっと落ちる映像があるのだが、これこそ地球上のスタジオで撮影された決定的な証拠だと言う。本当に月で撮影されたのなら、月は地球より引力が弱い(凡そ1/6)から、石はもっとゆっくり落ちる筈だと。

笑った。

家には私しか居なかったので遠慮無く笑わせて貰った。比喩ではなくてほんとに腹抱えて笑ったもの。だけど、物理を知らない一般人は、いちころに騙されちゃうんだろうなあ。 何故私がハラ抱えて笑ったのか。

次回、その謎が明らかになる!

アポロ100号はどこまで向かうんだろ(ポルノグラフィティ「アポロ」)

アポロ計画は終ったっつーに。

TV朝日系「これマジ!?」で、アポロ計画はヤラセだったと言う「証拠」として、宇宙服から落ちた石が普通にぽとりと落ちた、引力の弱い月なら石はもっとゆっくり落ちる筈、「月からの映像」が実は地球で撮られたものだと言う決定的な証拠だ! と言うVTRに、私はハラ抱えて大爆笑した、と言うところまで前回書いた。何故笑えたのか。

地球上で計ると600gの石があります。では地球上と比べて引力が1/6の月面で同様に計ると、計りは何gを指し示すでしょう。600÷6=100(g)ですね。では600gの石と100gの石、同時に落すとどっちが早く落ちるでしょう? 100g? ブー。正解は「同時に落ちる」。「真空中なら」と言う保留は附くけど。別の映像で、宇宙飛行士がハンマーと羽を同時に落してどちらも同じく落ちるのを見せていたが、これは「自由落下」による現象で、質量の大小に関わらず、物が落ちるスピードは同じなのである。地球上では羽の方が遅く落ちるのは、羽が空気を捕らえやすい形をしているため空気抵抗が生じるからだ。空気の無い月面なら空気抵抗が無いから極端な話空気のある地球上より石は早く落ちるのである。まあ見た目には殆ど変わらないけど。大体、番組では「如何にも月で撮った映像であるかのように見せるためスロー再生していた」って言ってるのに、何で石はゆっくり落ちないんじゃ。(この記述に就いて、掲示板で指摘があつたとほり、正確な記述ではありませんでした。この件に就いては、「月の雑学 第3話 人類は月に行ってない!?「アポロの映像で、物体の落下するスピードが速すぎる」」をご參考にどうぞ。)

と言うわけで、石が普通にぽとりと落ちたとしても、それが地球上での出来事だと言う証拠にはちっともならないのである。また、月面車が巻き上げた砂が、地球での様子と全く変わらないのも同じ理由である。

逆に、月で撮られた写真だと言う証拠もあるのだ。月で撮られた写真で、十字が所々飛んでしまっているものがある。番組ではこれを「合成の失敗だ」として、これまたヤラセの証拠としている。だがNASAの反論として、「露出のため消えているだけだ」と紹介、対する番組の検証に拠れば、確かに露出過度に因って十字は飛ぶが、写真はぼやけてしまう筈だ、としている。だけどそれは空気のある地球上での話だ。空気の無い月だと、太陽光は空気に因って減衰される地球上よりももっと強烈に照りつけられる。露出を抑えても十字が飛んでしまうくらい物体に照り返されるのだ。

なんと地球上でのヤラセだとして提示された証拠が、実は宇宙飛行士が月に行った紛れも無い証だったのである。これが笑えなくてどないする。

アポロ計画が地球上でのヤラセだとする証拠で、最も古典的なのが「はためく星条旗」である。これも番組で紹介されていた。宇宙飛行士が、月面に星条旗を立てようとするのだが、その時空気の無い筈の月面で旗がちゃんと翻って、しかもはためいていたと言うんだね。星条旗が垂れ下がってないのは幟みたいに上に芯が入っているからなんだが、宇宙飛行士が旗竿を突き刺すため、ぐりぐりやっているから一見はためいているようにも見える。しかし番組では、それだけにしては矢鱈旗が動いている、と言う。VTRで見ると、確かに旗は右左にえらく動いている。だけどそれって、意外と月の地面が固く、突き刺すのに苦労しただけなんじゃないのか。

