江戸時代だつたらかう書いただらう。
去年夏の『シンケンジャー』の映畫に出てきた初代レッドの本名が「志葉烈堂」で、單純に『子連れ狼』の「柳生烈堂」のパロデイなのかと思つてゐたが。
江戸時代なのに「レッド」? とふと思ひつき、あ、「烈堂」だから「レッド」なのか! といまさら氣附いた。
といふことは、それぞれ初代は...
とか。
...もう苦しくなつたのでやめ。
新潟大和が6月に閉つてしまふんですが、昭和30年代にレストランで出してたカレーとラーメン、お子様ランチを再現して出してゐる。
これまで食べたことはないんだけど、ちよつと行つてみた。
閉店の6月25日までやつてるさうなので、當時を懷かしみたい、當時の味を試してみたい人は是非。
最初映畫を見たときぱつと思ひついた「勝手邦題」ですが、どうやら「ヤラセ」らしいといふことを聞いて、ぢやあ合つてんぢやん。
「オーシャンズ」の内容については「オーシャンズ プロパガンダ」で檢策してみてください。
佐渡のコブダイ「弁慶」も取材してるので新潟市内の映畫館では「新潟の海でも撮影!」と大々的に廣告してたんだけど、1分くらゐしか寫つてねえぢやん。
何があるわけでもなかつたけど。
この時間に惡さするウヰルスはありさうだな。
あとおれみたいに意味無くブログ更新したりとか。
"Big America"シリーズはヴオリユームもあるし、ヴアリエーシヨンもあつて好きです。
テキサスバーガーがバーベキユーソースとフライドオニオンでほんとに「テキサス」つて感じの味だつたのでニューヨークバーガーも樂しみにしてゐたのだが、うつかり食べ逃してしまつてゐた。
まあ賣れ行きによつてスケジユールの變更もあるやうなので、再販を期待するか。
でまあけふはハワイアンバーガーにしたんですが。
ハンバーグに目玉焼きをのせグレービーソースをかけた「ロコモコ」をイメージしたハンバーガーなので「ハワイアン」なのですが、ぼくとしてはパイナツプルが入つてゐるともつと「ハワイ」らしさがあつたんではないかと。なくても十分うまかつたですけどね。
「A」といふ事柄があつて、ぼくは「Aであつてはならない」と主張したとする。
それに對し、「あなたもAではないか」といふ「反論」は成り立つだらうか。
ぼくは「成り立たない」と思ふ。
ぼく自身がたしかにその「A」であつたとしてもである。
「あなたもAではないか」といふ「反論」は、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張には「賛成」してゐるのである。「Aであつてはならない」ことには賛成してゐるのだから、「Aであるあなたには、Aを批判することはできない」といふ「反論」にほかならない。
しかしこれはそもそも「反論」にはなつてゐない。
「反論」とは、相手の主張に「反對」だからなされるのである。相手の主張に賛成してゐるのに、否定するのは反論ではなくただの「いちやもん」でしかない(『13歳の論理ノート』でいふ大ボケ反論
)。「賛成」してゐるのに「否定」するのは矛盾でしかない。
それに對して、「『A』を『賛成』も『反對』もしない」といふ「再反論」がなされるかもしれないが、「賛成」でも「反對」でもないのなら、「A」であらうがなからうが「どうでもいいこと」である。「反論」する意味がない。
「Aであつてよい」といふなら、これは「反論」だ。その「Aであつてよい」といふ「反論」が、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張よりも筋がとほるものであればぼくはそれに賛成する。
また、「Aであつてはならない」とぼくが批判するとき、それは他人が「A」であることのみならず、ぼく自身の「A」も批判してゐるのである。他人だけでなく、といふよりまづぼく自身について、「Aであつてはならない」と主張してゐるのだ。
でも現状ぼくが「A」に該當してゐるとしても、ならばぼくはその「現状」を變へたい、と思つてゐる。「理想」や「目標」が「現状」と違ふのは當然だ。現状のままでいい、と思ふなら「理想」や「目標」は必要ない。「理想」や「目標」は「現状」を「變へたい」といふ意志にほかならない。むろん「理想」を實現させるための努力は必要である。
