丁度去年の今頃、「SAPIO」の『ゴー宣』でよしりんが、
12月になると、どこもかしこもクリスマスのイルミネーションで飾り立てられるが...
12月25日を過ぎると、一斉に撤去され、お正月の飾りに替わる。デパートなどは一晩で全ての飾りを交換しなければならず、大変な忙しさだという。毎年の恒例と思うかもしれないが、これはほとんど日本でしか見られない光景である。 海外ではクリスマスのイルミネーションは大抵「Merry Chiristmas and a Happy New Year」となっていて、新年までそのまま飾られる。
何度か新年の休みを海外で過ごしたことがあるが、クリスマスの電飾がそのまま輝いているのを見て、妙に居心地の悪い感じだった。「正月というのにだらしない...」
最近は日本でもイルミネーシヨンが年越しで飾られてゐることが多くなつたけど、最初ぼくも妙に居心地の悪い感じだった。
現在この章は『天皇論』に収録されてゐるのだが、このあとよしりんは「歳神様」について解説する。
いまでも人々は「新春」を迎えるために年末のうちに大掃除を済ませ、全国の神社では大晦日に「大祓」を行う。旧年中の穢れを清め、全く新たな、清浄な気持ちで年を越すのだ。その宗教心がある限り、日本人は昨年のクリスマス飾りを付けたままで新年を迎える気にはなれないはずである。
でその宗教心
の最高の権威が天皇なのである
と結論してゐる。ぼくもこの論に賛成するのだが、この章を讀んでゐて氣附いたことがあつた。
キリスト教の祝祭であるクリスマスがなぜここまで日本人の習慣として根付いたか。つまりそれは、「年忘れの行事」として、丁度良い日にちに當たつてゐるからではないか。
さう考へるとハロウインがいまいち日本で根付かないのもわかつてくる。ハロウインはもともと秋の収穫祭なのだけれど、日本にはすでに秋祭りといふう収穫祭が各地にある。ドンドンヒヤララと騷いでこのうえまたよその収穫祭をする必要はない。
ハロウインでは「トリツク・オア・トリート」と子供達が近所を回つてお菓子をもらふけれども、日本では月見のときお供へしてある團子などをこつそり持つていく、といふ風習があつた。結局は「泥棒」なので今ではやつてないが、洋の東西で同じやうな風習が生まれてゐるのは興味深い。まあとまれ。
時代小説の『御宿かわせみ』を讀んでたら、明治になつて太陰暦から太陽暦になつて、正月のあとに節分が來るなんて變な氣分だ
といふシーンがある。かつては節分が年忘れの行事だつたのではないか。で節分が年末でなくなり、丁度とつて代はるやうに年末に外人がクリスマスだと騷いでゐる。ぢやあ日本人も、となつたのではないだらうか。
ところでクリスマスも本來はヨーロツパに土着の太陽神の再生の祭りであつた。その後キリストの誕生祭と習合されたのだけれど、といふことはこちらも「歳神様」と同樣の祭事である。だから欧米人、キリスト教徒にとつては「年明け」の一連の行事なのだから「Merry Chiristmas and a Happy New Year」でいいのである。
しかし日本人にしてみれば「クリスマス」と「正月」は全く別物なのだ。日本人にとつては「クリスマス」とはキリスト教の行事ではなく、あへていへば神道の行事なのかもしれない。
社会に対する「積極的無責任者」などと自称されてはいるが、大は宇宙から、小は子どもの教科書にいたるまで、彼ほどその根本問題を鋭く見ぬき、本気で憂えている人はそういないと私は思っている。その表現が普通の人と違うため、ふざけた人間だと思う人もいるらしいが、子供であろうが素人であろうが決してばかにせず、いつも対等な人間として話をするということが、ほんとうにできる人なのである。
「素人考へ」に對し、眞正面から向き合ひ、眞摯に應へるのが「本當」の「専門家」である。「素人考へ」を嘲笑するのは、専門家「氣取り」の知つたかぶりでしかない。
ファインマンさんは、やはり本物である。
たしかにご冗談でせう
と言ひたくなつてしまふやうな自傳だ。
あるときはロス・アラモスの若き天才、またあるときは金庫破り。あるときはノーベル物理學者、またあるときはナンパ師。
出張に行けばマーチングバンドに參加し、夜中にたたき起こされた腹いせにノーベル賞を斷はらうとする。
