實際、好きなんだらうね。
武器や兵器は好きだし、戰術や戰史も好きだし。
「やりたい」とはぼくは思はないけど、昔人の嫌がる軍隊に志願で出てくる馬鹿もゐる
なんて歌もあつたし、日本人でも、傭兵になつて戰場に出るのもゐる。
先日圖書館に行つたら『せかいでいちばんつよい国』といふ繪本があつた。
あらすじは…
せかいでいちばんつよい國があつて、國民や大統領は「つよい國の國民である自分たちが世界で一番幸福であり、世界が全てつよい國になることが世界の幸福である」と信じ、他の國を次々に征服する。なにしろ「せかいでいちばんつよい國」なので、抵抗空しく併合されてしまふ。最後に殘つたのは小さな國。いつでもとれるからうつちやつてゐたのだが、殘しておいては世界征服が完遂しない。しかし小さな國は非武装だつたのでつよい國の軍隊は無血で進駐する。それどころか、小さな國の國民にあたたかく迎えられ、兵士と仲良くなり…
といふおはなし。實は作戰で、つよい國の兵士が油斷したところをグサリと…といふオチではない。
タイトルにつられて讀んでみたが、正直「甘い」と思つてしまつた。現實の「世界で一番強い國」が過去の日本も含め世界で何をしてきたか、現状何をしてゐるかを考へると、こんな明るい結末は無いだらうと。
現實の「世界で一番強い國」はたとひ相手が眞實非武裝であつたとしても、「武器を隱してゐる」とかでつちあげて攻撃するだらう。「誤爆」も「接収」もしない「つよい國」の軍隊は人道的すぎる。
現實の「強い國」は「つよい國」ほど常勝不敗でもないし。
とはいへぼくなどは「甘い」と思ふけど、教条的に「平和」を押し附けてゐるよりは、皮肉も效いてて面白い。
作者は『ぞうのエルマー』が有名なデビツト・マツキー。イギリス人ださうで、たしかにアメリカ人では書けなささうだ。ほかにも戰爭はなぜ起こるのかを子どもにも分かりやすく描いた『六にんの男たち』といふ繪本も描いてゐる。
日本の戦争は単独行為ではなく、日独伊の枢軸戦線のアジアでの一翼として展開されたことの思想的意味を把握すべきだろう。つまりナチス・ドイツの戦争には批判的で日本の戦争だけを防衛的なものとして肯定する立場は、姑息な泣き言にほかならない。
野嵜さんも書いてるんだけど、第二次大戰は後の「自由主義對共産主義」の東西冷戰のやうに、「帝國主義對自由主義」の戰ひではない。連合國、米英佛も植民地を持つてゐたのだし。
強いて言へば「帝國主義の先進國對後進國」といふ圖式にこじつけられなくはないが。
もう1點、第一次大戰ではドイツが日英の共通の敵であつたのだ。三國同盟は主義や思想ではなく政治の結果でしかない。だから第三帝國の戰爭は批判し、大日本帝國の戰爭は肯定する、といふのは矛盾ではない。
もつともぼくは第三帝國も否定はしないが。ヒトラーの出現は歴史の必然だと思ふ。
メモ。
神社本庁の「靖国神社の諸問題への見解」を読むと、我々の多くの疑問に答えてくれる。http://bit.ly/9HCXda そもそも神道で分詞という考え方はおかしいこと。東京裁判が、法根拠無き裁判だったこと。首相は多くの戦死者のために堂々と参拝すべき事など。
(続き)「A級戦犯」とされた方々のみを御神座から「分離」するという意味での「分祀」はあり得ないとする靖国神社の見解は当然である。神社本庁は、靖国神社をめぐり、神社の尊厳に直接関はる御祭神の問題までが政治やマスコミの場で軽々に議論されていることに対して、遺憾の意を表明する。
靖国神社は神社本庁に属さない独立系の神社だが、神社本庁のこの見解は立派なものである。戦争自体が如何に不幸な愚行であったにせよ、古来よりあらゆる国で戦争は繰り返された人類が共有する業の歴史であり、中国や韓国にその死者の祀り方に対して口出しされるべきものではない。
新潟縣立自然科學館でやつてる「お化け屋敷で科学する!〜恐怖の実験〜 in新潟」を友人と見に行きました。
博物館でお化け屋敷? となんかミスマツチですが、會場には設へてあつたお化け屋敷は、さすがにちやちいのですが、それでもなかなか怖く驚かされます。
