因縁
(2011年8月 8日 23:46)
昔からN爺さんの言つてくることつて「何でさう言ふ讀み取り方をする?」「何で今そつちに話が行く?」つてことばかりだつた。
N爺さんに限らず、“アンチ”全般に當て嵌ることだけど。
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さうですか。すると、佐藤さんには Sucky さんの仰る事が違ふやうに取れるんですね。N爺の読み方が、どのやうに外してゐるのか、例を示して説明して頂けませんか、後学のために。
いや、誤讀してゐる事實があるのだから、N爺は理窟こねないで反省すればいいんだよ。
Suckyさん―神崎さんの反論を讀んでも分からないと言ふなら、ぼくが説明したところで、なほのこと分からないでせう。
> Suckyさん―神崎さんの反論を讀んでも分からないと言ふなら、ぼくが説明したところで、なほのこと分からないでせう
ふむ、佐藤さんも御自分の「理解」に自信がないんですね。
N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
N爺こそ吾々を説得できるほど物事を理解してゐない癖に。
いや、別に「説得」も「説教」もしてなくて、「質問」してるだけなんですけどね。それも野嵜さんにではなくて、佐藤さんに。
それにしても、野嵜さん、こんなところで過保護ママといふか粘着アンチしてないで、福田恆存読書会の続きをお願ひしますよ。楽しみにしてるんですから。
やあ、N爺。相変はらず元気さうで何より。いちゃもん附けて悦ぶ「性癖」は未だ「健在」の様子。あんたは自分が馬鹿である事に気附いてゐない。賢いと思い込んでゐるから他人の意見をそのまま受容れられないんだよ。
伝統宗教が失はれた現代に於いて、人は往々にして「自分」(我)を信じるやうになる。或は○○主義のようなイデオロギーを信じるやうになる。これも或種の宗教で、伝統宗教に代わる代用宗教。自称無神論者のN爺は、その信者。かう指摘してもN爺は何の事やら解からない。お前は馬鹿。
>ふむ、佐藤さんも御自分の「理解」に自信がないんですね。
まーた始まつた。だから「何でさう言ふ讀み取り方をする?」と言つてるんだよ。
N爺は
> Suckyさん―神崎さんの反論を讀んでも分からないと言ふなら、ぼくが説明したところで、なほのこと分からないでせう
>
>ふむ、佐藤さんも御自分の「理解」に自信がないんですね。
と書いた。
だから私は
>N爺こそ吾々を説得できるほど物事を理解してゐない癖に。
とつつこんだ。さうしたらN爺は
>いや、別に「説得」も「説教」もしてなくて、「質問」してるだけなんですけどね。
と逃げた。
で。
N爺は
>それも野嵜さんにではなくて、佐藤さんに。
と曰つた。
では。
>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
私はN爺に質問した。N爺は答へるのが筋だらう。
もちろんN爺は答へない。答へられないからだ。答へられないからこそ、話を逸らして逸らして逸らし捲つて逃げ續けてゐるわけだ。これならN爺は自分が絶對無謬のつもりでゐられ續ける。
結論。N爺は屑。
N爺は「私は佐藤さんに質問した」と言つてゐるが、野嵜に質問されても自分は答へない。
これは要するに、N爺の質問に佐藤さんも答へる必要は全くない、と云ふ事。
詰り、N爺の質問とやらは何の意味もないわけだ。
もつとも、N爺の言葉に意味があつたためしがなく、N爺のブログのいちやもんにもそれ自體としての意味はない。N爺はただ、攻撃目標の人間に惡いイメージが附くやう、嫌な言葉を一方的に浴びせかけて見せて、周圍にアピールしてゐるだけ。攻撃目標の人間と對話する意志は全くない。
だからN爺は粘着アンチと云ふわけだ。大變に惡質。
ウェブでは一般に、粘着アンチは嫌はれてゐる。そして、嫌はれてゐる事にアンチ自身は氣附かないし氣附けない。自分は無謬で正義だと心から信じ切つてゐるからだ。
N爺は左翼だから、右翼つぽい事を言つてゐる吾々の事を輕蔑して、侮辱して喜ぶだけの爲に粘着してゐる。だから尤もらしい理窟のやうな言葉を適當に書き散らして、論爭つぽい雰圍氣に仕立て上げてゐるだけ。
ただ、N爺にとつて殘念な事に、吾々は右翼ではない事實があるから、N爺のやつた事は典型的な左翼の勘違ひでしかない。左翼のN爺は、吾々を右翼と極め附けて、「自分にとつて都合の良いアホウヨ」をでつち上げて、それを攻撃してゐるに過ぎない。N爺は自分の妄想に醉つてゐるわけだ。そして醉拂ひだから自分の妄想と現實の人間とを區別できなくて、いつまでもいつまでも吾々に絡み續けてゐる。絡まれた側は迷惑なだけ。醉拂ひに絡まれる事くらゐ迷惑な話はない。
左翼の勘違ひ行爲は永年、ウェブで不毛な言爭ひを惹起してきた。目をさましていただきたいものである。
おや、塗炭さん、お久し振り。
> やあ、N爺。相変はらず元気さうで何より。いちゃもん附けて悦ぶ「性
> 癖」は未だ「健在」の様子。あんたは自分が馬鹿である事に気附いて
> ゐない。賢いと思い込んでゐるから他人の意見をそのまま受容れられ
> ないんだよ。
確かに N爺は他人の意見をそのままは受け容れられませんが、しかしそれは普通
の判断力を持った大人なら、皆さんさうなのでは?塗炭さんは、他人の意見をそ
のまま受け容れられる人なんですか?(まあ、「左翼の方に矯正してもらふ右翼」
ですから、さもありなん、ですが。)
> 伝統宗教が失はれた現代に於いて、人は往々にして「自分」(我)を
> 信じるやうになる。或は○○主義のようなイデオロギーを信じるやう
> になる。これも或種の宗教で、伝統宗教に代わる代用宗教。自称無神
> 論者のN爺は、その信者。かう指摘してもN爺は何の事やら解からない。
> お前は馬鹿。
ええ、何の事だかさっぱり。「伝統宗教が失はれた」ってのが既に結構「眉唾」
ですが、ともあれ、個人主義も無神論もはたまた様々なイデオロギーも「代用宗
教」だと「解る」人はさぞかし「賢い」のでせう。(そんな風に味噌もクソも一
緒くたにして、その後どう議論が展開されるのやら……)
ところで、「事の起り」は「宗教の勧誘」でしたよね。佐藤さんは勧誘されてヘ
タレてしまったのですが、在家仏教徒を自称する塗炭さんなら、どう対応された
と思ひますか?むしろ塗炭さんは勧誘する側で「俺ならかうする」といふ御意見
になるかも知れませんが。
N 爺>ふむ、佐藤さんも御自分の「理解」に自信がないんですね。
佐藤> まーた始まつた。だから「何でさう言ふ讀み取り方をする?」と
佐藤> 言つてるんだよ。
ええ、ですから、御自分がどういふ積りで書いて、爺がそれをどんな風に読み取っ
てゐから間違ひ、と言って頂ければよく解ると思ふのですが。
野嵜さん、
粘着野郎はスルーするのが一番なんだが、これは少々まともに書かうとしてゐる
やうなので、ちょっと「絡」んでおかうかな……酔払った事でもあるし。
野> ただ、N爺にとつて殘念な事に、吾々は右翼ではない事實があるから、
野> N爺のやつた事は典型的な左翼の勘違ひでしかない。左翼のN爺は、吾々
野> を右翼と極め附けて、「自分にとつて都合の良いアホウヨ」をでつち
野> 上げて、それを攻撃してゐるに過ぎない。N爺は自分の妄想に醉つてゐ
野> るわけだ。そして醉拂ひだから自分の妄想と現實の人間とを區別でき
野> なくて、いつまでもいつまでも吾々に絡み續けてゐる。絡まれた側は
野> 迷惑なだけ。醉拂ひに絡まれる事くらゐ迷惑な話はない。
「吾々」が誰の事かよく解りませんが、少くとも野嵜さんについて「右翼ではな
い事實」って何の事でせうかねぇ。「国民主権」より「君主主権」、それも「神
聖不可侵」の帝國憲法下の絶対主義天皇制に戻るべし、と思ってをり、侵略戦争
全面肯定で、テロ容認、クーデター礼賛・奨励。これはどうみても、右翼も右翼、
筋金入りの「極右」といふしかないでせう。
ただ、「対米追随主義」あたりが、少々不徹底のやうにも思へますが、世の中に
は「親米右翼」といふやうな言葉もあるので、然程の「右翼認定」の阻害要因に
はならいでせう。でも、フランス革命肯定とか西欧礼賛の方は少々難しい……と
は言へ、もともと然程一貫してゐる訣でもないから、まあ良いか。
やあ、N爺。元気さうで何より。
一つ訊きたいのだけれど、あんたは「日本國憲法」または「戦後民主主義」を信じてゐるんぢやないの? 俺は何も信じてゐない、なんて言はないやうに。若しさうなら、福田さんなどの當用憲法論に反対する必然が無い。そのまま受け容れて、さういふ考へ方もアリ、ぐらいにして措いたら良い。
さうではない、俺が信じてゐる事が絶対に正しい、と言ひたいのかい? さうだらう。その為に相手の主張を自分の都合の良いように曲げて見せる。何処を何う読めばさうなるんだ? という「俺様解釈」を羅列して相手の主張を間違ひであるかのやうに見せ掛ける。
あんたは「自分が大事」で、自分を守る為に相手の主張を相対化して見せてゐる。かう指摘してもN爺は何の事やら解からない。俺はあんたに質問してゐるだけだと嘯く。阿呆だろ、お前。
>在家仏教徒を自称する塗炭さんなら、どう対応されたと思ひますか?
無神論者を自称するN爺さんなら、何う対応されたと思ひますか?
あんたの「質問攻め」には厭き厭きする。兎も角、あんたは自分を超へた絶対の存在(神佛)を信じてもゐないし、そんな存在を認めもしないのだらうよ。だつたら「宗教の勧誘」なんぞ蹴飛ばすか無視すれば御終い。簡単な事だ。
佐藤さんは無神論者ではない。何処かで神佛を信じやうとしてゐるし、その存在を否定し切れてゐない。佛壇には手を合はせる。だからこそ巧妙な「宗教の勧誘」に引つ掛かつて仕舞ふ。N爺のやうな無神論者よりは遥かに人間的だと思ふけどね。
ちなみに私は在家佛教者(臨済宗檀家信徒)だけれど、生まれた時からさうなのであつて、「宗教の勧誘」に依つて在家佛教者になつたのではない。巧妙な「宗教の勧誘」をするのは例外ナシに新興宗教で、彼らは教団の勢力維持拡大の為に、或は、N爺のやうな自称 無神論者を取り込む為に「宗教の勧誘」をしてゐるやうだ。尤も新興ゆゑに避けられない一面もある。
いづれにしても、私なら臨済宗信徒である事を理由に断る。
頭のをかしいN爺へ。附け足し。
「宗教の勧誘」(布教活動)それ自体は悪い事ではない。一つの正義だ。例へば「正しい HTML の勧誘」は W3C 辺りが中心になつて行つてゐた。いはゆる W3C 信者が布教活動をしてゐた時期がある。形式的とは言へそれが正しい事ならば、その布教活動は認められるべき。
ところが宗教の勧誘では仮に言つてゐる事が正しくても頭から「宗教は否定すべき」と排斥する人がほとんど。要は嫌悪感が先にあつて宗教と言つただけでアウト。N爺のやうに神の存在など非科学的であるとか、その存在を論理的に証明できないとかの「論理」を言ふ。
私は新興宗教を擁護してゐるのではない。真当で相対的にせよ正しい事を言つてゐるなら布教活動は正義たり得る。
ところで私たちの御先祖は自然な感覚として神佛を信仰して来た。私はそれをそのまま受け容れてゐるに過ぎない。神佛など存在しないと主張したいのなら、その立証責任は、N爺さんよ、あんたにある。何度も言つてゐるだらう。ニーチェでも何でも良いから真当な主張をしろと。
N爺へ。
君は自分が何年も執拗に粘着してゐるから粘着である事實と、私がブログのコメント欄で君につつこんでゐる事實とを、同じやうに「粘着」と呼んでゐる。しかし、記號としての語を同じにしたからと言つて、内容が同じになるわけではない。
君のしてゐる事は惡質な粘着行爲。そして私がしてゐる事は全くの常識的な行動。それを同じやうに「粘着」と「言へば同じになる」と、君は心から信じてゐるわけだ。無知。
君は何でもかんでも用語・形式に拘はり、實質・内容には無頓着だ。君の「右翼批判」も全部その傳で、まるで皮相的だ。
「君主主権」「天皇制」のやうな形式にのみ君は注目し、福田恆存が實質的な民主制でよろしいと言つた事を非難した。今も、君は私が「絶対主義天皇制に戻るべし」と「思って」ゐると言つてゐる。だが、福田恆存が「當用憲法論」で述べてゐるやうに、私も大日本帝國憲法に復歸したら即座に民主的な内容に改正する事を主張する。ところが君は「民主的な内容」と云ふものが理解出來ないし認識する事すらも出來ない。
左翼のアジテーターであるところのN爺くん。君は自分の左翼の信仰を疑ふ能力を缺いてゐる。
それは結局、左翼の主義・思想が支配したソ聯や中国が失敗した事實、君主なき共産主義國でポル・ポトやスターリンの悲劇が起きた事實を、君が受容れられず、反動として意固地になつたが故の、思想的硬直だと思ふね。
「君主制は惡」と君は抽象的に主張するが、君主なき朝鮮民主主義人民「共和国」を君は全面支持するんだらうね。君主さへ無ければ、君によればその國はこの世の王道楽土であるらしいから。今の時代、左翼の主義を心から信じられるなんて、そんなのマインドコントロールの結果に過ぎないよ。
今、侵掠戰爭を起すのは右翼の國家かね。テロを起すのは右翼の國家かね。クーデタを起すのは右翼の國家かね。右翼も左翼も關係ない。事實を見玉へよ。
私は事實に基づいて話をしてゐるだけだ。福田さんは、假説を喋つたかも知れないが、半世紀を經て、今に至るまで、その假説は事實によつて否定されてはゐない。君の假説こそ事實によつて否定されてゐるんだよ、N爺くん。
一時期左に寄り過ぎた常識が、既に正しく右側にスライドしつつある。私の考へ方は、せいぜいその、未だに左側に中心がある社會の常識よりはやや右寄りの、しかし世界的に見ればせいぜい中道的なものだ。本當の右翼の思想なんてものには、私のやうな民主的な主張なんて、左に寄り過ぎてゐて、とても認められたものではない筈だよ。
單に左翼のN爺には、自分より少しでも右側にゐれば全部極右に見えてしまふ、と云ふだけに過ぎない。その物の見方では、汎く世間の人間を納得させる事は出來まい。
それから、左翼のアジテーターであるところのN爺くん。君は本當にアジテーターに過ぎないんだね。
私は斯う書いた。
>>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
>私はN爺に質問した。N爺は答へるのが筋だらう。
君はこの指摘に反論出來なかつたね。否、反論しなかつたね。君にとつては不都合な指摘だつたからだ。
君は、自分にとつて不都合な指摘は、悉く無視するね。そして、自分の思ひ込みを一方的に捲し立てて、相手を威壓するね。醉拂ひと言つたが、典型的な自己陶醉型の政治活動家だよ。
君はしかし、自分の意志で左翼になつたわけではあるまい。その點は可哀想だと思ふ。君はマインドコントロールされてゐるだけだ。それはとてもよく判る。
佐藤さんが宗教の勸誘に釣られなかつたのを、N爺くんは「勧誘されてヘタレてしまった」と言つてゐる。これは、勸誘に乘つて「行つてしまつた」N爺くん自身を對照的に褒め上げるのが目的だらう。N爺くんは、左翼と云ふ「宗教」に、勸誘され、それに乘つて行つてしまひ、見事に洗腦されて、歸つてきたわけだ。
佐藤さんがさうならなくて良かつたと思ふ。
塗炭さん、
> 一つ訊きたいのだけれど、あんたは「日本國憲法」または「戦後民主
> 主義」を信じてゐるんぢやないの? 俺は何も信じてゐない、なんて言
> はないやうに。若しさうなら、福田さんなどの當用憲法論に反対する
> 必然が無い。そのまま受け容れて、さういふ考へ方もアリ、ぐらいに
> して措いたら良い。
ええ、(今更聞かれるのは少々がっかりしますが)日本国憲法の基本的人権の尊重、
国民主権、平和主義は良いものだと信じてゐますよ。また、それに基く「戦後民
主主義」も概ね正しかったと思ってゐます。だから、「當用憲法論」には全く賛
成できない。「さういふ考へ方はナシ」だと思ってゐる。
> さうではない、俺が信じてゐる事が絶対に正しい、と言ひたいのかい?
> さうだらう。その為に相手の主張を自分の都合の良いように曲げて見
> せる。何処を何う読めばさうなるんだ? という「俺様解釈」を羅列し
> て相手の主張を間違ひであるかのやうに見せ掛ける。
さうですねぇ、「絶対に」かどうかはともかく、意見を開陳するからには、それ
を正しいと思ってゐる事が多いですね。で、同様に確信をもって反対意見を批判
してゐます。
で、その中にもし「俺様解釈」が有るといふなら、一度それらを指摘して頂けま
せんか。
> あんたは「自分が大事」で、自分を守る為に相手の主張を相対化して
> 見せてゐる。かう指摘してもN爺は何の事やら解からない。俺はあんた
> に質問してゐるだけだと嘯く。阿呆だろ、お前。
あっはっは、何が悲しゅうて塗炭さんに対して自分を守る必要があるんですか?
仰る事があまりにも没論理で現実離れしていて、同情を感じる事はあれ、脅威を
感じた事は一度もありません。だから、確かに何の事やら解りません。すみませ
んね。「阿呆」にも解るように、具体的な「相対化」の例をお願ひします。(い
つものやうに塗炭さん「相対化」をよく解ってなかった、といふオチにならない
か心配。)
> ちなみに私は在家佛教者(臨済宗檀家信徒)だけれど、生まれた時か
> らさうなのであつて、「宗教の勧誘」に依つて在家佛教者になつたの
> ではない。巧妙な「宗教の勧誘」をするのは例外ナシに新興宗教で、
> 彼らは教団の勢力維持拡大の為に、或は、N爺のやうな自称 無神論者
> を取り込む為に「宗教の勧誘」をしてゐるやうだ。尤も新興ゆゑに避
> けられない一面もある。
へぇ、生まれた時から臨済宗の信徒ねぇ。それでは自覚的に選び取ったのではな
くて、ご生家が臨済宗の檀家だったといふ事ですか。(禅宗のお寺さんも檀家を
持つとは知らなかった。)しかし、それを「在家仏教者」と言ひますかねぇ。日々
悟りを目指して座禅を組んでゐる訣でも無ささうだし。そもそも、「伝統宗教は
失なはれた」とか「キリスト教他一神教の神々を始め、八百万の神を信じる」な
んてトンデモが只管打坐や「公案」の中から出てきたのですか?
野嵜さん、
> 君は自分が何年も執拗に粘着してゐるから粘着である事實と、私がブ
> ログのコメント欄で君につつこんでゐる事實とを、同じやうに「粘着」
> と呼んでゐる。しかし、記號としての語を同じにしたからと言つて、
> 内容が同じになるわけではない。
とんでもない、同じだなんて言ってませんよ。爺のは正当なコメント・批判で、
野嵜さんのが粘着だと言ってゐる。爺の「粘着」といふ「記号」の定義は、他所
様のブログで、
1) やたら分量が多い(故意に?)
2) 全く関係のない話を持ち出す
3) ブログ所有者の意向を無視する
4)ダブハンをやる、他人のハンドルを詐称する
5)罵詈雑言・レッテル張りを繰返す
ですが、野嵜さんの「記事」はいつもどれかが当て嵌ります。しかも複数。まさ
に「時代の斜め後」での野嵜さんは粘着アンチそのものですな。
他の論点について話しはじめると、2) の「共犯」になりさうなので、野嵜さん
の「読書会」なり爺のブログでまったりやりませう。
そらそら始まつたぞ、N爺さんの「俺樣解釋」と「お説教」。
>1) やたら分量が多い(故意に?)
