「といふこと自體が『負け惜しみ』だ」ほんとに「勝ち負け」でしかものを見られないんだな。
ねづっちの考案した藝だと思つてる人がゐたりして。「なぞかけ - Wikipedia」
「御墨附き」、書きながらなんか前にも同じやうなこと書いたやうな? と思つてゐたら、書いてた。
こちらは7年前に書いた禁児賣法
、つふかいはゆる「児ポ法」についての記事なんだけど、書いてる内容は今回とほとんど同じだ。
まあ、ぼくが「一貫してゐる」といへばいいか。あるいは問題が7年前からまつたく「進展」してゐないのか。
野球と解きます
そのこころは?
今朝TVにWコロンが出てるのを見て思ひついた。
「お前が言ふな」つてのは結局、「お前ぢやなけりや言つていい」といふことだよな。差別するなよ。
アンチがつくやうになつたら、いよいよおれも「web論客」としてヴエテランかな。
「非健全圖書」とされるのつて、「行政が認めたエロ」つてことにならないか?
日本はそれこそ、相當「破廉恥」な國になつてしまつたやうだ。
当時も、青少年は異性への関心を持つのが健全な精神の育成だと思って描いていると説明した。異性に関心を持つことが罪悪と思って育つと、大人になった時の衝撃が強すぎる。
条例では18歳未満を青少年と規定しているが、日本では女性は16歳で結婚でき、「高校3年生の半分近くが性体験をしている」(宮台さん)という状況で、高校生の性行為を肯定的に描写した作品が対象になれば表現への萎縮効果は高い。「普通のことをしている人に対して、『お前達は悪いことをやっている』というメッセージを出すことになり、副作用は大きい」(宮台さん)
宮台氏がいふには高校3年生が性体験を
するのは普通のこと
なのださうだ。子どもが性に関心を持つこと
は否定しない。ぼくだつてさうだつた。しかしそれを「實行」するかどうかは別問題だ。
青少年がセツクスをするのは普通のこと
だと現状をただ肯定し、なしくづしに認めてしまふのが「健全」なのだらうか。それはただ「甘やかし」てゐるだけではないのか。
例えば井原西鶴の『好色一代男』は、6歳の少年時代からの性の遍歴を描いている。1つの人間の姿を描いているのだから、単純に倫理の問題として裁断し、政治が介入するのは危険
『好色一代男』は子どもの讀むものだつたのだらうか。
正直ぼくは、かうした不健全図書
は、「規制すべきだ」と思つてゐる。新潟に住んでゐるぼくに「都条例」はとりあへず關係ないけれど、しかしぼくはこの「改正」に贊成である。
都會ではどうなのかしらないけど、ぼくが住んでゐる近くのコンビニや書店ではさうしたエロ雜誌が子どもの目の觸れるやうな場所に竝べてある。無論ビニール袋をかけてあつたりシールで中は見れないやうにはなつてゐるが、半裸以上のおネーちやんが誘ふやうな表情を浮かべる、十分に劣情を催す表紙はばつちり見えてゐる。
一應、一般の書店やコンビニに竝ぶやうな雜誌は「それなり」の、「大人しめ」の内容で、「棲み分け」てゐるらしいが、ぶつちやけ「使用目的」は同じなのだから、意味のある「自主規制」だとは思へない。それこそ里中満智子先生がいふやうに、表現がエロと感じるかそうでないかは見る人次第で、人はそれぞれ別個の感性を持っている
。ぼくはぶつちやけさーいふのを見るのは「嬉しい」が、「不快」しか感じない人もゐるのである。
無論、さうした雜誌は「未成年」の購讀は禁止されてはゐる。しかし子どもの目にも觸れるわけで、関心
があるからといつてむやみに「煽る」必要はない。
成長段階に応じて少量ずつ与えていくことが重要
、誰と見るかなど、コンテンツの受容文脈をコントロールすることが最善
といつたところで、大體その「さじ加減」は誰が決めるのか。公權力が決めるのはダメ、自分たち作家や業界が決めるのはいい、なんてのは「わがまま」でしかない。上記のやうに業界の「自主規制」が意味をなしてゐない以上、政治の介入
を許す「餘地」を作りだしてしまつてゐるのだ。
都青少年・治安対策本部は「すべての性描写が規制されるわけでなく、大人への流通も制限されない」として、漫画家の創作活動には影響しないと反論している。
あとこれは「邪推」でしかないんだけれど、もはやエロ雜誌といふのは1つの「産業」、つまり「税源」となつてゐるわけで、税源を潰すやうなことを行政がするだらうか。行政に「認められた」出版社は營業を續けることができるわけで、とつくに「話はついてゐる」とか...
