俺がエホバの証人叩き・モルモン教叩きをやらないのは、宗教に關する知識もさる事乍ら、そもそも自分を律する宗教心を持合せてゐないから。叩く事より先にすべき事があるのでないか。
自分が何かの宗教を信じてゐて、その價値を押附けるに價すると信じて他の宗教・宗派を批判するなら、あり得る。けれども、何も信じてゐないで、宗教を信じてゐる人を叩くなら、それは遊びでしてゐるので、何の意味もない。
野嵜さんのTwitterを讀んで思ひ出した。前に爺さんと宗教についてのやりとりをしたことがあつた。
「知識」と「信仰」についてぼくは、「知識」は「自分は『どのやうにして』ここにゐるのか」
についての答へであるのに對し、「信仰」は「自分は『何のために』ここにゐるのか」
といふ問ひかけに對する答へである、といふぼくの主張に對し、爺さんは、「エホバの証人」の主張みたいで、「笑止」ですな
と答へてきた。
ぼくはエホバの証人の信者ではないが、ぼくの「信仰」に對する認識が宗教側の主張と一致してゐるのだから、ぼくの認識もあながち間違つてゐない、といふことである。
エホバの証人について、ぼくは「輸血拒否」くらゐしか知らないが、それで命を失ふ信者もゐるわけで、文字通り「命懸け」の信仰であるといつていいだらう。といふか、宗教者が信仰を失ふことは命を失ふことに等しいのであり、その「命懸け」に對し、爺さんは「笑止」だといひはなつた。それは宗教差別である、とぼくは反論した。
すると爺さんは、宗教は互ひに否定しあつてゐるのだから、宗教そのものが他の宗教に對して差別してゐるではないか
、と言ひ返してきた。
そこで話は別の話題に移つてしまつたのだが、宗教による宗教差別を肯定するのであれば、爺さんは何らかの信仰を持つてゐて、だからエホバの証人の信仰を否定するのか、と聞くべきであつた。といふか、爺さんに限らないが、「信仰」とは「迷信」でしかない、と思つてゐる日本人は多いだらう。「迷信」だから宗教そのものを一笑に付せるのである。
だからといつて、自分が死んだ後遺體を生ゴミに出していい、と思へる日本人も少ないだらう。だが信仰が迷信でしかないなら、死體はただの腐つた肉の塊でしかないのだから生ゴミでいいはずである。焼却場で灰にして處理場に埋め立てればいい。土地の不足や遺族がゐなくなるとかいつた墓地の問題も無くなる。でもそれでいいとは思へないだらう。といふか「腐つた肉の塊」呼ばはりそのものに違和感を感じるのではないか。自分が死んだ後丁重に葬つてほしい、といふのは宗教に他ならないし、それは誰もが持つてゐる感情である。信仰の違ひによる他の信仰の否定、は仕方ないにしても、信仰は迷信でしかない、だからバカバカしい、くだらない、といつて宗教そのものを否定することはできない。
「信仰の違ひ」にしたつて、ぢやあ宗教團體は日夜他の團體に攻撃をしかけてゐるのか、といへばそんなこともない。教義では他の宗教を否定してゐて、それを口に唱へてゐるとしても、一々實行に移してゐたら切りがない。現實として共存してゐるわけで、いはば「方便」である。
爺さんは「自分が死んだ後どうなつたつて構ひませんよ。遺族が葬式を擧げないと言ふのであればそれでいいです」といふかもしれないが、さうなつても化けて出たりはしないでいただきたい。化けて出るのも宗教の1部なのだから。
と、いふか、爺さんが信じてゐるのは「自分教」なのだらう。
「自分」が本尊であり、絶對なのである。「自分」がさうだ、と思へばそれは正しいのであり、「自分」に異を唱へる者、ぼくや野嵜さんは邪惡であり、人間扱ひする必要はない。
かうしてみると、爺さんが野嵜さんにやたらと絡んできたのも、「自分」を崇めろ、といふ「折伏」にしか思へない。
もつとも、「自分教」で檢索したら、「自分自身に恥ぢない生き方をしよう」といふ「自律」の意味での「自分教」の主張もあつた。かーいふ「自分教」ならいいんだが。
つひでに。ぼくは「自分は『何のために』ここにゐるのか」
なんて考へたことはないです。そんな空恐ろしいこと。
>「知識」と「信仰」についてぼくは、「知識」は「自分は『どのやうにして』ここにゐるのか」についての答へであるのに對し、「信仰」は「自分は『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひかけに對する答へである、といふぼくの主張に對し、爺さんは、「エホバの証人」の主張みたいで、「笑止」ですなと答へてきた。
「自分は『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひかけに對する答へなんて出ません。少なくとも伝統佛教では数千年もの間、出してゐない。出せないのです。信仰は人間が不完全な存在である事に拠るので、人間つまり自己の存在理由を自分では答へられない。もちろん僧とて人間ですから答へは出せません。それが可能なのは自己を超越した絶対の存在(神佛)のみ、と考えられてゐます。この辺は多くの伝統宗教に共通する部分だと思ひます。
答へを出して見せる人が居ます。爺さんもさうなのでせう。各種セミナーの先生や新興宗教の教祖に多いのですが、それらの人は宗教的雰囲気で生徒や信者を騙してゐるのです。といふより自分を絶対の存在に見立ててゐる時点で、その人は宗教家ではありません。いづれにしても、答へが出るならそれは「知識」であり、出ない答へを求め続けるのが「信仰」と言へます。若し人間の問題を割り切ろうとしてゐるなら、その認識は間違ひです。
日本人はキリスト教を知る為に聖書を読む事はあっても、何故か佛教を知る為に御経(経典)を読もうとしません。後者は読めないと云ふ事だろうと思ひますが、先づ原典にあたるのが正攻法であります。『般若心經』は短い御経ながら佛教(特に禅宗系)の核心部分を説いてゐるのでお奨めです。尚、宗教を否定出来ない根拠は人間が不完全な存在である事。人間が完全なる存在ならば宗教は不要です。
聖書は、「出エジプト記」の邊りで挫折しました。
家が曹洞宗なので、『般若心經』と『修證義』は法事の時に讀みます。が、翌日には忘れます。
どうやら、「答へ」にはほど遠いやうです。
爺さんは理系の人だから宗教を輕蔑してゐるんですよ。文系人間もまた。
佐藤さん、味噌っ滓を返上する事にされたやうで御同慶の至り。
> 「知識」と「信仰」についてぼくは、「知識」は「自分は『どのやうにして』こ
> こにゐるのか」についての答へであるのに對し、「信仰」は「自分は『何のた
> めに』ここにゐるのか」といふ問ひかけに對する答へである、といふぼくの主張
> に對し、爺さんは、"「エホバの証人」の主張みたいで、「笑止」ですな"と答へ
> てきた。
ふうむ、爺の「笑止」がよっぽど応へたみたいですな。でも、それは誤読に基づ
く過剰反応です。落ち着いて読み返して下さい。爺が「笑止」と言ったのは、
「エホバの証人」の小冊子にあった「人は何のために生くべきか」への答へです。
で、その前に佐藤さんの答へは何ですか、と御聞きした。(今は「考へた事もな
い」が答へだと分ってゐます。)
それと、「信仰」が「問ひかけに対する答へ」といふのはちょっとをかしい。
「答へ」は「教義」で、それを信じるのが「信仰」ではないかと。
> ぼくはエホバの証人の信者ではないが、ぼくの「信仰」に對する認識が宗教側の
> 主張と一致してゐるのだから、ぼくの認識もあながち間違つてゐない、といふこ
> とである。
さうですね、上記のようにちょっとをかしいですが、「笑止」ではありません。
> エホバの証人について、ぼくは「輸血拒否」くらゐしか知らないが、それで命を
> 失ふ信者もゐるわけで、文字通り「命懸け」の信仰であるといつていいだらう。
> といふか、宗教者が信仰を失ふことは命を失ふことに等しいのであり、その「命
> 懸け」に對し、爺さんは「笑止」だといひはなつた。それは宗教差別である、と
> ぼくは反論した。
輸血拒否」しか知らなくて、「宗教者が信仰を失なふ事は命を失なふ事」とは言
ひも言ったり。まさに笑止!
> すると爺さんは、"宗教は互ひに否定しあつてゐるのだから、宗教そのものが他の
> 宗教に對して差別してゐるではないか"、と言ひ返してきた。
「宗教に対する差別」って何ですか?といふ素朴な疑問を措くにしても、教義に
対する批判は「差別」ではないでせう。で、宗教、宗派の間で批判は絶えない。
> そこで話は別の話題に移つてしまつたのだが、宗教による宗教差別を肯定するの
> であれば、爺さんは何らかの信仰を持つてゐて、だからエホバの証人の信仰を否
> 定するのか、と聞くべきであつた。といふか、爺さんに限らないが、「信仰」と
> は「迷信」でしかない、と思つてゐる日本人は多いだらう。「迷信」だから宗教
> そのものを一笑に付せるのである。
やっぱり「差別」が何のことやら分りませんが……ともあれ、カソリックがプロ
テスタントは地獄に落ちる、といふのと、爺が(例へば)「エホバの証人」の
「人はかく生きるべき」は笑止だ、といふのと、どっちか酷いか、と言ひたかっ
たのですが。勿論、爺は宗教一般を一笑に付すなんて事はしません。それどころ
か、佐藤さんなんかよりずっと真剣に考へていると思ひますよ(佐藤さんの書か
れてゐる御自分の迂闊ぶり・いい加減ぶりが本当の事だとして、ですが。)
> だからといつて、自分が死んだ後遺體を生ゴミに出していい、と思へる日本人も
> 少ないだらう。だが信仰が迷信でしかないなら、死體はただの腐つた肉の塊でし
> かないのだから生ゴミでいいはずである。焼却場で灰にして處理場に埋め立てれ
> ばいい。土地の不足や遺族がゐなくなるとかいつた墓地の問題も無くなる。でも
> それでいいとは思へないだらう。といふか「腐つた肉の塊」呼ばはりそのものに
> 違和感を感じるのではないか。自分が死んだ後丁重に葬つてほしい、といふのは
> 宗教に他ならないし、それは誰もが持つてゐる感情である。信仰の違ひによる他
> の信仰の否定、は仕方ないにしても、信仰は迷信でしかない、だからバカバカし
> い、くだらない、といつて宗教そのものを否定することはできない。
御遺体を生ゴミで出すのに違和感を感じる事が宗教に他ならないんですか。第一、
人の死体を生ゴミには出せませんよ。それじゃあ犯罪(死体遺棄)だ。つまり、
生ゴミ化に抵抗を感じるかどうかは「信仰」の有無には殆んど関係が無い。
佐藤さんにかかると、宗教も信仰もとてつもなく矮小化されてしまふから悲しい。
まあ、それは措くとしても、この大雑把な議論でさへ既に論理的に破綻している
のもなんだかなあ、です。「誰も」が持っている共通の感情が宗教ならば、どう
して異なる信仰(多分「教義」と仰りたかったのだと思ふが)が存在するのか。
自分のとは教義が違ふ特定の宗教を迷信だ邪教だと否定するのは仕方ないが、神
は存在しないと思ふものが、特定の宗教を迷信だ邪教だと否定することができな
いとするの何故か。肉親の死を悼む心を持つ事、自分を丁寧に葬って欲しいと思
ふ事が全て宗教ならば、それらを持つ人達には他の教義を批判する権利が有るの
ではないか?
