挽歌
(2010年7月23日 00:38)
前に書いた「死と使徒」でつかこうへい氏の遺書の「散骨」について觸れたが、それについてもう少し書いてみたい。
最近は散骨は宗派に據らない、自由な葬送の形として選擇する人も増えてゐる。「自然に帰りたい」、つか氏なら「日韓の架け橋となりたい」といふ理由となるが、散骨も葬送の一種である以上、宗教的行爲に他ならない。
「死んだ後自分がどうなるか」は殘つた者に託すしかない。死後も精神—「モノ」が存在し續けてゐるとしたら、自分の思つたとほりに遺體が扱つてもらへなければ無念だし、存在しないとしても遺志を無視されたことになる。
自らの死後の安寧を願ふ、もしくは死者を悼むこと自體が「宗教的感情」である。それは本人が「無宗教」だと思つてゐても特定の宗派に據らない、といふことであり、「非宗教」ではない。自分は「無宗教」、もしくは「宗教なんかくだらない」、と思つてゐても、それは自分にある宗教心に氣附いてゐないだけではないか。
前に宗教とは、「自分は何のためにここにゐるのか」といふ問ひかけである、と書いたが、それは言ひ換へれば「何のために生まれ、死んでいくのか」といふことでもある。「自分ではどうしやうもないこと」、自然、運命、そして生死、これらを問ふのが宗教である。
ただ、塗炭さんのコメントを讀んで氣附いたのだが、宗教は死者ではなく、殘された、そしてこれから死ぬ生者にこそ必要なものだ、といふ視點を忘れてゐた。「究極の主觀」である宗教をぼくはあまりに理屈で考へてゐるかもしれない。
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えと、理屈も大事です。誤解のないやうに。科学的合理的な考へ方を客観とした場合、宗教は完全に主観であると言へる。それだけ。「究極の主観」となると、これは批判が不可能になつて仕舞う。死んだ宗教、形骸化した宗教、例へば「葬式佛教」は厳しく批判されなければなりません。宗教は生きてゐてこそ価値があります。主観と言へども注意深く客観的に考へる事は可能です。
今、科学的合理的な考へ方に対して、宗教は有効な反論が出来ないでゐるのも事実です。多勢に無勢で押し切られるといふ現状を招いた原因の多くは「伝統」とか「格式」なんぞに胡座をかいてゐた宗教側にあると思つてゐます。私は佛教徒ですが現在の日本佛教には批判的です。尤も爺さんのやうな無神論者にも。
お通夜などで、その親族、関係者が集まることこそが実は大事で、その集まる生者達のために葬式がある、という話をする高齢者の方は結構おられますね。私は頭では理解しますが、あまり実感としては捉えてはおりませんけど。
特定の宗教に依らない人が無宗教を名乗るのは、便宜的な面も強いと思います。正確には「私独自の宗教観です」と言うべきなのですが、世間から「俺様が教祖で信者が俺様だけのオレオレ教の信者です」と言っている奇人変人だと受け取られるリスクを避けているだけという面はあります。
あと、つかこうへいさんなどの演劇人は、自らを演じる傾向があることも頭に置いておいた方が良いかもしれません。寺山修司の発言を文字通り受け取ることが危ういように。
>つかこうへいさんなどの演劇人は、自らを演じる傾向がある
一般に、人は自らを演ずる傾向がありますね。人間、この劇的なるもの。
> 今、科学的合理的な考へ方に対して、宗教は有効な反論が出来ないでゐるのも事
> 実です。多勢に無勢で押し切られるといふ現状を招いた原因の多くは「伝統」と
> か「格式」なんぞに胡座をかいてゐた宗教側にあると思つてゐます。私は佛教徒
> ですが現在の日本佛教には批判的です。尤も爺さんのやうな無神論者にも。
成程。格式に胡座をかいて、葬式仏教に墜ちた日本仏教に批判的である、と。爺
もさう思ひます。では、無神論もしくは科学的合理的主張に対しては、どういふ
理由で批判的なんでせうか。(それらに批判的であったとして、ですが。)
少くとも、無神論や科學的合理主義オンリーの考へ方では、人間が動物から區別される事は説明出來ないですからねえ。
>では、無神論もしくは科学的合理的主張に対しては、どういふ理由で批判的なんでせうか。(それらに批判的であったとして、ですが。)
また質問ですか。その前に爺さんの主張をして下さい。爺さんは無神論者なんでせう? ならば宗教を否定する根拠を述べて下さい。私は最初から宗教を否定出来ない根拠を述べてゐる。爺さんはそれに就いてあれこれ疑問を呈してをられるけれども、それは無神論者だからではないのですか。さうでなければ真つ向から対立しません。尤も他人の主張に茶々を入れて愉しんでゐるだけなら論外ですが、取り敢へずさうではないと見做してゐます。
以前、釈迦やイエスは完全者であると仰つてゐましたね。実在した人間と仮定して、釈迦にしてもイエスにしても突然悟つたのではなく、それ以前までの宗教を踏まえて、より真理に近い教義(思想)を示したのです。信徒や後世の人が完全者扱い(神格化)するやうになつたけれども、本人はさう思つてゐない。何故なら過去の宗教に学んでゐるからです。釈迦は出家したとされてゐるので既に既存の宗教があつた事になる。イエスの場合でも同様です。ともかくどの時代の人間を切り取つても、それ以前の宗教に学んで居る。依つて完全者たり得ない。若し完全者なら何物からも学ぶ必要は無い。
常識的に考へても神と同格の人間が居る筈がありません。居る!と言ふのが無神論者です。無神論や唯物論は近代のマルクスに始まつてゐるとされるのですが、マルキズムでは宗教を極めて科学的、合理的に否定しやうとしました。北朝鮮では神を否定して金正日氏を完全者とする理論武装をしてゐるやうです。爺さんも無神論者なら、これに倣つて宗教を否定する根拠を述べて下さい。
俺はどちらでもないとか言ふのはナシ。それだと宗教を肯定する人に執拗に喰ひ下がる必然がないからです。
讀みたくなるやうな文章を書いてくれと言つてるのに。
個人主義者とか自稱してゐる人つて、當人が思つてゐるほど人間としての魅力がないんですよね。しかもその自覺がない。
塗炭> 常識的に考へても神と同格の人間が居る筈がありません。居る!と言ふのが無神
塗炭> 論者です。
それは最初から前提が違ふと思ひます。神は居ないだらう、といふのが無神論で
す。だから、それ(神)と同格な「人間」が居るなどとは考へやうが無いでせう。
それより、仏教徒の塗炭さんは、ヘブライ的な唯一絶対神を信じてはゐないと思
ひますが、どうなんでせう。
塗炭> 無神論や唯物論は近代のマルクスに始まつてゐるとされるのですが、
これも違ひますね。マルクスの(史的)唯物論は別に唯物論の嚆矢といふ訣では
ありません。ギリシャ時代から唯物論はあります。(ターレス、ヘラクレイトス
でしたっけ。)
塗炭> マルキズムでは宗教を極めて科学的、合理的に否定しやうとしました。北朝鮮で
塗炭> は神を否定して金正日氏を完全者とする理論武装をしてゐるやうです。爺さんも
塗炭> 無神論者なら、これに倣つて宗教を否定する根拠を述べて下さい。
マルキシズムは「宗教は阿片だ」と言ってゐらしいですが、マルキズムは違ふ事
を言ってゐるのでせうか。また、北朝鮮にどういふ宗教が有って、もしくはどう
いふ(反)宗教教育・宣伝が有るのかよく知りませんので、それに倣う事はでき
ませんが、爺自身が(人的パーソナリティを持った)神を否定する根拠はいくつ
か挙げる事はできます。
その一つは「宇宙論」「進化論」でせうか。仏教、イスラム教については知りま
せんが、キリスト教は、この「世界」は約 8,000 年前に、神よって創造された、
とします。しかし、私は、宇宙は約 130 億年前に生まれ、地球は約 46 億年前に
生まれ、哺乳類が我世の春を謳歌しはじめたのは約6500 万年前、といふ宇宙物理、
進化論の成果の方を信じます。あまり大昔の事はさすがに、「確信」はありませ
んが、それでも「世界の寿命が 8,000 年」といふのは有り得ないだらう、と思ひ
ます。
>塗炭> 常識的に考へても神と同格の人間が居る筈がありません。居る!と言ふのが無神論者です。
>
>それは最初から前提が違ふと思ひます。神は居ないだらう、といふのが無神論です。だから、それ(神)と同格な「人間」が居るなどとは考へやうが無いでせう。
阿呆だこいつ。
>完全者扱い(神格化)
つて書いてあるのに。
爺、日本語讀めないのか?
繰返し聞くが。
爺 、 日 本 語 讀 め な い の か ?