>2) 全く関係のない話を持ち出す
>3) ブログ所有者の意向を無視する
>4)ダブハンをやる、他人のハンドルを詐称する
>5)罵詈雑言・レッテル張りを繰返す
4)以外、全部N爺さんに當て嵌まりますね。N爺さんは粘着。
野嵜さんは4)をやつてはゐるが、惡質なものではないので問題は無い。
野嵜さん、塗炭さんがやつてゐるのは1)~5)には全く當て嵌まらない、正當な批判。
「ブログ所有者の意向」ですので、無視しないやうに。
>「さういふ考へ方はナシ」だと思ってゐる。
N爺さんは相手の話をただただ否定したいだけなんですね。
「さういふ考へ方はナシ」だと頭から否定し、嘲笑する。その方がよつぽど「ナシ」だ。相手の意見を尊重できない人間が「我こそは“民主主義者”なり」と大威張り。失笑を禁じえない。
ぼくは「現行憲法有効論」自體は「アリ」だと思います。ただ「納得できない」だけです。特にN爺さんの主張は。
あと“ブログ所有者”として言つておくと、N爺さんのコメントに答へる義務はぼくにはありません。
たとひN爺さんが「佐藤さんに向けた」つもりだとしても、ぼくが答へず、野嵜さん、塗炭さんに“横槍を入れられる”ことも承知の上でコメントして戴きたい。それがN爺さんの意嚮に沿はないとしても、N爺さんが文句を言ふことはできない。
>塗炭さん
最初から“勸誘”だつて分かつてゐれば行かなかつたですね。
今になつてみれば“毛嫌ひ”せず、もう一寸話を聞いてみてもよかつたかな、と言ふ氣もしますが、“運”とか“宿命”とか言ふ話を一方的にされた時點で、ややうんざりしかけてたんですね。全く興味を持てない話だつたんで、もう適當に相槌を打つてゐたんですが、うんざりしてゐたところに「○○宗」と言はれてもうそれが癇に障つてしまひ、席を立つてしまつたのです。
“教義”の話をストレートにされてゐたはうが却つて興味を持てたかもしれない。
“運”とか“宿命”とかつて言ふのは、“縁”や“業”を今風に言ひ換へた“方便”だつたのかもしれませんが、少なくとも佛教で“運”が重要な教義だとは思へない。
つふか、N爺さんはお友達とプログラムの話でもしててくれてればいいのに。
そのはうがよつぽど建設的だし、世の中のためになる。
やあ、N爺。元気さうで何より。また何処かで会はう。最うあんたの投稿は読んでゐない。
佐藤さんへ。
巧妙な宗教の勧誘に引つ掛からなくて良かつたです。尤も、よく考えてみると善良な人ほど巧妙な宗教の勧誘に引つ掛かり易い。さういふ戦術を使つてゐるからです。例へば商業デザイナ(ウェブデザイナなど)は始めに「商売でっせ」とは言はない。購買意欲を喚起する巧妙な戦術を使ふ訣で、あれも「宗教の勧誘」の一種。彼らは「利益の誘導」などと言つてゐるやうです。善良な消費者ほど引つ掛かる。
善良な人を引つ掛けるのは良くない。当たり前。私は宗教の「布教」も批判するし、ウェブデザイナのやり方も批判する。
佐藤さんへ。
運命や宿命は生き方を考へる上では避けては通れません。例へば佐藤さんは何故日本人なのですかと訊かれた時に、それが宿命だから、と答へるのが一番的を射てゐる。人間は生まれる国を選べないし、親も選べない。性別も美醜も選べない。自分の力では何うにもならない事がある訣で、これを大雑把に運命とか宿命と言ふ。ひとことで言ふと、人間は決して「平等」には生まれて来ないし、「平等」には生きられない。運命や宿命はそのまま受け容れるしかありません。
受け容れた上で何う生きるかを宗教で扱う。宗教に限らず哲学でも文学でも根本は同じ。
あと佛教の教義云々の能書きばかり垂れてゐる奴は怪しいと思つて良いです。かつての HTML 原理主義者が要素型定義云々の能書きを垂れてゐたけれど、伝えたい情報の本質は文章そのものが正しいとすると、そんな能書きは全部吹つ飛ぶ。もちろん教義も大事ではあるけれど、往々にして教条主義に陥る。これが駄目なんですね。
佛教は私たちの日常に生きてゐなければならない。佛教に限らず哲学でも文学でも根本は同じ。
>ええ、(今更聞かれるのは少々がっかりしますが)日本国憲法の基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は良いものだと信じてゐますよ。また、それに基く「戦後民主主義」も概ね正しかったと思ってゐます。
>さうですねぇ、「絶対に」かどうかはともかく、意見を開陳するからには、それを正しいと思ってゐる事が多いですね。で、同様に確信をもって反対意見を批判してゐます。
結局N爺さんつてのは「民主主義“信者”」でしか無いんだな。しかも、かなり歪んだ。
N爺さんの“民主主義”は、それを振りかざせば異なる意見の持ち主を排斥して構はないと云ふ“反民主主義”、フアシズムでしかないのだが、N爺さんは「我こそは“民主主義者”なり!」と信じて疑はない。
自分の“正しさ”は絶對であり、それに反する主張は否定するだけ。「なぜそれが正しいのか」を考慮する必要など無い。なぜなら自分が“正しい”と信じてゐるから。
最も“民主主義”からは遠い人物である。
つふか、N爺さんは正に「前を向くことを許さない日本人」だな。
「良いもの」なのだから、今さら日本國憲法の“成立過程”だの、“正當性”だのをどうかう言ふ必要は無い。「無かつたこと」にすればよい、いやむしろ多少の問題には目を瞑つて徹底的に正當化すべきだ、と考へる。
「日本國憲法のおかげで日本は一端の民主國家になつたのだから、今さらそれに疑義を差し挾むやうな人間は民主主義の敵だから、主張だけでなく存在まで否定すべきだ」と言ふのがN爺さんにとつての“現行憲法有效論”だし、“民主主義”である。
「當用憲法論」は「日本國憲法は本當に“正しい”のか?」「日本は本當に日本國憲法のおかげで“民主國家”になつたと言へるのか?」と言ふ、現行憲法への“疑義”に他ならないが、このやうに“現狀”に異論を唱へることができることこそぼくにとつての“民主主義”である。
塗炭さんへ
あまり“巧妙”とも言へませんでした。かなり底が淺かつた。こつちが全然興味ない話をされて、その後に本題を出されても聞く氣がしない。
宗教の勧誘と言ふのは、うかうかと引つ掛かり気が附いたら信じてゐた、と言ふものではなく、徹底的に押し賣り、相手が根負けするのを待ち、まずは引き摺り込んで“洗腦”はもつと後で行はれるらしい。
まあ「食事に行かう」と思つた時点で「引つ掛かつてる」のかもしれませんが。
一般論ではありますが「宗教の勧誘」や「利益の誘導」に惑はされないやう、“知識”を身に附けることは必要だと思ひます。
ただぼくはどちらかと言ふと“知識”としての“教義”や、社會學としての“信仰”に興味があり、宗教について考へやうとするとそちらに傾きがちなので、“神佛”の存在を否定するものではありませんが、あまり“頭でつかち”にはならないやうにしたいと思ひます。
>ええ、(今更聞かれるのは少々がっかりしますが)日本国憲法の基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は良いものだと信じてゐますよ。また、それに基く「戦後民主主義」も概ね正しかったと思ってゐます。だから、「當用憲法論」には全く賛成できない。「さういふ考へ方はナシ」だと思ってゐる。
私も福田恆存氏も、大日本帝國憲法に戻したら即座に「正當な形式で改正を行ふ」事を主張してゐるのだし、その際には「日本國憲法」の體制下で實現してゐる現在の日本の社會を損ねない程度の内容にすべき事を言つてゐます。
單純に「正しくない形で改正された」のを「正しい形で改正される」やうにせよと吾々は言つてゐるだけです。
ところが、吾々が言つてゐない事をN爺くんは「これが彼らの真の目的である」と極附け、吾々が「絶対主義天皇制」を主張してゐると妄想を喚き散らしてゐる。「罵詈雑言・レッテル張りを繰返す」のは粘着アンチの證據だとは、N爺くん自身が述べた事。よつてN爺くんは粘着アンチであると、自分で認めた事になりますね。
N爺くん、反論ありますか。勿論、粘着アンチのN爺くんは、反論なんてしやしないで、關係ない話をえんえん垂れ流して、いい氣になるんでせうね。今までずつとさうだつた。
ところでN爺くん。
>>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
>私はN爺に質問した。N爺は答へるのが筋だらう。
きみは相變らず「全く関係のない話を持ち出」して逃囘るのが好きだね。ずばり答へたら良いではないか。
N爺くん、自分で自分が粘着アンチである事を重ね重ね強調して呉れなくても良いのだよ。ただ、吾々とまともに話をして呉れさへすれば、それでいいんだ。
きみの五條にも亙る、もつともらしい「粘着アンチの條件」、馬鹿馬鹿しいね、分析にも何にもなつてゐない、ただ、きみが「攻撃しやすいだらう」と思つた事を適當に並べ立てただけだらう、見え透いてゐるんだよ。
粘着アンチの條件、それはただ一つ、「相手と對話する氣がない」、これだ。きみは完全にこの條件に當嵌る。
N爺くん、きみは完全に粘着アンチだ。ここにゐる人間が全員、さう見てゐる。きみ一人が吠え捲つてゐるに過ぎないんだよ。
個人的には
4)
もN爺くんには當嵌まるだらうと思つてゐる。
N爺くんが、あちこちでばれないやうにいろいろやつて、ここではとぼけてゐる、と云ふ可能性は、ゼロではない。
それに、N爺くんは、左翼の工作員だ。自分で自分は左翼であると言つて、自分の氣に食はない人間に「右翼」なるレッテル貼りをして、嘘を宣傳し捲つてゐる。N爺くんは、左翼の主義主張を通すと云ふ大義名分のもと、嘘を吐いて敵を潰す事を正義だと心から信じてゐる。
だから當然、N爺くんが嘘を吐いてあちこちで僞名で宣傳し捲つてゐる事は、豫想して良い。何しろ、N爺くんは、嘘吐きなのだから。左翼の工作員が嘘吐きでないわけがない。
fankee_jrは粘着アンチ對策委員長だから仕方が無い。fankee_jrのやうなハンドルで應對されるやうになつたら、それはされた側が惡いので、俺は惡くない。わらひ。
あと、N爺くんは、結局、現憲法を全體としては認められないわけだ。
>ええ、(今更聞かれるのは少々がっかりしますが)日本国憲法の基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は良いものだと信じてゐますよ。また、それに基く「戦後民主主義」も概ね正しかったと思ってゐます。
「戦後民主主義」とは、第一條に以下の規定のある憲法の下における體制だ。
>第一條 天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
N爺くんが現憲法を全肯定するならば、當然、N爺くんは日本國民統合の象徴たる天皇を肯定しなければならない。ところがN爺くんによれば、「戦後民主主義」はせいぜい「概ね正しい」と云ふ程度のものであり、N爺くんは「基本的人権の尊重、国民主権、平和主義」だけを認めるのであり、天皇の存在を全く認めないと言ふのだ。
N爺くんも「護憲派」であるわけだが、その實、憲法に規定された天皇の存在を認められない。「が、それでは言葉の眞の意味における護憲にはなりません」。福田さんの言つた通りだ。
と言ふか、
>いや、誤讀してゐる事實があるのだから、N爺は理窟こねないで反省すればいいんだよ。
私のこの指摘にN爺くんが全く答へてゐない時點で、N爺くんが粘着アンチである事は最う明かだ。
この質問に答へないで餘計な話を何時までも何時までもしてゐる――これがN爺くんの粘着アンチである決定的證據。
なあ、私も人がいいから、わざわざ
>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
と、わざわざそんな事をする必要もないのに、N爺くん御所望の質問の形式に改めたのだよ。誠意を見せて呉れて良いのでないかね。
>1) やたら分量が多い(故意に?)
>2) 全く関係のない話を持ち出す
>3) ブログ所有者の意向を無視する
>4)ダブハンをやる、他人のハンドルを詐称する
>5)罵詈雑言・レッテル張りを繰返す
私はたつた一つ、この質問をしてゐるに過ぎない。
>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
それに對して、N爺くんは(1)一言も答へず、(2)別の野嵜の發言に食ひ附き、(3)佐藤さんからはつきり「N爺さんはお友達とプログラムの話でもしててくれてればいいのに」と言はれてをり、(5)福田さんも私も否と言つてゐるにもかかはらず「絶対主義天皇制に戻るべし、と思って」ゐると極附けてゐる。
最初の私の質問、
>N爺は誤讀しておいて何で威張つて説教してゐられるんだらう。
これにN爺くんが答へてゐれば良かつたのだよ。それ以外のすべてのN爺くんの發言は、N爺くんが「爺は粘着アンチですよー粘着アンチですよーGAHAHAHAHA」と自分で自分の耻を晒し續けてゐる事をしか意味しない。
もしN爺くんが耻と云ふものを知つてゐるのなら――ああ、なるほど、N爺くんは耻を知らないから、自分が誤讀しても耻ぢる事無く、他人樣に對して偉さうな態度をとり續ける事が出來るわけだ。
N爺くんは耻を知らない人間である事が證明された。反論ありますか。ないですね。N爺くんのやうな耻知らずの人間に、物を言ふ資格、他人樣に説教する資格は、ありませんよ。
あー、長いと「長い」と云ふ事を「惡い」と極附けてN爺くんは非難の根據に持出しますからね。
ところが「長いのは何う云ふ理由で惡いか」をN爺くんは絶對に説明しませんよ。説明できませんから。ええ、「なぜ長いのは惡いのか」、N爺くん、説明出來るものならして御覽なさい。出來ないでせう。そりや出來るわけない。理由なんて何も無いんです。
ところがN爺くんは「惡い」と言ふ。
これは、N爺くんが、自分が他人を攻撃するのに都合が良い理由なら何であれ採用する御都合主義者である事實を示唆してゐます。
「爺の「粘着」といふ「記号」の定義」とやら、これ、單なるレッテル貼りに過ぎないわけです。ところが、レッテル貼りは、「爺の「粘着」といふ「記号」の定義」それ自身によつて粘着行爲である事になる。自家撞着と云ふ奴です。N爺くんはこれに氣附いてゐない――いや、氣附いてゐないとしたら、餘程のバカです。バカでないなら惡意。惡意の方がまだ増しですが、案外N爺くんの事だから、單なるバカだから氣附いてゐないだけかも知れません。どつちにしても、吾々の指摘を、N爺くんは理解しない/理解出來ないわけで、結果としては同じです。まあ、N爺くんはろくでもない、此の事は明かですね。
おまけ。御質問の件に関しまして回答申し上げます。(棒読み)
>ご生家が臨済宗の檀家だったといふ事ですか。
私は「檀家信徒」と書いた。生家が何であれ信徒である事には変はりない。といふか当該投稿の最後で「臨済宗信徒」と書いてゐるだらう。読めないのか? 否、自分に都合の悪い処は態と読まない。N爺さんよ、あんた重箱の隅を衝附いて相手の主張全部を間違ひに見せ掛けるテクニックだけは大した物だ。
それから私は「在家佛教者」と書いてゐる。在家と出家は厳然と区別される。『禅宗信徒日課要集』に在家のお勤めが書いてあるから読むやうに。N爺はウエブのリソースから摘んで来た知識を適当に披露して勝つた積りになってゐる。
>そもそも、「伝統宗教は失なはれた」とか「キリスト教他一神教の神々を始め、八百万の神を信じる」な
んてトンデモが只管打坐や「公案」の中から出てきたのですか?