それにしても、宗教全般、個別の宗教、その教義、その信仰をきちんと区別して
議論して頂きたいものです。
> 「信仰の違ひ」にしたつて、ぢやあ宗教團體は日夜他の團體に攻撃をしかけてゐ
> るのか、といへばそんなこともない。教義では他の宗教を否定してゐて、それを
> 口に唱へてゐるとしても、一々實行に移してゐたら切りがない。現實として共存
> してゐるわけで、いはば「方便」である。
いえいえ、それを実行に移してきた事が多々有ったし、今でもある。(十字軍、
アイルランド紛争、イラクにおけるシーア派とスンニ派の争い、イスラエルと周
囲のイスラム諸国との対立・緊張、云々云々。)で、今大多数の国で流血の事態
を免れてゐるのは、それこそ血で贖った「信教の自由」「内心の自由」「国家と
宗教の分離」といふ「基本的人権」の一部が確立できてゐるから。「私は考へた
事もない」ので、他の人の宗教を尊重します(批判しません)、といふ「能天気
ぶり」もしくは「無関心」のお陰なんかではありません。(「自分の我がままが
妨げられない範囲でのみ他人の自由を尊重する」のが自由主義と言へないのと同
じですね。)
> 爺さんは「自分が死んだ後どうなつたつて構ひませんよ。遺族が葬式を擧げない
> と言ふのであればそれでいいです」といふかもしれないが、さうなつても化けて
> 出たりはしないでいただきたい。化けて出るのも宗教の1部なのだから。
何が仰りたいのかさっぱり分りませんが、「化けて出るのが宗教の一部」とはま
あなんといふか、かたはら痛いといふか、笑止といふか。(老爺心ながら、真面
目な宗教家にさういふ馬鹿な事を言はない方が良いと思ひますよ。事によったら
御自身の命に係はるかも知れないし、日本憎しの大暴動が起きるかも知れない。)
> と、いふか、爺さんが信じてゐるのは「自分教」なのだらう。
> 「自分」が本尊であり、絶對なのである。「自分」がさうだ、と思へばそれは正
> しいのであり、「自分」に異を唱へる者、ぼくや野嵜さんは邪惡であり、人間扱
> ひする必要はない。
ふーむ、例によって、大雑把な物言ひですなあ。爺は個人主義者(自己本位)だ
から、「意味」や「価値」は自己の中に有る、もしくは自分で探さう、と思って
ゐますが、同時に他人の価値観や信仰も尊重しますよ。(「味方でなければ敵」
と考へがちの佐藤さんや野嵜さんには理解し難いかも知れませんが。)
あと、爺が「唯我独尊」ですか?佐藤さんは、この仮説にかなりご執心のやうで
すが、さう思ふ根拠はどのあたりに有りますか?少くとも爺は議論を自ら打ち切っ
た事は無いと思ひます。一方佐藤さんは自ら議論を打ち切ったり黙り込んだりし
た事は枚挙にいとまが有りませんが、その中で「それでも俺が正しい」と思って
をられる事が一つでもあるなら、それを示して頂けませんか?存分に議論しませ
う。
そもそも、佐藤さんの「捨てられない正しさ」って何でしたっけ。
> かうしてみると、爺さんが野嵜さんにやたらと絡んできたのも、「自分」を崇め
> ろ、といふ「折伏」にしか思へない。
あはは、んな馬鹿な。佐藤さんや野嵜さんに崇めてもらってもねぇ。大体、佐藤
さんが、昔の「議論」を(勘違ひで)蒸し返さなければ、爺がここに出しゃばる
事も無かったと思ひますよ。
> もつとも、「自分教」で檢索したら、「自分自身に恥ぢない生き方をしよう」と
> いふ「自律」の意味での「自分教」の主張もあつた。かーいふ「自分教」ならい
> いんだが。
さうですね、それはかなり良い線を行ってゐる推測だと思ひます。で、それは個
人主義であり、深いところで「信仰を持つ」「主(人)を持つ」事と相容れない
立場です。(佐藤さんが当て擦りで持ち出すような軽いものではないと思ふぞ。)
といふか、佐藤さんにも野嵜さんにも勧めた事があると思ひますが、何とも反応
が無いですね。やっぱり福田師の国家主義(絶対主義天皇制)の方が良いですか?
> つひでに。ぼくは"「自分は『何のために』ここにゐるのか」"なんて考へたこと
> はないです。そんな空恐ろしいこと。
なーんだ、最初の尤もらしい言ひ分は、ご自分の信仰・信念とは何ら関係無かっ
たんだ。アホらし。
塗炭さん
> 「自分は『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひかけに對する答へなんて出
> ません。少なくとも伝統佛教では数千年もの間、出してゐない。出せないのです。
> 信仰は人間が不完全な存在である事に拠るので、人間つまり自己の存在理由を自
> 分では答へられない。もちろん僧とて人間ですから答へは出せません。それが可
> 能なのは自己を超越した絶対の存在(神佛)のみ、と考えられてゐます。この辺
> は多くの伝統宗教に共通する部分だと思ひます。
ほう、「答へなんて出ません、出してない」とは、また自信たっぷりですね、塗
炭さん。でも、キリスト教やイスラム教については、明かにそれは間違ってゐま
す。それぞれの「神」の存在を前提にして、「何のために」(=「神の御心に随
ふために」)を説くのが「伝統的一神教に共通する部分」だと思ひますが。それ
とも、仏教以外の伝統宗教は塗炭さんの定義によると宗教ではない、と仰りたい
のでせうか。
> 答へを出して見せる人が居ます。爺さんもさうなのでせう。各種セミナーの先生
> や新興宗教の教祖に多いのですが、それらの人は宗教的雰囲気で生徒や信者を騙
> してゐるのです。といふより自分を絶対の存在に見立ててゐる時点で、その人は
> 宗教家ではありません。
さうなんですか。爺はともかく(といふか、塗炭さんに「答へ」を言った事はな
いと思ふが)、仏陀やキリストやマホメット達も、自らを絶対的存在(少くとも
「自身が最初に悟りを開いた」、もしくは「預言者として最高の存在である」)
と見做してゐます。だとすれば、彼らと新興宗教の教祖達との違ひは端的に言っ
て何処にあるのでせうか。
> いづれにしても、答へが出るならそれは「知識」であり、
> 出ない答へを求め続けるのが「信仰」と言へます。若し人間の問題を割り切ろう
> としてゐるなら、その認識は間違ひです。
何だか御自身が新興宗教の教祖様みたいな物言ひですが、でも(いつもながら)
仰ってゐる事がよく分りません。「人は何のために存在するのか」といふ問ひに
答へようとするのが信仰で、しかし、もし答へられたら、その答は「知識」であっ
て、信仰(の対象)ではない、と?宗教(家)が何をどうしようとしてゐと言っ
てゐるのかさっぱり分りません。(当然ながら、伝統的世界宗教は、そんな「定
義」は採用してないやうですが。)
あと、「人間の問題を割り切らうとしてゐるならその認識は間違ひです」のあた
りは爺には理解も要約もできませんが、
・「割り切らう」としてゐるのは誰?
・「人間の問題」って何?それを割り切るってどうする事?
・「その認識」って、「人間の問題」を割り切れると思ふ事?ひょっとして、割
り切らうといふ「意図」を言ひ間違へた?
素朴な疑問ですが、塗炭さんにはこのあたりが多少なりとも筋道立った言ひ分で
あるとお考へなのでせうか。それとも推敲不足、もしくは睡眠不足で、こんな風
になってしまふのでせうか。
> 日本人はキリスト教を知る為に聖書を読む事はあっても、何故か佛教を知る為に
> 御経(経典)を読もうとしません。後者は読めないと云ふ事だろうと思ひますが、
> 先づ原典にあたるのが正攻法であります。『般若心經』は短い御経ながら佛教
> (特に禅宗系)の核心部分を説いてゐるのでお奨めです。尚、宗教を否定出来な
> い根拠は人間が不完全な存在である事。人間が完全なる存在ならば宗教は不要で
> す。
「読もうとしない」「読めないから」「でも(読めない)原典にあたれ」???、
どうすれば良いんですかね——はともあれ
さうですね、どうして佛教の経典だけは漢訳「だけ」でよしとするのか、また、
なぜ日本語訳をしないのか。日本の仏教者(僧侶)の大方は、原典に当ってより
確かな解釈を探る事も、それを平易な現代語に訳して広める事もしない。イスラ
ム教やキリスト教と比較して、どこか怠慢といふか、堕落してゐるやうに思ふ。
で、般若心経を勧めるならば、どの解釈、と言はなければ意味が無いでせう。
「人間は不完全であるから宗教を否定できない。」塗炭さんのお好きな(スロー
ガン風)信条のやうですが、もうちょっと噛み砕いて頂ければ嬉しい。人間が不
完全といふのは、何か「完全な存在」が有って、それと比較して何か欠けてゐる
部分が有る、といふ事でせうが、その完全な存在って何ですか?あと「宗教を否
定できない」とは、「必要とする」といふ事でせうか。で、その時の「宗教」は、
宗教全般、それとも特定の宗教?あと、具体的に言って法事やお葬式の時のみ仏
教を意識する佐藤さんのような人は、否定している事になるのか、否定できてな
い事になるのか。
いずれにしても、あまり感心するやうなお説ではないですね。例によって、何の
説明にもなってないやうな。
> 爺さんは理系の人だから宗教を輕蔑してゐるんですよ。文系人間もまた。
それは違ひますね。爺の身内や友人には信仰を持つ者が何人か居て、その方たち
の無私で謙虚な姿勢・生き方を爺は尊敬してゐます。ましてや宗教一般を軽蔑な
どしてゐません。特に近代日本のキリスト教徒の著作には感銘を受ける事が多い。
爺が軽蔑するのは、信仰や宗教について良く知りもしないで、もしくは、よく考
へもしないで、したり顔で分ったやうな事(もしくは訣の分らない事)を言ふ人
達です。(もっと痛いのは、信仰を持つ人に対して自分がより深刻な侮辱を加へ
てゐるのさへ気がつかないやうに見える人。「化けて出るのも宗教」「御遺体を
生ゴミで出す事に違和感を感じるのが宗教」といふ人の事ですよ、馬鹿念です
が。)
しかし、何より、理系対文系等といふ有りもしない対立軸を拵へて、自身への批
判を矮小化しやうとする人の性根は「軽蔑にも値しない」と思ふ。
爺さんに他人を尊敬するなんて事ができるんですか。信じられませんね。あなたは他人を輕蔑するのが得意ですからね。
爺さんといふ人の言葉にはいつもむっとさせられます。
爺さんは、自分が他人をどう見るかを偉さうに語るんです。ところが、他人が爺さんの事をどう見てゐるかを述べても、それをすぐ間違ひだときめつけるんです。それがとても傲慢に見えるのです。
>爺さんへ
私は人間は不完全な存在であると言つてゐるのです。もちろん私も例外ではないし、佛教の僧やキリスト教の牧師も例外ではありません。若し人間が完全なる存在ならば、仰る「それぞれの「神」の存在を前提にして、「何のために」(=「神の御心に随ふために」)を説く」必要は無い。完全者に対して何を説くのですか。不完全であるからこそ、自分も不完全であると自覚しつつ、説く必要があるのです。
全ての人間は不完全である。ここから絶対の存在が必要である事、自己の存在理由を自分では答へられない事、人間の問題を割り切る事はできない事などが考へられます。私は素人なので可也解り易い話をしてゐる積りですが、論理的に破綻してゐるところがあれば御指摘下さい。尚、個別の各論を争う気はありません。人間は完全なる存在であると証明されれば私の主張は根底から崩れる。それだけの事です。
えと余談。爺さんの投稿は始めの三分の一ぐらいしかまともに読んでゐない。そこだけ読んで嫌になった。
>爺さんの投稿は始めの三分の一ぐらいしかまともに読んでゐない。そこだけ読んで嫌になった。
爺さんといふ人の物の言ひ方は、凄く嫌らしいですよね。人から嫌はれたくて仕方がないのでせう。それで快感を覺えるらしいです。
>爺さん
さうですか。
爺さんが、やつつけようとしてゐるのが、「エホバの証人」なんだか、佐藤さんや我々なんだか、わかりませんね。見境なしに人を愚弄して遊んでゐるやうにしか見えません。
塗炭さん
> 私は人間は不完全な存在であると言つてゐるのです。
ええ、どんなふうに「不完全」なのか分らないので、「完全な存在」ってどんな
ものですか、それからどんなふうに違ってゐるのですか、と御聞きしてゐるので
すが。
のさん
> 爺さんが、やつつけようとしてゐるのが、「エホバの証人」なんだか、佐藤さん
> や我々なんだか、わかりませんね。見境なしに人を愚弄して遊んでゐるやうにし
> か見えません。
どこのどなたか分りませんが、爺はあなたに構ってゐるつもりはないので、議論
が理解できないのなら、ちゃちゃを入れないで頂けると有り難く思ひます。
佐藤さん
> >爺さん
> さうですか。
さうです。で、また味噌っ滓に逆戻りですか。
はあ。
爺さんが惡意の塊なのは、正しい知識があるのにをかしな結論を引出してゐるのを見れば明らかですね。
いやあ、議論が理解出來るとか出來ないとか以前に、あなたの態度を問題にしてゐるのですよ、爺さん。そんな事も分らないのですか。あなたが偏見の塊だと言つてゐるんですよ。自分に都合が惡い事を言はれると、あなたはすぐに逃げますね。
佐藤さん
> はあ。
成程、もう宗教云々に関心は無い、と。あとは何時書き込み禁止にするかだけで
すね。
閑話休題
「の」さん
> 爺さんが惡意の塊なのは、正しい知識があるのにをかしな結論を引出してゐる
> のを見れば明らかですね。
「明らか」ねえ……。ならば爺の結論がどう「おかしい」のか説明して頂ければ
幸甚です。(逃げるなよ。)
> いやあ、議論が理解出來るとか出來ないとか以前に、あなたの態度を問題にして
> ゐるのですよ、爺さん。そんな事も分らないのですか。あなたが偏見の塊だと言
> つてゐるんですよ。自分に都合が惡い事を言はれると、あなたはすぐに逃げます
> ね。
成程。最近まで(ここでは御常連の)野嵜さんは、「どうして人や態度を問題に
するんだらう」としきりにぼやいておられましたが、「の」さんは正反対のご意
見を御持ちのやうで、「人や態度こそが問題だ」と。恐れ入ります。でも、野嵜
さんと「の」さんが実は同一人物で、要は「俺の態度だけは問題にするな」とい
ふ単なる自己中心主義、などといふオチだったりしますか?