>マルキシズムは「宗教は阿片だ」と言ってゐらしいですが、マルキズムは違ふ事を言ってゐるのでせうか。
言つてゐませんね。言はないんですよ。だから爺さんみたいに「言つた言葉は全て存在する」し「言はない言葉は一切存在しない」と思ひ込むバカが出て來るんです。
マルクス主義は「宗教は存在する」と言はない代りに、それ自體(マルクス主義と云ふ價値觀)が「代理宗教」になるんです。これはマルクス主義を批判・研究する宗教學者や研究者が屡々指摘してゐる。例:ヨゼフ・ロゲンドルフ。
マルクス主義の國で、マルクス主義者のリーダーは、常に國民から精神的な信仰を要求してゐます。マルクス主義は、他の宗教一切を否定しますが、人間は宗教が無いと生きられませんから、マルクス主義自體が「絶對の價値觀」として「擬似宗教」化し、人間の生き方を規定し・指示する「代理宗教」として機能します。
もちろん「代理宗教」と云ふのは「解釋」だと言はれればそれまでですが、では「宗教」と云ふものの定義それ自體を爺さん、して下さい。もつとも、用語の定義なんてものは、何の意味もありません。
無神論・唯物論の危險なのは、宗教を否定する代りに、それ自體が宗教的な立場に變貌し、宗教以上に苛酷に人間を支配・壓迫する點にあります。或は、宗教が人間のエゴイズムを抑制する代りに、無神論・唯物論が人間のエゴイズムを抑制し得ず、人間を無限に増長させるところにあります。
一言で言へば、無神論や科学的合理的主張だけで人間は滿足して生きてはいけない、と云ふ事。
宗教を否定しても、宗教の代りになるものを要求して、よりタチの惡い價値觀に人間を支配させるやうになる。
無神論の類を信仰する爺さんのやうな手合は、自分は強い、と確信してゐるから信仰なんて要らない、と宣言するのですが、それを他人に押附け始めると、ま、皆が皆、爺さんみたいに力強く生きられないから、否定された宗教の代りになるものを要求し始めるんですね。理窟ぢやありませんよ、それが人間なんです。
もちろん、爺さんは「押附けなんてしません、他人が宗教を信ずるのは勝手です」なんて言ふでせう。ところが、それが傲慢なんです。「お前らは弱い、俺は強い、がっはっは」と言つてゐるんですから。
もつとも、「私は無神論を信ずる」と言つてゐる時點で、何かをかしいと思はなければ行けないんですがね。自分は何かを「信じない」のか「信ずる」のか――その邊、よく解つてゐないから、「私は何も信じない」とか、そんな言ひ方をして、「私は『何も信じない教』を信じてゐるのだ」と云ふ事實から目を逸らして、威張つてゐられるんです。
宗教の信者は人間を信じてゐないんです。
無神論者は人間を信じてゐるんです。
問題は、人間が「人間を信ずる」と言ふのが、をかしい、と云ふところにあります。自分で自分を信ずるのは、ナルシシズムと言ひます。無神論者はナルシストになり易い。
人間が、人間以外或は人間以上の價値を信じて、人間それ自體の價値を相對化するところに、宗教の意義はあります。「我々人間はそんなに偉くない」――さう教へる事で、宗教は人間を謙虚にする。
それが許せないから、無神論や科學的合理主義は、もつともらしい證據を擧げて、宗教を否定する。けれども、それをやると、どんどん「俺樣は偉い」に傾いていくんです。爺さんはその典型ですね。それでは困るんです。
>キリスト教は、この「世界」は約 8,000 年前に、神よって創造された、とします。しかし、私は、宇宙は約 130 億年前に生まれ、地球は約 46 億年前に生まれ、哺乳類が我世の春を謳歌しはじめたのは約6500万年前、といふ宇宙物理、進化論の成果の方を信じます。あまり大昔の事はさすがに、「確信」はありませんが、それでも「世界の寿命が 8,000 年」といふのは有り得ないだらう、と思ひます。
それが近代の科学的合理的な考へ方で、すなはち客観です。近代の思想家は客観的な科学に基づいて宗教を否定しました。代表的には無神論、唯物論です。爺さんの主張もそれなんですが、それで人間の精神を説明出来るのでせうか。いいですか、爺さんは宗教を否定するのか、肯定するのか。ここを訊いてゐるのです。肯定するなら根本的に対立しません。私はこの議題に就いて始めから「個別の各論を争う積りはない」と書いてゐる。私の主張を否定するのは簡単で、宗教を否定する根拠を述べれば良いのです。「~と思ひます」ではなく、~である、と述べて下さい。
宗教を否定するなら無神論者である事に変はりない。爺さんの立場では「神は居ない」、すなはち神の存在を否定します。これに拠つて自身を律するのは自身の理性と云ふ事になる。しかし既に述べた通り、全ての人間は不完全であるが正しいとすれば、自身の理性で自身を律するのは不可能、または極めて困難であると言へます。拠つて神の存在を肯定するのが私の立場です。
爺さんは解つてゐて肝心な部分を無視してゐる。全ての人間は不完全であるという主張を根底から引繰り返すのは簡単で、一人でも完全者がゐる事を論証すれば良い。それだけの事です。
はい不合格。不合格の理由は自分で考へるように。
>爺さんへ
蛇足ですが、若し「マルキズム」といふ表記はマルキシズムの間違いではないかといふ指摘をされてゐるなら訂正して措きます。それから、「無神論や唯物論は近代のマルクスに始まつてゐると *される* 」といふのは直後に続く「マルキズムでは~」の為の枕です。主張の本質ではありません。あと、かな遣もところどころ変ですが御容赦下さい。
といふか、相変はらず細かいところを衝いて来ますねえ。爺さんは自分を「審判者」とか「採点者」だと思つてをられるやうです。繰り返しますが個別の各論を争ふ積りも、重箱の隅を衝附く議論をする積りもありません。
塗炭さん、例によって話がこんがらがって来てゐるやうですが。
塗炭> 代表的には無神論、唯物論です。爺さんの主張もそれなんですが、それで人間の
塗炭> 精神を説明出来るのでせうか。
この際、「精神」は関係無いと思ふのですが、とまれ、唯物論で精神は説明でき
ます。不完全でせうが。しかし、観念論よりは客観的ですね。
塗炭> いいですか、爺さんは宗教を否定するのか、肯定
塗炭> するのか。ここを訊いてゐるのです。肯定するなら根本的に対立しません。私は
塗炭> この議題に就いて始めから「個別の各論を争う積りはない」と書いてゐる。私の
塗炭> 主張を否定するのは簡単で、宗教を否定する根拠を述べれば良いのです。「~と
塗炭> 思ひます」ではなく、~である、と述べて下さい。
神は存在しない、と思ふ根拠を伸べたつもりですが。どうやら、「宗教を否定す
るか」といふ設問が曖昧なやうですね。この宗教って「素朴な宗教的感情」なの
か、それとも「確立した既存の大宗教」の事なのか。また、「否定する」ってど
ういう意味ですか?それらの信仰を持たない、といふ事でせうか?爺は、既存の
大宗教への信仰は持ちません。また「神」は存在しないだらうと思ひます。その
理由の一つは上に伸べました。
塗炭> 宗教を否定するなら無神論者である事に変はりない。爺さんの立場では「神は居
塗炭> ない」、すなはち神の存在を否定します。これに拠つて自身を律するのは自身の
塗炭> 理性と云ふ事になる。しかし既に述べた通り、全ての人間は不完全であるが正し
塗炭> いとすれば、自身の理性で自身を律するのは不可能、または極めて困難であると
塗炭> 言へます。拠つて神の存在を肯定するのが私の立場です
ここもどうやら「完全者」の定義が問題のようですね。爺も御自身も釈迦やイエ
スが「完全者」であると言った事はないと思ひますが(預言者としての最高の存
在であると御本人もしくはその後の教会が言ってゐる、と言っただけです)。そ
れはともかく、塗炭さんは「完全者」を神で定義してゐるやうだ。であれば、無
神論者の爺には「完全者」の存在は想像さえもできない。そんなものは有り得な
い。なので、「全ての人間は不完全である」という前提も意味が無い。従って
「だとすれば自身の理性で自身を律するのは不可能」といふのも論理的ではない。
循環論ですね。
「自身の理性で自身を律するのは不可能」とは思ひませんが、「律しきれない事
がある」だらうとは思ひます。ただ、神の存在を信じたから、とて、もしくは信
仰を持ったから、とて事態が改善されるとは思へません。先に伸べた「聖職者の
年少者に対する性犯罪の頻発」等が好例ですね。
>爺さんへ
だから、爺さん、あなたは何で自身を律してをられるのですか。無神論に基づけば自身の理性と云ふ事になるけれども、これも否定するなら人間は自身を律する物を持たないで良いといふ事になる。こんな主張はマルキストでもしない。あなたは自分の言つてゐる事が解つてゐない馬鹿か、さうでなければ、何が何でも俺が正しいと言いたいだけです。
完全者の定義なんたらで喰ひ下がれば私の主張を間違いに見せ掛けられると思つてをられるやうですが、常識的に考へれば解かる話をしてゐるのです。
>循環論ですね。
さうなんですよ。無神論は循環論なんですよ。論理的でも何でもないです。だから「信仰」の一種であると言へるわけです。爺さん、反論ありますか。
> だから、爺さん、あなたは何で自身を律してをられるのですか。無神論に基づけ
> ば自身の理性と云ふ事になるけれども、これも否定するなら人間は自身を律する
> 物を持たないで良いといふ事になる。こんな主張はマルキストでもしない。あな
> たは自分の言つてゐる事が解つてゐない馬鹿か、さうでなければ、何が何でも俺
> が正しいと言いたいだけです。
爺は「自分を律するのは自分の理性」を否定してゐませんが。
> 完全者の定義なんたらで喰ひ下がれば私の主張を間違いに見せ掛けられると思つ
> てをられるやうですが、常識的に考へれば解かる話をしてゐるのです。
いや、循環論になってゐて、常識では理解できないと思ひます。
>爺は「自分を律するのは自分の理性」を否定してゐませんが。
それは、宗教の役割を、理性に持たせてゐる、と云ふ事ですね。
>爺さんへ
一旦前に戻りますが、
>無神論者の爺には「完全者」の存在は想像さえもできない。そんなものは有り得ない。
無神論は神なくして成立しません。既に神の存在があつたからこそ無神論が生まれたのです。ここ、解かりますか? 普通の人が常識的に考へれば、何が先にあつたかぐらいは解かる。爺さんは解からない振りをしてゐる。何故か。それを認めると自分に都合が悪いからです。だから無神論の「無」といふ語に拘つて屁理屈を捏ねてゐる。
真当な無神論者ならば神の存在を強く意識してゐます。さうでなければそのアンチテーゼである無神論それ自体が成立しないからです。爺さんは本当に無神論者ですか? それが疑はしい。
あと野嵜さんも重要な指摘をされてゐるので、そつちも読んで下さい。
・宗教を信じてゐる人は、自分を律するのに、自分の外部のものと、自分の内部の理性の、兩方を用ゐます。
・爺さんを始めとする無神論者、科學的合理主義者の人は、自分を律するのには、理性だけで十分であると信じてゐます。
どちらの方がより確實か・どちらの方がより現實的か――一目瞭然ですね。
言ひ方を變へれば……
宗教を信じてゐる人も、宗教で適切に判斷できない時には理性を用ゐて判斷する事は出來ます。けれども、合理主義者は、理性で判斷出來ない時、最う後がありません。
實際のところ、理性のみを信ずる合理主義の態度は、單に虚無主義を「科學」と「叡智」の名で(用語で)以て扮飾しただけのものに過ぎません。
基本的に、現代の合理主義者において、合理主義は、ただ個人が、防衞的に「宗教からの誘惑」を排除するだけの爲に用ゐられる鎧のやうなものとして機能します。が、所詮は個人の鎧に過ぎず、一般に人が汎く採用する價値觀たり得ません。