ノーベル物理學者といへど普通の人間である。ただし、ただ者ではない。
興味が沸いたので『科学は不確かだ!』も讀んでみた。こちらからもファインマンさんの科學に對する眞摯な姿勢が傳はつてくる。
ファインマンさんは科學を樂しんでゐる。しかし、科學は人の役に立つだけでなく、人を傷附け、脅かすことも知つてゐる。決して科學に魂までも奪はれてはゐない。改めて、だからこそ本物である。
さらに調子に乘つて『ファインマン物理学』も讀んでみたがさすがに「はじめに」くらいしか讀めなかつた。しかし教科書であつてもファインマン節は健在であつた。かーいふ先生に教はつた學生はしあはせだなー。
掲示板やブログのコメントからこちらをご覽になつたかたもゐらつしやるかもしれませんが、「婆や」と名乘つてゐる投稿者は別名「義」といふ、リンク元のコメントのやうに野嵜健秀さんを誹謗するスパムをばらまいたり、また「野嵜健秀」を騙つて掲示板を荒らし、野嵜さん本人に「掲示板荒し」の濡れ衣を着せようとしてゐるネツトストーカと思はれます。
ぼくは「ラプラスの魔」は「ゐる」と思つてゐる。いや、現代物理學では「ラプラスの魔」は否定されてゐることは知つてゐます。しかし、「人智」を超えてゐるからこそ「惡魔」ではないか。人ならぬ「惡魔」であれば、宇宙の全てを知ることだつて不可能ではない。
あるいは「究極の方程式」があつて、それは數學はいふに及ばず、物理學でも化學でも、いやいや過去も未來も全て解き明かせてしまへる「神」の方程式。自然科学のみならず、人文科學、社會科學までも解き明かしてしまへる。しかし人間がどう背伸びしたつて「ラプラスの魔」にはなれないのと同樣、「究極の方程式」ももしあつたとしても人間がそれを見出だすどころか、そも人間には理解できないでせう。複雜すぎて理解できないか、あるいは「單純すぎて」理解できないか。
科學はいまのところ、宇宙を説明する手段として最も信頼されてゐますが、それは科學が「たまたま」、宇宙を合理的に説明できるといふことにすぎない。實はもつと單純明快で、より精緻な、合理的手法があるのかも知れない。とはいへ人間はそれを考へつかない以上、科學で宇宙を説明するしかない。
しかし科學は、惡魔でも神でもない人間が考へることだから、「絶對」はありえない。いや科學に限らないが人間のなすことで「絶對」があるとしたらそれは狂信者の腦の中だけだ。
それでも、「完全」に近づかうと、「實證主義」や「反證主義」、觀察や證明、論理による正當化、あるいは否定されるリスクを持たせ、批判にさらすことで信頼性を強くする、といふ立場が提唱されてゐるが、これらとて「完全」ではない。人間に「完全な」實證も反證もありえないからである。
で、あれば、科學とは不確實な假説に、肚を決めて信を置く、といふことにほかならない。惡魔でも神でもない人間は、「より」確實な答へ--そんなことはできつこないと覺悟しつつ−を求めて無限に問ひ掛け續けるしかない。
三宅さんがおつしやるとほり、科學においては「答へ」よりも、一連の思考思惟の過程にこそ価値がある
また、「無限に問い掛け續ける」、といふことは、今ある答への前に、それまでの無限の「問ひかけ」が、そして無限の「答へ」がある、といふことである。ではそれらは、新たな答へが出れば「ご破算」となるのか。いや、今ある答へは、それまでの「問ひかけ」と「答へ」の歴史の上に成り立つてゐる。であれば、その歴史を「ご破算」にすることは許されないし、できない。
「間違ひ」の積み重ねこそが、眞實への道程なのだ。
科學をぼくは「宇宙を説明する手段」と書いたが、それはすなはち宇宙によつて生まれ、宇宙を「宇宙」だと認識する「人間とはなにか」を説明することにほかならない。
それは「藝術」や「宗教」もまた目的を同じくする物である。藝術は「表現」によつて、宗教は「信仰」によつて「人間とはなにか」を解き明かさうとしてゐる。
ここで「宗教」が出てくることに違和感を感じる人がゐるかも知れない。
しかし宗教とは、それこそ「人智」を超えた物に、救ひを求めることであるが、救ひは、宗旨につて違ひはあれど「いかによく生きたか」によつてもたらされる。「いかによく生きるか」、それは「人間はどう生きるべきか」、すなはち「人間とは何か」を追求することである。「生きる」ことは人間の存在意義そのものであるからだ。
