たぶん理解できないと思ふ。
野嵜さんがたしかもし高校野球のマネージャーが妹だったら
つてツイートを書いてたと思ふが見付けられなかつた。ラノベぢやん
と突つ込みが入つてたと思ふ。
ちよつと前までは、『らきすた』とか『とらドラ』とか、短いタイトルが流行つてたけど、“揺り戻し”てるのかしら。
21世紀版映像の世紀が作られるとしたら、それについて確実に言えることはツインタワーに突っ込む航空機から始まるだろうということ以外に何かあるだろうか。私はあると思う。
それは20世紀版より面白くないだろうということだ。
「21世紀版映像の世紀」第2集の最初の映像は、今回の尖閣事件の流出映像になると思ひます。
事件そのものの重要性ではなく、「映像が、マスコミの手を離れた象徴」として。
ぼくが望むのは對等な議論だ。對等でありさへすれば全く正反對の意見でも耳を傾ける。議論は互ひに對等の立場が無ければ成り立たない。
だが「年長だ」「經驗者だ」と氣取り自分を“上”に置いたり、「味噌つ滓」「負け犬根性」と相手を“下”に見たりしてゐては“對等”に議論は出來ない。それは議論ではなく、「負け犬根性の味噌つ滓は、大人しく年長の經驗者に從へばよいのだ」といふ、ただの押しつけでしかない。
それに「年長」「經驗者」といふのは自分でことさら吹聽するものではない。言動が伴つてゐなければなほさら輕蔑されるだけだ。
そもそもネツトで「年長」「經驗者」だと言つたところで意味がない。「爺」と名乘つたところで實際は10代かもしれないし。
前回紹介した「スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー『超ヤバい経済学』 神は細部に宿り給う」より孫引き。
もっとも善い教えは皆そうであるように、気候変動という恐れは、罪の意識と自己嫌悪をほしがる私たちの心を満たす。また、人の心にいつもある、技術の進歩は神罰を受けなければならないという思いを満たす。気候変動の恐れはこの重要な点で宗教に近い。また、神秘に包まれている点や、贖罪や償いのための営みが、何らかの意味で成功したかどうか、ついぞわからないところもそうだ。
“環境問題”は“科学的”であるやうで科學的ではない。多分に政治的、宗教的である。
空になつたペツトボトルを洗つてゐると、企業は本氣で“リサイクル”なんかする氣は無いんだな、とつくづく思つてしまふ。きれいに洗つた上に、しち面倒くさいラベル剥がしまでしなきやならない。
家ではペツトボトルを自家製の麥茶などのボトルにしてゐるのだが、かーいふ“リユース”は企業は望んでゐないんだらうな。
「温暖化」つて聞かなくなつたと思ひませんか?
「環境ホルモン」にしろ「オゾンホール」にしろ、解決したわけぢやないのに。
結局、環境問題つてのは“ビジネス”でしかないのではないか。“トレンド”があることもさうだし。「生物多様性〈biodiversity〉」も最近出來た言葉ではなく1985年にはすでに提唱されてゐた。だがニユースで取り上げられるやうになつたのは最近のことだ。愛知で10月に行はれた「COP10」だつて、多樣性を守らうと言ふ目的の1つは生物が“資源”だからである。資源としての生物は多樣であつた方が有用だからだ。
「生物多樣性」にしろ「温暖化」にしろ、環境を保全しようと思つたら經濟を縮小するしかない。他の地域や国にまで經濟活動—生物多樣性に影響が及ぶグローバル化なんてもつてのほか、といふことになつてしまふ。
“不況”のせゐで企業の業績が落ち、そのおかげでCO2排出量を削減できたわけで。
“陰謀論”は好きではないのだけど、この今の世界的不況つて、枯渇しかけてる資源の節約のためわざと經濟規模を縮小させてゐる、つてことはないのだらうか。
「スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー『超ヤバい経済学』 神は細部に宿り給う」の引用部分。
「ガイア教の天使クジラ」カテゴリもおすすめ。
間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない
この命題は眞か。
“對偶”をとつてみる。
發言する資格があるのは、間違つたことを言はない人間である
これが眞ではないことはいふまでもないだらう。間違つたことを言はない人間
なんてゐるわけがない。ゐるとすればそれは“神樣”である。よつて冒頭の命題も眞ではない。
人間は「間違つたこと」をいふから、“議論”がある。互ひに意見を—間違つてゐるかもしれないことを承知で“發言”を出し合ひ、“間違ひ”を指摘しあつて、より“正しい”意見に近づけるためである。
冒頭の間違つたことをいふ人間は、發言する資格がない