そして、宗教を排除した合理主義は、實に「清潔」な思想となり、實に「清潔」な合理主義者と云ふ「信者」を出現させるのですが、私にはさう云ふ清潔極まる人間と云ふものが、あり得ると思へません。少くとも、爺さんと云ふ合理主義者が「人を不快にしてゐる」時點で、「合理主義者は清潔な存在である」と云ふのを――否、寧ろ、「清潔ならざる合理主義者は、眞の合理主義者でないのでないか」と疑はざるを得ません。爺さん、あなたは、自稱合理主義者ですが、本當の合理主義者ではないのでないですか。
とすると、合理主義を信奉する人と、實際の合理主義者とは、決して常には一致しない、と云ふ事になります。
實際の爺さんの「合理主義的な主張」には、實に屡々、合理主義と無關係の、素朴な「政治道徳論」が見られます。「人權意識」が部分的に定着しつゝある、の類ですね。この邊、實に無邪氣で、子供つぽいものだと言はざるを得ません。が、それは、果して、合理主義なのでせうか。否、ですね。何うも、爺さんの心の中にある願望が、極めて素朴に現はれたもののやうに思はれます。
一方、「がはは」「あはは」「味噌っ滓」其の他の、他人を見下したやうな表現、これらは、合理主義から由來するものと、爺さん、あなたは證明出來ますか。もちろん、これらの言葉遣ひは、合理主義的精神と何の關係もない。爺さんの優越心、權力慾が露呈したものです。
合理主義を信奉してゐる人の發言には、合理主義によつて排除された筈の「人の中の不合理な感情」が、必ず見られます。大變重要な事ですが、この惡い感情こそ、人間が永遠に附合はざるを得ない、一番根本的なものであるのです。要はエゴイズムですが、これを合理主義者は、常に「理性で何とかできる」と最も安易な考へ方で扱ふのです。ところが現實の合理主義者は、エゴ丸出しの、傲慢な・他人を人とも思はない態度を、無邪氣に・當り前のやうにとつて、そしてそれを自覺しません。
私は、合理主義者が、「人間は決して合理的な存在でない」と云ふ事實を、看過してゐるものと思ひます。
合理主義・無神論・唯物論の、最惡なところは、エゴイズムや權力志向、或は憎惡、優越感、差別心、その他の惡感情を、全て合理化して、正義・愛・寛容の美徳に言換へてしまふ處にあります。もちろん、合理的に考へるならば・論理的に考へるならば、さう云ふ態度は許されない――が、合理主義者に於ては、實踐がそれを裏切るのです。
と言ふより、人間は全て、合理的に考へ・理性によつて判斷して、正しい事を知つてゐます。けれども、理性自體は何も命令しません。だから理性それ自體は抑止力にならないのです。人間においては、全て、良心が「理性による判斷に從へ」と命ずる事によつて、惡い行動に對する抑止力が生ずるのです。その先に、自由意志による行動の決定が存在します。
キリスト教は、人間の精神の中に「理性→良心→自由意志」と云ふ働きが存する事を、大變良く承知してゐます。キリスト教は、人間の心理を、實によく理解し、それにかなふやうな教理體系を構築してゐます。
それに對して、近代以降の合理主義は、「餘りにも人間を知らない」と評さざるを得ません。常に人間の一面だけを採上げて、單純に判定を下し、實に氣輕に人間を支配しようとするのです。
だから、私には、合理主義なるものが信用できないのです。
逆に、その單純明快さが、合理主義者には大變な魅力として目に映る。そして、自分がその體現者になつたかのやうに錯覺してしまふ。無邪氣なものです。
爺さんはバートランド・ラッセルの宗教批判を讀んで、信じてゐるのでせう。
それに對しては、福田恆存が「自由と平和」で、批判を試みてゐます。私には、ラッセルより福田さんの方が信用できますね。
福田さんのラッセル批判は實に的確で――合理主義者であり數學的論理學者であるラッセルの致命的ミスを指摘してゐます。その指摘は、今の爺さんにも見事に當嵌ります。爺さんも致命的ミスを冒してゐるのですが、合理主義者にも關はらず、或は、合理主義者と云ふ立場があるからこそ、自分のミスに氣附いてゐません。
爺さんは何時も何時も「野嵜さん、具體的に話して下さい」と要求するのですが、ところが合理主義・無神論については、常に抽象的に話をするんですね。具體的に、合理主義・無神論・唯物論を採用した國・體制或は人が、現實にどうなつたか、どう云ふ態度をとつたか、さう云ふ事は絶對に言はないんです。
そして、爺さん自身に批判が來ると、「爺さん自身」と云ふ特殊な條件における批判にはまともに答へないで、一般論としての「よい・わるい」の話にすり替へて、批判をした人「も」惡い、と、話を相對化して、ごまかしてしまふ。
この邊、全部、合理主義者を稱するなら、をかしな言動なのですけれども、爺さんは、自分のやつてゐる事が言逃れに過ぎない事を、自覺してゐない。却つて、自分の反論に批判者(野嵜ですね)が答へない、と言張つて、それで「話は終り」と安心してしまふ。
けれども、爺さんと云ふ特殊の問題について論じられてゐるのですから、そこで「あなたはどうなんだ」なんて言つて、問題を一般化してしまふのは、論理的に間違ひなのです。特殊問題を一般論で解決してしまふ――その間違ひを間違ひと氣附かないのだから、爺さんの合理主義も怪しいものです。が、この過ちは、ラッセルもやらかしたもので――何うも合理主義者は、どんなに頭が良くても、この過ちを常にやらかすのでないか。
合理主義者は、相對化によつて自分を免責するのを目的に合理主義と論理を利用してゐるのでないか。
これね、議論で解決するやうな問題ではないんですよ。合理主義者の爺さんは、自分の立場を守る爲に、批判に對して「違ひます」「違ひます」を連發するんですが、兔に角合理主義は爺さんの信念であり、選び取つた世界觀だから、批判されても突崩される事はありません。これは宗教の信者が合理主義者に批判されてさうさう簡單に信仰を捨てないのと一所です。
爺さんのしてゐるのは價値觀の披瀝であつて、非常に主觀的な行動であるのです。客觀的に價値觀を眺めて批評する、なんて態度ではありません。それなら、宗教の信者と同じです。と言ふより、合理主義も宗教の一種なのです。「否、私は宗教を否定してゐる」と爺さんは宣言するのですが、それは單に觀念的・論理的な事で、現實的に・實踐において、宗教を信じてゐるのと同じ態度をとつてゐて、その間に違ひを見出す事が出來ません。
塗炭> 無神論は神なくして成立しません。既に神の存在があつたからこそ無神論が生ま
塗炭> れたのです。ここ、解かりますか? 普通の人が常識的に考へれば、何が先にあつ
塗炭> たかぐらいは解かる。爺さんは解からない振りをしてゐる。何故か。それを認め
塗炭> ると自分に都合が悪いからです。だから無神論の「無」といふ語に拘つて屁理屈
塗炭> を捏ねてゐる。
勿論、無「神」論ですから、「神」といふ概念を知らないでは、論じる事はでき
ないでせう。しかし、「だから「神」が存在する」といふ事にはならないでせう。
根本的に間違った議論ですね。
塗炭> 真当な無神論者ならば神の存在を強く意識してゐます。さうでなければそのアン
塗炭> チテーゼである無神論それ自体が成立しないからです。爺さんは本当に無神論者
塗炭> ですか? それが疑はしい。
無神論者が神の存在を信じている?(「存在を強く意識してゐる」とは「既に今
有る事を前提にしてゐる」といふ意味でせうか。)それで、爺が無神論者かどう
かが疑はしい、と。循環論以前で、「屁理屈」にもなってません。
爺さんのは言葉遊びですね。
ポパーを知つてゐて言葉遊びをするなんて、いい根性してゐますね。
無神論は、神と云ふ外部の權威を否定しますが、それは即座に「自分自身」を神の代理として權威化するんです。
これは大體、現代の無神論・現代の科學合理主義を批判する立場の人間が、必ず指摘する事ですね。私の知る限り、さうした批判にちやんと應へ得た無神論者・合理主義者は存在しません。爺さんみたいに、しらを切つてとぼけ通すか、理窟を言つて話を摩り替へるか、無視するか、そのどれかの言逃れパターンに陷ります。自分自身を反省する事が、合理主義者は出來ないんですよ。それでも自分自身の正しさを信じて疑はないから、「自分を崇める自分教」であるのです。
別に爺さん個人に執着なんてしてゐませんよ。私は個人主義・合理主義・無神論の類一般に反對してゐるだけです――と言ふより、それらを「盲信してゐる」人を批判してゐるだけです。
それらは、超克すべき現代の病理ですからね。
>無神論者が神の存在を信じている?(「存在を強く意識してゐる」とは「既に今有る事を前提にしてゐる」といふ意味でせうか。)それで、爺が無神論者かどうかが疑はしい、と。
あのねえ、神の存在を否定する為には神の存在をよく知る必要がある。強く意識しなければよく知ろうとしない。よく知りもしないで神の存在を否定できないでせうに。そんなものは論理的でも何でもない。ところが「無神論者の爺には「完全者」の存在は想像さえもできない。そんなものは有り得ない。」と仰るから、あんた、自分の言つてゐる事が解かつてんの、本当に無神論者なのかい、と申し上げたのです。
野嵜さんが書かれたけれど、無神論者に対する批判としては極めてオーソドックスで、私以前に多数の人がしてゐます。爺さんはそれらを御存知なかつたのでせう。素人臭い事しか言はない駄目人間の塗炭だから、どうせ大した事は言つてゐない、こいつなら勝てる!と高を括つてをられた。それで無神論者を宣言された。違ひますか?
私も正直言つて最近はほとんど本を読んでゐません。知識の基礎はほぼ学生時代に読んだ本に拠る。その微かな記憶だけで物を言つてゐるので可なり適当です。致命的な欠陥があちこちにあるだらうと思ひます。あれば御指摘下さい。
§
余談ですが私は真当な無神論者(左翼)を認めてゐる。神の存在を否定する代はりに自身の理性を絶対化すべく理想主義的かつ清廉潔白であらうとするからです。むしろ私なんぞよりも遥かにストイックに生きやうとする。自身に対して禁欲的で厳格です。爺さんのやうにおちやらけた事は言はない。人間的な面白味が無いとも言へるけれど、しかしそれはそれで一つの立場となります。といふか私に右翼の立場を教へて下さつたのは、かういふ左翼でした。
いはゆるエリート意識が左翼的思想に結び附き易いのだけれど、それを自身で抑へる事ができる人なら左翼でも構はない。ただ普通は、自身を律するのが自身といふ考へ方は、人間をどこまでも思ひ上がらせます。
の> 無神論は、神と云ふ外部の權威を否定しますが、それは即座に「自分自身」を神
の> の代理として權威化するんです。
神を信じない人が、自分を「神の代理」だと思ふ訣がないと思ひますよ。
それとも「神の存在を信じない」筈の「の」さんは、ご自身を「神の代理人」だ
と思っていらっしゃるのでせうか。(なんだか、これは納得してしまひます。)
>神を信じない人が、自分を「神の代理」だと思ふ訣がないと思ひますよ。
おもしろい言葉遊びですね。
>それとも「神の存在を信じない」筈の「の」さんは、ご自身を「神の代理人」だと思っていらっしゃるのでせうか。(なんだか、これは納得してしまひます。)
「人間禮讚」=「神の代理」ですよ。合理主義者・無神論者は、神を信じてゐない代りに、神の代理として自分自身を崇めてゐるんです。あなたの事ですよ、爺さん。
ちなみに、合理主義者が信ずる「神の代りのものとしての自分自身」と、宗教の信者がなり得る「神の代理人」と云ふ立場とでは、自分を高める度合が、全然違ひますよ。
至高の存在=神
|
神の代理人=宗教の信者
信者が「神の代理人」の立場であつても、それは神より下になります。
至高の存在=神の代りのもの=合理主義者の「自分」
合理主義者や無神論者は、自分自身が至高の存在になつてしまふんです。
爺さん、わかりますか、合理主義や無神論は、自分自身を至高の存在に持上げてしまふ、大變傲慢な思想なのですよ。