いづれにせよ、御両人とも人様のブログで主題に関係無い事しか言はない事が多
く、これは「良い態度」とはとても思はれませんが、そちらは問題無いのですか、
「の」さん。
ついでに、佐藤さんは(まるっきり無視されてゐますが)このあたりブログの主
としてどう思はれますか?
とぼけるのが好きな御仁ですね。
あなたは佐藤さんに「味噌っ滓」と言ひましたし、それがあなたの結論ですが、明らかにをかしいでせう。自覺がないのですか。
なるほど。「人を問題にするのはをかしい」「私が爺さんの人を問題にするのはをかしい」。しかし、爺さん、あなたは佐藤さんの人を問題にしてゐますよね。あなたは自分が間違つてゐると思はないのですか。
爺さんは他人の矛盾だの間違ひだのを執拗に問題にしますが、爺さん自身に問題があるんですよ。繰返しおききしますが、あなたには自覺がないんですか。私はありとあらゆる言ひ方で、あなたの問題を指摘してゐるのです。その「ありとあらゆる言ひ方」の間の矛盾を指摘して、あなたは好い氣になつてゐますが、それこそ逃げですね。あなたは反省する能力を御持ちでない。
實際ね、爺さんが「自分が一番偉い」と信じてゐる事は明らかなわけで、最う話は終つてゐるんですよ。佐藤さんも塗炭さんも、爺さんに對する正しい認識を持つてゐる。それに爺さんは有效な反論が出來ないでゐる。
爺さんは、ひたすら佐藤さんや塗炭さんを嘲笑し、自分に批判が浴びせられると、他人の矛盾を指摘する事で、自分に對する批判を囘避しようとしてゐる。
爺さん、あなたは本當は悔しいのではないですか。だからしつこく我々に粘着して、我々を繰返し嘲つて、自分の安心を得ようとしてゐるのではないですか。爺さんは、我々が「偉くない」事を必死になつて證明しようとしてゐる。
爺さん、あなたは佐藤さんを「味噌っ滓」と云ふ事にしようと必死になつてゐますね。爺さんは、佐藤さんを非難し、佐藤さんが「自分以下の存在」である事にしようとしてゐます。それはあなたが「佐藤さん以上の存在」である事を「確認」する爲の行爲に外なりません。それが認められないと、「自分が一番偉い」と云ふ爺さんの「信仰」が搖らいでしまふ事になる。だから爺さんは必死になつてゐるのです。自分の面子の爲だけに他人を犧牲にしようとしてゐるのですね。
しかし、誰が何う考へても「自分が一番偉い」と信じてゐる爺さんは異常ですよ。佐藤さんもそれを解つてゐて、さう書いてゐる。ところが、それを爺さんは、依然として、自分が異常だと自覺せず、ひたすら他人の矛盾を指摘しては好い氣になつてゐる。困つたものですね。
別に爺さんが我々の誤を指摘したければすればいいんですよ。その結論が「自分の考へが正しい」と云ふのならば。誠實に自説の證明をしてゐればよろしい。その過程で激しい言葉が飛出した、それなら皆、あなたを許しますよ。
けれどもね、爺さんの結論は、「佐藤さんは味噌っ滓」なのです。誰が何う考へてもをかしいですよ、これ。をかしくないと思つてゐるのは爺さん一人です。
もちろん爺さんは、「それは結論ではありません」なんて言ふでせうけれども、ならば、何であなたは「味噌っ滓」と云ふ言葉にこだはるのですか。あなたが「味噌っ滓」と繰返し言つてゐる以上、あなたの結論が人を「味噌っ滓」と極附ける事にあると、周圍の人間が判斷するのは自然な事ですし、客觀的な事であるとすら言つて良いでせう。
爺さんは、佐藤さんを「味噌っ滓」と言つて、明らかに見下してゐます。この「見下す事」が目的ならば、爺さんは、明かに「自分が偉い」と言ふのが目的であるのです。爺さんは、それを非難されてゐるのですが、反省しません。なぜ反省しないのか。明らかに「自分が偉いのは事實であるからだ」と、爺さんが思つてゐるからです。即ち、爺さんは、惡い意味での「自分教」を信じてゐるわけです。佐藤さんの批判も、私の批判も、それを衝いたものです。それに對して爺さんが、佐藤さんや私の矛盾や誤を執拗に指摘したところで、爺さんが免罪される事はありません。爺さんは、反論出來ない道徳的な・絶對的な誤を指摘されてゐるのです。
ところが爺さんはそれが認識出來ない。道徳的に不感症であると言つて良いでせう。爺さんには反省する能力が、根本的に缺けてゐるのです。逆に言へば、自分の事は全部許してしまふ。
さう云ふ人間だからこそ、爺さんは、他人を一方的に斷罪したり、自分の好みに合へば褒めてやつたりして、遊ぶ事が出來るのです。爺さんは、遊びで人を褒めたり貶したりしてゐる。最低の人間です。
ふうん。
「の」さんは野嵜さんだったやうですね。
ならば、「自分の資格や態度は問題にされたくないけど、爺の資格や態度は論ふ
べきだ」は矛盾してゐないですか。あれこれ憶測を書く前に、まず、この質問か
ら答へて頂ければ、と思ひます。
> 實際ね、爺さんが「自分が一番偉い」と信じてゐる事は明らかなわけで、最う話
> は終つてゐるんですよ。
さうなんですか?でも、どうして爺が「自分が一番偉いと信じてゐる」と野嵜さ
んは信じるやうになったのですか?爺はこれまで何度も否定してゐますが、「い
や、そんな筈は無い」と言い張るなら、その根拠を示して頂けるとありがたい。
あと、話は終ってゐる、ってどう言ふ意味ですか?「終った話」ならば、それを
以降何十行にもわたって展開するのは何故?
> 佐藤さんも塗炭さんも、爺さんに對する正しい認識を持
> つてゐる。それに爺さんは有效な反論が出來ないでゐる。爺さんは、ひたすら佐
> 藤さんや塗炭さんを嘲笑し、自分に批判が浴びせられると、他人の矛盾を指摘す
> る事で、自分に對する批判を囘避しようとしてゐる。
爺の反論は有効ではない、と?ではなぜ、それに再反論しないのですか?塗炭さ
んに至っては満足に読んでもいないとか。でも、それでは返って、「おや、そん
なに効いた(有効だった)のかぁ」なんて爺は思ってしまひますけど。で、どう
して野嵜さんは一言も主題に言及せずに「爺の態度」に話をすりかへようとする
のですか?
いやまてよ、この認識といふのは「爺は自分が一番偉いと信じてゐる」の方かな。
成程。でも「そんな事は信じてゐません」と本人が言ふより有効な「反論」が有
らう筈がないし。
> 爺さん、あなたは本當は悔しいのではないですか。だからしつこく我々に粘着し
> て、我々を繰返し嘲つて、自分の安心を得ようとしてゐるのではないですか。爺
> さんは、我々が「偉くない」事を必死になつて證明しようとしてゐる。
あははは、これはをかしい!爺が一体何を悔しく思ふ必要が有るんですか?これ
が野嵜さんの「いつもの伝」なら、それは野嵜さんが悔しいと思ってゐる事の反
映ですよね、きっと。成程、さうか、上の「終った話」を終りにできないのは、
相当悔しいと思ってゐるんだ。(でも、そんなに悔しいのなら爺のブログにコメ
ントを付ければ良いではないですか。)
それに、「粘着」といふのも一方的ですな。爺に直接言及してゐる記事やコメン
トにコメントを付けたら、粘着した事になるんですか?一方、野嵜さんは呼ばれ
もしないのに、全然関係の無い事を長々と書きますが、普通はこういふのを「粘
着」といふのではないですか?
> 爺さんは、佐藤さんを非難し、佐藤さんが「自分以下の存在」である事にしよう
> としてゐます。それはあなたが「佐藤さん以上の存在」である事を「確認」する
> 爲の行爲に外なりません。それが認められないと、「自分が一番偉い」と云ふ爺
> さんの「信仰」が搖らいでしまふ事になる。だから爺さんは必死になつてゐるの
> です。自分の面子の爲だけに他人を犧牲にしようとしてゐるのですね。
ほう、そう感じますか。でもその憶測は間違ってゐます。爺は、書かれてある事
が間違ってゐると批判してゐる。それを「必死になって」「人を貶めている」と
感じるのは、受け取る側の態度に問題があるやうな気がしますね。野嵜さんのそ
のをかしな劣等感は早く克服すべきだと思ひますよ。
> しかし、誰が何う考へても「自分が一番偉い」と信じてゐる爺さんは異常ですよ。
> 佐藤さんもそれを解つてゐて、さう書いてゐる。ところが、それを爺さんは、依
> 然として、自分が異常だと自覺せず、ひたすら他人の矛盾を指摘しては好い氣に
> なつてゐる。困つたものですね。
誰が何う考へても、野嵜さんの言い分は客観性を欠いてゐます。もうすこし爺に
もわかるやうに敷衍して頂けませんか?それと、これは爺の矛盾の指摘は的を射
てゐる、といふ事でせうか。
> もちろん爺さんは、「それは結論ではありません」なんて言ふでせうけれども、
> ならば、何であなたは「味噌っ滓」と云ふ言葉にこだはるのですか。あなたが
> 「味噌っ滓」と繰返し言つてゐる以上、あなたの結論が人を「味噌っ滓」と極附
> ける事にあると、周圍の人間が判斷するのは自然な事ですし、客觀的な事である
> とすら言つて良いでせう。
勿論それは「結論」などではありません。(どうしてさういふ雑駁な議論ができ
るのか不思議。)
味噌っ滓と言ふ言葉に拘っても居ませんし、さう決め付けてもゐません。良く読
んで頂ければ、自明だと思ひますが……と言っても野嵜さんは分らない(ふりを
する)と思ひますので馬鹿念を押しておきますと……
爺の意図は最初の記事の表題にあるとおり「味噌っ滓を返上しませう」でした。
つまり、野嵜さんや塗炭さんが、佐藤さんの言ってゐる事には目もくれず(佐藤
さんのブログでありながら)ひたすら爺憎しの論陣を張ってゐるのを見かねて、
そう言ったのですよ。もっと言ふなら、佐藤さんを味噌っ滓扱ひしてゐたのは、
野嵜さん、塗炭さんだった、といふ事。で、「それを返上しませう」といふのは、
あっさり無視されないやう、(野嵜さんの過去の紋切りを借りるのではなく)しっ
かりした「自分の」考へを表明しませう、といふ事でした。(実際、さう書いて
ありますね。)
一方、爺は「本気」で反論していゐる。味噌っ滓扱ひはしてゐない。
野嵜さんは話を捻じ曲げてゐます。
とは言ふものの、このところのコメントを見るに、どうも佐藤さん御自身が真剣
に扱はれる(批判される)よりは無視される方が嬉しいやうなので、爺の期待や
アドバイスは余計なお世話だったやうですね。残念です。
はーん。
>ならば、「自分の資格や態度は問題にされたくないけど、爺の資格や態度は論ふべきだ」は矛盾してゐないですか。あれこれ憶測を書く前に、まず、この質問から答へて頂ければ、と思ひます。
矛盾してゐる事を指摘しても意味はないと言つてゐるでせう。
なぜなら、私は、爺さんの態度が、矛盾以前に、道徳的にをかしいと指摘してゐるからです。
なぜ爺さんは反省しないのですか。反省する能力が無いからでせう。「自分は絶對に正しい」と爺さんは思ひ込んでゐる。だから「爺さんは自分が一番偉いと思ひ込んでゐる」と斷定できるんですよ。
そもそもね、爺さんの指摘はナンセンスだから、眞面目に採上げる必要がないんですよ。
爺さんには分らないのですか。爺さんは、自分が詰らない事許り言つてゐると、自覺がないのですか。「あはははは」やら「ほう」やら、爺さんは會話をしてゐる積りなのでせう。けれども、あなたの下らない御喋りを見て、皆、辟易してゐるんですよ。爺さんの文章は内容が無さ過ぎる。
矛盾を指摘するのはいいですが、爺さんのは揚げ足取り以上の何ものでもないです。爺さんの文章を讀んでも、爺さんが自分の頭の良い事を自慢してゐるだけにしか見えません。實際、爺さんの文章には、讀み手を裨益するところのものが何もありません。鬱陶しいだけです。それが分らないから糞爺なんでせうがね。
>爺は、書かれてある事が間違ってゐると批判してゐる。
>味噌っ滓と言ふ言葉に拘っても居ませんし、さう決め付けてもゐません。