「打坐」とか「公案」とかの佛教用語を良く知つてゐるねえ。あんたはえらい。知識豊富なのは認めるけれど、人間が腐つてゐるから何うしやうもない。
神佛などの自分を超えた絶対の存在と何度も書いてゐるのに、その神佛にはいろいろ「種類」があると屁理屈を言ふ。あのなあ、人間は自分(自我)を絶対化して仕舞う誤りに陥り易い。自称無神論者のN爺が、さう。それでは駄目なんぢやないのと言つてゐる。それだけの事だ。
塗炭さん、
N爺> ご生家が臨済宗の檀家だったといふ事ですか。
> 私は「檀家信徒」と書いた。生家が何であれ信徒である事には変はり
> ない。といふか当該投稿の最後で「臨済宗信徒」と書いてゐるだらう。
> 読めないのか? 否、自分に都合の悪い処は態と読まない。N爺さんよ、
> あんた重箱の隅を衝附いて相手の主張全部を間違ひに見せ掛けるテク
> ニックだけは大した物だ。
いや、テクニックも何も、「生れながらの信徒」がどう言ふ意味なのか知りたかっ
ただけです。
> それから私は「在家佛教者」と書いてゐる。在家と出家は厳然と区別
> される。『禅宗信徒日課要集』に在家のお勤めが書いてあるから読む
> やうに。N爺はウエブのリソースから摘んで来た知識を適当に披露して
> 勝つた積りになってゐる。
いえ、在家と出家が違ふのはよく分ってをります。また、在家と檀家信徒が必ず
しも同じではない事も。で、結局、檀家信徒の家に産まれ、今は在家のお勤めを
果してゐる、といふ事でせうか。
> 神佛などの自分を超えた絶対の存在と何度も書いてゐるのに、その神
> 佛にはいろいろ「種類」があると屁理屈を言ふ。あのなあ、人間は自
> 分(自我)を絶対化して仕舞う誤りに陥り易い。自称無神論者のN爺が、
> さう。それでは駄目なんぢやないのと言つてゐる。それだけの事だ。
人に「超越者」に額頭きたい、もしくは跪きたい、といふ本能が有る事は認めま
すし、それを悪い事とは思ひませんが、塗炭さんの場合は、仏教のしかも禅宗の
信徒なので、そのような素朴な感情に依拠するだけで良いのかな、と思っただけ
です。
知りたかつただけです、か。嗤ひ。N爺くんは、知つて、何をしたいんでせうね。背後に惡質な意圖を感じますね。
どうやら、N爺くんは、他人を尊敬する事は有害である、と言ひたいらしいですねえ。そして、N爺くん自身は他人を一切尊敬しない、それは大變有益である、と言ひたいらしいですねえ。
しかし、それは、N爺くんが、N爺くん自身がこの世で一番偉い人間である、絶對無謬の完全無缺の人間である、と思ひ込んでゐる事を示唆してゐるんですね。けれども、自分が一番偉い、と言ふのは、明かに、傲慢ですね。N爺くんは、傲慢ですね。傲慢である事は誰が何う見ても惡い事です。N爺くんが惡人である事は最早、疑ふ餘地もありません。
反論ありますか。ないでせう。だからN爺くんは惡人で、粘着アンチである事は明かです。
N爺くんは、自分はこの世で一番偉い、自分は絶對無謬である、と信じてゐるわけです。
ところが、そんなN爺くんが、野嵜らを「信者だから絶對誤を認めない」などと非難するのです。「誤を認めない」なんて、N爺くん自身の事を言つてゐるのではないですか。
このやうに、N爺くんは、自分以外の人間――就中、敵と看做した人間の發言については全て不都合になるやうに解釋し、自分自身の發言については全て好都合になるやうに解釋します。N爺くんは最低最惡の御都合主義人間であるわけです。
反論ありますか。ないでせう。N爺くんは私の指摘に反論しません。反論できないからです。私の豫言は必ず當たる。
佐藤さん、
> あと“ブログ所有者”として言つておくと、N爺さんのコメントに答へ
> る義務はぼくにはありません。
勿論ですとも。
> たとひN爺さんが「佐藤さんに向けた」つもりだとしても、ぼくが答へ
> ず、野嵜さん、塗炭さんに“横槍を入れられる”ことも承知の上でコ
> メントして戴きたい。それがN爺さんの意嚮に沿はないとしても、N爺
> さんが文句を言ふことはできない。
それも至極当然ですね、N爺に文句を言ふ権限はありません。ただ、ともすれば、
それらの横槍のせいで佐藤さん抜きの議論が盛り上がるので、少々気が引けてゐ
たのですが、それも気にする必要なし、といふ事ですね。
あと、野嵜さんのは「横槍」なんてものではなくて、 N爺に対する粘着行為(し
かも他人様のコメント覧で)だと思ってゐましたが、佐藤さんがそれについて
「お構い無し」といふ事であれば、私に異論はありません。今後とも適当に去な
す事にします。
野嵜さん、
> 反論ありますか。ないでせう。だからN爺くんは惡人で、粘着アンチ
> である事は明かです。
> 反論ありますか。ないでせう。N爺くんは私の指摘に反論しません。
> 反論できないからです。私の豫言は必ず當たる。
何やら、粘着モード全開ですが、一体どうしたんです?佐藤さんに「お構いなし」
のお墨付きをもらったからって、そこまで一心不乱に言い募ると何だか「必死」
になってゐるやうに見えますよ。昨日までの余裕はどこに行ったんですかねぇ。
余裕綽々の論理的論客と、なりふり構わぬ粘着野郎と、どっちが野嵜さんの実像
か云々はとても興味深いつっこみですが、しかし、今は野嵜さんにとってはもっ
と緊急性の高い事態が有りさうです。
といふのは、その N爺、「鸚鵡真理教の功罪」なんてブログ記事を書いてゐて、
結構手厳しく反論してますよ。(早速予言が外れてお気の毒な事ですが。)それ
によると、福田・野嵜師弟は共に右翼が裸足で逃げだす極右で、予言は外しまく
り、加へて野嵜さんは福田師の行ったことをそのまま繰返すだけの鸚鵡で、粘着
アンチなんだとか。そんな評判が広まる前に、早速そのブログで反論のコメント
を書くか、福田恆存読書会の記事で反論するか、何とか手を打った方が良いので
は……
ちなみに、URL は
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/25707619.html
なあN爺さんよ、最近の左翼は妙に頭が良いから慇懃丁寧な書き方をする。巧妙な「宗教の勧誘」、或は、巧妙な「利益の誘導」をする連中も同じだ。かつてどこぞのホランドとか(良くは知らない)は慇懃丁寧だつた。それでも追い詰められると本性といふか馬脚を現はすところが、まあ、人間的ではあつたのだけど、N爺に至つては最後まで「余裕ぶち噛まし」で押し通さうとする。そんなに自分が大事なのかい。
俺様はお前ら下々の主張を添削してやる先生なのだ、とでも思つてゐるんぢやねえの。えらいひとには敵はない。N爺さまは吾等の首領さま、マンセー! マンセー! 何う? 気が済んだ? 最う来んな、ばかたれ。
尚、あんたの投稿や記事はまともに読んでゐないので、あんたが何を言つてゐるのかは知らない。
N爺はウェブ以外の日常では、たぶん、良い人なんだらう。或意味、現代の日本に於いては「普通の日本人」と言へる。N爺のやうな自称無神論者が大半または過半を占めてゐるのは事実ではあるのだけれど、この手の人間が匿名偽名でウェブで物を言ふと往々にして「俺様はえらい」式の発言を繰り返す。相手が屈服するまでしつこく言ひ続ける。いはゆる粘着アンチと化し易い。
私は実名を使つてゐる点で佐藤さんや野嵜さんを高く評価してゐる。それに比べると私は偽名だから卑怯ではある。さういう負い目を感じてゐる。匿名偽名が一概に駄目と言つてゐるのではない。神様が見てをられるという感覚感性を持たない現代の「普通の日本人」が匿名偽名で物を言ふとN爺のやうになる。それが駄目なんだよ。
ちなみに佛教ではアイデンティティ(自己同一性)もパーソナリティ(個性)も認めてゐない。こんな無茶な事を言つてゐるのは、それだけ人間は自分(自我)に執着するからだ。知識量の豊富さを誇るのも、これ。
>といふのは、その N爺、「鸚鵡真理教の功罪」なんてブログ記事を書いてゐて、結構手厳しく反論してますよ。
ほほう。きみは反論してゐる積りでゐるのですか。ただ單に、とぼけて逃げただけではないですか。
>そもそも N爺は、誤読もしてゐなければ、説教もしてないし、はたまた威張ってもゐないと思ってゐる
そりや、自分だけで思つてゐるんだろ。馬鹿馬鹿しいね。神崎さんと野嵜の關係を、きみは誤讀しただらう。しなかつたと言ふのかね。したときみは認めてゐたではないかね。あんなに判りやすいぼく達の關係を、きみは讀取れなかつたんだよ。耻づかしくてウェブにはゐられないくらゐに思ふのが當然だね。
>それにしても、N爺は野嵜さんを「威圧」してますか。
いやはや、どこから「威圧」なんて言葉が湧いて出たのやら。N爺くんは威張つて佐藤さんに説教してゐるのに、「威圧」だか脅迫だかはしてゐないぜと、全然別の話に逃げてゐる。これこそN爺くんが粘着アンチで、自分に都合よく物事を歪曲し、自己正當化してばかりゐる決定的な證據だね。
N爺くんの「鸚鵡真理教の功罪(その 2) - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ」とやら、何々。
>数ある福田師の大言壮語の中でも、最大のは「斷言しても良い、現行憲法が國民の上に定着する時代など來る筈はありません」(「評論集」第 8巻 p.173) だと思ふが、これはものの見事に外れた。
ものの見事に當つてゐる事實があるのに、「これはものの見事に外れた」とは、まあ、見事に正反對の物の解釋だ。N爺くん、きみがアンチだからだらうねえ、意地でも福田さんや野嵜を「間違つてゐることにしたい」んだらう。だが、現憲法は定着してゐないよ。してゐたら、何うして日本人は自衞隊なんて持つてゐるかね。憲法第一條「天皇」に規定された天皇を、N爺くんみたいに憎んでしまふ日本人がぞろぞろ出てくるかね。嗤ひ。
「平和憲法」の日本人が、韓流ドラマに怒り、フジテレビに抗議デモをやらかしてゐるんだぜ。
N爺くんが思つてゐるほど――思ひ込みたいほど、現憲法は定着してゐないよ。理念――と言ふより妄想に支配されてゐるから、N爺くんは現代の日本のありのままの姿を認める事が出來ないんだよ。
「鸚鵡真理教の功罪(その 1) - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ」とやらを眺めてみたが、最初から酷いね。
>その民主的改定の内容、すなわちどう帝國憲法の条文を改正するのかについて、福田師なり野嵜さんが一度でも明かにした事はないではないか。
福田さんや野嵜さんが「言つてゐない」からN爺めが代りに「言つて上げませう」ですか。言つてゐない事をでつち上げる、毎度毎度のN爺くんのワンパターンですね。馬鹿馬鹿しい。この手の「言つてゐない事を言つて上げませう」論法を、N爺くんは福田さんや野嵜の發言には必ず適用する。ところが。
>いや、それはいかにも野嵜さんらしい「類型的」(かつ陳腐な)議論ですな。どうして、日本国憲法を支持する者がそのやうな左の全体主義を支持する、もしくはそれがもたらした悲惨に目を瞑ると思ふんですか?
N爺くんの言つてゐない事を言つてあげると、これなんだよ。
福田さんも私も、大日本帝國憲法の第一條から第四條まで改定しなくとも、實質的に今の憲法と同じ程度の國民の權利は確保できる、と言つてゐるんだよ。
>全体主義(左右を問はず)への最も厳しいアンチテーゼは「基本的人権の尊重」でせう。で、それは日本国憲法の中心的価値でもある。
「日本國憲法の專賣特許」であるわけではない。別に「日本國憲法」が「中心的價値」にしてゐるからと言つて、ほかの憲法典で基本的人權の尊重をきちんと保障してゐてならないなんて法はない。
大日本帝國憲法でも、基本的人權の尊重の規定はあつたので、それを擴大・擴張すれば、改定不能と規定された主權の在處の規定を書換へる必要は特にない、福田さんはさう指摘したにすぎない。福田さんは、ちやんと軍國主義の危險を承知してゐますよ、その事は福田さんもきちんと書いてゐたではないですか。福田さんは、獨裁主義と民主主義を區別して、民主主義が獨裁主義に「越境」を出來ない樣にせよ、と言つてゐます。資本主義と社會主義の對立等、問題になりません。ところがN爺くんは、飽くまで資本主義と社會主義の對立が重要だ、と言ひ、意地でも君主の存在を否定しろ、と絶叫してゐる。
N爺くん、きみは自覺がないやうですが、露骨な左翼ですよ。いまどき珍しい位典型的な左翼。
>野嵜さんは、どうあっても反全体主義としての自由民主主義、基本的人権の尊重といふ事の価値を否定したいらしい。
もうね、あきれて物も言へないんだけれども、この手の議論で頻出するキーワードが出て來て、ぼくは失笑したんだよ。「自由民主主義」――このキーワードを見れば、N爺くんが、穩健な自由主義も民主主義も否定する、過激な左翼イデオロギー信奉者である事は明かなのよ。Yahoo!掲示板にゐた某氏も開高健も、露骨な左翼原理主義者だつたのだけれども、いづれも自分の主義・主張を「自由民主主義」と稱してゐたんだよ。ところがその内容は、自由主義・民主主義の域を逸脱した、極端な左翼思想でしかない。まあ、トンデモと言つて良い過激思想だ。ぼくも福田さんも、そんな過激思想はとらない、ほかの多くの人々もさう、それだけの話だ。
ぼくが言つた通りでね、ぼくにしても福田さんにしても、別に右になんて片寄つてはゐないんだよ、立憲君主制なんて、別に極右思想でも何でもない、もしそれが極右なら、イギリスは極右の國になつてしまふ、N爺くんはイギリスは極右の國でナチスと一緒、ソ聯と一緒と本氣になつて言ふ積りかね。もちろん、全然違ふ。
ところで福田さんもぼくも、英文科の出でね、立憲君主制の英國の文學に學んだ者だ。福田さんにしてもぼくにしても、基本はシェイクスピアになるわけだがそれはまあいい。こんなぼくらが、ナチズムだのスターリニズムだのに賛同できるわけがないよ。N爺くんが如何に抽象的に非難を浴びせてくれたところで、ぼくらは自由主義・民主主義の本場、本家本元、イギリスの文物を學んだ人間なのだ。理系のN爺くんのやうに頭だけで「自由民主主義の理念」とやらを受容れた「自由民主主義」の狂信者とは違ふ。
>侵略戦争(他国を攻めて植民地にする)なんてもの自体が「今」は無いのは自明だらう。
奇妙な事を言ふ。それならN爺くん、イラクがクウェートに侵攻した事は最う忘れてしまつたのかね。20年前の話だから最う「今」ではない、かね。人間の物の考へ方が變るのは、N爺くんの頭の中では、實に早いやうだ。N爺くん、そんなに人間、變らないよ。きみのやうな抽象的な人間の考へるやうには。
いや、N爺くんは、本氣で「今は植民地など存在しない」と信じてゐるのだらう。「今では最早、侵掠なるものはありえない」、さうだね。
さて諸君、今現在の中国、中華人民共和国が、チベットを軍事力で制壓し、事實上の植民地にしてゐる事は、良く知られてゐるね。ウイグルの方でも、漢人が入り込み、ウイグル人を官憲が壓迫してゐる事は、報じられてゐるね。
N爺くんは、さうした事實はない、と言つてゐるわけだ。
明かな左翼の工作だよ。
そんなN爺くんが「日本国憲法擁護のアジテータ」を稱する。これは何う云ふ理由だらうかね。「日本國憲法」は、「平和憲法」である――しかし、それは日本人が自ら自國を守る事すら不可能にする亡國憲法であるとは、よく指摘された事實だ。N爺くんが共産主義中国を擁護する典型的な左翼工作員である事を見れば、N爺くんの意圖は餘りにもはつきりしてゐる。
N爺くんは、「自由民主主義」を標榜し、「基本的人権の尊重」だの「国民主権」だのと耳あたりの良い言葉を使ひながら、日本國を解體し――最終的には中国に差出さうとでも考へてゐるのだらう。N爺くんは、「平和を愛する中国国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」すべし、と言ひたいわけだ。さう考へればN爺くんの主張は全部辻褄が合ふ。
さう言へばムッソリーニは當初自分の立場を左翼と認識し、民族主義へと傾倒して民衆の支持を得、獨裁化、その後第二次大戰に參戰したが戰局は振るはず、その爲に威信を失つてファシスト黨内部のクーデタで失脚したとか。
その後ムッソリーニはナチスの傀儡政權の首班となり、スペインへ脱出しようとして捕まり、不法な人民裁判によつて銃殺刑にされ、遺體が廣場に吊るされた。
宗教的には無神論者であり反教會主義者であつたと云ふ。
それから。
>あと、野嵜さんのは「横槍」なんてものではなくて、 N爺に対する粘着行為(しかも他人様のコメント覧で)だと思ってゐましたが、佐藤さんがそれについて「お構い無し」といふ事であれば、私に異論はありません。今後とも適当に去なす事にします。
先づ俺に對する誹謗について。N爺くんのは「N爺くんの野嵜への粘着行爲」に對する野嵜の防衞的な反論を「粘着行爲」と言つてゐるもので、自分が先に手を出しておいて、反撃したら「粘着」「粘着」と言つて反論を封じ込めると云ふ非常に惡質な、反自由主義的な態度だよ。成程、「アメリカがハルノートで苛めて、怒つた日本が真珠灣を攻撃したら、日本は侵掠者」と云ふわけだ。苦笑。もちろん、ぼくはN爺くんその他の諸氏に、別に迷惑も何もかけた事はないわけで、そんなぼくにN爺くんが因縁をつけてきて何年も何年も「自分のブログ」で揚げ足取りだの何だのをして呉れてゐるわけだが、それはN爺くんにしてみれば「粘着行爲ではない」と云ふわけだ。けれども、あれだけ人の言つてゐない事をでつち上げたり、必要な説明を素飛ばして結論だけで極附けたり、こちらが反論すると「福田信者だから無謬のつもり」と罵つて呉れたり……誰が何う見てもN爺くんが粘着アンチだよ。しかしそんな事はどうでも良い。
「今後とも」云々は、明かにサイトの所有者・佐藤さんに對する一ユーザ・N爺くんの「最後通牒」であつて、「荒し宣言」に他ならない。これは見過ごせない。N爺くんはこのブログのコメント欄を「荒らしてやる」と言つてゐるのであつて、これは許し難い。そこで「言論の自由」等とN爺くんが言ふとしたら、自由主義の看板を利用した強壓的な自説の押附け――と言ふより、N爺くんの個性の押附けであると言はざるを得ない。自由主義とはそんなN爺くんにだけ都合の良いやうな、自分勝手なものではないはずだ。
まあ何と言ふか、N爺くんのやり口は典型的な粘着アンチのもので、先に自分が挑發して散々侮辱を加へてゐるのに、やり返されると、大袈裟に悲鳴を上げて、「私は被害者だ」「彼は惡質な加害者だ」と言ひ觸らす。
オウムの信者がよく使つた手だ。
野嵜さん、
N爺> 今後とも適当に去なす事にします
> 「今後とも」云々は、明かにサイトの所有者・佐藤さんに對する一ユー
> ザ・N爺くんの「最後通牒」であつて、「荒し宣言」に他ならない。こ
> れは見過ごせない。N爺くんはこのブログのコメント欄を「荒らしてや
> る」と言つてゐるのであつて、これは許し難い。
あれ、「去(い)なす」が解りませんでしたか?今みたいに、あまり長くならな
いように対応します、くらゐのつもりですが。それが「最後通牒」で「荒し宣
言」?いやはやかうなると「誤読三昧」「曲解主義」ですな。
N爺> といふのは、その N爺、「鸚鵡真理教の功罪」なんてブログ記事を書
N爺> いてゐて、結構手厳しく反論してますよ。
> ほほう。きみは反論してゐる積りでゐるのですか。ただ單に、とぼけて
> 逃げただけではないですか。
「とぼけて逃げた記事」に、えらく熱心に反論して下さってありがたうございま
す。でも N爺のブログか闇黒日記 2 でやって頂けませんか?特に「読書会」の続編、
待ってますよ。
塗炭さん、
> それでも追い詰められると本性といふか馬脚を現はすところが、まあ、
> 人間的ではあつたのだけど、N爺に至つては最後まで「余裕ぶち噛まし」
> で押し通さうとする。そんなに自分が大事なのかい。
おお、「本性と馬脚」を表はしがちな野嵜さんや塗炭さんも「人間的」であると
いふ事ですか。ちゃんと、自己弁護になってゐるところが偉い。
> 神様が見てをられるという感覚感性を持たない現代の「普通の日本人」
> が匿名偽名で物を言ふとN爺のやうになる。それが駄目なんだよ。
ふうむ、恐れ入ります。でも、塗炭さんは、神様が見てをられても、
> マンセー、マンセー、何う? 気が済んだ? 最う来んな、ばかたれ。
とやるんですか?ますます神仏の霊験が信じられなくなってきましたよ。
>あれ、「去(い)なす」が解りませんでしたか?
解りませんでしたね。「今」の時點でN爺くん、きみは荒しだと看做されてゐる。その「今」のやり方を、きみは繼續する、と言つてゐるのだ。當然荒し繼續宣言だと看做したわけだよ。
それに、「適當にいなす」と云ふのは、人を馬鹿にした態度だね。明かに荒しだ。佐藤さんも、「適當にいなして下さい」ときみに要求したかね。
佐藤さん曰。
>相手の意見を尊重できない人間が「我こそは“民主主義者”なり」と大威張り。失笑を禁じえない。
また、「誤読」と「曲解」とは全然違ふ事だ。「誤讀してしまふ」のと「わざと曲解する」のとは全然違ふ。N爺くんはそれらを區別しない。けれども、全然別の事は全然別の事と看做さなければならない。N爺くん、きみはそれを「區別しない」わけだ。それはきみが「誤讀=曲解」と云ふ考へ方を持つてゐるからかね。
だとしたら、きみの解釋は常にをかしなもの・非常識なものにしかなり得ない。ならばN爺くん、きみはコミュニケーション不全の片端と云ふ事になるよ。
>「とぼけて逃げた記事」に、えらく熱心に反論して下さってありがたうございます。
早速「いなす」を實踐してゐるわけだ。成程。この場では、きみは「優位」をアピール出來る、さう喜んでゐる樣子が目に浮かぶよ。反論はブログで、かね。
>でも N爺のブログか闇黒日記 2 でやって頂けませんか?