至高の存在=神>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>神の代理人=宗教の信者
至高の存在=神の代りのもの=合理主義者の「自分」
合理主義者・無神論者は、自分が一番偉いんです。だから、常に傲慢になる。合理主義や無神論は、謙虚にならないで濟むシステムなんです。
ところが、宗教を信じてゐる人は、自分より偉い存在を、常に想定してゐて、自分より偉い存在と、自分自身との間には、絶對的な懸隔がある事を意識するんです。だから、宗教を信じてゐる人は、謙虚であらざるをえない。宗教は、人を謙虚にさせるシステムです。
爺さん、言葉遊びはやめにして。
合理主義者や無神論者がエゴイズム・利己心を抑へ、自分自身を謙虚にする爲の方法が、合理主義・無神論には用意されてゐますか。論理と共に、具體的な事例を擧げ、それが有效に機能してゐる實例を指摘して下さい。
それが示されない場合、爺さんが如何に合理主義や無神論の思想的優越を主張しても、それは抽象的な主張に過ぎず、信用できないものであると看做さざるを得ません。
まあ無理でせうね。合理主義・無神論は、實踐に繋がらないんです。ただ宗教批判をする抽象的な理論にしかならない。
爺さんが、揚げ足取りと言葉遊びを繰返し、他人を嘲るだけの立場に留まり續けてゐるのがその證據です。自分では何一つ、積極的な主張が出來ない――それが合理主義であり無神論です。
全ての積極的な價値觀は、宗教が提示し、宗教が確立させました。爺さんが支持する、人權・自由・平等、これらは全て、キリスト教が示し、キリスト教社會で確立された概念です。合理主義から生れたものではありません。
そもそも近代の合理主義が、キリスト教の産物なのです。現代の無神論も、キリスト教があつたからこそ、存在してゐるものです。キリスト教の神の觀念があつたからこそ、神の作り給ひしこの世と云ふものを尊重する思想が生れ、この世を研究する科學が成立した。その結果として、科學は神をこの世から追放し、神拔きの合理主義が成立したわけです。無神論はそこから派生したものです。
この事は歴史的經緯を見れば納得せざるを得ません。中世と云ふキリスト教が社會と一體化した時代を經て、西歐では近代が成立してゐます。近代の思想は全て中世のキリスト教社會で準備されました。
どうせ爺さんは、言葉尻を捉へて揚げ足を取る以上の事はする氣がありませんから、上の文章の一番肝腎のところはスルーするでせう。
一つだけ答へて下さい。
合理主義者・無神論者が、エゴイズム・利己心を抑へ、謙虚になる爲の、合理主義的・無神論的な方法とは、具體的には何ですか。或は、合理主義者であり無神論者である爺さんが、自己の欲望を抑へてゐるとしたら、それはどのやうにしてですか。
「他者を尊重しなければならないから」と云ふのは説明になりませんよ。その「しなければならない」と云ふ觀念的な命令が存在するのに對して、人間が「命令に從はねばならない」と思ふ爲の心理的な強制力は、何處から來るのですか、と云ふ質問です。
言替へれば。
どうせ死んでしまつて無に歸すのに、何うして爺さんは合理主義や無神論の理想に從ふのですか。
或は。もつと簡單にききますね。
どうせ死んでしまふのに、どうして爺さんは生きてゐるのですか。
豫言しておきますよ。爺さんは私の質問には答へません。私の豫言は良く當ります。
爺さんは、答へないのではなく、答へられないのです。
合理主義や無神論は、人間が何故生きるか、の問ひに答へられません。
科學は、客觀的に、「人間は生きてゐるものである」と言ふだけです。「なぜ」には答へません。まして「何の爲に」には。
それどころか、科學は、生物と無生物の境を突崩してしまひました。人間と「もの」とを、合理主義は區別出來ません。「理性」の存在を提示するかも知れませんが、「本能」その他と同樣、「理性」も、單に「生きる爲に必要な生物の機能」と解釋され、その時點で單なる區別の爲の指標に成下がります。合理主義の下で、人間は單なる物質です。生きる意味も、價値も、合理主義なる思想からは、現はれて來ません。
だから、合理主義者は、合理主義とは無關係に、自分の欲望から「生きる意味」を設定せざるを得ません。合理主義と云ふものは、生を實踐する爲に、何の役にも立たないのです。
人間は、「理性によつて何が正しいか示される」→「良心が、正しい事をせよ、と命ずる」→「自由意志で正しい行爲或は正しくない行爲を撰擇する」と云ふプロセスで、自分の行動を決定します。
宗教は、自分より偉い存在を自分の外部に設定する事で、「良心が、正しい事をせよ、と命ずる」のをアシストします。
それに對して。
合理主義は、良心の働きを無視して、「理性によつて何が正しいか示される」→「自由意志で正しい行爲を撰擇する」と、一本道の筋道を考へてしまふ。
そりや一本道であるならば、話は簡單ですよ。
けれども、人間の精神の働きを正しく捉へてゐるのは、合理主義よりも宗教の方だと思ひますね。
もつとも、この場合の「宗教」は、キリスト教です。
佛教でも儒教でも、結果として、大體同じ機能を果してはゐますが、斯うしたプロセスを自覺してはゐません。人間の精神を分析し、これらの過程を自覺したのは、恐らくキリスト教が唯一のものです。
キリスト教の分析的・自覺的な發想法は、キリスト教社會に特有のもので、即座に近代の合理主義に繋がります。近代の合理主義は、キリスト教の産物です。
ただ、既に述べたやうに、キリスト教から生れた合理主義は、キリスト教に反撥した結果、神を否定しました。ところが、神と云ふものが人間の精神に於て極めて重要な部分で働いてゐたんです。合理主義は、神を排除する爲に、人間の精神の中で神が作用してゐた部分も引つこ拔いてしまつた。
人間の精神に備はつてゐる「理性・良心・自由意志」のうち、神は「良心」に關係します。ところがそれが合理主義者は氣に入らない。だから合理主義において、良心はその存在自體が抹殺されます。
合理主義が認めるのは、理性と自由意志のみです。
そして、合理主義は、それらを直結し、「人間ならば理性的に行動できる」と、恐ろしく話を單純化してしまふ。ところが、現實の人間は、そんな簡單な存在ではないんです。人間は、良心を働かせないと、理性的な行動はとれない。良心を無視すると、實に不自然で――非人間的な話になるんです。
だから、無神論で「科學的」と云ふ事を強調したマルクス主義が、國家を支配し、人間を支配すると、恐ろしく非人間的な體制になる。當り前の話です。合理主義一本槍で行くと、人間が人間性を失ふ事になります。だから私は、單純な合理主義を、危險だと言ふんです。爺さんにはさうした危險の自覺はありません。爺さんは、素朴で無邪氣なんです。
のさん、
爺> それとも「神の存在を信じない」筈の「の」さんは、ご自身を「神の代理人」だ
爺> と思っていらっしゃるのでせうか。(なんだか、これは納得してしまひます。)
ひょっとして、この推測は当ってゐたのでせうか。
すみません、質問を変へます。
かつて「の」さんは、
の> 私は神の存在を信じないけれども、「神はゐない」とも言切れないから、宗教に
の> 關しては斷定的な事を言はない。
と仰ってゐましたが、そのお考へは今でも変ってゐませんか?
>そのお考へは今でも変ってゐませんか?
「「神はゐない」とも言切れない」と書いてあるぢやん。あの時はエホバの証人やモルモン教などが挙がつてゐたから「斷定的な事を言はない」と云ふ事でせう。
無神論者の爺さんは「神は居ない」と言ひましたよね。その根拠を訊いても答へない。答へられないのではないのですか。若しさうなら「神は居ない」とも言ひ切れない。爺さんよりは正確な答へになつてゐる。いや正直な態度と言へます。神の存在を信じるか何うかに就いては、キリスト教圏の西欧でも全員がキリスト教徒ではありません。国によつては可なり少ない。つまり神の存在を信じない人も多数居ます。しかし西欧全体として思想・文化の背景にキリスト教が存在する。西欧に学ぶといふ意味でキリスト教に就いて述べるのはあり得る事です。
ねえ爺さん、あなた他人の粗探しをするのが好きで好きで堪らないんだらう。幾ら丁寧な言葉遣をしても、さういふ性根は見え見えですよ。この記事のコメント欄だけを見ても爺さんは何一つ主張を提出してゐない。質問や疑問または屁理屈に終始してゐます。相手に答へさせてミス発言と思はれる箇所に突つ込んで相手を困らせたい。馬鹿らしくて答へないと、勝つた勝つたと悦ぶ。何うしやうもない人だ。
のさん
爺> そのお考へは今でも変ってゐませんか?
の> 「「神はゐない」とも言切れない」と書いてあるぢやん。あの時はエホバの証人
の> やモルモン教などが挙がつてゐたから「斷定的な事を言はない」と云ふ事でせう。
成程。それは解りました。で、お考へは変ったのでせうか?
のさんの発言かと思ったら、塗炭さんのでしたね。失礼しました。
のさんのお返事をお待ちしてゐます。
塗炭さんは、「一神教の神の存在を信じてゐますか」の方にもお答へ頂ければ幸甚です。
のさんの発言かと思ったら、塗炭さんのでしたね。失礼しました。
のさんのお返事をお待ちしてゐます。
塗炭さんは、「一神教の神の存在を信じてゐますか」の方にもお答へ頂ければ幸甚です。
爺さんへ。
先づ私の質問に答へたら何うですか。
合理主義者で無神論者の人つて、自分に不都合な事には絶對に答へませんね。
合理主義も無神論も、單に「負けない」だけの爲の理論だからです。
で、堅く堅く合理主義や無神論を信じてゐる爺さんは、何の爲に生きてゐるのですか。それは合理主義や無神論に基づいた考へ方ですか。
あとね。個人攻撃は止めなさいよ。爺さん。
至高の存在=神>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>神の代理人=宗教の信者
至高の存在=神の代りのもの=合理主義者の「自分」
これは理窟ですよ。理窟。
あなたはこれに反論出來ないんでせう。爺さん。反論出來ないなら「反論出來ません」と言へばいいでせう。勿論、反論出來ませんよ。正しい事を私は言つてゐるのだから。
それに對してあなたは「ひょっとして、この推測は当ってゐたのでせうか。」と「質問をしてゐる」んですが、何で質問をするんですか。
あなたは合理主義者でせう。なら合理的に、「合理主義者は謙虚になる」と云ふ事を、證明すればいいでせう。理窟で言へば良い。何で相手を詰問して、「ぼろを出させようとする」んですか。陰濕極まりますね。
合理主義者が傲慢である事、自分は絶對に正しいと確信してゐる事――自分を正しい事にする爲、他人を間違ひに見せかけようとする爲、手段を選ばない事、その爲、合理主義者は非人間的になる事、これらの事は、爺さんを見てゐれば、納得出來てしまひますよ。
私はキリスト教の信者でも他の何の信者でもありません。これで爺さんへの答に代へます。御滿足いただけましたか?
ところで、私は爺さんを含むけれども、合理主義者一般・無神論者一般の事を論じてゐますけれども、爺さんはどうして「野嵜さん個人」を問題にするのですか。
爺さんの目的が個人攻撃である事は、最早明かだと思ひますが、まだ白を切りますか。
爺さん、あなたの意圖は何ですか。「野嵜さん個人」を問題にする事、特定個人を問題にする事に、何か意義があるのですか。
爺さんは、この質問を無視する事でせう。爺さんにとつて大變都合が惡い上、爺さんには絶對に答へられない質問だからです。
私の豫言は既に一つ當りましたが、また一つ當りさうですね。
のさんへ、
の> 爺さんへ。
の> 先づ私の質問に答へたら何うですか。
すみません、どういふ質問でしたっけ。
それにしても、個人の信仰の問題は、あまり他の人の意見には関係ないと思ふので、それに並行してお答へ頂ければ幸甚です。
>どういふ質問でしたっけ。
毎囘最新の投稿しか讀まないの?