とはいへ、ぼくのいふ「科學」が「理想」でしかないことは分つてゐる。實際の科學者が、そこまで理想を追ひかけてゐるわけでもないだらうし、案外「目先の結果」しか求めてゐないのかもしれない。研究が「生活」になつてしまへばなほさらだらう。
藝術や宗教でも「眞理」が解き明かせなかつたやうに、科學にだつて「眞理」は分からない。であれば眞理を求める必要は無いのか。眞理を求めることは無駄な努力でしかないのか。
知恵とは「よりよく生きよう」とする意志にほかならないが、そんなこと考へてるヒマがあつたら、ルーチンワークで生きていたはうがよほどラクだし、効率的である。
だがそれは人間以外の、動物の生き方でしかない。
人間が知恵を持つてしまつたこと。その手段として「藝術」「宗教」そして「科學」が生まれたこと。それは「自分--人間とはなにか」といふ疑問を永遠に持ち續ける、といふことである。そのために人間は苦しみ、惱む羽目になつたのたが、ではなんのために知恵があるのか。--これはそれこそ「宗教」が受け持つ命題だらうけど、宗教も有効な答へをいまだ出してはゐない。
ラプラスの魔はそんな人間を嘲笑ひ、究極の方程式をもてあそぶだらう。それでもぼくは、眞理を求める人間の知恵に意味があることを願ふ。
...これつて哲學?
何處ぞの馬鹿が「無斷リンク」に反對して、「私はリンクを張らない。ただURLを示すだけである」と偉さうに宣言した事があるけれど、わらひ
どこの馬鹿だつけな、と思ひ起こしてみると。
その節はどうも。
見るたびに思ふんだけど、なんで自演乙は女の子のコスプレで出てくるんだらう。普通にしてれば結構かつこいいのに、女の子コスすると途端にキモくなる。
あーいふ、男が女の子のキヤラのコスプレするつてのは、そのキヤラと一体になりたい、といふ心理なんだらうけど、フアイターなんだから強いキヤラ、それこそTBSなんだからエドとか刹那とかのコスすればいいのに。
なんならアルとか00とか。
しかし今回は殘念な結果には終はつたが、今後も「コスプレフアイター」を貫き通してもらひたいものである。人と違ふことを1度始めたら、死ぬまでやるべきだ。
ぼくは歴史的かなづかひは「正しい」と思つてゐるから使つてゐる。
爺氏が言ふには、「歴史的かなづかひは『科學的』でも『正しい』わけでもなく、現代仮名遣いはすでに定着してゐるし、實用的である。歴史的かなづかひはそれこそ古典を讀むための「訓詁の學」、趣味や教養であればよい」とのことである。
しかし、爺氏は歴史的かなづかひを使つてゐるのである。「正しく」もないものをなぜ使ふのか。
あるいは、「自分にとつて歴史的かなづかひはあくまで趣味であつて、『正しいかどうか』で使つてゐるわけではない」と爺氏は言ふかも知れない。
だが「正しいかどうか」でないのであれば、つまりは「どうでもいい」ことでしかない。「どうでもいい」ことを、正しいかどうか論ふ必要はない。逆に「正しいかどうか」を論ふのであれば、結果「正しくない」と結論した物を用ゐるのは「正しくない」。
つふか。
これもまた「闇黒日記2.0」でとうにいつてることである。爺氏が、いかに「蒸し返し」してゐるか、といふことだ。
いつもありがたうございます。
件の記事はあへて権威主義的
に書きました。どんなに説明してもまるで聞き入れられず、「専門家が『歴史的かなづかひは科學的だ』といつた證據があるんでしよ? あるんだつたら出してくださいよ」としつこくいつてきてたものだから、圖書館で本を見付けたので、それこそ「専門家」がいつたことだ、これなら「聞く耳」持つか、と思つて「權威」をふりかざしてみた。
ところが向かうは聞くことはなく、往々にして、幾ら答えても納得されません
でした。全く三宅さんのおつしやるとほりでした。
正直、ぼくももう附き合い切れ
ません。
晝食堂で「ビッグコミック」を讀んでたら「ドリームクラブ」の廣告が載つてゐてさすがに吹きはしなかつたものの「うお」とは思つた。
だつて「ビッグコミック」ですよ「ゴルゴ13」の。つふかゴルゴ目當てで讀んでたんだけど。「ビックコミック」讀む層と「ドリクラ」やる層が一致するかなあ。
しかし「ドリクラ」つてこの際だからいふけど、そもそもキヤバクラは「擬似戀愛體驗」なわけで。擬似體驗の擬似體驗?
