「全知全能の神とやらがゐるなら、自分に逆らう人間を作つてみろ。作れないなら全知全能ぢやないし、逆らはれたらやつぱり全知全能ぢやないぢやないか」人間の尺度で計れたら「神」とはいはないよ。闇黒日記;平成二十二年七月三十日
大學野球代表は「若黨ジャパン」? 「パナソニック第5回世界大学野球選手権大会」
新潟縣立自然科學館でやつてる「お化け屋敷で科学する!〜恐怖の実験〜 in新潟」を友人と見に行きました。
博物館でお化け屋敷? となんかミスマツチですが、會場には設へてあつたお化け屋敷は、さすがにちやちいのですが、それでもなかなか怖く驚かされます。
それにしても、ぼくらの後に入つてきた小學生の團體が、「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返しながら進んでたのですが、結構お化け屋敷でいつてしまふ人は多い氣がするけど、なんで「ごめんなさい」といふのだらう。自分で怖い目を見たくて入つてるのに、誰に謝つてるんだ。
でわーきやーとその子たちがぼくらを追い越してしまつたので、追い越すタイミングで「わーつ」と脅かしたらさらに「ごめんなさいごめんなさい」いひながら逃げてつた。友人にもいはれたが、惡いことしたなあ。
大相撲の「プロ野球賭博」が取り沙汰されてゐるが。プロ野球の方でも「大相撲賭博」やつてたりして。
twitterのスラングとして有名な「なう」だけど、讀みがいづれ「ノウ」になつたりして。やってくれたなう。
野嵜さんのtwitterより。
電子書籍に人氣がないのは、ビューアの書籍風のインタフェイスが鬱陶しい事も大きな原因だと思ふ。テキストエディタみたいなので十分だと思ふのだが。
なんで「本だからめくるインタフェイスがいいのだ」なんて、どのプログラマもデザイナも端から思ひ込んでゐるんだらう。
本のページをめくると云ふメタファが「あり」なら、スクロールだつて卷き物のメタファだと言張れば、電子書籍のインタフェイスとして「あり」と云ふ事にならないか。
實際、webブラウザはスクロールになつてるわけで、なんで電子書籍はページごとにしてしまふのだらう。「書籍」といふ言葉からどうしても「冊子」を思ひ浮かべてしまふのか。webテキストは最初から電子テキストとして作成するが、紙の本を「電子化する」といふ考へが「ページ」を作らせてしまふのか。
本は最初巻物、それこそ「スクロール」といふ形だつたが、讀み易くするため折つたり切つたりして「冊子」になつた。巻物を切つて束にしたためにページが發生したのだが、巻物には當然ページは無い。電子化によつて「巻物」に戻し、ページも無くなつたはうがよい、といふことになるのだらうか。實際電子書籍だと次のページを讀み込むときタイムラグが生じたりするから、イツソテキスト全部表示して、スクロールできるやうにしたはうがスムーズに讀めるのではないか。
昔の「ホームページ講座」で、ページは小分けにしたはうが良い、といはれてたのは當時の通信速度の問題もあつたけど、今考へてみると、ブツクマークしづらい—ページの途中でブツクマークすることができない、といふ點もあるやうな氣がする。
id屬性なしでもページ途中でブツクマークできるやうになるといいのだけど。
巻物といへば忍者が口に咥へる、といふ繪はいつからあるのだらう。あれは咥へてることで巻物に書いてある呪文を唱へたぞ、といふことなのか。
今朝出勤時にカーステでNHKの「夏休み 子ども科学電話相談」を聞いてたら、「科學」の先生が内田麻理香さんて方だつたんだけど。NHKで、科學で、マリカつてことはやつぱゴスロリだつたんだらうか。相棒はチョーさんで。
前に書いた「死と使徒」でつかこうへい氏の遺書の「散骨」について觸れたが、それについてもう少し書いてみたい。
最近は散骨は宗派に據らない、自由な葬送の形として選擇する人も増えてゐる。「自然に帰りたい」、つか氏なら「日韓の架け橋となりたい」といふ理由となるが、散骨も葬送の一種である以上、宗教的行爲に他ならない。
「死んだ後自分がどうなるか」は殘つた者に託すしかない。死後も精神—「モノ」が存在し續けてゐるとしたら、自分の思つたとほりに遺體が扱つてもらへなければ無念だし、存在しないとしても遺志を無視されたことになる。
自らの死後の安寧を願ふ、もしくは死者を悼むこと自體が「宗教的感情」である。それは本人が「無宗教」だと思つてゐても特定の宗派に據らない、といふことであり、「非宗教」ではない。自分は「無宗教」、もしくは「宗教なんかくだらない」、と思つてゐても、それは自分にある宗教心に氣附いてゐないだけではないか。
前に宗教とは、「自分は何のためにここにゐるのか」といふ問ひかけである、と書いたが、それは言ひ換へれば「何のために生まれ、死んでいくのか」といふことでもある。「自分ではどうしやうもないこと」、自然、運命、そして生死、これらを問ふのが宗教である。
ただ、塗炭さんのコメントを讀んで氣附いたのだが、宗教は死者ではなく、殘された、そしてこれから死ぬ生者にこそ必要なものだ、といふ視點を忘れてゐた。「究極の主觀」である宗教をぼくはあまりに理屈で考へてゐるかもしれない。
「忠音キチと歓喜の船越字佐美次男さん (tadsan) on twitter」の壁紙、ガタックとディケイドは初見で分かつたけどなんでライア? と思つたら、「海之」なのね。