「死體を特別扱ひすることは宗教である」とぼくが書いたら、爺さんは死體をただ捨てれば犯罪になるからですよ
といつてきた。
だとすれば、原始人が死者を丁重に葬つてゐたのも犯罪になるから
なのか。事故などで遺體が行方不明の場合、空の棺で葬儀が營まれることがあるが、それも法律によつて決められてゐるのか。
話は逆で、死體は特別扱ひすべきであるといふ通念があるから、「死體をゴミとして捨ててはならない」と法律が定められたのである。
人が1人死ぬ、といつたところで、社會からみれば1人減つただけである。現に、行政では死亡届を出せば、戸籍から抹消されてそれで終はりである。
それに死體は「物體」としてみればただの肉の塊なのだから、「大きな生ゴミ」でしかない。食べ殘した魚の骨は一々丁重に葬つたりはしない。ゴミに出しておしまひである。人間の死體だつてさうしてもよいはずである。
だが人間は、家族や知り合ひが死ねばその死を悲しむし、できうるかぎり丁重に弔ひ、墓を建てる。さらには家に祭壇を設け、折に觸れて死者を思ひ出す。これはなぜなのか。
人が死ぬ。
きのふまで食ひ、喋つてゐた人間が全く動かなくなる。
でもその人間はそこに存在してゐる。では食ひ、喋つてゐた「モノ」はどうなつたのか。體が死ねば、「モノ」も同時に消えてしまふのか。
いや、「モノ」が體から拔け出たことで、體は動かなくなつたのかもしれない。
さういへばこないだ死體を毆つたやつがゐたが、そいつは大ケガをしてしまつた。「モノ」が怒つて仕返しをしたのかもしれない。死ぬときつと「モノ」は體から拔け出るが、見えないだけで生きてゐるときと同樣「モノ」は動き續けてゐるのだらう。
であれば、死體は丁重に葬り、死者を忘れないやう墓や祭壇も設けよう。さうすれば「モノ」も怒らない。いや逆に、生きてゐる者に恩も返してくれるかもしれない。
さうすれば何より自分が死んだときも、丁重に葬つてもらへる。忘れないでもらへる。
上記はぼくの想像でしかない。地域や民族によつて死體と「モノ」についての捉へ方も千差万別である。けれど、つまるところ死體、死者に靈性、神秘性を感じることが宗教の始まりではないか。そのほかにも自然への畏怖や運不運など、「人智」を超えたものを考へることが原始的な宗教となり、部族の風習となる。
それが部族同士の交はりにより影響し合ひ、國家規模、さらには國を超えたものにもなる。これが現在の宗教である。
近代化は世俗化、宗教からの獨立だといふが、西洋の個人主義はキリスト教の神の元での平等によるところが大きい、といふか元々個人は全て平等である、王も市民も奴隷も、いま偶々その身分であるだけであつて、機會があれば奴隷も王となれる、といふ社會があつて、それを下地にキリスト教、といふより聖書宗教は成立したのではないか。
餘談だけれど、支那においても天命により民も王、皇帝となる。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」。大陸の東西においてこの相似は興味深い。
ともあれ、「近代國家」を具現化したアメリカでも、遺體を生ゴミに出せるわけではない。死に對する本能的な恐怖や不安がある限り、人間は宗教を否定できない。
最近の佛教は「葬式佛教」なんて揶揄されることもあるけど、普段の生活では縁遠くても、死に際して宗教の出番があるのはむしろ當然なんぢやないか、とこの記事を書いてて思つた。
丁度先日、つかこうへい氏が亡くなつたが、遺書に私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
とある一方で日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
つまりは自分の遺體を意味のある場所に安置したい、自分の死を意味のあるものにしたいつてことだよね。
> 丁度先日、つかこうへい氏が亡くなつたが、遺書に"私には信仰する宗教もありま
> せんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。"とある一方で"日本と韓国の