あ、いま思ひ出したけど親父が讀んでた「週刊ポスト」に「恋姫†無双」の廣告が載つてたな。だからどーいふ客層を。
失言でした謝罪します。アイアムソーリ。
冗談でもいはなきややつてられない。肌寒くなつてきてもハヘは沸くやうだ。
爺がブログを作つたのだが、カテゴリに御冗談でせう野嵜さん
てのが。最初からアンチ野嵜ブログであると宣言してゐるのだ。ずいぶんと建設的
なブログだ。
爺はどうやら「戰中生まれ」のやうだが、だとしたら現在70代なかば、34才のぼくと同じくらゐの「孫」がゐてもおかしくない。なんとまあ見苦しい「祖父」であることか。
私等戦後教育(しかも早期の)を受けた者からすると、これはとんでもない暴論であるし、そもそもどこから出てきた考へ方なのか理解に苦しむ。(まあ多分、福田氏の著書から引つ張つてきたのであらう。)
まづ、爺は自分が受けた戦後教育
とは異なる野嵜さんの主張をとんでもない暴論
と片付けてゐるのだが、つまりは自分が受けた戦後教育
、すなはち「自分の考へ」こそが絶對の「眞理」であり、それに異を唱へる野嵜はとんでもない暴論
でしかない、といつてゐるのだ。つまり爺は、自分が知つてゐることのみが「眞實」であり、それ以外は「間違ひ」だと頭から決め付けてゐるのである。理解に苦し
んでゐるわけではない、最初から理解
する氣などないのだ。
戦後教育
、といふか「自分の考へ」が「間違つてゐるかもしれない」とは微塵も思はないらしい。爺のいふことにはそれこそ「反證可能性」が無い。
ぼくはまへに爺に、「福田氏の『當用憲法論』を讀んでみてくれ」といつた。しかしまあ多分、福田氏の著書から引つ張つてきたのであらう。
、つまり今に至るまで讀んでゐないのである。野嵜さんも「橋本進吉の著作を讀んでみてくれ」と爺にいつたのだが、爺は「近所の圖書館になかつたので讀めませんでした」といひわけにもならないやうなことをいつてゐる。
爺は自分の不勉強は棚に上げて、他人の「無知」を嘲笑つてゐるのである。
野嵜さんもぼくも、自分の知識の限界を知つてゐる。だから「専門家や資料に當たつてくれ」とすすめてゐるのだ。しかし爺は自分で理解しやうとする努力は一切せず、ただあぐらをかいてふんぞり返り、「答へを出してください」と要求するばかり。いやぼくらも、自分の「分かる」範圍でなんとか「答へ」は出さうとした。しかし爺は先述したとほり頭からとんでもない暴論
の一言で片付けてしまふのである。
これが「科學」的な態度だらうか。
ニユートンだつてアインシユタインだつて誰かから「答へ」を教えてもらつたわけではあるまい。自分自身の努力で答へを探し當てたのだ。
しかるに爺の言動は「科學」とはまるでかけ離れてゐる。
かつて爺は、
受けいれられなかったら、「どうやって説得してやろうか」って風には考えられないのですか?「自分の方が正しい」と単にいいつのるは、「知的惰情」でしょう。
といつてゐた。これ自體には異論はない。だから野嵜さんもぼくも、単にいいつのる
のではなく、「ああいへば分つてもらへるのではないか」「かう書けば話を聞いてくれるのではないか」と一縷の望みをかけて手を盡くした。ところが爺は「あはは、『説得』してたつもりだつたんですか。あまりにもおつしやることがトンデモなのでまるで氣づきませんでした」と鼻で笑つてきたのである。
文字通り、「何樣のつもりだ」。