きみのブログになんか行かないよ。長く書いたら荒し呼ばはりしようと待構へてゐるんだらう。短く書いたらレッテル貼りだの何だの惡口を言つてやる、と。自分のサイトに誘ひ込んで、ダブハンだの何だの使ひ捲つて、氣にいらない人間を總括してシメる。それがきみの狙ひだらう。左翼がよくやる手だ。
>特に「読書会」の続編、待ってますよ。
嫌味にも程がある。
何を書いても、蛙の面に小便で、きみは何の痛痒も感じないのだらう。きみには何を書いても無駄、と云ふ事だ。だからぼくは自分のブログで、きみ宛になんか書いてゐないんだよ。書く氣になつたら書くだけだ。勝手に期待して待つてゐればいい。どうせまたいちやもんをつけて呉れるんだらう。
>ますます神仏の霊験が信じられなくなってきましたよ。
キリストの教へは貧しき者弱き者等々の爲のもので、さういつた人々が先づは信ずるものだから、惠まれた・優れた人々にはさぞかし劣つて見えるだらう、が、信じない前と比べて何うであるかが大事ではないか、絶對的な優劣ではなく相對的な優劣を見てほしい、きみが劣つてゐると見る信者が果してキリスト教の爲に信ずる前より信じた後に向上を實現してはをるまいか何うか、さう云ふ事まで考慮に入れて評價してほしい――とC.S.ルイスが書いてゐますね。
それに、たかが「御行儀が良い」と云ふだけの事を「神仏の霊験」と言ふのは何うかしてゐるね。慇懃無禮はきみたち無神論者の得意技だらう。
と言ふより、慇懃無禮は荒し・粘着アンチ・その他諸々惡質なネットワーカーの示す態度の典型だよ。
N爺くんが惡性氏タイプの非人間的で冷酷な人間である事は明か。
あつー。N爺さんよ、ちやんと御飯を喰つたかい? 御飯を喰はないと、をかしい頭がますますをかしくなる。私の直前の投稿は、あんたにだけ向けて書いてゐるのではない。あんまり気にすんな。否、少しは気にしろ。
ところでお盆なので「宗教シリーズ」の話をしたのだけれど、さう言へば前回の「宗教シリーズ」も一年前の夏だつたねえ。違つた? ともかくN爺は夏になると出て来るお化け屋敷のお化けみたいなもんだ。性懲りもなく同じパターンで出て来る。好い加減、嫌がられる。それが粘着アンチのN爺には解からない。
あんたの「論法」は何時も同じ。相当頭が堅い。あんたの頭にはコンクリートか何かが詰まつてるんぢやねえの? 少しは手を変へ品を変へして私のやうな読者を楽しませて呉れ。お化け屋敷のお化けだつてマンネリ化すれば誰も怖がらない。
また何処かで会はう。来年のここででも。
>あと、野嵜さんのは「横槍」なんてものではなくて、 N爺に対する粘着行為
N爺さんにしてみれば、“徹底的に論破されること”が「粘着行為」なんだな。
野嵜さんや塗炭さんのやつてゐることはN爺さんの粘着行爲に對する眞つ當な批判ですので、ぼくは全く構ひません。どんどんやつて頂きたい。
N爺さんは、今すぐ粘着行爲を止めてください。N爺さんの粘着行爲は「ブログ所有者の意嚮」に全く從ふものではありません。
>今後とも適当に去なす事にします。
相變はらず、自分の都合の良いはうにしか物事を捻ぢ曲げてゐる。「適当に去なす」ことは許されない。一字一句、捻ぢ曲げることなく受け止め、自分が粘着アンチであることを自覺して下さい。
佐藤さんの言葉に甘えて。
『鸚鵡真理教の功罪(その 3)』 http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/25730442.html
前段の「閑話休題」は後段の本題の内容に関連する物ではなく、単なる印象操作(野嵜さんや塗炭を悪者に見せ掛ける為)の文章になつてゐる。これはまあ、余談とでも書くのが望ましい。といふか、N爺の文章には必ずこの手の印象操作があるのだけれど、それは本題で相対的にせよ正しい事を言つてゐる場合にのみ大目に見られる。閑話休題。
>N爺は象徴天皇制支持と何度も言ってゐるではないですか。
いはゆる左翼(戦後民主主義者)が金科玉条にする「象徴天皇制」ですが、日本國憲法第一條には次のやうに書かれてゐる。
「天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く」
慥かに「象徴」と二回も出て来る。しかし後半を読んで欲しい。「國民の總意に基く」といふ事は、國民の總意が無ければ天皇の地位は崩潰する。現在、N爺のやうな無神論者、左翼が過半数以上を占めてゐるのが事実だとすれば、実質的に天皇といふ地位は存在しない。「象徴天皇」は単なるお飾りに過ぎない。
それと「國民の總意」だけれど、実際には多数決などの「数の問題」だ。日本國憲法では天皇の存廃を「数」で決めませうと言つてゐる。なるほど「民主主義」ではある。左翼には極めて都合が良い。印象操作でも何でもして、いはゆる多数派を形成すれば天皇制打倒が合法的(合憲的)に可能だからだ。
いづれにしても第一條は立憲君主制から共和制など他の政体への変更を前提としてゐる訣で、これは占領政策に依るものと考へるのが妥当。或意味、当時の占領政策は六十数年後の現在、実現してゐるけどね。天皇の地位など実質的には存在しない。立憲君主制なんて何処へやら。
私は右翼だけれど、私たち日本人にとつて、それで良いのか、と言つてゐる。過去千年以上の日本人が守つて来た伝統的な権威(天皇の地位)をそのまま受け容れて次代へ引き渡して行くのが自然な考へ方(保守)ではないか。これは國語にも言へる。過去から現在および未来へ、といふ時間軸の連続で考へなければならない。もちろん少しづつ良くして行かなければならないのは言ふまでもない。
なあN爺さんよ、あんたが右翼保守でないのなら、詰まるところ「象徴天皇制」なる物、正確に言ふと天皇の地位を否定して、共和制その他の革命政体を主張しなければならないんだよ。
この投稿では敢へて宗教的な考へ方を混ぜないやうにした。N爺が飽くまでも政治的な左翼革新ならば、そもそも「天皇制」を支持できない筈。中途半端に「象徴天皇制支持」なんて言つてゐるから、お前は阿呆か、と申し上げてゐる。最う少し増しな主張をしろ。私は真当な左翼は認めてゐる。
御飯をちやんと喰つて良く考えるやうに。
余談。数十年前、私に右翼保守の立場を教へて呉れた左翼の人は、「象徴天皇制」なんていんちきだと喝破してゐた。
結局あれだ、「自由主義者」を自称する左翼でも右翼でもない得体の知れない御都合主義者が多い。要は「自分主義者」なんだよ、N爺は。これに比べると科学的論理的な共産主義思想を信奉してゐたかつての左翼の方が遥かに増し。彼は右翼の立場も理解してゐた。むしろ「象徴天皇制支持」なんて言ふ左翼を、あれは左翼ではない、と言つてゐたのです。
>N爺は象徴天皇制支持と何度も言ってゐるではないですか。
福田恆存氏も「お前は戰前と同じ絶對天皇制護持論者か」と云ふ問ひに「否」と答へてゐるよ。「既に言つた樣に、私は欽定憲法を復活させたいのではない、憲法そのものを復活させたいのです。」云々。
ところがN爺くん、きみは「福田恆存は絶對天皇制護持論者だ」と言切つてゐるね。ならば、ぼくらもN爺くんが象徴天皇制ですらも支持しないだらうと當りを付けて構はない筈だし――實は、きみ自身も、ひそかにそれを期待してゐたのでないかね。
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/25730442.html
自分のブログだからと言つてえらくまあねちねちと……これで自分は粘着ではないとは、N爺くんも「自己中」過ぎる。
<引用>
あんまり煩いので、
N爺> 他所様のブログで、
N爺> 1) やたら分量が多い(故意に?)
N爺> 2) 全く関係のない話を持ち出す
N爺> 3) ブログ所有者の意向を無視する
N爺> 4)ダブハンをやる、他人のハンドルを詐称する
N爺> 5)罵詈雑言・レッテル張りを繰返す
N爺> ですが、野嵜さんの「記事」はいつもどれかが当て嵌ります。
とやったら、
</引用>
俺の指摘が煩くて煩くてたまらないらしいらしいが、こんなN爺くんがぼくに「自分のブログに書きこめ」なんて言ふのは、何う云ふ料簡なのだらう。ぼくは疑ふね。N爺くん、ぼくを自分のブログに引きずり込んで、自分のいいやうに人をあしらひ、いなさうと考へてゐるのだと思ふ。「他所様のブログでやたら分量が多い」だの「全く関係のない話を持ち出す」だの「ブログ所有者N爺さまの意向を無視する」だの文句を言つて、「總括」する氣でゐるに違ひない。
ぼくは佐藤さんの事は信用してゐるけれども、N爺くんの事は全然信用してゐない。N爺くんは慇懃無禮で、人當りの良ささうな人物を演じてゐるけれども、假面の下から陰險な目が覗いてゐる――と言ふより、陰濕さを強調する爲に、N爺くんは好好爺を演じてゐるので、だからこそN爺くんの態度は慇懃無禮なものになつてゐるわけだ。そんな人物のブログに乘込んで、ぼく流の誠實さなんて發揮する事は出來ないよ。あまりにもぼくはウェブで何度も煮え湯を飲まされてしまつたからね。N爺くんのやうなタイプが危險である事は、經驗でようく知つてゐる。
<引用>
塗炭さんだって
塗炭> やあ、N爺。元気さうで何より。また何処かで会はう。最うあんた
塗炭> の投稿は読んでゐない。
とか、
塗炭> マンセー! マンセー! 何う? 気が済んだ? 最う来んな、ばかたれ。
とか、とても「対話する気」があるとは見えないからアウトだね。
</引用>
斯う云ふ「言葉尻を捉へて、極端に誇張し、相手を惡人に見せかける」論法が、N爺くんの攻撃パターンなのだけれども、實際の塗炭さんの行動が、N爺くんの假説を裏切つてゐる。塗炭さんが如何に對話する氣が見えないかのやうな言葉を發したとしても、實際に對話してゐるなら、對話する氣がある事は明かなので、N爺くんのいちやもんは本當にただのいちやもん――と言ふより、さう云ふいちやもんをN爺くんがつける事で、ぼくたちの話がつられてどんどん長くなつていくわけだ。
さう、N爺くんがあれこれ餘計ないちやもんをつけ、どうでもよいところに粘着する事が、全部トラブルの原因になつてゐるのだ。N爺くんの文章は無闇に長いから、應接するぼくらもいちいち誠實に言返して文章の分量が多くなるし、N爺くんの言出した餘計な言につられるからぼくらも餘計な話をする事になるし、N爺くんが罵詈雜言とレッテル貼りを用ゐて攻撃してくるからこちらも作法として罵詈雜言とレッテル貼りで反撃する事になる――全部N爺くんが原因だよ。ところが、N爺くんは、自分がやつた事は正しいが、それに反應した敵の、自分と全く同じ態度は「正しくないのだ」、と言ふより、相手が自發的に「正しくない態度をとつてゐる」と極附けて、嘲笑してゐる。これは、傍から見れば滑稽な光景だらう。
しかし、N爺くんは、第三者の目は節穴だから、泥沼の言爭ひに持込めれば、「どつちもどつち」とみんな思ふだらうし、さうなれば匿名でどこの馬の骨ともわからぬ自分は何の不都合もない、ただ佐藤さん、野嵜、塗炭さん……といつた、身元も明かであれば立場も明かな連中が、一方的に不利になる、と、それを期待して、イメージ戰術で攻撃を仕掛けてゐるわけだ。これこそN爺くんが粘着アンチである決定的證據。
佐藤さんにしても野嵜にしても、守るべき價値があり、それをウェブで主張してゐる。そいつらの足を引つ張り、連中の支持する價値を破壞して、結果として自分の好きな「混沌」の状態を齎せれば、それで滿足――N爺くんはさう考へて、行動してゐる。
要は、
・野嵜らにゃんどぅー一派=信者
・N爺くん=アンチ
――斯う云ふ構圖だ。
粘着は常にアンチに附隨する屬性だ。信者の行動を妨碍するためにアンチは行動する。信者は積極的に行動してをり、受動的にアンチは行動する。そのアンチの戰術として常に用ゐられるのが粘着行爲だ。これはウェブの常識だ。そして、アンチが常に言ふ事が、「信者はずつと自分の好きな事を主張してゐる、これこそ眞の粘着行爲だ」――N爺くんの言ふ事も、世間の粘着アンチの例に漏れない。
だが、世間では常識的に「信者が物を言つてゐる」と云ふだけの事を「信者が粘着してゐる」とは見ない。一方、アンチが信者を執拗に攻撃してゐる事を粘着行爲と見る。そして、さう云ふ見方をアンチの側は絶對に受容れない、これも事實だ。だが、常にアンチの態度はをかしいと看做されるのであつて、それが解らないと云ふ事それ自體がアンチの異常なるゆゑんであると考へられてゐる。
斯うしたアンチの生態については、ふたばのユーザは大變よく知つてゐるので、當然佐藤さんもよく知つてゐると云ふわけだ。
N爺くんはアンチの典型なのであつて、當然粘着であるし、自分が攻撃してゐる「信者」側をさらに惡く見せかける爲に「信者こそ粘着」と極附けるのも粘着アンチの典型的行動。N爺くんが如何に理窟を捏ねたところで、N爺くんが一方的に攻撃的にぼくたちに絡んで來た事は事實であり、その際、N爺くんは自分自身とその信ずる價値に傷のつかないやうなやり方をとり、相手の足を引張る攻撃方法をとつた。だからN爺くんはアンチである。
アンチが執拗かつ一方的に「信者」に絡み續ける事を粘着行爲と言ふ。
粘着アンチに「信者」と極附けられた側が、要求された反論や反撃について、再び粘着アンチから「粘着」と極附けられるのもよくある事。この粘着アンチの極附けは、一般に認められてゐない。當り前の話だ。
あと、N爺くんは散々に煽つて人を嘲つてゐる。これも常識的に粘着行爲と見られる。「読書会」の續きを「早く書け」――粘着のN爺くんぢやないんだから、さうさう適當に書き飛ばせやしないよ。N爺くんは氣樂に揚げ足取りしてゐればいいんだから幾らでも長々と記事を書けるだらうよ。けれどもぼくらはそんな不誠實な記事の書き方は出來ない。「書けないんだらう」とN爺くんは煽るが、さう云ふ惡意に滿ちた煽り方をし、只管嘲笑を浴びせるやり方、それが粘着行爲だ。ねちねちとよくもまあ女の腐つたやうな物の言ひ方を出來たものだ。さう云ふN爺くんの、まともな人間ならば讀む氣にもならないやうな、否、氣持ち惡くて讀む事の出來ないやうな文章をいちいち讀んで、曲がりなりにも反論を續けてゐるのだから、ぼくらにきみと對話する意思がある事は明かだらう。
いや、ぼくらにきみと對話する意思が無いと見て取つたのならば、それでもまだ何でしつこくぼくらに語りかけてくるんだい、え、N爺くん。きみにはぼくたちにこれ以上語りかける必要も必然性もないはずだよ、それでもきみはぼくたちに絡んでくる、きみが粘着な明かな證據ぢや無いか。反論ありますか。
閑話休題、憲法の話に行くべし。
「N爺は象徴天皇制支持と何度も言ってゐる」云々。「ちなみに、N爺は、国民主権にしないと、すなわち第一條から第四條をそのままにしてゐては、他をどう変へても、それの実現は無理だと思ふ。」云々。ぼくにはそれこそ、N爺くんの悲觀的觀測に過ぎないと思ふね。或は、「無理だ」「無理だ」なんて、そりや、一番氣樂に言へる「反論」だよ。
しかし、戰前にちやんと美濃部達吉が天皇機關説を唱へてゐたわけだ。第一條から第四條まで、のみならず、その他全ての條文が揃つた、大日本帝國憲法健在なりし頃に、ね。N爺くんは御存じないらしいが、天皇機關説は戰前の最有力の憲法學説だつたのだよ。それが敗れたのは單に軍の暴力に屈しただけに過ぎない。けれども、暴力に屈したのが惡いと言ふのなら、今の憲法だつて暴力に屈する事は十分あり得るし、問題は、暴力に屈した憲法が、事態の收拾された時、再び力を恢復する事だ。
N爺くんは、條文の内容と云ふ形式に異常なまでに拘はつてゐるけれども、ぼくにしても福田さんにしても、條文自體には全然拘はつてゐない。それは、拘る必要がないと知つてゐるからだ。大憲章がその具體的内容にも拘らず英國の民主主義の根本法規として絶大な力を發揮してゐる事實を、ぼくも福田さんも知つてゐる。要は、條文なんて運用する國民次第なんだよ。
國民次第の運用に任せる英國では、法の解釋は基本的に判例主義をとる。事態に應じた判決を前例として踏襲して、以後の裁判の模範とするわけだ。だから、前の裁判で間違つた理窟の判決が出されたのを後の裁判の判決で訂正したり、長い間踏襲された判決を決定的のものとして事實上の法規としたり、さう云ふ事は普通にある。
福田さんは、さうした判例主義的態度を日本でも採用する事を考へてゐたので、さう云ふ觀點から當用憲法論も讀まねばならない。勿論、英國は集大成的な成文憲法を持たない。日本は成文憲法を持つ。さう云ふ違ひはある。が、英國でも、歴史の中で積み上げられて來た澤山の法規や判例がある、それらの權威に基づいて、英國の法治は行はれてゐる。日本でも、確かに大日本帝國憲法には基くが、一方で、その運用の實績を作り、判例に基づいて、より民主主義的に運用するやうになつて行く事を、福田さんは考へた。大日本帝國憲法の民主的な運用と判例を積重ね、歴史的な經緯として大日本帝國憲法に基く民主的な社會の確固たる傳統を築き上げる事、その事こそが日本に堅固な民主主義を定着させる事だ、さう福田さんは考へた。
そこで相變らず「條文どうするの」とか言つて見るのは、福田さんの考へ方を理解しない、不親切な態度だと思ふ。「読書会」の結論を先に書いてしまつた。
N爺くんへ。アンチが何う斯うの話にきみは反應すると思ふ。それも激しく。何しろきみはアンチだからだ。けれども、それがきみのアンチであり粘着であるゆゑんである事を自覺し玉へ。自覺したら、まあ、餘計な話だからいなし玉へ。いなせるもんならいなしてみやがれ。わらひ。
肝心なのは憲法の話だから、憲法の話にだけ反應して呉れればいい。それ以外の話をいなせないやうなら、きみは粘着確定だ。もちろん、ぼくはきみが粘着だと思つてゐるよ。粘着として屑みたいな駄文を今囘も垂れ流して呉れるかね。それとも反省して、眞面目に對話しようとして呉れるかね。
あと、N爺くん。きみが幾ら自分は「象徴天皇制主義者」だと宣言したところで、「象徴天皇制」なんてものがそれこそ曖昧で存在し得ないものなのだから、ぼくらはきみを信用出來ないんだよ。
大體、天皇機關説のやうに、今の天皇と同じやうな役割を天皇が果たすやり方が戰前に自由主義者の美濃部達吉から提唱されてゐたのに、きみはそれを支持し得ないと言ふのだ。或は、英國的立憲君主制を、きみは共和制でないと言つて排斥するのだ。きみが左翼である事を標榜し、自慢げに語つてゐるのを見れば、「象徴天皇制主義者」だなんて自己定義が何處まで信用できるか、わかつたものではないよ。
おまけに、きみは中国共産党の支配の仕方を支持するやうな態度をとり、チベットやウイグルのテロを否定するかのやうな口吻を洩らした。きみのブログで書いたとか言はれても知らないよ。ぼくは「ここ」しか見てゐないんだから。きみも「ここ」で書き玉へ。いなす事だけを考へてゐるから、對話が進まないんだ。きみが惡いんだよ。いや、「ここ」でのきみの文章だつて十分氣持ち惡いので、ぼくは斜め讀みしかしてゐないがね。いづれにしてもきみが左翼であり粘着である事實は明かなのだから、きみの言葉が信用ならない事は、「ここ」のみんなが承知してゐる事なのだ。そこで「いなす」だの何だの言つてゐる時點で、きみに誠意のない事は明かだ。さう云ふきみの「自由民主主義」なんて、誰が信用するものだらうか。實際、きみ一人ではないのだ、きれいな言葉で飾つて、汚い腹の中を隱してゐる陰險な政治活動家は。議論にもならないやうな餘計なおしやべりが多くて、にもかかはらず福田さんのおしやべりにいちやもんをつけて好い氣になつてゐる――そんなN爺くんの言ふ事なんか、誰も信用しないよ。
N爺さんよ、私を右翼と見做して呉れて結構だから、それに対立する思想なり考へ方なりを提示しろ。きちんと左翼思想を述べるのなら、私は右翼の立場から反論する。「象徴天皇制支持」なんて、ここでは議論の対象にもならない。といふか、日本國憲法支持! 現状肯定! と言つてゐるだけぢやねえか。私が二番目の投稿で書いた、あんたは「日本國憲法」または「戦後民主主義」を信じてゐるんぢやないの? といふ指摘は当たつてゐる。
N爺は自分を「中立公正な審判者」であると信じてゐるやうだが、あのな、人間なんて中立公正ではあり得ない。そんな立派には出来てゐないのだ。ゆゑに議論に依つて補正する必要がある。かう言つても、あんたには解からんのだらう。馬鹿に附ける薬は無い。
一回お休み。ええと、事情に依りしばらくここへ出て来れないと思ふので、ごめん。皆さん、よろしく。
野嵜さん、
> あと、N爺くん。きみが幾ら自分は「象徴天皇制主義者」だと宣言し
> たところで、「象徴天皇制」なんてものがそれこそ曖昧で存在し得な
> いものなのだから、ぼくらはきみを信用出來ないんだよ。
さうなんですか。現行憲法の前文にきちんと書いてありますよ。しかも、ちゃん
と存在してゐる。野嵜さんは TV も新聞も見ないの?