> 間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。"つまりは自分の遺體を
> 意味のある場所に安置したい、自分の死を意味のあるものにしたいつてことだよ
> ね。
御意。爺もこの遺書を読んだ時は感動しましたよ(ただ、散骨は御遺体の「安置」
とは言へないだらう)。で、宗教を持たない人も、自分の死を意味のあるものに
したい(後の人にメッセージを送りたい)、と思ふ事の明確な例ですよね。佐藤
さんもこれを是とするならば、「感じ方」は爺と然程変らないやうな気がします。
が、しかし、これはどう見ても、「御遺体を生ゴミで出すのに抵抗が有るなら、
宗教は否定できない」を補強する例にはなってないと思ひます。
>死體は特別扱ひすべきであるといふ通念があるから、「死體をゴミとして捨ててはならない」と法律が定められたのである。
今の法令では公衆衛生上の理由も大きいはずです。少なくとも医療廃棄物と同等以上の規制は必要だと思います。遺体を栄養剤の注射針より簡易な生ゴミとしての処理で衛生上支障は無いとは思えません。
実際、現在多くの市町村で土葬が許可されないそうですが、それは土地面積と公衆衛生が理由のようです。
まあ、これ自体は宗教儀式と関係はありませんが、法律上の理由は宗教的な内容以外もかなり大きい可能性も高いということで。
D.H.ロレンスを讀んでゐると、宗教と藝術との間にはそんなに大きな違ひは無いと思ふ。死と蘇りは、ギリシャ演劇のテーマだとか。
ただ、「自分の死」を、「美化」なり何なりして、意義を持たせたい、と云ふ事については、確かに問題があるでせう。
>で、宗教を持たない人も、自分の死を意味のあるものに
したい(後の人にメッセージを送りたい)、と思ふ事の明確な例ですよね。
オセロー等のシェイクスピアの悲劇について述べて、福田恆存がその辺の事を論じてゐましたね。
儒教だと明かに死者を弔ふのは宗教意識に基いてゐます。日本の「葬式佛教」も、實は儒教的・シャーマニズム的な要素が強いです。
一方、日常生活において、日本は東南アジアのやうには佛教が支配的であると言へず、寧ろ無宗教的であるとは司馬遼太郎が指摘してゐます。司馬氏は「東南アジアはほんとうに仏教ででき上がっている。仏教というものは、生活の仕方から、身動きから手足の上げ方まできめている。それがつまり仏教というものであって、仏教は日本に来たけれども、建物は立派にできたが、それはみな美になってしまって、ほんとうに宗教とか哲学になっていないんじゃないか。」とまで言つてゐます。(司馬遼太郎 ドナルド・キーン『日本人と日本文化』中公新書285)
墓地、埋葬等に関する法律では「第一条 この法律は、墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われることを目的とする。 」すなはち、「宗教的感情」が「公衆衛生その他公共の福祉」よりも前、優先されてゐることになります。
もつとも行政から見れば、遺體は特殊な廢棄物でしかなく、適切に處理されればそれでいい。しかし處分場—墓地や霊園の設置はしばしば地域の住民と衝突する。住民にしてみれば自分達の「公衆衛生」に影響がある、といふ考へもあるでせうが、「宗教的感情」、「たたり」や「障り」が恐ろしい、といふ面もあるでせう。
それに、墓地に納棺しに行く遺族が、遺體を「ゴミ」だと思つて棄てに行くわけではありません。安らかな死後を願ひ、安置しに行くのです。
行政や法令から見れば遺體は廢棄物でしかなく、處分場は「公衆衛生」の面から見ればよい。しかし、「宗教的感情」を無視はできないわけです。
>が、しかし、これはどう見ても、「御遺体を生ゴミで出すのに抵抗が有るなら、宗教は否定できない」を補強する例にはなってないと思ひます。
>自分が死んだ後丁重に葬つてほしい、といふのは宗教に他ならないし、それは誰もが持つてゐる感情である。
を補強する例になつてゐるとおもひますね。
爺さんは、目立つ用語を殊さら目立つやうに強調して、それとの齟齬らしきものを極端に誇張し、「矛盾だ」「誤りだ」と連呼して、相手の言つてゐる事を只管否定しようとする癖がありますね。無いと思つてゐますか?