>それにしても、個人の信仰の問題は、あまり他の人の意見には関係ないと思ふので、それに並行してお答へ頂ければ幸甚です。
ならばあなたが合理主義者か何うかも、何の意味もないですね。
野嵜さん、
煎じ詰めれば、この問題でせうか。
の> どうせ死んでしまふのに、どうして爺さんは生きてゐるのですか。
なかなか良い質問ですね。自分でも長い間考へてきましたが、正直よく解りませ
ん。「生きてゐたい」といふ本能なのか、「死」への恐怖なのか。多分両方でせ
う。しかし、その答が宗教の中に無いだらうとは思ってゐます。
それで、爺と同じく、神の存在を信じてなくて、無宗教で、しかし、反合理主義
で全体主義の野嵜さんは、どうして生きてゐるのですか?ご教示願へれば幸甚で
す。
讀むにたへる文章を書いてくれといつてるのに。
>爺さんへ
>「一神教の神の存在を信じてゐますか」の方にもお答へ頂ければ幸甚です。
この質問には意味がありません。一神教であれ多神教であれ、神の存在を肯定して居る点に於いて根本的に対立しないからです。爺さんが言ひたいのは佛教徒である塗炭はキリスト教徒を「信じてゐますか」と云ふ事でせう。しかし神の存在を否定する無神論者がかういふ訊き方をするのは例外ナシに相手陣営を分断させやうとする政治戦略です。だから答へなかつたのですが、答へろ答へろと言ふので簡単に書いて措きます。
「一神教の神の存在」も肯定してゐる。以上。
いいですか、爺さんは「神は居ない」と仰つた。しかも無神論者を宣言されてゐる。信仰の話をしたいのなら「あなたは何で自身を律してをられるのですか」に答へて下さい。答へないから私が代はりに書いたけれども「自身の理性」でよろしいですか。
§
それ以前に、無神論は神の存在を肯定してゐました。神が居たからこそ、そのアンチテーゼとして神は居ないといふ思想が生まれます。常識的に考へれば解かる筈です。真当な無神論者ならキリスト教の神を否定して、それ以前に戻ると主張するでせう。彼らが原始共産社会のやうなユートピア思想を併せ持つてゐた事でも明らかです。しかしそれ以前に戻ると言つても其処にはユダヤ教などがあつた訣で、結果として宗教から逃れられなかつたのです。無神論、唯物論に基づくマルキシズムそれ自体が宗教と化して行きました。
現代の(自称)無神論者は伝統宗教の宗教者に対して「神は居る」と論証しろと要求するけれど、本来は話が逆。後から出て来た無神論者が「神は居ない」事を論証しなければなりません。ここを取り違へてゐる人が多い。爺さんは正かなを使つてをられるのでこれを例にすると、歴史的仮名遣論者は歴史的仮名遣が正しいと積極的に論証する必要はありません。むしろ後から出て来た現代かな遣い論者が現代かな遣いは正しいと積極的に論証しなければならないのです。
無神論者の爺さんに要求してゐるのは「神は居ない」とする根拠、これだけですよ。
>なかなか良い質問ですね。自分でも長い間考へてきましたが、正直よく解りません。「生きてゐたい」といふ本能なのか、「死」への恐怖なのか。多分両方でせう。しかし、その答が宗教の中に無いだらうとは思ってゐます。
>
>それで、爺と同じく、神の存在を信じてなくて、無宗教で、しかし、反合理主義で全体主義の野嵜さんは、どうして生きてゐるのですか?ご教示願へれば幸甚です。
なかなか正直な御答へですね。私も正直よく解りません
だからこそ、宗教の存在意義を認めるわけです。
あと、世の中には、合理的な事と非合理的な事の兩方・個人の領域と個人を超えた領域の兩方が、ともに「ある」と云ふ事實があります。私は事實をありのまゝに認めるだけです。
「反合理主義で全体主義」とあなたが言ふのは、あなたが自分の立場を「合理主義で個人主義」と規定した上で、その反對のものとして單純に自分の立場をひつくり返しただけの立場を考へ、「敵對する存在」だからと言つて、私を「そのやうなものに決つてゐる」と勝手に極附けてゐるだけに過ぎません。
實際、あなたの「合理主義」「個人主義」と云ふ立場と對立するのは、論理的に「不合理主義」「全體主義」ではありません。「合理的なものも非合理的なものもともに認める立場」及び「個人も個人を超えたものもともに認める立場」こそがあなたの立場と對立する立場になります。
そして、だからこそ、あなたは意地になつて私の「あいまいさ」に食つて掛かつてゐるのです。
あなたは、私があなたのやうに單純に「どつちか一方」を「とらねばならない」ものと信じ、決め込んでゐます。けれども、私は、「どちらもあり得る」ならば、ありのまゝに「どちらもあり得る」と「認めてゐる」のが正しいと思つてゐます。さう云ふ思ひ方それ自體が、爺さんの御氣に召さないのです。
でも、私のやうな「どつちもあり得る」と認める態度の這うが、公正でせう。爺さんのは、「こつちだけが正しい」と決め込みつゝ、「自分とは違ふ立場」は「絶對に間違ひ」と言ひながら、「人間として立派ならば、間違ひを言つてゐても褒めてつかはすぞ」と上から目線で言ふ、偏見に滿ちた・傲慢な立場です。
塗炭さん、
お答へありがたうございます。
爺>「一神教の神の存在を信じてゐますか」の方にもお答へ頂ければ幸甚です。
塗炭> この質問には意味がありません。一神教であれ多神教であれ、神の存在を肯定し
塗炭> て居る点に於いて根本的に対立しないからです。爺さんが言ひたいのは佛教徒で
塗炭> ある塗炭はキリスト教徒を「信じてゐますか」と云ふ事でせう。しかし神の存在
塗炭> を否定する無神論者がかういふ訊き方をするのは例外ナシに相手陣営を分断させ
塗炭> やうとする政治戦略です。だから答へなかつたのですが、答へろ答へろと言ふの
塗炭> で簡単に書いて措きます。
塗炭>
塗炭> 「一神教の神の存在」も肯定してゐる。以上。
いや、「キリスト『教徒』を信じてゐますか」といふ質問ではなく、言葉の通り、
「(例へばキリスト教徒が信じてゐる)神の存在を信じてゐますか」といふ質問
でしたが、お答へは「どんな神であれ、その存在を肯定してゐる」といふ事で宜
しいでせうか。
仏教徒が超越者の存在を肯定するに留まらず、あらゆる神の存在を肯定する……。
それじゃあ、お釈迦さまの教へはどうなるんだ、とか、教義・宗旨の互ひに矛盾
するところはどれを(何を基準に)選ぶんだ、とか、素朴な疑問がすぐ浮かんで
きて、爺などなかなか理解できないお立場のやうですが、普通の意味で宗教とは
言へないだらう、といふ事は解ります。敢へて言ふなら「汎神論」でせうか。
(「相手陣営」「政治戦略」ですか。でも、野嵜さんは元より「無神論」陣営で
すよ。)
塗炭> いいですか、爺さんは「神は居ない」と仰つた。しかも無神論者を宣言されてゐ
塗炭> る。信仰の話をしたいのなら「あなたは何で自身を律してをられるのですか」に
塗炭> 答へて下さい。答へないから私が代はりに書いたけれども「自身の理性」でよろ
塗炭> しいですか。
失礼しました。はい、その通りです。
塗炭> それ以前に、無神論は神の存在を肯定してゐました。神が居たからこそ、そのア
塗炭> ンチテーゼとして神は居ないといふ思想が生まれます。常識的に考へれば解かる
塗炭> 筈です。真当な無神論者ならキリスト教の神を否定して、それ以前に戻ると主張
塗炭> するでせう。彼らが原始共産社会のやうなユートピア思想を併せ持つてゐた事で
塗炭> も明らかです。しかしそれ以前に戻ると言つても其処にはユダヤ教などがあつた
塗炭> 訣で、結果として宗教から逃れられなかつたのです。無神論、唯物論に基づくマ
塗炭> ルキシズムそれ自体が宗教と化して行きました。
いや、繰返しになりますが、無神論には神といふ「概念」は必要ですが、神の存
在を肯定する必要は有りません。常識的に考へても、そうなります。「神は居る」
といふ「思想」が有ったからそ、そのアンチテーゼとして「神は居ない」といふ
思想が生まれます、とは言へると思ひますが。つまり「神の存在」を(一旦、で
も)肯定しなくても、無神論は生まれ得るんですよ。
また、無神論者は、例へばキリスト教の神の「存在」を必ず否定しますが、「そ
れ以前に戻る」とは必ずしも言ひません。
あと、マルキシズムが「宗教」になった、といふのは宗教の厳密な意味でも、塗
炭さんの汎神論的「宗教」の意味でも当ってないと思ひますが、ここではどう言
ふ意味で「宗教」といふ言葉を使われてゐますか?そもそも褒めてゐるんですか、
貶してゐるのですか?
塗炭> 現代の(自称)無神論者は伝統宗教の宗教者に対して「神は居る」と論証しろと
塗炭> 要求するけれど、本来は話が逆。後から出て来た無神論者が「神は居ない」事を
塗炭> 論証しなければなりません。ここを取り違へてゐる人が多い。爺さんは正かなを
塗炭> 使つてをられるのでこれを例にすると、歴史的仮名遣論者は歴史的仮名遣が正し
塗炭> いと積極的に論証する必要はありません。むしろ後から出て来た現代かな遣い論
塗炭> 者が現代かな遣いは正しいと積極的に論証しなければならないのです。
いえいえ、例ヘばキリスト教も或る時点(約 2000年前)で「生まれた」ものなの
で、その前に「神を知らない立場」もしくは、「別の宗教(ユダヤ教他)」が有っ
た訣です。なので、「神は居る」もしくは「我神こそ実在する(お前のは幻想だ)」
とまず説得しなければ、そもそも流布しなかったでせう。で、現代の無神論者は
その説得をもうちょっとマシなものにして欲しいと言ってゐるだけですよ。(科
学的知見と合致させろ、とか、ですね。)
塗炭> 無神論者の爺さんに要求してゐるのは「神は居ない」とする根拠、これだけで
塗炭> すよ。
さうですか。でも、その前に塗炭さんの「神」とか「宗教」とかをもっと明確に
して頂かないと論じやうが無い。上の議論も、「例へばキリスト教は」と始める
必要がありましたし。もっと言ふなら、塗炭さんの「八百万の神」は、普通の意
味で("God" にあたるといふ意味で)「神」とは言へないし、それらへの「態度」
はとても「信仰」とは呼べない。
(また、になりますが)「キリスト教の神が存在しないだらう」とする根拠につ
いては、それが主張する創造説が科学的知見と背馳する、といふのを挙げました。
一方、塗炭さんの八百万の神については、存在しないだらう、といふ根拠を挙げ
る事はできません。しかしそれは、存在するだろう、といふ事ではなくて、そも
そも何も言ってない(一貫した教義が無い)ので、論じる事ができないし、有っ
ても無くても変りがない(塗炭さんの信条すら左右しないだらう)ので、論じる
意味が無い、と言ふ事です。
>いや、繰返しになりますが、無神論には神といふ「概念」は必要ですが、神の存在を肯定する必要は有りません。
無神論者は、神を否定した結果、自らが「神と同等の存在」に成上がらうとするものです。この事は概念的に理解して下さい。「神は存在しない」と信じてゐても、その「神の概念」と云ふものが理解できるのなら、「無神論者は自分自身が神と同等にならうとする」と云ふ言ひ方で、概念的に理解できる筈です。(だから、今まで爺さんは、とぼけ通して來たのだと私は思つてゐます)
合理主義・唯物論は即座に個人主義に直結しますが、個人主義に基く社會は、即座に全體主義化の傾向を帶びます。
なぜなら。
・個人主義に基かない一般的な意味での全體主義は、慥かに、個人に一定の思想を強要します。
しかし。人が社會を作り・維持する以上、社會を構成する個人には、守るべき思想が要求されます。
それゆゑ。
・個人主義であつても、思想を強要しない代りに、自主的に思想を持つ事が期待されます。
「個人主義を認めない全體主義には強要があるから許せない」と個人主義者は言ひます。けれども、個人主義には「無言の強要」があります。私には、「無言の強要」が行はれる事――のみならず、個人主義者がそれに、無自覺に從ふ事になる事が、恐ろしいです。力づくで意志を強要されるより、意志そのものを奪はれる方が、遙かに恐ろしい。個人主義者は、個人主義の意圖に反して、社會を作る都合上、自ら意志を喪失しなければなりません。個人主義においては、理論と實踐の乖離が、必然的に生じます。だから私は安易に個人主義を信奉する事を危險だと考へます。
爺さん、何か反論して下さい。
野嵜さん、
野嵜さんが何か反論して下さい、といふので、何とか論じてみますが、正直なと
ころ野嵜さんの仰る事は良く解らないのですよ。
の> 無神論者は、神を否定した結果、自らが「神と同等の存在」に成上がらうとする
の> ものです。この事は概念的に理解して下さい。「神は存在しない」と信じてゐて
の> も、その「神の概念」と云ふものが理解できるのなら、「無神論者は自分自身が
の> 神と同等にならうとする」と云ふ言ひ方で、概念的に理解できる筈です。(だから、
の> 今まで爺さんは、とぼけ通して來たのだと私は思つてゐます)
いや、残念ながら、概念的にも理解できません。世に無神論者はいくらも居ます
が、自らが「神と同等の存在に成り上がろう」と(概念的にも)思ふ人はそんな
に居ないでせう。(皆無とは言ひませんが。)なので、それは根拠薄弱な決め付
けだとしか思へません。
それとも、半無神論者(少なくとも神の存在は信じてゐない)野嵜さんが、御自
身の実体験として「神と同等の存在に成り上がらう」とした事が有るのでせうか。
それならば、その時の霊的体験を示して下されば、少しは根拠が有るといふ事で、
また議論(相談)に乗っても良いですよ。
の> 合理主義・唯物論は即座に個人主義に直結しますが、個人主義に基く社會は、即
の> 座に全體主義化の傾向を帶びます。なぜなら。
野嵜さんの憶測の他に、さう言ふ実例が有るなら示して頂けると幸甚です。
の> 「個人主義を認めない全體主義には強要があるから許せない」と個人主義者は言
の> ひます。けれども、個人主義には「無言の強要」があります。私には、「無言の
の> 強要」が行はれる事――のみならず、個人主義者がそれに、無自覺に從ふ事にな
の> る事が、恐ろしいです。
野嵜さんが恐ろしがっているのは、個人主義者自身に何か災難がふりかかる事で
せうか。ご心配は有難いのですが、それは杞憂でせう。一体どんな「無言の強要」
が行われるのですか?