再び「ITmedia News」から。
文化が興るときにはいろんな種類の花が咲き、地の底で根としてつながっている。根を絶つと文化が滅ぶ
「規制」されて滅ぶ「文化」は、もはや命脈がつきてゐるのである。
生命力がある、作り手にも情熱があり、需要もある文化はいくら「根を絶」たれたところで芽は生き殘り潰れはしない。むしろ規制をかいくぐり、より表現を花開かせる。
江戸時代は今よりはるかに「表現」の規制は強かつた。浮世繪や讀物はたびたび取り締まられ、規制は強化され續けたが、それでも存續してゐた。時代が下がるにつれ浮世繪も讀物もよりその表現力を擴げていつた。しかし明治になつて、寫眞や小説など新たなメデイアが登場するとあへなく滅び去つてしまつた。
マンガが、「規制」されて滅びるやうであれば、つまり「その程度」の文化でしかないのである。
自由な漫画の発想があったからこそ日本の漫画やアニメは発展し、世界に注目されてきた。表現規制を行った韓国は、漫画の発展が遅れた
そもそも韓国には、『鳥獸戯畫』のやうな「繪物語」文化が無かつただけのことではないのか。日本ではマンガの發展する下地があつたが、韓国には無かつた、といふことではないだらうか。
純粋培養では少年少女は"健全"にならない。漫画はエネルギーを逃がす弁として存在するはず。ある程度強い刺激でないと、弁を開けない人もいる。
「ポルノを規制すると『はけ口』がなくなり、性犯罪が増加する」といふ「ガス抜き理論」はこの手の「ポルノ規制」問題になるとよく出てくるけど、逆に「ポルノを解放すると性に對する罪惡感が薄れ性犯罪を助長する」といふ「キツク理論」だつて成り立ちさうである。まあまんま「反對派」と「贊成派」の主張ではあるけれど。
あとポルノは一切規制されてゐるイスラーム圏ではどれだけ性犯罪の發生率が高いのか。まあイスラーム圏だと「性犯罪」よりも「性差別」のはうがより「問題」といふ氣がするが。
ぶつちやけさあ、「エロ」つて、「後ろめたい」からこそ「いい」んぢやないか? 呉氏が文化や芸術はその時代の倫理や教育とかい離がある場合があるが、それを描くことも役割だ
といふやうに、藝術とはいはば「制限」の中でどれだけ「エロス」=「人間」を出せるか、といふ試みであつたはず。白昼堂々セツクスできる人間社會だつたら、文化は發展したかな。
上越に行つたとき、帰り道で燕三条IC付近を通つた時、一緒に行つた友人Sが、「さーいへば燕三条ラーメンつてうまいんだつてね」といふ話をし、ぼくもさう聞いてゐたので行つてみることにした。
で調べてみるとこの杭州飯店が燕はもとより全国の背脂極太麺の元祖といわれる店
らしいので、ここにした。
「燕ラーメン お遍路マップ」によると、汗をかき働く人にあわせたちょっと塩っぱめのスープに腹持ちのいい太い麺。太くても茹で上がりに時間がかからず伸びにくい麺に改良。ただ塩っぱいだけでは・・と研究を重ね豚の背脂をスープに溶かした深い旨みのある新しいスープが生まれた。
とのことで、注文した中華そばはまさしく「燕三条系」だつた。
味、食べ應へ、腹持ちともに大滿足でした。
ただ、ここの人気メニユーは中華そばと「もやし炒めそば」とのことで、たしかにもやしがプラスされたほうが、こつてりが緩和されて食べやすいかもしれない。