>一方、爺は「本気」で反論していゐる。
幾ら力強く宣言したところで、誰もあなたの言葉なんか信用してゐないですよ。爺さん、あなたは客觀的に話をしてゐる積りらしいですが、「あははは」だの「ほう」だの言つてゐる人が何うして客觀的だと思はれますか。あなたは馬鹿ですか。
爺さんは、「論者が問題で、論點は問題でない」と信じてをり、それで論者である佐藤さんを「味噌っ滓」と評價した。ならば、我々が爺さんと云ふ論者を評價して、良いでせう。矛盾も何もありません。
もちろん、良くないと爺さんが主張するのは自由です。けれども、その時點で、爺さんが佐藤さんを「味噌っ滓」であると評價した事、それ自體が爺さん自身の矛盾です。
何れにしても、爺さんが間違つた態度で議論に臨んでゐることは明らかです。それを私は指摘したまでの事です。さうしたら爺さんは、私は惡くない、お前こそ惡いのだ、と言つて、責任轉嫁して、逃げを打つた。それだけの事です。
野嵜さん、
なんだか、追い込まれたと感じたのでせうか、「思い込み」と「決め付け」が、
ますます酷くなってきましたね。
爺> ならば、「自分の資格や態度は問題にされたくないけど、爺の資格や態度は
爺> 論ふべきだ」は矛盾してゐないですか。あれこれ憶測を書く前に、まず、こ
爺> の質問から答へて頂ければ、と思ひます。
野> 矛盾してゐる事を指摘しても意味はないと言つてゐるでせう。
野> なぜなら、私は、爺さんの態度が、矛盾以前に、道徳的にをかしいと指摘してゐ
野> るからです。
ふーむ、道徳的にをかしい、とねぇ。でも、ダブハン?をつかって「道徳的に」
も論理的にも矛盾した事を平気で言ふ、しかもそれを他人のブログで長々とやっ
て恥じない野嵜さんが、どういふ道徳的基準で、爺の発言を「おかしい」と指摘
してゐるのでせうか。(そもそも、「をかしい」のは、どの発言でしたっけ。)
野> なぜ爺さんは反省しないのですか。反省する能力が無いからでせう。「自分は絶
野> 對に正しい」と爺さんは思ひ込んでゐる。だから「爺さんは自分が一番偉いと思
野> ひ込んでゐる」と斷定できるんですよ。
あはは。野嵜さんに道徳的に「をかしい」と言われただけで反省する人も居ない
と思ひますがねぇ。
それより、どうして野嵜さんは爺の批判に応へないのですか?否定も肯定もしな
い。
野> そもそもね、爺さんの指摘はナンセンスだから、眞面目に採上げる必要がないん
野> ですよ。
ええ、別に野嵜さんに採り上げてもらふ必要も感じてゐませんので、無視して下
さって結構です。(だって、野嵜さんが「独り合点」を呟いてゐるだけなんです
から。)
野> 爺さんには分らないのですか。爺さんは、自分が詰らない事許り言つてゐると、
野> 自覺がないのですか。「あはははは」やら「ほう」やら、爺さんは會話をしてゐ
野> る積りなのでせう。けれども、あなたの下らない御喋りを見て、皆、辟易してゐ
野> るんですよ。爺さんの文章は内容が無さ過ぎる。
あはは、これは恐れ入ります。でも、佐藤さんの所論へのコメントは、内容豊富
だと思ひますよ(本気だし)。対野嵜さんの場合は、野嵜さんの文章に内容が無
いから、それを批判する爺の言い分も内容空疎になるんでせうね、きっと。
野> 矛盾を指摘するのはいいですが、爺さんのは揚げ足取り以上の何ものでもないで
野> す。爺さんの文章を讀んでも、爺さんが自分の頭の良い事を自慢してゐるだけに
野> しか見えません。實際、爺さんの文章には、讀み手を裨益するところのものが何
野> もありません。鬱陶しいだけです。それが分らないから糞爺なんでせうがね。
さうさう、いつも「野嵜さんにはさうとしか見えない」といふころから話を始め
るから、客観性も説得力も無い訣で。しかも、こてんぱんにやられた後で「読み
手に裨益しない」「欝陶しいだけ」と言はれても、「それは野嵜さんならさう言
ふでせうな」としか思へませんし。
爺> 爺は、書かれてある事が間違ってゐると批判してゐる。
爺> 味噌っ滓と言ふ言葉に拘っても居ませんし、さう決め付けてもゐません。
爺> 一方、爺は「本気」で反論していゐる。
野> 幾ら力強く宣言したところで、誰もあなたの言葉なんか信用してゐないですよ。
野> 爺さん、あなたは客觀的に話をしてゐる積りらしいですが、「あははは」だの
野> 「ほう」だの言つてゐる人が何うして客觀的だと思はれますか。あなたは馬鹿で
野> すか。
いやあ、これも凄い。野嵜さんの憶測は間違ってゐて、実は爺はかう考へている、
と言ったら、「誰も信用しない」と来ますか、理由もつけずに。なんだか、てん
で話になりませんね。「あはは」「ほう」がそんなに気になるなら、それぞれ
「あなたは馬鹿ですか」とか「糞野嵜」と読み替へて下さっても結構ですが。
野> 爺さんは、「論者が問題で、論點は問題でない」と信じてをり、それで論者であ
野> る佐藤さんを「味噌っ滓」と評價した。ならば、我々が爺さんと云ふ論者を評價
野> して、良いでせう。矛盾も何もありません。
ほうら、また「爺さんは……と信じており」で始める。しかもこれがまた大間違
ひとくるから呆れます。(実は知っててわざと捻じ曲げている?)。だって、爺
は主題に触れない野嵜さんの態度を批判してゐるではないですか。しかも、上述
のように道徳的基準もない野嵜さんが、爺の「態度」を批判するのは、矛盾その
ものですね。(烏滸がましいとも言ふ。)
野> もちろん、良くないと爺さんが主張するのは自由です。けれども、その時點で、
野> 爺さんが佐藤さんを「味噌っ滓」であると評價した事、それ自體が爺さん自身の
野> 矛盾です。
ほうら、またまた話を掏り替える。「野嵜さんや塗炭さんが、佐藤さんを味噌っ
滓扱ひしていゐた」といふ爺の「認識」はどうなったんですか。よく当ってゐる
でせう。
あと、爺はその後「やっぱり味噌っ滓だ」と言ひましたが、でも、それが何と矛
盾してゐるんですか?ちなみに、佐藤さんは今や何を言はれても、はーん、ふー
ん、としか仰らないので、これはなかな言ひ得て妙だったな、と今は自画自賛し
てゐます。
野> 何れにしても、爺さんが間違つた態度で議論に臨んでゐることは明らかです。そ
野> れを私は指摘したまでの事です。さうしたら爺さんは、私は惡くない、お前こそ
野> 惡いのだ、と言つて、責任轉嫁して、逃げを打つた。それだけの事です。
そうですか。でも、そんなに「明らか」ならば、もうちょっと具体的に指摘して
いただければ幸甚です。(勿論、「客観的」「具体的」にお願ひしますよ。)
爺さんは、「道徳的に惡い野嵜は駄目である」と言ひながら、自分が道徳的に惡い事をするのは善い事である、と主張し、野嵜が爺さんを道徳的に批判するのは駄目である、と主張するのですか。
爺さんは、論者の事を批判しながら、自分が論者として批判されるのを拒否しますが、何故ですか。
佐藤さんが爺さんを無視してゐる事こそが、爺さんの言葉が佐藤さんの心に響かないものである事の證據でないですか。
自分の言ひ方が相手に通じない事が判つてゐて、はつきり言へば相手が嫌がつて聞く耳も持たなくなつてゐて、それでも爺さんが執拗に自分の言ひ方に拘るのは何故ですか。
人を小馬鹿にして樂しむ事が爺さんの目的ではないのですか。ならばなぜ、野嵜さん、佐藤さん、と、相手に呼びかけ、相手の人許りを批評してゐるのですか。それに對して、爺さんと云ふ人を批評されると、何うして爺さんは、反省しないで、「あなた方に私を批判する資格があるのですか」と言ひ、しつこく論者批判を繰返すのですか。
そもそも、何の爲にあなたは此處に書き込んでゐるのですか。佐藤さん批判、コメント欄に書き込む人批判が目的なのではないですか。それは議論の仕方としてをかしくありませんか。
爺さん、あなたは、今の記事のテーマに沿つて、コメントを書き込んでゐますか。さうではなくて、記事の筆者、コメントを書き込んだ論者を批評して遊んでゐませんか。
>宗教による宗教差別を肯定するのであれば、爺さんは何らかの信仰を持つてゐて、だからエホバの証人の信仰を否定するのか、と聞くべきであつた。
>と、いふか、爺さんが信じてゐるのは「自分教」なのだらう。
>「自分」が本尊であり、絶對なのである。「自分」がさうだ、と思へばそれは正しいのであり、「自分」に異を唱へる者、ぼくや野嵜さんは邪惡であり、人間扱ひする必要はない。
>かうしてみると、爺さんが野嵜さんにやたらと絡んできたのも、「自分」を崇めろ、といふ「折伏」にしか思へない。
爺さんがコメント欄でいかに力強く「論理的にわしが正しいノダ!」と主張し、他のコメント者を嘲笑したところで、佐藤さんの元の文章の正しさを證明してゐるだけではないですか。
今の爺さんのコメント欄での暴れつぷりは、それこそ見苦しいですよ。
私には爺さんが自己啓発セミナーの主宰者に見えますよ。自己啓発セミナーでは、何を話すかが問題にならなくて、話してゐる人を「啓発」して、精神を改造するのが目的なんですつてね。
あと、指摘しておくと、佐藤さんは「ダブハン?」について何も問題視してをらず、一方、ダブハンではない爺さんの存在を問題視してゐます。
「サイトの運營者が、荒らしではないと判斷してゐるダブハン?」を、一コメント者であり、しかもサイトの運營者に迷惑がられてゐる爺さんが、「ダブハン」と言つて非難をしてゐるのは、大變滑稽な事態だと思ひます。
單に、爺さんにとつて不都合な「ダブハン?」であつたから、爺さんは「ダブハン?」と言つて非難したのでせう。けれども、さう云ふ文脈を無視した・自分に都合の良い解釋による非難は、感心しませんね。
「客観的」だの「具体的」だの言つても、實際爺さんは、自分に都合の良いやうに解釋して、それを「客観的」「具体的」と稱してゐるに過ぎないわけですから。
佐藤さんが私の「ダブハン?」を問題視してゐましたか。爺さんは、自分にとつて不都合な存在だから、或は非難できれば自分にとつて都合が良いから、「ダブハン?」と言つて非難を始めたのではないですか。
「一般論としてダブハンは道徳的に惡い事である」なんて言つても、意味はありませんよ。そもそも、コメントされた佐藤さんは、サイトの運營者として「問題がない」と判斷してゐるわけですから。それに一コメンテータの爺さんが、自分の都合と云ふ主觀的な理由で文句を言つても仕方がないでせう。それに、サイトの運營者である佐藤さんは、爺さんのコメントを無視する構へでゐる=爺さんのコメントが迷惑だと、態度で示してゐる。ならば、爺さんこそ、コメント欄荒らしであり、荒らしであるならば道徳的に惡い存在である、と言へるのでないですか。
反論ありますか。
野嵜さんは、ぼくの心情を的確に言ひ表してくれてゐる。
まるでぼくが「の」といふダブハンで書き込んでるかのやうだ。
「の」さん
本当に話が解らない人ですね。あなたの「おいた」を、佐藤さんが(心情的に)
どう思ふかはこの際関係ないでせうに。あなたが過去矛盾してゐる事を言ってき
て居ながら、今「道徳的に」誰かを批判してゐる事がをかしい、と爺は言ってゐ
るのですよ。で、どの道徳的基準(規範)を採用するのですか(態度か議論か)。
もっと言ふなら、矛盾する主張を書きちらしておけば、それを元に(上手く選ん
で)誰が何を言っても形式的には批判できるでせう。が、それを道徳的批判と自
称するのは笑止である、と。
で、爺は少くとも佐藤さんの意見にコメントを付けてゐる。一方、「の」さんは、
この欄で、殆んど佐藤さんの宗教論には言及せずに、ひたすら御自分の憶測と決
め付けを元に爺に粘着してゐる。で、野嵜さんの道徳「基準」によると、爺がコ
メント荒しといふ事になるのですか?