と言ふか、爺さんのコメントは、議論の仕方としてをかしいんですよ。反論になつてゐない。ただバッサリ切捨ててゐるだけ。
最初の爺さんのコメントも、要約すれば、「あなたの感性は私と近いですね。でも間違ひ。(結論)」と云ふだけのものです。何一つ論證が無い。力強く否定してゐるだけなんですね。一種のレトリックです。
この「バッサリやつて凹ませる」と云ふのは、かの有名な小林秀雄が愛用した得意技です。小林秀雄は偉い批評家ですが、これでやられた「被害者」は結構多い。
佐藤さんは小林秀雄を御讀みになるとよろしいです。勿論爺さんも……。
>佐藤さんへ
>ともあれ、「近代國家」を具現化したアメリカでも、遺體を生ゴミに出せるわけではない。死に對する本能的な恐怖や不安がある限り、人間は宗教を否定できない。
引用箇所だけでなく記事全体として。長文御容赦。
佐藤さんの宗教の理解は「死者」(御遺体)の取扱や供養を指してゐるように思へます。これはおそらく佐藤さんが佛教徒ではない事に拠るのでせう。もちろんキリスト教徒でもイスラム教徒でもない。なので「人間は宗教を否定できない」と言ふのが客観的(他人事)になつてゐます。
つかこうへいさんがさういふ生き方を選ぶのは、つかさん自身の宗教または哲学です。ちなみに死を考へるのは生きてゐるからこそで、「遺書」は生きてゐたつかさんの生き方を示してゐます。我々は御遺体を前にした時に、目の前の御遺体を見てゐるのではなく、それを通して生きてゐた人間を見てゐます。親兄弟などの御遺体に対面した事がある人なら周知の通り。尤も御遺体が存在する必要はありません。大東亜戦争末期の特攻で亡くなつた人は御遺体がまづ無い。遺影と遺書と僅かばかりの遺品があるだけです。私は遺影を見ながら六十年余、故人を忘れずに生きてをられるお婆さんを知つてゐる。
他人の生き方ではなく、自分の生き方は何うあるべきかを考へるのが宗教です。或る意味、完全に主観です。俺は無宗教だと言ふ人には哲学と言ひ換へても良い。いづれにしても全ての人間は必ず死ぬ。それまでの間、何う生きるかを我々は死者(過去に生きてゐた人)から学びます。お葬式は、その始まりに過ぎません。佛教思想に基づいてゐますが、この辺りはキリスト教でも大差ないやうに思ひます。
難しく考へるよりも、身近な親や嫁さん、子供を亡くした時の事を考へてみて下さい。人間に追悼の精神(死者を悼む心)がある限り、宗教は否定出来ません。一方「死に對する本能的な恐怖や不安」はまさしく生物的な本能であつて、これを和らげる為なら極論ですが麻薬でも良い。しかし宗教を麻薬のやうに扱ふのは間違ひです。
尚、佛教とキリスト教の違ひに就いては専門家に訊いて下さい。あと蛇足ですが、現代の日本人で折り重なるやうに、しかも損傷した御遺体を見た人はどれぐらい居るだらう。最近では阪神淡路大震災で講堂一杯に並べられた御遺体でせうか。この風景を直に見ると、俗つぽい言ひ方ですが人生観が変はる。人間の命は儚い。「自分の死を意味のあるものにしたい」なんて自分では決められない。
>爺さんへ
>が、しかし、これはどう見ても、「御遺体を生ゴミで出すのに抵抗が有るなら、宗教は否定できない」を補強する例にはなってないと思ひます。
補強する例になつてないと思ふのなら、自分で例を挙げて論証すれば如何。爺さんの投稿には俺はかう考へるという主張が無く、相手の主張を否定するか疑問視して見せるかのいづれかです。若し教へを乞う初学者の積りで疑問を呈してゐるのなら「これはどう見ても」といふ答へを知つてゐるやうな書き方をしない事。答へを知つてゐるのなら始めから書いて下さい。