前に「徒然草」を引き合ひに出して「アンチ」や「知つたかぶり」を批判したが、それは當然ぼくが「アンチ」や「知つたかぶり」であつてはならない、といふ「自戒」でもある。現状ぼくに、「アンチ」や「知つたかぶり」な點があればそれは改めなければならないし、今後「アンチ」や「知つたかぶり」をしてはならない。
「反論」するのであれば、相手の主張、なにを言つてゐるのかを理解しなければならないのは當然であるが、自分自身が「なにを言つてゐるのか」も理解する必要がある。ただ「いちやもん」をつけたいがために、相手の主張に賛成しているのに「否定」してゐることがないかどうか、自身の「反論」に注意しなければならない。
近所にある店なのでよく行つてます。
いつもは看板メニユーであるこつてりの「麺こぶラーメン」なのだが、たまにはあつさりの「支那そば」にしてみる。
新宿で帰りのムーンライトに乘る前、腹ごしらへをしようと思つて驛前をぶらついてゐたのだが、「桂花」と「天下一品」を見附け、あーどつちも有名店だなー、せつかく東京に來たんだから入つてみようか、さてどつちにしよう。
「桂花」は前にインスタントで食べたことあるから、「天下一品」にして、うまかつたのでよかつたんですが。
帰つてきてから調べてみたら、「天下一品」新潟にもあるんでした。
といふわけで行つてみた。
ポタージユのやうに濃厚だけど、脂つぽすぎはしないスープが、コシの強い麺にからんで、のどごしよくつるつるとすすり込める。
うんうんこの味。新宿と同じだ。
別の日に「味がさね」も食べてみましたが、4種類のトツピングで味の變化が樂しめてこれもうまかつた。ピリ辛味噌なので辛いのが苦手な方はご注意を。
「宇宙のポカホンタス」「宇宙のラスト・サムライ」でも可。インデイアンというよりはヤノマミつて感じだけど。
しかしアメリカ白人はインデイアンに對し「負ひ目」を感じてゐるのだらうか。
劇中、どんどん原住民側に感情移入してしまひ、地球人側に敵對心を持つてしまつたんだけど、間違つてないよね?
あ、ぼくらもアメリカに侵略されてゐる側だから、それでいいのか!
ストーリーは上記のとほり、侵略しにきたんだけど、原住民の娘と戀におちて、云々、といふベタな展開。でもそれでよい。この作品は3D映像を樂しむ作品なのだから、變に奇を衒ふ必要もない。型どほりでよいのである。
で肝心の映像だけど、これはさすがに素晴らしい。2Dでも十分にぐいぐい見入つてしまふ映像なのに、これが3Dなのだからたまらない。
畫面自體も、3Dが効果的になるやうに構成されてゐて、より臨場感を高めてくれる。パンフにも書いてあつたけどスクリーンが視界いつぱいになるやう劇場の前のはうで見たはうがそれこそキヤツチコピーのやうに「そこにいる」感覺がより効果的かもしれないが、後ろでも文句なく興奮できるのでご心配なく。
だからストーリーはベタでいいのである。映像で十分に入り込めてゐるのだから臺本が下手にこつてゐたらむしろ引き戻されてしまふ。
最初はさすがにメガネは煩わしかつたけどもう途中でそんなの忘れてた。
とはいへ3時間もあつてしかも3Dなので疲れることは確かです。2Dの映像よりは目と腦に負擔はかかつてると思ふ。ぼくはふだんメガネかけてないしその上頭痛持ちなものだからちよつとこめかみが痛くなつてしまつた。直後に「箸休め」で「シンケンVSゴーオン」を見たんだけど「メガネかけないで見るの樂だー」と思つちやつた。
劇場は公開1ヶ月後にも關はらずかなりいつぱいになつてたんですが、途中トイレに立つて戻つてきたとき、客席がみんなメガネなのはけつこう壮観ですよ。
少しまともにまとめるならば、骨川家はお金を持っているから金持ちらしい生活をしていたのではなく、常にその状況で出来る限り最上質な生活を営もうとしている人達だったてコトなんですね。だから、たとえお金が無くなってもその中で出来るベストの生活スタイルを作り上げる。その為になら努力は惜しまない。
逆にのび太なんか、いきなり金持ちになつても、お金に振り回されて自滅しさう。毎回懲りずにドラえもんのひみつ道具を惡用して、使ひこなし切れず結局しつぺ返しをくらつてゐるところをみると。
ひみつ道具は使ひやうによつちやあ世界を變革できるくらゐの代物なのに、のび太は目先の利益にしか使はず大抵痛い目を見る。しかしまるで懲りない。まあ子どもなんだから當然ですが。
...と書いてふと思つたんですが、「ドラえもん」つて、「ひみつ道具」に象徴される「科學」に振り回される人間の愚かしさを描いた非常にアイロニーなSFなんぢやあ。