曖昧で存在し得ないもの、と言へば、帝国憲法下の立憲君主主義ではありません
か。昭和天皇御自身は、立憲君主主義を旨としておられたが、憲法自体は天皇を
主権者として規定し、明治の元勲達は、天皇を自分達の傀儡だと思ってゐた。こ
れでは、軍部の台頭を防げなかったのも無理はない。
> が、英國でも、歴史の中で積み上げられて來た澤山の法規や判例があ
> る、それらの權威に基づいて、英國の法治は行はれてゐる。日本でも、
> 確かに大日本帝國憲法には基くが、一方で、その運用の實績を作り、
> 判例に基づいて、より民主主義的に運用するやうになつて行く事を、
> 福田さんは考へた。大日本帝國憲法の民主的な運用と判例を積重ね、
> 歴史的な經緯として大日本帝國憲法に基く民主的な社會の確固たる傳
> 統を築き上げる事、その事こそが日本に堅固な民主主義を定着させる
> 事だ、さう福田さんは考へた。
その歴史的発展の中で、英国は絶対王政から国民主権の国となった。日本国もま
た君主主権から国民主権となった。そのどちらの国でも、君主主権へ戻す事で、
より堅固な民主主義を築かふといふのは単なる冗談かさうでなければ時代錯誤だ
らう。ましてや、クーデターでもって、その国民主権の体制を転覆すべしといふ
人の「民主主義」を信じられる訣がない。
> そこで相變らず「條文どうするの」とか言つて見るのは、福田さんの
> 考へ方を理解しない、不親切な態度だと思ふ。「読書会」の結論を先
> に書いてしまつた。
そこで「親切」「不親切」といふ言葉が出てくるのは、いかにも野嵜さんらしい
ね。福田師に親切な野嵜さんは、その議論を信じる事ができるが、不親切な他の
ものは、批判的となる。つまりは、元の議論が稚拙って事だよね。(上述のやう
に。)
> 實際、きみ一人ではないのだ、きれいな言葉で飾つて、汚い腹の中を
> 隱してゐる陰險な政治活動家は。議論にもならないやうな餘計なおし
> やべりが多くて、にもかかはらず福田さんのおしやべりにいちやもん
> をつけて好い氣になつてゐる――そんなN爺くんの言ふ事なんか、誰も
> 信用しないよ。
あははは、その N爺以外の誰かって、まさに福田師の事ですね。民主主義を堅固
にするために、と綺麗事を言ひながら、実は陰険なクーデターを策してゐる。
(繰返しになりますが)やっぱり、福田師の言ふことは誰も信用しないと思ふ。
塗炭さん、
> きちんと左翼思想を述べるのなら、私は右翼の立場から反論する。
> 「象徴天皇制支持」なんて、ここでは議論の対象にもならない。とい
> ふか、日本國憲法支持! 現状肯定! と言つてゐるだけぢやねえか。
> 私が二番目の投稿で書いた、あんたは「日本國憲法」または「戦後民
> 主主義」を信じてゐるんぢやないの? といふ指摘は当たつてゐる。
何を息巻いてゐるのだか。ええ、私は象徴天皇制を含む日本国憲法支持と言って
ゐますよ。ご指摘は略当ってゐる訣だ。(凄い推理力ですね。)で、どうして、
左翼思想を述べないといけないのでせうか。あと、「象徴天皇制」がどうして議
論の対象にならないのかなぁ。野嵜さんは「議論」してますよ、稚拙ですが。
> N爺は自分を「中立公正な審判者」であると信じてゐるやうだが、あ
> のな、人間なんて中立公正ではあり得ない。そんな立派には出来てゐ
> ないのだ。ゆゑに議論に依つて補正する必要がある。かう言つても、
> あんたには解からんのだらう。馬鹿に附ける薬は無い。
いえいえ、日本国憲法支持といふ立場を主張してゐて、無効論を批判してゐる。
中立公正ではないかも知れないし、何より、立派かどうか、はあまり関係ないの
では。ですから、「解らんのだらう」なんて決めつけないで、議論してちゃんと
「補正」して下さいな。(「矯正」でも良いよ。)
しかし、その前に、塗炭さんは、現行憲法が無効で、帝國憲法へ戻るべし、と御
考へかどうかを教えて下さい。
>現行憲法の前文にきちんと書いてありますよ。
「當用憲法論」に、福田恆存さんが「お前は戰前と同じ絶對天皇制護持論者か」と云ふ問ひに「否」と答へてゐるのが書いてあるよ。
>野嵜さんは TV も新聞も見ないの?
TVにも新聞にも「象徴天皇制」なんて存在してゐないよ。何の證據にもならないたはごとを書くものではないよ。
>昭和天皇御自身は、立憲君主主義を旨としておられたが、
ほら、立憲君主制は存在してゐたでせう。
>憲法自体は天皇を主権者として規定し、
美濃部達吉は天皇は機關であると説明してゐたよ。天皇の意嚮には合致した説だ。
>明治の元勲達は、天皇を自分達の傀儡だと思ってゐた。
平成の左翼達は、天皇を國民統合の象徴と思つてゐないさうですね。N爺くんは何うだか知らんが、大江健三郎は天皇を自分逹の象徴と認めないんだと言つたさうですね。
>これでは、軍部の台頭を防げなかったのも無理はない。
現憲法でも、第九條にもかかはらず、自衛隊と云ふ名の軍隊が出現してゐるね。
>その歴史的発展の中で、英国は絶対王政から国民主権の国となった。
イギリスは今でも形式的には國王に主權があるよ。「イギリスは立憲君主国であり、主権は「議会における国王(女王)」(King(Queen) in Parlament)にあるとされ「議会主権ないし国会主権」(Parliamentary Sovereignty)と呼ばれている。」
それに、現實の歴史を見玉へ。イギリスは、一度市民が革命で國王を殺して共和國になつたが、すぐに大陸から王家の人間を迎へて王制に戻してしまつた。
>福田師に親切な野嵜さんは、その議論を信じる事ができるが、不親切な他のものは、批判的となる。
信ずる信じないの問題ではないよ。ただ、ありのままに他人の文章を讀む、と云ふのが親切な讀み方なんだよ。何處までも善意で讀んで、それでも問題があるなら指摘すれば良い。ちやんと書き手の理路を正しく追つてゐて、それでも問題がある、と言ふのなら、批判として説得力がある事になるだらう。ところがN爺くんのやうに、敵側の人間の文章だ! と言つて、すぐに裏を讀まうとし始めて、實際に陰險な解釋をして、「ほら、間違ひだ」と言つたつて、そりや、N爺くんが惡意で解釋するから「間違つて見えるに過ぎない」と、世間の人は普通、さう見るものだ。
N爺くんが、左翼だから、「敵視した人間」である福田氏を「右翼」認定し、「右翼ならみんなクーデタをやつて日本を軍國主義に戻す筈だ」と極附けてゐるに過ぎない事は、火を見るより明かな事實だよ。
寧ろ、さう云ふN爺くんこそ、共産主義中国の小數民族支配を支持するやうな口吻を洩らしてをり、日本の解體を目論み、日本を中国に賣渡さうとしてゐる左翼である事は、ここを見てゐる皆が皆、承知してゐるよ。きみは中国の惡口を一言も言はないね。中国はきみの大好きな共和國だからね。北朝鮮も「朝鮮民主主義人民共和國」と名乘つてゐるし。N爺くんの共和制禮讚は、中国や北朝鮮禮讚と繋がつてゐるやうにしか見えない。それをきみは全く否定しないからね。だが、だとしたら、きみは明かに民主主義を破壞し、獨裁を待望んでゐる危險な思想を抱いた人間だ。
>日本国憲法支持といふ立場
ぼくはN爺くんが「象徴天皇制」なる「制度」を表面的に支持して見せてゐるのは、實際の天皇家が斷絶する事は好ましいと本心で思つてゐるのを隱す爲でないかと疑つてゐるんだがね。
>中立公正ではないかも知れないし、何より、立派かどうか、はあまり関係ないのでは。
そりや、N爺くんは、沒道徳の人間だから、自分と云ふ人間が立派だとか傲慢だとか、そんな事は氣にしないんだらうよ。ぼくら常識派の人間からは、N爺くんは大變に傲岸不遜に見えるがね。
ところでぼくは、「日本國憲法」を支持する、と言ふ人が、まるで信じられないんだよ。何しろ、「戰爭抛棄」と言ひながら、條文を解釋して、「自衞戰爭はOK」と云ふ事にして、實質的に軍隊を再建してしまつてゐるだらう。
>この憲法が國民に保障する自由及び權利は、國民の不斷の努力によつて、これを保持しなければならない。又、國民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
これだつて、第九條と同樣に、國民が持つ自由や權利を制限すべき根據に、何時解釋が變更されるか、わからないんだよ。何しろ、第九條が正反對の意味に解釋されて實質的に改憲された前例があるわけだから。N爺くんは、力強く、そんな事はない! と言切るだらうが、N爺くんの言葉よりも前例の方をぼくは「信用」するからね。
いづれにしても、條文の解釋で正反對の二通りの解釋が可能ならば、「日本國憲法」を「支持する」なんて言つたつて當てにならないわけだ。正反對の立場の人間が、自分に都合良く利用する爲に「日本國憲法」の同じ條文を利用する事が出來る――「利用されるだけの曖昧なもの」でしかないのでは、實質的に「日本國憲法」なんてものは空文であり空證文でしかない。さう云ふ宙ぶらりんで曖昧なものだから、福田さんは現憲法を「當用憲法」だと喝破したわけだ。
N爺くんは、さう云ふ福田さんに指摘された現憲法の曖昧さ、惡い二面性を、依然として利用し續けてゐて、それで「護憲」にまはつてゐるだけに過ぎない。けれどもさうした曖昧な「護憲」の問題を福田さんは指摘したんで、N爺くんは既に福田さんに論破されてしまつてゐるんだよ。
福田さんの「當用憲法論」は、裏が讀める、とN爺くんは言つて、「だから曖昧だ、説得力なし、なしなーしw」と大喜びしてゐるのだが、「日本國憲法」それ自體だつて裏が讀めるのであり、實際に裏を讀んで第九條の「解釋改憲」が實現してしまつてゐる。ならばN爺くんは「日本國憲法」にこそ曖昧さを見出し、「説得力なし」と極附けなければならない。それが出來ない、と云ふ事は、N爺くんが「護憲」と稱して現體制側に就き、「護憲」なる「錦の御旗」を振りかざして、反體制の敵側を壓迫し、力づくで葬り去らうとしてゐる事――N爺くんが政治的な人間である事――を示してゐるものだ。
「日本國憲法」が曖昧だ、と云ふ指摘に對して、「さう指摘する文章も曖昧だ」とN爺くんは言返し、それで相對化は完了、「日本國憲法」は守られる、とN爺くんは安心し切つてゐるのだけれども、依然として「日本國憲法」が曖昧なままである事に變りはない。ならば「日本國憲法」の問題點は相變らず問題點であるので、それを指摘した福田さんの文章は正しい、と云ふ事になる。
野嵜に粘着と言はれて悔しいから「野嵜こそ粘着だ」と同じ事を言返して、それで勝つた氣になつてゐる淺はかなN爺くんだからこそ、福田さん封じになつてゐない福田さん封じを威張つてやらかしてゐられるわけだ。
現憲法は「国民主権]と云ふN爺くんの固定觀念についても一言。「象徴天皇制」を支持するN爺くんの立場もそれで相當搖らぐから。
現憲法には以下の規定がある。
>第1條 天皇は、日本國の象徴であり日本國民統合の象徴であつて、この地位は、主權の存する日本國民の總意に基く。
>第11條 國民は、すべての基本的人權の享有を妨げられない。この憲法が國民に保障する基本的人權は、侵すことのできない永久の權利として、現在及び將來の國民に與へられる。
この二つの條文にある「國民」なる語だが、N爺くんには理解し難い事に、全く異る「もの」を指してゐる。この事には注意が必要だ。
と言ふのは、第11條で言ふところの國民とは、田中とか鈴木とか、或は野嵜でもN爺くんでもいい、兎に角、一人の人間、名前を持つた具體的な個人であつて、その一國民の基本的人權を國家は侵害してはならない、と云ふ規定である。けれども、第1條で言ふところの國民は、一個人・特定個人の事ではない。N爺くんと云ふ一國民が主權を持つなんて事はあり得ない。
第1條に言ふ「主權の存する國民」が、一個人・一國民でないとしたら、それは何か、と云ふ問題がある。我が日本國は民主主義の國家であり、田中、鈴木、野嵜、N爺くん、……、が選擧で選んだ議員が議會を作り、法案を審議し、法律を制定して、國家を運營してゐる。法案を審議してゐる間、その法案は飽くまで多數者・少數者の意見に過ぎないが、國法となつた瞬間にそれは全國民の意思、主權者たる國民の意思となる。要は、一國民・一個人が主權者となる事はなく、飽くまで「主權の存する國民」とは法的な意味での「人」=法人に過ぎないわけで、抽象的な存在でしかない。が、その法人たる「主權の存する國民」は全體として統一された意思を持つてゐなければならない。
が、さう云ふ抽象的な存在と云ふだけで、人間は滿足しない。だからさう云ふ「主權の存する國民」を具體的にイメージする爲に「日本國の象徴であり日本國民統合の象徴」たる天皇を必要とする――と云ふ解釋が成立つ。が、斯うなると、「主權者」は「象徴と規定されるところの天皇」である、との解釋も成立つ事になる。實際、常識的に日本の元首は天皇と看做されてをり、天皇は實質的に主權者として振舞つてゐるとすら言つて良い。
さらに言へば、現憲法制定に際して、金森國務大臣が議會で「憲法は決して國體を變更するものでない」と答辯した事實がある。これは當然、戰前の天皇主權の體制を、戰後も變更しないで引繼ぐものである事を意味してゐる。
N爺くんが「象徴天皇制」を支持する、と言つてゐるものの、その「象徴天皇制」については、戰前の國體と何ら變更のないものであると宣言されたものであり、また憲法の條文をよくよく解釋すると天皇主權を意味すると看做しうるものである、と云ふ事が明かになつた。實際、さう云ふ説得に據つて、現憲法の制定の際には保守派・守舊派を説得する事が行はれたのだ。「象徴天皇」なる説明は、言はゞ方便である。
現憲法の條文に、斯うした甚だ曖昧で妥協的なものが見られるのは、そもそも現憲法が占領下、マッカーサーの指令によつて作られたもので、全文英文からの飜譯であり、アメリカ占領軍の強い壓力に日本側が屈服して丸呑みせざるを得なかつた、と云ふ歴史的經緯が絡んでゐる。とても法理的に受容れ難い「新憲法」を、已むを得ず受容れる爲に、天皇の規定等に極めて妥協的で曖昧な説明が盛込まれた。それで保守派・守舊派は一往納得して、「改正」を受容れたわけだ。
が、斯うした經緯が戰後、明かになつて見ると、當然、違和感、不審感が殘る事になる。「押附け憲法」「飜譯憲法」と云ふ非難は強力な説得力を持つて浸透し、不審感は依然として國民の間でくすぶつてゐる。それゆゑ現憲法の改正論は根強いのだし、無效論も屡強く言出されるわけである。現憲法が定着し、些かの疑問も感じられないでゐるならば、「TVを見よ、新聞を見よ」も結構だ。けれども、實際にTVを見、新聞を讀んでゐれば、ぼくらは幾らでも國民の現憲法への不審を見出せるのだ。さうした現實を見ないで、N爺くんは只管「現憲法は定着してをるぞ」と言張り續けてゐる。ぼくにはN爺くんこそ現實離れした觀念論者に見える。
野嵜さん、対話をする気が出てきたやうで何より。しかし、まだ、「爺の言って
ない事」に基いたレッテル張りが有るやうなので、こっちも何とかして下さい。
> 第1條に言ふ「主權の存する國民」が、一個人・一國民でないとしたら、
> それは何か、と云ふ問題がある。我が日本國は民主主義の國家であり、
> 田中、鈴木、野嵜、N爺くん、……、が選擧で選んだ議員が議會を作り、
> 法案を審議し、法律を制定して、國家を運營してゐる。法案を審議し
> てゐる間、その法案は飽くまで多數者・少數者の意見に過ぎないが、
> 國法となつた瞬間にそれは全國民の意思、主權者たる國民の意思とな
> る。要は、一國民・一個人が主權者となる事はなく、飽くまで「主權
> の存する國民」とは法的な意味での「人」=法人に過ぎないわけで、
> 抽象的な存在でしかない。が、その法人たる「主權の存する國民」は
> 全體として統一された意思を持つてゐなければならない。
御意。最後の「統一した意思を持ってゐなければならない」はちょっと怪しいで
すが、「國民(人民、議会)主権」の略正しい解釈といふか定義ではないかと思
ひます。誰もが(過激派でなければ)受け容れる意見ではないでせうか。
で、馬鹿念ですが、「統一された國民の意思」が擬制である事を受け容れるなら、
「象徴天皇制には異論が有るから國民の総意に基いてはゐない、だから、象徴天
皇制は定着してゐない」もしくは「天皇は気の毒な地位にある」等といふのは、
馬鹿げた意見だ、といふのはお解りですよね。
> が、さう云ふ抽象的な存在と云ふだけで、人間は滿足しない。だか
> らさう云ふ「主權の存する國民」を具體的にイメージする爲に「日
> 本國の象徴であり日本國民統合の象徴」たる天皇を必要とする――
> と云ふ解釋が成立つ。が、斯うなると、「主權者」は「象徴と規定
> されるところの天皇」である、との解釋も成立つ事になる。實際、
> 常識的に日本の元首は天皇と看做されてをり、天皇は實質的に主權
> 者として振舞つてゐるとすら言つて良い。
なる程、これまた凄い「人間観」および解釈改憲ですが、もしさうなら、福田師
弟が理想とする「天皇主権の立憲君主制」が「実質的」に実現されてゐる訣で、
何も態々(クーデターの使嗾をしてまで)「國軆主権」派もしくは國軆明徴派に
付け入られた実績のある帝國憲法に戻る必要は無いやうな気がしますが。
> 現憲法が定着し、些かの疑問も感じられないでゐるならば、「TVを
> 見よ、新聞を見よ」も結構だ。けれども、實際にTVを見、新聞を讀
> んでゐれば、ぼくらは幾らでも國民の現憲法への不審を見出せるの
> だ。さうした現實を見ないで、N爺くんは只管「現憲法は定着してを
> るぞ」と言張り續けてゐる。ぼくにはN爺くんこそ現實離れした觀念
> 論者に見える。
さうですか。しかし、どんなトンデモ解釈だってこじつけやうと思へばこじつけ
られる。(どうも、これ、論理や道理を弁へない人には朝飯前の事らしい。)た
だ、悲しいかな(幸いにも)、良識ある人々にはそれが受け容れられる事は無い。
つまり、ほんの一握りの人に、その思ひつきのやうな不審(不信?)や不満が有
るからと言って、憲法が定着してゐない、とか、条文が曖昧である、とするのは、
これまたトンデモだらう。(上の馬鹿念が無駄ではなかったか。)
念にために付け加えておくが、「改正論」に一定の力が有る事は「定着してない」
事の証左にはならない。現行憲法が「定着」してゐるからこそ、その改定規定に
沿って、改正しようとしてゐる。新無効論の人達が、改正論者を(亡国の意見で
あるとまで言って)貶す由縁だらう。はてさて、旧(福田)無効論の人々は「改
正」はやるべきでない、と考へてゐるのだらうか。
「こじつけ」ね。
9條だつてこじつけにこじつけて自衛隊と云ふ「軍隊」が存在してゐる。
さらに言へば日本国憲法自體「8月革命説」と云ふ“こじつけ”の上に成り立つてゐる。
そんな“こじつけ憲法”をこじつけながら用いるより、一旦本道に立ち返りやり直すのが“憲政”のあるべき姿ではないか。
N爺さんのやうな似非民主主義者を見るに附け、現憲法は觀念だけが有り難がられ決して「定着」などしてゐないことがよく分かる。
「當用憲法論」は至極正論だ。
やあ、N爺。元気さうで何より。あまり時間が無いので、取り敢へず一つ。
>どうして、左翼思想を述べないといけないのでせうか。
私は右翼保守の立場で主張したから。即ち「過去千年以上の日本人が守つて来た伝統的な権威(天皇の地位)をそのまま受け容れて次代へ引き渡して行くのが自然な考へ方(保守)ではないか」と云ふ事。これを否定する立場は左翼革新(革命思想)になる。
それからN爺は「天皇制」を支持してゐる。だとすると考へられるのは二つしかない。右翼保守の立場から積極的意識的に「天皇制」を支持してゐるか、さうでなければ、現憲法に「象徴天皇」と書いてあるから消極的惰性的に「天皇制」を支持してゐるかのいづれかだ。あんたは後者、つまり、現状肯定で何が悪い、と言つてるんぢやないの?