それにしても、ぼくらの後に入つてきた小學生の團體が、「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返しながら進んでたのですが、結構お化け屋敷でいつてしまふ人は多い氣がするけど、なんで「ごめんなさい」といふのだらう。自分で怖い目を見たくて入つてるのに、誰に謝つてるんだ。
でわーきやーとその子たちがぼくらを追い越してしまつたので、追い越すタイミングで「わーつ」と脅かしたらさらに「ごめんなさいごめんなさい」いひながら逃げてつた。友人にもいはれたが、惡いことしたなあ。
野嵜さんのtwitterより。
電子書籍に人氣がないのは、ビューアの書籍風のインタフェイスが鬱陶しい事も大きな原因だと思ふ。テキストエディタみたいなので十分だと思ふのだが。
なんで「本だからめくるインタフェイスがいいのだ」なんて、どのプログラマもデザイナも端から思ひ込んでゐるんだらう。
本のページをめくると云ふメタファが「あり」なら、スクロールだつて卷き物のメタファだと言張れば、電子書籍のインタフェイスとして「あり」と云ふ事にならないか。
實際、webブラウザはスクロールになつてるわけで、なんで電子書籍はページごとにしてしまふのだらう。「書籍」といふ言葉からどうしても「冊子」を思ひ浮かべてしまふのか。webテキストは最初から電子テキストとして作成するが、紙の本を「電子化する」といふ考へが「ページ」を作らせてしまふのか。
本は最初巻物、それこそ「スクロール」といふ形だつたが、讀み易くするため折つたり切つたりして「冊子」になつた。巻物を切つて束にしたためにページが發生したのだが、巻物には當然ページは無い。電子化によつて「巻物」に戻し、ページも無くなつたはうがよい、といふことになるのだらうか。實際電子書籍だと次のページを讀み込むときタイムラグが生じたりするから、イツソテキスト全部表示して、スクロールできるやうにしたはうがスムーズに讀めるのではないか。
昔の「ホームページ講座」で、ページは小分けにしたはうが良い、といはれてたのは當時の通信速度の問題もあつたけど、今考へてみると、ブツクマークしづらい—ページの途中でブツクマークすることができない、といふ點もあるやうな氣がする。
id屬性なしでもページ途中でブツクマークできるやうになるといいのだけど。
巻物といへば忍者が口に咥へる、といふ繪はいつからあるのだらう。あれは咥へてることで巻物に書いてある呪文を唱へたぞ、といふことなのか。
前に書いた「死と使徒」でつかこうへい氏の遺書の「散骨」について觸れたが、それについてもう少し書いてみたい。
最近は散骨は宗派に據らない、自由な葬送の形として選擇する人も増えてゐる。「自然に帰りたい」、つか氏なら「日韓の架け橋となりたい」といふ理由となるが、散骨も葬送の一種である以上、宗教的行爲に他ならない。
「死んだ後自分がどうなるか」は殘つた者に託すしかない。死後も精神—「モノ」が存在し續けてゐるとしたら、自分の思つたとほりに遺體が扱つてもらへなければ無念だし、存在しないとしても遺志を無視されたことになる。
自らの死後の安寧を願ふ、もしくは死者を悼むこと自體が「宗教的感情」である。それは本人が「無宗教」だと思つてゐても特定の宗派に據らない、といふことであり、「非宗教」ではない。自分は「無宗教」、もしくは「宗教なんかくだらない」、と思つてゐても、それは自分にある宗教心に氣附いてゐないだけではないか。
前に宗教とは、「自分は何のためにここにゐるのか」といふ問ひかけである、と書いたが、それは言ひ換へれば「何のために生まれ、死んでいくのか」といふことでもある。「自分ではどうしやうもないこと」、自然、運命、そして生死、これらを問ふのが宗教である。
ただ、塗炭さんのコメントを讀んで氣附いたのだが、宗教は死者ではなく、殘された、そしてこれから死ぬ生者にこそ必要なものだ、といふ視點を忘れてゐた。「究極の主觀」である宗教をぼくはあまりに理屈で考へてゐるかもしれない。
「死體を特別扱ひすることは宗教である」とぼくが書いたら、爺さんは死體をただ捨てれば犯罪になるからですよ
といつてきた。
だとすれば、原始人が死者を丁重に葬つてゐたのも犯罪になるから
なのか。事故などで遺體が行方不明の場合、空の棺で葬儀が營まれることがあるが、それも法律によつて決められてゐるのか。
