リフアラを見ると爺氏のコメントを削除してゐることについて、爺氏やKirokuro一派から「檢閲」だとか「排除」だとかいはれてゐるやうだけど。
前にも書いたやうに「それはあなたのことですよ」などといふのは、眞當な反論ではなく無意味な「いちやもん」で「話を逸らしてゐる」のでしかない。爺氏はそのやうな投稿を續けてゐたのであつて、それは「アンチ」といはざるをえない。
ぼくは「これ以上アンチ行爲を續けるのであれば投稿を削除します」と警告した。しかし爺氏はそれに從はなかつた。だから削除してゐる。人の迷惑にしかならない人間が「排除」されるのは當然である。
議論はどちらかが勝ち負けの「ゼロサムゲーム」ではない。有意義な議論は双方に得るところのある「Win-Win」の關係となる。
しかしアンチは、相手を不快がらせ、自分は勝ち誇る。だがその「勝ち」は阿Q的な「精神的勝利」でしかない。ただの自己欺瞞である。相手は感情を害し、アンチは自分をごまかすことで品位を下げてしまつてゐる。いはば「Lose-Lose」で、「誰も得をしない」どころか「互ひに損」をしてしまつてゐるのである。
爺氏の投稿を續けさせると、ぼくはもちろん、讀者にも不利益だし、なにより爺氏本人が不利益を被るのである。爺氏には他人は無論、自身に益のある、「精神的勝利」ではない言動をしていただきたい。
無論有料の展示も見ましたよ。
まあ田舎の水族館ですから規模はそれなりですが、種類はわりと多いし、展示にも工夫をこらしてあるし、地域型でなかなか樂しめました。
「海のマルチシアター」でやつてた「海のギャング大集合」は、コミカルな講釈風のナレーシヨンのスライドショーなのですが、かえつて「オーシャンズ」より内容あるくらゐだ。
帰りに驛前によつて三津屋の「継続だんご」をおみやげに買ひました。
林芙美子の『放浪記』にも出てくる由緒あるおみやげなのですが、初見の人は『天地人』に乘つかつた「兼続だんご」と間違へたりして。「直江」津だし。
江戸時代だつたらかう書いただらう。
去年夏の『シンケンジャー』の映畫に出てきた初代レッドの本名が「志葉烈堂」で、單純に『子連れ狼』の「柳生烈堂」のパロデイなのかと思つてゐたが。
江戸時代なのに「レッド」? とふと思ひつき、あ、「烈堂」だから「レッド」なのか! といまさら氣附いた。
といふことは、それぞれ初代は...
とか。
...もう苦しくなつたのでやめ。
新潟大和が6月に閉つてしまふんですが、昭和30年代にレストランで出してたカレーとラーメン、お子様ランチを再現して出してゐる。
これまで食べたことはないんだけど、ちよつと行つてみた。
閉店の6月25日までやつてるさうなので、當時を懷かしみたい、當時の味を試してみたい人は是非。
最初映畫を見たときぱつと思ひついた「勝手邦題」ですが、どうやら「ヤラセ」らしいといふことを聞いて、ぢやあ合つてんぢやん。
「オーシャンズ」の内容については「オーシャンズ プロパガンダ」で檢策してみてください。
佐渡のコブダイ「弁慶」も取材してるので新潟市内の映畫館では「新潟の海でも撮影!」と大々的に廣告してたんだけど、1分くらゐしか寫つてねえぢやん。
何があるわけでもなかつたけど。
この時間に惡さするウヰルスはありさうだな。
あとおれみたいに意味無くブログ更新したりとか。
"Big America"シリーズはヴオリユームもあるし、ヴアリエーシヨンもあつて好きです。
テキサスバーガーがバーベキユーソースとフライドオニオンでほんとに「テキサス」つて感じの味だつたのでニューヨークバーガーも樂しみにしてゐたのだが、うつかり食べ逃してしまつてゐた。
まあ賣れ行きによつてスケジユールの變更もあるやうなので、再販を期待するか。
でまあけふはハワイアンバーガーにしたんですが。
ハンバーグに目玉焼きをのせグレービーソースをかけた「ロコモコ」をイメージしたハンバーガーなので「ハワイアン」なのですが、ぼくとしてはパイナツプルが入つてゐるともつと「ハワイ」らしさがあつたんではないかと。なくても十分うまかつたですけどね。
