仕事をしてゐて休憩中、若い女の子に
「前お會ひしましたよねー」
と話しかけられた。そのこと自體は本當だつたのだが。
「今別のバイトしてるんですけど、佐藤さんのお仕事に興味あるんですよ。よかつたらお仕事に就いて教へてもらへませんか」
と言はれたので話してゐると、
「今餘り時間取らせても惡いですよね、あ、夕方よかつたら一緒にご飯行きませんか? ゆつくりお話しませうよ」
かう持ち掛けられ、特に用事もなかつたので了承し、聯絡先を交換した。
その日はもう「こんなことつてほんとにあるんだなー」と、鼻の下を伸ばしてゐたのだが、“負け惜しみ”みたいになるけど1割くらゐは、「セールスか宗教か? まあさうだつたら歸つてしまへばいーや」とは思つてゐたのだけれど。
夕方になつて、約束したフアミレスに行くと、丁度彼女も來た。
席に着いてメニユーを見てゐると彼女が、
「今の時間、先輩、同級生のお姉さんなんですけど、近くにゐるんでよかつたら呼んでもいいですか?」
と言ひ出して、「え?」とは思つたのだけど、“がつついてる”ように思はれてもな、と思つたのでいいことにした。
しばらくすると“先輩”もやつてきて、3人で食事しながら世間話をしてたのだけど本題のはずの“仕事”の話に一向にならない。
おひおひ話するつもりなのかな、と思つてゐたら樣子がをかしくなつてきた。
それまでは普通の世間話、住んでるところはどこなのかとか今何の仕事してるのか、と云ふ感じでお互ひに話をしてたのだけど、彼女が急に「人には持つて生まれた“運”と云ふものがあるんですよ」とか「“運命”と“宿命”つて違ふんですよ」とか、一方的にまくしたててきて、ぼくは「女の子だから“スピリチユアル”とかに興味あるのかなー」とか思つてその話には適當に相槌を打つてゐた。
だが、「歴史の教科書で『○○宗』なんて習つたの覺えてませんか」と言はれた時點で、「あこりやいかんわ」と氣附いた。
「さう言ふ話をしに來たんなら歸る」とさつさと席を立ち、傳票をつかんで3人分の代金も拂つて店を出た。
2人は慌てて「いえお仕事の話もしませうよ」と言つてきたのだが、氣分を害したのと、うかうかと來てしまつた自分にも腹を立ててゐたぼくは聽く耳持たず、車に乘り込んで歸つてしまつた。窓の外から「ぢやあこの本だけでも讀んでみてください」とかなんとか言つてたけど。
ある意味、“貴重な體驗”をさせてもらつたわけで。
後から來た“先輩”が、あまり自分ではしやべらず、女の子の話に相槌を打つてて、なんだつたんだ? と思つてたんだが、家族が「そつちの“先輩”で、仕事ぶりを見てて、いざとなつたら助け舟に入つたんぢやないの」、と言はれて、ああなるほどと。「どう云ふ先輩なの?」と聞くと「同級生のお姉さんで」なんてごまかしてたなさう言へば。
どうせなら“論破”してやればよかつたか、下つ端だから大した知識もあるまい、と後で思つたんだけど、もつと仲間を呼ばれても困るか。
しかし“勸誘”と云ふのは、もつと巧妙に世間話にオルグを混ぜ込んでくるものだと思つてゐたが、途中からえらいあからさまになつてこんなものか、と思つた。あれで引つ掛かるのゐるのかと。まあまだ經驗が淺かつたのかもしれんが。
聯絡先を教へてしまつたのでまた勸誘されるかとおもつたがその後聯絡は無い。逃げた獲物を追ふより、新しい標的を見つけたのか。
Twitter / @shokodei: 入信してしまうという手もありますね。 / ところで、熱心な信者のところへ、別の宗教が勧誘に来た場合、どうしてるのか、みたいな話を思い出しました。
まあ、入信したからつて彼女と必ずしもどうにかなるもんでもないだらうし。
それを言つたら“婚活”のために入信してしまふ人もゐるんでせうか。
近所に、宗教が“縁”で結婚したと言ふ夫婦がゐるもんで。
Twitter / @jns: 元はキリスト教のミサで信者にのみ配布してるうっすいアレなのか、へー オブラート - Wikipedia
道理で、あまりうまく“包み隱せて”無かつたなあ。
でも「方便」つてのがあるんだからもうちよつとうまくやつてもいいんぢや。途中からあまりに話がストレートになり過ぎたもの。
N爺さんまだやつてたんだ。
上記で批判されてゐる、朝日新聞の6/7號の「許して前を向く日本人」を讀んでみた。ぼくはいがらしみきおさんの「ぼのぼの」や「ネ暗トピア」が好きなので、どんなことを書いてるのか、見てみたかつたのである。
人を信じることが出来ないので、自分はどこから来てどこへ行くのか、この世界はいったいなんなのか、なぜ生まれてきたのか、そんなことばかりを考えてきたはずなのだ。
いがらしさんは、特定の宗教を信じてゐるわけではないが、上記のやうな素朴な信仰心は抱いてゐるやうだ。だがいがらしさんは人を信じることが出来ない
が、日本人はみんながみんな、まるで信仰のように人を信じてゐる