話は逆で、死體は特別扱ひすべきであるといふ通念があるから、「死體をゴミとして捨ててはならない」と法律が定められたのである。
人が1人死ぬ、といつたところで、社會からみれば1人減つただけである。現に、行政では死亡届を出せば、戸籍から抹消されてそれで終はりである。
それに死體は「物體」としてみればただの肉の塊なのだから、「大きな生ゴミ」でしかない。食べ殘した魚の骨は一々丁重に葬つたりはしない。ゴミに出しておしまひである。人間の死體だつてさうしてもよいはずである。
だが人間は、家族や知り合ひが死ねばその死を悲しむし、できうるかぎり丁重に弔ひ、墓を建てる。さらには家に祭壇を設け、折に觸れて死者を思ひ出す。これはなぜなのか。
人が死ぬ。
きのふまで食ひ、喋つてゐた人間が全く動かなくなる。
でもその人間はそこに存在してゐる。では食ひ、喋つてゐた「モノ」はどうなつたのか。體が死ねば、「モノ」も同時に消えてしまふのか。
いや、「モノ」が體から拔け出たことで、體は動かなくなつたのかもしれない。
さういへばこないだ死體を毆つたやつがゐたが、そいつは大ケガをしてしまつた。「モノ」が怒つて仕返しをしたのかもしれない。死ぬときつと「モノ」は體から拔け出るが、見えないだけで生きてゐるときと同樣「モノ」は動き續けてゐるのだらう。
であれば、死體は丁重に葬り、死者を忘れないやう墓や祭壇も設けよう。さうすれば「モノ」も怒らない。いや逆に、生きてゐる者に恩も返してくれるかもしれない。
さうすれば何より自分が死んだときも、丁重に葬つてもらへる。忘れないでもらへる。
上記はぼくの想像でしかない。地域や民族によつて死體と「モノ」についての捉へ方も千差万別である。けれど、つまるところ死體、死者に靈性、神秘性を感じることが宗教の始まりではないか。そのほかにも自然への畏怖や運不運など、「人智」を超えたものを考へることが原始的な宗教となり、部族の風習となる。
それが部族同士の交はりにより影響し合ひ、國家規模、さらには國を超えたものにもなる。これが現在の宗教である。
近代化は世俗化、宗教からの獨立だといふが、西洋の個人主義はキリスト教の神の元での平等によるところが大きい、といふか元々個人は全て平等である、王も市民も奴隷も、いま偶々その身分であるだけであつて、機會があれば奴隷も王となれる、といふ社會があつて、それを下地にキリスト教、といふより聖書宗教は成立したのではないか。
餘談だけれど、支那においても天命により民も王、皇帝となる。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」。大陸の東西においてこの相似は興味深い。
ともあれ、「近代國家」を具現化したアメリカでも、遺體を生ゴミに出せるわけではない。死に對する本能的な恐怖や不安がある限り、人間は宗教を否定できない。
最近の佛教は「葬式佛教」なんて揶揄されることもあるけど、普段の生活では縁遠くても、死に際して宗教の出番があるのはむしろ當然なんぢやないか、とこの記事を書いてて思つた。
丁度先日、つかこうへい氏が亡くなつたが、遺書に私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。
とある一方で日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。
つまりは自分の遺體を意味のある場所に安置したい、自分の死を意味のあるものにしたいつてことだよね。
ぼくは爺さんといふ人物を全く信用してゐないので、ごめんなさい
されても素直に受け入れることができません。
謝つていただく必要はない。
議論さへしてくれれば、それでいいのです。
俺がエホバの証人叩き・モルモン教叩きをやらないのは、宗教に關する知識もさる事乍ら、そもそも自分を律する宗教心を持合せてゐないから。叩く事より先にすべき事があるのでないか。
自分が何かの宗教を信じてゐて、その價値を押附けるに價すると信じて他の宗教・宗派を批判するなら、あり得る。けれども、何も信じてゐないで、宗教を信じてゐる人を叩くなら、それは遊びでしてゐるので、何の意味もない。
野嵜さんのTwitterを讀んで思ひ出した。前に爺さんと宗教についてのやりとりをしたことがあつた。
