こないだ新潟市行つたとき見付けて、おお、新潟にも店出したのか。入つてみた。
まへにこれまた全國區の有名店「なんでんかんでん」が「なおじ」とコラボしてたとき何回か行つたのだが、店内がとんこつでケモノ臭いくらいだつた。ここもさうなのかな、と思つてたが一風堂はそれほど匂ひはきつくなかつた。
味も「なんでんかんでん」はかなり濃い目だつたけどこちらはわりとあつさり目。
麺を手繰つてゐるうちに「うまみ玉」と香油が自然に溶けてきて味が深くなつてくる。
當然替へ玉しました。とんこつはいろいろトツピングもあつて樂しいね。
まあもともととんこつが好きなんで「なんでんかんでん」もここも好きですね。
新發田では有名な「もつラーメン」の店。
國道7号を走つてると看板があるのでずつと氣になつてたんで、行つてみました。
なんか「もつ」とはいつても「ホホ肉」らしいですが。出てきたときなんかいはゆる「もつ」つぽくなく普通の肉でかへつて拍子抜け。とはいへよく煮込まれてて臭みもなく口の中で柔らかく崩れる。
ラーメン自體はあつさり醤油細麺で、肉もそんなに濃い味付けではないのでよくあつています。
もつに相當自信があるらしくメニユーはみんなもつがらみ。もつみそラーメンとかもつタンメンとか。普通のラーメンともつ丼てのもありました。
ひさしぶりに「ラーメン」カテゴリ。
「昔食堂なおじ」新發田店に行つたら、店名が變はつてゐたのでまへ「なんでんかんでん」としたみたいにまたコラボしたのかな、と思つたら今後この店名でいくらしい。
ここは最初ラーメン屋ぢやなくて、ほんとに「食堂」、定食や料理の店として始つてて、お、なおじが新發田にもできたかと入つたらメニユーにラーメンがないんだもの。その後ラーメン屋になつてたんだけど、ほんとなおじはいろいろやるな。
麺はかなり太めでモチモチ。出汁はメニユーにも書いてあつたけどウルメイワシ。背脂もたつぷり。味・量ともにガツツリいける。
まへの「ひら山」もさうだつたんだけど、ネギが刻み玉ネギだつた。最近はやつてるんだらうか。ネギより齒ごたへがあつて辛みもまたネギとは違つてこれはこれでうまいけど。
ぼくは「ラプラスの魔」は「ゐる」と思つてゐる。いや、現代物理學では「ラプラスの魔」は否定されてゐることは知つてゐます。しかし、「人智」を超えてゐるからこそ「惡魔」ではないか。人ならぬ「惡魔」であれば、宇宙の全てを知ることだつて不可能ではない。
あるいは「究極の方程式」があつて、それは數學はいふに及ばず、物理學でも化學でも、いやいや過去も未來も全て解き明かせてしまへる「神」の方程式。自然科学のみならず、人文科學、社會科學までも解き明かしてしまへる。しかし人間がどう背伸びしたつて「ラプラスの魔」にはなれないのと同樣、「究極の方程式」ももしあつたとしても人間がそれを見出だすどころか、そも人間には理解できないでせう。複雜すぎて理解できないか、あるいは「單純すぎて」理解できないか。
科學はいまのところ、宇宙を説明する手段として最も信頼されてゐますが、それは科學が「たまたま」、宇宙を合理的に説明できるといふことにすぎない。實はもつと單純明快で、より精緻な、合理的手法があるのかも知れない。とはいへ人間はそれを考へつかない以上、科學で宇宙を説明するしかない。
しかし科學は、惡魔でも神でもない人間が考へることだから、「絶對」はありえない。いや科學に限らないが人間のなすことで「絶對」があるとしたらそれは狂信者の腦の中だけだ。
それでも、「完全」に近づかうと、「實證主義」や「反證主義」、觀察や證明、論理による正當化、あるいは否定されるリスクを持たせ、批判にさらすことで信頼性を強くする、といふ立場が提唱されてゐるが、これらとて「完全」ではない。人間に「完全な」實證も反證もありえないからである。