先週上越の水族館に行つてさんざん魚を見たせいか、出た後寿司が食いたくなつた。
で思つたんですが、ホエールウヲツチングをしながらクヂラ料理、といふイベントつてできないかしら。
「いけす料理」なんてさーいふことでしよ。
でもをととし、鶴岡市の加茂水族館に行つてきたんですが、ここつてクラゲの展示と「料理」が名物なんだよな。
あつさりしてておいしかつたけど、秋口だつたんで體が冷えて困つた。夏向けのメニユーですね。
再三爺氏はぼくが「愚か」であり、淺薄な知識と思慮しか持ち合わせない、と笑ふ。しかしそれは、爺氏の「正しさ」を理解できない佐藤は愚か者であり、愚か者である佐藤は爺氏の「正しさ」を理解できない、というトートロジーであり、それは爺氏が「自分は絶對に正しい」といふ前提にもとづく反證可能性のない主張でしかない。
それに有り體にいつてぼくは非常に氣分を害してゐる。あへていふが爺氏を「敵視」してゐる。たとひ事實であつたとしても、「愚か者」よばはりされて愉快な人間はおるまい。
もし爺氏が、自分の意見にぼくを從はせたいと思つてゐるなら、そのハードルは相當上つてしまつてゐる。前述したやうにぼくは爺氏に好印象を持つてゐないからだ。ぼくが「愚か者」だといふなら、それこそ「愚か者」にもわかるやうに、丁寧に、わかりやすく、説得力のある主張を爺氏はしなければならない。しかし今のところ爺氏の主張は根據は主觀でしかないし、筋道も立つてゐない。それで「意見を聞き入れろ」といはれても納得はできない。
爺氏は、「ならあなたの主張も私を納得させられてゐないのだから、自分こそ『説得力のある主張をしなければならない』でせう」といふだらう。
ぼくとしては爺氏に納得してもらへるやう手を盡くしたつもりである。かういへば聞き入れてくれるのではないか、この方法ならわかつてもらへるのではないかと樣々な手段を試してみた。しかし爺氏には納得してもらへてゐないわけで、それはぼくの力量不足といはざるをえない。
しかし「納得させられなかつた=間違つてゐる」わけではない。
無論ぼくは自分の意見が「正しい」と思つて主張してゐる。しかしそれが他人にとつても「正しい」かどうかは分からない。自分の「正しさ」が他人の「正しさ」と違つてゐたとしても、即座に自分の「正しさ」は「間違ひ」であつたとは限らないし、そもそも、他人も自分も本當に「正しい」かどうかもわからない。
たしかにぼくは爺氏を説得できなかつた。しかしぼくも爺氏の主張に納得できてゐない。ただ單に、互ひの「正しさ」を受け入れられなかつた、物別れに終つた、といふことにすぎない。
議論は「勝ち負け」のゼロサムゲームではないのだから、「納得させられなかつた」=「負け」ではないし、「相手の意見に從はなければならない」といふことにもならない。自分の「正しさ」を捨てる必要はない。
ぼくは自分の「正しさ」よりも精緻で明快な「正しさ」が目の前に現れればすぐそれに乘り換へる。しかし「正しい」と思へない意見に從つたりはしない。
權力によつて「正しさ」を捨てさせられた科學者はしかし「それでも地球は動いている」とつぶやいた。まして「自由」の時代に生きるぼくが「正しさ」を捨てる理由は無い。