の> 力づくで意志を強要されるより、意志そのものを奪はれ
の> る方が、遙かに恐ろしい。
「意志そのものを奪ふ」ってどういう事なのかよく解りませんが、そんなに恐し
いなら、具体的なイメージがおありでせう。どんな事をされるんですか?「洗脳」
だったら確かに怖いですが、でもそれは「力ずく」ですよね。
の> 個人主義者は、個人主義の意圖に反して、社會を作る
の> 都合上、自ら意志を喪失しなければなりません。個人主義においては、理論と實
の> 踐の乖離が、必然的に生じます。だから私は安易に個人主義を信奉する事を危險
の> だと考へます。
開かれた(民主主義)社会の中で生きて行くのは、個人主義者にとって然程難し
い事ではないし、自らの信条から乖離した生き方を強いられる事も殆んど有りま
せんよ。(これが全体主義国家の中で、となると相当危険になるでせうが。)
むしろ、野嵜さんが、全体主義を信奉する方が安全だ、とする根拠がわかりませ
ん。現実に理論と実践(といふか実生活)が乖離した生活をしてゐる訣で、その
方が不愉快(危険とまでは言はないにしても)だと思ひますし、全体主義国家が
実現した暁には、個人主義者同様、相当危険になると思ひますけどね。
>爺さんへ
>さうですか。でも、その前に塗炭さんの「神」とか「宗教」とかをもっと明確にして頂かないと論じやうが無い。
”さうですか。でも、その前に爺さんの「無神論」とかをもっと明確にして頂かないと論じやうが無い。”
あのね、爺さんは何を否定したいのですか。「神は居ない」と仰つたのだから神を否定したいのではないのか。だつたらとつとと否定する為の論証をされたら如何。世間には無神論に関する本がたくさんある。私のやうな素人を凹ませるのは簡単で「神は居ない」事の科学的合理的な論証をすれば済む。長くなるんだつたら御自分のブログにでも書いて下さい。
爺さんはね、塗炭といふ人間を否定したいだけです。私なんぞを否定しても爺さんが偉い事にはならない。それよりも神の存在を否定して下さい。人間が長きに亙つて取り組んで来た問題だから、爺さんの主張が正しいならば私は自分の全ての主張を撤回した上謝罪します。
の> なかなか正直な御答へですね。私も正直よく解りません
の> だからこそ、宗教の存在意義を認めるわけです。
これも、なかなか率直な御答だと認めます。しかし、宗教の存在意義も認める、
といふだけでは、もっと言ふなら「信仰」に至らなければ、その答は手に入らな
いだらうと思ふのですが。実際に伝統的宗教はそう教へますよね。野嵜さんは、
信仰に至らなくても、教義を勉強しておけば何か役に立つだらう、といふお考へ
なのですか?
の> 「反合理主義で全体主義」とあなたが言ふのは、あなたが自分の立場を「合理主
の> 義で個人主義」と規定した上で、その反對のものとして單純に自分の立場をひつ
の> くり返しただけの立場を考へ、「敵對する存在」だからと言つて、私を「そのや
の> うなものに決つてゐる」と勝手に極附けてゐるだけに過ぎません。
全体主義は言ひすぎだったかも知れません。失礼しました。国家主義に言ひ直し
ます。反合理主義で国家主義、ですね。(上の全体主義も国家主義と読み替えて
下さい。)これらについては野嵜さんがこれまで合理主義や、民主主義・個人主
義を批判してきてゐるから、また、反(超)近代の思想を鼓吹してきてゐるから、
そう言ふのであって、勝手な決め付けではないと思ひますよ。
あと、反合理主義が「いつもいつも非合理な判断をすべし」といふ意味ではない
のは当り前ですよね。(そんな事をしてゐたら、一時間も生きてゐられない。)
勿論誰でも普段は合理的な判断をしてゐる訣です。で、ぎりぎりの判断の際に非
合理的な論拠を持ち出す(ことも有る)。なので、合理主義・理性主義の反対を
「反合理主義」と呼んでも間違ひではない、と思ひます。
の> あなたは、私があなたのやうに單純に「どつちか一方」を「とらねばならない」
の> ものと信じ、決め込んでゐます。けれども、私は、「どちらもあり得る」ならば、
の> ありのまゝに「どちらもあり得る」と「認めてゐる」のが正しいと思つてゐます。
の> さう云ふ思ひ方それ自體が、爺さんの御氣に召さないのです。
ええ、かなり引っ掛りますね。「○○主義」ですから、どちらが「主」か、とい
ふ話だと思ひます。つまり、「ぎりぎりの選択をする場合、どちらを取るか」と
いふ事でせう。爺が無神論(合理主義)や個人主義を信奉してゐるからと言って、
「葬式に出るのは拒否する」とか「エホバの証人の信者を折伏にかかる」なんて
事はしない。しかし、「子供の命にかかはる時にも輸血を拒否する」とか「子供
(特に少女)に割礼をやる」等と言ふのを聞くと「馬鹿言ふな、やめろ!」と言
ふだらうし、目の前の事ならば実際に実力行使に出るかも知れません。つまり、
ぎりぎりの判断を、宗教の教義ではなく、自分の理性に基いてやるべきだ、とい
ふ主張ですね。その時に「どちらも認める」と言ふ事にどのやうな「意味」が有
るのでせうか。それを「正しい」と言ひますか?
勿論、問題がいつもさう単純な訣ではありません。輸血を拒否するのが大人で本
人であれば、爺はそれに反対するかどうか迷います。個人主義者としては個人の
判断は尊重するのが原則ですが、自殺を見逃すのが良い事とも思へないし。つま
り、常に教義に従ふ方が、楽で単純な場合も有るのです。
の> でも、私のやうな「どつちもあり得る」と認める態度の這うが、公正でせう。爺
の> さんのは、「こつちだけが正しい」と決め込みつゝ、「自分とは違ふ立場」は
の> 「絶對に間違ひ」と言ひながら、「人間として立派ならば、間違ひを言つてゐて
の> も褒めてつかはすぞ」と上から目線で言ふ、偏見に滿ちた・傲慢な立場です。
いや、公平でせうが、あまり意味が無い態度だと思ひます。
塗炭> 爺さんはね、塗炭といふ人間を否定したいだけです。私なんぞを否定しても爺さ
塗炭> んが偉い事にはならない。それよりも神の存在を否定して下さい。人間が長きに
塗炭> 亙つて取り組んで来た問題だから、爺さんの主張が正しいならば私は自分の全て
塗炭> の主張を撤回した上謝罪します。
なんだか感情的になって来ましたね。別に「塗炭さんといふ人間を否定したい」
訣ではないですよ。何度も言ふやうに塗炭さんの意見を批判してゐる。
で、合理的な神の存在の証明がなかなかできないやうに、それを否定するのも難
しい。汎神論に反駁するのはもっと難しい(対象が曖昧模糊としてゐるから。)
しかし、仏教徒でありながら、汎神論的な神を信じてしまふ、といふのはをかし
いと思ふ。また、伝統的な宗教が「何故人間がこの世に存在するか」「存在(生
きる事)の目的は何か」について言及してゐない、とするのは間違ひだらう。
爺は、これらについて塗炭さんにもう一度良く考へて頂ければ十分で、謝罪も撤
回も不要です。(といふか、塗炭さんを説得できるとは思へないですし。)
>野嵜さんは、信仰に至らなくても、教義を勉強しておけば何か役に立つだらう、といふお考へなのですか?
はいその通りです。
>反合理主義で国家主義、ですね。(上の全体主義も国家主義と読み替えて下さい。)これらについては野嵜さんがこれまで合理主義や、民主主義・個人主義を批判してきてゐるから、また、反(超)近代の思想を鼓吹してきてゐるから、そう言ふのであって、勝手な決め付けではないと思ひますよ。
でも、私は國家も全面的には信じてゐないのですよ。それでどうして「主義」だと斷定するのですか。
>あと、反合理主義が「いつもいつも非合理な判断をすべし」といふ意味ではないのは当り前ですよね。(そんな事をしてゐたら、一時間も生きてゐられない。)勿論誰でも普段は合理的な判断をしてゐる訣です。で、ぎりぎりの判断の際に非合理的な論拠を持ち出す(ことも有る)。なので、合理主義・理性主義の反対を「反合理主義」と呼んでも間違ひではない、と思ひます。
間違ひですね。「ことも有る」と云ふ程度の事にいちいち「主義」の名を與へる必要はありません。
>ええ、かなり引っ掛りますね。「○○主義」ですから、どちらが「主」か、といふ話だと思ひます。つまり、「ぎりぎりの選択をする場合、どちらを取るか」といふ事でせう。
それらは論理的にイコールな事ですか。違ふでせう。
>爺が無神論(合理主義)や個人主義を信奉してゐるからと言って、「葬式に出るのは拒否する」とか「エホバの証人の信者を折伏にかかる」なんて事はしない。しかし、「子供の命にかかはる時にも輸血を拒否する」とか「子供(特に少女)に割礼をやる」等と言ふのを聞くと「馬鹿言ふな、やめろ!」と言ふだらうし、目の前の事ならば実際に実力行使に出るかも知れません。
別にそんなの常識的な行爲に過ぎないですよ。「合理主義」なんて偉さうな事を言へたものではない。
>つまり、ぎりぎりの判断を、宗教の教義ではなく、自分の理性に基いてやるべきだ、といふ主張ですね。
しかも、今の二つは、合理主義者の爺さんの側にとつては「ぎりぎりの判断」ではありませんね。信者の方だけが「ぎりぎり」であるだけです。立場の違ひを辨へて觀察して下さい。
>その時に「どちらも認める」と言ふ事にどのやうな「意味」が有るのでせうか。それを「正しい」と言ひますか?