いやはや、何をか言はんや。
>あなたが過去矛盾してゐる事を言ってきて居ながら、今「道徳的に」誰かを批判してゐる事がをかしい、と爺は言ってゐるのですよ。
私はですね、あなたが佐藤さんをとつちめて快を貪らうとしてゐる事がをかしいと指摘してゐるのですよ。それをあなたは何うして反省しないのですか。
>で、どの道徳的基準(規範)を採用するのですか(態度か議論か)。
ははは。あなたがそれを言ひますか。あなたこそ、どつちなんですか。あなたからはつきりさせたらいいでせう。あなたがはつきりしないから、私の批判もはつきりしないんですよ。ええ、私が「ははは」とあなたを嗤ふのがをかしいと言ふのなら、あなたが「あはは」だの「味噌っ滓」だのと言つた事を先づ反省なさい。私はあなたの眞似をしてゐるだけですよ。あなたが私の事を「矛盾」と言ふのは、あなた自身の矛盾の鏡像を非難してゐる事にほかならないのです。
「味噌っ滓」だの何だのと佐藤さんに暴言を吐き續けながら、「私は議論をしてゐます」と言ふのですか、爺さん。とぼけるのもいいかげんにしてほしいですね。
あなたは、何を議論してゐるのですか、爺さん。
佐藤さんや野嵜の、論者の、人間を議論してゐるのですか。それなら、爺さんのコメントを基に、爺さんの人間を議論するのは正しいですね。
佐藤さんの主張それ自體を議論してゐるのですか。ならば「あはは」「味噌っ滓」と爺さんが言つたのは、餘計でしたね。謝罪しなさい。
爺> あなたが過去矛盾してゐる事を言ってきて居ながら、今「道徳的に」誰かを
爺> 批判してゐる事がをかしい、と爺は言ってゐるのですよ。
の> 私はですね、あなたが佐藤さんをとつちめて快を貪らうとしてゐる事がをか
の> しいと指摘してゐるのですよ。それをあなたは何うして反省しないのですか。
爺は快を貪ったりしてませんが、そもそも、どうして「快を貪ったら」反省しな
いとゐけないのですか?快を追及するのは人間の本性ですよ。さう言へば野嵜さ
んは、いつか「サイトを二つ閉鎖させてやった」と誇らしげに言ってましたが、
その際は「快」を感じてなかったのですか?で、どこかで、「快を貪るのは絶対
的に悪だ」とまで仰っていましたが、いつからそんなにストイックになったんで
すか?
爺> で、どの道徳的基準(規範)を採用するのですか(態度か議論か)。
の> ははは。あなたがそれを言ひますか。あなたこそ、どつちなんですか。あなたか
の> らはつきりさせたらいいでせう。あなたがはつきりしないから、私の批判もはつ
の> きりしないんですよ。
あはは、爺の猿真似をしたって胡麻化せないですよ、野嵜さん(をかしくもない
し)。私は佐藤さんの態度や資格を云々した事はありませんよ。で、一貫して野
嵜さんの二枚舌を批判している。で、どっちなんですか?過去色々言ってきたけ
ど、今は態度が大事なんだ、って事ですか?
爺がはっきりしないから「の」さんの批判がはっきりしないのではなくて、「の」
さんと野嵜さんのダブルスタンダードだから批判がはっきりしない、のが正解な
んでせうね、きっと。
の> ええ、私が「ははは」とあなたを嗤ふのがをかしいと言ふ
の> のなら、あなたが「あはは」だの「味噌っ滓」だのと言つた事を先づ反省なさい。
の> 私はあなたの眞似をしてゐるだけですよ。あなたが私の事を「矛盾」と言ふのは、
の> あなた自身の矛盾の鏡像を非難してゐる事にほかならないのです。
がははは、のさんが爺の真似をして「ははは」と嗤っても別にをかしいとは思ひ
ませんが、例へさう思ったとしてもどうしてそれを反省する必要が有るんですか。
そもそも、どうして、佐藤さんを味噌っ滓扱ひして、「の」さんがしゃしゃり出
るんですか?
佐藤さん御自身が不愉快である、と仰るのなら、またそれはそれで議論しませう。
爺にも感情は有って、言ひたい事もありますし。
の> 「味噌っ滓」だの何だのと佐藤さんに暴言を吐き續けながら、「私は議論を
の> してゐます」と言ふのですか、爺さん。とぼけるのもいいかげんにしてほしいで
の> すね。
さうですか、でも、暴言は吐き続けてないですが。「の」さんが、藁を捉み続け
てゐるだけですね。 そもそも、「あなたは馬鹿ですか」とか「糞爺」と言って
はばからない人が、爺の「がはは」や「味噌っ滓」を暴言と言ふのがかたはら痛
い。
で、野嵜さんが佐藤さんを「味噌っ滓扱ひ」した方には、何とも責任を感じてな
いんですか?とぼけてないで、こちらにも答えて下さい。
の> あなたは、何を議論してゐるのですか、爺さん。
の> 佐藤さんや野嵜の、論者の、人間を議論してゐるのですか。それなら、爺さ
の> んのコメントを基に、爺さんの人間を議論するのは正しいですね。
の> 佐藤さんの主張それ自體を議論してゐるのですか。ならば「あはは」「味噌っ
の> 滓」と爺さんが言つたのは、餘計でしたね。謝罪しなさい
何度も言はさないで下さいよ。爺は佐藤さんの主張自体を議論してゐる。で、
「あはは」「味噌っ滓」がどうして「余計」で、それを謝罪しないといけないん
ですか?そもそも、どうして「の」さんがそれを要求するんですか?あなたは佐
藤さんの保護者なんですか?いい加減に佐藤さんを味噌っ滓扱ひするのは止めま
せうよ。
>爺は快を貪ったりしてませんが、
「あはは」と笑つて喜んでゐたり、佐藤さんを「味噌っ滓」呼ばはりして喜んでゐたりして、快を貪つてゐますね。
>そもそも、どうして「快を貪ったら」反省しないとゐけないのですか?
宗教と云ふものは、その「快を貪る」事、エゴイズムを抑へる事を目的に存在します。「
>快を追及するのは人間の本性ですよ。
「本性」をありのまゝに肯定する爺さんの態度はをかしいですね。「人殺しをするのは人間の本性である」と言つて、爺さんは「人殺しをせよ」と主張しますか。
>さう言へば野嵜さんは、いつか「サイトを二つ閉鎖させてやった」と誇らしげに言ってましたが、その際は「快」を感じてなかったのですか?で、どこかで、「快を貪るのは絶対的に悪だ」とまで仰っていましたが、いつからそんなにストイックになったんで
すか?
正しい事をしたら快を覺えますよ。しかし、目的は正しい事を正しいと言ひ、誤を正す事にあります。だから、相手と何を言合はうが、別にそのあと後腐れを覺えて何時までもつきまとつたりはしない。
しかし爺さん、あなたは、正しい事を言つて、誤りを言つた人間を腐して遊ぶのが目的で話をしてゐます。あなた、すごくしつこいでせう。人に粘着してゐるでせう。それがをかしいんですよ。
>あはは、爺の猿真似をしたって胡麻化せないですよ、野嵜さん(をかしくもないし)。
それを言つたら、爺さん、あなたもをかしくないのに、何を毎囘笑つてゐるのですか。あなたは氣狂ひですか。
>私は佐藤さんの態度や資格を云々した事はありませんよ。
とぼけるのも大概になさいよ。
>で、一貫して野嵜さんの二枚舌を批判している。
ああ――何をか言はんや。それがをかしいんですよ。
>で、どっちなんですか?過去色々言ってきたけど、今は態度が大事なんだ、って事ですか?
さうですよ。だつてあなたは今、私の態度を問題にしてゐると明言したでせう。それがをかしいんですよ。だからあなたの眞似をして、あなたの態度を問題にした。さうしたら、あなたはそれををかしいと言つてゐる。あなたの態度がをかしいのを指摘して、あなたの眞似をしてあなたのパロディを演じたんですよ。そのパロディが矛盾だ何だとあなたは言つてゐるが、無意味ですね、パロディなのだから。あなたは、パロディである事、あなたを批判する爲の演戲である事を認識できず、「論理的」に私の「矛盾」を衝いて、勝つた氣になつてゐる。無意味ですね。「演戲における矛盾」は、意圖的なものです。あなたの矛盾を衝き、あなたを批判する爲の。實際、あなたの矛盾は、暴き立てられてゐるわけです。それがあなたには解らない。自分を客觀的に見られないからです。
>爺がはっきりしないから「の」さんの批判がはっきりしないのではなくて、「の」さんと野嵜さんのダブルスタンダードだから批判がはっきりしない、のが正解なんでせうね、きっと。
「「の」さんと野嵜さんのダブルスタンダードだから批判がはっきりしない」つて、意味が解りませんね。日本語を喋つて下さい。
>がははは、のさんが爺の真似をして「ははは」と嗤っても別にをかしいとは思ひませんが、例へさう思ったとしてもどうしてそれを反省する必要が有るんですか。
自分がやつてゐる事がをかしいと認めたら、反省するものでせう。もつとも、爺さんは、他人を「がはは」と笑つて快を貪るのは、をかしくない、と思つてゐるやうですが。
>そもそも、どうして、佐藤さんを味噌っ滓扱ひして、「の」さんがしゃしゃり出るんですか?
ああ、爺さん、やつと自白しましたね。」
>佐藤さん御自身が不愉快である、と仰るのなら、またそれはそれで議論しませう。
>爺にも感情は有って、言ひたい事もありますし。
いやーあなたに感情があるんですか。これは驚いた。
もし「ある」のなら、佐藤さんが何んな感情を抱いて、あなたに今のやうな態度をとつてゐるか、想像出來ると思ひますが。あなたには佐藤さんの感情が想像出來ないんでせう。いや、「想像する」事が、理系人間として、あなたは自分に許せないのですか。「根據のない事」「具體的でない事」を、あなたは言ふ事が出來ない、と。
>何度も言はさないで下さいよ。爺は佐藤さんの主張自体を議論してゐる。で、「あはは」「味噌っ滓」がどうして「余計」で、それを謝罪しないといけないんですか?
