シェーをしたことのないやつは日本人ではない!つて言つてたつけ。
おフランスだけに。
新潟市美術館でやつてる「追悼赤塚不二夫展」を見に行きました。
「こなたのシェー」で話題になつた展覽會だけど、新潟でもちやんとシェーコーナがあつた。
『らきすた』でひよりが「なんか場違いな気がする」と言つてたけど、先生だつて元祖萌えマンガ「ひみつのアッコちゃん」を描いてるんだから、こなたがゐてもこれでいいのだ
。
展示は原畫が主だけど、會場は赤塚マンガの雰圍氣を表現してなかなか樂しい空間であつた。
赤塚ギヤグは今見ても笑へるし、かなり實驗的でもあつて先驅性に驚かされるんだけど、逆に考へると、さつきのこなたとアッコちゃんにも言へることだけど、赤塚ギヤグは今でも通用する、つてことはマンガつて「トキワ荘世代」で表現はもうやり盡くしちやつてるんぢやないか。
上記で批判されてゐる、朝日新聞の6/7號の「許して前を向く日本人」を讀んでみた。ぼくはいがらしみきおさんの「ぼのぼの」や「ネ暗トピア」が好きなので、どんなことを書いてるのか、見てみたかつたのである。
人を信じることが出来ないので、自分はどこから来てどこへ行くのか、この世界はいったいなんなのか、なぜ生まれてきたのか、そんなことばかりを考えてきたはずなのだ。
いがらしさんは、特定の宗教を信じてゐるわけではないが、上記のやうな素朴な信仰心は抱いてゐるやうだ。だがいがらしさんは人を信じることが出来ない
が、日本人はみんながみんな、まるで信仰のように人を信じてゐる
、日本人のみならずいがらしさん自身も許すことでしか前を向けないことに我々はもう気がついているのではないだろうか
と結んでゐる。
だが日本人は、「許して前を向く」ことができるのかどうかと、ぼくは思つた。「許して前を向く」のではなく、「前を向くことを許さない」のではないか。「許す」のではなく、「忘れる」「無かつたことにする」ことで、日本人は苦難を逃れてきた—乘り越えるのではなく—のではないか。
「原爆」に關して言へば、「忘れる」と言ふよりは「忘れさせられた」と言ふ面が大きいと思ふが、とまれ原爆を忘れ、原發を次々に建てて、過去の地震や津波、施設の構造的欠陥や老朽化を無かつたことにしたせいで、あれほどの災害を招いてしまつたのではなかつたか。
「忘れる」ことで「前を向く」わけでもない。「忘れた」「無かつたことにした」ことを蒸し返すことは許されない。蒸し返すこと—問題をあへて提起することは「前を向く」第一歩である。少なくとも原發では、樣々な問題が無かつたことにされ續けた。「前を向く」ことは許されなかつたのである。
これは原發に限つた話ではなくて、飛躍するが明治維新や大正デモクラシーの民主化運動を無かつたことにして、帝國憲法の時代は人權が抑圧されてゐたが、日本国憲法の成立によつて—自分たちで作つたわけでもないのに—日本は最早一端の民主主義國だと自讃してゐたり、假名遣ひの傳統を無かつたことにして現代仮名遣いを用ゐたりと、「無かつたことにした」ことで日本人は前進したと思ひ込んでゐるが、實は問題から目を逸らしてゐるだけなのである。
「忘れる」ことは「前を向く」のではなく「同じ失敗を繰り返す」第一歩に他ならない。苦難から顏を背け、逃げるのは「乘り越える」ことにはならない。苦しくても、「忘れる」べきではないのである。
最初「(日曜朝)8時だョ! 全員集合」にしようかと思つたが、8時は仮面ライダータイムだつた。
仮面ライダーの「MOVIE大戦」でかう云ふ“全員集合”は見慣れてたと思つてたけど、さすがに199人とメカロボ35體は壓巻だつた。伊達に35年を積み重ねてない。
ほんとに、どこを切つても“スーパー戦隊”。ゴーカイ對ゴセイの戦隊對決と共鬪を軸に、舊作フアンにも嬉しい過去の映像も織り込みながら大集合が描かれる。
スクリーンに心から應援を送りながら、こちらも元氣をもらへた。
今後のラーメンの記事は別ブログに書くことにしました。
近所のスーパーで賣つてて、後で食べようと思つて買つてきたら母親が食べてしまつた。
買ひなほしに行つたら、發賣中止になつてしまつたらしくもう見掛けない…
まあ、味は普通のコロネなんだらうけど。
本書に収録された全ての、あるいはほとんど全ての論文は、合理性と合理的な批判を擁護するために書かれた。批判的な議論に耳をかたむけ、自分自身の誤りを捜し出し、そしてそれから学ぶ用意を持つということは、ひとつの考え方であるだけでなく、ひとつの生き方でもある。それは基本的には、次の二行で、わたくしが(たぶん最初は一九三二年に)言い表そうとした態度である。
私が間違っているのであって、あなたが正しいのかもしれない。だから努力すれば、われわれは真理にもっと近づくことができるかもしれない。