ぎりぎりでない場合の判斷としては、普通の人は常識的に大體どちらも認めますよ。その程度の常識的な態度を私はとると言つてゐるに過ぎません。
が、理論的には、「ぎりぎり」も糞も無いでせう。
>勿論、問題がいつもさう単純な訣ではありません。輸血を拒否するのが大人で本人であれば、爺はそれに反対するかどうか迷います。個人主義者としては個人の判断は尊重するのが原則ですが、自殺を見逃すのが良い事とも思へないし。つまり、常に教義に従ふ方が、楽で単純な場合も有るのです。
別にそんなの、個人主義とか言つて説明しなくても、常識的な態度と言つておけば良いでせう。
>> でも、私のやうな「どつちもあり得る」と認める態度の這うが、公正でせう。爺の> さんのは、「こつちだけが正しい」と決め込みつゝ、「自分とは違ふ立場」は「絶對に間違ひ」と言ひながら、「人間として立派ならば、間違ひを言つてゐての> も褒めてつかはすぞ」と上から目線で言ふ、偏見に滿ちた・傲慢な立場です。
>
>いや、公平でせうが、あまり意味が無い態度だと思ひます。
公平でない、爺さんのやうな偏見に滿ちた態度には「意味がある」と。なるほど。それなら、意味のないと罵られようが嗤はれようが、より公平な物の見方をしたいですね。その方が科學的な立場にも近いわけですから。
私には、爺さんが、ただ單に常識的な事をする、と云ふだけの事を、一々「合理主義」の理論で説明してゐるのが、滑稽に見えますね。別に合理主義で説明しなくたつて、いいでせう。如何にも中二病的で、幼稚です。爺さんのは「合理主義ごつこ」ですね。
合理的に考へるのが良い事であるに決つてゐるのであつて、それは公平な物の見方をする事に他なりません。爺さんのは、偏見に滿ちた物の見方をしながら、「私は合理主義である」と言つてゐるだけです。その方が危ないですよ。
「私の物の見方は合理主義なのだ、私の物の見方に從ひなさい」と爺さんは言ふんでせう。「主義」なのだから、他人に強制したいわけです。それが私には大變危險に思はれます。
「合理的に考へる」のなら公平で、押附けなんてあり得ませんが、「合理主義を信ずる」爺さんは、他人に偏見を押附け――まるで宗教の信者と同じ事をするんです。
危險なのは、宗教の信者は自分の行爲が信仰に基いてゐると自覺してゐるのに對し、爺さんのやうな合理主義者は「當り前の事をしてゐる」と確信して、自分の行爲が押附けである事を自覺出來ないところにあります。
爺さんは、理論的には「合理主義」を標榜するんですが、實踐となると徹底し得ない。ならば「合理主義者」だなんて言ふ事もないんです。
私の立場も爺さんと割と似たところがあるんですが、ただ、ぎりぎりのところで何う振舞ふかわからないのだから、だつたら「主義者」を自稱する事もあるまいと思ふのです。
要は、用語に拘るか・拘らないか、の違ひですね。爺さんは、「合理主義者と稱する」事に拘つてゐるんです。私は、實踐が問題だから、何々主義なんてものを標榜する意味を認めないんです。
合理的な思考にしても、宗教的な思考にしても、最終的な判斷に寄與し、よりよい實踐に移せるならば、役に立つでせう。だから私は公平に物を見よう、と言ふんですよ。
>これらについては野嵜さんがこれまで合理主義や、民主主義・個人主義を批判してきてゐるから、また、反(超)近代の思想を鼓吹してきてゐるから、そう言ふのであって、勝手な決め付けではないと思ひますよ。
この爺さんの指摘に就いても、説明しておきませう。
私は合理主義や民主主義或は個人主義を、單純に排斥してゐません。危險なところ、誤つたところを指摘してゐますし、その口調は屡々激しくなつてゐますけれども、それは批判だから仕方がありません。けれども、批判は即排斥・即排除ではありません。
民主主義を批判するのは、よりよい民主主義の實現を求めるからでもあります。批判した瞬間に排斥に走つてゐるのならば、誰も民主主義批判なんて許されない、なんて事になり兼ねません。
また「反(超)近代の思想」の「鼓吹」と言つて、爺さんは野嵜が「國家主義」「全體主義」を推奬してゐるかのやうに言つてゐますが、そのやうな意圖は全くありません――と言ふより、實際のところ、「國家主義」「全體主義」について私が禮讚したところを、爺さんは一度として見た事がない筈です。單に、用語の上から、あゝ、これは「國家主義」だな「全體主義」だなと、爺さんが聯想ゲーム的に思ひ附いてしまつただけの事です。
ニーチェにしてもキルケゴールにしても、西歐の沒落にしても共産黨宣言にしても、反近代の思想にほかなりません。エリオットやロレンスも、反近代の思想です。さう云つた内容を良く見ていただければ解ると思ひますが、私は互ひに矛盾し合ふ複數の思想を紹介したり、それらに觸れたりしてゐます。それらの思想に盲從すべき事を言つてゐるのでない事は、その時點で御解りになれると思ひます。
私はそれらの思想に「半面の眞理」が含まれてゐる事を述べてゐるに過ぎません。ただ、それらが「半面の眞理」であるならば、人間の眞實に觸れてゐるのです。我々が現在信じてゐる・從つてゐる民主主義や自由主義、或は個人主義、はたまた合理主義と言つたもの、これらも全て「半面の眞理」です。だからこそ、反對する意見・否定する意見が出て來るので――そして、その反對意見・否定意見にも屡々「半面の眞理」が含まれてゐて、それでそれらの意見が屡々強力な説得力を持つ。それらの説得力のある意見に抗して、民主主義なり自由主義なりが力を維持して行く爲には、反對意見を押潰すだけでは駄目なんです。反對意見が含む「半面の眞理」を知らなければならないんです。だから私は「反近代の思想」を學ぶ必要を言つてゐるんです。それが爺さんには氣に入らないらしいんですね。危險だと言ふんです。
けれども、私には、「何も知るな」「何も知らないまゝ、民主主義、自由主義、個人主義、合理主義を、崇め奉れ」と絶叫する爺さんの方が、恐ろしいです。爺さんは「合理主義」を標榜してゐますが、爺さんのやり方は、宗教の信者のそれと同じですよ。
爺さんは「合理主義を信じなさい」と言つてゐるでせう。それは「宗教を信じなさい」と言つてゐるのと、何が違ふのですか。「宗教ではない、合理主義だ」と爺さんは抗辯するでせうが、「信じなさい」と言つてゐる點で、何も變らない――そして、問題は「信仰」の部分にあるんです。「何を信ずるか」ではなく、何かを「信ずる事」に。爺さんも、合理主義を「信じてゐる」。「信じてゐる」んですからそれは「信仰」です。爺さんは「信仰」をしてゐるんです。爺さん、この事は認めて下さいよ。
だから私は「信じない」立場をとつてゐる――と言へればいいんですが、宗教は合理主義の攻撃を享けて、既に信じ難いものとなつてゐます。宗教の持つ機能(人間の良心に關る機能)は大變意味があるのですが、合理的な判斷を經れば、宗教の教義それ自體(或は神話)が輕々に信じられたものでないのが事實です。
かと言つて、合理主義には、人間の良心に關はる問題が解決不可能である、と云ふ大問題があります。合理主義を信じたところで、現實の行動には何のメリットもありません。どうせ判斷は「常識的」なものになるだけです。
そのため、私としては、實に不本意な事ながら、思想的には宙ぶらりんの状態で、やつて行くしかありません。けれども、それは現在生きてゐる一般の日本人なら誰もがさうであるのであつて、それでも我々は「何とかやつてゐる」のであります。實際に社會で生きてゐる中で、我々日本人は、實に中途半端に考へて、それで何とかやつてゐます。或は、世界中の多くの人が、と言つても構ひません。現代は、キリスト教社會でも、クリスチャンとして、信仰のみによつて生きてゐると言ふ人は、多くありません。それでも社會は何とか運營されてをり、社會が運營されてゐれば、そこで人は生きていくだけは何とか出來ます。
もちろん、何とかやつて行つてゐるだけの人間ですから、思想的には脆弱です。だから、思想的に堅固な「宗教の信者」にも、「合理主義者」にも、やりあつて、私が、理論的にも、心理的にも、「勝てる」わけはないんです。
が、ウェブの掲示板や「ブログ」のコメント欄でのバトルで勝つたり負けたりしても、大した意味はないんです。
と言ふより、その程度の「思想戰」で「勝ち誇る」だけの爲に、何かの「主義者」になる事には、意味がないんです。だから私は、「合理主義者」を自稱する爺さんの發言にも、政治的に「右翼である」「左翼である」と言つてゐる人の發言にも、無條件で價値を認めたりはしないんです。
發言の内容に、「半面の眞理」でも含まれてゐるのなら、その發言には價値があります。しかしそれは、單なる「教義の連呼」にも「スローガンの連呼」にも、ありません。そして、爺さんの發言は、「合理主義におけるスローガンの連呼」の域を出ません。
或は、爺さんは、「現實を合理主義の立場から如何に解釋するか」と云ふ事を一生懸命考へて、その解釋を書連ねてゐるだけです。解釋なので、何うとでも自分に都合良く解釋出來るんです。それでは何の意味もない。
>輸血を拒否するのが大人で本人であれば、爺はそれに反対するかどうか迷います。個人主義者としては個人の判断は尊重するのが原則ですが、自殺を見逃すのが良い事とも思へないし。つまり、常に教義に従ふ方が、楽で単純な場合も有るのです。
これなんか、典型的な「解釋の遊び」で、實に下らないものです。
と言ふか、「合理主義」は、この手の「例外」事項を大量に投入する事で、現實を解釋しようとします。けれども、例外が多く、それ單獨で一貫して現實を解釋できないならば、最早「主義」としては、理論的に破綻してゐるんです。合理主義的判斷としては、さう考へなければをかしい。ところが、爺さんを始めとする合理主義者は、合理主義が絶對に勝利しなければならないから、破綻を認めようとしない。
ここに合理主義の駄目さ・危險がはつきり現れてゐます。
しかも、斯うやつて私が合理主義批判・合理主義者批判をすると、合理主義者の爺さんは、「あなたは敵だ」としか言はないんです。そして、「合理主義に反抗する邪惡な敵」として、相手を力づくで潰しにかかる。爺さんだけではありませんよ、合理主義の國・無神論を採用した國は、屡々さう云ふ非合理的で暴力的な事を國民にも外國人に對しても行ひます。合理主義・無神論は「勝利しなければならない!」――怖ろしい話です。
彼等は、なぜ、自分の合理主義の缺陷を補強しようとしないのでせうか。
――合理主義者である爺さんにも反省を促したいですが、實際のところ、それは無理でせう。合理主義は、生れた時から破綻する事が運命づけられてゐるのです。だからこそ「主義者」として――事實上の「信者」として――「主義者」は「信仰に生きる」事になるのです。冷靜で客觀的に合理主義を見てゐたら、穴だらけである事は、何うしても認めざるを得ない。だから「主義者」は熱狂して、信じ込まうとするし、他人に對して傲然たる態度をとらうとするんです。
>爺さんへ
>で、合理的な神の存在の証明がなかなかできないやうに、それを否定するのも難しい。汎神論に反駁するのはもっと難しい(対象が曖昧模糊としてゐるから。)
だつたら何故「神は居ない」と仰つたのでせうか。せいぜい「神は居ないかもしれない」としか言へない筈です。居ないかもしれないなら、暫定的にせよ「神は居る」と考へるのが妥当でせう。近代法学では有罪が確定するまでは暫定的に無罪と見做します。いづれにしても爺さんの発言は屁理屈にしかなつてゐません。
>爺は、これらについて塗炭さんにもう一度良く考へて頂ければ十分で、謝罪も撤回も不要です。(といふか、塗炭さんを説得できるとは思へないですし。)
なるほど説教を垂れたかつたのですね。現代の(自称)無神論者は必ず説教を垂れる。まさしく怪しいセミナーの先生や怪しい新興宗教の教祖と同じです。
私は難しい主張は何もしてゐない。始めから「全ての人間は不完全である」に基づいて主張してゐます。だからこそ爺さんは絡んで来た。こいつなら勝てる、説教してやれ、と。かふいふ爺さんの態度を始めから問題にしてゐます。いや爺さんに限らず現代の日本人の多くに観られる態度で、科学的合理的な考へ方が道徳的な頽廃を生む。
余談ですが、かつての通称HTML原理主義者も科学的合理的な考へ方をしてゐました。私が伝へたい情報の本質は文章そのものであつてマーク附けではないと言ふと、爺さんのやうな説教を垂れる人が山ほど居た。最近では人間が理性的に行動すれば比較優位の原理は成立すると言ふリバタリアンに対し、私は人間は必ずしも理性的に行動しないと指摘した事があります。さうすると彼は呆れたやうに「それならそれでいいのです」と言つた。ならば他の経済理論を述べる人を叩く必然が無い。しかし彼は平然と叩く。
いづれも現代の日本人に観られる傾向で、科学的合理的な考へ方に偏り過ぎるのは良くない。
餘談も餘談ですが、實證主義と社會學の創始者として知られるオーギュスト・コントは、科學としての社會學を唱へたのですが、のちに人類教の創始者となります。ブラジルにはコント教の「人類教会」が存在します。
フランス革命の際にも、「最高存在」と「自然」とを神として崇拜する市民宗教なるものが作られてゐます。
合理主義も「主義」である以上、價値觀であり、當然價値觀としての宗教に隣接して存在するものです。
人間は、單獨で生きられるものでなく、社會において生活します。合理主義にのみ基いて個人の行動を解釋するのは大變容易です。
しかし、合理主義に基づいた社會生活を考へる場合、人間は理性面のみならず感情面でのコントロールが必要です。その爲、無神論の國家であつても、理性主義にのみ縋る事は不可能であり、常に合理主義から逸脱して人間を律する手段をとらざるを得なくなります。
その時、依然として合理主義の假面を被り續け、合理主義の勝利を演じ續けねばならない爲に、合理主義の國家は大變冷酷な專制國家とならざるを得ません。
爺さんが無邪氣に合理主義を禮讚できるのは、現實の合理主義に據る專制國家を知らないからです。
舊ソ聯や北朝鮮は、唯物論を採用した國家ですが、その悲慘な實態から多くの左翼・革新派の人は目を逸らし續けてゐたものです。
爺さんも、さうした「自分に都合の惡いものは見ようとしない」人々の一人です。
爺さん、あなたは、今の北朝鮮が王道樂土だと、未だに信じてゐるのではありませんか。合理主義・科學主義を採用したからと言つて、人は幸せにはなり得ませんよ。寧ろ、勘違ひから、大變な不幸に陷る危險が大きい。
日本人の合理主義者は、能天氣に「合理主義はそれ自體として存在する」と信じてゐますが、ヨーロッパにおいて合理主義は「キリスト教を否定する爲の理論」でしかありませんでした。
日本にはキリスト教が無いから、ヨーロッパから傳來した合理主義の持つ「キリスト教の神拔きのキリスト教」としての臭ひを、日本人合理主義者は嗅ぎ分ける事が出來ません。爺さんもその一人です。
ブラジルの国旗と社会学者コント
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/rou/rou15/shoukei.htm
1.新宗教国家の創造運動──フランス革命の本質(Ⅰ) - オノコロ こころ定めて - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/60633367.html
塗炭さん、
爺> 爺は、これらについて塗炭さんにもう一度良く考へて頂ければ十分で、謝罪も撤
爺> 回も不要です。(といふか、塗炭さんを説得できるとは思へないですし。)
塗炭> なるほど説教を垂れたかつたのですね。現代の(自称)無神論者は必ず説教を垂
塗炭> れる。まさしく怪しいセミナーの先生や怪しい新興宗教の教祖と同じです。
申し訣ないですが、説得できない、と思ってゐる相手に、「説教を垂れる」程爺
は暇ではないです。でも、批判に反論して頂ければ、とても嬉しいとは思ふでせ
うね。
あと、新興宗教の教祖様達は、皆「無神論者」だったんですか?いや爺も薄々感
じてゐたのですが、塗炭さんがさう言ひ切る根拠が有るなら是非教へて下さい。
野嵜さん、
の> もちろん、何とかやつて行つてゐるだけの人間ですから、思想的には脆弱です。
の> だから、思想的に堅固な「宗教の信者」にも、「合理主義者」にも、やりあつて、
の> 私が、理論的にも、心理的にも、「勝てる」わけはないんです。
勿論、爺だって単なるエンジニア(崩れ)ですから、「思想的に堅固」な筈は有
りません。野嵜さんが思ってゐる程「自信」も無いですよ、きっと。でも(「だっ
たら説教垂れるなよ」と言はれるのを覚悟で言はせて頂くなら、)「自分で納得
できる立場を選び取るやう事に努力すべき」ではないでせうか。これも、また漱
石さんの受け売りですけどね。しかも、爺には既に「日暮れて道遠し」の観があ
りますし。
例へば「エホバの証人」が「身内」になる可能性は低くないですよ(爺みたいに
「今や行き来する親戚の半分がそう」といふ事だって有り得るんですから)。否
定するにせよ、受け容れるにせよ、一度はきちんと考へておいた方が良いやうな
気がします。(「どっちも有り得る」なんて言ってゐたら、三日も保たない。と
は言へ「勝ち負け」の問題ではないとも思ひます。といふか、爺など数の上では
既に負けてゐるし……)
それにしても蕁麻疹、大丈夫ですか?