あなたのは、議論の仕方がをかしいんだよ。と言ふか、あなたは、佐藤さんの主張自體を論じてゐますが、結論が「佐藤さん、あなたは味噌っ滓でいいんですか、いいんですね、ガハハ」なんですよ。誰が何う見ても、をかしいでせう。論者が結論に來てゐる。論者を責立て、嘲り、侮辱を加へる、それを正當化する爲に、あなたは議論のテーマを使つてゐるに過ぎません。
>そもそも、どうして「の」さんがそれを要求するんですか?あなたは佐藤さんの保護者なんですか?いい加減に佐藤さんを味噌っ滓扱ひするのは止めませうよ。
保護者も糞もないでせう、議論そのものに私は興味があるんですし、正しい議論の仕方をする事は一般的に正しい事です。あなたが正しくない議論の仕方をして、佐藤さんを馬鹿にしてゐる事、それが問題であると言つてゐるんです。
と言ふか、「佐藤さんの保護者」とか言つて、「人間」を問題にしてゐますね、あなた。この時點で、あなたが「人間」に拘つてゐる事は火を見るよりも明かではないですか。議論のテーマより、あなたは論者の「人間」を問題にしたい。あなたが執拗に、人にくつついてまはつてゐる事、その行爲そのものが、あなたの議論に對する態度の異常さを決定的に證明してゐるんです。
そして、異常人格者だから、爺さん、あなたは、自分の異常である事を自覺出來ないんです。粘着行爲が正常である、とあなたは思つてゐるんでせう。しかし、粘着アンチは異常だと云ふのが常識です。
具體的に話をしてもいいですよ。
http://pu-lab.sakura.ne.jp/blog_dive/2010/07/faith2.html#comments
こちらの爺さんのコメント、議論の仕方としてをかしいと、私と塗炭さんと、二人から指摘が入つてゐますね。
>最初の爺さんのコメントも、要約すれば、「あなたの感性は私と近いですね。でも間違ひ。(結論)」と云ふだけのものです。何一つ論證が無い。力強く否定してゐるだけなんですね。一種のレトリックです。
>爺さんの投稿には俺はかう考へるという主張が無く、相手の主張を否定するか疑問視して見せるかのいづれかです。
爺さん、あなたは、自分が「議論をしてゐる」なんて言つてゐますけれども、それは嘘なんですよ。
はたで見てゐれば、あなたが「議論しようとしてゐない」で「氣に入らない人間の發言を頭から否定して、相手に嫌がらせをしてゐるだけ」である事は、はつきり判るんです。
口調、文體も、あなたの動機を推測する材料ですし、あなたの「論じ方」も、あなたの動機を推測する材料です。爺さん、あなたは、とぼけて白を切り通し、自分の問題から相手の問題に話を摩り替へ續けて、相手を惡者にすれば自分は免罪される、と信じ込んでゐますが、人を馬鹿にするのも好い加減にしてもらひたいですね。
そもそも、あなたに宗教を論じる資格そのものがないのは、「快を貪るのは人間の本性」と言切り、宗教の存在そのものに價値を置かず、ただ、宗教を信ずる「人間」にのみ興味があると言つてゐる時點で、明かですよ。あなたは、宗教そのものに興味がない、人間を批評する事だけが面白いんです。この時點で、佐藤さんの設定した議論のテーマから完全に逸脱してゐます。
否、人間に、爺さんは興味がない、爺さんは、個人の人物評價をする事にだけ、異常に興味を抱いてゐるんです。人間性と云ふ抽象的なものに、爺さんは一切關心を持たない。さう云ふ立場から、佐藤さんの言つてゐる事を、頭から否定してかかつてゐるんです。議論するなら、頭から否定するにしても、同じ土俵の上でやるものですが、爺さんの場合、そもそも別の場所から「そんな土俵を用意する事がをかしい=そんな論點を設定する事がをかしい」と言ひ、「論點を設定した論者」の個人的な評價をやつて、遊んでゐる。話にならないんです。
「の」さん、塗炭さん、
話を逸らさないで下さいな。
・「の」さんは、「人の発言する資格や態度は論ふべし」という方へ意見が変っ
のですか?で、それはダブルスタンダードなのか、過去の言ひ分を否定するのか、
どっちでせう。
・「お二人が佐藤さんを味噌っ滓扱ひした」といふ爺の認識についてはどう思はれ
ますか?
・どうして「の」さんは、「佐藤さんの保護者です」と言はんばかりの然振舞ひを
するのですか?本当は、爺の「ご冗談でせう野嵜さん」を止めさせたい?それっ
て、味噌っ滓扱いそのものだらう、といふ認識もない?
・既存の大宗教が「何故人はこの世にあるのか」「なんのために生きているのか」
への答へを出さない、出せない、といふのはとんでもない勘違ひだらう、といふ
爺の意見についてはどうですか?(to 塗炭さん)
お答え頂けると幸甚です。
あ、別に逃げてゐる訣ではないですよ。逆に、話がちょっとでも具体的になると
(過去の経験からして)何だか舌舐めずりしたいくらゐのものですので、それか
ら逃げる、なんて勿体な事はしませんからご心配なく。じっくりやりませうね。
(何だか楽しみ。)
爺> 爺は快を貪ったりしてませんが、
の> 「あはは」と笑つて喜んでゐたり、佐藤さんを「味噌っ滓」呼ばはりして喜
の> んでゐたりして、快を貪つてゐますね。
ですから、もうすこし客観的にお願ひしますよ、「の」さんの決め付けだけでは
なくて。
爺>そもそも、どうして「快を貪ったら」反省しないとゐけないのですか?
の> 宗教と云ふものは、その「快を貪る」事、エゴイズムを抑へる事を目的に存
の> 在します。
あれ、「の」さんは宗教は信じてゐないのでは?
爺> 快を追及するのは人間の本性ですよ。
の> 「本性」をありのまゝに肯定する爺さんの態度はをかしいですね。「人殺し
の> をするのは人間の本性である」と言つて、爺さんは「人殺しをせよ」と主張
の> しますか。
人殺しは人間の本性ではありません。(アホか)
爺> さう言へば野嵜さんは、いつか「サイトを二つ閉鎖させてやった」と誇らし
爺> げに言ってましたが、その際は「快」を感じてなかったのですか?で、どこ
爺> かで「快を貪るのは絶対的に悪だ」とまで仰っていましたが、いつからそん
爺> なにストイックになったんですか?
の> 正しい事をしたら快を覺えますよ。しかし、目的は正しい事を正しいと言ひ、
の> 誤を正す事にあります。だから、相手と何を言合はうが、別にそのあと後腐
の> れを覺えて何時までもつきまとつたりはしない。
の> しかし爺さん、あなたは、正しい事を言つて、誤りを言つた人間を腐して遊
の> ぶのが目的で話をしてゐます。あなた、すごくしつこいでせう。人に粘着し
の> てゐるでせう。それがをかしいんですよ。
へー、爺が正しい事を言って誤りを言った人間を腐してゐると。ありがとうござ
います。だったら快を感じて良いんですよね、「の」さんみたいに。
あと「いつまでもつきまとう」は聞き捨てならないですね。爺を名指しで批判し
たのは佐藤さんで、呼ばれもしないのに出しゃばってきて、爺に粘着してゐるのは
「の」さんだと思ひますよ。
の | 2010年7月22日 08:17 | 返信
爺> あはは、爺の猿真似をしたって胡麻化せないですよ、野嵜さん(をかしくも
爺> ないし)。
の> それを言つたら、爺さん、あなたもをかしくないのに、何を毎囘笑つてゐる
の> のですか。あなたは氣狂ひですか。
あはは、爺はをかしいから笑っている。をかしくないと思ふ「の」さんはユーモ
アのセンスがずれてゐます。あ、いや、問題は「の」さんの論点ずらし、でした。
爺> 私は佐藤さんの態度や資格を云々した事はありませんよ。
の> とぼけるのも大概になさいよ。
はあ、そこでやめてしまっては「逃げ口上」になってしまふ。
爺> で、一貫して野嵜さんの二枚舌を批判している。
の> ああ――何をか言はんや。それがをかしいんですよ。
うん、やっぱりそこで止めないで下さいな。
爺> で、どっちなんですか?過去色々言ってきたけど、今は態度が大事なんだ、っ
爺> て事ですか?
の> さうですよ。だつてあなたは今、私の態度を問題にしてゐると明言したでせう。
の> それがをかしいんですよ。だからあなたの眞似をして、あなたの態度を問題にし
の> た。さうしたら、あなたはそれををかしいと言つてゐる。あなたの態度がをかし
の> いのを指摘して、あなたの眞似をしてあなたのパロディを演じたんですよ。その
の> パロディが矛盾だ何だとあなたは言つてゐるが、無意味ですね、パロディなのだ
の> から。あなたは、パロディである事、あなたを批判する爲の演戲である事を認識
の> できず、「論理的」に私の「矛盾」を衝いて、勝つた氣になつてゐる。無意味で
の> すね。「演戲における矛盾」は、意圖的なものです。あなたの矛盾を衝き、あな
の> たを批判する爲の。實際、あなたの矛盾は、暴き立てられてゐるわけです。それ
の> があなたには解らない。自分を客觀的に見られないからです。
わーはっはっは。さすがにそれはちょっと自分でも苦しくないですか?爺のパロ
ディねぇ。「の」さんが「態度」を問題にしたので、爺が「の」さんはいつから
「態度」を問題にする宗旨に変へたんですか、といふのがおおまかな要約だと思
ひますが。
しかも、自分で演技だったと言ったら免罪される?それが通るならば警察は要ら
ない。
の | 2010年7月22日 08:22 | 返信
爺> 爺がはっきりしないから「の」さんの批判がはっきりしないのではなくて、
爺> 「の」さんと野嵜さんのダブルスタンダードだから批判がはっきりしない、のが
爺> 正解なんでせうね、きっと。
の> 「「の」さんと野嵜さんのダブルスタンダードだから批判がはっきりしない」
の> つて、意味が解りませんね。日本語を喋つて下さい。
かつて野嵜さんは「資格や人や態度を論ふべきではない」と言ってゐて、「の」
さんはいきなり爺の「態度や資格」を問題にしはじめた、といふ意味です。わか
らないのは、答へ難いからですか?
爺> がははは、のさんが爺の真似をして「ははは」と嗤っても別にをかしいとは
爺> 思ひませんが、例へさう思ったとしてもどうしてそれを反省する必要が有る
爺> んですか。
の> 自分がやつてゐる事がをかしいと認めたら、反省するものでせう。もつとも、
の> 爺さんは、他人を「がはは」と笑つて快を貪るのは、をかしくない、と思つ
の> てゐるやうですが。
さうですね。正当な批判をするのは別に恥ずべき事ではない、と思ってゐますよ。
かつての野嵜さんのやうに。
爺> そもそも、どうして、佐藤さんを味噌っ滓扱ひして、「の」さんがしゃしゃ
爺> り出るんですか?
の> ああ、爺さん、やつと自白しましたね。」
あれ、質問したら何を自白した事になるんですか?ともあれ質問に答へて下さい
な。
爺> 佐藤さん御自身が不愉快である、と仰るのなら、またそれはそれで議論しませう。
爺> 爺にも感情は有って、言ひたい事もありますし。
の> いやーあなたに感情があるんですか。これは驚いた。
の> もし「ある」のなら、佐藤さんが何んな感情を抱いて、あなたに今のやうな態度
の> をとつてゐるか、想像出來ると思ひますが。あなたには佐藤さんの感情が想像出
の> 來ないんでせう。いや、「想像する」事が、理系人間として、あなたは自分に許
の> せないのですか。「根據のない事」「具體的でない事」を、あなたは言ふ事が出
の> 來ない、と。
なんだか御情けちょうだい、っぽくなって来ましたが、「の」さんだけは佐藤さ
んの感情を理解できて、でやむにやまれずこのやうな不条理な事をやってゐる、っ
て?世の中には「過保護」ってゐる言葉も現象もあるのですよ、「の」さん。あ
と、言ふに事欠いたら「理系」を持ち出すのは何かのコンプレックスなんですか?
爺> 何度も言はさないで下さいよ。爺は佐藤さんの主張自体を議論してゐる。で、
爺> 「あはは」「味噌っ滓」がどうして「余計」で、それを謝罪しないといけないん
爺> ですか?
の> あなたのは、議論の仕方がをかしいんだよ。と言ふか、あなたは、佐藤さん
の> の主張自體を論じてゐますが、結論が「佐藤さん、あなたは味噌っ滓でいいんで
の> すか、いいんですね、ガハハ」なんですよ。誰が何う見ても、をかしいでせう。
の> 論者が結論に來てゐる。論者を責立て、嘲り、侮辱を加へる、それを正當化する
の> 爲に、あなたは議論のテーマを使つてゐるに過ぎません。
客観的に言へば爺は「主張自体を論じている」と。ありがとうございます。で、
そこから急に「決め付け」モードになって「あなたは味噌っ滓で……」。もう
ちょっとせっかくの「客観的」を通しませうよ。
佐藤さんの(半分あてこすりだけど半分は)真剣な議論に、これまた真剣な批判
を加へられて、侮辱だ、といふのはちょっと違ふのではないですか?第一、爺か
らさう言ふ議論をして欲しい、と言った訣ではありませんよ。
それにこれまた呼ばれもしないのに、議論に介入してくる「の」さんは何と言へ
ば良いのでせう。
爺> そもそも、どうして「の」さんがそれを要求するんですか?あなたは佐藤さ
爺> んの保護者なんですか?いい加減に佐藤さんを味噌っ滓扱ひするのは止めま
爺> せうよ。
の> 保護者も糞もないでせう、議論そのものに私は興味があるんですし、正しい
の> 議論の仕方をする事は一般的に正しい事です。あなたが正しくない議論の仕
の> 方をして、佐藤さんを馬鹿にしてゐる事、それが問題であると言つてゐるん
の> です。
さうなんですか。(糞もないねぇ。)爺には「の」さんの方が佐藤さんを馬鹿に
してゐると見えますがね。で、「の」さんの議論のどこが正しくて、爺のはどこ
が正しくないんですか?
