「A」といふ事柄があつて、ぼくは「Aであつてはならない」と主張したとする。
それに對し、「あなたもAではないか」といふ「反論」は成り立つだらうか。
ぼくは「成り立たない」と思ふ。
ぼく自身がたしかにその「A」であつたとしてもである。
「あなたもAではないか」といふ「反論」は、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張には「賛成」してゐるのである。「Aであつてはならない」ことには賛成してゐるのだから、「Aであるあなたには、Aを批判することはできない」といふ「反論」にほかならない。
しかしこれはそもそも「反論」にはなつてゐない。
「反論」とは、相手の主張に「反對」だからなされるのである。相手の主張に賛成してゐるのに、否定するのは反論ではなくただの「いちやもん」でしかない(『13歳の論理ノート』でいふ大ボケ反論
)。「賛成」してゐるのに「否定」するのは矛盾でしかない。
それに對して、「『A』を『賛成』も『反對』もしない」といふ「再反論」がなされるかもしれないが、「賛成」でも「反對」でもないのなら、「A」であらうがなからうが「どうでもいいこと」である。「反論」する意味がない。
「Aであつてよい」といふなら、これは「反論」だ。その「Aであつてよい」といふ「反論」が、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張よりも筋がとほるものであればぼくはそれに賛成する。
また、「Aであつてはならない」とぼくが批判するとき、それは他人が「A」であることのみならず、ぼく自身の「A」も批判してゐるのである。他人だけでなく、といふよりまづぼく自身について、「Aであつてはならない」と主張してゐるのだ。
でも現状ぼくが「A」に該當してゐるとしても、ならばぼくはその「現状」を變へたい、と思つてゐる。「理想」や「目標」が「現状」と違ふのは當然だ。現状のままでいい、と思ふなら「理想」や「目標」は必要ない。「理想」や「目標」は「現状」を「變へたい」といふ意志にほかならない。むろん「理想」を實現させるための努力は必要である。
前に「徒然草」を引き合ひに出して「アンチ」や「知つたかぶり」を批判したが、それは當然ぼくが「アンチ」や「知つたかぶり」であつてはならない、といふ「自戒」でもある。現状ぼくに、「アンチ」や「知つたかぶり」な點があればそれは改めなければならないし、今後「アンチ」や「知つたかぶり」をしてはならない。
「反論」するのであれば、相手の主張、なにを言つてゐるのかを理解しなければならないのは當然であるが、自分自身が「なにを言つてゐるのか」も理解する必要がある。ただ「いちやもん」をつけたいがために、相手の主張に賛成しているのに「否定」してゐることがないかどうか、自身の「反論」に注意しなければならない。
いふまでもないですが『非Aの世界』は「なるエーのせかい」と讀むのだけれど、『成恵の世界』つてマンガがあつたことを思ひ出して、おやと思つたのですがなんのことはなくて元ネタだつた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/成恵の世界
むかしのライノベで「NORIEが将軍」なんてのがあつたつけ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/異形三国志
つーかノリエガ將軍つてまだ生きてたんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マヌエル・ノリエガ