いづれにしても、俺様を説得してみろ、説得できないのならお前の主張は間違ひだ、と言ひ続けてゐる。当人は説得される積りは全く無い。こんなもん議論になるもんか。阿呆だろ、お前。
ところでN爺は国家主権と国民主権の区別が附いてゐない。といふか日本國憲法がその区別を曖昧にしてゐる。主権国家(独立国)には国家主権も認められる。当たり前。代表的には統治権だけれど交戦権もその一つ。別に戦争をしたい訣ぢやない。さうではなく、交戦権を否定してゐる日本國憲法では曖昧な運用(解釈改憲など)をせざるを得なくなる。例へば第九條と自衛隊。それは危険な事ではないか。一応言つて措くと、美濃部達吉先生の天皇機関説では国家主権と国民主権を区別してゐる。
ともかく私はあまり「憲法」「憲法」と言ひたくないのよ。憲法そのものは制度でしかない。そんな事よりも、私たち日本人は何故日本という國を維持しなければならないのか、を考へる方が大事。その為に過去から現在および未来へと云ふ連続性を尊重する。連続性に基づく伝統的な権威を尊重する。これを右翼保守と言ってゐるのだけれど、左翼革新のN爺には解からないらしい。
「左翼革新」でもないと思ひますね、N爺さんは。
N爺さんには“いま”しかない。“いま”しか考へない。どのやうにして“いま”があるのかと言ふ“過去”は全て「無かつたこと」にしてしまふ。「左翼革新」であるなら、“未來”を見据ゑ、そのためにはどうするかを考へなければならないが、どんなヴイジヨンを思ひ描いてゐるのか、N爺さんからは見えてこない。全て現狀維持。
無論「右翼」ではないが「左翼」ですらない。過去に立ち返ることも未來を見据ゑることも拒否する「前を向くことを許さない日本人」。
「日本国憲法」は觀念としては有り難がられてゐるが“定着”してはゐない。この現狀において日本人に民主主義が根附いてゐるとも言へない。であれば、日本人が日本人による日本人のための民主主義を打ち立てやうとしてゐた“過去”、帝國憲法に一度立ち返らう、と言ふのが「當用憲法論」であり、ぼくはそれに賛成する。
N爺さんは「日本国憲法は現在の日本では“常識”なのだから、それに疑義をいだくやうなやつは民主主義の敵、反動主義者だ」と冷笑するのだけど。
「當用憲法論」は「日本国憲法」と云ふ“常識”への疑義なのだから、今更言はれるまでもない。
「日本国憲法の改正」と言ふ“小手先”ではなく、文字通り拔本的な—「日本国憲法の無効と帝國憲法への回帰、及び改正」と言ふ主張は、日本国憲法を“常識”とすればそれは“非常識”としか思へないだらう。だがその“非常識”こそが日本人に憲法意識と民主主義を定着させる手段なのである。
>つまり、ほんの一握りの人に、その思ひつきのやうな不審(不信?)や不満が有るからと言って、憲法が定着してゐない、とか、条文が曖昧である、とするのは、これまたトンデモだらう。(上の馬鹿念が無駄ではなかったか。)
N爺さんは“常識”に對する「不審(不信?)や不満」を言ふことは許さない、それが些細な少數意見ならなほさらだ、と言つてゐるのである。どつちが“反動主義”か分かりやしない。
「日本国憲法や民主主義は日本人にすでに定着してゐる」とN爺さんは繰り返すのだけど、少なくともN爺さんには、定着してゐるとは思ひ難い。
>で、馬鹿念ですが、「統一された國民の意思」が擬制である事を受け容れるなら、「象徴天皇制には異論が有るから國民の総意に基いてはゐない、だから、象徴天皇制は定着してゐない」もしくは「天皇は気の毒な地位にある」等といふのは、馬鹿げた意見だ、といふのはお解りですよね。
呉々も勘違ひしないでほしいのは、これは「日本國憲法」の法理である事。「日本國憲法」にはこのやうな發想があるので、「象徴天皇制」と言つても結局は「天皇主權」であると云ふ風に説明する事が可能だ、とぼくは言つてゐるわけ。ぼく自身は「日本國憲法」それ自體を認めてはゐないからね。
>なる程、これまた凄い「人間観」および解釈改憲ですが、もしさうなら、福田師弟が理想とする「天皇主権の立憲君主制」が「実質的」に実現されてゐる訣で、何も態々(クーデターの使嗾をしてまで)「國軆主権」派もしくは國軆明徴派に付け入られた実績のある帝國憲法に戻る必要は無いやうな気がしますが。
さう云ふ實質さへ實現出來てゐればよい、と云ふのであれば、そもそも成文憲法なんて要らないんだよ。ところがぼくらは憲法を持つてゐる。となれば、ぼくらは憲法の效能を最大限に發揮する事を圖らねばならないわけで、憲法それ自體に重みがあるやうにしておいた方が好ましいと云ふわけだ。憲法の理念そのものの權威が失はれるのは好ましくない、現行憲法なる現實の一法典の權威を否定する事によつて、憲法そのものの權威を守つた方がよろしい。福田さんは斯う書いた――「私は欽定憲法の復活を希望してゐるのではない、私にとつて大事なのは欽定憲法そのものではなく、日本人の憲法意識なのであります」。N爺くんには「福田さんの言ってない事」に基いたレッテル張りを何とかしてほしいものだね。
>つまり、ほんの一握りの人に、その思ひつきのやうな不審(不信?)や不満が有るからと言って、憲法が定着してゐない、とか、条文が曖昧である、とするのは、これまたトンデモだらう。
ぼくの知る限り、日本では戰後、長らく改憲派の自民黨が政權を擔つてきた。今の民主黨も決して護憲派一枚岩とは言へない。それに、自衞隊に關しては、今の憲法では何うしても説明のつけやうがないと解つてきた人も漸く増えてきたやうだ。集團的自衞權なんて、今の「平和憲法」では何うにも正當化のしやうがないからね。今の憲法に不滿を持ち、改憲すべきである、と考へる日本人は、相當に多いものとぼくは見る。さうした中で、天皇については、N爺くんの支持にもかかはらず、若い人には案外、全面廢止を唱へる人が多い。「國體の連續」が強調された戰後直後からじわじわと天皇の「支持率」は低下してゐて、こちらも實質的に解釋改憲が實現してしまつてゐると言つて良い。斯うなると、今の憲法は、形式的には一切變更されてゐないのに、制定時と現在とでは同じ文言がまるで正反對に解釋されてゐる部分が甚だ多い、と云ふ事が言へる。ぼくには、これは憲法典そのものに對する侮辱に見える。何の爲に書面にして決り事を決めたんだらうね。お金を貸付ける契約書を作つたら、何時の間にかお金を借りた事にされてしまつたやうなものだよ。そんな事が横行したら、みんな契約なんて信じなくなるだらうね。それでは困るんだよ。
>念にために付け加えておくが、「改正論」に一定の力が有る事は「定着してない」事の証左にはならない。現行憲法が「定着」してゐるからこそ、その改定規定に沿って、改正しようとしてゐる。
N爺くんの言葉をもぢつて言へば、「その改定規定に沿って、改正しようとしてゐる」事は、「定着してゐる」事の證左にはならない。現憲法が「定着」してゐないからこそ、改正を主張する人が出てくるからだ。
或は、斯うも考へる事が出來るだらう。大日本帝國憲法が「定着」してゐたからこそ、その改定規定に沿つて、改正しようとしたのだ、と。
ぼくとN爺くんの意見が噛合はないのは、「形式」と「實質」について、根本的に物の見方が食違つてゐるからだ。そして、N爺くんの方こそ、まるで筋の通らない議論をしてゐると言つて良い。福田さんやぼくは、形式では筋を通すべし、その上でゆつくり實質を變化させて行くべし、と言つてゐる。福田さんもぼくも、形式優先で、だからこそ保守派であるわけだ。ところがN爺くんは――と言ふより、多くの今の日本人は――その邊の考へ方が全く一定してゐない。部分的に保守的であつたり、進歩的であつたりするが、全體としてはわけがわからない。ただ自分に都合の良いものは採り、不都合のものは捨てる、さう云ふ御都合主義的態度を屡示す。
N爺くんは、福田さんやぼくの言つてゐる事の、粗を探してつつついて見せるけれども、全體としてその思想は判然としない。N爺くんは、君主制を「否定する」と言つてゐるわけだが、では、何を「肯定する」のか。ぼくが推測すると、N爺くんは「爺の言ってない事に基いたレッテル張りは、やめて下さい」としか言はない。「爺の言ひたい事は斯うです」と言ひ、N爺くんの「肯定する」思想、積極的に支持してゐる思想、絶對に守りたい思想を、語る事がない。N爺くんは、他人の主張を否定して許りゐる。他人の主張を否定するのは、嘗て野黨がやつてゐた事で、實に氣樂に出來る事だ。が、野黨が與黨になつた途端、積極的に主張する事がない事がばれてしまつて、それで民主黨は信用を決定的に失つた。
最後に。
>はてさて、旧(福田)無効論の人々は「改正」はやるべきでない、と考へてゐるのだらうか。
これについては、福田さんがはつきり書いてゐるね。「誤解を生じた原因の第二は、私が座談會の劈頭に、自分も嘗ては「改憲派」の一人だつたが、今度現憲法なるものを良く讀直して見たら、これは改憲出來ない樣に出來てゐる事が解つたと言ひ、最後に二たび同じ事を繰返し、結論として現憲法は廢棄すべきだが、これは私の力に餘る事だから、今の處「改憲派」から「無關心派」に脱落する事を宣言して置くと言つた事から起つたものです。」この福田さんの發言に「がつかりした」と文句を言つた人々に福田さんが「がつかりした」と言つたのにN爺くんは「がつかりした」と言つたわけだが、がつかりする前に、素直に文章は讀んで欲しいものだ。そして、福田さんが冗談と皮肉を言つてゐる事に、注意して欲しいものだ。福田さんが、憲法の話となると、日本人が兔角目を三角にして、青筋立てて、本氣になつて物を言ひ始めるのを、困つたものだと見てゐるのであつて、そこでN爺くんが向きになつて福田さんに苦情を言立ててゐるのを見ると、ぼくは改めて「がつかりした」りするんだよ。福田さんが用意周到に豫め否定し去つてゐる或立場を、きみが依然として固執してゐる事に。
>なる程、これまた凄い「人間観」および解釈改憲ですが、もしさうなら、福田師弟が理想とする「天皇主権の立憲君主制」が「実質的」に実現されてゐる訣で、何も態々(クーデターの使嗾をしてまで)「國軆主権」派もしくは國軆明徴派に付け入られた実績のある帝國憲法に戻る必要は無いやうな気がしますが。
クーデタを起す迄もなく、ぼくらは、自分逹の民主主義の運營の仕方に自信を持つてゐるなら、形式上の主權を天皇に返し、堂々と「退位」する事が出來る筈なんだよ。そして、大正期に政黨政治等と言つて民主主義の運用された實績のある帝國憲法に戻つて、今のやうな人權の尊重や民主政治を實質的に實現して、安心してゐられる筈なんだよ。
N爺くんなんかによれば、憲法を戻してしまつたら、即座に「「國軆主権」派もしくは國軆明徴派に付け入られ」てしまふわけで、さうなると、今の民主主義は不安定で、決して定着してゐない事になる。憲法一つで吹飛んでしまふほど、今の日本の民主主義の實質は脆いものなのかね。
否、N爺くんは、何うも日本の民主主義を、脆いものにしておかねばならない政治的事情をお持ちらしい。N爺くんは、何度聞かれても聞こえない振りをし續けてゐるが、やつぱりきみは日本を中国か其處らに賣飛ばしたいんだらう?
福田さんにしてもぼくにしても、民主主義――と言ふより、開かれた社會、自由な社會――を「實現したい」のであつて、その爲に日本人は根本から發想を變へないと行けないと信じてゐる。一方で、ぼくらは、過去と繋がつて生きて行かねばならない。だから、形式に於いては、飽くまで過去との連續を求めねばならない。さうなると、福田さんのやうに、飽くまで今の民主主義の實質を殘したまゝ、形式に於いては過去との連續を維持する事を考へなければならない。憲法の形式に於いては過去との連續を強調し、その運用に於いては現代的に自由で民主的な實質を堅固なものにしなければならない。形式を守りつつ、實質を少しづつ改善して行く――これはあるべき保守派の姿で、ならば、保守派は皆、福田さんの憲法論を首肯せざるを得ない。さうぼくは思ふ。そして、今と云ふ時代がさうした理想的な保守派の存在を「許さない」ものである以上は、福田さんにしてもぼくにしても、「無關心派」と云ふ立場を標榜して、世間さまを笑ひ、皮肉らなければならないわけだ。
N爺へ。第二弾。細切れで御免。
>しかし、その前に、塗炭さんは、現行憲法が無効で、帝國憲法へ戻るべし、と御考へかどうかを教えて下さい。
かういふ質問は、N爺に一貫した主張が無い事を示唆してゐる。
N爺はいはゆる近代無神論の立場なんだらう? 違ふのか。近代無神論の立場で主張するなら、それはそれで結構だと言つてゐる。私はニーチェの思想にも「一面の真実」があると思つてゐる。もちろんマルクスも。結果的に間違ひであつても、彼らは一貫した主張をしやうとした。何の為に? 真実を追求する為だ。議論はその為にある。真実を追求するのは誠実な態度と言へる。何故なら真実は個人の「俺様思想」を超へて普遍性を持つからだ。ゆゑに私は真当な無神論者や左翼を認めてゐる。閑話休題。
回答申し上げる。日本が独立を維持してゐた時に制定された大日本帝國憲法と、日本が占領下(連合軍統治下)にあつた時に制定された日本國憲法。小難しい能書きを抜きに、現在の日本が主権国家ならば、といふ前提でどちらが有効かと訊かれれば、そりやあ前者である、と答へる。
N爺さんよ、あんたが信じてゐる日本國憲法は日本に統治権(国家主権)が無かつた時に出来た物だ。内容の良し悪しを言つてゐるのではない。日本は主権国家たらんとすべきではないか。それだけの事。
私たちの意思で革命を経て共和政体になるのなら未だしも増し。今の日本人はN爺のやうな「無思想」の「自分主義者」が多い。自分を超へた国家といふ物、これは歴史的経緯に基づく伝統や文化に支へられてゐるけれど、その国家を認めないのならN爺などは日本人である必然が無い。
最う一度言ふ。私たち日本人は何故日本といふ國を維持しなければならないのか。N爺よ、答へろ。あんた、肝心な事には何も答へない。
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/25790680.html
>今だに「条文どうするの」は大事だと思ってゐますよ。その「福田師の考へ」は「親切」な人でなければ到底理解できない大甘のトンデモだと思ふ。
「条文どうするの」は大事だけれど、それだけでは機能しない。あんた、自動車の運転をするのかい。若しするなら解かる筈だ。幾ら道交法で厳格に規定したところで、運転者に遵守意識がなければ駄目だらうよ。警察官が見てゐない処では違法運転する。これでは事故は無くならない。
運転者一人一人が公共の安全と円滑な交通を実現しやうと考へなければ、道交法は単なるお飾りになる。寧ろどんどん厳しくなる。取締もどんどん増える。さうせざるを得ない。条文は制度だ。これだけで人間を縛るのは無理がある。こんな当たり前の事が理解できないやうでは、N爺の頭はをかしい。
「公共の安全と円滑な交通を実現する」といふのが道交法の正義ならば、その正義こそを大事にしなければならない。憲法でも同じ。名実ともに主権国家たる日本を実現するといふのは妥当な正義でせうに。福田さんは極めて常識的な事を言つてゐる。
人の事をトンデモと言ふN爺くんこそトンデモだらけでお話にならないのだがねえ。
>で、「無理ではない」と「気楽」に再反論できないのですね。それっ て、やっぱり元の議論に無理が有るって事では?
「って事では?」と疑問を呈するのは、例の喜六郎論法で、アインシュタインの理論を否定するトンデモさんも愛用するトンデモ論法なのだが。
以下えんえん尤もらしいだけの意味のない駄文が續くのでばつさり。
>従って、天皇機関説事件の教へるところは、天皇以下、代表的憲法学者、議員、 官僚がことごとく「既に立憲君主主義は確立してゐる」と思ってゐたにもかかは
らず、それ(立憲君主主義)が國軆明徴派に対して、自らを守る事ができなかった、といふ事。
なるほど。問題は人にある、と。その通りだ。N爺くん、ちやんと事實を認識してゐるぢやんと思つたが、……。
>その重要な原因の一つが、帝國憲法の曖昧さと後進性(条文をそのまま取るなら、國軆明徴派の主張に近い)であらう。
えええええ。話がぜんぜん繋がつてゐない。
N爺くん、きみの頭の中では、これらの話が繋がつてゐるのかい。ちよつと信じられないね。まあ、日本人の多くが、この手の「大日本帝國憲法の話で詰つたら、兎に角大日本帝國憲法が惡いと力説すればいい」と云ふ安直な思考に陷つてゐるんだが。
大日本帝國憲法の先進性と曖昧さがあつたからこそ、立憲君主制の考へ方が定着し、天皇機關説があり得たし、昭和天皇の行動もあつたわけなのだが、ねえ。
「しかし現實に軍國主義に陥っただろ」とN爺くんは言ひたいのだらうけれども、これについても問題は人にあり、條文にはない。
>「國民次第の運用」って何?。しかも、日本や他の国でも裁判所は判例主義です からね。それを言ふなら、不文法主義もしくは判例法主義では?
何かこちやこちやと用語を論つてゐるが、これを揚げ足取りと言ふ。
>それ以前に、「英国の体制が良さげに見えるか ら、それをそのまま持って来たい」といふのは、いかにも幼稚な発想ですな。
はいはい。英國は國民主權と勘違ひして禮讚してゐたN爺くんは、野嵜に英國は今でも君主主權だよと事實を指摘されて、慌てて英國アンチに轉向したわけですな。間違ひを素直に認める事も出來ずに當り散らすN爺くん。情けない。
>それは措いても、帝國憲法下の「運用の実績」は、「絶対主義天皇制に名を借りた右の全体主義の台頭を許してしまった」といふ事に尽きる。
まさにそれだけの話なので、運用さへ正しければ全然問題なかつたと言切るべきだし、なぜ日本人が日本人のやつた事を頭からばつさり斬捨てられるのか、ぼくには全然わからないよ。
>一方で、日本国憲法は、65年の実績(各法律とその判例)を積み上げてきてゐる。その結果として、平和で民主的でそこそこ豊かな社会を築いてきた。それを一旦ご破算にして、帝國憲法の改定からやり直そうといふのは、不文法が目指す漸進主義と真っ向から対立するものだ。師弟は本当に「保守派」なのか?