の> と言ふか、「佐藤さんの保護者」とか言つて、「人間」を問題にしてゐます
の> ね、あなた。この時點で、あなたが「人間」に拘つてゐる事は火を見るよりも明
の> かではないですか。議論のテーマより、あなたは論者の「人間」を問題にしたい。
の> あなたが執拗に、人にくつついてまはつてゐる事、その行爲そのものが、あなた
の> の議論に對する態度の異常さを決定的に證明してゐるんです。
ええ、横槍を入れてくる「の」さんの「資格」を問題にするのはあたり前だと思
ひますが。そもそも(繰り返しになりますが)「の」さんの粘着行動が既に異常
だと思ひますよ。(ダブルスタンダードを使って愚にもつかない粘着をする。)
の> そして、異常人格者だから、爺さん、あなたは、自分の異常である事を自覺
の> 出來ないんです。粘着行爲が正常である、とあなたは思つてゐるんでせう。しか
の> し、粘着アンチは異常だと云ふのが常識です。
さうですねぇ、少くともこのスレッドでは「粘着アンチ」は「の」さんだと思ひ
ますが、確かに「の」さんはかなり異常だと爺も思ひます。常識でしたか?
・「の」さんは、「人の発言する資格や態度は論ふべし」という方へ意見が変っのですか?で、それはダブルスタンダードなのか、過去の言ひ分を否定するのか、どっちでせう。
爺さんが「人の発言する資格や態度は論ふべし」と考へ、實踐してゐるから、それを批判してゐるんですよ。
・「お二人が佐藤さんを味噌っ滓扱ひした」といふ爺の認識についてはどう思はれますか?
爺さんが「味噌っ滓」と言つたのは事實でせう。
・どうして「の」さんは、「佐藤さんの保護者です」と言はんばかりの然振舞ひをするのですか?本当は、爺の「ご冗談でせう野嵜さん」を止めさせたい?それって、味噌っ滓扱いそのものだらう、といふ認識もない?
あなたのその言葉がそれ自體として失禮だと云ふ事に氣附かないの。あなたは相當無神經ですよ。
私が「保護者」だと言はん許りの振舞ひをしてゐると言ひたければ言へばいいですよ。でも、では、あなたは何うなんですか、あなたこそ「佐藤さんの先生」と言はん許りの振舞ひをして、佐藤さんの發言の「採點」を繰返してゐるではないですか。あなたはなぜ、佐藤さんの發言を「採點」して「味噌っ滓」だの何だのと評點を與へてゐるのですか。
>ですから、もうすこし客観的にお願ひしますよ、「の」さんの決め付けだけではなくて。
笑はせないで下さいよ。とぼけるのも好い加減にして下さいよ。白を切り通せばいいとでも思つてゐるのですか。
>あれ、「の」さんは宗教は信じてゐないのでは?
特定の宗教は信じてゐませんよ。現代に於て信じられる宗教なんてものは先づありませんよ。しかし、宗教が人間には必要であると云ふ事は信じてゐます。
>人殺しは人間の本性ではありません。(アホか)
私には「決め付けをするな」と言放ちつゝ、自分は氣樂に極附けで話を進めてゐますね。アホはあなただろ。何囘も指摘されながら未だに自覺がないんだから爺はアホ決定。
>の> しかし爺さん、あなたは、正しい事を言つて、誤りを言つた人間を腐して遊ぶのが目的で話をしてゐます。あなた、すごくしつこいでせう。人に粘着してゐるでせう。それがをかしいんですよ。
>
>へー、爺が正しい事を言って誤りを言った人間を腐してゐると。ありがとうございます。だったら快を感じて良いんですよね、「の」さんみたいに。
「目的」と事實との區別も附かないらしいですね。或は日本語が讀めないか。今までも爺さんは日本語の文章が何度も讀めませんでしたね。
>あと「いつまでもつきまとう」は聞き捨てならないですね。爺を名指しで批判したのは佐藤さんで、呼ばれもしないのに出しゃばってきて、爺に粘着してゐるのは「の」さんだと思ひますよ。
あなたは自分の「ブログ」で何度も名指しで非難を繰返して粘着してゐるでせう。だからこちらも應戰したに過ぎない。あなたが粘着してゐるんではないですか。そもそもあなたが最初に我々に接觸して來たのだ。こちらはあなたに應じ、あなたが執拗に絡んでくるから仕方なくあなたに應じ續けてゐるに過ぎない。あなたが先に絡んで來たんだよ。
>あはは、爺はをかしいから笑っている。をかしくないと思ふ「の」さんはユーモアのセンスがずれてゐます。あ、いや、問題は「の」さんの論点ずらし、でした。
爺さんは、自分にユーモアのセンスがあると勘違ひしてゐるらしい。人を小馬鹿にする事は、ユーモアではないよ。スポーツ新聞の讀み過ぎだらう。
>わーはっはっは。さすがにそれはちょっと自分でも苦しくないですか?爺のパロディねぇ。「の」さんが「態度」を問題にしたので、爺が「の」さんはいつから「態度」を問題にする宗旨に変へたんですか、といふのがおおまかな要約だと思ひますが。
そりやあなたにとつて都合の良い解釋ですよ。私はあなたがをかしな事をしてゐるから、同じ事をあなたにして、反省を促したに過ぎない。
>しかも、自分で演技だったと言ったら免罪される?それが通るならば警察は要らない。
當り前でせう。議論のレトリックなんだから。刑法に觸れるやうな事なんて何一つしてゐないし。なんで警察が出て來るんだ。話をずらしてゐるのは爺さん、あなたですよ。警察が出て來る文脈ではないのに警察を持出してゐる。まあ、爺さんには、論理は解らないんでせうね。
>かつて野嵜さんは「資格や人や態度を論ふべきではない」と言ってゐて、「の」さんはいきなり爺の「態度や資格」を問題にしはじめた、といふ意味です。わからないのは、答へ難いからですか?
答へ難いも何も、あなたの理窟がをかしいんです。爺さんが他人の「態度や資格を問題にし續けてゐる」から、同じ事を爺さんにやつて、爺さんに反省を促してゐる、何がをかしいんですか。
と言ふか、爺さん、あなたは、相手の論者の「態度や資格」を論ふのは、良いと思つてゐるのですか、惡いと思つてゐるのですか。
答へられないでせうねえ。答へ難いからです。だから執拗の野嵜さん・「の」さんと言つて、逃げ續けてゐる。
>さうですね。正当な批判をするのは別に恥ずべき事ではない、と思ってゐますよ。かつての野嵜さんのやうに。
正當な批判をしてゐれば、ねえ。はあ。
>あれ、質問したら何を自白した事になるんですか?ともあれ質問に答へて下さいな。
自覺がないんですね。おばかは話にならない。
>なんだか御情けちょうだい、っぽくなって来ましたが、「の」さんだけは佐藤さんの感情を理解できて、でやむにやまれずこのやうな不条理な事をやってゐる、って?
「だけ」?
みんな解つてゐるでせうよ。あなただけがとぼけてゐる。
>世の中には「過保護」ってゐる言葉も現象もあるのですよ、「の」さん。
これ、無神經な人間でなければ言へない、失禮な發言ですよ。
>あと、言ふに事欠いたら「理系」を持ち出すのは何かのコンプレックスなんですか?
あなたこそ、理系なのを鼻にかけてゐませんか。自覺がないんでせうねえ。
>客観的に言へば爺は「主張自体を論じている」と。ありがとうございます。
はあ? あなたは主張してゐる人間の人物評價を結論にしてゐるでせう。
>で、そこから急に「決め付け」モードになって「あなたは味噌っ滓で……」。もうちょっとせっかくの「客観的」を通しませうよ。
いや、あなたが「味噌っ滓」と言つたんぢやないですか。あなたが言つたんですよあなたが。
>佐藤さんの(半分あてこすりだけど半分は)真剣な議論に、これまた真剣な批判を加へられて、侮辱だ、といふのはちょっと違ふのではないですか?
真剣w
あなたが言ひますか。「あはは」と笑ふのが真剣。隨分鋭い真剣ですね。
>第一、爺からさう言ふ議論をして欲しい、と言った訣ではありませんよ。
こちらこそ、爺さんに來てくれなんて頼んでゐないのに、あなたはうちの「ブログ」に書込んで來ましたね。
>それにこれまた呼ばれもしないのに、議論に介入してくる「の」さんは何と言へば良いのでせう。
佐藤さんはうちにリンクを張つてゐますが?
ああ、このスレ(わらひ)には關係ないと。「ブログ」全體の流れ、或は、以前からの議論の流れは關係ないと。
爺さんは、文脈とかコンテクストとか、さう云ふ事も知らないらしいですね。
>さうなんですか。(糞もないねぇ。)爺には「の」さんの方が佐藤さんを馬鹿にしてゐると見えますがね。
はあ。「上から目線」で語つておいて、「私は馬鹿にしてゐない」とは、どの口が言ふかと思ひますね。
>で、「の」さんの議論のどこが正しくて、爺のはどこが正しくないんですか?
で、なんで同じ事をまた説明しなければならないんですか。
>ええ、横槍を入れてくる「の」さんの「資格」を問題にするのはあたり前だと思ひますが。
「横槍」を入れられ、足許をすくはれて、ひつくり返されて、それが悔しいから、自分の事を棚に上げて罵倒三昧と、さう云ふ事ですか。
私は、横槍も糞も無い、爺さんが「人」を問題にし續けてゐるから、爺さん當人の「人」を問題にするのは當り前でせうと言つてゐるんですよ。あなたが「人」の人物評を繰返してゐる事が問題なんですよ。
何度でもききますが、「人」を問題にする事それ自體に、爺さんは問題があるとは思はないんですね。
あなたは「横槍を入れられた」事だけが嫌で、人を排除しようとしてゐるわけですね。先に發言すれば勝ちと。その癖、自分が先に絡み始めた事實を無視して、こちらが爺さんに絡み續けてゐると非難するんだから。自分に都合の良いやうに解釋するのが、爺さんは本當にすきですね。
>そもそも(繰り返しになりますが)「の」さんの粘着行動が既に異常だと思ひますよ。(ダブルスタンダードを使って愚にもつかない粘着をする。)
ダブルスタンダードとダブハンとは同じ物なんですか。
しかし、私は一度も「私は野嵜さんではありません」なんて言つてゐませんし、大體、私は、知つてゐる人のところには當り前のやうに「の」とだけ書いて書込んでゐますよ。佐藤さんだつて判つてゐるから・知つてゐるから問題にもしなかつたわけで。爺さんは、ただ、表面的に「野嵜」と「の」は「違ふ」と言つて、意味もなく「具体的」に話をして、人をとつちめようとしてゐるだけです。
けれども、そんな風に人をとつちめようと努力しても、爺さん、あなた自身に問題がある事について、あなたは一切釋明できてゐないんですよ。だからあなたは、自分の事を棚に上げて他人を嘲る、と言はれるんです。
>さうですねぇ、少くともこのスレッドでは「粘着アンチ」は「の」さんだと思ひますが、確かに「の」さんはかなり異常だと爺も思ひます。常識でしたか?