うわ、のさんと被つてる。済みません。だらだら書いてゐるうちに時間が経つてしまつて……。
自分としては、「誰もが宗教心を持つてゐる」、といふことの例として「「死者」(御遺体)の取扱や供養」を擧げたのですが、無論宗教は「供養」のみではない、といふことは承知してゐます。
とはいへ、宗教は死者ではなく、殘された、そしてこれから死ぬ生者にこそ必要なものだ、といふ指摘はそのとほりだと思ひます。ちよつとその視點が欠けてゐたかもしれません。
宗教とは究極の主觀であり、何を以て「救ひ」とするかは當人次第、個々に據つて違ひます。それを客観的に説明しやうとすれば「無理」が生じるのは當然でした。
自分が「佛教徒かどうか」と尋ねられればさうだとはいひきれない。無論クリスチヤンでもムスリムでもありませんし、家には佛壇もありますが、佛教の教義に則つて生活してゐるわけでもない。せいぜい、ときたま佛壇が目にとまれば手を合はせ、佛壇には祖父母や親族の寫眞が飾つてあるので、思ひ起こす。その程度です。ほんとに「葬式佛教」なわけですが、だからといつて自分が「無宗教」だとも思へない。
自分は「無宗教」、もしくは「宗教なんかくだらない」、と思つてゐても、それは自分にある宗教心に氣附いてゐないだけではないか。
餘談ですが、「宗教は民衆の阿片である」といはれますが、麻藥を使つて悟りを得ようとしてゐた新興宗教もありました。修行は徒歩でしかないが、薬を使へば新幹線のスピードで悟りを得られる、とかいつて。
前に讀んだ小説に書いてあつたんですが、「宗教は民衆の阿片とかいつてたやつがゐたが、宗教が阿片を使つてゐるのを見たらなんといふやら」
>自分としては、「誰もが宗教心を持つてゐる」、といふことの例として「「死者」(御遺体)の取扱や供養」を擧げたのですが、無論宗教は「供養」のみではない、といふことは承知してゐます。
動物は「現實の生」「目の前の現實」しか認識出來ないとか云ふ話で(よく覺えてゐない)、さう云つた「現實の生」「目の前の現實」を超越した、「超現實」の世界への信仰を持ち得るのは人間だけなんだとか。「死後の世界」のやうなものを今「超現實」と言つてゐるのですが。
「自分」と云ふものは「現實」で、さう云ふ「現實」のみを認める立場が「個人主義」となります。
が、人間の場合、いつたん「超現實」の認識――「自己を超えるもの」「自分ではどうにもならない領域」の認識が先にあります。死後の世界にしても、神にしても、個人を超越したもの、超現實的なものです。さう云つたものを超絶的に認識したところで、動物から人間に飛躍的に變化したのであり、人間はその存在自體が「超現實」的な認識に基いてゐると言へます。
この「超現實」的な認識こそが、宗教心であるわけですが、死者への畏敬の念、死後の世界への畏怖の念は、全て「自分では何うにもならないもの」「自分を超越したもの」への認識の端緒であり、さう云ふ意味で宗教心に通ずるものと言へます。
さうした宗教心への抵抗が、個人主義の出現する端緒となつてゐると言へます。「自己を超越したもの」の存在を認めないで、価値やら何やらを「自己の内部」に求めるのが個人主義であるわけです。まあ、一種の「動物への囘歸」です。
近代において、ダーウィンの進化論が人間と動物の連續性を示したのと、個人主義が發達したのとは、全くの無關係ではありません。と言ふより、個人主義の系譜に連なる思想は全て、ダーウィンの進化論に據つてゐると言つて良いです。