65年も民主主義を實踐してきて、未だに形式に筋を通す自信を持てず、無理無體な占領下での不法の「改正」を既成事實で以て正當化しようと言ふのは、成文法主義が目指す法治主義と眞つ向から對立するものだ。福田恆存は飽くまで法治主義を優先する考へから、單なる形式主義=官僚主義を排する事を主張したわけだ。
>今だに「条文どうするの」は大事だと思ってゐますよ。その「福田師の考へ」は「親切」な人でなければ到底理解できない大甘のトンデモだと思ふ。
極度に不親切に・意地惡に・陰濕に「理解してやらねえよばーか」と言つて端から否定する積りで讀むやうな人間が、「理解出來ない」なんて言つたところで、説得力なんて生まれるわけがないよ。N爺くんはアンチ福田だから福田氏の發言を却下してゐるだけ――トンデモだから正論を正論と認める事が出來ないのだと、世間一般の人は見る。
何處までも福田氏の主張を好意的に見て、不備があつたら積極的に擁護して、それでも何うしても筋が通らず、理論として成立たせ得ないと言ふのであれば、それは批判として最上のものになる。N爺くんの陰險な論法は、批判として最低のものだ。學がないからN爺くんは自分の低レヴェルな惡口を「まっとうな批判」と勘違ひして、威張つてやらかせてしまふのだらう。
>その歴史的発展の中で、英国は絶対王政から国民主権の国となった。
きみは無知なんだよ。N爺くん。
N爺くんもまた「戦前は民主主義でなかったから、あんな戰爭をひきおこしたんだ」と考へてゐるわけだが、これは「いまは民主主義だから、この民主主義を守っているかぎりあんなことは起らない」と云ふ考へ方に繋がる。ところが、「戦前だって、かなりの程度民主主義だった」のであり、普通選擧が實施され、普選で選出された衆議院があつた状態で、日本は滿洲事變、支那事變、そして大東亞戰爭へと突き進んだ。1942年の「翼賛選挙」でも、投票それ自體は自由意志による普通選擧で、非推薦議員が立候補して當選してゐる(推薦381に對して非推薦85)。問題は普選によつて選ばれた衆議院が滿洲事變・支那事變に反對せず、翼賛選擧の非推薦議員も大東亞戰爭に反對しなかつた事にある。「民主主義でなかったから戦争になったという認識ははなはだあやしい。」
1930年當時の日本の權力機構を考へると、政黨政治・衆議院の多數黨黨首が總理大臣になつてゐる政党内閣が掌握してゐる部分は80%程度、軍部の軍令系統(内閣に加はつてゐる陸海軍大臣の掌握下にある軍政ではなく、内閣から獨立した參謀本部や海軍軍令部=「天皇制」の部分)の掌握してゐる部分は20%程度だつた。「満州事変をひきおこしたのはこの20パーセントの、そのまた一部である。もし、80パーセント側が、これを本気で阻止するつもりなら、阻止は可能であった。天皇がやめろと言えばいいのである。天皇にそれを言わせること、天皇個人にとってそれを言うこと、共に完全に可能である。」立憲君主制の意識のあつた昭和天皇だから、衆議院の議決があり、政黨内閣の方針がはつきりしてゐれば、それに從つた事は疑ひ無い。
「しかし天皇は命令しなかった。これは何を意味するのか。ヒロヒト個人の80パーセント部分を含めての国の非天皇制的80パーセント部分が、本当のところは、戦争に反対でなかったからである。戦争の始めかたや拡大の仕方には異論があったけれども、武力を行使することには、つまり、「満蒙の特殊権益」を武力で確保することには少しも反対でない。冒険的に戦争を起して失敗されたら困るけれども、成功してくれれば大いにけっこう、大賛成なのである。そうして、この80パーセント部分は、普通選挙によって、国民全部と直接つながっている。普通選挙で選出されていた衆議院は、政権を取っている多数党も、少数野党も、戦争反対の意思表示など少しもしなかった。それどころか、開戦の翌1932年におこなわれた総選挙では、戦争にいくぶんしりごみ気味だった民政党は146名の少数党に転落し、終始戦争に積極的姿勢をみせた政友会が303名と圧倒的多数を獲得した。国民は戦争を支持したのである。」
N爺くんは、「絶對天皇制」が日本を戰爭に持つて行つて、その全責任を負ふべきである、國民は全く免責されてゐる、と主張し、だからこそ「絶對天皇制」を排除して國民主權の民主主義を守らなければならない、と主張してゐる。しかし事實は「絶對天皇制」の暴走を止めるべき民主主義の側が、寧ろ積極的にその暴走を後押ししたのである。
「われわれは、この関係を、よくよく見据ゑねばならない。日本は、民主主義でなかったから戦争を始めたのではない。天皇制だから戦争を始めたのでもない。民主主義だったにもかかわらず、また、狭義の天皇制は権力機構中で相対的に小さな部分しか占めていなかったにもかかわらず、戦争を始め、拡大していったのである。」
以上の記述は松浦玲「国家と天皇制」(雜誌「世界政経」1975年1月号「特集象徴天皇とは何か」所收)による。松浦氏は、續けて「これを天皇あるいは天皇制の弁護論だと誤解しないでいただきたい。」云々と述べ、「狭義の天皇制部分」に問題がある事を指摘し、「政党政治のいいなりになる80パーセント、いいなりにならない20パーセントの両方とも、つまり100パーセント、戦争賛成だった」事を以て昭和天皇の責任を追求すべきであると言つてゐる。さう云ふ「絶對天皇制主義者」でも何でもない松浦氏が、民主主義だから安心とは言つてゐない事に注意が必要だ。
ちなみに「前囘」の記述は同誌掲載の葦津珍彦「神道にみる天皇」を參考にしてゐる。
佐藤さん、
> N爺さんのやうな似非民主主義者を見るに附け、現憲法は觀念だけが
> 有り難がられ決して「定着」などしてゐないことがよく分かる。
観念(基本原理)を有難がってゐる(尊重してゐる)人が多いとしたら、それは
定着しているとして良いんぢあないですか?
> 無論「右翼」ではないが「左翼」ですらない。過去に立ち返ること
> も未來を見据ゑることも拒否する「前を向くことを許さない日本人」。
ですから、右翼でも左翼でもないって言ってるぢゃあないですか。ところが野嵜
さんはしきりに左翼だ極左だと言ってくれる。一度野嵜さんと意見の調整をして
みては如何でせうか。
> N爺さんには“いま”しかない。“いま”しか考へない。どのやうにし
> て“いま”があるのかと言ふ“過去”は全て「無かつたこと」にして
> しまふ。「左翼革新」であるなら、“未來”を見据ゑ、そのためには
> どうするかを考へなければならないが、どんなヴイジヨンを思ひ描い
> てゐるのか、N爺さんからは見えてこない。全て現狀維持。
成程、佐藤さんや塗炭さんは、右翼的ビジョンを思い描いてゐるから、立派な右
翼で、N爺なんぞは、何等のビジョンを持ってないから、左翼でもないって?まあ、
それは正しい観察ですな。(だから、左翼じゃないって言ってるだろ!)
自由主義者で個人主義者の爺は、右でも左でも、国や団体がだいそれたビジョン
を持つことは好ましくない、と思ってます。それを押しつけるとなると、トンデ
モない、とも。追及すべき価値は自分の中にある、と思ってゐますから。
塗炭さん、
>どうして、左翼思想を述べないといけないのでせうか。
> 私は右翼保守の立場で主張したから。即ち「過去千年以上の日本人が
> 守つて来た伝統的な権威(天皇の地位)をそのまま受け容れて次代へ
> 引き渡して行くのが自然な考へ方(保守)ではないか」と云ふ事。こ
> れを否定する立場は左翼革新(革命思想)になる。
それは答へになってない——塗炭さんが右翼でも、N爺が左翼でなければならない
謂れはない。
あと、それは、あまりに大雑把な「定義」でせう。例へば、その伝で行くと日本
国憲法の象徴天皇制は、保守的で自然な考へ方なのか、さうでないのか。
> ところでN爺は国家主権と国民主権の区別が附いてゐない。といふか日
> 本國憲法がその区別を曖昧にしてゐる。主権国家(独立国)には国家
> 主権も認められる。当たり前。
ええ、当り前、ですね、私も主権国家には国家主権があると思ひますよ。で、日
本国憲法はその(国家)主権は国民に有るとしてゐる(国民主権)。どこが曖昧
なんですか?
> 美濃部達吉先生の天皇機関説では国家主権と国民主権を区別してゐる。
あったり前でせう。といふか塗炭さん、君主主権と国家主権を混同し
てませんか?
> N爺さんよ、あんたが信じてゐる日本國憲法は日本に統治権(国家主
> 権)が無かつた時に出来た物だ。内容の良し悪しを言つてゐるのでは
> ない。日本は主権国家たらんとすべきではないか。それだけの事。
なあんだ、それだけの事でしたか。今既に主権国家だと思ひますが。帝國憲法に
戻るまでもなく。
> 自分を超へた国家といふ物、これは歴史的経緯に基づく伝統や文化に
> 支へられてゐるけれど、その国家を認めないのならN爺などは日本人で
> ある必然が無い。
だいそれた大義を持った国家など要らないけど、互いの基本的人権を尊重するこ
とを原理とした国家は必要だと思ふし認めてゐるし、その国民である事を誇りに
思ってゐますよ。その態度を「(右翼的)日本人ではない」と言ふなら、そんな
お仲間に加へて頂かなくても結構。
> 最う一度言ふ。私たち日本人は何故日本といふ國を維持しなければな
> らないのか。N爺よ、答へろ。あんた、肝心な事には何も答へない。
上の文章で答へになってゐるでせうか。
ところで、塗炭さんは、天皇制の維持が国家目的である、と信じてお
られるやうに見えますが、正しいでせうか。
>ですから、右翼でも左翼でもないって言ってるぢゃあないですか。
「君主制は絶對に認められない」とN爺くんは言つてゐるね。ならば明かに左翼ぢやないか。
とぼけるのも大概にし玉へ。呵々。
逆に、ぼくたちこそ、君主制でも共和制でも、獨裁的である事を拒否してゐるのだから、右翼でも左翼でもないわけだ。重要なのは自由な社會、開かれた社會である事だよ。ところがN爺くんは、自由である事も開かれてゐる事も全く重要ではなく、單に形式的に共和制でさへあればそれで十分である、と信じてゐる。
實際、N爺くんは、中華人民共和國の壓政を暗に支持するやうな言葉を漏らしてゐる。N爺くんは、左翼獨裁主義の到來を心の底では望んでゐるのでないか、とぼくは疑つてゐる。違ふかね。
>だいそれた大義を持った国家など要らないけど、互いの基本的人権を尊重することを原理とした国家は必要だと思ふし認めてゐるし、その国民である事を誇りに思ってゐますよ。
基本的人權を尊重する事を原理と「しなければならない」國家は遲れてゐると思ふね。そんなのは單に「國民は生延びねばならない」と言つてゐるに過ぎないよ。
人はパンのみにて生くるにあらず。生延びた先に、人間は立派な行ひをしなければならない。その「行なふべき立派な事」の觀念が、今の日本には全く無いわけだ。そして「生延びる事が出來る事を互ひに尊重し合つてゐるぜ」と、N爺くんなんかは平氣な顏をして威張つて見せてゐるが、耻づかしいね。
生延びる事なんかよりも大事な事がある、と世界の國々の多くの人々が信じてゐる。何しろ彼等は人間だからね。人間である彼等から見れば、日本人は、自分の生命だけが大事で、他人の幸福も名譽も正義も、何も大事にしない、卑怯な人間=人間未滿の存在になつてしまふ。
N爺くんは、生延びる事が一番大事だ、と言つてゐるのだけれども、「命あつての物種」だけで押通すのでは、世界の人々から輕蔑されるだけだよ。N爺くんは、國家に大義は要らない、と言つてゐるけれども、大義なき國家は、大義を持ち、正義の爲に頑張つてゐる世界の人々から、輕蔑され、嫌はれるだけだ。自分の正義を主張するからこそ、人間は敬意を以て遇される。正義と言ふと馬鹿にされるのは日本だけだよ。
>ところで、塗炭さんは、天皇制の維持が国家目的である、と信じておられるやうに見えますが、正しいでせうか。
何時の間にかN爺くんは天皇制破壞論者の本性を剥き出しにしてしまつたね。
國家の目的は國民の生存と國民の幸福の追求であるわけだが、その爲には國民に生延びる事を保障すると同時に、國民に生き甲斐を與へなければならない。
國家の歴史、國家の理想、國家の目的……さういつた物は、戰後の日本人が意地になつて排除してきたものだ。が、さうしてぼくらが求めるやうになつた「個人の目標」は、一體何だつたらうかね。金儲けだ。地位の獲得だ。權力慾の充足だ。今の民主黨政權を見玉へ、大義なき政治家の目的が權力を得る事に堕してしまふのは、明かだらう。それをN爺くんは、何うして「素晴らしい!」と絶贊できるのだらうか。ぼくにはわからないね。
N爺くんは、象徴天皇制を、ただ容認するだけで、その存在意義を全く認めない。だが、ぼくらは天皇の存在を、「認めてやる」なんて上から目線で考へたりはせず、逆に、積極的にぼくたちの生き方に役立つものとして認める。何より、ぼくたち國民は、上から目線で他人を見下すだけでは傲慢の罪に陷るだけであり、下から見上げてへりくだる機會を持たねばならない。天皇の存在意義は先づ其處にあるんだよ。天皇を尊敬する事で、ぼくたち國民は謙虚になる事が出來る。この效能は計り知れない價値を持つと思ふね。N爺くんは嫌で嫌でしやうがないのだらうが、それはN爺くんが「自分がこの世で一番偉いのだ」と思ひ上がりたいからだ。しかしそれは傲慢だよ。傲慢は罪だ。きみだつて人の事を傲慢だ傲慢だと罵るだらう。ならばきみ自身は傲慢であつてはならない、わかるね。
ぼくたちが日本と云ふ國を作つて、やつてゐるのは、歴史の中で日本と云ふ國が成立したからだ。戰爭前に日本と云ふ國があつたから、戰爭で負けても日本人は日本と云ふ國を續けてゐるに過ぎない。そして、天皇の存在は、歴史的な存在で、日本の歴史は天皇を中心にまはつてきた。この事は疑ひやうのない事實だ。象徴と言はうが何と言はうが、天皇家が續いてゐて、それで日本と云ふ國が續いてゐる事に、疑ふ餘地はない。ぼくたちが日本と云ふ國のなりたちを説明する爲には、何うしても天皇の存在に言及しないわけには行かない。
別に、歴史的に天皇家があつたから、天皇家を絶對的に崇拜しなければならない、なんて事は言はないよ。けれども、天皇家なる存在に一目置く事は、考へてよいだらう。ぼくたちはたださう言つてゐるに過ぎない。それを「絶對天皇制」だなんて、大袈裟過ぎるよ。逆に、君主制なんて認めないと絶叫するN爺くんの「象徴天皇制」支持の主張なんて、ぼくにはカムフラージュにしか見えないね。言ひわけだよ、「絶對天皇制主義者の福田恆存や野嵜ら」に當てつけてゐるだけだ。見え透いてゐるよ。
やあ、N爺。元気さうで何より。地蔵盆だけど暑いねえ。
>ええ、当り前、ですね、私も主権国家には国家主権があると思ひますよ。で、日本国憲法はその(国家)主権は国民に有るとしてゐる(国民主権)。どこが曖昧なんですか?
国家主権は国家にある。例へば宣戦布告は日本国といふ国家がするのであつて、一人一人の国民がするのではない。そもそもN爺の言ふ「(国家)主権は国民に有る」とするなら国民全員が例外なく宣戦布告に賛成しなければ戦争など出来ない。そんな全員一致(全体主義)なぞ大日本帝國憲法でも想定してゐない。いはゆる民意を鑑みて国家が交戦権を行使する。その国家の最高機関を天皇としたのが美濃部先生の天皇機関説だ。
繰り返すけれど、別に戦争をしたい訣ではない。さうではなく、N爺は国民の下に国家を置いてゐるけれども、世界の国々を見てみろ。国家があつて国民がある。それが普通だ。近代以降の主権国家は世界の秩序維持、或は、正義を実現する為に存在する。以下、馬鹿のN爺に附ける薬は無い。
御飯をちやんと喰つた方がいいよ。御昼御飯。
何と言ふか、敗戦からこつち「国家を疑へ」なんて言ふ奴が増えて、一時期「権力は国民にある、国家権力は悪であり、天皇はその最たる物だ、天皇制打倒!」といふ左翼運動が可なり盛大だつた。天皇制打倒! 日帝粉砕! なんて叫んでゐたけれど、国家を転覆させたところで、また新しい国家が出来るだけ。そしてまたぞろ「国家を疑へ」なんて言ふ奴が出て来る。日本のリバタリアンのやうに。
それにしても、左翼の自覚が無い「左翼」が現代の日本には多い。こういふ奴が一番話にならない。といふか暖簾に腕押し。
N爺曰く。
http://blogs.yahoo.co.jp/gahahayoumustbekidding/25861439.html
>自由主義者で個人主義者の爺は、右でも左でも、国や団体がだいそれたビジョンを持つことは好ましくない、と思ってます。それを押しつけるとなると、トンデモない、とも。追及すべき価値は自分の中にある、と思ってゐますから。
佛教では自分(自我)に執着しては行けないと教へてゐる。自分なる存在は空であり無常である。だとすると「追及すべき価値は自分の中に」無い。これだけでは不親切な書き方なんだけれど、長々と書いたところでN爺は理解する積りが無いのだから何うしやうもない。ともかくN爺の主張、否、左翼無神論者の主張の間違ひは、この一点に尽きる。
ちなみに西欧近代の自由主義や個人主義は、自分を超えた絶対の存在(神佛)を肯定してゐる。それを否定する筈の左翼無神論者が言ふ「自由主義」だの「個人主義」だのは怪しいと思つて間違ひない。それは「自分主義」です。
おまけ。私は文学に就いてはど素人なので佛教的な観点から言ふと、自分なる存在は空であり無常であるからこそ、福田さんは「演じる」と言つたのだと思ふ。仔細に就いては専門家に任せる。
それから福田さんは憲法学者でもなければ政治学者でも国語学者でもない。文学者です。彼の文章を読む場合は文学の観点で読むのが正しい。私はど素人ではあるけれど、出来るだけその観点で読むのが親切だと思つてゐる。
あらま、N爺の前の投稿も、ちゃんと入ってゐたのね。中々反映されないので、
てっきり締め出しを喰ったか、と思ひました。
塗炭さん、
> そもそもN爺の言ふ「(国家)主権は国民に有る」とするなら国民
> 全員が例外なく宣戦布告に賛成しなければ戦争など出来ない。
あのねぇ、議会制民主主義における主権在民の意義を、野嵜さんが丁寧にに説明
してくれてます。それくらい読んで下さいよね。
野> が選擧で選んだ議員が議會を作り、法案を審議し、法律を制定して、
野> 國家を運營してゐる。法案を審議してゐる間、その法案は飽くまで
野> 多數者・少數者の意見に過ぎないが、國法となつた瞬間にそれは全
野> 國民の意思、主權者たる國民の意思となる。要は、一國民・一個人
野> が主權者となる事はなく、飽くまで「主權の存する國民」とは法的
野> な意味での「人」=法人に過ぎないわけで、抽象的な存在でしかな
野> い。が、その法人たる「主權の存する國民」は全體として統一され
野> た意思を持つてゐなければならない。
第一、どんな法律だって、「例外なく賛成」しなくても、立派に成立してゐるで
せう。いっぺん、N爺みたいに、中学の社会科教科書から勉強した方が良いよ、塗
炭さん。
> 繰り返すけれど、別に戦争をしたい訣ではない。さうではなく、N爺
> は国民の下に国家を置いてゐるけれども、世界の国々を見てみろ。
> 国家があつて国民がある。それが普通だ。近代以降の主権国家は世
> 界の秩序維持、或は、正義を実現する為に存在する。以下、馬鹿の
> N爺に附ける薬は無い。
さうですか。では見てみませう。
> フランス憲法3条1項「国の主権は人民に属し、人民はその代表者を通
> して主権を行使するか、または、国民投票によって主権を行使す
> る」
> ドイツ基本法20条2項「すべての国家権力は、国民より発する。国
> 家権力は、国民により、選挙および投票によって、ならびに立法、
> 執行権および司法の特別の機関を通じて行使される」
> ベルギー憲法33条「すべての権力は国民に由来する」「権力は憲法
> に定められた方法により行使される」
> スペイン憲法1条2項「国家の主権は、スペイン国民に存し、すべて
> の国家権力は国民に由来する」
どうやら、とりあへず安定してゐる民主主義国家は「国民主権」のやうですな。
「国家があつて国民がある」は「空目」でしたか。
> 佛教では自分(自我)に執着しては行けないと教へてゐる。自分な
> る存在は空であり無常である。だとすると「追及すべき価値は自分
> の中に」無い。これだけでは不親切な書き方なんだけれど、長々と
> 書いたところでN爺は理解する積りが無いのだから何うしやうもない。
> ともかくN爺の主張、否、左翼無神論者の主張の間違ひは、この一点
> に尽きる。
その「空」って、もっとも有り勝ちな誤解、「空虚」と理解してゐませんか?い
やはや。本当に真面目にお勤めしてゐますか、塗炭さん。
それより、塗炭さんのお好きなニーチェの「実存主義」は、「自身」の中に価値
が有る、とするものだったやうな。こっちはもう良いのですか?