「知識」と「信仰」についてぼくは、「知識」は「自分は『どのやうにして』ここにゐるのか」
についての答へであるのに對し、「信仰」は「自分は『何のために』ここにゐるのか」
といふ問ひかけに對する答へである、といふぼくの主張に對し、爺さんは、「エホバの証人」の主張みたいで、「笑止」ですな
と答へてきた。
ぼくはエホバの証人の信者ではないが、ぼくの「信仰」に對する認識が宗教側の主張と一致してゐるのだから、ぼくの認識もあながち間違つてゐない、といふことである。
エホバの証人について、ぼくは「輸血拒否」くらゐしか知らないが、それで命を失ふ信者もゐるわけで、文字通り「命懸け」の信仰であるといつていいだらう。といふか、宗教者が信仰を失ふことは命を失ふことに等しいのであり、その「命懸け」に對し、爺さんは「笑止」だといひはなつた。それは宗教差別である、とぼくは反論した。
すると爺さんは、宗教は互ひに否定しあつてゐるのだから、宗教そのものが他の宗教に對して差別してゐるではないか
、と言ひ返してきた。
そこで話は別の話題に移つてしまつたのだが、宗教による宗教差別を肯定するのであれば、爺さんは何らかの信仰を持つてゐて、だからエホバの証人の信仰を否定するのか、と聞くべきであつた。といふか、爺さんに限らないが、「信仰」とは「迷信」でしかない、と思つてゐる日本人は多いだらう。「迷信」だから宗教そのものを一笑に付せるのである。
だからといつて、自分が死んだ後遺體を生ゴミに出していい、と思へる日本人も少ないだらう。だが信仰が迷信でしかないなら、死體はただの腐つた肉の塊でしかないのだから生ゴミでいいはずである。焼却場で灰にして處理場に埋め立てればいい。土地の不足や遺族がゐなくなるとかいつた墓地の問題も無くなる。でもそれでいいとは思へないだらう。といふか「腐つた肉の塊」呼ばはりそのものに違和感を感じるのではないか。自分が死んだ後丁重に葬つてほしい、といふのは宗教に他ならないし、それは誰もが持つてゐる感情である。信仰の違ひによる他の信仰の否定、は仕方ないにしても、信仰は迷信でしかない、だからバカバカしい、くだらない、といつて宗教そのものを否定することはできない。
「信仰の違ひ」にしたつて、ぢやあ宗教團體は日夜他の團體に攻撃をしかけてゐるのか、といへばそんなこともない。教義では他の宗教を否定してゐて、それを口に唱へてゐるとしても、一々實行に移してゐたら切りがない。現實として共存してゐるわけで、いはば「方便」である。
爺さんは「自分が死んだ後どうなつたつて構ひませんよ。遺族が葬式を擧げないと言ふのであればそれでいいです」といふかもしれないが、さうなつても化けて出たりはしないでいただきたい。化けて出るのも宗教の1部なのだから。
と、いふか、爺さんが信じてゐるのは「自分教」なのだらう。
「自分」が本尊であり、絶對なのである。「自分」がさうだ、と思へばそれは正しいのであり、「自分」に異を唱へる者、ぼくや野嵜さんは邪惡であり、人間扱ひする必要はない。
かうしてみると、爺さんが野嵜さんにやたらと絡んできたのも、「自分」を崇めろ、といふ「折伏」にしか思へない。
もつとも、「自分教」で檢索したら、「自分自身に恥ぢない生き方をしよう」といふ「自律」の意味での「自分教」の主張もあつた。かーいふ「自分教」ならいいんだが。
つひでに。ぼくは「自分は『何のために』ここにゐるのか」
なんて考へたことはないです。そんな空恐ろしいこと。
無料になつた日東道早速乘つてみた。
さすがに交通量は増えてた。まあ快適に走れたけど。今まで新潟市まで1時間餘りかかつてたのが40分くらいで着く。これはありがたい。
新發田市までの車は新新バイパス、新發田以北は日東道、と棲み分けできればお互ひに交通量が丁度良くなると思ふのだが。土日がどうなるかだな。
お氣附きかもしれませんが、インデツクス、月別、カテゴリ別アーカイブで10記事ごとにページを分割しました。このブログはMovable Typeで作つてゐるのですが、Movable Typeはデフオルトでページの分割ができない。
ですが最近、偶然にページを分割するプラグイン「PageBute」を見附けまして、テンプレートに導入してみました。