が“正しい”といふ人間がゐるとすれば、それは自分が“常に正しい”と考へてゐるからである。さうでなければ、まづ自分自身に發言の資格がないことになつてしまふ。前述のとほりこの命題は正しくなく、“間違ひ”なのだが、しかし間違つたことをいふ人間でも發言する資格はあるのだから、この命題を主張する自由もある。—他人から「その意見は間違つてる」といはれるだけだ。もつとも主張した本人は自分が“常に正しい”と考へてゐるから、その“正しい”自分の意見を否定する人間こそが“間違つてゐる”、發言する資格がない、そんな奴らの意見など聞き入れる必要はない、と考へるだらうけど。
ぼくがwebで發言するとき、自分の意見が100%正しい、と思つて發言してゐるわけではない。逆に、間違つてるかもしれないけど、間違つてゐるかもしれないからこそ、世に“問ふて”みよう、と考へて發言する。もし間違ひであればその間違ひを指摘してもらひ、意見を修正する。指摘が納得いかないものであれば意見を變へる必要はない。
「反證主義」といふ言葉を最近知つたのだが、ぼくの考へがこの主義の理念に近いものであり、“間違ひ”ではないことを知つて非情に心強かつた。
お互い人間なんだから、話せばわかる、といふには、「あなたの話は私も分かる」といふ姿勢でなければならない。
Twitter / かふし:延々が永遠になりさうな位なんだけど、援護出來る智識が無い
人間は不完全である。
だから、完全な物である“理性”に合致した言動を採らうとするのが“合理主義”である。
だが理性は完全であつても、人間がいかんせん不完全であるから、理性を完全に扱ふことはできず、合理主義も完全とはならない。
だからと言つてどうせ完全になれないからと言つて合理主義を捨てる必要はない。むしろ完全になれないからこそ合理主義でもつて完全に近づく努力が必要なのである。
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(もしドラ)』の賣上げが100万部を超えた、てことでこないだ報道番組で特集してた。
で、『もしドラ』を實際の會社の經營に生かしてゐる、といふ事例を紹介してた。
その會社では1人の女子社員を主人公の女子マネに見立て、ほかの社員もそれぞれ登場人物に當てはめてチームを作り、『もしドラ』をテキストにして經營刷新、「イノベーシヨン」をはかつてゐる、といふことなのだが。
見てて、「違はないか?」と思つた。
その會社の會議のテーブルには『もしドラ』はあつたけど底本であるドラッカーの『マネジメント・エッセンシャル版』はなかつた。
特集では『もしドラ』の作者も出てたんだが、「『もしドラ』は95%が青春小説で、ビジネス書の部分は殘り5%」と作者自身も言つてゐるやうに、『エッセンシャル版』をネタにした小説でしかない。
『もしドラ』が經營の參考にはならない、といふことはないかもしれないが、參考にするんだつたら『マネジメント』をテキストにすべきであつて、『完全版』やほかのドラッカーの著作を讀破しろとはいはないが、せめて『もしドラ』の底本である『エッセンシャル版』を讀むべきだらう。
ドラッカーの著作は10年後も讀まれてるだらうけど、『もしドラ』は3年も經てば忘れられてるだらうな。
ちなみに、近所の圖書館には『エッセンシャル版』も『もしドラ』も兩方置いてあつて、『エッセンシャル版』は棚にあつてすぐ借りられるけど、『もしドラ』は豫約3ヶ月待ち。
JAのカレンダーが自宅に貼つてあつて、月ごとに健康食品について書いてあるんだけど、10月は「アントシアニン」についてで、ブルーベリーなどを取り上げてゐた。
アントシアニンはアルコールによく溶け出す、ということでブルーベリーやぶどうをリカーに漬けて果實酒として飲んでもよいでせう
、と書いてある。
でもぶどうを果實酒にするのは違法なのだ。
このページによると梅酒などの果實酒を作ることは酒税法では合法だが、ぶどう(やまぶどうを含みます。)
は酒税法で禁止されてゐる。
ぶどうのエキスにアルコールを混ぜたら「ワイン」になつちやふからだらうか。
ブルーベリー酒は作つても大丈夫なやうです。
最近「男の人口が激減して女が將軍になり、大奥は男の園となる」といふマンガが映畫になつた。これを「マクラ」にするのも不敬な話だけど。
もし、今後天皇家に直系男子が生まれなかつたらもはや女系天皇も仕方ないんぢやないか。
『ゴーマニズム宣言』でよしりんがいつてることに賛成なんだけど、「側室」は民主主義の時代にはそぐはない「身分」だし、「天皇家に『婿』が入つたら『易姓革命』になつてしまふ」といつたところで天皇は「爲政者」ではないのだし、天皇家に入つた時點で「姓」は失はれ、義務だけでなんの權利も無い。日本国民は天皇家の子孫のやうなものなのだし。
そもそも中国の「易姓革命」は天によつて選ばれた人間が支配者になり、天命が盡きればほかの人間と交代するのであり、神話により神の子孫であるとされる天皇とは性質を異とする。
江戸時代に分かれた「宮家」を復活させる、といつても、そんな「遠い親戚」を連れてくるまでもなく本家に後繼者がゐるのだからそちらの血筋を繼いでいくはうが自然ではないか。
天皇は存續するべきだ、といふなら、より無理のない方法がよい。