で、あれば、科學とは不確實な假説に、肚を決めて信を置く、といふことにほかならない。惡魔でも神でもない人間は、「より」確實な答へ--そんなことはできつこないと覺悟しつつ−を求めて無限に問ひ掛け續けるしかない。
三宅さんがおつしやるとほり、科學においては「答へ」よりも、一連の思考思惟の過程にこそ価値がある
また、「無限に問い掛け續ける」、といふことは、今ある答への前に、それまでの無限の「問ひかけ」が、そして無限の「答へ」がある、といふことである。ではそれらは、新たな答へが出れば「ご破算」となるのか。いや、今ある答へは、それまでの「問ひかけ」と「答へ」の歴史の上に成り立つてゐる。であれば、その歴史を「ご破算」にすることは許されないし、できない。
「間違ひ」の積み重ねこそが、眞實への道程なのだ。
科學をぼくは「宇宙を説明する手段」と書いたが、それはすなはち宇宙によつて生まれ、宇宙を「宇宙」だと認識する「人間とはなにか」を説明することにほかならない。
それは「藝術」や「宗教」もまた目的を同じくする物である。藝術は「表現」によつて、宗教は「信仰」によつて「人間とはなにか」を解き明かさうとしてゐる。
ここで「宗教」が出てくることに違和感を感じる人がゐるかも知れない。
しかし宗教とは、それこそ「人智」を超えた物に、救ひを求めることであるが、救ひは、宗旨につて違ひはあれど「いかによく生きたか」によつてもたらされる。「いかによく生きるか」、それは「人間はどう生きるべきか」、すなはち「人間とは何か」を追求することである。「生きる」ことは人間の存在意義そのものであるからだ。
とはいへ、ぼくのいふ「科學」が「理想」でしかないことは分つてゐる。實際の科學者が、そこまで理想を追ひかけてゐるわけでもないだらうし、案外「目先の結果」しか求めてゐないのかもしれない。研究が「生活」になつてしまへばなほさらだらう。
藝術や宗教でも「眞理」が解き明かせなかつたやうに、科學にだつて「眞理」は分からない。であれば眞理を求める必要は無いのか。眞理を求めることは無駄な努力でしかないのか。
知恵とは「よりよく生きよう」とする意志にほかならないが、そんなこと考へてるヒマがあつたら、ルーチンワークで生きていたはうがよほどラクだし、効率的である。
だがそれは人間以外の、動物の生き方でしかない。
人間が知恵を持つてしまつたこと。その手段として「藝術」「宗教」そして「科學」が生まれたこと。それは「自分--人間とはなにか」といふ疑問を永遠に持ち續ける、といふことである。そのために人間は苦しみ、惱む羽目になつたのたが、ではなんのために知恵があるのか。--これはそれこそ「宗教」が受け持つ命題だらうけど、宗教も有効な答へをいまだ出してはゐない。
ラプラスの魔はそんな人間を嘲笑ひ、究極の方程式をもてあそぶだらう。それでもぼくは、眞理を求める人間の知恵に意味があることを願ふ。
...これつて哲學?
カラーリングが左右非對稱つてのはやはり思い切つたデザインだな。
何處ぞの馬鹿が「無斷リンク」に反對して、「私はリンクを張らない。ただURLを示すだけである」と偉さうに宣言した事があるけれど、わらひ
どこの馬鹿だつけな、と思ひ起こしてみると。
その節はどうも。
「リハーサル」でこれだけ魅了させられるのだつたら、「本番」はどれほどだつただろう。
Wikipediaには書かれていないけれども洗脳だから嫌だよ。日本の政治による表記の押し付けは戦後から始まった。から
そうなるとそんな人が従うべき仮名遣いは改革以前の人が従っていた物しか残っていない。の記事。
「歴史的かなづかいも明治政府の押しつけである」、「夏目漱石や樋口一葉は歴史的かなづかいでは書いていない」といふ、「現代仮名遣い擁護派」の主張。
しかし、「漱石や一葉が歴史的かなづかいでは書いていない」のならば、「押しつけ」ではないではないか。福田恆存や丸谷才一、いや「漱石や一葉」さへ「現代仮名遣い」になほされてしまふのは「押しつけ」でなくてなんなのだらう。