> ちなみに西欧近代の自由主義や個人主義は、自分を超えた絶対の存
> 在(神佛)を肯定してゐる。それを否定する筈の左翼無神論者が言
> ふ「自由主義」だの「個人主義」だのは怪しいと思つて間違ひない。
> それは「自分主義」です。
それも空目ですね。いや、近代ならさうかも知れませんが、今や、神仏の存在を
信じるてゐる自由主義者・個人主義者は(特に西欧では)少数派でせう。
野嵜さん、
うっかり早合点して、野嵜さん宛のは、こちらに書きませんでした。残念。それ
はともあれ、
N爺> ですから、右翼でも左翼でもないって言ってるぢゃあないですか。
> 「君主制は絶對に認められない」とN爺くんは言つてゐるね。なら
> ば明かに左翼ぢやないか。
>
> とぼけるのも大概にし玉へ。呵々。
象徴天皇制支持と言ったら、「君主制は絶対に認められない」となるんですか。
確かに笑へますな。とぼけてんだか、理解が足りないんだか。
> 逆に、ぼくたちこそ、君主制でも共和制でも、獨裁的である事を拒
> 否してゐるのだから、右翼でも左翼でもないわけだ。重要なのは自
> 由な社會、開かれた社會である事だよ。ところがN爺くんは、自由で
> ある事も開かれてゐる事も全く重要ではなく、單に形式的に共和制
> でさへあればそれで十分である、と信じてゐる。
まあ、有る事無い事、言いた放題ですなぁ。
独裁的である事を拒否しながら、どうして、帝國憲法へ戻らう、第一條から第四
條死守、なんて言へるんですかねぇ。
また、野嵜さんの「自由民主主義」へのとんでも決め付けを、ポパーを引いて、
「自由な社会」「開かれた社会」が重要と言ったのは N爺でしたよね。ったく、
物忘れひどいのか、卑怯なのか。
> 實際、N爺くんは、中華人民共和國の壓政を暗に支持するやうな言葉
> を漏らしてゐる。N爺くんは、左翼獨裁主義の到來を心の底では望ん
> でゐるのでないか、とぼくは疑つてゐる。違ふかね。
何をどう誤読したのか知りませんが、私が忌み嫌ふ全体主義国家としては、今の
中華人民共和国は、朝鮮民主主義人民共和国の次くらゐに来ますね。
N爺> だいそれた大義を持った国家など要らないけど、互いの基本的人権を尊重す
N爺> ることを原理とした国家は必要だと思ふし認めてゐるし、その国民である事
N爺> を誇りに思ってゐますよ。
> 基本的人權を尊重する事を原理と「しなければならない」國家は遲
> れてゐると思ふね。そんなのは單に「國民は生延びねばならない」
> と言つてゐるに過ぎないよ。
いや、それは間違ってますね。単に生き延びるのではなくて、自由に生きる事が
大事で、それを他の人にも保証しよといふ訳ですから。しかし、残念ながら、そ
れを求めて呻吟してゐる国の方が多くて、卒業できてゐるやうな国は少ないと思
ひますがねぇ。
> 人はパンのみにて生くるにあらず。生延びた先に、人間は立派な行
> ひをしなければならない。その「行なふべき立派な事」の觀念が、
> 今の日本には全く無いわけだ。そして「生延びる事が出來る事を互
> ひに尊重し合つてゐるぜ」と、N爺くんなんかは平氣な顏をして威張
> つて見せてゐるが、耻づかしいね。
さうですか、野嵜さんはとりあえず食えてはいるようなので、「行なふべき立派
な事」の観念が有るのですよね、何ですかそれ。まさか、そんなとんでもを書い
て平気な顔をしてゐる、なんて事ではないですよね。
> 生延びる事なんかよりも大事な事がある、と世界の國々の多くの人々
> が信じてゐる。何しろ彼等は人間だからね。人間である彼等から見
> れば、日本人は、自分の生命だけが大事で、他人の幸福も名譽も正
> 義も、何も大事にしない、卑怯な人間=人間未滿の存在になつてし
> まふ。
いやいや、他人の基本的人権も尊重しよう、と言ってますよ。で、これですら、
結構大変な事でせう。
かつて、八紘一宇とか、五族共和、世界首都ゲルマニア、等等、畏れ多いやうな
立派な大義を掲げた国家が有りましたが、結局自国他国の大勢の人々を死なせ、
自らも潰え去ったやうです。
また、プロレタリアート独裁を目指した国も、上の二国よりは長持ちしたやうで
すが、結局は無くなりましたね。
共通する点は何か。まあ、色々あるでせうが、基本的人権が守られなかった、と
いふ点が大きいでせう。兵営国家、異民族の差別、他国への侵略、言論の自由の
抑圧、階級間の格差……。
要は国家の「大義」「理想」などと言っても、自分勝手な誇大妄想を美化してゐ
るだけ、といふ事に、やうやく人類は気がついたのかも知れません。
> N爺くんは、生延びる事が一番大事だ、と言つてゐるのだけれども、
> 「命あつての物種」だけで押通すのでは、世界の人々から輕蔑され
> るだけだよ。N爺くんは、國家に大義は要らない、と言つてゐるけれ
> ども、大義なき國家は、大義を持ち、正義の爲に頑張つてゐる世界
> の人々から、輕蔑され、嫌はれるだけだ。自分の正義を主張するか
> らこそ、人間は敬意を以て遇される。正義と言ふと馬鹿にされるの
> は日本だけだよ。
さうですかねぇ、世間知らずの野嵜さんの世界世論はとても信用できません。実
際、強面の「支配者」達からは軽蔑されてゐる節は確かにありますが、その他の
人達からは、尊敬されて、好かれてゐると思ひますよ。それより、その大義、正
義が誰にとってのものか、なんて事に頭が回らない人(原理主義者、極右、極左)
が、馬鹿にされてゐるようです。誰にとっての正義か、どころか、その正義は何
ですか、なんて質問にも答へられない人達は、相手にもされないでせうね、きっ
と。
ちなみに、野嵜さんが帝國憲法に戻って実現したい正義って何ですか?
また、米国追従主義はその実現したい大義に入りますか?
> 別に、歴史的に天皇家があつたから、天皇家を絶對的に崇拜しなけ
> ればならない、なんて事は言はないよ。けれども、天皇家なる存在
> に一目置く事は、考へてよいだらう。ぼくたちはたださう言つてゐ
> るに過ぎない。それを「絶對天皇制」だなんて、大袈裟過ぎるよ。
> 逆に、君主制なんて認めないと絶叫するN爺くんの「象徴天皇制」支
> 持の主張なんて、ぼくにはカムフラージュにしか見えないね。言ひ
> わけだよ、「絶對天皇制主義者の福田恆存や野嵜ら」に當てつけて
> ゐるだけだ。見え透いてゐるよ。
わけわからん。絶対天皇制が大袈裟すぎるんだったら、象徴天皇制がが良いでせ
うに。
それに、第一條から第四條は、天皇が主権者であり、全軍の統帥権を持ち、不可
侵で、無答責であると言ってゐる。これを譲れない、といふのは、絶対主義を譲
れない、と言ってゐるのと同じだと思ふのですが、何か弁解する事はありますか?
天皇機関説はもう勘弁して下さいな。その絶対主義にあっさりやられちゃったの
ですから。
>どうやら、とりあへず安定してゐる民主主義国家は「国民主権」のやうですな。
それはN爺くん、自分に都合よく解釋してゐるな。歴史的事實を見玉へよ。
フランスは帝政、共和制を往つたり來たりした。
ドイツはナチスの獨裁に陷つた事がある。
何うだね。何處が「安定した民主主義国家」なのかね。N爺くんはナポレオンも知らないのかね。ナチスも知らないのかね。
スペインは、フランコ政權が戰後長い事存在した後王政復古。
安定してゐる民主主義國の代表は立憲君主制のイギリス。
オランダ、デンマークは主權の規定なし。
そもそも、「憲法の規定が何うであるから實際の政治が何うなる」と云ふ事は、法則がない。N爺くんは、憲法と政治の實態との因果關係には恰も法則があるかのやうに言つてゐるが、歴史は科學ではないから法則が存在し得ないとは、N爺くんの思想ではなかつたかね。
N爺よ、あんたは条文が好きだねえ。あんたの「主張」は、道交法には右側通行と書いてある、だから右側通行が正しい! と言ってゐるだけぢやねえか。そんな話を幾らしたつて、国民が道交法の正義(公共の安全と円滑な交通)を実現する、と考へなければただのお飾りになる。何度言へば解かるんだ。阿呆か。
N爺は「象徴天皇制支持」らしいが、本当に天皇の地位――伝統的な権威を認めて「天皇制」を支持してゐるのか? 若しさうなら明らかな右翼保守だ。あんたは「右翼でも左翼でもない」と言ってゐる。だとすると、日本國憲法に「象徴天皇」と書いてあるから取り敢へず支持だらうよ。書いてあるから支持。それなら美辞麗句を条文に書いて措けばよろしい。しかし、書いただけでは正義は実現しない。N爺のやうに正義を憎む奴がゐる限りは。
ともかく、あんたのいちやもんには厭き厭きしてゐる。また何処かで会はう。来年のここででも。
>独裁的である事を拒否しながら、どうして、帝國憲法へ戻らう、第一條から第四條死守、なんて言へるんですかねぇ。
N爺くんも「帝國憲法に戻つたら即座に民主的に改正する」と言つてゐる言葉を意地でも無視したいらしいねえ。これ、N爺くんの本心なんだらうね。そして、N爺くんは自分に都合よく他人の意見を歪曲する=N爺くんは獨裁的である。非常に危險だよ。
>また、野嵜さんの「自由民主主義」へのとんでも決め付けを、ポパーを引いて、「自由な社会」「開かれた社会」が重要と言ったのは N爺でしたよね。ったく、物忘れひどいのか、卑怯なのか。
「とんでも決め付け」とは好き放題言つて呉れるねえ。實際、Yahoo!掲示板で「自由民主主義者」を自稱した人は左翼だつたし、「自由民主主義者」を自稱した開高健も左翼だつたんだよ。「自由民主主義者」と自稱する人は左翼に決つてゐる。そして、すつとぼけて意地でも「私は右翼でも左翼でもありません」と言續けて胡麻かし續ける人間でもある。
>何をどう誤読したのか知りませんが、私が忌み嫌ふ全体主義国家としては、今の中華人民共和国は、朝鮮民主主義人民共和国の次くらゐに来ますね。
ところが、N爺くんは、その「忌み嫌ふ全体主義国家」がチベットやウイグルを武力で制壓してゐるのは大變に正しいと主張してゐるんだね。チベットやウイグルの人々が「全体主義国家」に抵抗してテロを行ふのは絶對に支持できないとN爺くんは言つてゐる。詰り、N爺くんは、「全体主義国家」を「忌み嫌ふ」けれども、その「全体主義国家」に抵抗する事は絶對に許せない、と言ふわけだ。N爺くんが如何に力強く「私は忌嫌ひます」と宣言したところで、「全体主義国家」のする事を默認してゐるわけで、實質的に支持してゐる事になるんだよ。
>いや、それは間違ってますね。単に生き延びるのではなくて、自由に生きる事が大事で、それを他の人にも保証しよといふ訳ですから。
自由に生きるのは單に出發點に立つだけで、其處から先が重要なんだよ。其處で何も目的を持たないでのんべんだらりと生きる事をN爺くんは大絶贊してゐるわけだけれども、ぼくにはそんな人間、絶對に褒める事は出來ないね。
少くとも、「自由なだけ」で良いだなんて、世界のどの國の國民も、思ひやしないだらうね。ところがN爺くんは、「自由なだけでなければならない」と力説してやまないわけだ。
>野嵜さんはとりあえず食えてはいるようなので、「行なふべき立派な事」の観念が有るのですよね、何ですかそれ。
ぼくの事を頻りに問題にしたがるけれども、N爺くんは、どうして議論でそんなに論者の事を問題にしたがるのかね。人格攻撃を仕掛けて喜んでゐるとしか思へないよ。ポパーだつて、論者の事だけを問題にせよとは命じてゐなかつた筈だ。
>いやいや、他人の基本的人権も尊重しよう、と言ってますよ。で、これですら、結構大変な事でせう。
きみは何百年前の日本に生きてゐるのかね。
>かつて、八紘一宇とか、五族共和、世界首都ゲルマニア、等等、畏れ多いやうな立派な大義を掲げた国家が有りましたが、結局自国他国の大勢の人々を死なせ、自らも潰え去ったやうです。
>
>また、プロレタリアート独裁を目指した国も、上の二国よりは長持ちしたやうですが、結局は無くなりましたね。
>
>共通する点は何か。まあ、色々あるでせうが、基本的人権が守られなかった、といふ点が大きいでせう。兵営国家、異民族の差別、他国への侵略、言論の自由の抑圧、階級間の格差……。
>
>要は国家の「大義」「理想」などと言っても、自分勝手な誇大妄想を美化してゐるだけ、といふ事に、やうやく人類は気がついたのかも知れません。
ところでN爺くんは、國家の「大義」「理想」と言ふと「八紘一宇」「プロレタリア独裁」しか考へつけないやうだね。
>実際、強面の「支配者」達からは軽蔑されてゐる節は確かにありますが、その他の人達からは、尊敬されて、好かれてゐると思ひますよ。
N爺くんが「思ひます」だけでは説得力がなさすぎるよ。何しろN爺くんは、自分に都合よく何でも解釋して、自分に都合の惡い事は全部歪曲してしまふ惡癖があるからね。
それに、「支配者」なるものに敵意を剥き出しにしてゐる時點で、N爺くんの立場は明かになつてゐると思ふね。
>ちなみに、野嵜さんが帝國憲法に戻って実現したい正義って何ですか?
きみはまだ自分に都合の惡い發言は「見えなくなつてしまふ」病氣が癒つてゐないのかね。呆れてしまふよ。ぼくにしても福田恆存にしても、帝國憲法に戻つたら、即座に基本的人權を尊重するやうに改定すべしと主張してゐるね。その點でN爺くんが依然として歪曲を續けてゐる事に、ぼくは日本人として絶望したいね。
日本人なら、嘘を吐かない、人の言つてゐる事をねぢ曲げて宣傳しない、と云ふ態度が當り前だからね。正直である事は日本人の目指すべき美徳だ。これは神道の基本的な發想だよ。
>また、米国追従主義はその実現したい大義に入りますか?
アメリカみたいな強國に追從するのは、單なる便宜だよ、理念とも大義とも何の關係もない。N爺くん、きみはその邊、恐ろしく日本人的に勘違ひしてゐるね。きみは本當に形式とか言葉尻とかにばつかり拘つて、理念・觀念の類をまるで理解しない。中原中也も、日本では「實質よりも名儀が何時ものさばる」と言つてゐたよ。だから日本では「批評精神といふものが發達しようはない」わけだ。きみみたいな「評定根性」だけが發達する始末だと、中原は自嘲してゐたね。
繰り返し附け加へて措くけれども、「憲法」「憲法」と煩い奴に限って条文解釈の話をしたがる。あのな、私も福田さんも野嵜さんもそんな話をしてゐない。あんたに附き合つて条文を挙げて説明する事はあつても、それが本題ではない。私の投稿を通して読めば解かる筈だ。
それからN爺さんよ、あんたの投稿は読み辛いぜ。去年も言つたけれど、好い加減、何とかしろ。
達者でな。御飯をちやんと喰ふやうに。
>わけわからん。絶対天皇制が大袈裟すぎるんだったら、象徴天皇制がが良いでせうに。
實質的に變はらない運用が「出來る」と、ぼくも福田さんも言つてゐるんだよ。
>それに、第一條から第四條は、天皇が主権者であり、全軍の統帥権を持ち、不可侵で、無答責であると言ってゐる。これを譲れない、といふのは、絶対主義を譲れない、と言ってゐるのと同じだと思ふのですが、何か弁解する事はありますか?
ぼくも福田さんも、「絶対主義を譲れない」とは言つてゐないよ。言つてゐないものをきみが敢へて「言つてゐるのと同じだ」なんて無茶を言つてゐるに過ぎない。
ぼくも福田さんも「憲法の改定には自づと限界がある」とだけ言つてゐるんだよ。
寧ろぼくは言ひたいね、N爺くん、きみは「憲法の改定には限界がない」と、恐ろしい事を言つてゐる、と。なぜなら、現憲法を改定して日本を獨裁主義やら何やらの危險な國家にしてしまふ事を、N爺くんは全肯定してゐるわけだから。
>天皇機関説はもう勘弁して下さいな。その絶対主義にあっさりやられちゃったのですから。
勘辨しないよ。なぜなら、N爺くんは、再び絶對主義を導入「できる」やうに、意地になつて「大日本帝國憲法から日本國憲法への革命的な改憲」を擁護してゐるんだから。
N爺くんは、「大日本帝國憲法から日本國憲法へ、と云ふ、凄まじい急進的な改正」を全面支持する、「憲法を白紙に戻して全く新しい國家體制を作る」事を全面支持する、と絶叫してゐる。それは餘りにも危險な發想で、ぼくも福田さんも認める事が出來ない。それを認めるなら、「民主的な日本國憲法」を「非民主的で獨裁的な危險な憲法」に再び改正する事を肯定する事になるからだ。
ぼくも福田さんも「憲法の改正には限界を認めなければならない」と言つてゐるのであり「憲法改正は改正限界を超えない範圍での漸進的な改正でなければならない」と云ふ保守的な主張をしてゐるに過ぎない。ただ、憲法が形式的に保守的であつても、實質的には進歩的に運用すればそれで大體問題なく上手く行くやうに出來るのであり、それを上手く運用するのは國民である、と常識的な事を言つてゐるに過ぎない。
N爺くんは、「それは絶對に不可能だ」と言ふ事が出來ない。ただ「出來ない場合もある」とだけ言ふ事が出來る。けれども、それは反論にならない。「出來る場合もある」からだ。ぼくらは「出來る場合もある」し、それには國民の意思だけが問題だ、と言つてゐる。N爺くんが日本の國民の意思を非常に輕蔑してゐるのと違つて、ぼくも福田さんも今の日本の國民なら大丈夫だらうと評價してゐるわけだ。
憲法の條文に據つて、「象徴天皇制」に「なる」だとか、「絶對天皇制」に「なる」だとか、そんな風にN爺くんは考へてゐるのだけれども、ぼくにはそんなに憲法の條文の力を信仰する事なんて出來ないよ。實際、今の日本人は「日本國憲法」の條文なんてまるで氣にしないで生きてゐるよ。福田さんが指摘した通りだ。
否、日本人は法律なんてまるで氣にしない――法律の條文なんかより自分の常識の方が正しいと、まあ、普通の人間は思つてゐるよ。ドライヴァは運轉中は大抵自分の常識で判斷して、道路交通法なんか忘れてゐるものだ。N爺くんの「條文が人を支配する」説は、常識的に考へて、あり得ない話だよ。
實際、憲法の精神なんてものがまるで身に附いてゐない人間はざらで、ウェブでも平氣で人の權利を侵害するやうな、N爺くんのやうな輩がごろごろしてゐるね。だからぼくは「日本國憲法」なんか定着してゐるものか、と言ふわけだよ。N爺くんはぼくの基本的人權だの言論の自由だのを考へた事があるかい?
「天皇主權」を「國民主權」に改める事を、N爺くんは肯定するわけだ。ならば當然、N爺くんは「國民主權」を「獨裁者の主權」に改める事を肯定する筈だ。ぼくも福田さんもそんなの認める事が出來ない。
日本國民から日本國民以外の主權者に主權を渡す事を認めるN爺くんは、やつぱり日本を中国に賣渡す事を考へてゐるのだと思ふよ。
コメント數が100を越えてしまひましたので、このコメント欄も一旦終了します。
結局、N爺さんの言つてくることつて「何でさう言ふ讀み取り方をする?」「何で今そつちに話が行く?」つてことばかりでしたね。