「A」といふ事柄があつて、ぼくは「Aであつてはならない」と主張したとする。
それに對し、「あなたもAではないか」といふ「反論」は成り立つだらうか。
ぼくは「成り立たない」と思ふ。
ぼく自身がたしかにその「A」であつたとしてもである。
「あなたもAではないか」といふ「反論」は、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張には「賛成」してゐるのである。「Aであつてはならない」ことには賛成してゐるのだから、「Aであるあなたには、Aを批判することはできない」といふ「反論」にほかならない。
しかしこれはそもそも「反論」にはなつてゐない。
「反論」とは、相手の主張に「反對」だからなされるのである。相手の主張に賛成してゐるのに、否定するのは反論ではなくただの「いちやもん」でしかない(『13歳の論理ノート』でいふ大ボケ反論
)。「賛成」してゐるのに「否定」するのは矛盾でしかない。
それに對して、「『A』を『賛成』も『反對』もしない」といふ「再反論」がなされるかもしれないが、「賛成」でも「反對」でもないのなら、「A」であらうがなからうが「どうでもいいこと」である。「反論」する意味がない。
「Aであつてよい」といふなら、これは「反論」だ。その「Aであつてよい」といふ「反論」が、ぼくの「Aであつてはならない」といふ主張よりも筋がとほるものであればぼくはそれに賛成する。
また、「Aであつてはならない」とぼくが批判するとき、それは他人が「A」であることのみならず、ぼく自身の「A」も批判してゐるのである。他人だけでなく、といふよりまづぼく自身について、「Aであつてはならない」と主張してゐるのだ。
でも現状ぼくが「A」に該當してゐるとしても、ならばぼくはその「現状」を變へたい、と思つてゐる。「理想」や「目標」が「現状」と違ふのは當然だ。現状のままでいい、と思ふなら「理想」や「目標」は必要ない。「理想」や「目標」は「現状」を「變へたい」といふ意志にほかならない。むろん「理想」を實現させるための努力は必要である。
前に「徒然草」を引き合ひに出して「アンチ」や「知つたかぶり」を批判したが、それは當然ぼくが「アンチ」や「知つたかぶり」であつてはならない、といふ「自戒」でもある。現状ぼくに、「アンチ」や「知つたかぶり」な點があればそれは改めなければならないし、今後「アンチ」や「知つたかぶり」をしてはならない。
「反論」するのであれば、相手の主張、なにを言つてゐるのかを理解しなければならないのは當然であるが、自分自身が「なにを言つてゐるのか」も理解する必要がある。ただ「いちやもん」をつけたいがために、相手の主張に賛成しているのに「否定」してゐることがないかどうか、自身の「反論」に注意しなければならない。
近所にある店なのでよく行つてます。
いつもは看板メニユーであるこつてりの「麺こぶラーメン」なのだが、たまにはあつさりの「支那そば」にしてみる。
新宿で帰りのムーンライトに乘る前、腹ごしらへをしようと思つて驛前をぶらついてゐたのだが、「桂花」と「天下一品」を見附け、あーどつちも有名店だなー、せつかく東京に來たんだから入つてみようか、さてどつちにしよう。
「桂花」は前にインスタントで食べたことあるから、「天下一品」にして、うまかつたのでよかつたんですが。
帰つてきてから調べてみたら、「天下一品」新潟にもあるんでした。
といふわけで行つてみた。
ポタージユのやうに濃厚だけど、脂つぽすぎはしないスープが、コシの強い麺にからんで、のどごしよくつるつるとすすり込める。
うんうんこの味。新宿と同じだ。
別の日に「味がさね」も食べてみましたが、4種類のトツピングで味の變化が樂しめてこれもうまかつた。ピリ辛味噌なので辛いのが苦手な方はご注意を。