、日本人のみならずいがらしさん自身も許すことでしか前を向けないことに我々はもう気がついているのではないだろうか
と結んでゐる。
だが日本人は、「許して前を向く」ことができるのかどうかと、ぼくは思つた。「許して前を向く」のではなく、「前を向くことを許さない」のではないか。「許す」のではなく、「忘れる」「無かつたことにする」ことで、日本人は苦難を逃れてきた—乘り越えるのではなく—のではないか。
「原爆」に關して言へば、「忘れる」と言ふよりは「忘れさせられた」と言ふ面が大きいと思ふが、とまれ原爆を忘れ、原發を次々に建てて、過去の地震や津波、施設の構造的欠陥や老朽化を無かつたことにしたせいで、あれほどの災害を招いてしまつたのではなかつたか。
「忘れる」ことで「前を向く」わけでもない。「忘れた」「無かつたことにした」ことを蒸し返すことは許されない。蒸し返すこと—問題をあへて提起することは「前を向く」第一歩である。少なくとも原發では、樣々な問題が無かつたことにされ續けた。「前を向く」ことは許されなかつたのである。
これは原發に限つた話ではなくて、飛躍するが明治維新や大正デモクラシーの民主化運動を無かつたことにして、帝國憲法の時代は人權が抑圧されてゐたが、日本国憲法の成立によつて—自分たちで作つたわけでもないのに—日本は最早一端の民主主義國だと自讃してゐたり、假名遣ひの傳統を無かつたことにして現代仮名遣いを用ゐたりと、「無かつたことにした」ことで日本人は前進したと思ひ込んでゐるが、實は問題から目を逸らしてゐるだけなのである。
「忘れる」ことは「前を向く」のではなく「同じ失敗を繰り返す」第一歩に他ならない。苦難から顏を背け、逃げるのは「乘り越える」ことにはならない。苦しくても、「忘れる」べきではないのである。
ローカル番組で、過疎化した集落に都會から若者を呼び込んで活性化させようと言ふ特集をやつてゐたのだが。
首尾よく移り住んだ若者が定着し、結婚して家庭を持ち、やがて子供も生まれて、大きくなる。さうして集落で生まれ育つた子供にしてみればしかし自分は“田舎者”でしかないわけで、「こんなさびれた村はいやだ」と、都會にあこがれだしたらどうなるんだらう。
親たちは自分の遺志で生活の場所を決めたのだから、子供もさうすると言ひ出したら、認めざるをえないのではないか。
さらにいへばそもそも都會から移住してきた若者だつて、その親や祖父母は田舎の出だつたりして。ある意味うまい具合に行つたり來たりしてゐるわけか。
地震や津波で被災された方々に心からお見舞ひ申し上げます。
福島第一原發で危險な中作業をされてゐる作業員の方々にもお見舞ひ申し上げます。
頑張つてください。
こないだニユースで知つたんだけど、嫌煙の世の中今後存續出來るのだらうか。
“禁煙”してる人でも年に1度堂々と煙草を吸える機會だつたりして。
近所でやつてたので見てきた。宝くじの助成で安かつたし。
「オールチャイコフスキープログラム」と言ふことで、曲目は「幻想序曲『ロミオとジュリエット』」、「ピアノ協奏曲第1番」、「交響曲第5番」だつたんだけど、知つてゐる曲は「ピアノ協奏曲第1番」の第1樂章だけだつた。途中うとうととしてしまつたんだけれども、うとうとしながらも結構聞き入つた。知らない曲でもやはりプロの生演奏は聞かせるものだ。かへつて知らないはうが次の展開が分からず、聞き入るのかもしれない。
むしろ「くるみ割り人形」とか「白鳥の湖」とかのはうが知つてるぶん油斷して本格的に寢ちやつたりして。あ、でも“国立歌劇場”專屬樂團としては音だけやるわけにはいかないのかな。
「荒らし・粘着はスルー」といふのが“ネットマナー”とされてゐるが、野嵜さんは「“スルー”は荒らし・粘着を容認することだ」と主張してゐて、そのため粘着には徹底的に批判する。
すると批判された粘着は大抵かう言ふ。「こつちを粘着だと言ふなら、野嵜だつて粘着ではないか」と。
これは反論にはなつてゐない。
「自分は粘着ではない」と論證するなら—“粘着”以外の何物でもないことがほとんどなのだが—これは“反論”ではある。
しかし「お前も粘着だ」と言ふのは反論ではなく“居直り”でしかない。「〈たしかに粘着は惡いことだ、だが〉こつちを粘着だと言ふなら、野嵜だつて粘着ではないか」と、粘着が“非”であることを認めた上で、しかし責任を他者に押し附けてゐるからだ。責任を轉嫁したところで、自分の“非”が消えるわけではない。
就活は3年生からが當たり前、1年生でも早過ぎはしない、つて時代になつてしまつたやうだ。
しまひにや受驗生の段階から「この大學に入つてかういふ勉強をしますから、貴社に就職を希望します」とかなつたりして。
…そりやある意味まちがつちやいないのか。進學つてのは卒業後の進路も見越してだから。
“青田買ひ”を通り越して“苗買ひ”? “籾買ひ”? “先物買ひ”?