「ブログのスレッド」つて何ですか。
一つのコメント欄の中で粘着する、つて、粘着と云ふ言葉を濫用しても、仕方がないでせう。或は、粘着なる用語で、聯想ゲーム的に、話を進めても、意味はないですよ。用語それ自體は記號に過ぎません。ポパーを知つてゐる爺さんならば、常識として知つてゐる事でせう。
一般に言はれてゐる粘着の概念に、爺さん、あなたは適合するんですよ。そして、一般的に云はれてゐる粘着の概念、それは問題だと汎く認められてゐます。同じ「粘着」と爺さんは言つてゐますが、「このスレッドでは粘着アンチ」なる爺さんの提示した觀念、これは、一般的に云はれてゐる粘着の概念と異るもので、特殊な觀念ですが、「問題である」とは汎く認められたものでありません。爺さんは、相手にも「粘着アンチ」とレッテルを貼ればそれで話が濟むと思つてゐるのかも知れませんが(ポパーを知つてゐて斯う云ふ行動を取るのは明かに惡質です。そして爺さんはポパーを知らない筈がありません)、「このスレッドの中で粘着アンチである事」が、如何なる状態であり、それが問題行動とされる事にどの程度合致するかを檢討し、立證しなければなりません。しかも、その證明には、反證が可能である筈です。そして、私の行動を問題行動とする爺さんの假説は、私の行動が爺さんの問題行動を批判したものである、と云ふ事實によつて、反證されるのです。
しかしまあ、ダブハンダブハンつて、やつぱり論者の「人」が、爺さんには問題なんですね。
最う議論する必要ないでせう。爺さんが、論者の「人」を問題にし、「人」の人物評をするのが目的である、と云ふ事は、明かです。
「論者の人物評」が目的ならば、「議論のテーマに沿つて話をしてゐる」のでも、駄目なんですよ。だから爺さんは駄目。
議論のテーマに結論を出すのが、議論の目的なのですから。
論者の人物評をしたい爺さんは、議論をする態度が、なつてゐない。
ポパーを知つてゐる筈の爺さんが、議論の目的を取違へ續けてゐる。そして問題行動を何時までも何時までも續けてゐる。
それを批判するのが私の目的です。なぜ批判するか。論點そのものの結論を出すのを、爺さんが妨碍してゐる事になるからです。
と言ふか、野嵜のtwitterが發端のところで、野嵜が出て來て、何が「横槍」なんですかね。
「の」と名乘つた、だから惡い、と爺さんは言ひたいのかも知れませんが、そんなに私は、自分の名前に拘りはありません。Gahahaなんたらと名乘つてゐた人が、爺さんとハンドルを變へて平氣なのだから、感性は似てゐるのでないかと思ひますがねえ。
また。
>と、いふか、爺さんが信じてゐるのは「自分教」なのだらう。
私はこの佐藤さんの發言に沿つて、コメントを書いてゐますよ。さう云ふ意味では、佐藤さんの意圖した通りに私は議論を進めてゐるのであり、それに怒つてゐる爺さんは、悔しくて當り散らしてゐると見られても仕方ありませんね。
それに、爺さんは。
>ふーむ、例によって、大雑把な物言ひですなあ。爺は個人主義者(自己本位)だから、「意味」や「価値」は自己の中に有る、もしくは自分で探さう、と思ってゐますが、同時に他人の価値観や信仰も尊重しますよ。(「味方でなければ敵」と考へがちの佐藤さんや野嵜さんには理解し難いかも知れませんが。)
とコメントしてゐます。
爺さんは、ここで名指しで私を呼んでゐます。
ですから、横槍も糞もないでせう。當人が、爺さんに呼ばれた爲に、引續き登場してゐるだけなんですから。
上のコメントが二重投稿になつてる。申しわけないです。
http://twitter.com/tenjyousajiki/status/19242583090
http://twitter.com/rh_kimata/status/19242713778
>上のコメントが二重投稿になつてる。申しわけないです。
削除しました。
の> 具體的に話をしてもいいですよ。
の> http://pu-lab.sakura.ne.jp/blog_dive/2010/07/faith2.html#comments
の> こちらの爺さんのコメント、議論の仕方としてをかしいと、私と塗炭さんと、
の> 二人から指摘が入つてゐますね。
おー、それは素晴しい。でも、
の> 最初の爺さんのコメントも、要約すれば、「あなたの感性は私と近いですね。
の> でも間違ひ。(結論)」と云ふだけのものです。何一つ論證が無い。力強く否定し
の> てゐるだけなんですね。一種のレトリックです。
これではねぇ。それでは要約になってないですよ。(感性が間違ってゐる、なん
て言ってないし。)といふより、「何一つ論証が無い」例をわざわざ遠くのスレッ
ドから引っ張ってくるのは何故なんですか?このスレッドの爺のコメントはどれ
も論理的だから、ですかね。さう言へば、このスレッドでは誰も爺にまともに反
論しないですね。「の」さんの、いきりたった「決め付け」や、塗炭さんの訣の
わからん「あてこすり」だけ。
塗> 爺さんの投稿には俺はかう考へるという主張が無く、相手の主張を否定する
塗> か疑問視して見せるかのいづれかです。
さうですか。否定も疑問視も、立派な意見の表明だと思ひますが。「既存の大宗
教は『なぜ自分はここにあるのか』の答へは出してない、いや出せない」に「い
や、キリスト教とイスラム教については、それは間違ってゐる」は主張になって
ないですか?
それはともあれ、塗炭さんはこのスレッドの爺の批判を 1/3 しか読まないで、遠
く離れたスレッドで「爺の投稿には……いづれかです」って断言してゐんですよ
ね。それが塗炭さんには正しい議論のやり方なんですか?論理的でも倫理的でも
無いと思ひますが。といふより、そもそも塗炭さんには「まとも」に考へる能力
が無いのではないか、と爺には見えます。
の> 爺さん、あなたは、自分が「議論をしてゐる」なんて言つてゐますけれども、
の> それは嘘なんですよ。
の> はたで見てゐれば、あなたが「議論しようとしてゐない」で「氣に入らない
の> 人間の發言を頭から否定して、相手に嫌がらせをしてゐるだけ」である事は、は
の> つきり判るんです。
ええ、だから、そこを「論証」していただかないと「俺はかう思ふんだい!」と
力み返ってゐるのと大差ないと思ひますよ。ましてや「嘘だ」とまで言ふからに
は、もうちょっと具体的に言はないと、単なる暴言です。「の」さんの発言は、
いずれも議論になってないですね。をかしいといふ以前に、「憶測」と「決め付
け」しかない。
の> 口調、文體も、あなたの動機を推測する材料ですし、あなたの「論じ方」も、あ
の> なたの動機を推測する材料です。爺さん、あなたは、とぼけて白を切り通し、自
の> 分の問題から相手の問題に話を摩り替へ續けて、相手を惡者にすれば自分は免罪
の> される、と信じ込んでゐますが、人を馬鹿にするのも好い加減にしてもらひたい
の> ですね。
さうですか。でも、もうちょっと「論証」してみて下さい。いつものように「俺
はこう感じているんだい!」を際限なく繰替えしてゐるだけなので。
の> そもそも、あなたに宗教を論じる資格そのものがないのは、「快を貪るのは人間
の> の本性」と言切り、宗教の存在そのものに價値を置かず、ただ、宗教を信ずる
の> 「人間」にのみ興味があると言つてゐる時點で、明かですよ。あなたは、宗教そ
の> のものに興味がない、人間を批評する事だけが面白いんです。この時點で、佐藤
の> さんの設定した議論のテーマから完全に逸脱してゐます。
これはまた、なんといふ「とんでも」でせうか。爺は無神論者ですから信仰は持
ちませんが、だからと言って宗教に無関心といふ訣ではない。のさんも佐藤さん
もそれは同じですね。で、「快を追及するのは人間の本性」といふ認識を持って
ゐたら「論じる資格が無い」と?その憶測や決め付けを一旦措いて、このあたり
きちんと「論証」してみて下さい。
といふか、塗炭さん同様、「の」さんもまともな議論や論証ができない人のやう
ですね。せめて、御自分の憶測から出発するその「クセ」は改めませうよ。
へー
いつておきますが、爺さんのコメントは全く讀んでません。
たのむから、讀む氣になるやうな文章を書いてくれよ。
野嵜さんや塗炭さんのコメントはちやんと讀んでます。
野嵜さんはずばりずばりといつてくれてぼくが何も言ふ必要ないし、塗炭さんには氣附かされることが多い。
>爺は個人主義者(自己本位)だから、「意味」や「価値」は自己の中に有る、もしくは自分で探さう、と思ってゐますが、同時に他人の価値観や信仰も尊重しますよ。
これが爺氏の抱へる全ての問題の原點ですね。たつた一つのこの爺氏の信念が、全ての爺氏の「理論」の根柢にある。
「爺は個人主義者」――この爺氏の自己定義が、爺氏の全ての問題行動を正當化し、爺氏の他者を見下す姿勢を正當化し、爺氏が他者の人物評價を正當化する理由となり、爺氏が他者を採點するのを正當化する原理となつてゐる。
そして、爺氏が大量の勘違ひと極附けと思ひ込みで物を「考へる」理由にもなつてゐます。「爺は個人主義者」であり、「意味」や「価値」は全て爺さん自身が定義し、それは爺さんにとつて「絶對に正しい」ものであり、他者から批判を受けてはならない、他者が批判してはならないものになる。
>輸血拒否」しか知らなくて
以下略。全て相手が「書いた」事「だけ」が、相手が「知つてゐる全ての知識」であると、爺氏は極附けてゐる。こんなに相手を矮小化して論じてゐるのは、自分が偉大であると勘違ひしてゐる「個人主義者」の典型的な症状。
>勿論、爺は宗教一般を一笑に付すなんて事はしません。
これは「他人の価値観や信仰も尊重しますよ。」と宣言してゐるのと同じだが、實はこの「個人主義者が他人の價値觀や信仰を尊重する」と云ふのは、「全て個人の勝手だから」と云ふ個人主義の原理を言換へてゐるに過ぎない。
>「意味」や「価値」は自己の中に有る、もしくは自分で探さう、
と、誇らしげに述べてゐる爺氏のやうな個人主義者にしてみれば、自己の外部に、或は、他者から、「意味」や「価値」を、見出さう、教へて貰はう、とする宗教の發想は、輕蔑する以外の事は、出來ません。
非個人主義者・反個人主義者と云ふ立場に對して、個人主義者が、敬意を表する事は、あり得ません。もし敬意を表するなら、個人主義の立場を抛棄してゐる筈だからです。
>で、今大多数の国で流血の事態を免れてゐるのは、それこそ血で贖った「信教の自由」「内心の自由」「国家と宗教の分離」といふ「基本的人権」の一部が確立できてゐるから。
突然、イスラエルだの何だのと、全く異る觀點を持出すのは、詭辯の典型ですが、それは兔も角。
「基本的人権」が確立されてゐる――とは、爺さん、個人主義者らしい、樂天主義ですねえ、と、言ひたいところですが、勿論、爺さん、そこまで能天氣に事實と懸離れた事は言はない。用意周到に、「一部が確立」と言つてゐる。もちろん、そんな馬鹿な事を言つても意味がないのは論ずるまでもありませんが、餘りにも馬鹿馬鹿し過ぎてスルーしてしまつたのがこちらの「誤」でした。なぜなら、こんな馬鹿な事を言ふ爺さんは、馬鹿だとはつきり指摘した方が良かつたからです。
いやはや、大日本帝國憲法でも、基本的人權の「一部は確立」されてゐましたね。あはははははは。
詭辯なんですよ、爺さんの主張はこの手の詭辯が、やたら多いんです。突込みどころは滿載なのですが、その突つ込みをかはすだけの爲に、この手の「發言それ自體の意味がなくなるやうなレトリック」が、爺さんの發言には矢鱈と多い。ところが、斯うした詭辯を、爺さんは、大變立派な「論理的な批判の囘避」だと思ひ込んでゐる。「一部は確立」だなんて、「確立されてゐない」と云ふ意味にほかならないですよ。もつとも、斯う言ふと、皮肉で述べた「大日本帝國憲法が」云々を採上げて「野嵜さんは大日本帝國憲法が」と、「別の方面に矛先を向ける事で、自分に向けられた矛先をかはす」何時もの爺さんの詭辯がまた炸裂する事になるわけです。
佐藤さん。
>自分が死んだ後丁重に葬つてほしい、といふのは宗教に他ならないし、それは誰もが持つてゐる感情である。
爺氏。
>御遺体を生ゴミで出すのに違和感を感じる事が宗教に他ならないんですか。
この「言換へ」もどきも、爺さん得意の詭辯でしてね。佐藤さんは「鄭重に葬つてほしい、と云ふ感情は宗教的感情の一部である」と述べてゐるのに、爺さんは「鄭重に葬つて欲しい、と云ふ感情だけが宗教的感情である、と佐藤さんは言つてゐるが、をかしい」と、自分でをかしな「論理」に佐藤さんの主張を歪曲して「をかしい」「をかしい」「あはは」とやつてゐる。これが爺さんの「議論」には、最う、爺さんが「やるのが當り前」と思つてゐるかのやうに――いや、確實に、さう思つて、爺さんは、繰返してゐますね。
> 最初の爺さんのコメントも、要約すれば、「あなたの感性は私と近いですね。でも間違ひ。(結論)」と云ふだけのものです。
>これではねぇ。それでは要約になってないですよ。(感性が間違ってゐる、なんて言ってないし。)
だれも「間違つてゐる」の主語は「感性が」だと、讀取りませんよ。もとの文章を見れば解るでせう。「佐藤さんが間違つてゐる」と讀取る。
この、爺さんが愛好する「バッサリ」方式、これが杜撰で、出たら目で、いんちきである事、これに皆、うんざりしてゐるんです。
ところが爺さんは、自分が、實に巧みに「論證」を進めてゐると勘違ひしてゐる。詭辯の連續に過ぎないのに。
詭辯に過ぎない爺さんの話。ところが爺さんは、自分が「個人主義者」だからと言ひ、「俺は自分の立場を明かにしてゐるんだ」と威張つて、「これも意見だ、何が惡い」と開き直つてゐる。
言つてゐる事が目茶苦茶で、相手の言つてゐる事を目茶苦茶に改竄し捲つても、「俺がする事に文句を言ふな」と言はん許りの態度を取る。
皆、爺さんに、うんざりなんですよ。