>爺さんへ
>でも、批判に反論して頂ければ、とても嬉しいとは思ふでせうね。
”でも、「神は居ない」を論証して頂ければ、とても嬉しいとは思ふでせうね。”
爺さんは私の意見を批判してゐる? 嘘でせう。けちを附けてゐるとか、因縁を附けてゐると言ふなら解かりますが、とても批判になつてゐません。何故なら「神は居ない」(神の存在を否定する)根拠も論証も提出せずに、「神は居る」(神の存在を肯定する)といふ私の意見にあれこれ言つてゐるだけだからです。あなたは俺様は審判者であり、お前を審判してやると思つてゐませんか。若しさうなら思ひ上がりも甚だしい。
§
個別の各論――細分化された領域、それも自分の得意な領域に持ち込みたくて仕方がないのでせう。理念や原理に基づいて体系的に論じるよりも、個別の領域を論じるのが科学的な態度であると固く信じてをられる。これは通称HTML原理主義者、通称市場原理主義者(リバタリアン)にも共通します。前者はマーク附けの領域、後者は経済の領域だけに留まろうとします。その範囲なら詳細な説明、論証もできる。初学者に対してなら自分の優越感を満足させます。ところが根本部分を訊かれると答へられない。現代の(自称)無神論者は「神は居ない」根拠や論証を示しません。
ちなみに「全ての人間は不完全である」は当然の事ながら私のオリジナルではなく、佛教でさう教へてゐます。例へば『歎異抄』には、善行を為すのは自身の力に依るものではなく佛様の力に依る、といふ意味の事が書かれてゐます。人間はもとより悪人であり、全ての善行は佛様がさせて下さると云ふ事。ここで言ふ悪人は不完全者といふ意味なので、拠つて「全ての人間は不完全である」と言へます。原典にあたるのが一番ですが、参考書としては西田幾多郎の『善の研究』などです。正直言つて難しい哲学書を読むぐらいなら原典を読んだ方が増しですが、ともかく神の存在を否定するか、全ての人間は不完全であるを否定するか、そのどちらか一方だけで伝統宗教は根底から崩壊する。
キリスト教圏で生まれた無神論は、神の抑圧から逃れる為に神を否定しやうとしました。近代の無神論は理論的に頷ける点も多い。しかし「自身の理性」を純粋に科学的合理的に分析してゐる無神論が、現実には完全者と見做す存在を置いて統治せざるを得ませんでした。既に示した通り、北朝鮮を見れば明らかです。つまり無神論は人間の本質を言い当ててゐなかつたのです。伝統宗教の意義は科学的合理的な考へ方だけでは説明し切れない人間そのものに就いての説明を試みてゐる点にあります。確かに試みてゐるだけで絶対的な答へは出せてゐない。1+1=2 といつた答へは出せないけれども、人間そのものに就いての洞察は深い。そもそも人間の本質に関はる問題を科学的合理的に割り切れる筈がありません。これを無神論はやらうとした――科学の優越を示そうとしたから破綻したのです。
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爺さんね、とつとと無神論が正しい事を論証して下さい。個別の各論に持ち込んで話を相対化させると、「あんたも正しいかもしらんが、俺だつて正しいんだよ」といふ訣の分からない話になります。それから「神」と「宗教」を区別する事に意味はありません。神佛など自身の外部に絶対の存在を戴かない伝統宗教は無いからです。あるとすれば教祖自身を神(または完全者)と見做す新興宗教です。北朝鮮のやうに。
蛇足ですが、
>しかし、仏教徒でありながら、汎神論的な神を信じてしまふ、といふのはをかしいと思ふ。
他の宗教の神を肯定するのと、他の宗教の神を信じるのとは異なる。当たり前でせう。もとより私は出家ではなく在家です。また一方で、釈迦が示した教義をほぼ全て理解した僧を尊敬してゐます。
>また、伝統的な宗教が「何故人間がこの世に存在するか」「存在(生きる事)の目的は何か」について言及してゐない、とするのは間違ひだらう。
言及してゐないではなく、答へを出してゐない――出せないのです、と云ふ事。この理由に就いては直前のコメントに書いたけれど、科学的合理的な答へは出せません。
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といふか私が書いたコメントをよく読んで欲しい。爺さんは頭の中に変な妄想でも渦巻いてゐるらしく、他人の発言を曲解する傾向が強い。馬鹿らしいので答へなかつたけれども、俺の質問に答へないのは都合が悪いからだと勝手に解釈して必死にヒハンニコタヘロと言い放つ。いい加減にして呉れよ。
それから私は在家であれ宗教者と思つてゐるし、宗教者は出来るだけ解かり易い言葉を用いるべきだと考へてゐます。宗教を生きたものにする為には学窓に閉じ篭つてマニアックな事ばかり言つてゐては駄目だと思ふ。普通の人に解かるやうに話してこそ宗教は生きる。この点、文学の方が先を行つてゐて、宗教者は見習ふべきは見習はねばならない。ですが、伝統宗教を否定する無神論者には抵抗します。今更仲良くしませうなんて徳目を述べるのはナシ。
つけたし。
ねえ爺さん、あなたは塗炭のやうな素人が「自信たつぷり」に物を言ふのが気に入らないだけだ。なんとか凹ませてやらうと考へてあれこれけちを附ける。さうでなければ「説得できない、と思ってゐる相手」に毎度絡んで来る筈がない。だから私は爺さんのコメントの三分の一も読んで嫌になつたのです。佐藤さんに対してはもつと露骨に見下してゐる。今の今まで反省の弁ひとつ無い。
全ての人間は不完全だからこそ、相手の人格を俎上にすべきではありません。
私は「福田恆存信者」ですから、「~主義者」の類にだけはなりたくない、と思つてをります。
今のところ、親類縁者にはへんな宗教にはまつてゐる人はゐないですね。御葬式の時に御世話になる御寺さんならあります。
一方で、近所は宗教やつてゐる人に圍まれてゐます。けれども、宗教の信者だから何う斯うと云つた問題は餘り無いです。それより、自己中心的で「個人主義」的な、モンスター何とかの類の人がゐて、隨分困らせられてゐます。
あと、蕁麻疹の件、何うも有難うございます。大分いいです。症状が非道い間は、醫學的であれ、おまじなひであれ、手段は何でもいいから癒つて呉れとか思ひました。
恢復されたやうで、何よりです。
佐藤さん、済みません。場をお借りします。私が通称市場原理主義者(リバタリアン)は根本部分を訊かれると答へられないと書いた点に批判があるやうなので。
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佛教で教へる「全ての人間は不完全である」が正しいとすると、政治の実務(金融政策など)を政治家がやらうと企業家がやらうと、程度の差はあれ、大差はないと云ふ事になります。ところが日本のリバタリアンは何が何でも企業家の方が良いと主張する。何故ですかと訊くと、「権力」が何うたらといふ答へしか返つて来ません。そもそも「権力」それ自体が悪であるから、理想的には無政府であるべきだと主張する。これは原始共産社会を理想としてゐた共産主義者と同じなのです。
人間の本質から言へば政治家、企業家の区別に意味は無い。しかし両者を区別して絶対に違うと言はなければ日本のリバタリアンの主張は成立しない。彼らは根本的な矛盾を抱へてゐる事に気附いてゐないか、気附いてゐて「程度の差」を絶対視してゐるかの、どちらかです。前者はまだしも増しで、性質が悪いのは後者。「程度の差」を絶対視する為に「最低限の道徳」(徳目)を持ち出す。これで自説を正当化しやうとするので、他説を述べる人に対して居丈高に、または、慇懃に説教を垂れる。まさしく怪しい新興宗教と同じです。
つまり資本主義も行き過ぎると共産主義と変はらないと云ふ事。現代の(自称)無神論者と現代の(自称)市場原理主義者は本質的に同一と見做せます。真当な左翼なら人間の本質――例へば人間性善説に基づいた反論をされるけれど、彼らは自分を左翼と思つてゐないから訣が分からない。都合が悪くなると徳目を持ち出すか、個別の各論を持ち出しては俺たちが正しいと言ひ張る。かういふ人達を政治主義者と言ひます。
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物質的な豊かさ、すなはち物欲や金銭欲を満たすやうな教義を掲げてゐる伝統宗教は無い。しかし日本のリバタリアンはリバタリアニズムこそが「人間の幸福」なるものに貢献すると固く信じてゐて、俺達こそが現代の救世主と思ひ上がつてゐます。「國家といふ常識を疑へ」といふスローガンを見ても明らかなやうに常識が通じません。普通の人から見れば頭の線でも切れてゐるとしか思へない。さうでなければいはゆる專問家馬鹿です。