それに……番組では宇宙飛行士が旗を突き刺そうとする映像しか流していないのだが、実は刺し終えた映像もちゃんとあって、それだと旗はちっとも動いていないのだ。空気が有って、しかも右に左に旗が動くくらいの風が吹いてたのに、宇宙飛行士が手を放した途端止んでしまったとでも言うのだろうか。第一、そんなに風が吹いてるのに、周りの砂は全然飛んでいないのである。

「そもそも人間が月に行けない」理由として、ヴァン・アレン帯の存在を挙げている。月に行くためにはどうしてもヴァン・アレン帯を抜けなければならないが、強烈な放射線帯であり、とても人間が通過できる筈も無いんだそうだ。だとしたら、宇宙飛行士はきっと素っ裸で月に行かされたんだね。耐宇宙線、耐紫外線、耐熱耐圧の機能を備えた宇宙服が有るって言うのに。バックパックの通信用のアンテナはワイヤワークの為のフックらしいし。にしては、宇宙飛行士が上を向こうが下を向こうが、真っ直ぐなままだったけど。

それにしても、一見旗がはためいているように見える映像は見せておいて、旗が動いていない映像は見せない。これって「ヤラセ」じゃないの? 「やらせ」のドキュメンタリーでさらに「やらせ」をやったわね!!(小林 よしのり『ゴーマニズム宣言』2巻より)あ、「ドキュメンタリー」じゃないか。

「と学会」の会長山本 弘氏に拠れば、こう言ったトンデモ番組で司会がお笑いタレントであることが多いのは、「ウソだ」と突っ込まれた時に、TV局が「いやこれはドキュメンタリーじゃなくてバラエティ番組ですから」と言い訳するためだそうだ。だとすると何のことはなくて、TV局も「ウソ」だと分かっているのである。

さて今回の「これマジ!?」はスペシャル特番と言う事で、普段はゲスト1人なのだが、豪華なゲストを5人呼んでいる。

その中の1人がインドネシアの故スカルノ元大統領第3夫人のデヴィ夫人なのだが、デヴィ夫人はアポロ11号に乗り、ニール・アームストロング船長と伴に月面に降り立ったバズ・オルドリンと「永年の友人」であると言う。「友人」というのは、「会った事がある」と屡々同義語なのだが、まあそれはいいとして、デヴィ夫人はオルドリン飛行士と如何に親しく付き合っているか、VTRが始まるまで熱弁を振るっていた。

今まで紹介した他にも、「コーラのビンが有ったのを確かに見た」と言う証言、スタッフがコーラを飲んで放っぽっといてそのままにしちゃったってか? 多分ニカウさんが持ってきたんだろう。月の石に"C"と書いてあった、火星にもゴーデス(「スターフォース」なんて知らないだろうなぁ)やスマイルマークやカエルのパーミットのモニュメントが在るらしいから月の石に"C"と書いてあったり兎や黒い直方体や金色の怪人(「ワッハマン」はちょっとマイナーかな)が居たって別に驚きゃしねえよ。背景は書き割りだ、背景と地面と間にラインがある、月の地平線は地球よりずっと手前に有るんだけど。等々の「アポロ計画はヤラセ」であるとする数々の"証拠"(?)が紹介され、いよいよVTRも終盤、ここでアポロ計画が捏造であると言う事実を追っているジャーナリストが登場する。何と彼は18年間、この真実を追い続けてきたと言う。つまり18年の年月を無駄にしているわけだが、まあ日本にもたま出版の韮沢編集長みたいな人だって居るしな。もとい。

そして彼は何と、アポロ計画に参加した宇宙飛行士が自分に直接、「アポロ計画はヤラセ」だと認めたと言うのだ。その宇宙飛行士は誰あろう、バズ・オルドリンその人なのである! そう、デヴィ夫人「が」(「と」じゃないよ)友人だと言うオルドリン飛行士である。ジャーナリストは、そのインタヴューの様子は他の飛行士にも取材して、後日纏めて公開すると言う。何故かオルドリン本人への取材は無く、VTRは終った。

オルドリンと友人である筈のデヴィ夫人が開口一番、「ショックです、信じていたのに」。VTRで見ただけの、何処の馬の骨とも分からない「ジャーナリスト」の言葉の方をデヴィ夫人はお信じになるらしい、「永年の友人」よりも。デヴィ夫人と「友人」になるのは止そう。なる機会も無いだろうけど。

♪ムーンライトムーンライト今夜もいい夢見ろよ(くず「ムーンライト」)

いい夢見ろよ。ほんと。

参考「月の雑学 第3話 人類は月に行っていない!?