ここに傍点を付して引用したこれらの二行は、一九四五年に拙著『開かれた社会』(第二巻、第二四章「理性に対する反乱」の原著最初から二ページ目〔邦訳、第二巻二○七〜二○八ページ〕)において初めて印刷された。傍点を付したのは、わたくしがこれらの二行を重要視していることを示すためであった。というのも、これら二行は、わたくしの道徳的信条のまさに核心的部分を要約する試みだったからである。わたくしは、ここに要約されている見解を「批判的合理主義」と呼んだ。
「フレームワーク」と言つても、最近ビジネス書で流行つてゐるやうな意味の言葉ではない。
なので、この本を讀んでも“ビジネス”の役には立たない。
「フレームワーク」という言葉でわたくしが意味しているのは、一群の基本的仮定もしくは根本原理、つまり知的なフレームワークのことである。この意味でのフレームワークを、真理を獲得したりそれに接近しようとする願望や、問題を共有したり、他の人の目的や問題を理解しようという意欲などのような、討論のための実際の前提条件ともいいうる態度と区別することが重要である。
この本で言ふ「フレームワーク」とは上記のやうな意味なのだが、普通議論は、同一のフレームワークを前提として行はれるものだが、ポパーはむしろ異なるフレームワーク間での議論こそが重要であると言ふ。
すなわち、多くの見解を共有している人びとの間の討論は、心地のよいものになるかもしれないとはいえ、実り多いものにはとてもなりそうになく、他方、非情に異なったフレームワーク間の討論は、時として非常に困難であり、おそらくとても快適とは言えない(われわれはこのような討論を楽しむことはできるが)かもしれないが、はなはだ実り多いものになりうる。
この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗などを目的としていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。われわれが物事を新しい光の下で見ることができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれば、それで十分、いや十二分なのである。
すぐに答へとなる合意が必要な、それこそビジネスにおけるやうな討論であればフレームワークの共有は前提となるだらうが、眞理を求めるための議論であればむしろ參加者の前提が各々違つてゐるはうがより深化した議論ができるし、また合意は必ずしも重要ですらない。
この本には書名にもなつてゐる「フレームワークの神話」をはじめとした論文や講演が收められてゐるが、上に引用した箇所もぼくとしては同意できるし、またほかで述べられてゐる“科學とはかうあるべき”といふ理想論も、ぼくは同意する。冒頭に引用した「批判的合理主義」—科學に適用されれば“反證主義”となる—はぼくにとつても理想的な考え方
だし、生き方
である。
人間にはなにが眞理であるかは分かる術はないが、“批判”と“理性”によつて眞理に近づく努力はなされるべきだし、事實西洋文明はさうして發展してきた。
あるいは「批判的合理主義」も眞理に近づく手段ではないのかもしれないが、少なくとも、合理的であると云ふことは、誰もが同じ筋道を辿れるのだし、またそれが本當に合理的であるのかどうか、どこかに欠落や矛盾はないのかを確認する—批判することでより合理性は高めることができる。「誰が—年齢も性別も知識の多寡にも關はらず—やつても同じ答えになる」ことは、誰にとつても有益である。
少なくともぼくは、なに、おまえは議論をしたいだと。議論などしない。撃つだけだ
と言ひ放つた若い国家社会主義党員
—實際、ネツトにはまるで同じやうなことを言ふ「アンチ」が多いのだが—にならないやうにしたい。
ローカル番組で、過疎化した集落に都會から若者を呼び込んで活性化させようと言ふ特集をやつてゐたのだが。
首尾よく移り住んだ若者が定着し、結婚して家庭を持ち、やがて子供も生まれて、大きくなる。さうして集落で生まれ育つた子供にしてみればしかし自分は“田舎者”でしかないわけで、「こんなさびれた村はいやだ」と、都會にあこがれだしたらどうなるんだらう。
親たちは自分の遺志で生活の場所を決めたのだから、子供もさうすると言ひ出したら、認めざるをえないのではないか。
さらにいへばそもそも都會から移住してきた若者だつて、その親や祖父母は田舎の出だつたりして。ある意味うまい具合に行つたり來たりしてゐるわけか。
元記事を書いたのは長谷川三千子氏で、氏は正かなを使ふことでも知られてゐて、今回もさうしてゐるのだが、内容の是非ではなくかなづかひにケチをつけてゐるコメントがある。
斜め上
だとか、中二病
だとか、本當に感情的な罵倒でしかないのだが。