たとひ爺が「科學の専門家」、研究者や大學教授であつたとしてもだ、「生徒」でもないのになぜここまで虚假にされなければならないのか。いやむしろ本當に「専門家」であるのならば、「素人」を諭し、導いてくれればいいものを、「素人」を嘲笑ふのは「知つたかぶり」のすることだ。
いや爺は、最初の内は「国語學については素人です」と謙遜してみせたが、今や「野嵜さんの『かなづかひ』論は間違ひだらけです」と平氣な顏をしていつてゐる。「素人」がなぜ「間違ひ」だと分かるのだ。「素人」ならば「素人」らしく、「先輩」である野嵜さんに、頭を下げて教えを乞ふべきだ。
記事のタイトルでも無知杉爺
だとか素人爺
だとか謙遜して「みせて」ゐるが、「みせてゐる」のでしかないことは明らかだ。まさに「慇懃無禮」、人を--野嵜さんを--人とも思つてゐないのである。
爺は二言目にはぼくらを「周章狼狽してますね」と冷やかしたものだが、最初から「周章狼狽」させるのが目的であり、またしてもそのためだけにブログを立ち上げたのだ。
くりかへすが、なんとまあ見苦しい「祖父」であることか。
どうせ爺は、ぼくがなにをいはうが「御冗談でせう佐藤さん」とすましてせせら笑ふのだらう。
大變けつこうなことだ。
上記のやうに非科學的な、なほかつ「アンチ」の人達の方が
すなはち「義」やKirokuroのはうがあなたより「まとも」な事を言ってるように思えます。
といふやうな爺に「御冗談」呼ばはりされる、といふことは、野嵜さんもぼくも「まとも」だといふことだ。
改めて見ると、この記事に書いたことつて、結局「闇黒日記2.0」のコメント欄でさんざん言い盡くしたことなんだがな。
爺に限らずKirokuroも會長も、同じ事を蒸し返すしか能がないから、自然こつちの反論も同じ事の繰り返しになつてしまふ。ま、だからこその「アンチ」なのだけれど。
野Q
が負けた
とKIrokuroが大喜びしてゐるが。
この「野Q理論」に従えば、ゲストブックを停止させ出入り禁止にされた爺氏の勝利ということになる。
ぼくなんかKirokuroにアク禁くらつた上にトラツクバツクを拒否されたのだからさしづめ「大勝利」だらう。
無論、羊や鶏のひな
...いや、そんなかはいいものか。「野Qはゴミクズだ」といふのならそれに2年以上もたかつてゐるKirokuroは「ゴミにたかるハヘやウジ」でしかない。そんなのに「勝つた」ところで、むなしさ
しか感じない。
それにしてもKirokuroやその「喜び組」にしてみれば野嵜さんは虎や鷹
のやうな「強敵」なのだろう。「負けた」ことを吹聽し、記録しておきたいほど狂喜してゐるのだから。
ブログやちゃんねる
でおべんちやらしかいはない「喜び組」より、野嵜さんやぼくのはうがよつぽどKirokuroの「ためになる」ことをいつてるんだけどな。「KiQ」は分かつてはくれまい。
たしかに「もう今さら」な話ではあるんですが。
ぼくはどうも腰が重くて、書かう書かうと思つてゐるうたに、「今さら」になつてしまつた。
に、しても。Kirokuroは「喜び組」のおべんちやらが自分の「ためになる」と思つてゐるんだらうか。そもそも「喜び組」はKirokuroの「ためを思つて」ゐるのだらうか。
「ノザキ」に面と向かつて惡口をいふ「度胸」はないが、Kirokuroが矢面に立つてくれるから擔ぎ上げてゐるだけで、いざとなつたらKirokuroはうち棄てられるのではないか。
自分の「味方」は誰なのか、よく考へたはうがいい。