そして、個人主義者の中では屡々「進化するものである」が「進化すべきである」に轉化してゐる。この種の「進化主義」「進歩主義」が、個人主義的近代主義者の人々の支配的な思想となり、同時に、彼等の想定する敵を叩き潰す爲の理論的支柱となる。宗教を「反動」と見る立場の出現です。
大體、西歐で近代の思想は成立し、世界に流出してゐるので、西歐の話に限定して構ひません。
近代の思想、進化論を歪曲して援用した進歩主義の思想、個人主義――これらの主張は、全て、理想を持ちます。と言ふより、既に既存の宗教、キリスト教が提示してゐた理想を、無視できません。ところが、彼等は、キリスト教のやうな宗教を敵視します。宗教は、個人を超越した存在を想定した思想です。しかし、個人主義者は、個人主義を信奉するのですから、個人が最高の價値になるわけです、個人を超えた價値を賞揚する宗教を受容れられるわけがありません。しかし、宗教が示した理想は、否定出來ない。そこで、宗教の示す、個人を超えた價値・存在を拔きにして、何とかして理想だけを生かさうと、個人主義者は考へる。その時、彼岸・あの世・死後の世界での救濟なんてものを、個人主義者は認めません。代りに、現世での救濟を主張する。
個人主義者が「差別反對」なんて言ひますけれども、これは、キリスト教の示した「神の前での平等」を、現世で實現しようと云ふものです。大體、近代の「權利」は、キリスト教の示した理想の、現世的な言換へです。
問題は、あの世や神樣拔きで、現世に千年王國を實現しようとすると、どんな理論も、思想でも、大抵行詰る、と云ふ事です。そりやさうです、何でも「進歩する」のだから、一度提示された理論・思想は、直ぐに古びます。技術や科學の進歩が、或理論・或思想の古臭さを炙り出してしまふ。それを進歩主義は、理論的に否定出來ないんです。けれども、進歩主義と個人主義とは一體ですし、個人主義は宗教の支配を認められないアンチの思想ですから意地でも宗教拔きで宗教以上の事をやつてのけなければ我慢できない。そこで次々と新しい理論や思想を持出すのですが、それらは次々と古びて行く。
さうした中で、個人主義と云ふものが、何時の間にか、權利やら何やらを「自明の真理」と言出す――もちろん、そんなものは眞理でも何でもありません。基本的人權は確立されつゝある、なんて個人主義者の人が言つてゐますが、それは、基本的人權は確立されねばならない、と云ふ彼等の教理・ドグマに過ぎないのです。そして、教理を眞理に言換へてゐる事を、彼等は自覺してゐない。そこで彼等の主張には無理が生ずるのですが、そこで彼等は無理をごり押しするので、話がどんどんきな臭くなるんです。
つかさんの場合も、何處の國民とか何人とか言ひ辛い立場にあつて、一個人として生きるしかなく、當然一個人として死ぬのだから、個人主義に據らざるを得なくなつたと思ひます。そこで、つかさんは、個人主義の立場から宗教を否定したわけですが(爺さんが「感動」するわけです)、個人主義自體が、宗教への憧れを含んでゐるんです。
宗教の示す超個人的なものは信じられないけれども、信じるものは持ちたいから、自分と云ふ個人だけは信じられると、さう云ふ事で個人主義は成立してゐる。
もつとも、死ぬ時には何うしても「自己への信仰」なんてものは破綻するので、さうなると「後は何うとでもなれ」と云ふ事でニヒリズムに陷るしかない。「散骨」で十分、と云ふ發想は、虚無主義です。けれども、虚無主義が發生するのも、宗教への期待が裏切られたから、です。全部、宗教が根柢にある。
つかさんの散骨も、完全なニヒリズムなら、太平洋の眞ん中で撒かうが、サハラ沙漠で撒かうが、何處だらうが構ひやしない筈なんですが、一往場所を指定してある。個人主義者も、やつぱり寂しいんです。