たぶん理解できないと思ふ。
野嵜さんがたしかもし高校野球のマネージャーが妹だったら
つてツイートを書いてたと思ふが見付けられなかつた。ラノベぢやん
と突つ込みが入つてたと思ふ。
ちよつと前までは、『らきすた』とか『とらドラ』とか、短いタイトルが流行つてたけど、“揺り戻し”てるのかしら。
21世紀版映像の世紀が作られるとしたら、それについて確実に言えることはツインタワーに突っ込む航空機から始まるだろうということ以外に何かあるだろうか。私はあると思う。
それは20世紀版より面白くないだろうということだ。
「21世紀版映像の世紀」第2集の最初の映像は、今回の尖閣事件の流出映像になると思ひます。
事件そのものの重要性ではなく、「映像が、マスコミの手を離れた象徴」として。
「この屏風のトラを縛ることが出來るか?」
「かしこまりました。ではトラを屏風から追ひ出してください」
「危ないから縛れと言つておるのぢや!」
これも『ねないこだれだ』に竝ぶスタンダード。
ぼくが望むのは對等な議論だ。對等でありさへすれば全く正反對の意見でも耳を傾ける。議論は互ひに對等の立場が無ければ成り立たない。
だが「年長だ」「經驗者だ」と氣取り自分を“上”に置いたり、「味噌つ滓」「負け犬根性」と相手を“下”に見たりしてゐては“對等”に議論は出來ない。それは議論ではなく、「負け犬根性の味噌つ滓は、大人しく年長の經驗者に從へばよいのだ」といふ、ただの押しつけでしかない。
それに「年長」「經驗者」といふのは自分でことさら吹聽するものではない。言動が伴つてゐなければなほさら輕蔑されるだけだ。
そもそもネツトで「年長」「經驗者」だと言つたところで意味がない。「爺」と名乘つたところで實際は10代かもしれないし。
Twitter / かふし:『ねないこだれだ』つて繪本ではメジャーな方なん?
“スタンダード”と言つていい。
これを讀んで、理解して、部活動の經營に生かせる高校生は相當頭がいいと思ふ。
1回通讀しただけなので、“マネジメント”のなんたるかはさすがにまだ理解できてはゐないけど、いはゆるビジネス書—「かうすれば成功する!」「成功者の人生に學べ!」みたいなお手輕な“ハウツー本”ではなく、「マネジメントとはなにか」「なぜマネジメントをしなければならないか」といふ本質を述べてゐる。
だから讀み捨てのビジネス書とは違ひ、30年以上も讀まれてゐるのだらう。“ハウツー”には流行り廢りがあるが、本質は變化しないものだ。
前回紹介した「スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー『超ヤバい経済学』 神は細部に宿り給う」より孫引き。
もっとも善い教えは皆そうであるように、気候変動という恐れは、罪の意識と自己嫌悪をほしがる私たちの心を満たす。また、人の心にいつもある、技術の進歩は神罰を受けなければならないという思いを満たす。気候変動の恐れはこの重要な点で宗教に近い。また、神秘に包まれている点や、贖罪や償いのための営みが、何らかの意味で成功したかどうか、ついぞわからないところもそうだ。
“環境問題”は“科学的”であるやうで科學的ではない。多分に政治的、宗教的である。
空になつたペツトボトルを洗つてゐると、企業は本氣で“リサイクル”なんかする氣は無いんだな、とつくづく思つてしまふ。きれいに洗つた上に、しち面倒くさいラベル剥がしまでしなきやならない。
家ではペツトボトルを自家製の麥茶などのボトルにしてゐるのだが、かーいふ“リユース”は企業は望んでゐないんだらうな。
「温暖化」つて聞かなくなつたと思ひませんか?
「環境ホルモン」にしろ「オゾンホール」にしろ、解決したわけぢやないのに。
結局、環境問題つてのは“ビジネス”でしかないのではないか。“トレンド”があることもさうだし。「生物多様性〈biodiversity〉」も最近出來た言葉ではなく1985年にはすでに提唱されてゐた。だがニユースで取り上げられるやうになつたのは最近のことだ。愛知で10月に行はれた「COP10」だつて、多樣性を守らうと言ふ目的の1つは生物が“資源”だからである。資源としての生物は多樣であつた方が有用だからだ。
「生物多樣性」にしろ「温暖化」にしろ、環境を保全しようと思つたら經濟を縮小するしかない。他の地域や国にまで經濟活動—生物多樣性に影響が及ぶグローバル化なんてもつてのほか、といふことになつてしまふ。
“不況”のせゐで企業の業績が落ち、そのおかげでCO2排出量を削減できたわけで。
“陰謀論”は好きではないのだけど、この今の世界的不況つて、枯渇しかけてる資源の節約のためわざと經濟規模を縮小させてゐる、つてことはないのだらうか。
「スティーヴン・D・レヴィット スティーヴン・J・ダブナー『超ヤバい経済学』 神は細部に宿り給う」の引用部分。
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