最初タグの置き方がよく分からなかつたのですが、<mt:Entries>
タグを<MTPageContents>
で圍み、<mt:Entries>
はlastn="0"
として表示を無限大に、<MTPageContents>
のアトリビユートをcount="10"
にして10件づつ分割にして、<$MTPageSeparator$>
は</mt:Entries>
の前に入れてやるとよいやうです。
H5要素でナビを設置してあります。
最初「カテゴリ別ブログ記事リスト」テンプレのコードをそのまま「メインページ」にコピペしたら
とエラーが出てしまつた。Can’t call method "entry_based" on an undefined value
を「メインページ」に置くとかうなるやうなのでご注意。<$mt:ArchiveTitle$>
以下サンプルコードご參考までに。
<MTPageContents count="10"> <mt:Entries lastn="0"> <mt:Ignore><!-- Use the Entry Summary module for each entry published on this page --></mt:Ignore> <$mt:Include module="ブログ記事の概要"$> <$MTPageSeparator$></mt:Entries> </MTPageContents> <h5><MTIfPageBefore><$MTPageBefore delim="前の10件"$></MTIfPageBefore> <$MTPageLists$> <MTIfPageNext><$MTPageNext delim="次の10件"$></MTIfPageNext></h5>
<MTPageContents count="10"> <mt:Entries><$mt:Include module="ブログ記事の概要"$><$MTPageSeparator$></mt:Entries> </MTPageContents> <h5>「<$mt:ArchiveTitle$>」<MTIfPageBefore><$MTPageBefore delim="前の10件"$></MTIfPageBefore> <$MTPageLists show_always="0"$> <MTIfPageNext><$MTPageNext delim="次の10件"$></MTIfPageNext></h5>
<MTPageContents count="10"> <mt:Entries lastn="0"><$mt:Include module="ブログ記事の概要"$><$MTPageSeparator$></mt:Entries> </MTPageContents> <h5>「<$mt:ArchiveTitle$>」<MTIfPageBefore><$MTPageBefore delim="前の10件"$></MTIfPageBefore> <$MTPageLists show_always="0"$> <MTIfPageNext><$MTPageNext delim="次の10件"$></MTIfPageNext></h5>
「自分の主張は自己満足のための押しつけ
ではないか」となきさんがいつてゐるのだが、そんなことはないと思ふ。
なきさんは相手の主張、立場を尊重し、理解しようとしてゐる。そして自分の意見を絶對視せず、相手に理があればそれを受け入れる。かういふ姿勢は押しつけ
ではなく、眞當な「議論」です。
それに對して、自分の正しさを全く疑はず、相手の主張、立場をことごとく否定する。これはまぎれもなく押しつけ
です。
ただ、押しつけ
であつても、「眞劔」に食つて掛かつてくるのであればまだ對應のしがひもある。少なくとも、相手を「對等」だと見なしてゐるからです。
ところが相手の主張、立場を「トンデモ」などとせせら笑ふ人もゐる。「對等」だとは認めてゐないわけで、文字通り話にならない。かういふのは「最惡」です。
ついでに、自分が「何を言つてゐるのか分かつてない」人もゐる。こつちの主張に賛成してゐるのに氣附かず、否定してくるのです。