筑波大学、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)、文部科学省国立天文台 (NAO)、宇宙開発事業団(NASDA)が運営しているwebサイト「月探査情報ステーション」内の「アポロ計画はヤラセ」問題に対し反論しているコンテンツ。きちんとした天文知識に基づいた反論が読めます。他にも月に関する様々なコンテンツが同サイトには掲載されています。月に就いての正しい知識を得たい方は是非ご一読を。


泣き言なんか聞きたかないね(4/13)

さてサイトの引越しも一段落着きました。MEMOPADも再開する事と致しましょう。

最近、あちこちで話題になっているのだが、『不夜城』『鎮魂歌』で知られる作家の馳 星周氏がこんな事を書いておられる。

これまでも何度も書いているが、ベストセラー作家が印税でうはうはいいながら暮らしているというのは単なる幻想だ。三〇年前ならいざ知らず、今現在では、作家長者番付のベスト5以上の人たち以外はみんな、このままでおれたちは老後も暮らしていけるのだろうかとい不安を抱えながら日々を送っている。もちろん、わたしは同年代のサラリーマンの数倍の年収を稼いでいる。だが、それで大金持ちになれたわけではないし、死ぬまで保証された権利でもない。わたしがこれまでに稼いだ金は、精神に失調を起こす寸前になるまで自分を追い詰めて書き上げた作品に対して読者が与えてくれた価値でもある。また、わたしは大変に運がよい人間だが、わたしと同等、あるいはわたし以上の質の作品を書きつづけながら、同年代のサラリーマンの収入と変わらない、時には少ないという作家は、それこそ腐るほどいるのだ。このままの状況が進行していけば、そうした作家たちは作品を発表する場を奪われる。本を出版できなくなる。書店、新古書店、図書館に並ぶのは、ベストセラー作品ばかりで、他の本は読みたくても読めないどころか、存在すらゆるされなくなるという時代が必ず来る。現に、ベストセラー作家といわれているわたしですら(わたし的には自分がベストセラー作家だという自覚はない。今の日本で本来の意味でベストセラー作家なのは宮部みゆきだけだ)、将来に対する不安に怯え、日々の暮らしを支えるために能力を越えた連載を抱え、「書きすぎだから作品の質が落ちたんじゃないの」と揶揄されたりする。

それでも「本は高いんだから、図書館や新古書店を利用するのは読者の権利だ」といいはなてるのだろうか、読者は? 自分の読みたい本が読めなくなっても? 執筆年数三年、原稿用紙一五〇〇枚、ページ数五六〇の本が一九〇〇円じゃ高い? 軽い上質の紙を使いながら、定価が高くならないように上下巻にはせずに一巻にまとめるように版元に求めたわたしは大馬鹿者か? 上下巻にした方が懐に入る銭は大きくなるのだが、そうはしたくなかった。できるだけ安い値段で読んでもらいたかった。みんな図書館やブックオフに行くのだから、わたしのそんな努力はアホ丸だしか?(「おれたちは絶滅するか?」)

どーにも、近頃「甘ったれたプロ」が多い。この馳氏の日記にしても、私には「泣き言」にしか思えない。書店、新古書店、図書館に並ぶのは、ベストセラー作品ばかりで、他の本は読みたくても読めないどころか、存在すらゆるされなくなるという時代が必ず来る。? そーなった時、生き残る自信がないのか。

BOOKOFFに代表される新古書店の成長や図書館のベストセラーの複本購入とかの問題は以前から様々なメディアで取り上げられているが、要するに、商業化し過ぎた出版業界が、そのツケを払わされているのである。本を商品としてしか捕らえず、「売れたもの勝ち」と言う従来の商売が、破綻してきているのだ。私は馳氏の心配は杞憂だと思うけどね。

