『神はなぜいるのか?』 パスカル・ボイヤー著
(2010年12月 5日 23:59)
内容についての解説は以下參照。
本書において、「死」についてなぜ人間は特別な感情を抱くのか、と言ふことに就いて、まず“死體”は“汚染源”であり、捕食者を招き寄せる危險な存在である。一方でそれは知つてゐる人間であり、しかし今後新たな關係が築かれることはない。さうした“死體”に對する樣々な認識が複数の「推論システム」に働きかけ、「死」に説明を輿へ、それが他人の「推論システム」にも傳達されることで、「宗教」となる。
無論「死」は宗教の一側面でしかないが、前にぼくも「なぜ宗教は『死』について扱ふのか」と云うことを考へたことがあり、本書からするとぼくの考へはあながち間違つてもゐないやうである。
ただ、これも前にぼくが言つた「「信仰」は「自分は『何のために』ここにゐるのか」といふ問ひかけに對する答へである」、と云ふやうなのは「科学と“共存”するために“理想化”された宗教でしかない」とも本書では述べており、ここはぼくも考へ直してみるべきかと思つた。
宗教を信じる人間は、特別“愚か”と云ふわけでも“蒙昧”と云ふわけでもない。人間の「認知推論システム」は信心深い人間でも無神論者でも變はるところはなく、特別差異があるわけでもない。ボイヤー氏が言ふ通り、現實に人間は宗教を信じるのだから、「宗教は迷信でしかない」と“排除”するのではなく、「なぜ人間は宗教を信じるのか」を研究するはうが“科學的態度”であるとぼくも思ふ。
この本を讀んだあと、とりあへず佛壇に手を合はせたくなつた。
カテゴリ:本
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えと、佛教者に遠慮して意見を言ふ必要は無いです。佛教者の中で一番心が狭いのが私(塗炭)だから、こんなのを相手にしては行けない。妥当な説明があれば「佛教なんてクソ、キリスト教万歳」でも全く構はない。閑話休題。
§
著者のパスカル・ボイヤー氏と私たち現代の日本人とで何が大きく違ふかと言ふと、彼には生来的に宗教が「ある」、現代の日本人の多くには生来的に宗教が「ない」。つまり或る個人が宗教を信じるか信じないかの以前に、生まれた時から既に宗教的な環境または風土に居たか居ないかです。私は在家佛教者を宣言してゐるけれど実は「後附け」でありまして、物心つく頃には母親に佛壇の前に座らされて手を合はせる事や、御寺に連れて行かれて御坊さんの説教を聞かされたりしました。いはゆる自我の成立過程に佛教があつた。解り易く言ひますと、俺は男だと宣言する以前に、生まれたときからちんちんが附いてゐた。自我が成立すると何故男なんだらうと考へるやうになります。男である証明をする場合に科学的な知見を用ひる事がある。パスカル・ボイヤー氏の宗教批判はそれでせう。挙げられた本を読んでゐないので推測ですが、おそらくこの推測は当たつてゐる。
伝統的な宗教は人間の本質本性を説明しやうと試みてゐるのですが、そもそも人間が人間の本質本性を説明し切れるのだらうか。否と言ふのが伝統的な宗教の立場。ゆゑに神佛など人間を超えた存在、即ち自身を超えた絶対の存在を措定してゐます。一方、科学の立場では人間の知性が「進化」すれば、いづれ人間が人間の本質本性を説明し切れるといふ確信がある。確信が無ければ研究する意欲も湧かない訣で、これはこれで筋は通る。ただ、その確信は「科学信仰」といふ点に於いて宗教の一種と言へませう。いづれにしても全ての人間は不完全だから宗教から逃れられない。これをパスカル・ボイヤー氏は解つてゐるけれど、現代の日本人である読者が解るか何うか。
生来的に宗教が「ある」欧米人の著書を、現代の日本人に解るやうに翻訳するのは難しいと思ふ。宗教は人が見る外の森羅万象(現象)を説明しやうとしてゐるのではなく、それを見てゐる人自身の精神に就いて説明を試みる。或る意味、心理学、精神医学などの科学ともオーバーラップするけれど、そればかりに偏らないやうに牽制するのが現代に於ける伝統的な宗教の意義だと思ひます。
§
>宗教を信じる人間は、特別“愚か”と云ふわけでも“蒙昧”と云ふわけでもない。
伝統的な宗教では人間を愚かで蒙昧であるとしてゐます。私なんかが良い例。つまり放つて措けば何処までも思い上がるからです。キリスト教では全ての人間は原罪を背負ふと教へてゐます。これだけを言ふ為に前段までの長文を書きました。済みません。