実際私も新古書店や図書館はよく利用する。定価で買うのはちと高い本や、もう本屋に無いような本を入手するのに、非常に便利だからである。だけど、本屋で定価で買う事も有る。好きな作家、例えば中島 らもさんやよしりんなんかは本屋に新刊が出てれば即座に買う。一刻も早く読みたいし、そして何より、買えばじっくり腰を据えて読める。それに何よりらもさんやよしりんだったら金を払っても惜しくないからだ。好きな作家や本には、それだけの力がある。図書館に入るのなんか待ってられない、金を払ってでも読みたい、読者の胸倉捕まえて、レジまで持って行かせる力があるのだ。と言っても実を言うと、らもさんとかよしりんとか、私が読むような作家って余り図書館に入れてくれないし、古本屋にも出回らない、と言う理由もあるんだが。

馳氏もwebで泣き言言ってる暇が有るなら、読者に「うお買おう!」と思わせるような作品を書けばいいだけの話だ。

作家は非常にステータスの有る職業と思われているが、実は全く非生産的な、ヤクザな商売に過ぎない。まあ本が売れる事で、出版業界に携わる人々の糧を稼いでいる、と言う側面はあるけど、第一、文学は元は商売ではなく、教養の一手段であった。貨幣経済が発達し、文学の娯楽化、エンターテイメント化と伴に、商売としての作家が成り立つようになった。しかし馳氏が言うように、当たればでかいが、売れなければその日暮らしである。だけど従軍慰安婦じゃあるまいし、編集者に「いい暮らしが出来る」とか甘言を弄されたわけでも、監禁されて書く事を強制されたわけでもないだろうに。そんなに将来が不安なら、さっさと作家なんか辞めて、もっと安定した職業に就けばいい。尤も不景気な今のご時世、「安定した職業」なんて余り無いけどね。

だけど馳氏ってハードボイルド作家だろうに、webだって今やメディアとして確立しているのに、ハードボイルド作家が泣き言言ったら拙いんじゃないの。『不夜城』は面白かったのになあ。つっても映画で観たんだけど。


世界がもし100人の村だったら(1/1)

夜中にその村に忍び込んで、村人全員の首に爆弾仕掛けの首輪を括り付けて、朝起き出してきた100人の村人に向かって

「おはようございます。今日は皆さんに、最後の1人になるまで、ちょっと殺し合いを」

おれがそんなことするまでもなく、この村は毎年1人が死んで、2人が生まれるので、翌年は101人になるらしいので、1万年後には50億人ぐらいになって、

「おれが正しい」

「いやお前は間違っている」

と誰に言われるまでもなく、殺し合いを始めることでしょう。

この話を本にした採話者は、ネット時代の民話「ネットロア」とか呼んでいますが、チェーンメール以外の何者でもありません。「売春」を「援助交際」とか呼ぶのと同じことです。「チェーンメールは受け取った相手が不快になるが、ネットロアは相手を幸福な気分にさせる」とのことですが、おれがもし受け取ったら、「何考えてるんだばかじゃねえの」と不快になります。「ごみ箱」に直行させます。たとえなんと呼ぼうが、このメールが1通送られると言うことは、その分の余計なパケットがネットに負担を与えることになります。それは「チェーンメール」以外の何者でもありません。丁度、「平和」を訴えるデモ行進が、一般人にとっては単なる交通の邪魔にしかならないことがあるのと、同じことです。

「このメールを受け取ることができる人は、幸福です」確かにある意味言えてます。インターネットができる環境に住んでいること自体おめでたいし、こんなしょうもない話を誰かに送ろうと考える頭もおめでたいし、そもそもこんな話、考えることそのものがおめでたいし、さらには感動して本にしようなんて思いつく発想もおめでたいです。何より1番おめでたいのは、この話の中身そのものですが。

さらにもっとおめでたいのは、そんなおめでたい話を正月からネタにして茶化して、「正月なんだから、『おめでたい話』で結構なことだな」と悦に浸っているおれです。

DIVE